一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 15315字 1097

 

レッスン感想 1097

 

今日は音感レッスンのみで勝手が違い、カタルシスが得られず、なんか体内消化不良でヘンな感じ。Wや先の集中講座でやったような、他の人の声を聞きながら、ハーモニーをつくる。無論ハーモニーは音程で形成されている。パートの音を責任持って、音をぱっと取り出せないといけない。感覚培う。一音目から音程はっきり入る。クセをなくす。

 

ドレミは得意でなかったのに進歩している。主音、属音、下属音のフレーズ、音通むつかしい、脳みそ死んでる。歌の評価以前の基本的な、あたり前の人にはあたり前の感覚を入れねばならない。サラブレットが得しているのはこーゆーところだ。でも量を入れればすむところで諦めるのももったいない。

 

距離感は違うけれど、ここのトレーニングを感情をはさまず大局的にとらえられていて、頭のよさとか、音楽性とか、毛並みのよさとか、感心することも多い。最近まで熱心とかそういうんじゃなしに、まわりの人と軽口をきく気持ちの余裕なくてそんな気になれなかった。でも中身のつまってない間は、ぱっと入れないので集中力やテンションを保つ努力がいる。ささいな一言で気持ちが萎える。

 

リズムの感じ方。体のなかでリズムを刻む。本当にリズムがとれている、出ている人というのはどういう状態をいうのか。実際にはずれているんじゃないけど楽譜では表せないレベルで楽譜よりはやく入っているらしい。これは最近自分が少し遅れて入っている(これも半拍とかそういうはっきりとしたものではなく、その何分の1かというレベル)というのを感じてきていたので余計にひっかかりました。先へ先へといけずに、ジャストで入ろうとしているから遅れてしまうでしょう。ジャストではなく意識、体はその前から動き出していくとスムーズにいくはずです。頭で指示していったら間に合わないのに、体で感じず、カウントだけでタイミングを計っているというのが今の状態です。今日のリズムがとれないんではなく、確かに譜面通りには、たたけるしカウントもできる。でも、体のなかにリズムがなるというレベルとは違っています。リズム感があるということはどういうことなのか、というのをもう一度白紙に戻し考え聞き直さないと。リズムもとるんじゃなく、とりたくなってくるものではないでしょうか。歌いたいから歌うのと同じで、心が動いて体が動く。心動かず体のみではリズムを出すことは難しいと思います。今の私は間違わずにリズムをとることばかりを考えていて、楽しめていません。

幼い子供が音楽に合わせて、はしゃいだり、手や物をたたいたりするのは、心、欲求がそうさせているんだと思います。頭でこうしてという感覚は彼らにはないはずです。合っている合ってないとかじゃなく、音を聞いて素直に思うがままに体を動かしています。その姿は本当に楽しそうで音楽の原点を見ているようです。頭で正しくとることばかりの私よりも少なくとも人を楽しくさせられるでしょう。正しくとも心が伴わないのなら、本物ではない。

前へ出す。これも最近何かが足りないというのを感じていたことの一つです。声が引っ込んだり、流れてしまったり、押し出したりというのをやっていて、飛び込んでこないということを思っていました。勢いよく出すことによって体が動き、喉が開き、息が声に変わりやすくなる。どこか声たてでこわごわ出しているというのが前に出て行かない原因の一つだと思います。慎重、ていねいはいいが、思い切ってやるということもとても大切だと思いました。

 

「ア」はいいけどそれ以外は舌・顎が硬い。腰(お腹)を使おうとすると、肩、胸に力が入っていき、お腹と声とが一致していきません。お腹→息→声といきたいのですが、お腹→力→声になってしまいます。息の流れがどこかうまくいっていなくて、力ばかり働いてしまい、それで出すということを体(というか喉)が覚えてしまったということがいえます。声は力で出せるものではないといわれているのに、声量があるヴォーカリストを聞いたときに力で出しているんだという感覚で聞いてしまっているから、こういう出し方を続けてしまうのでしょう。正しい力と無駄な力があると思いますが、私の場合の多くは後者によるところが大きいです。“正しい力”で出された声は聞いていても心地よくストレート、しかし無駄な力で出された声というのは、響きがキンキンしたり、こもったり、押したような感じになり、リピートに耐えられない感じを受けてしまいます。

カンツォーネやゴスペルなど声量のあるヴオーカリストは力で出しているんじゃない。また、ボサノヴァなどの一見軽く歌っているヴォーカリストが口先でないということが本当の意味で聞き取れないと、自分の出し方に対して正確な判断ができず、“力まかせ”か“口先”のいずれかになってしまうでしょう。

ハミングなど、見本を見せてもらいましたが、口のまわりや肩、いわゆる上半身に力が入っているという感じを受けません。口のなか、特に舌がペタッとねています。顎も柔軟にみえました。脱力ができるからあれだけの声を出せるはずです。実際は体は使われているのでしょうが、外見はとても楽そうにスーッと声が出ている感じがします。私のはどこかでつっかかって出ているから音色がストレートではないです。ここ数ヵ月の状態はよくないです。出す前から顎や舌が構えてしまい、出しにくい状態から出そうとするから結局は力に頼った発声をつくってしまうのでしょう。声を出すこと、歌うことは本来、気持ちよく楽しいものでないといけないはずなのに、その反対になっているんじゃないのかと思ってしまうことがときどきあります。少し悪い方向へいっているみたいです。

 

息の力弱い。トレーナーが、ロウソクを3m、4m、5mと離して揺れるようにさーっとできれば消せせるとよいといっていたが、家に帰ってやってみると、消えるどころか3mで揺れもしない。2mでやっと揺れる。息が真っ直ぐに出せずに浅く広がっているのも原因の一つかもしれない。普通に息吐きをしていても、無意識のうちに、セーブしてしまっているというのがあると思う。ロウソクを揺らそうとむきになってやると、しぜんと体が使われていた。この感覚を体に覚え込ませようと思う。ハーッと吐くより、上半身が解放された感じの感覚。フレーズをやって、やはり声を出す基本の力がないということに行き着くが、それでも歌が歌えてしまうので、今、何が足らないのか、自分で気づく耳がないと直しようがない。録音にとってみて違和感を覚えるが、それがどういう原因によるのか、声の出し方、体の使い方、スピード、タッチ、メリハリ、etc.

 

「リズムを取ろう」/歌のなかで出すための元となる部分と感覚のズレを修正する。

・拍を取ることの感覚

・歌のなかで客の前に感覚すること、を中心として、レッスンを行った。まず拍子を取れること、次に、単純な4/4拍子でも、ノリ、ビート、形を感じられること。それは自分が演奏しているという感覚を要する。自分が気持ちよくても、それが外に表れなければ音楽として不快になる。そこを確実にしていかなくてはならない。また、音楽のなかでは、いろいろな楽器が入っては抜けていく。それをただ聞き手の感覚で流すのではなく、歌いながらもいろいろなものが聞こえて、感じなくてはならない。

 

5拍子、手で取るということ。リズムは体の中心で取る。裏拍をきちんと感じないと、スパッという音にはならない。リズムが安定しているかどうかは、目で見てもわかる。体が固いとムダな動きにつながる。また、上下の動きムダ。不安定につながる。あくまでも、体の中心、腰で取るということ、手でできないことが声でできるはずがない。ただ強いところを打つ感覚では、2拍子っぽくなってしまう。確かに、アクセントは①23④5だが、本当は2、3、5の裏を感じなければノリがでない。単に打つのではなく、音を聞いて、精度を上げて、盛り上げていく。表と裏をはっきりと感じて、それが体のなかで回っていること。腰で感じているものが、手を通して出る。その上にメロディが乗る。ノリをキープして声へつなげたい。自分が波にのまれのではなく、相手を巻き込むこと。しかし、ムダな動きによってごまかしてはいけない。楽譜に書けない一瞬を感じて出すこと。4が早くなってしまうのは、2、3(裏)の感じ方が弱いから、2、3は音が出てなくても自分の呼吸のなかでとっていなくてはならない。メトロノームに合せてやるときも、その音楽が流れてなけばならない。手だけでその曲の感じを表現できるように。 

 

8ビート(joy to world、my life)ノリを伝えること、少しの乱れでも、本人がわからなくても、感じられる人にはバレてしまう。1曲のなかでも演奏の違いがあるはず、その差を感じて出せるように、体で取って、体で出さないとできない。しかし、ムダな動きがあると出ない。感じたことを全て出すということ。一瞬の違いを全身で感じていたらどこかしら動く。 

3拍子(open arms)①23のアクセントだが、2、3がノリを決定する。またサビ前、サビ、サビ後という構成も意識すること、サビの手前で大きくなるんだと感じを出すということ。客と同じ速度で盛り上りを感じるのではなく、いつも、歌い手が前に感覚していなくてはならない。大きく出す前にもう登っている。その感覚があれば、ピークの前で集中できる。一歩手前の感覚。ピークでは自分はすでに安定状態にいたい。ピークの前で、できるだけ大きく取る。しかし走らず、つられずに、自分がそこにはまると、人には伝わらない。 

 

サンバ、タンゴ、その他の演奏者としてやること。その曲の感じを出せているか。基本姿勢でうまくいかないなら、どこか障害となるムダな動きもあるはず。まずは手の打ち方、ジャスト打ちの感覚をつかむ。それが相手へ伝えるということにつながる動きだから。

 

最初に先生が適当にバーンバーンとピアノを鳴らした。音楽はこの音色でできている。そこから、言葉ができたり、メロディができたりする。その感覚が耳に残る。音色込めてたり、離したり、おいたり、呼吸を使って行われること。どこで逃がすとか。いわれることが最近になってなんとなくわかりかけてきたが、音にするとき、意識すると、そこに無理矢理が入ってしまう。力になってしまう。体が動かないとうまくできない。きっと余計な力が入っている。でも今はとにかく無理矢理でも自分が思う以上に出そうとしないと、出ない。プロの人の思いきり強かったり、思いきり弱かったりの極端な感覚をつけていく。

 

体を反らして「ハイ」「ハッ」とにかくいろんな状態で声を出してみる。 

最下音のとこで声を出す。体からお腹を使って声を出す、(息を出す)感覚を確認。体がバラバラになってうまくいかない。出てくる声に迷ったら体の所に戻る。体を使っていなかったり、息を流しているつもりでも流れてなかったりする。こうすることで体を使わずにはいられなくなる。耳でも息を聞く。聞こえてくるものがあるはず。吐こうとするとき、吐ききれてなくて、上の方で邪魔しているのに気づく。上で止めてしまっている。逆に入り込んでしまっている。声が引いてしまうときが、あるのは息吐きのところでも、引いてしまっている。勢いつけて一気に読むと勢いが出たりガーッと前に出たりするときがあるが、(短いフレーズのみ)そのことをあたりまえにしていく。ゆっくりでもできるようにしていく。思い込みのところで、息を止めてしまっている。もっと思い切って出す。でも、しっかりと下から、イメージをシンプルにして1本の太い棒をガーッと出す感じ。体のどこが不自由かを調べていく。密度、厚みがない、こもったり、固いのとは違う。「5m先のハイ」確実にそこに声をおく、なげる。深い声、息のコントロール、声にすること、足りないものはいろいろあるが、このしっかりした声と、前に、その場所になげるというのが私に足りないところだと思った。

 

感情と感覚の2つがあると思った。私は今まで、この2つを同じものとして捉えていたけど違うと感じた。自分にそのフレーズを落したときに、自分と結び付けて前に出す。当然体が使えないと上にきて、それを出すことになる。方向的に表現する。自分が表現するということにはつながる。しかし、今、私の場合自分に落す前にA-B-A-C-出す、みたいにややこしくなっている。A-出す、にしたい。その間のB-A-Cなどは頭が入っている部分だと思う。そこで何か「表現する」ということ考えている部分があるのだろう、でも、それだといけない。これからに方向的には「スポーン」って感じとか「ポーン」って感じとか、シンプルでなければ。複雑になり、よりinに入りわからなくなってしまう。確かに「表現する」けど結果的でよいと思う。結果そうなった、でいい。だから、出すときというのは感じたしぜんの自分を出すこと。途中で加工を入れない。シンプルにストレートに、しかし、それだけだとダメだと感じた。感情がベースになるけれど、感覚をそこに入れて「ウオーッ」とか、そういった感情は何にも勝る大切なもの、忘れてはいけないものだけど、できる人は感覚的にそれができる。別にそんなことを思わなくてもできる。むしろ逆に感覚的にやることにより、余計な力が抜け、よりいい状態が出る。その感覚の部分とは音楽的部分だ。前のトレーナーのレッスンでの音の配置であったり、音が自分にどう聞こえたのか、リズムの感覚、バックの演奏などそういった感情とは違う部分。聞ける人にとっては全て共通してくる部分。その感情と感覚、そして体、息など全てを体の中心に捉え、一気に放つ意志、感情が感覚をつくっていく場合もあるし、その逆もある。でも感情の場合は、一人よがりになる。歌との接点がなくなる場合があるので気をつけなければ。だから、出すときは両方を備えることによって、よい流れ、円の動きが出てくる。どちらかにかたよっているだけだとダメ。レッスンは慎重(ねらい)を備え、かつ大胆(試し)をしていてわかっていく、体に入れていく。

 

「いのち、かけていつまでも」のテンションといったらなかった。頭の先、こめかみのところから、体の内部まで、その声が入り込んでくる。まったく無関心になって、敢えて耳を傾けないようにしてみる。ブワーッと何かが起こっていて、自分のはった包囲網を津波のように破ってくる。声が飛び込んでくるというより、声は何か“歌としての支え”というか、この作品を歌たらしめんとするものであって、自分の内側に入り込んでくるのは声のまわりの感情や思い、といったものだと思う。フレーズに着目してみても、力強くて、それでいて、線のはっきりした、あたかも書道の筆でダイナミックにひとふで書きをしたようなもののようだった。自分でそのテンションとタッチを受取りながら声を出してみる。自分の場合、1メートル半径の枠のなかで形をつくり、なんと色付けをしようと踏ん張っているが、ときどきその枠を乱暴に越えてしまう声も出してしまっている感じだ。声を支える。歌の線を維持する体も足りなければ、一声のまわりにくっつけて送り出す思いもまったく及ばなかった。ただ、がんばっているというだけで、同情しか起こせない。クラクラになって、自分がどこにいるのかがわからないほど、集中はできた。 

 

「自分の感じる効果」そう気づく、発見するということ以外に、“感じる”ということの重要性。

歌を見るということ。空間のなかで光や煙が動き、脈打つように歌はある、ということ、支える声。その周囲の色、色を拡大していく思い。“感情”という程熱狂的で安っぽくないものがある。どこか冷静で、そのベースの上で限界まで思いを発してゆくこと。声やフレーズは、歌であるための表現形態としてのはっきりとした役割が発見できたような気がする。(それぞれ声やフレーズのなかにも底知れぬ深みがあるのだろうが) 

読み込む。その先の奥を読み込むことの恐ろしさ。歌を読み込む、プロの歌を読み込むことを始めると、やがて、自分の声や歌を読み込んでいく。とても、人前に立てなくなる。技術云々より、今あるべきものも揺らでいる。一層人前に出られなくなる。更に、人の人生や自分の人生を読み込む。これほど恐ろしく、何が大切なのかわからないものはない。ただ、答えは思いのほか、感覚的なものにあるのではないか、ということになるように思っているが。

 

「ハイ」のポンッていう感覚に関して最近感じることはフォームの重要性。腰で深い息を確かに捉えている感覚がある。声にするときにその息がしっかり結びついているか、吐ききれているのか、腰の中心でしっかり捉えられているのか。息と声が結びついているなぁ~というときは、その息のかたまりの弾力性みたいのを体のなか、特に腰のあたりで感じる。ある意味、快感。でもまだ吐ききることと、力で押しつけることが混同し、上半身で押すことが気になる、というか。それじゃダメ。フレーズでもいえることだけど、やはり体の解放、頭の解放が大切。今まで自分の前に見えていた課題が“すじこ”であったのが“いくら”になってきたのはわかる。けど、そのいくらがバラバラで多いということもわかる。フレーズで今、最大のひっかかりは、フレーズの出だしについて。自分がそのフレーズを感じてそうなっているのか、それとも違うのか、サビとかだとそれはわかる。「ああ~そうやってもってったなぁ」なのか、しぜんな高まりなのか。でも出だしだと、気もち的にそれほどピークではないし、そこの部分はそんなにがんばらないみたいなものもあるけど、果たしてそれがイメージ不足からなのか。それとも本当にそうなのか。でも体のなかに塊みたいなかたまりが、あるかないかはある。

 

「パッ」と捉えて「パッ」と出す。その「パッ」にたどり着くまでにいろいろな方向からせめる。詞の世界から、感情線から、音楽的なことから、今まで出してきた感覚で不思議と何か今、いい方向だったんじゃないかなぁ~と思ったのは、そういったフレーズというのは体のなかに残っている。不思議なことに入門当時でも、そうなったときの感覚というのはなぜか覚えている。そういうときというのは聞いて「パッ」とイメージが入ってきて、それを出しただけなんだよなぁ~。その「パッ」にたどりつくためのHOW TOみたいのをやっているのはダメだなぁ。確かにきっかけにはなるけど、そうじゃないんだよなぁ。そのとき(できたんじゃないの、今のいいねぇ)と思うときというのは、はっきりしていて、ほんの1部分しかできていないということも同時にわかる。やっぱ、そういうときは体からストレートなんだよなぁ。体まかせるというのは、とても大切だなぁ。下でのいい動きを上の変な意識で止めてしまっているよなぁ。音に対する、その立体的空間を感じるときというのは、やはりイメージし、体感として捉える感じだよなぁ。やっぱり本当に肉親を殺された経験のある人がそれを語ったときの表現というのは、すごいわけで、リアリティがあるからだよなぁ。ヴォーカリストはそれを「イメージで、自分の体に経験させて」しかも音楽的にも、もっていく。でもやればやるほど違った感覚で楽しめてきているからいいけど、自分がこれからやっていくことの多さもわかる。まぁまだまだパワーアップできるということだ。音の世界を体でイメージとして、大きくしていく、そこだけだとダメだったんだなぁ~。 

 

フレーズで「悲しい」というときにそこに何を入れてもよかった。その入れるものというのは体のなかで「パッ」と起きたものがいい。音の世界の自由さに少し触れてきた。いくらでも広くできるといった感じ。「うれしさ」というのを表現するときに「うれしさ」を入れようとするから、できなくなり、わからなくなる。結果「うれしさ」に聞こえればいいわけだ。だからそこに何かを込めるとき、自分のなかにある、そっち方向のしぜんなものを出していけばいい。そこで限定するからおかしくなる。あのときのうれしかった気持を「パッ」ともってくればいい。方向があっていればいいんだ。どうしてもフレーズをやると、そっちの世界に気をとられ、そこで何かをしなければ状態になってしまう。それでは歌が主体になってしまう。今やりたい方向のもの。普段感じていることを思っていたことを、どうその曲に入れていくかに集中する。リアリティが出てくる。自分のなかで「パッ」とそれが持ってこれないときは、その歌い手を利用する。とにかく、その方向的なものや、自分のなかで起こったしぜんなものを、どうそのフレーズに入れ、更に音楽的にしていくか、満員電車に乗ったときに張り飛ばされたときに、「パッ」と起こった怒りを入れても構わないと思う。しかし、それだけだと、ただの怒りのはけ口なってしまうから、そこでしっかりと音楽的なコントロールや体のコントロールが必要。

 

自宅ですごくいいことに気づいてしまったと思う。フレーズでたとえば「うれしい」と表現するとき、そこで一気にいろいろな限定がかかる。その限定に囚われすぎていたのだ。そこが日本の土壌ということか、知らぬ間に「うれしい」とはこういうことという限定に走っていってしまっていたのだ。そういう教育を受けてきたから、父親はこうあるべきだとか、母親はこうああるべきだとかと同じうように、勝手にそういう限定の世界でやってしまっていたのだ。父親がどうあったって母親がどうあったって、自分の「うれしい」の表現がどうあったって構わなかったんだ。表現は何にもとらわれていないときに出てくる。そして、もっといいことに気づいた。たとえば前に同じフレーズで、もしくは他のフレーズでもステージに上がったときの感覚がある。それを毎回のレッスンで探っているからいけないんだ。それはそれであって、それに囚われているからだめなんだ。全てから自分を解放して出す。自分のイメージにすら囚われない。なにものにも囚われずすべてを解放して出す。そして出たものを見る。レッスン中で先生方からアドバイスを受ける。それにも囚われてはダメ。そうなった瞬間、一気に囚われ体が固まる。日常の生活でもそうなんだろうなぁ。このことは歌い手にとってすごく大切だと思う。常に解放されている感覚を体で取る。さて練習しよう。

 

リズムと音色のなかで進んでいく曲なので、しっかりリズムを感じながら、コードのなかのポイントとなる音をよく押えていくこと。特に伸ばしている音を、よく押えること。音程をとっていて、リズムの方がおろそかになっては感じが出ないし、言葉が前にでてこなくなる。また言葉のニュアンスからくる音色の出し方もいろいろあると思うので、こういう曲では、語感をおもしろくおくことで遊べるものを知っておきたい。

 

今日は最初とっつきにくかった。声(言葉)から取ろうとしたら、ベコーの芯の太い声に自分の音程がふりまわされてしまった。耳コピーより、楽器で音を出して頂いたら取りやすくなった。そして、言葉がまだしっかりと捉えられていないと歌えないこともわかった。所々、自分が感じられた音(フレーズ)には入れたようだ。やはりよく感じて、イメージして、つかんで、出すことが基本だと思った。

 

ことばを、一語一語かみしめ、情景を思い浮かべて歌う。その際、自分の呼吸に素直に反応して歌う。呼吸で動かしているのが一番よい歌い方なので、その感覚をよくつかむこと。併行して、ことば、音色、メロディを、音でよく捉えることが大事。ファド特有の感情に入れていなかった。また、作れていなかった。特に拍子が変わる部分が、気持ちが続けられなかった。

 

「花・乗り・あたま・鬼」/自分が一番やれたときの感覚をよみがえらせる。感情移入することと、相手に本気で伝えようと思うこと。それから追加。音楽を聞くことと気持ちを込めること。先生の話のなかでギリギリのところで全力を出せということが一番心に残った。面倒がってその感覚から逃げているから歌えない。NHKの連続ドラマのオーディションでミニスカートをはいてきた新人が逆立ちをするか、しないかという話もおもしろかった。緊張する場所で「よし、やる」と決断するのはすごい度胸だ。でもその一瞬にのれなければ、それで終わりだ。新人を見るときには、その人のまわりが明るく見える人、つまり見てしまう人をのこすのだそうだ。先生が花をつくりますといって暗い顔をし、体をまんなかに寄せてみすぼらしい格好をした。それから背中を伸ばして胸を張ってあごを上げて笑顔になって「光が出てきたでしょ」といった。「華」というのはもっとすごい人にしかないものだと思っていたし、そうだし、計算で出せるものではないけど、1人1人順に暗い顔から花をつくっていって「よろしく」や「イエーイ」といっているのを見て皆ずいぶん印象が変わるので、そういうものかと思った。

 

みんな器用にパッと雰囲気を変えていて、うまいなあと思った。私はあまりうまくできなかった。もっと落ち着いてやればよかった。準備が整わないうちに笑おうとしたから、うまくいかなかった。最初は人前で笑顔をつくったり、自己紹介をするのさえ抵抗があった。最後の方は少し慣れて、恥ずかしくなくなって、割とすんなりやれた。でも、まだまだみんなの自己アピールにはかなわない。みんなもだんだん緊張がほぐれてきて、それぞれのキャラクターが出ていておもしろくてワハハと笑ってしまった。自分を外から見られるようにすることはとても大事なんだと思った。自分の魅力を知ってしぜんに自己紹介ができるようになりたいと思った。堂々と振る舞うこと。無理にでもはったりでも。そして結論は、やはり練習すること。

 

一番足りないものはイメージする力。体が「パッ」と反応すればいいけれど、その状態(ステージに上がる)になれないときは形から入って自分にしぜんに宿ってくるものを捉えてもいい。出すときに出すことばかり考えているからダメなんだよなぁ。出すよりまずは入れる、宿す、レッスンのなかでも意識が開いてしまうときがある。そういうときは感覚が閉じてしまっている。意識を集約し、感覚を開く。イメージでの設定がしっかりできている。そしてそれを感じているときというのは本当になんでもいいから、これを伝えるという感じになる。そのイメージでも設定のリアリティが入ってきて、そこで感じるしぜんな感情を取り出してやる。私の場合、ステージにのれているときというの一つの共通性があるのに気づいた。それは歌詞からはいるということがとても多い。一つの「パッ」といくアプローチの仕方はそれぞれだと思うけど、私の場合は詞の内容が音楽と共に体にするりと流れ込んだときというのが、その「パッ」に辿り着くのにとても多い気がする。

 

詞からステージにのれたものというのは、そのレッスンのなかで日常と思っていたことと、テーマが一致したということもあるけど、「Bridge over trouble water、愛のメモリーガンダーラ五番街のマリーへ、Young man」などというのは、やはり詩的に自分の体に電気が走り、のれたときだと思う。だからといって詩的なものから全てというわけでなく、曲名は忘れてしまったけど、スティービー・ワンダーの「For your love」というフレーズは音楽的に入っていってのれたものの気がする。そこで、こうしたからのれるとかを求めてはいけないし、のれてあたりまえだといわれてしまう。でも、その通りだ。のれることが目的ではない。のって、何が発見できるかだよなぁ。すぐに反応できて、すぐに自分から発信できればいいんだ。そのためのアプローチ方法と自分の方向。入りやすさを知っておくこと。それはそれだけであって、そのやり方をマスターするのでない。今日のレッスンはどの方向がよいかを探ってしまっただけだ。フォームチェックしたって、実際やらないと。何より投げることが大切なんだから。

詩的なものに気を囚われすぎて、自分のなかを見る、探る時間ももっていけなかったことが一番の問題点。全てをイメージや探る時間に集中すること。第二点は頭と体が離れている感覚があった。たまにレッスンでこういう状態になってしまうことがある。頭がプカプカと空中に浮かんでしまっている状態。体より頭ががんばっているときはダメ。フレーズはイメージ合戦であったり空中戦であったり、空想ゲームであったりする。そして、どれだけ体にパワーをためられるか。パターンでやっていくというのはあまり好きではないけど。

 

たとえば「うれしい」「悲しい」など自分の感情がピークにもってこられるイメージを持っておくことが必要かも。一気にさまざまな感情のピークに持ってこれるものを入れておくことが必要。全ての感情のピークが持ってこれれば、どの歌でも自分を出せる。しかし、もちろんその音楽をしっかり聞いてのこと、人のを聞いてて思うことは、こんなことをいうと調子にのっていると思われるかもしれないけど、第一声を聞いただけでわかるものがある。というよりも、第一声でわかる。何か自分のなかにあるものを表現しようとして自分の何かとしっかり結びついている人のフレーズというのは、もう一声からの声のトーンが全然違う。そして意識が一つでつながっている。そうでもないのに、よいと思う人もたまにいる。でも共通していえることは統一性があるということ。体からまっすぐということ。何かその人が出していて「ふっ」と込み上げたものに耐え切れなくなって「くっ」となってしまうところが一番印象に残るんだよなぁ。ということは、やはり中のものの量の差なのだろうか。とにかくイメージから伝えるというステージにのること、イメージから、そのなかだけというのは一人よがり。込み上げてくるもの、これを使うんだよなぁ。

 

先の合宿における自分のステージを見てみると、この半年の自分の日々が、自分で恥ずかしくなる程、直接的に反映されてたものでした。合宿の発表会直後に、自分はあそこに新しい価値を与えられたか、何を残せたか、というストレートな問いかけに、確信をもって答えられないという点では、反省しました。

先日の合宿反省会で目にした自分の姿は、より深刻な所で、日々の自己判断、自己解釈が全てできていなかったこと、もっと大きく捉えればこの半年の態度そのものをひとえに集約していたのです。それは、確かにスタートは切っていて、結果を二つに分ければ、プラスには入っているのだけれども、決定的なことは何一つ生れていない、自分自身何かにためらっているような、そんな姿そのものでした。

勿論、専念することのできる、一つの大きな目標を手に入れることができ、自己努力し、成長するために、日増しに自分に厳しくしているわけです。その毎日の生活の反映として書く文章、たとえばアテンダンス等があるわけですが、その内省的な記述をざっと読みかえしてみても、確かに真剣さは伺えるのすが、その言葉の殆どが、今まで自分が生きてきた中で得てきたもの、つまり過去の自分の言葉ばかりで、新しい生きた言葉が殆ど生れていないのです。

結局この半年は常に自分の過去が上の基準としてあって、それとの単なる比較対象になってしまうものでしか、自分のなかでなかった、ということを意味していると思うのです。あるいは、皆と同じことしかしていない。それゆえにもどかしい日々。だからこそと、気持ちを入れてトレーニングに励むのですが、いくら汗だくになって、そのとき充実した感覚になっても、果たして、このくらいでプロがやる練習と呼べるようなものなのか、と考えてしまう。つまり、自信につながるほどの冒険的な実体がない。それでも確かに、周囲に公言できる程、充実していた時期もありました。しかし、それはいずれの場合も、歌であれ、その他のことであれ、自分としての結果の問われる場の前後であったのです。愚かにも、目下の目標に対する結果を、自分の部屋から出たところで、実際に問われる舞台がないと、必死になれない。

この現状の最大の理由は、自分のイメージ力の欠如、今というときの重要性のわからぬ実力のなさ、また、緊張感がなさすぎるからだと、理解しています。ただ、だからといってたとえば実際に自分の生命や財産の危機にさらして自己を追い込まないことには変われない、というのはあまり賢明とは思えないのです。では、人が自分の力を最大に発揮できる状況とは何か、を考えてみると、そういったまでの危機的状況も勿論ですが、自分に要求されている責任を把握しているというのが、その一つの大きな要点であると思うのです。いや、より強く、より高く理想を持ちつづければ、とか、自分のプライドに問えと主張される人もいるかと思いますが、それは前提であり、より現実の行動力に及ぼすものを考えれば、成さねばならぬ、という責任感は、感覚を気負ってしまうほど埋没させなければ、大変効果的です。特に、他者の存在と切り離されたところでは考えられない表現者ということになれば、責任感は更に重要でしょう。

責任の意識は自分だけの枠を越えて、周囲のなかにいる自分という自覚がないと生れてこないからで、表現者がこれを無視しては、どんな作品になるか知れないからです。もっと責任感を切迫したところで受け止めたい。だからステージ実習などの舞台のあるヴォーカル科への移行を単なる手続き上の問題と考えていません。

何度も先生にいわれている通り、舞台とは、そこに立つ人が、見にきた人の重要な時間と可能性を支配することに他なりません。従って、ステージ実習等のステージも、価値ある時間にしていかなければならないという大きな責任があります。また、毎月出ないといけないというルールを守りきる責任を自分で自分に課すことです。更に、こういう形で文書として提出することや、今までにも、研究所に対して、何度か実体を伴わない程だいそれた物言いをしたこともありましたが、それも全て、自分で、その威信にかけて、刈り取るために敢えて撒き散らした種にほかなりません。特に、後になって頭を抱え込んでしまうほどの大言壮語を吐くのも、何か本気でやるなら必要かと思います。

しかしなぜ、研究所の舞台でなくてはならないのか。それは歌に関して常に世界を見据えた人達の集まる研究所では、ちょっとやそっとのことでは、子供扱いされてしまうほど、大人扱いをされてしまうからにほかなりません。

たとえば、新入ステージでは全力でこちらがやると、さら大きな失敗のショックが、跳ね返ってくる。大変落ち込んだけれども、それによって普段の日常より、二倍も三倍も速く前進することができたと実感しています。

合宿は、この事実の確認の意味もありました。結果として全力で失敗したのなら、もし純粋な感覚さえ失わなければ、何倍もその後の経験が深まっていくことに通じるようだと知りました。そして、その「純粋な感覚」というものを、自分のなかで一生のものとすることが、ここで学ぶべき最大の課題だと思っています。それは、先に述べた、今の自分たらしめているのものであり、同時にどうにも私に欠如している現実把握力、あるいは常に上を想定して、自分の毎日の内容をより高いものにしていくという想像力と殆ど同じものです。それを養うために、責任を自分に課していきたいのです。頼り切る気持は毛頭ないし、仮にステージ実習に出続けたとしても、殆ど限りなく高い次元を有する、この想像力を手にしていく、根本的な問題の解決にはならないでしょう。どこからかは、自立的に養わないということに変わりありません。それでも舞台に出ることで、自分の成長へ波形に勢いつけるというか、気概を高めることによってしか、打開の方法が考えられないのです。

 

言葉に音をつけているんだという実感“井上陽水 いっそセレナーデ ~甘いくちずけ遠い思い出”初めの頃こそ、②のクラスに興味津々だったけど、最近①にも馴染んできたところでのクラス替えで少しは緊張してただろうか。テンションもらえるだろうかとか甘い期待はできない、自分で起こさねば。馴染んだゆえ、くすんでくることもあるのでひたすら自戒。入ろうとすると音が頭のなかからぶっとんでしまう。とんでしまうと迷いが出て何も表現にならない。音を大幅にはずしてしまおうと取りあえずバットを振りきること。

 

プロの人は、歌の形にするのがうまいのだと、以前先生がいわれたことを思い出した。イメージが出せている人も、なんかいい思い出みたいに聞こえるって、いわれてみれば、ほんとそうだった。

初めから歌えていた感じの人でコトバになるとくずれていて、(言葉のことを)やってないんだろうなと感じた人もいた。

趣旨が飲み込めない間は、思い切り投げることに終始した方がいいかもしれない。でも、(甘いくちずけ)だぜ、そんな飛ばしたら、さぶいって。言葉でフレーズをつくる。何気ない言葉がリアリティを持って、新鮮に聞こえ、届いていること。訓練と一口にいうけれど、いつになったらできるんだぁ、もういい加減できてくれ、伝えることの必然性を身に沁みること、さらすこと。

全然勘違いしているふうの新しい人の方が面白かったりする、昔はすごいと思っていたけど、実はわずかの差で初心者に変わりないのかもしれない。眼をつぶってフレーズを聞いていると悪くない(自分できづいてない)のに影薄い人もいる。キャリアでなく大切なのはキラキラ。とにかく“ぱっ”と入る。もう“ぱっ”っと。