「海水浴客か漁師か」1101
アンケートをみると、早く資料が欲しかったとか、説明の仕方、場所や食事がどうこういってくれるので参考となる。思いもよらぬ気づきや、意外な発見もできる。
アンケートなのでいいたいことをいうのはよいし、細かい点でいってもらえることは、ありがたい。
これからも、よろしくお願いしたい。
ところが、うっかりしていると、私もプロの仕事として、どこまで顧客サービスに努めるか、など、
ここ3年ほどは日々、一般の社会人の仕事の悩みに悩んでいる。
これも、きっとありがたいことなのだろう。
でも、この場は、そういうところだったのか。
時代とともに変わるのはやぶさかでないが、変わる方向がこれでよいのか。
質はどうなのか、そこを見極めなくてはならない。
となると、
細かいことが、もっとも大切なことについて、書かれていない。
だからどうしたのか、どう行動したのか、どうそれが跳ね返ったのか、
さもなければ、2泊3日の観光旅行のアンケートと変わらない。
こちらも、それではまるで、海水浴で人を集め、
漁師をやらせようとしているのかという気がしてくる。
直すべきことは直そうと思う。正しいことは正しい。
しかし、こちらが配慮する分、皆の気づきの力が落ちてしまう気がする
という言い訳が、言い訳にならないようで困っている。
たまに放り出してみて、うまくいかないかと思うが、
やはり何から何までみないと、やらないと、思わぬ目にあう。
スリッパを直しておくと、それはあたりまえと思うし、
放っておくと、乱れていて、それをあたりまえと思う。
それでは、観光客―。
いきつくところ、音声で表現する舞台において、心地よければ、他は本当はどうでもよいと思っている。
海底には、もっと大きな魚がいたのではなかったのだろうか。
くやしがってくれよ、おい。
海水浴を楽しんでたら、大きな魚がとれたというわけにいかない。
しかし、漁師の船に乗って、食べさせてもらって、見ているだけでは、もったいないだろう。
ここは、釣ったものを食べさせるのでなく、釣り方を伝えるところでありたい。
どこでも、どんな条件下でも、タフにやれる力をつけてもらいたい。
観光客は気まぐれだ。気分のよいときしかこない。
漁師は、嵐のきそうな日でも、じっと海をみつめている。
命をかけて出て行くから、真剣にならざるをえない。
自分が釣った魚だからこそ、ひとしお旨いから、そのために毎日、自ら、とり組むのではないか―。
旨いから、人に買ってもらって、人に喜んでもらって、ずっとがんばれるのではないか。
海に出ていくのも、今晩、食べるものがないからというのと、
人々の喜ぶ顔をみたいというのでは、士気も違ってこよう。
私の釣りの結果はここのところ、さえていない気がする。
漁場を変えなくてはいけないのか。
エサを変えなくてはいけないのか。
どこの海にも、おいしい魚はいるはずなのに―。
大きな魚はいるはずなのに。
自戒を込めて。
私も反省したい。