課題曲レッスン 1093
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【悲しい街ヴェニス】
【失われた愛を求めて】
【愛に生きる 入①3611】
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【悲しい街ヴェニス】
思いきり声を出すのはよいのですが、ヴォイストレーニングの目的はそこで表現するために必要な声を自在にコントロールする、そのために得ていくのです。
だから研究所はどういう目的で使ってもよいし、基本としては2年経ったら大きな声で「ハイ」といえるようになりましょうというのが目的です。
でもどうせならいらない声や技法や感覚を身につける必要もない。何がいるいらないというのは個人の自由でありながらもそれが作品になるならないというところでいくつかの定石みたいなものはある。
上のクラスだとこれを全部をやった後に半分以上時間が余りますから次の曲がいります。今一番大切なのは、自分が何をやったのかをきちんと見つめていく。そこで自分で正せることが随分と多いのです。それは1時間では正せないということ、それを正すのにレッスンだけでは足りないのです。400時間くらいかかるから、それは自分でとるしかない。
まだこのなかの半分の人は自分が何をやっているのかがわからない状態で、どう変えたらよいかもわからない。要は見よう見まねで写真は撮ってみたけれどその写真を見ていない。自分では独創的に考えたりつくっているようでいて全然違う、目をつぶってつくっているようなものです。
それは先生に判断を預けないで、録音で聞き返すなり自分がそのことを伝えたときに本当に伝わっているのかいないのかから考えてみればよいのです。
そんなに難しいことではない。難しければステージ実習や合宿を考えればよい。そういう場は置いています。自分だけに回っていう表現というのはありえないと思えばよい。トレーニングでも実際の問題はそうです。
自己満足でやっている人は別ですが、伝えることを目的にしたらどんな言葉であっても人に対して働きかけないのをいうということは必要ないことなのです。
「かなしいまちヴェニス」といっているときに半分の人が音程がとれていない。一般の人でもわかるなら、相当ひどいのです。ただ最初は慣れていくしかないですから、何回もそういうことを繰り返していく間に発声や感覚が整ってきてできればよい。こんなことにパッと対処できる人は1年目ぐらいだとかなり有能な人です。
今までたくさん歌ってきている人やプロの人達でもここに来るとだいたい対応できない。それはシャンソンやカンツォーネの本場で歌っている歌い手のレベルが高いからです。
こういう人達も簡単に歌っているようで日本でいうとかなりトップレベル以上の高いレベルです。そのトップレベルの人のものと原曲を比べてどこを日本人が捨ててきているのか、見えないのかをいうことを本来は勉強してほしい。
そこまでの勉強は自分でできる。自分でできるのですがしなければできません。なぜ原曲でやっていくのかというと、原曲から正された方がよいからです。彼らはいらないところの感覚や表現に必要のないところの感覚、そんな複雑なものは全部取り去って歌だけでもたせています。
日本の場合声がないからまわりにそういうものをつけていますが、そこでまねてほしくない。それで日本人のヴォーカルは長くやっている人も一所懸命やっている人も育たなくなっているわけです。
大切なことはそういう見えないことに鋭くなること、レベルが随分下がっていますが、ある意味で人前に出している人達は一回でとれます。音程やリズムがとれるということではなく、そこで表現にもっていく自分の方法論を持っています。
合宿の反省会をやるのでそのときに見てもらえばよいと思います。次の日の朝にすぐにできる人はどこまでできていたのかをみましょう。1時間くらいでほとんど完成しているのです。そういうのができるだけの身体や感覚は持っていなければいけないからトレーニングするのです。
何年かかってでも覚えればそれでよいというのは正論ですが、実際にそのレベル以上の活動をやっている人がそんなにのんびりやっているでしょうか。
明日までに3曲覚えるのに寝ずにそんなことをやっているのかというと、1時間で覚えてぐっすりと寝て、次の日に備えているのです。そういうものが対応できないとやっていけないのだから、そのレベルに目標設定した方がよいということです。
歌い手だからいくら時間がかかっても覚えてしまったら狂わなければよいと甘いことをいっていたのですが、考えてみたらやれている人は一瞬で覚えてしまうのです。何時間もかけた人達が後々狂わないのかというと、そういう人達の方が狂うわけです。
アマチュアのなかには2通りいます。早く覚えられるけれどすぐ狂ってしまうのとなかなか覚えられないのですが一回覚えたら狂わない人、どちらかというと後者の方がよいのですが、その訂正も音楽のなかで行われています。あとの半分近くは表現に値する声になっていない。
私が皆に話すときは皆に伝えようとあまり思っていないときも、最低限このくらいの声は使います。これは一番後ろにいる人を意識しているからです。歌い手も同じでいくらマイクがあってもそのなかで1オクターブ扱う世界を出せない声量がなくては勝負になりません。
「かなしいまちヴェニス きのうあなたはわたしをすて このまちをはなれた」。これでは大変でしょう。身体も動かないし声も結びつかない。一つにまとまらないし全部がバラバラになってしまう。そういう人こそ基本の勉強をきちんとやって最低限一ヶ所でよいから切り換えていかないと10年たっても変わらない。
レッスンはそれを受ける人間が気づいていかないと直らないものです。気づかせる材料はほとんどの人が声ができたり声量があればそういう問題がクリアできていると思いがちですが、まったく逆です。たとえば伝わる歌は声量を出しているわけではない。声量の効果的配分、つまり使い方なのです。そこで感覚のところで2オクターブのものが扱えるわけです。
「かなしいまちヴェニス」という感覚と「かなしいまちヴェニス」という感覚は違いますね。どちらが正しいのでしょうか。日本人のを聞いてそのように覚えてやってきたところが今の自分の実情と思ったらその感覚をどこかで変えなければいけない。
そういうことをレッスンでいろいろな人がいろいろな形で与えていますが、皆がかたくなにそこを守っていて聞かないし、見ない、入れないということだとそれは入ってこないのです。
日本の歌も同じで日本の歌が悪いのではない。日本の歌い手がその方面に鈍感なだけであってきちんと歌えている人は皆そういう感覚に近いところで歌っている。リズムも音感も一つのなかに入れていっている。
日本の歌い方は2通りです。日本語はひびきに開いていく方向で、これはこれできちんと踏まえた上でやっていたら構わない。そうでなければ読みのまま、たたみかけて持っていってしまう。だいたいどちらかです。間延びか口先になってしまうから、両方ともやってはいけない。
基本的に読みであっても一つの呼吸で全部出るわけです。その呼吸をとるために構えとかためとかがあります。そのなかで一つの線を出したらよいのであり、それ以外のところでビブラートがかかろうがかすれようが、そんなに大きな問題ではない。
動きに踏み込むことと離すこと、これは日本語にない強弱アクセントの言語の特徴です。結局押さえなければいけないということです。それに対してひびきを置いていくのは構いません。押さえてなければ放せない。「ハイ ララ」の練習と同じです。
なんのためにやっているのかというと「ハイ (か)ナ(し)イ」というようにやってきたら根本は同じことなのです。それに対して表面で離してしまう人もいます。
全部をていねいにいってしまうと歌になりにくくなる。動きができないから当人が歌っているつもりでいても絶対に伝わりません。というのは動かしていくところをやっていないからです。
こういう感覚の勉強でやってほしいのは、自分はそういう踏み込みのなかでどういう進行を出すのかということです。それを自分のなかで曲をかけながら勉強していくことです。聞こえているのが同じにならなければよいのです。
今いいたいのはこの裏に流れている感覚が生きていておざなりにならないということです。結局呼吸です。「かなしいまちヴェニス きのうあなたはわたしをすて このまちをはなれた」には、少なくとも4つの展開があります。そのなかで気持も表情も変わらないと声は動きません。
ラでもアでもよいからやってみてください。いろいろなやり方があります。皆の歌を聞いていると何も出てこないでしょう。言葉として通じるのに日本語がわからない人がいたらどうしようもありません。
メロディで「昨日あなたは私を捨て、この街を離れた」ということをいいたい、最初は言葉の練習だけで音感は除外視していけばよいのですが、読み込んでいかなければダメです。読み込んだときに乱れてしまうようではまたダメです。
私はこういう歌い方があまり好きではないのは、一つのもっていき方を知っていてそれに忠実にやりすぎるためです。だからあまりまねない方がよいのは確かです。感覚だけに忠実に歌っているのはこういうものです。
だから何回聞いても飽きがこない。要はその感覚を邪魔するものを出してはいけないから発声が大切なのです。自分で邪魔なものがわからない場合は録音で聞くとかしていかないと直らないです。単純にいうとそれだけの集中度をもつことという問題です。
私でも声の状態がいつもよいわけではありません。皆より有利なのはそれをどう変えればよいのかを瞬時にわかっているからです。ほとんどの場合はそれが何で調整されるかというと集中力です。だから、感覚に忠実に、こういいたいのならそのことをきちんとイメージしてみてそれを妨げるものを取り除いていくのがヴォイストレーニングです。その延長上にヴォーカルの歌があります。ミスタッチを取り除いていくのと同じです。
もう少しわかりやすいものでやりましょう。グレコは本当に感覚だけで歌っている人です。このくらいで歌っていると思ってまねてみても絶対に同じだけの質感が出せません。それを声でとってしまうからです。
「ロマンス」という歌です。8分の6拍子を日本人に歌わせたらとんでもないことになってしまいがちです。それをどういうふうにやっていくかというのが感覚の世界です。皆にやってほしいのはリズムと音を全部入れた後で音がどこに進みたがっているかということです。
「ラシド」「ともよ」、「ミレド」「聴きた」「まえ」。そうしたら「友よ聴きたまえ」といっている中でいえるわけです。それで初めて歌のベースになっていく。そうしないと何も決まらない。
今のが一番よいとはいいませんが、確実に悪いものは100個やってみたら90個あって、それ以外の10個のなかから選んでいく。それが歌い手の世界です。皆は1000個やって1個くらいしか見つからないから1000個やってほしいということです。皆そうです。
ここでステージをやっている人でも最初はそうでした。どれがよいのか悪いのかわからない、ただそのうちわかってくる。なぜかというとそれが伝わるからです。そのときに空間が変わるし時間が変わるからです。
体はものすごく正直です。自分の感覚が鈍いとそのことが伝わらなくなってくる。そこは自分で厳しくフィードバックしていくしかないのです。このくらいでよいなと思うものは絶対に通用しないということです。
甘いくらいです。レッスンでは「なに見本を見せているのだ」と怒られたぐらいです。そういう基準がないというのが困ります。
他のレッスンに関しても声のことをやりたいのはやまやまですが、それより大切なことがあってその感覚のところで磨かれなければ所詮、声を扱うことも磨かれません。
ヴォイストレーニングは全国で何万人もやっているわけです。身についた人を見るとそういうところではないところで勉強している。ここもそのつもりでずっとやってきています。
そこに敏感になりなさい、もっと集中しなさいということです。一秒のなかでどこまで読み取れて感じられて、その感じたことを声に反映させられるかというだけの世界です。だから音感やリズム感でもそれだけをやってくるとまぎらわしくなってしまいますが、歌ったときに音感もリズムも感じていない。
でも聞いた人はそこに音とリズムの感覚が入っていることを、そういう意味でなく認知する。でも自分がこのように認知してしまったらそれがそのまま出てしまいますね。もっと深いから伝わるのです。人間は正直です。それは入っていなければいけないのに表に上げてきているのです。
歌のなかではそれは支えるものであってピアニストがキーを意識しないのと同じです。自分の感覚のときに心が腕がどういきたいかという問題です。感覚を呼吸や体から聞くようなことをやってください。
Time to say goodbyeのデュエットです。
「Time to say goodbye さよならのとき」松本隆
ゆりかごみたいにあなたに甘えた日々
旅行かばんへとつめこんで船にのる
光の消えた街
みつめあうまなざしだけがしゃべりすぎ
いいかけたことばを汽笛がさらう
Time to say goodbye
海に射す陽に祈りをささげて空をみあげる
さようならの船は岸をはなれて
記憶の波間をとわにさすらう
con navi per mari
cheio loso
nono non esistono pi
con tiloli rivivr
conte partir
「生きるものの歌」永六輔 中村八大
あなたがこの世に生まれ
あなたがこの世を去る
わたしがこの世に生まれ
わたしがこの世を去る
そのとき涙があるか
そのとき愛があるか
そこに別れが
あるだろうか……あるだろうか
もし世界が平和にみちていたとしても
悲しみはおそってくる
殺されなくても命はおわり
誰もがいつか別れていく
世界がどんなに平和でも
悲しい夜がくる
誰もがたえていきている
だから思い出と歌があなたを
支えて生きていくだろう
そのときあしたがある
そのとき未来がある
そこに生きるものの
歌がある
歌がある
「乾杯の歌」
友よいざのみあかそうよ
心ゆくまでに
ほこりある青春の日の
楽しい一夜を
若い心にはもえる恋心
やさしいひとみがあいをささやく
またと帰らぬ日のために
さかずきをあげよう
ああ ああ すぎていく
ああ ああ すぎていく ああ
参考曲
積み木の部屋/水色の手紙/愛が生まれた日/ジェラシー/君はバラより美しい/エンドレスラブ
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いろいろな人がいました。一概にはいえませんが、2年過ぎて何年もやっている人は他者の評をきちんと読むことです。一人ずつにコメントをつけて、それを2年24回いわれて、また2年やり24回いわれますね。
どこかでそれを直さなければいけないし、そんなに自分のことがわからないのだなということは、長く人を見ているとわかるし、そこでその人に対してどう変えるかというのは自分でつくっていくしかない。
いえることは、私自身には、歌は伝えるものであって聞き手を想定するものであり、トレーニングは自分が補強しておけばよいものです。
ただ日本人の歌い手がよい悪い別にしてみても、救うために歌っているし他者に向かって発せられている。音色の問題というより心の問題だと思います。
今度のきゃらばんのも見てほしいというのは、あなた方と変わりない人です。でも何万人の前に立たされる運命を選んでしまうとそこで人を全力で救うことしかやれない。2年くらいは先生に教えられ仲間に励まされて人に救われてよいと思います。それを何年、どうやっていくのかということです。
今度の反省会でゲネプロと本番は一言いっただけですが、そこまで思い込みをしてしまうのか、自分の世界が出ればよいとか一所懸命やっていればよいとか、それが顕著だと思います。
ステージを映像で見せて、それでまだそういう感覚で歌うのかという部分でいわれているのです。
それは心と体の感覚の問題だから難しい。こういう歌に限らず、覇気がなければ迫ってこないわけです。覇気があって集中してそれで全力を使ってみて、それで追いつけるかつかないというレベルでやると、喉にきてつまったり音が狂ってしまうのはあたりまえです。
そこの部分はいつできるのだろう、できないということです。できなくてもそれはそれでよいのですが、そうしたらもったいない。
できることが何なのかをきちんと考えてください。歌は振り回されたら絶対にものになりません。声もそうです。一所懸命やるのもこなそうとやるのもよいのですが、そこの感覚ではできないと思う。それをやってよいのは2年以内です。自分の経験からでも歌が何なのかとかステージが何なのかということを少し舞台から勉強してみればよい。
あなた方にとってみたら布施明さんや中島啓江さんはステージでやる人達で、自分達は長い道のりがあって、あそこに到達するように思っているのかもしれませんが同じでしょう。彼らはあれを10代からやっているわけです。うまいのはあたりまえでそうでなければ落ちていく。
でもそれは自分達でできないのかといったら、何のために研究所にいるのかということです。あそこまでやらないと人前に出続けられないと思ってしまうのかもしれませんが、別にたいしたことをやっているわけではない。彼らの世界にとってはあたりまえのことです。お客さんを喜ばせ心を打たせ、明るくして帰らせる。
誤解されているのはスポーツのトレーニングのように涙と汗との苦行、歌のトレーニングはそんなわけないのです。大切なことは感覚でコントロールしていくことですから。あるレッスンの班には心と感覚がみえない。でもあなた方に対して心と感覚がないといったら一生ないのです。
音楽性の問題もありますが、もっと大きなものがあるでしょう。ステージをあなた方に見せているのは心がある奥にもうひとつ衝動があるわけです。それを伝えることが必要です。
何かをやるときにはそれにきちんと集中し、前に提示することだと思う。それをバタバタやるのはよいのですが、もう一度このなかの半分にいいたいのは自分に与えられた評を見ることです。それは自分が変えない限りまた同じです。もう10年経っても同じことをいわれます。全員が全員そうだといえないので難しいのですが、それぞれ似ています。
レッスンはそういうものではなかったし、そういうトレーニングは経験がないです。どこにいっても何十人とやってもそれはトレーニングでも舞台です。そこを変えない限り変わりません。
その辺がわからなければきゃらばんや合宿の映像を見てください。
そのときに私は何をやれたかということを見てもらえばよいわけで、そのなかでも一所懸命だけやっている班はあった。それで注意しました。誰も一所懸命やっているところを見たくないし誰もその人が大変なところを見たいわけでもないのはあたりまえです。
それをトレーニングで許されると考えたこと自体が甘いと思います。そんなトレーニングはやる必要ないでしょう。
楽しいことをやるために体や心が大変なことはあります。今考えている感覚や心のところには希望が見えない。誰もあなた方は求めていないから誰にも求められていないのもわかる。ということはトレーニングにならない。
何のためのトレーニングなのか、それは認めない。それは落ちこぼれではなく自分でそうしているのです。落ちこぼれでそれができないとかまだ理解できないからというのはありますが、自分で線を引いてしまってはダメです。
こういう曲に関しても難しいのも音域が広いのもわかるから、そこでバタバタしているのもわかる。しかしそれが2年半から3年くらいです。
それ以上の力があるわけです。ただ自分がそんなものだと思っているからそんなものしか出ないのでしょう、としかいいようがない。それは求められていないし誰かを救うのではなく自分でバタバタしているのが好きなんだなということです。研究所の上の問題も似たようなものです。
投げ出すしかない世界でしょう。舞台の人達も皆やってきているわけです。何で50才になって名声があってあんなコケッティッシュなことをやらなければいけないのか、そう考えるのならこういう世界は、トレーニングも含めてやめた方がよいと思います。
自己満足になってしまうのでは無駄だと思います。自分を救おうと思っても救えません、人に何かを与えない限り無理です。そういうところをもう少し考えた方がよいと思います。
それは感覚の問題だからいうのです。たとえば私の体と同じものを持っていたとしても、見本を見たように悲しみにひたってこれは悲しい歌なのだから「かなしいまちヴェニス きのうあなたはわたしをすて」では何ともならないでしょう。心を込めて一所懸命やっている、でもそれはこういうものではない。
彼らがやっていることは相手を想定して、それに対して届けようとするところで声の使われ方や音のとり方、キーの設定まで全部が決まってくるのです。あまり同情しないのは、これ1曲全てといったら難しいのですが、フレーズで分けていったらその場その場のところは全部繰り返しだし、そんなに音域があるわけではない。1ヶ所くらい難しいところがあるだけで、フレーズで分けていくとそんなに難しい問題ではないからです。
1曲全部はいろいろな意味で難しいです、歌っている2人も力があります。そのフレーズで分けてやっています。
だからもう一度ステージということを考えた方がよいと思います。私は1年目のときには声のことを2年目にはオリジナルのフレーズに入り、3年目からステージの感覚のことをいっているのは、結局、応用のところでわからないと基本が欠けていることがわからないからです。そこで厳しくなれないということが問題です。基本トレーニングをやって完成へと磨いていくのは難しい分野だと思います。
ここでは誰にどうこうしなさいという指導はしていない。それは自分で正していかないといけないし、はっきりいうと個人コメントだってつけたくない。でもそのままで10年たったらしかたないということでコメントしようということです。本当は意味がない。そうなってくるとトレーニングが悪い方向にいってしまう。
個人レッスンでも一言、いっていることは、本来なら1年に1回しかいいたくないことです。高名に書いてもらっていることも、毎月、同じことをいわれていたら意味があります。そこで何をいわれたのかというのをきちんと見てください。
合宿のコメントにしても、私たちがコメントすると他の人間がああこの人の歌い方は結局こういうふうに評されるのかと先入観を与えてしまうので出したくない。それはたまたまそのときの感覚ですが、そういうふうに見てしまえば皆そのように見てしまうでしょう。
今回のオーディションはものすごく簡単だった。意見が一人として違わなかった。いつもは何人か違うのです。40人くらいいると3人くらいに関してはわかれることがあります。だから逆にいうと、評価しやすかったというのはあまりレベルがよくなかったということです。
昔は私しか長年通して見られた人がいませんでしたが、今はトレーナーでも、ここ4、5年通してみるということをできています。だから、以前に対しての基準で見れるので、かなりの客観性がついてきたと思います。
研究所のなかでの客観ということです、
外から見ると過去を踏まえて評価するというのは主観的なことですが、実際はそうではない。
トレーナーのいっていたオーラとかいう話は何なのか、生まれつきのものなのか、私はそうではないと思います。確かに有利な人はいます。でもそれは努力して勝ち得た人が横にきてしまうと、吹っ飛んでしまうぐらいのものです。ただ生まれつき華がある人がさらに努力しているから吹っ飛ばないというだけです。
少しステージを考えてほしいという気がします。私が今見て、皆の集中力だとこの歌に入っていくのは難しい、1人か2人はきっと入れるだろうなという人はいます。後はつっかかってきます。歌をひとつに捉えて動かすということでなければいけないのに、まだ部分的です。
そういう勉強の仕方をするのと共にもう一度3年間くらいいわれたことを見ていけばよいと思います。布施さんでも中島さんでも誰かにいわれて勉強しているわけではないしょう。そんな先生もいるかも知れませんが、自分で全部気づき、足りないところを補い、ダンス教室に行き、鏡を見て表情を勉強してやってくるわけでしょう。
プロでなくプロになる人にはあたりまえだと思います。ああいう人達はミュージカルをやっているのでなおさらそうでしょう。歌い手はどこまで必要かといえばスタンスの違いですが、どちらにしろそうであればあるほど声のなかに情感や希望や救いが入っていなければどうしようもないと思います。
それがその人の生まれつきのものや個性なら別ですが、今回も合宿をやって思ったのはそうではない、その人の気持ちや感覚なんだな、要は世の中や人に対する対し方の問題です。そこは変えないとだめだと思います。仕事と同じです。私はよい、まわりとは合わないとかいっていたら仕事はできない、歌い手の仕事も純粋な部分もあるけれどその純粋は何のためにするかと考えないと、トレーニングやレッスンのなかでわからなくなってきてしまうだけです。
「ハイ」というときに「ハイ」、そうしたら「アデュー」というときに「ア・デ・ユ」とはいわないですね。「ハイ」「アデュー」です。たとえば「いーまー」と「いまー」という歌い方と、これは早く詰めただけの歌い方のようですがそうではなくて捉え方が違うのです。
ひとつに捉えておいて「いま」といった上で「いまー」と「いーまー」では扱う感覚のところが違ってくるということです。それをずらしていくという感覚をとる前に、ずらすということが歌の最終的な個性です。でもそのために押さえておかなければいけない点があって、それを声にするかしないかというのが微妙な判断なのです。声にするととても落ち着いた感じにはなります。
言葉でイメージしてみてその通りにいきましょう。「アデュー 忘れないで」を言葉で入ってからやりましょう。
つまり気持ちの問題でその言葉に対して気持でつないでいく、そのときにメロディが生じるぐらいに考えた方がよいでしょう。メロディで全部が吹っ飛んでしまったら元も子もありません。
もうひとつつけましょう。「アデュー 思い出して」、後半は4つの音しか使いません。簡単だと思います。
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【失われた愛を求めて 3906】
これだけの人数がいて、これだけの歌のワンフレーズをやってみて、一周まわる中で、何も出てこなくて退屈してしまうということは、歌に入れないということですね。自分が何をやったかというのは全部はわからないと思いますけど、これでは何もやってないということをきちんと捉えて欲しい。ステージがわからないと歌もわからないし、歌がわからないと、声のことがわからないとはいいませんが、結局いつも同じことなのです。
だから私は一回のレッスンですべていって、それで解決しているし、それで10年分ぐらいのレッスンの内容はあると思ってやってますが、みんなが変わらないと、いつも同じ、1フレーズから進めない。そうはいっても、たまに4フレーズ、8フレーズやることがあります。
レッスンが成り立っているというのは、18人がいたら、18の表現がここでなされたってことです。それが今のことでおこなわれたということです。みんなここで今自分をなくしているでしょう。感じることもないでしょう。その逆であるべきでしょう。
声のレッスンだけの声は、本当に意味がないです。それは本当に自分を殺すことになってしまいます。聞いて合せて、「君の心はー」といっても、何も起きないです。だからとにかく自分が声を扱うとか、発するというのを、目常はともかく、日常を急に変えてというのは無理ですから、レッスンの場にきてやる。としたら、そこで何も入れないんだったら、やらない方がよい。のど傷めるだけです。本当のことをいうとね。
そこで、メロディ処理の勉強とはいいませんが、自分の声をきちんと感じなきゃいけないし、体を感じなきゃいけない。みんながここにきて、体を動かしたり、声を出したりするのもそのための準備ですよね。それはぱっとあたったときに、自分の順番がきたときにすぐ出せるようにするためのものです。自分のことは今はわからなくても、自分のことは棚に上げておいてもらってもよいですから、いかにまわりがつまらなくしているのかをきちんと感じて下さい。それを変える力をつけてください。
合宿でも、たまにプロレベルの人も来ますが、最初の1フレーズまわしただけで、すぐにわかりますよね。私でなくてもわかります。何年いるかということよりも、結局その人が、何を練習としてやってきたかでしょう。
言葉でやってみましょう。そうしたら今よりも少しはみんなにわかると思います。理解して欲しいことは、自分たちが声のこととか、音のこととか、歌のこととか勉強してきて、表現しているつもりでも、それが出てこなかったら、表現とはいえないということなんですね。
それには自分のものが出てないといけない。まわりに合わせる必要はない。自分のより深いところの自分のものを体も表向きのことでなく、声も表向きのものでなく、より深いところからきちんと取り出したものであることです。そうでなければ当然通用しない。そうでなくてよいのならこんなもの簡単なのです。そのことをまず音の世界でわかってほしい。
絵で書いたり、文章にしたりしてみましょう。この漫画でもどちらがよいのか、文章もどちらがよいかとかいったらすぐわかるんでしょう。しかし音のことに関しては、自分であなたがたが思っている以上に本当に聞いてないし、本当に判断してないし、本当に選んでない。
ものすごく無神経です。役者のオーディションにいってもすぐに落ちます。それは今だからよいのです。今だからね。ただそれを1年も2年も3年も続けていても、注意しなければ10年経っても変りませんから。何が違うかを自分で感じてみてください。
私が厳しくいうのは、できることをやらない場合です。できないことは待ちます。やれるところまでぎりぎりやってないと、こういうトレーニングは本当に意味がなくなって、のどを壊したり、歌をおかしくしたりしていきます。
歌はトレーニングをやって下手になる人ばっかりなのです。本当に。トレーニングやらない人の方がうまいのです。それは自信があり、己を知らないからですが、それにもかなわない歌はトレーニングの目的にしてはいけません。完全に方向を間違っているんです。考え方も間違っています。
一番間違っているのは、依存することです。習いに行かなかったら、自分の素直な感覚でやりますね。これはおかしいじゃねえかとか、これはどう考えてみても下手じゃねえかとかね。トレーニングしていると、先生がにこにこしてたら「ああこれでいいんだ」とか、「こう教わったからこの声出さなきゃ」とか、おかしなことになってしまう。それだとトレーニングが生かせないわけです。
ことばでやってみましょう。「君の心は」それだけをことばでいってみましょう。よくわからない人は、とにかく前に大きく出すと思えばよいですね。ことばでまわす。
少し退屈はしなくなりましたよね。たいした表現はできてないですが。そこから音のなかで、みんなにはいろんな声があって、いろんな出し方があるというのを気づいていけばよいと思います。
私はそんなことばっかりやってきましたから、みんなの顔を見なくても、むしろ見ない方が、きっとこういう顔で、こういう表情をイメージして、それでこう出しているんだと、自分の体で読み込んでます。そこで口のなかの様子から、どこが響いているか全部わかります。
それをすぐに正そうとしてしまうと、その人の本当によいものが全然出てこなくなってしまいますから、それは好きなだけやってもらいます。早く気づけよと願いながら。
その一フレーズ中に、すべての問題が入っているということを忘れないようにしてください。本当に1フレーズ目のわずかなところに何も感じられない、感じたものを表現できないのに、先にいってしまってもだめです。それができるために、ヴォイストレーニングも、リラックスも、音楽の勉強も、よいものも聞くことも楽器の勉強から、音程とかリズムのトレーニングもするわけです。
フレーズトレーニングはちょっとした応用です。みんなにとって難しいのは、ことばの問題としては少し難しい音が入っています。「きみの」「こころは」は難しい。日本人であれば、「きみのこころは」と(口先)側にいきたくなります。難しい発音です。
だから、それを勉強しろということではないです。早口ことばじゃないです。むしろ自分の今までやってたところを狂わせずに応用してみます。どまんなかにきたものをきちんとセンターに返していくような感覚のなかで、若干これは変化しているが、泳がないように真っ正面で捉えてみなさいということです。もうちょっと簡単にしましょう。
「ハイ、きみの」といってみましょう。「ハイ、きみの」をことばでまわす。
人数の多いときはいろいろとたくさんやって、それぞれに材料を与えようとしているわけです。歌にしろ呼吸にしろつながりというものがあります。
「ハイ、きみの」を大きくとってそれだけ自由にしておかないと、次のメロディがついたり、フレーズがついたりしたときにその動きっていうのが出てこない。今みんなにとって大切なことは、そこで「ハイ」を出すのにさえ、いつもの日常の何倍かの息を使っているわけです。
そこに無理が生じているわけです。その無理なところでやるんだからうまくいかないのはしかたないわけです。ただこれが半年か一年経ってきたら無理じゃなくなるようにしていくことが肝心なのです。
腕立て伏せを最初は10回、20回が大変だっていってたのが、らくらくという感覚になってきます。そうなったときには同じことでは、次のことができるし、他の難しかったことがそのレベルに落ちてきます。それは待つしかない。
そこで急いで変に口のなかで変えてみたり、おかしな表現をしていくとどんどん体が離れていきます。だから自分の実感を大切にしてください。人間バカじゃありませんから、みんなが自分の体とか心とかを眠らせなければ働くのです。
何も軽井沢まで行ったりしなくてもわかる人にはわかる。でも結局、人間は狭い時間でぱっと課題を与えられたときに「ハイ、きみの」とそこしか見えなくなってしまう。最初の時期はそれでよいのですが、それが最後までみえない人もいるわけです。
でもそうじゃないよ。それはいろんなものがある中の一つの要秦なんだ。だから真剣にやらなきゃいけないし、集中してやらなきゃいけないけど、それだけを問うているわけじゃない。その前の準備も必要だし、そこでつかみも必要だし、はなしも必要です。そしてそれが次にどうなっていくかってことです。「ハイ」はずいぶんよくなったと思います。じゃあつなげてみましょう。「ハイ、きみの、こころは」とことばでまわします。
難しいのは、声、ことば、そこでの音の感覚、リズム、全部が統合されて、メロディまではいかなくとも、いろんな要素が入ってくるわけです。それは自分で勉強していかないといけません。たとえぱ声にしてもいろんなことがそこのなかで起きてきてますね。起きたことに対して対処していかなくちゃいけない。きちんといえた、いえなかっただけの問題じゃなく、それからそこに何かを入れていかなくてはいけません。
ことばの意味から入れる場合もメロディとか、フレーズの感覚のなかから入れていく場合もあります。それを自分で感じて受け止めていかなくちゃいけない。
みんなにとってみたら、ただのことばにすぎないかもしれないけど、歌い手にとってみたら生涯1度しか歌わない歌の1回目の1番大切なところです。
だからそこに何か詰め込めないのであれば、本当は次にいけないわけです。それを伴奏とか、ステージングとか、お客さんとかが助けてくれますが、基本的なトレーニングの場合は、そういう要素を全部省いてみたときに、どれくらい使えているのかというところからチェックしていきます。
今、たとえば「君の心は」というのをことばとして生かそうと、あるいはそこに情感を入れたり情景を思い浮かべたりしてしまうと、今まで声で取っていたところが壊れてしまいます。だからあなたがたの今の伝えるところの正解というのは、そんなに強く息も体も使わないで、感情を込めて静かにしっかりとマイクにいうことになります。でもそれだと1オクターブにわたって1分間展開するというのは不可能になってきます。
それは目的が違うわけです。形を先に取らないことです。今は、感情表現とか、あまり情感とか、風景を思い浮かべてみたりとか、なりきってやるとかいうよりも、体の原理をきちんと取り出すことです。最小にして最大に力が働くというところを覚えておいて、それがいろんな条件があったときに、どこまで応用できるかということです。歌もそうです。歌はより複雑な条件がそこに与えられ自由度が大きくなってしまいます。セリフだともうすこし簡単になりますね。
そこまで入ったところで、音よりもことばでやってみましょう。その感覚が離れてしまうとレッスンがやりにくいのです。どれが正解かわからなくなってしまいますから。感覚がある分にはそれは伝わっているよ、伝わってないよとかいえるんです。
今は声のことを中心にやってます。もしみんながアナウンサーや声優さんならその人なりに正解なのかもしれないですが、後で伸びるところの声ということからいえば、それがある程度技術を伴って、合理的に取り出されていることを優先します。
自分で解釈して、ブレスを取って、間を取ってみて、それでわざとらしくならないようにしてください。わざとらしくするというのもひとつのテクニックです。でもそこで体とか動きが引っ込んでしまう。自分でもそらぞらしくなってくるはずです。
そうじゃなく自分で録音に取ったり、鏡を見てみるとよいと思う。うその感覚から本当の感覚は出ません。ストレートに前に出すという条件のなかで、自分の呼吸をふまえて、好きにやって下さい。「きみのこころは、とおくはなれて」とことばでまわします。
それぞれ何か感じたり、イメージしたりしている人もいます。だからといてあんまり体から離れすぎてしまうとトレーニングにならないわけです。それが表現として難しいところです。
表現というのは今もっているものでまとめ上げなければいけないし、トレーニングの場合はそれが破裂しようが、失敗しようが試みていけばよい。ステージ実習までは、トレーニングの延長と思ってます。ことを起こしてもらえば、収拾をつけなくてもよいということです。
しかしライブ実習になるとピアニストに迷惑かけてしまいます。共通の感覚を音楽におくことです。そんな考え方でやってます。常に考えて欲しいのは、それを画家の1本の線みたいに扱っていくわけですから、歌詞やメロディが与えられなくても、そこのなかにどれだけのものをいっぺんに読み込めるか、それを実際に出せるかというところが常に間われるんだということです。
歌詞の解釈一つに関しても、どこまでそれを読みとれるかで、答えが歌詞に書いてあるわけじゃないのです。それは自分にしかないのです。自分のなかでそれだけ読み込んだことがあるか、ないかで違ってくるんです。
しかし悲しい人生とか、さびしい人生とかを送ったら、そういうものが呼び出せるかというと、それは味わっただけで、自分のなかできちんと整理して、秩序だてて持っておかないと、すぐに取り出すことはできない。だからって計算してもしょうがないわけです。そういう体験がなくても、イマジネーションで補えればよいわけです。
そういうことをやっていくのがトレーニングのなかです。
そのためには大げさに感情移入を激しくして読み込んでみたり、汗だくで表現してみる。まあそういうことをやっていくわけです。それを1つのきっかけ、キーワードのなかで、みんなのなかでつかんでいけぱよい。
とりあえず声に関して、無感覚になったり、無神経になるのはやめようということです。そこで相手に伝えようと思ったら、少なくとも体は使われるし、神経を働かせたり息も使われていきます。それでへとへとにならないように、充分な条件にまでトレーニングして鍛えておかなければならないということです。
だから今のセリフひとついってみても、センスがあるとかないとかというよりも、今までそういうことを意識してやってきたり、声を出してきたことがあるかないかというのはよくわかる。劇団にいたからといっても、その形だけが残っているようだと、しらじらしくなってそれをこなすだけのものになってしまいます。
ことばのレベルは、みんなの日常のなかからきちんと集約してだしてくれば、そんなに難しいことじゃない。
それでもいろんな問題が起きてます。今は、2通りあると思います。
それを自分の感情を入れて「きみのこころは」というそういうイメージのなかで出していくやり方、それは音楽から入っていくのと同じです。音楽を何回も流しておいて、その旋律で悲しくなったら悲しい声が出てきたり、悲しいフレーズになったりするというやり方と同じです。
もうひとつは体を中心に考えてみて、さっきやったように実際の「ハイ」とかは、悲しくもうれしくもなんともなくとも、そこに「きみのこころは」と読み込むことによって、何かが入っていく。だから入れる入れないというのはトレーニングだからいうわけで、実際それは入ってなければだめなわけですね。
「する」というのはトレーニングだからするわけで、結果としては「なる」ということです。それが出てなければいけない。結果としてなってなきゃいけないということです。
「君の心は遠く離れて」に音を与えます。だいたいこう聞いてみて、うれしい歌じゃないというのはわかります。「きみの」とやってみて、それで3つの音をつけて自由に使ってください。3つの音といっても同じ音ですが、いろんな変化はあります。
まずことばで「きみの」と読んでみて、それを「きーみの」でもよいし、「きみーの」、「きみのー」とか、「きみの」って聞こえるようにやってみてください。みんなのを聞いていると、「きーみーの」となっています。あんまりよくないですね。
なるべく体で引き受けるというのはそういうことですね。向こうのヴォーカルとかみてたら、なんか口がぱかっと開いているだけで、もう声になってますからね。実際そういう感覚だと思うんです。そのために声ってきちんと握らなくてはいけません。でも握ったままだと全部つっかかってしまいますから、今は深い息が体とか声と一致しないから、とりあえず「ハイ」とかを息でやってみて、次に声で「ハイ」とやって、そのポジションをきちんともって、声になるところをつかんでおいて、ごまかしごまかし、探りながらやっていく。
今まで使ってないところですからね。「き」の音は「い」の音ですから、こういう音は日本語にないところです。ではやってみましょう。「きみの」とことばでやって、次に音をつけて「きみの」とやりましょう。「きみの」ことばとフレーズでまわします。
「い行」とか「う行」とかにどうしても引っかかる人は、ことばを母音だけに直してやってみるとよいと思います。発音としては後でやり、先にみんなのそれなりの呼吸に対して、ことばもメロディもリズムも忠実に基本の練習をして欲しいものです。
この基本ができ、球がどまんなかにきたら完全にホームランになるというようになってきたら、より早いことばや複雑なことば、メロディ、リズムに応用していく。ハイといえるところで、「きみのー」というのが難しいと思ったら、練習するときは「きーの」でも、「かーの」でもなんでもよいわけです。
要は、トレーニングというのはこの曲を歌うためにやるんではなくて、シャンソンでもなんでも、自分のパターンのなかでやって、いろいろなバリエーションをみつけて、自分の声の世界のことを知っていくことです。1つの音のなかでもいろんな動きがあるわけです。これを最初は意図的に動かしてみる。わざと同じにです。基本的に5つぐらいあればよいと思いますが。もう少し簡単にしてみます。
「僕が呼んでも」をやってみましょう。「お」になりますから少し簡単になります。このぐらいだとパっと入った方がよいですね。あんまり細かくやると、かえって体が動かなくなったり、意識しすぎてだめという人もいます。「ぼくがー」でも、「ぼーくが」でもなんでもよいです。どこかにアクセントをまとめた方がよいですね。「ハイ」から入っても、「ぼくがよんでも」とことばでいってもよいです。
「ドドドーシドシラ」ではなく、「ドーーシーラー」、「ドーーラーー」、1つにイメージすれば「ターーーン」です。これが明確に3つの音に置き換わったということです。目本語は「ぼくがー」を「ドドドー」とつけてしまいますが、そうではないのです。「ターーーン」のなかで起きていることです。自分のなかで、そのことばを自分の呼吸で取っていけばよいと思います。読んでから入ってもよいし、直接入ってもかまいません。「ぼくがよんでも」フレーズでまわすことです。
実際出てくるのはその人の感覚と、体の条件が出てきますから、どちらかが劣っている場合もあれば、つながりがうまくいかない場合もあります。それは自分で聞いてみて直していくのとともに、他の人達がどういうものを優先してやっているのかというようなことから正していくことです。
トレーニングですから、無理に力を入れてみたり、不しぜんなことが起きるのは一時、必要悪としてはよいのですが表現で取り出されたものがまわりくどいものになってしまったり、シンプルでなくなっていくというのは、それは単に思い込みとか、考え方の誤りです。
自分だけがよいと思っているけど、まわりはそうは思ってない。それを注意する先生もいると思いますけど、私はそれほど注意しないです。基本的に本人が気づかないと、本人がそれを気持ちよいと思ってやっているわけですから、それは気持ちよさの感覚のところの誤解です。だから鏡を見てやるなり、録音で聞くなり、自分で映像見るなりして、徹底してやればよいのですが、そのことは自分でわからないと直らないです。まわりが直してしまうとその人のものが何にもなくなってしまいます。
それは自分のなかで、ああ捉えられているとか、はずしているとか、その辺がセンスというよりは、いろいろと今までの積み重ねで入ってきているものの集積になってくるんだと思います。それは自分の表現であっても、一流の人のものと比べてみることです。彼らは2分3分続けてやれると。「自分でまずその一瞬が出せる」というところでいけば、基準を甘くしてよいということじゃないですね。自分だからこの辺でよいやということにしてしまうとそこで終わってしまいます。
「ぼくがよんでも」というところは、いろんな歌い方がありますが、歌い方と考えずに、今は「私が呼んでも」と伝えようとしたときに、自分はどう集約して、そのフレーズをつくっていくのかということです。メロディの処理の仕方もそうです。フレーズも同じです。
自分で聞いてみて、何もできてないなとか、単に声が出ているだけだなと思ったら、やっぱりそれを、全部はできないんだと認めることです。そしたらどこか1ヶ所だけでも自分のやっていることと、白分の意識とを結び付けながらフィードバックしていかなくてはいけません。
メロディの処理までのところで、相当な課題は入っています。それをやれている、やれてないで判断するのか、やれたところで何がやれてて、何がやれなかったのかとか、頭で考えてもしかたないですが、感覚的に聞いていくことです。
まだまだみんないろいろなパターンが出せるはずです。全部を中途半端に持っているから全然わからないわけです。だから選ぶことも捨てることもできない。
それを「ハイ」という練習でも、100回やってそのなかの1番よいものを選んで、それをまた100回やって、またそのなかで選んだものを100回やっていくと、そしたら3回目か4回目に、すごい「ハイ」がでる。それはその人にとってのオリジナルなものです。
普通の人は100回のうちでどれが同じでどれが違うかわからない。一番よいなと思ったものが次の100回で出せない。そこで無理なわけです。こういうフレーズに関しても同じです。後生大事にいろんなことができると思ってたらどれも使えない。だって自分の体と心と本当に伝えたいことがひとつになるのは、ものすごく難しいことだからです。
体がひとつになる、心がひとつになる、そのときのテンション、それが天才的にいつもできる人もいますが、普通の人はトレーニングをして瞬間的に取り出せるようにならなくてはいけない。今のを自分でよいと思っているなら、とても判断基準が甘いということです。それがよければどれでもよいじゃないというところでやると上達しない。自分自身のためにも、自分が100%納得できないものは許したらだめです。
声も絶対にそうであり、歌の表現も同じです。
自由に歌っているように見えるけれど、ものすごい限定のなかで歌っているのです。そのなかでプロの歌い手は17個所ぐらい間違えたなと思っても、素人はそれを聞いてすごいと思うわけです。
入門科の人達に上のクラスのものを見せないのは、聞いただけですごいとかいいますよね。本人にしてみれば最低のできでもそういうもの聞いたことないからすごいと思ってしまう。でもブルーノートでも行けば聞けるわけでしょ。そういうものをいい加減に扱っていたら、自分の歌もいい加減に扱ってしまう。当然トレーニングもしっかりとできないです。
そういうことに対しては厳しくしなくてはいけません。それは厳しいから悪いわけじゃなく、厳しいからはっきりしてくるわけです。全部が通用しないからだめということでなく、全部が通用しないから何かが生まれてくるし、きちんと自分のなかで基準ができてくるわけです。
常に壊さなくちゃいけない、常に捨てなきゃいけないというのは、そういうことです。だから1年目は大雑把にみます。2年目、3年目になってくると難しくなっていくのは、1年目でOKだったことが2年目になったらもうだめだよということになるからです。でもどこの世界でもそうです。
小学生でよいよっていわれてたことが、中学生になってやったらもうだめだよっていわれるのと同じですよね。ただそれはプロセスだから許されるわけです。やっぱり通用しないものは通用しない。この世界はある程度のところまでかなりはっきりしています。それを自分の体で感じながらやってみてください。
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【愛に生きる 入① 3611】
「歌をしっかりと聞く」ということが、だんだんなくなってきているような気がします。映画でも最近、スジを覚えていないのです。どこかよいところがあればよいというふうに見ているのです。歌もしっかりと聞けないと、結局何をいっているのかということが聞けないのです。いったい何のストーリーを歌っていて、この歌い手は何を歌い上げたかったのかということをです。
音楽ですから、そこまでの解釈とかドラマとかストーリーをつかむ必要はないのですが、ただ自分が歌い手となったときには、お客ではないのですから、最初にそれに入った方がよいのです。最初の一回目に聞いたときに、これはこんな歌だと、このために作られて、そのためにこの音を使って、こういうふうにもっていっているという、作詞、作曲の意図です。そういうものは、テキストとかに書いてあったりするのですが、実際にやろうとすると部分にしか目がいかずに全体が見えないのです。なるべく全体を見て考えることです。
「ただ一度の」という前には、その前にそこまでのことを全部入れておいて、それをいったときに「ただ一度の」だけで終っていてはだめです。そこをいっているときはもう次のところを見ていなければいけないのです。
そういうものは理屈ではなくて、1000回も歌い込んでいたら絶対そうなっていくのです。1000回をここで何度もやるわけにはいきませんから、なるべくその状態に近いようにしていくことです。そうでないとことばが生きてこなくなります。発声を気にかけても表現ばかりに気をとられてもだめです。そこが難しいところです。
「ただ一度のきまぐれな愛と」
歌というのは、ここで2年くらいつきつめてやっていくと、2年目くらいから難しくなるのです。
単純にいうと、これをいった中で自分の読み込みのところももっと深めていくことです。これを10回いったとしても狂わなくするのです。音として狂わなくしたら、その人の表情づくりには、それぞれいろいろな方法がありますので、それはこうだとは決められません。
だから教えられないのです。教えると早いのです。形をつくると、とても早いのです。でも、それを先にやってしまうとその人のものではなくなるので、それは自分で見つけるしかないのです。だからきついのです。できるようになればなるほど、難しくなってくると思いますが、世界のレベルを考えてみれば、自分ができることというのは一つくらいしかないのです。通用するのは、まずは一つしかないはずです。
たとえば歌の録音で20曲入っているものをもってきても一曲の一部分だけで聞かせられるものがあるのが一番有利なのです。でもそれには基準がなければだめなのです。
歌というのは単純に、「ただ一度の」といったあと、音がついたときにその要素を消さないことです。声ができている、できてないということよりも、腰、背骨が支えていて、流れてしまわずに止められていることです。
流れというものと同じく、終止というのも表現のなかで必要なのです。背骨が読み込め、息が読み込めるかということです。それから流れ、躍動感、バネです。よいヴォーカリストというのは、体がはずんでいるのです。
読みの練習としては、自分がそれをいいたくなったときに心と体がしぜんと動いていることが理想です。「ハッ」と発声練習をしても、歌うときには使わないのですが、そこだけのことというのは、勉強できないわけです。私が「ただ一度の」といっているところを普通の人は、とれないのです。そういうふうに出そうと作ってみても、全部うそになってしまうのです。こういうのはスポーツだとわかりやすいです。
腕立てとか腹筋とかは、バッティングの練習とどう結びついているのかわからないのですが、ただ、そういうことができている人が必ずやっていたとしたら、そのおかげで部分的に強化されていけば、どこかの機能に結びついてくるということです。まずは、そこだけしかできないのです。そこをやりたくてもそこをやるために今ここをやるのです。
何が何にプラスになるのかはわからないから、とりあえずやってみるということです。うまくいけば何でもプラスになっていくわけです。
読んでいた本や子供のときどういう体験をしたとかというようなところまではあってもなくてもよいのですが。大事なのはそこから出てくるイメージと感覚です。それによってどこまで聞き込めるかということです。
マネをしてもしかたないのですが、感覚的にマネするところから入っていってもよいと思います。ことばでいえたとしても、たとえば、ここに外国人がいたとしたら、表情とかしぐさとかで、「そういうことをいっているんだな」というのは伝わると思うのですが、それを音で何かを働きかけられるかということなのです。
ピアノや他の楽器とヴォーカルも同じ要素があるわけです。そのベースがある上にことばのメッセージがつくから楽器にできないことができるわけです。そのかわり何オクターブも出したり、何音も一緒に出したりすることはできません。
特に中低音を体でしっかりと出すというところのノウハウというのは、せりふのなかにあります。そこでしっかりしておくことです。そして、せっかくそれがついてきたときに、歌声を作っていかないことです。当然、それは歌っぽくてうまいように思いますが、人は魅きつけられないわけです。人を動かさないのは、その人のものじゃないことをやっているからです。
歌ってこういうものだと思って、やっているだけになのです。プロのを聞いてこれをこのまま「ただ一度の」とマネたらうそになります。
ここで勉強することは伝えるためにそこで使われている息とか呼吸とか、表現が前に出ていることの前提として、あるべき伝わる条件を見て欲しいのです。
誰が聞いても「これはアマチュアじゃない。プロだ。」と思うところがあるのです。ところが自分で歌って録音に入れてみると何かアマチュアくさいでしょう。そこを埋めていかなければいけないということです。単純なのですが、やればやるほど見えなくなってしまいます。遠回りはいくらやってもよいのです。どこかにつながっていくために必要です。
楽譜通りに歌うということは誰でもできます。しかし、そのまま歌ってはベターとなっていきます。それは演奏にはならないわけです。そこでどう離してどう踏み込んでいくかというところでやらないといけないのです。そういう部分で聞いていかなくてはいけません。そうすると絶対にダラーと音をとって歌うという方向にはいかないのです。表現である以上そこにスパッと切れているところが必要です。
「今ではまるで子供のように」をことばでやってみましょう。
そのことばのところのトレーニングをしっかりとやっていくことです。アナウンスのように口でかためて伝えていくというやり方もあります。しかしヴォーカルの場合は、息が読み込めて、腰が読み込めなかったらだめです。
どんなにアナウンサーがここで歌ってみても、たいしたことはないのは口が先に動いてしまうからです。それではっきりというやり方は声がない分、カバーしているだけということです。その前の基本の体のところをやらないからだめなのです。アナウンスと歌とはメディアとしての役割の違いがあります。
「今ではまるで 子供のように あなたの姿 追い求めているばかり」
こういうものに慣れて、自分のペースというものを考えてください。せりふのはよかったのですが、フレーズははめちゃめちゃになっていました。ということは、歌の前に負けているということです。それだけの時間を自分でキーピングしなければいけません。
こういうところは読みのなかでやっているとわかってきます。本人が入っていないものを他の人が受け取るわけがないわけです。ただやればよいということではないのです。どうやるかということをやっていくのです。
そして歌というのはそれを一回壊してしまったあとに生まれてきます。それが歌となるには、音の感覚のところで読み込んで、その感覚だけはつかんでおくのですが、自分なりの音として取り出していくわけです。最終的にはピアニストと歌い手が両方で作っていくわけですが、まずは自分の呼吸で自分の世界まで作っていかなくてはいけません。
次は、音をつけてみましょう。「今ではまるで」だけでよいです。
ここの入る前のところの間があるのです。それを自分でしっかりととっていかなくてはいけません。「今ではまるで」といって終るわけではないのです。そこから次にいくつながりを匂わせていなくてはいけません。それによってことばの置き方が変わってくるのです。
「昼も夜も夢までも あなたを 愛してる 苦しくて あなただけ 何も見えない」
たとえば、この「愛してる 苦しくて」というのは特別に体の深いところが出ているわけではありません。ただ「愛してる 苦しくて」というのは、皆さんにもできるのです。でもなぜそれが歌になったらできないかというと、「歌わなくては」という邪念が入ってしまうからです。そのこと自体の技術ができるのに、その技術が取り出せないというのが歌が難しいところです。歌ってしまうと歌にならないわけです。
ですから、体が使えないとそこが切れないのです。メロディが流れてリズムが流れてどうしてもそれに乗っかってしまうのです。それがカラオケのようなものですから、それを切っていかなくてはいけません。そして自分の世界とその感覚を出していかなければいけないのです。それが止めなければいけないことと、出さなければいけないところです。
「昼も夜も夢までも あなたを」そこまでをことばでよいです。
そのあとの「何も見えない アモーレ」というサビに向かっていくところは、声の技術とかフレーズがあればできてしまうのですが、難しいのはこういう部分のところで、どう集約していかなくてはいけないかということです。でもそこで本人のイメージと表現したいものが一致していない限り、ことばは動いても、体は動かないわけです。
エリック・クラプトンなんてそんなに声の技術がすぐれているわけでもないのに、どうしてあれだけ伝えられるかというと、そこのイマジネーションとそれを相手にわからせる要素をもっているわけです。聞いている方に気持ちが入っていって、それを受け止め、次のところでサビに入っていくわけです。そういう感覚を自分のなかでつかんでいくことです。
役者さんほど、そのことばには入っていかなくてもよいのです。「昼」とか「夜」とか「あなたを」とかを音に置き換えています。ただ、だからといって「追い求めるばかり」というときはやはり、「追い求めているばかり」というのをフレーズのなかで音として伝えた方がよいでしょう。本人が本当にそこに意味をおいていかないと、ただことばだけいっていても伝わらないわけです。技術がある人ほど、こういうものはできなくなってきます。技術がないうちから、こういう作業を細かくやっていけばよいのです。
「昼も夜も 夢までも あなたを」をやりましょう。好きなところまででよいです。
簡単そうに見えて難しいでしょう。やはり空間をつかむことです。それをパッとつかむことというのが、まず難しいわけですが、それには力をつけないとしかたがありません。そこで何かを起こすわけです。
「追い求めるばかり」
「追い求める」というのはことばでいえても、メロディでそこからどんどん、はずれていってしまうのです。しっかりとこのなかにもリズムの動きと波というものがあります。プロは声があるから、できているのではなく、声の前の音の感覚のところでのフレーズとかの体の動きとかがあって、声はそれについているだけなのです。
それはつかまえていなくてはいけません。こういうものはあとで声がついたからどうなるというものでもないのです。声楽家が歌っているポピュラーを聞いて比べてみるとよくわかると思います。それは学び方が大切だと思います。
ポップスの人が大切にしなければいけないのは、いろいろな音楽を壊して歌っても、聞いている人が一様に魅きつけられる場所、胸がキュンとなるような要素はいったい何なのかということです。こういう歌でも、好きになれない部分もたくさんあるのに、それでも認めなければいけない部分というのは出てきているのです。
今日、いっていることは、ことばの問題のなかでは、そこで体を使って解決するのはそんなに間違えないということです。それをしっかりとやることです。もう一つ皆さんは今まで歌というものを、今日、私が悪い見本で見せたようなもののように捉えているということです。
それが本当にそうかということを自分のなかで確認して欲しいです。そうだと認めても、実際、自分がやるときには全然違うことを歌だと思ってやってしまっている人がほとんどなのです。そういう問題で2~3年どころか一生使ってしまいます。
それをなくしてもらえば、こちらも助かります。そして、素直に声に出てきたものが、そのまま歌になっていくはずなのです。そんなにまわりくどいことをやらなくてもよいのです。
ですから、声をつけるという発声では声がない人がカバーリングしてきた不規則な、不しぜんなやり方みたいなものを同時に捨てるということです。
そういうふうにやる方がよほど大変だからもっと、シンプルにしていくということです。とてもシンプルにしていく、シンプルにならないところがおかしいと思えばよいのです。本物のものでシンプルじゃないものなんてありません。それは感覚とかベースのものが違うというわけです。
体に音楽が入ってて、気持ちが入っていて、リズムも入っていたら、体を開くだけでそれが出てくるというくらいに思っていてよいです。体はどんどん鍛えていって欲しいし、感覚と両方を一緒にやってもらえればありがたいのです。
まず、時間と空間をつかんで、自分でそこに何かを置いて伝えていくというようなことから徹底してやっていくべきだと思います。発声というよりは、その前の体が動く糸口をつかんで欲しいのです。
最初はどうしても頭が働いてしまいます。ああしよう、こうしようとかばかりですが、全部やりつくしたら、体がしぜんに覚えていくものです。そういう部分で感じて欲しいと思います。
初めの1年目はこういう教材では、難しく聞こえますし、音程をとるだけでもやっとでしょう。それは体が違う、楽器が違う以上に感覚が違うからです。そこでシミュレーションしないとどうしようもないのです。10年、20年歌を習っている人もつかめないことを2年くらいでつかもうと思ったら、そのくらいのギャップがあるのはあたりまえです。
だからできないことがおかしいのではなくて、本当はできなければいけないのにどうしてできないのかを煮詰めて考えていけばよいと思うのです。
そうすると、そこの感覚とかイマジネーションの問題が何よりも大きいのです。そこに入り込めないというのと、せっかく聞いてその気になっても自分の口でやったときに体が裏切ってしまうのです。自分ではできると思っていたのに、体が裏切ってしまうということがあります。
歌の場合はそれがゴマかされてしまいますから、何となくできているように思えるのです。
それを伝わっていないからだめだと判断しつつ、一曲のなかでここだけは伝わっているとかとコントロールできているというところを見つけていくのです。それを、積み重ねて、2年で一曲とはいわなくても、一曲の半分でも今のフレーズでも聞かせられたら、あとはオンしていけます。そこがベースです。
今のは、半オクターブしか使ってないところです。20秒、30秒くらいしか使ってないのですが、ここの20秒のなかで自分がいろんなことを感じられて、それを身につけていくのが基本です。声は、そう簡単にはできないし、つかめないのです。
「冷たい」と体からいえることだけで2年経ってしまっても早いかもしれません。もっとやりたいと思っても、ほとんどの人がそれさえできずに過ぎていってしまうのです。そうしたら何が基準なのかということです。やはりそのベースのところをしっかりやっておくということが大切です。
できていかないのは、そこのギャップを見ずに、先をやってしまうからなのです。ですから、今やっていることというのは最後まで大切なところです。
ほとんどの歌の7割方は、そこの要素でもっています。今はそのことを徹底してやってみてください。