鑑賞レポート 1096
どの顔か音か知らなくても名前はあまりにも有名。押さえておきたかった。特定の奏者をイメージして作曲した。楽団のメンバーひとりひとりに口頭で音を指示して合わせるとコードになっている。時代の変わり目にも窮することなくアイディアで泳いでいった。人種差別も同胞へのコメントも弁を用いず、音楽に内包してしまう態度。破産しても家族と会えなくても彼と演奏していたら幸せだったというメンバー。一流プレイヤーなら自分の音を知っている。頭のなかでいつも音楽が鳴っていて、イメージの流れてた人。いまや古典だけど当時は斬新だったのでしょうね。ジャズってなんかカッコイイと思ってしまうけど、向こうの人にそんな感覚あるのかなって長年の疑問。コードが変わっているからか。日本人の感性か。異国はエキゾチックだ。
【ベッド・ミドラー】
コマ劇埸の倍くらい人の頭が見える。生活圈ではないラスベガスに集う人々、いまだにさびれないベガスの街って何なのか、いくら説明されても実際行ってみないとわからん。こういうところではよりエンターティナーな(娯楽的な)ものが求められるだろう。
音楽というより芸ってニュアンス。自信満々にぐっと懐に引き寄せるところ、プレスリーしかり、美空ひばりしかり、シナトラしかり、マイケも。
ひばりさんは要所要所で見栄を切ってみせてファンをキーといわせている、声の色も多い(日本人の声帯の方がわかりやすいってことか)体の強さで負ける分、日本人は末端神経が発達しているというか。ナマで見たら面白いだろう。
こんな大掛かりベテランの大スターならでは。まぷし。立派な腰。この人に二十歳の娘時代はあったのだろうか。あの腰が平気になったら人生怖いものなしだ。モーニング娘が100人束になったってかっとばされる大人の貫禄。コーラスガールは完ペキなアメリカ美人で、まんなかのスターはオモロイ顔という図式。主役はどこか一ヶ所バランス崩れているくらいの方がいい。
アメリカのスターはユニークで多様な顔つき。なんか観客おとな。これだけの人種のるつぼでも絶えずエキゾチックな素材を探しているんだろう。向こうの人は筋肉量が多いのとあっけらかんとしているのでストリッパーに淫靡さを感じない。翻訳の下ネタでは、さっぱりニュアンス分らない。
人魚のシーン、電動いすで移動するの(趣味ワル)と思ったけど、案外むこうの人は平気なのかも。ダンサーの皮膚にはりつく完璧なボディコンを見て、日本人に着せてもムダって思った。胸を強調する必要のある人ジャパニーズでめったにいない。パステルカラーはブロンドの方が似合う。ミニスカートとキモノを融合させたフレンチトーストみたいな衣裳ないだろうか。ひとりでわかることなんて知れているから自分には何がわかるのかよく知っておかないといけない。何を見て行くか定めなきゃなんない。
【ライザ・ミネリ】
藤圭子を母に、ブロデューサーを父にという現代の日本でいうと宇多田ヒカルのようなサラブレット。多彩な芸歴、懐かしい曲なのだろう、客席の思い入れ感じる。オープニングの白ノースリーブの超ミニワンピース趣味ワルと思ったが、こーゆー衣装ってモードじゃないんだあっていつも思う。瞳が繊細。ピアフや芸人によく見られ肴人を整動させ呑類の子供の因子を持っている。
仕章が素敵。子供の頃から叩き込まないと駄目。アル中やブランクを克服してのステージ。呼びかけ、語りかけのリアリティに感動。英語のインパクトはかっこいい。黒髮。中学生のとき、あの前髪マネしたかったけど美容師さんに鋭明できなかったの思い出す。
歌唱という点では、ベッド・ミドラーの方が上。コーラスの人たち芸達者みんな歌う、体動く。負けない芸、テンション、オーラ、大変。父を歌うとき、歌の世界か、実際の思い入れかわかりかねる夢見る眼。オーケストラビット、エプロンステージ(オーケストラBOXの前にある客席に近いおまけのステージ、歌舞伎の花道みたいなもの)、ヴォーカリストは大した役目。ピアノやトリオやバンドの他にもっと面白い音源出会える。見つめる観客の実にいい顔。うっとりとほころんだ普段の生活には見られない三次元の顔。ワクワクするクライマックス・ダンス・ダンス・ダンス、私には別世界。感激でうずくまるライザ。
【サラ・ヴォーン】
バスケットの試合のように汗だくのサラ。音色の多色さ。教会音楽の素地。カンのよさと集中力。生まれ、育ち、かなわない、でも声の多色さ学んで行く。
someone watch over me〜すごいド低音。かといって、男うたになっているのでない。
かと思うとファルセットの即興的なフレーズ。第三者のスタンスで歌っている。解釈いかんで選曲の幅は無数にあるのだと教えられた。日本人の不利さって特別なんだなあ。
7オクターブの歌姫というマスコミのうたい文句がすごいまゆつばな気がしてうさんくさく思っていた。昔ちらと聞きかじったときはエキセントリックな感じがして好きになれなかった。
公開録画。スレンダーな超ボディコン。だるい質問にもニコニコ答えていて表情、ルックス愛らしい。演技も幼い頃から学んでいるという。子供の頃から的を定めてそのことだけのために時間を過ごしてきた人(ああわたしゃただの年増のイエローモンキー、子供でも老人でもないので素人名人会にも出れん)。「HERO」の訳詞を改めて見て感動していた。
中山美穂がカバーしてたなんて信じれん。何であんなに時間があったのか不思議な10代の頃、安い輸入盤のCDを買うなんて思いつかなかった頃は、歌詞と並べて載っている訳詞と代わりばんこにていねいに見たよな。そんなダサイ聞き方しかできなかったのサ、今もあんまり変り映えしないなー、やーね。詞は四畳半でなくてWORLDな内容が多い、英語の世界憧れる。音色の豊かさは超人的だ。見事な使い分けの技。特技、特性。
7オクターブってこういう意味だった。謎が解けた。生まれ変わったらこんな風にやれるかなって、本能的に来世の課題にしてしまったけど、私らがマライアやホイットニーの声を欲しいというようなことを本気で思って実行したのが、先生なのかなってふと思った。
ごっつい肉の塊によじ登って肉切り包丁でばらして、つるして日にあてて、虫めがねで観察したら、あまった骨でスープくらい人にふるまえるかなと思った。肉を仕入れに異国に行って、故郷に帰ってふたをあけたら肉でなくて隣にそえてたキムチで家が建ったりして、そんなときも(いやあ、いい人生でした)とか、なんとかいって笑ってたりするのが世の常なんだろうと思った。
【BLUE NOTE ハート・オブ・モダン・ジャズ】
このフィルムを見てなぜか、実は人生でいちばん大切なのは衝動、それしか指計はないと確信した。心は合理的にできている。不確かなものが一番確実である。
ピストルの弾のように軽率だと思われているが、実はなまりのようにずっしりと重い。海に沈んでまた浮かびあがる。ブルーノートレーベル(1939~1966)の創設者は、ユダヤ人の弾圧から逃れるためアメリカに移り住んだアルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフ。
黒人が奏でている音というだけで本土の白人たちが見向きもしなかった宝石たちをひきあげたのは二人の西欧人。私財を投げ、自宅の片隅にしつらえたスタジオ。当時の録音の9割が現在古典としで輝かしく残り、多くのミュージシャンの範になっている。どこを切り取ってもごきげんにスイングして いるので、度々サンプリングに使われる。金儲けのためでなく、明日の才能のため、それを伝えるために投資した。
文字どおりホンモノだけを求めたひとつの時代、A・ライオンという人の人生。可能にさせるアメリカという国。以前巻頭言に載っていた周辺がやがて核をなしていくのを見事立証しているではないか。人間には可能なのだということを。ミスターミュージック達は家族のように夜な夜な集まってセッションしてはとても楽しそうだった。ところてんの黒みつみたいな肌とぶ厚い唇、ラッパの音は大した迫力で、そこでは暮らせんと思ったが、COOLな音とともにひとつの歴史がつくられていくさまを追えてとても面白かった。
音楽は内在する。レイ・チャールズ~自己のなかに、体内に。彼の口からだと妙に重みがあって。
【パヴァロッティ&フレンズ】
パヴァロッティのそれこそ何も邪魔されずにどこ迄ものびゆく声、人間の声の可能性。94’のジョルジア、まだ容姿が初々しい。あの小さい顔でこれでもかと大きく口をあける。吸い込まれる。殆どさけている。思わずメジャー持って計りに行きたくなる。叩きつける声。気合を入れたくなったときにまた見よう。経歴でなしに“血”がエリート、純血。
【エド・サリバンショー】
1956~1971全米で日曜8:00から23年続いたバラエティ番組。アーティストにとってはビッグになれるかどうかの試金石。歌が歌であり、スターがスターであり、夢が夢であったシンプルな時代。手作りな感じの残るセットや、今見るとダサおかしいド・アップとか(ジャニスなんて殆ど上半身アップと合成画面でバンド全然写してもらってない、自分ばっかスポットが当たるのもやりにくかっただろう)、“娯楽の王道もの”は大好き。本番の公開録画まで一週間かけてドレスリハその他を準備したそうだ。
テンションとか、ダサうまとか、まだ身ひとつでやっているような素朴さ、ナマの楽しさが残っているので、インパクトの強いことをやりたいと思ったとき、何かイメージが湧くかもしれない。ポケットに手をいれて、体を元気に横にゆらして、歯並び悪くて、しろうと可愛いい、ハーマーズ・ハーミッツ(英)とか、こんな研究生おるよなーと思いながら見た。
おすすめのアーティストにエド・サリバンを挙げておこう。ホスト役としてしっかりと線をひいで、この時代のMCは愛想がなくて(シンプル)、感情過多でなくて、はしゃぎ過ぎてないところが◎。元新聞記者というだけあって落ち着いている。自己主張や華を消しても個性は残る。えせタレントにならずに格を保っている。これからはこんな司会がおしゃれかも。参考にしようっと。見識者であり、才能の伝道者であり、一種の踏み絵であった人。
23年の美味しいところを集めている、For once in my lifeを歌った18才のスティービー・ワンダーの天才のきらめきっぷりが群を抜いている。旬の松坂大輔みたい。
若い頃のティナ・ターナーはよりいっそう密林からきた野生の人みたいであのテンションぶったまげる。これってかっこいい。
ジェイムス・ブラウンの独創的なダンスはめーちゃかっこいいです。
スモーキー・ロビンソンよくも悪くもいかにもプロのたたずまい。黒人男性ってなんでキレイな高音がでる。
ピアノを自分の皮膚かおもちゃかのようにガンガン叩いて、足でならしたりとか 本能が面白い。
ウエスタン・ルックの人。モンタンとプレスリー合わせたようなトム・ジョーンズ、都会的ではないけど色気、スター性。まっすぐのびる声。
ジャッキー・ウィルソンとかのすごい男の色気とか、講釈もなく、貴重な顔ぶれにまとめて会えます。
グラディス・ナイト&ヒップスの安定したうまさ。庶民的な可愛さ。
ジャクソン・ファイブなど、家族で一座を組んでいるグループが多い。
ダイアナ・ロス、ルックス面白すぎ。しゃれてる、これ。どのパーツも面白い。
いろんな声の色に会えたと思う。シャボン玉ホリデーとかも見てみたい
【ヒア・マイ・シャンソン】
伝説のシャンソン歌手がいっぱい出てきた。ミレイユが教鞭をとっている。地下の石づくり、順番がきて歌う生徒にうす青いスポットがあたって、ここみたい。
みんな真剣、年とったひととかまちまち。ゆいいつ残っているシャンソニエで大人たちが集っている。テーブルには何が運ばれるという風もなく簡素なものだ。グレコやトレネ、英国から移住した女性歌手。譜面の出版社を買い取ったアズナブールの心意気。シャンソンの心を解しない海外資本にいじられるのは我慢ならなかったらしい。
何十年か前のシャンソンって歌謡曲みたいなところに位置してたんだろうか。知的、哲学的ってのをてらいもなく前面というか、評価に打ち出す西欧色がなんとなくわかった。空の色、石づくりの建物の冷たさとか見ても違うなってわかる。アメリカの商業主義とは確かに趣がちがう。枯葉や帰り来ぬ青春を英訳したものを、ニュアンスが変えられたのが駄作だと慣慨していた。
ビング・クロスビーの“理組の父親像"とか、デパートの風船とか、遊園地とか、日本でいう“お茶の間"という感覚はヨーロッパよりもアメリカに近いものかもしれない(少々強引)。芭蕉のわび、さびみたいな感覚で、グレーな孤独や虚無を歌っているのに、Lonely~とかやられたらまあ怒る。今まで自分には西欧の感覚はわからない、合わないと思っていたけど今日は大変面白く聞けた。知人にアメリカは若いうちに行け、ヨーロッパはフルムーンで間に合うといわれたのもなんとなくわかる。
【チャック・ベリー】
ミスタードーナツだ。生きのいいおたまじゃくしみたいに騎尾の音がはねているのがカワイイ。声は質もヴォリュー厶も、まっすぐのびていて、当時の人はどう受け止めたか当人は知らないけど、この人に70年代のような不健康さはうかがえなくて、いっぱい牛乳を飲みそうな、好靑年の感じがした。
【グラシェラ・スサーナ】
秋色の音色が私には受け止めやすい。美空ひばりなどが本能で音の色分け(音色)を、言葉を捉える(おく)ことでしているようなことと同じことをやってのけている。意味わかっているんだろうか。(菅原洋一が手取り足取り教えたのだろうか)
トレーナーが以前カンツォーネの歌詞読みをしながら、□のなかで転がしながらアクセントを探すといっていたが、私にはわからないフレーズのニュアンスの音楽共通語があるのだろうか。
スサーナはアルゼンティーナで、私ったらネイティブなのに足元及ばずショックを受けた。久しぶりに聞いてすごい出会いをした。
[モータウン50]
多くのタレントや、コギャルが“黒人に生まれ変わりたい”といっていて、現地の人が聞いたら(なめんな)って怒るでと思ってたけど、その気持ちよくわかった。音楽やリズムの神様に愛されている民族。ルックスが違いすぎてお人形さんを見ている気分だった。
スティービー・ワンダーの天才的な走るリズム、パティ・ラベルのゴスペルのシャウト、神を礼賛する歌だけあって、入り方が神がかっている。歌い終わって流れるひとすじの涙。
サミーディビスJr.他タップダンサー達の、見事にそれぞれ個性のあるダンス。体に完全に入っていて、小さい頃から一日中踏んでたんだろうな、だれ一人同じステップでない、自分のステップである。魂の音符(おたまじゃくし)が跳ねているのだ。なんか幸せ。楽しいよね。体のバネ、強さ、重低音な体に入ったひびき、ゴスペルのシャウトに見られるハイ・テンションさ。
体のなかを飛び抜けて叫ばれる、取り出されるエネルギー。
わたし達が羨ましくてしかたない部分を感じると同時に、むこうのひと達にとって、何がエキゾチックで羨望を感じるかが少しイマジネーションが湧いた気がした。音楽的にというよりは殆ど民族性に拠るものである。無理から言葉にすると、とっても嘘くさいのだけれど、様式美とか、内に電流を流すことや、気品や、まとめる才能とか、ミステリアスさ等等。時間がないのだけれど、歌舞伎や能の様式美を急いでさらえてみること。
あの客席の仲間にすごく入れて欲しいと思った。モータウン50周年コンサートと名を打って、大阪のフェステバルホールでもあったけど、あんまり切符売れなかったみたいだ。思い入れが違うもん。よく知らないクセしてうわべだけかっこよがって失礼だ。でも見たいよなー。音楽性の高さと、客席、出演者の思い入れの深さと、それぞれの思い出とすべてが一丸になったすごくキラキラしている空間。点。