一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント2 22655字 1094

 

ステージ実習コメント2   1094

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【ステージ実習③ 3707】

【ステージ実習④「Someday」3609】

【ライブ実習②「愛のメモリー」3609】

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【ステージ実習③】

 

 今の④よりよいのは慢心したりおごりがみられない、誠実さがあるから実際舞台でつくりものになったとしてもまだ待てることです。④はこの前聞いてもう解散するといったのですが、これは出口の外にいるからで、外にいるのならステージをやればよいわけです。

 

ステージをやらないとだめです。出口の外にいてたまに中をうかがってみたり、練習してみても、そんなのではもうどうしようもないわけです。うちにとってもプラスがない、当人にとってもプラスがない。だからそれは研究所のなかにいる、外にいるという問題ではなく、やらないといけない時期だからやればよいということです。

 

 もちろん、この出口でというのは本当の意味で出口ではないわけです。はっきりいうと横道です。横道にいくらでも出口がついていて、その近くで迷っている人がいたら、これはおしだしてやった方が親切ということです。時間をみるということは本道のどまんなかにいて、それで出口をめざしているのはよいけれど、横道にいたのではもうしかたないわけです。 

 

 

皆さんの方は解決していないから、問題提起でいつも歌がおわっているので、こちらは未消化で、ある意味では不快なのですが、それはトレーニングということのなかで、それが本道にしっかりと戻るのであればよいわけです。だから自らの出口は示していないといけない。示していない人に対してはどうしたいのかということをやはり問いたいです。

 

出口のそばにいる人に関しては、戻るのかそれとも出るのか、大体こんな世界は完成というのはありませんから、この手の出口というのは、私からいったら真の道をあきらめたということです。どんなに外で活躍できていたとしても、それはそれだけのものでしかないのです。しっかりと歩めているかをみたいものです。 

 

価値観はそれぞれ違いますので、よいとか悪いとかということはないのですが、そんなに世の中の人々もばかではないし、音楽が聞けないわけではないなのですから、通じません。いつも③を見て感じることは、新入懇とか①がこのぐらいだったらよいのにということです。つまり、ここから2年あればということです。 

 

 

入ったばかりというのは入口から入って何が行き先がどうかよくわからないなりにも、とりあえず1ぐらいならまん中にいるわけです。まん中にいるということで今の皆さんの条件までもっていったら、2年というのはいろんなことが勉強できるわけです。

 

ただ、私は4~5年前からここは大体1年半がピークだと感じています。1年半を過ぎてから勉強できる人はとても少ないというのがわかってきたので、それを超えることが才能だし力だと思っています。そのことに対してはそんなに期待していない。それをしっかりと積み上げた人を認めるだけです。日本の土壌とか業界というのではなく、その人がその人のなかでプロかどうかということです。 

 

マチュアになってしまうと、こういう芸事というのはやればやるほど本人は上達しているように思いますが、まわりからみていると入ってからしばらくしたときの方が、できていなかったけれどよかったということになります。テンションの高さとか意欲は解決していくしかありません。一所懸命やっているところで何か場が変われば、テンションが高くなることもあります。でもそれは自由ではないのです。 

 

 

体とか声とか心にとらわれているのはある時期しかたないときもあります。体だけしっかりと伝えようとしても、出口の方向が指し示されていないと、どんどん鈍くなって、無神経になって、いいかげんになっていきます。

 

 はっきりいうと2年たったら入ったときよりは、たった1つの音が、あるいはことばがどれだけすごいものなのか、どれほどの意味をもつのかわからないとだめです。本当に音の世界に入らないといけません。わかっている人はわかるのですが、それがたった1ヶ所でもよいからそのステージのなかで実現しないといけないのです。ここはそのためにあります。

 

 ステージになっていない、というのは別にプロのステージを期待しているわけではなく、ただ逆に素人でさえステージにたったときにそうはやらないというような鈍さとか無神経さが出るというのは、どこかで自分で考えないといけないことです。

 

 

その成果が出てくるのは後でよいのです。本道にいるということは、そこは最後まで出口ありません。その方向に対してつきつめ、それがプロのトレーニングとして、プロの感覚でやられていないというなら、これはどうしようもないという感じがします。 

 

曲をたくさん覚えたり歌う経験を経てくるにつれて、いろんなこなし方は覚えられます。でもこなし方というのは限度があります。才能もセンスも欲もテンションでもよいのですが、何か与えるということはステージの場であって、それからいうとまだ何か空回りしているようなことがあります。

 

 よく時間とか空間を変えないといけないということをいっていますが、今の時間とか空間とか雰囲気にのせているだけのもので、逆にいうとこれだけ聞いてくれるお客さんがいるからという甘えです。厳しい客だったら途中で立ってしまいます。自分だけしっかりとやれば何とかなるだろうというのも甘えです。

 

 

 出口というのが人前でのステージというのを意図しているのであれば、そうでなくてもよいと思うのですが、やはり人に問うていかないといけない世界だとは思います。自分の時間、空間、雰囲気というのはつくれていないわけです。一方的にだめだとか、全然聞くところがなかったというのではありません。一所懸命にやっているのはわかるし、誠実なのもよくわかる。でも結局、自分のままなのです。

 

かちかちに固まった自分、鉄の固まりのままで、こういう舞台というのは、それをここでとけ込んで音の世界でも、ことばの世界でも、歌の世界でもよいのですが、新しくここで創造しないとだめなのです。そのやわらかさが必要です。

 

 その場で対応することとはいいません。ただ、毎月の課題に対して自分を溶かすみたいにして、そういう中で音とかことばをひろって、机の上で計算したとおりに体をくっつけてもっているのでは、その無理が全面的に出てきてしまいます。 

 

 

ある意味でいうとコピー能力というのか、表現能力というのは、少なくても入ってきたばかりの人よりできていると思います。これはみんなの2年前と比べても、今入ってきている人たちと比べても違うわけです。でも音楽を自分が主体的に動かして、そこに命を与えていく作業をしていないから動きがないというのか、空気がよどんでいるのです。ぱっと伝わってこないのです。

 

新入ステージがこのぐらいだったらよいというのは感じます。それは全部に開かれているからです。そこからの2年です。皆さんの場合はまた2年やるということでそこに戻れるかというと、なかなかこれは戻るのは難しいのでしょう。何となく横道に入って出口の近くにいると、どうしてもそこから動けなくなってくる。とても単純な世界だと思います。 

 

 

タイソン戦があって、その前に歌が1曲あります。アメリカの国家を歌うというのが楽しみで、いつも本当にうまいのです。アカペラです。その前に女子ボクシングがあって、女子ボクシングは初めてみたのですが、別に偏見とかいうことではなくて、他の歴史の長いところからみると、なんともかったるいのです。確かにやっている人たちのはボクシングのファイティングポーズはとっているし、ドン・キングがプロモートしていますから、いいかげんなものではないのです。

 

でもそこまでの動きになれて、そこまでのリズムが入っているところでそのままみてしまうと、サンドバックのようにそこにポンときて、ずたずたとやっている。これは男女の筋肉の差にもよるとは思うのです。男女戦というのはボクシングでは絶対に不可能でしょう。別にぬぼーとでてきているわけではないけれど、そこまでのものと違う一種の不快感。これは私のなれていないせいだとも思うのですが、女子ボクシングでも慣れてきたらもう少し見れるかもしれません。

 

 「セレーナ」もどう考えても2段階の構成がある。別に構成がなくてもよいのですが、歌っている中で心に変化があって変わっていかないというのはおかしいのです。楽器で弾いても感覚が何か変わるはずです。何人かは変わりましたが、そういうものでもたついている。 

それをどうやって壊せばよいのか。

それをいつもいっているのですが、考えて欲しい。流れとかつなぎ方というのが全然みえない。それから表情のきめ細やかさ。大きく振りつけたとか、こう伝えたいというのはよく見えるのですが、それは役者さんレベルの世界で、音のわずかの1つの音、半音の音、あるいはわずか1つのシンコペーションによって変わるというところとの相談をしてきていないわけです。体とか音楽と練っていない。

 

 

 今、私は④の舞台をあまりよいと思っていないけれど、②では、そのうちの8人ぐらいを好感もってみました。だから私が別に機嫌が悪いとかいうことではない。みれるものはみれる。何でそうなってしまうのだろうということもわかってきました。 

音楽的なセンスと表現のセンス、魅せるセンスについて考えないといけないのです。音楽的な中で表現できていないところにそんな振りがついたり、いろいろ出しているのは、余計なのです。でも結局ないものを出せといっても無理ですから、なければないなりに総合的にみせていくという工夫は、していくべきだと思うのです。

 

これは新入ステージとは違う考え方です。だからといってこの方が受けますとか、わかりやすいとか、いうのではだめです。笑われていることが受けているみたいに思ってしまうのもだめなのです。それは意図して表現していかないといけない。

 

 別に人間ができてないとか、思想とか芸術がないから音楽ができないとは思わない。ただ、自分の日常の生活とか、いろんなものを含めたいろんな役割の自分がある中で最高のものをここで演じるから歌い手なのです。どうもそれが本当に最高なのかというと、もっと可能性が将来にあるのではなくて今のなかであるような気がします。だから出し切れていないのは、方向の問題といえます。 

 

 

新入ステージは態度の問題です。そこまで練りこんでこない、練習してこない。この場がそれほど深く問われていると思わないで甘くきますから、それではねかえされる。皆さんの場合はそういうのはないのですから、方向とか凝縮するところでの問題です。同じことを同じ時間かけるときにどういう感覚でそれをしているかです。

 

 できていないことがステージに出てみたらできていればよいわけです。人それぞれいろんなよさがあります。ただ、過去のことを歌ってはいけません。新入懇というのは昔、カラオケでやったみたいなものをもってきて歌ったり、ちょっと受けたような歌を歌う人が少なくなかった。そんなものを現実に通用しっこないわけです。それほどいいかげんな場ではない。 

 

3つぐらいにわけて、ことばでいっていきます。声のこと、音楽のこと、ステージングと分けてみています。今の体で今の音楽でそのまましぜんにやって歌になるとしたら、そんな楽なことはありません。カラオケのおじさんならそれでもよいのですが、それでも日頃と違う自分をみせようとするでしょう。ステージというのはよりよくみせないとだめです。

 

 

振り付けでも衣装でもメーキャップでもそのためにあって、そういうものも含めてやはり普通の場ではない。どう変わるかをみんなみたがっているわけです。歌のなかでもそうです。ありのままの自分がといって、ありのままを出してもよほどアーティックに生きている人はいいでしょう。だから、そうではない場合は通じません。

 

 今の体からプロの体づくりをやっていくことです。音楽は人の音楽をまねていてもしかたがない。ここが解決していないです。「セレーナ」のままでとってきている人もいる。足元をすくわれている音楽というのはすぐわかります。人様のものを薄めて提供しても通用しない。自分の音楽にならないといけないということです。 

 

最初というのは空気です。空気を発するということ。これは体の部分です。音楽というのは音を響かせるわけです。これが足らないところです。そして、キープするところ、ホールドするということです。 

では発して響かせたらよいかというと、むしろ、それを切って伝えないといけない。それは表現、ステージの部分で考えないといけないと思います。

 

 

 それぞれに強い人はみえます。それが両方とも半々ぐらいの人もみえる。いろんなタイプがこのなかにいます。どうしてまどろっこしくなったり、よどんだりするのかというと、やっぱりやるべきことは基本の部分です。特にライブ実習になるともっと音の部分が大きく入ってくるので、どうすればよいのかなかなか難しいのです。 

 

ことばの世界、息の流れというのは体の部分です。これはオリジナルな声といいます。これだけにのっかっている人が多すぎます。これは今の音楽を全然やっていないから、研究所らしいところです。体はもってないと困るし、これがなくなると本当の意味では展開しなくなりますから、ベースになります。でもベースのまま出したものというのは絶対に表現にならないのです。トレーニングのままの試合というのはありません。そこで変化しないといけない。そのときにヒントになるのは音楽です。 

 

そこで音楽的な展開がみられないといけないということです。いわゆるノリがあったり走っていないのはそんなこと忘れていてもノリとか走っていた方が一般受けはします。その2つの上ではじめてギリギリのところで自分の音色とか個性が出てくる。これが芯の部分です。 

呼吸の世界はよくわかります。皆さんのトレーニングでもわかるし、ステージでもわかります。しかし、そこがみたいわけではなくて、音楽の世界、メロディ、リズム、歌詞、音程、などに支えられたものとしてあるのです。そういったものを全部ともなったときに条件が整う。それで表現です。

 

 

 今、ここでどう動いているかというところにもってこないといけません。同じように楽器づくりをし、そして調律するわけです。ヴォイスコントロールというのもそこに入ります。音楽的に音感、リズム、音程は直してください。音程やリズムのトレーニングをするだけでなく、歌のなかでしっかりと耳を鍛えて、どのぐらい1つの音に対して責任を負わないといけないかということを踏まえるのです。あなたがピアニストとギタリストだったらすぐさま完全なミスタッチとわかります。演奏しないといけない場ですから、そのへんはもう少し対処していきます。 

 

表現の部分に全部のっとられてしまって、基本を忘れたという部分が多いですが、これもしかたがないです。やれる中でやれるということであれば、そういう人たちは基本でやってほしいし、そこでとじている人は、詞だけではなくて曲なのだということ、それがどうアレンジされるかみたいなことも考えてください。

 

 もっと基本の部分というのは体力、集中力です。息を吐くことです。太い線あるいはデッサンの部分です。それに対して歌の部分というのは、もっと感性とかセンスが出てくる部分です。一所懸命、体を使っている部分というのは無視されてしまうのですが、それではいけないのです。レッスンのなかでも曲を人の曲として聞いていたらだめです。

 

 

その曲のなかに自分が溶けこんで入って、そのなかの感覚にならないといけません。あまり自分をしっかりともちすぎていると溶けないわけです。だから調子のよいところだけをとってしまうわけです。それが嘘になってしまいます。「セレーナ」はそうなりやすい曲です。

 

 音楽というのは1つの形、形式です。実をもっていかないといけません。太い線でデッサンをしたあとに形をしっかりとつくっていく。肉づけする。それから着色するというのは、自分の個性の部分、表現の部分です。着色し忘れてデッサンのままもってきている。それでもよいのですが、それも甘えになってきます。 

 

ステージで人はみる。皆さんの舞台だと他の人はみれない。新しく入ってきたばかりの人にみせるときに誤解されるのは、それを飛び越えた何かができてきていないのです。完全な作品というのをつくるのは、期待していない。ただ、本当のことでいったら普通に歌えているところに息が通っていて、体が使えているなら、もっと表現力が増していきます。それが聞いている人にみえないとだめです。

 

 

そうでないと一方的に思い込みだけでやっている信者みたいにみられてしまう。何で音の響きを犠牲にしてまで、何で音を狂わせてまで、あんなふうに体を使うのだろうとかというふうになってしまいます。そのバランスを考えないといけません。

 

 人前に立つ以上、今のなかで自分で最高の構成をしてこないとだめです。そのときに自分が絶対にトレーニングで自信をもっていることを、捨てないといけない場合もあります。だからといって媚びてはだめです。加工した部分をやっていかないとだめです。

 

体ができたらといっても、体はできっこないのです。ただ、体とことばがついていると、何となく命とかパワーとか勢いはそこに入っているから、1曲ぐらいは何かが出そうだとなります。音楽でそれを伝えるなら、そこにバネというか音も入っているということで知らせないといけません。もっと躍動感が出ないといけません。これはなかなか入らないです。 

 

 

ベースとかピアノとかは、弾かせてみたらすぐわかるわけです。それを弾いて間違っているとか間違っていないでは誰も判断しないわけです。そこでどう心地よいか、どうその人が音を入れているかというところで判断するわけです。それがない限り本当は音楽といわないというあたりまえのことに戻ってみることです。

 

 だから皆さんがセリフなり、言い回しみたいなことでやっていったらかなりのことができると思うのですが、歌である以上、音の線が大切です。

 

「セレーナ」の原曲を歌っている人は、ふまえています。音楽の世界の方にもっていっています。できている人は体を忘れられるからです。皆さんの場合は忘れられないからその点がネックになりますが、忘れてしまったときに体が動いているように使うのです。そのような使い方で、体を使ってこないと絶対に遅れます。意識しすぎで力一杯でバッターボックスに入っているみたいなものでよくないです。 

 

 

発声という点に太さに長さ、そこに方向をつけるのが音楽です。その方向がみえないということです。構成も1番に対して2番。何人かちょっとみえたところありますが、曲が曲なので最後まではもたないです。それを示していくことをしないといけないから、線が出てきます。1つのベクトルです。力量があって方向が決まっている。これが歌の世界なのです。

 

 点をとらないまま線をひっぱっている人もいますが、これだと変化だけです。しっかりと核を存在させていく。息吹をそこに吹き込んでいく。それが変化していくということです。そのことを同時にできればよいのです。発声があってその次に発音があってその次にことばがある。そのときにことばから考えないといけないのですが、発声の上にのっている発音や音色を考えた上に、ことばにどう結びつけるかということです。これは三位一体なのです。

 

 体というのは単純だから単純にしないと捉えられません。単純にそのまま出していったら表現としてはとてもにつまらないものです。それで本当に声色がよい場合は声楽家みたいに歌えますが、それに音楽という複雑さをどこかに入れて変化とかをどうつけるかがポップスです。それは結果としてとても単純であるべきです。

 

 

舞台のみせ方は、1アクセントで1拍目強くして2、3拍目伸ばす。最後までやっていったら単純で、またこうかということの繰り返しになってしまいます。だから音楽にはそれをさけるためにリズムや休符があったり、シンコペーションがあったり、1番と2番の歌い分けがあったり、いろんなことをやっているわけです。むやみに全部バリエーション変えたらよいとか、楽譜を変えたらよいということではないのです。

 

 そこで自分の体とか自分の音感、センスと相談してこないといけないわけです。本当は相談した結果を出して欲しいのですが、どうも相談するところが偏っています。全部と相談しないとだめです。だから歌ってみては直してみたいなことをやっていかないといけないのです。 

 

声というのはとりだし方です。これができていないとのっていかないのです。けれど他のもので勝負できるのならそれはそれでよいです。それがしっかりととりだせないと間とかテンポというのはうまくとれないのです。 

 

 

歌というのはそのひねり方で、ステージというのはみせ方になってきます。だから現実をしぜんのまま歌い上げてみたら、画家の絵より子供が写真でとっていった方がよいという形になってしまうのです。それをより何かをそこに入れ込むことです。ことばでも音でもよいのです。

 

 舞台である限り過剰な表現、あるいは華麗さとかを衣装とか照明だけではなく、それを音色のなかにも望みたいというのは確かです。それはそれで段階があります。急にどうこう変えるものではないのですが、こいつはうさんくさいなと思ったり、何て派手派手しいと思ってみても、それで条件が備わっていたら、それがのみこんでいく世界です。

 

みたくはないけれども認めざるおえないというところはつくっていかないといけない。でもそれは音楽の基本が狂っているとか、体とか呼吸とかをまったく無視して、自分勝手につくりあげている世界とか、曲とか詞とかそんなものとは全然違うわけです。

 

 

 現状の世界はそのままは芸にならない。そのなかで感じた真実の世界というのかそれを取り出さないといけない。それは大変なことなのです。自分がそこになりきる。なりきった後に完全につきはなして前に出さないといけない。なりきるでおわってしまったらだめなのです。なりきるだけならカラオケを歌う人でもなりきれます。

ただ、聞いている人にとっては、勝手にやればということになってしまうわけです。それを投げかけていかないといけない。音楽をキープすることも大切だけれど、それを切って与えていくということ、伝えるということを考えないといけないということです。

 

 ノリとか体の動きとかで全身を使うことを考えることです。全身を使うというのは振り付けでなく、元に戻って体から声をしっかりと取り出すところとそれに音楽の延長上に体が動くべきです。頭で考えているだけの場合は音楽が欠けてしまう場合が多いです。音のもっと繊細なものです。それから声を取り出すことで終わっている人は、そこにミックスさせていかないとそこのなかで閉じてしまいます。

 

それは出口でも近づけない。入口のところでずっと穴を掘っていくみたいなものなので、音楽ということでは違ってくる。ただ、音楽ではない世界をつくっていこうというような、いろんな試みがあってもよいと思います。一所懸命やっているところは好感もてます。その次の目的をもつことです。

 

 

 ボクシングでいうと相手の次の動きを予感してみて、そこにパンチを繰り出していかないといけないわけです。あのリズムにのるというのは大変です。音楽のリズムより複雑です。体のリズムです。そのリズムにのれる体がないからなかなかプロボクサーになれないのでしょう。相手の動きを読むということは、最終的に倒す目的があるわけです。それはパンチを繰り出すのが目的ではないということです。難しいのは音楽と自分の体とに相談しないといけないということです。 

 

欠けているところは、音楽の部分です。体のことを一所懸命やっていて、そこばっかり目がいっているのかもしれないけれど、それをどう音楽的に消化するのかということです。表現というのは、それを1回叩き込んでそこから出してきたものです。象徴化していかないといけない。そのために音やことばも抽象化されて、1つの音やことばで広がるように使われているから、この短い時間に含むわけです。

 

 舞台だったら1時間半のことを1つの歌というのは、たった3分間で全部伝えられるわけです。だからこそ後に何か残していくことをやらないといけない。そのひねり方をへんにひねる必要はないのですが、自分の体と相談して呼吸と相談してやりましょう。

 

 

 間もテンポも息を吐いていたら実際はことばにも息がかよって命がかよってきますが、そこで終わってしまうとこの回転で終わってしまいます。この回転に対して次にこういう回転があると、2番目に展開があって、さらに、次々展開していく。こういう線で歌ったということがみえないとだめです。 

 

柔道とか剣道とかはすり足で、平面的な二次元の世界です。そこで空手やキックボクシングの飛び膝蹴りとかがきたらやられる。飛んでよいことに気づかなかったら飛ぶということ考えないわけです。そういう三次元の世界、いや、歌は時間も超えますから本当は四次元の世界でしょう。それをもう一度考えてみたら何か変化がそこで 

もっと出てくるのではないでしょうか。

 

 決めつけすぎているような気がします。舞台に対してこうやるのだと決めつけることは大切です。でもそれがそのままでてしまうとだめです。練習のなかで毎回変化させていく。当日はどうなるかぐらいの期待をもつ。本当のプロの歌い手みたいに何パターンも歌い方を用意して、その日の雰囲気によってどれか選ぶ。同じようなことが意識していなくても行われていないといけない。意識していけばよいと思います。

 

 

 伝えるということをもう少し考えてみれば変わってくると思います。地道さはあってよいと思いますが、飽きないように飽きられないようにするというのはどういうことなのか。それには何か新しいことを起こさないといけません。

 

自分勝手に新しいことを起こしてもみんなしらーっとしてしまいます。何を期待されているかというよりも、音の世界はどうなのか考える。こういうのはことばにできません。みんながよいと思ったCDとかLDとかに全部ノウハウとして入っているわけです。

 

早くそちら側の立場に立って、そのときに技術的にできないものとか、声量的にできないものを除いても、もっとできるものがたくさんあることを知ることです。特にイマジネーションの世界とかイメージの世界とか表情の世界とか、そういったものは一緒に身につけていかないと、最後まで声の出る機械みたいになってしまってよくは、ないのです。

 

 

 ライブは縦割りにしてみようと思います。これは組み合わせを変えて、グレードと関係なくある種の共通性があったり、あるいはセンスがあったり、そういうのをたまに集めてみてもよいし、ばらばらに組み合わせてみたら何かでるということでもよい。メンバーも固定してきて、そのなかでやることが新鮮ではなくなっているので、少し空気を流したいということです。

 

 違うメンバーとやるのは、相手がうまかろうがへたであろうが刺激的なものなのです。そういう意図があります。 

入ったばかりであろうが半年とか1年でも何かのっていて、今はステージ的なことをやらせた方がよいなと思う人は、先にステージをやらせてみてそれからまた声をやらせるとか変えていく。今のみんなのなかでもステージのところで行き詰っていて、入門科と同じことをやらせた方がよいという人はそういうことにあてていくのもよいと思います。 

 

確かに音楽を聞いた差というのはあります。ここで聞かせた音楽やここでしか聞けないような音楽をどのぐらい慣れてきたかということもあります。イタリア語を全然聞いていないといきなりイタリア語の曲では対応できないが、聞いている人は慣れているだけでステージとしての差がついているのではない。ステージはおもしろいものかどうかで技術の差ではないのです。これは不思議なのです。

 

 

 10代でものりまくっていて、音程もリズムもめちゃめちゃで、勢いだけあってでもジーンとさせてしまうとか、そんな時期もあったりします。大人になるにしたがって難しくなっていくわけです。 

なまじ安定性とかが出てくるとそれは壊していくのが大変です。

 

あの人はああいう歌をこう歌うのだなんてわかられてしまうと難しいです。声楽では同じ歌を歌った人たちが10年、20年ぐらい先の人たちもきて同じ場で、どこか1ヶ所でも失敗すればわかるという感じでみています。それに比べポップスは失敗を魅力にできるぐらいに楽しめるのです。ただ、その形をその人その人たちがもっていて、ステージの形というのはつくってこないといけません。

 

 だから欲張って10曲、15曲のステージを今から用意してください。来年ぐらいには皆さんにも1人数曲にしていきたい。1曲で通用するのと6曲で伝えることとは違ってきます。だからといって1曲が1/6になるわけではなく6倍にならないといけない。そうならないから、もたないのです。

1曲だけなら一番得意なものだけもってくればよいわけです。6曲というと60曲ぐらい得意なものがないと難しいのではないでしょう。レパートリーを広げることにも取り込んでください。 

 

 

自由曲というときに3曲ぐらい用意しておいて、今日の調子によっては1曲どれかを歌うのだ、あとでアンコールがきたらもう2曲歌うのだというつもりで臨んでもらえば、1年で大分レパートリーも増えるでしょう。そういうのが考え方、その人の歌への思い、そして底力となるのです。

 プロになってから覚えるのではだめなのです。なってから覚えている間はないわけですから。

 

そこにいく間に勉強していて、2~3年たった頃には何かよい感じで歌えるようになるというぐらいに思ってください。2曲組み合わせるとテンポの早いのと遅いのをやるとか、対称的な曲をやっていけばよいとか、そういうのも1つのバランス感覚の問題です。1つのところだけでやるとそこにどうしても固定してしまうのです。

 

声も柔軟性を失います。確かに1つ突き詰めるということは大事なことなのですが、いろいろと試してみてください。毎日どういう冒険をやってみるかです。場をどう生かすかです。ステージ実習を楽しめないようでは失格です。

 

 

 

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【ステージ実習④「Someday」】

 

 あまり佐野元春さんの影響を受けないでこなしたと思います。よいところも悪いところもそんなには受けなかったような気がします。 

基本的な歌い方ができたら日本人のレベルを超えたところでやりましょう。たとえでいえば「いとしのエリー」をレイ・チャールズがコピーしているぐらいの感覚です。そういう作品を期待してみていると思ってください。 

そうでないと単に歌いこなせたらこなせてしまう歌なので、そこからいうといくつか落ちているポイントがあります。

 

 まず全体的に舞台として雰囲気というと、ここのところはまってきて、今日のメンバーだけでやるとなおさらそうなるのかもしれないのですが、感覚としては妙に大人ぶったところの堅さが出ているような気がします。よいことばでいうと渋い舞台であったり、わびやサビがあるのでしょうが、それを狙ってやっている人はいないはずなので、逆にいうと子供なり人間がもっているところのやわらかさとか、単純さ、力強さ、新鮮さ、おもしろさが欠けているような気はします。

 

それからオリジナリティということでいうと、それなりのものが出てきていて、今の形でもそれなりにそれぞれの歌をこなしています。こなしているというのは、必ずしもよい評価として私は使っていなのですが、それはそれでみて、その結果を後々にみていくしかないと思っています。 

 

 

何となくまだ主人公意識になっていないような感じがします。自分のことは守っているけれど、まだなにも攻めきれていない弱さがあるというのか、脇が固まってきたという気がします。次から次に主人公が出てきているような痛快さとか、勢いがどうしても出ていません。

 

1人が何ステージがやったらそういうのが出てくるのかもしれないのですが、脇が固まってくるというのは悪い評価ではないのです。ただ、ソロのヴォーカルですから、最後は誰が出てくるのかというようなところのままいってしまうのはよくないです。

 

 それは抽象的な、漠とした感覚です。そう感じさせるものは、今の課題としていうことではありませんが、もし舞台を私がプロデュースしてつくるとしたときに省かないといけないところが多すぎます。これは他のメンバーが加わってもそうだと思います。まだ直線的にまっすぐですぎているようなところがあります。 

 

 

歌のなかにはやわらかさとか曲線があって、抜くところも止めるところもあり、それは多分カラオケで歌ったりするときにはうまく出ると思うのです。ここの舞台になってしまって、逆にトレーニングの感覚が残ってしまうのでしょうか。つまり、変化がない。転じないから、まじめすぎて芸がない。プロセスがはっきりとみえるので、あまりたいしたことはないようにみえます。これは普通の人の目でみると固くみえるし、おもしろくなくみえるところではないかと思います。普通の人の目でみるというのは、これはこれで大切なことなのです。

 

 もちろん流しているわけではなく、一つひとつのことばのところには表現がつまっていて伝えようとしているのはわかります。しかし、そこをていねいに扱うがためにノリや気分とか高まりの方が犠牲になっているような気がします。どちらをとるかという問題では、ステージでいうと、ノリや気分の高まりというのは大切な要素なのです。 

 

オリジナルが出てきているというのは一つの形にはまりますから、どうしてもそれがよいという人と、だから何かつまらない人という人が出てくるので、これはこれでよいと思っています。ただ、それをつまらないけれど認めさせていくという強さが欲しいのです。

体が別に揺れなくてもよいけれど、体の揺れが30度ぐらい揺れているとしたら70度揺れていて、あるいは90度ゆれるけれどそれを30度で楽しんでいる感じならよい。実際に体が揺れるわけではなくてイメージの問題です。

 

 

 あと音のつかみ方は相変わらず甘いと思います。日本のレベルぐらいはこなしていると思うのですが、それではつまらない。音の先でつかむことができていないから「SOMEDAY」あたりで流れている感があります。逆に声がない人は音の先でつかんでいるわけです。しかし、ヴォリューム感をつけないと、ひっぱれません。先のところでつかめなくてよいわけではない。やわらかく入るのとはまた少し違うのです。

 

遅れているわけでもないけれど、はっきりしないので何となく流れているイメージにとられます。だから何をいっているかわからない、ことばがポンポンととんでこない。マイクをつけるとまた違ってくるから、映像でみたところで評価するのもよいと思いますが、本当のことでいうとマイクに入りやすい声というのはとんでくるはずです。それが足らないような人もいます。

 

 握ってひねられるようになってきているのはわかります。はずしているところとか、間違っているところはありますが、何となくフレーズのなかで自分でもっていけているところは実力だと思っています。ただ、その上でつきはなしているところと切り込みがないから、やはりスパッと切れていないというところが物足りない気がします。 

 

 

一つの完成した作品であれば独立していないといけない。まだ時間がなくて中途半端な段階だと思いますが、それなりのところで未完成なら未完成なりに突き放す部分が必要です。それからアカペラでやるときというのは、自分で自分のテンポをとれますから、呼吸とかに関してはもっと吐いて、もっと吸う時間、そこも作品だと思ってゆっくりめにやってよいと思います。

 

曲の流れのテンポだけで合わせているから、せわしないのです。それなりに息を吐くにも時間がかかるし、吸うにも時間がかかる。そうしたらもっと吐けるだけの時間待ってやる。それだけの時間を待ってやって、それから次のフレーズに入っても遅くないです。

 

それをテンポ感とかメトロノームでいちいち刻む必要はなく、そのときにそれだけの体を満たしてやる作業を練習ではなくて、舞台のなかでもやってよいと思うのです。それはアカペラの一つの特権です。

 

 

 だから歌っているあいだに1番に比べて2番が息が浅くなったりしないようにします。むしろ逆にならないとだめです。緊迫感や密度を失ってはだめです。アカペラというのを意識してもらって自分の声を聞いたり、出している感覚をもう少しゆっくりめにとってもよいような気はします。

テンポをゆっくりするということではなく、意識の問題です。まだ急ぎすぎているような感じがします。体がないのですからテンポは早く、それをゆっくりと感じて歌うことです。 

 

それからそれぞれのフレーズの入り方がぴたっと決まらないというのは、前から気になります。音がはずれているわけでもないから、音を直せとはいいませんが、何か手探り状態です。ぴたっと定まっていない。それが気持ちのよさを少し半減しています。

 

 音楽的な解釈も足らない。ここで勝負しないといけないところをはずしていて、他のところに勝負をもっていっていたり、それからその人の呼吸の問題です。自分と合わせているというところ、その一致させるところの線と2つあります。音楽としてはずしてはいけない点というのがあって、ただ自分の表現というのがありますから自分の方が優先します。

 

 

その自分ともはずしてはいけない。ぎりぎりのところで接点をつけていかないといけないので、歌は一つに定まるのです。そのギリギリが完成度ということです。その勝負どころのピークというのを絞り込んできた人はよいと思います。 

 

そのあたりになってくると作品としての美的な感覚とか、芸術的な完成度とかこだわりとか、センスによってきますので、それぞれのジャンルによって違ってきます。いろんなものが出ていて、それぞれの判断でやっているというのはみえるのですが、もう1レベル上でいうと、それも破ってこうやるのだというようなところを、皆さんが示せるぐらい強く出してもよいような気はします。 

 

前に出すということは前からいっています。シャウトで出してもよいし、響きで出してもよいのですが、まだ少しこもっている、中にいれている。トレーニングの悪いくせかもしれないです。ポジションをとりにいくようなところからきているのかもしれないが、もっと主張してもよいと思います。

つまり、振り切らなくてはいけない。もちろん自己主張しない作業というのもありますから、無機質に一つの完成品としてそこに提示するというのを徹底していくという形でもよいと思いますが、そのあたりは中途半端になってしまうと難しいと思います。

 

 

 パワー、盛り上がりに欠けては、オリジナリティをとっていっても、それを次から次へと送り出すパワーがないと伝わらないと思います。もう少し展開の仕方が課題曲に関してはあったような気がします。もっと新鮮さを出すためにどうするか、あるいは日本人ばなれしたところで勝負するためには、まず低音域、中音域を一つにするようにいっています。 

 

それを一つにした上で低音域は低音域で音色の変化をつけないといけないし、中音域は中音域なりに幅をつくらないといけないわけです。一つにするということは、あくまで体とか音色とかが後で展開されやすいように単純にシンプルにして、一つにつかむというところまであって、音楽を一つにして単純にいってしまうとそれを語りかけて最後までいくわけです。そういうスタイルの歌もあります。

 

 だれでも盛り上がりとか、つめているところ、放しているところもあって、それをこういう音楽の場合特に気をつけることです。「SOMEDAY」は、低音域、中音域、高音域とバラバラで歌ったらしかたないけれど、それを一つにした上で中音域のなかで高く浮かしてみたり、低く聞かせてみたり、やわらかく聞かせてみたり、強く聞かせてみたりの音色の変化を次の段階でつけていかないと、つまらなくなってくると思うのです。

 

 

もちろん、純粋に声を聞かせるという形で曲を処理する方向はあります。そうでなければ声の技術ということより、オリジナリティの勝負です。

 オリジナリティで一番問われるところというのは、同じ声質の音域のところでどう山をつくるか、ピークをつくるかというところです。つまり、低音域から高音域までしっかりとそろえ展開しないと作品にはならないです。だから同じキーに関しての音色とか、展開の勉強というのが必要だと思います。 

 

音域にはやはり大きな意味があるわけです。低いところは低い、高いところは高い、それは音色で統一するのは必要ですが、そこから変えていく。 

声についても同じことがいえます。声を一つにするのはベースのことです。深いところでポジションでとるということはよいのですが、歌はそこにはまってしまうと出てこなくなってしまうので、そこを解放してやらないといけない。それがまだひきずっているような感じがします。 

 

だから基本のことを守るということは体についてきますからそれでよいけれど、それとともに表現をするということで外側に出すことです。外側に出しているときに声がつかなくて、体にいれているときに基本ができるくらいでは、今度は表現にならないというのは、わかります。その段階がある時期続くのはよいけれど、そこの間にブリッジを技術なり、オリジナリティなり、フレーズなりでカバーしていって、その間の方をむしろ出して欲しいような気がします。 

基本ができるのも足らないところも表現に関してもわかります。そんなにわかるからつまらないのです。その間のところがみれると、もう少しいろいろおもしろい舞台になるような感じがします。

 

 

「SOMEDAY」の曲はいろいろな歌いこなしができる曲ではないかと思います。あまり佐野さんの歌い方を聞いてしまうと、ああいう方向にもっていかれますが、音域的にも展開がありますし、曲の出し方も展開があります。全体的にいろんな構成を考えてみれば大きく歌える歌の一つではないかと思っています。そこの期待に対する答えというのはあまり出てこなかったような感じがします。

それぞれで一つの答えだと思うので、そういう形ではみていました。少し全体的にそろってしまったというのが物足りなさで、一つひとつの作品がそんなに悪かったということはないです。個人の場ですから個人が出していて、全体的にそうなったということでしょう。

 

 やはり自分への自信というのか、ふっきれなさがそのままあらわれているようなことが続いているような気がします。おもしろい舞台にしろということではなく何か表現できている舞台でよいのですが、表現できているということがおもしろいことです。だからそういうことでいうと、もう少しつみこめるのではないかという感じはします。 

 

いろんな目で見ていると、納得させる強さがもう一つ足りません。もう1曲、2曲やったところでどうなるかというのはきついような感じがします。そこは精神的にハングリーでなく安住しているところでの問題だと思います。

 

 

 

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【ライブ実習②「愛のメモリー」】

 

 準備不足ということです。1ヵ月、間に合わせのことしか表れていない感じです。体作りをやりつつ、ライブ実習という歌の見せ方に近いことをやる場と両方やっていくのは大変かと思いますが、これがいつも続くのです。こういう緊張した中で、リハーサルの練習をつめておくということは大切です。

 

マイクを使ってのライブということで、音響を自分の味方として、力に変えて打ち出していけるのか、それとも、それを拒否してしまうのか、そこでの差が気になりました。一旦こういうセッティングでやるというのが決まったら、それを自分ですべて背負って新たな状況のなかで歌として打ち出していくことです。 

 

曲については、静かなところからからだんだんと盛り上げていく。盛り上がったらそのままではなく、必ずおちるものです。そういう部分の表情づけを楽しむようにつめていけたらよいです。こういう場に立つと余裕がもてずに、そういうふうにできないかもしれませんが、自主トレのときにもっと煮つめておくようにしてください。 

 

 

歌のなかの音程のゆるみ、ゆがみやフレーズの切り方の雑さです。それから、自分の個性にあった歌を歌っている人もいれば、もう少し自分のよいところをだせる歌を歌ったほうがよいのではないかと思う人もいました。 

 

トレーナーのいっていることと私が感じていること、皆さんのなかで感じたこと、気づいたこともそう大して変わらないはずです。ステージ実習とライブ実習は皆さんが紛れもなく主人公なわけですから、皆さんのなかで完結してもらえばよいことです。自分の歌だけでは損した、もの足りないと思うのでは困るのですが-。

 

 

 ここに私が出てきて話をしないともたないのでは、その時点で失敗なわけです。私が後ろに座っているだけでよくて、そのうち、すべてみないで成り立つという方向にいけたらよいと思います。今日は私にみせつけてやるぞと覚悟をもって臨んだ人もいたのではないかと思い、参加しました。 

舞台のコメントについては、ここで舞台らしくなってきました。

 

しかし、この場を自分が舞台としてみせられているかどうかです。もっと単純にいうと、もう少し楽にやってよいのではないかという気がします。こういう場に立つという心構えをもつには、キャリアや慣れもいるし、難しいと思いますが、ここに皆さん、歌を楽しむためにくるわけでしょう。その心があってはじめてきいている人も楽しく思ったり魅きこまれるのです。

 

ここは自主トレの場とは違うのです。どんなに体を使ったりがんばって歌っても、それは自分のなかでやっていけばよいわけで、歌う力よりは伝える力の方に焦点を集めなければなりません。修業をみせているのではありません。

 

 

 モノトークでも、作文力を磨いたってしかたがありません。何も内容のないことでも伝える力で総合的な要素が出て、表現できなければなりません。マイクの使い方もパフォーマンスも形だけで表面的になってしまっていけません。声や体、すべてをトータルで伝えることの手段として使って、歌を磨いていくことです。 

 

自主トレでやれても、ここに立つやいなやできなくなってしまう人が多いのです。確かにここで実力を発揮するのは難しいことですが、逆にいうと、ここに立てばできるとなっていってもらわないと困るのです。練習やリハーサルでは全然できなかった。しかし、ここに立った途端、できてしまった。そういう感性が一番必要なのです。ここに立ってやったことが実力だとみなされるのではなく、実力そのものなのです。

 

私は皆さんが裏でやっていることやリハールなどで、どのくらいできてきたかなどと成長をみることができますが、一般のお客さんはそういう部分はみられないのです。本番の部分を見て初めて、それで全ての評価となるわけです。そこにこの人はこういう練習をしてきたのかとか、何を伝えようとしているのかなどを感じとるわけです。

 

 

 声、体ができていない段階のときに、こういう場でみせることができることはいくつかしかありません。一つは歌がものすごく好きであるということ。歌が嫌いでこの場に出てくる人というのはいないと思いますが、歌が好きで好きでたまらないということがこの場で表れている人というのはほとんどいません。舞台でそういうのが出ないこと、歌えば歌うほど出なくなるというのは、まったくおかしな話です。 

 

歌やステージが好きでなくても歌うというのは構わないわけです。そのかわり、その人にとっての、歌う必要性が問われます。その人にとって歌がなくてはならない、切り離せない、かけがえのないものであるということが表れていたら、それが力になります。

 

 歌を抱きしめていることです。さらに、パワーが満ちあふれている、射切る力が顔色や声にみなぎっていること。歌はあまりうまくなくてもその部分が表現されていたら、それも一つの説得力になります。この三つがともなうと一番よいのですが、一つでもここで表現されたらよいといつも感じてしまいます。 

 

 

結局、自分の体のなかで余剰になったものしか外には表現されません。体から満ちあふれて、このままでは体が破裂するのではないかというくらいでないと伝わりません。それだけのものを舞台でぶつけて外に出しておかないと、見ている人はその歌い手の心のなかには入ってこないのです。何を伝えようとしているのだろうと立ち寄ってくれるほど、世の中あまくはありません。だから過剰なくらいに歌ってください。これから歌をつくっていこうとするなら、なおさらです。

 

 ステージ実習、ライブ実習の設定については、ステージ実習はアカペラでやっていてマイクがない状態でやっていますから自分の呼吸でとれるかということをみています。それに対してライブ実習になってくると、今度は、ピアニストとのかけあいとかコミュニケートする要素が出てくるので、そういう部分を楽しんでやってください。

トータルで伝えられる力が大きくなります。録音をもってきたりアカペラでやるよりは、いろんなピアニストにも慣れておいた方がよいと思います。録音は決まりきったものですから、それに合わせてやれるというのはあたりまえなのです。生きているピアニストとのライブということで勉強になります。

 

 ライブではリズムの刻み方や強さも違って、ライブならではの現象が起こります。それに対応する瞬発力みたいなものを養うことができます。これから生のステージでやっていこうと考えているのだったら、なるべく生に近い状態というものに慣れてください。普段のレッスンでは気がつかないようなことも生のステージによって気がつくことが出てくるでしょう。その違いに気がつくことが勉強になると思ってください。 

初心者にはスタンドマイクで歌うことは意外と難しいです。手持ちでやる方がよいでしょう。

 

 

 ここの空間が前のスタジオの空間よりよくなった割には活かせていない人が多いです。前よりは音響もよくなっているし、皆さんの歌も3、4割によく聞こえます。VTRでみるともっとよくなっています。だから3、4割、引いてみてください。本当の実力は3、4割引いたものでうまくなったわけではないと考えることもできます。このスタジオもこれから音響の設備も整えていくつもりですが、早く自分の器の方を確立していかないと、音響に惑わされて体が身についていかなくなります。この辺でもう一度、体、声について考えてください。

 

 声が前に飛ばせないというのは、発声上の問題というよりは意識の問題、あるいは歌の構成がポイントをはずしてしまっているという理由の方が大きいと思います。その辺を気をつけないとカラオケになりかねません。表現力、伝える力を磨いていってください。

 

 人が聞いてくれるのを待っているのではなく、自分の方から発信するようにしてください。 

それから、歌い手が歌のなかにいない印象を受けました。“松崎しげるさんの歌はこういう歌です”といっているだけで、彼の枠から出ずに、それで終わってしまっています。歌のなかの主人公が自分でなければならないのに、どこかへ行ってしまっています。

 

 

 なぜ音響やスポットライトがあるのか―。それは舞台に立つ人間が中心になるためです。“愛のメモリー”の細かい解説はしませんが、情熱的に歌いあげることがベースです。そういう感情を舞台でみせてくれたらよいのです。 

 

一番ダメなのは、上昇感がまるで出ていなかったことです。あるピークに対して絞りこんで高まっていってそこで解き放たれておちてくるというその動きがまるでみえず、平面的で(曲の構成をそういう形でつくってきたのなら別ですが)それでは“愛のメモリー”にならないわけです。

 

 ここに立つ前に、そういう構成を勉強してきたのか、煮つめてきたのでしょうか。歌詞を読めば読むほど、これはなんと情熱的な歌でしょうか。サビの部分の「あなたに」だけでも勝負できたらよかったのです。そういう気持ちと一致させなければ何のための声かということになります。 

 

 

全体的に足りないこと、目的にして欲しいことは、線の太さやインパクトです。それが全然、出ていません、伝わってきません。線が一本通っていなければ、いくらコトバをていねいに読みこんでも伝わりません。これでは、カラオケのエコーの伝わり方と変わりません。 

 

コトバの前にフレーズと響きが出ていません。フレーズと響きの後にコトバが出てこなければなりません。フレーズと響きのつくり方ができていないから、歌の線が出ないのです。歌うことを口先で加工しないことです。雰囲気を出している人もいましたが、それがコトバの後にきてしまっていました。 

流れというのは声を出していたら、そこがメロディになっていきますからその方向性を少し変えてやるくらいのことが、コトバの発音だったというくらいで考えてください。そのまえに流れをつくっておかないと、コトバは流れを止めるものとなります。そこではなく、大きくフレーズをつくっておけば、聞き手の方に違った形でコトバが入ってきます。それを最初から最後までコトバでいっているだけの歌だったら、朗読した方がよいです。

 

 

 最初に音の世界、イメージの世界があります。イメージがあって音が生じます。本来ならその部分での気持ち、あなたの世界の雰囲気ができないといけないです。雰囲気ができて、コトバの世界がついてきます。コトバは後からスタートします。そしてコトバも総合されて、また雰囲気がつくられます。 

 

皆さんの出している雰囲気は、コトバの後の雰囲気だけです。ほとんど頭の計算づくでオリジナル歌手の上っ面な部分をコピーしてつくったもので、音そのもの、メロディそのもの、リズムそのものからつかんでいないため、押しが足りません。

 

 それから音程とかいうよりも音感を中心とした細かい部分、繊細さ、煮つめ方が不足しています。感じるところでのイメージ、流れのなかに自分をどう開放していくかということを、こういう歌のなかでどこまで応用できるかということです。 

 

 

愛のメモリーは甘い歌ではありますが、その甘さを出すということではなく、戦って戦って全力で煮つめてくると、そこに一筋の光がみえてくるはずです。何かつかめるはずです。そこまで煮つめてきた人は、舞台でドキドキしたりあがったりせず、そういう立場に立ったあとで平気で歌えると思うのです。その戦いの結果を出してください。それが作品、つまり歌です。

 

 皆さんの歌はこれから戦いにいくという印象を受けます。ここまで何をしてきたのでしょうか。皆さんがトレーニングができていないとはいいません。いろいろそれぞれ考えてやってきたとは感じます。ただ、質的なものと方向性のところで歌の感情の部分と、一致してくるところまでやって一息おちてくるのです。

 

自分でやるだけのことをやって一度ねかせておいて、また舞台に向けてピークになるようにつくりあげて一度、発表してこなければいけません。本人のピークも高めて伝えようという気持ちが一致していないところでいくら歌っても何にもなりません。そういうことも含めてもう一度、練習してみてください。