レクチャー 1112
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【「聞くこと1」】
【「聞くこと2」】
【「聞くこと3」】
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【「聞くこと1」】
ここの2年間で、大切なことは、イメージを確立することです。これを自らつくることです。
音楽にはいろいろな勉強の仕方があります。ピアノを弾きながら、楽譜を見ながら、楽典からやるとかもあります。
根本的にいうのであれば、耳で聞いてみて、それを体で反応できればよいのです。皆さんも、そのイメージが確立できていなければいけません。
ここでやっていることは、体に直結します。イヤートレーニングは、生のものを、生で浴びてくるという経験が必要です。
CDなどで小さく聞いているので、音のなかの要素がつかめません。
自分のイメージがしっかりとあって、そのイメージに対して発声や音感、リズム感が未熟だというのなら解決していける問題なのですが、これがありません。
あったとしても、自分の感覚のなかにあるものではないイメージは使えません。
ここで確認しておいていただきたいことは、まねをしないことです。基準をもてということです。
ここでとっている基準というのは、今の日本人のヴォーカルを二人間いて、この二人では足りないなという部分です。
彼らがある意味、コピーしています。そのコピーの仕方のときに二つあり、歌い手のもち味のよいというところは当然とっていきます。
雰囲気や個性ではありません。それで欠けてくるところは捕っていくのです。そのときに何が落ちているのかを感じていかなければ、自分の体のこともわからなくなってきます。
ここで、プロの体をつくるプロのイメージをつくるということは、基本的には耳が必要です。これは、聞かないとよくないのです。
トレーニングの仕方でいうと、自分の評価がこのくらいだったらトレーニングをやっていても何をやっていても、最終目標がここなら、ここにはたどり着けません。
基準に関しては、高ければ高いほうがよいのです。ただ、実感しなければいけません。
前に、演奏と、調律と、楽器づくりといましたが、見ていると、声のことしかやっていないような気がします。
ここのことは正されてくるようにしていきます。本当は、耳がよくて、よい演奏がたくさんはいっていたら、それに自分の体が乗り移ってきます。
乗り移るといっても、自分の体ではありません。プロの体ですから、そこを伸ばせないし、音も届かないかもしれないし、ボリュームも出せないかもしれません。でも、ギャップという感覚はそこに入ってきます。
ギャップがあるところに、息を吐いたり、体のトレーニング、楽器づくりをやっていったら、音をとれる、とれないというレベルでなく、解決していくはずなのです。
皆が皆、楽譜で勉強したり、コーラスを歌ってヴォーカルになってきたわけではありません。なってきたわけではないところをまねていってもしかたないのです。
基本的に耳があって、読み込めて、体が対応できれば、そのことは再現できるはずです。体の原理から忠実に出ている声というものをイメージしてください。
今の日本のヴォーカルは、ほとんどくせ声で歌っています。彼らの体の中心から出ている声ではありません。それはそれで味があります。私もオリジナルな声で歌わなくても、オリジナルなフレーズがあれば、それはもつといっています。
こういう人たちは、自分たちのフレーズをもっています。ただ実際、本場のものとどちらがしぜんかと比べてみると、相当不しぜんになってしまうのです。
ある意味では不しぜんに歌い上げないと歌としての価値が出せないところで葛藤しているのです。
それに対し、こういうものは、大ヒット曲で、オペラ的な存在で日本にもち込まれているようなものです。日本の歌を日本人が歌うという意味合いとは、若干違います。
シャンソンやカンツォーネもそうですが、向こうの雰囲気に測りたいという人が好んできた。だからおかしくなっていってしまうのです。
考えて欲しいことは耳です。聞き取れる、聞き取れないという基準が甘いということが、アテンダンスシートや、ステージ実習やライブ実習の後の反省を見てもわかります。
ほとんど音を聞いて、単に置き換えていったら歌というレベルで捉えている場合が多いです。それが、声が届かなかったとか、うまくいかなかったとかになるのですが、そういう、問題ではないのです。
その感覚があったが、という問題と、その感覚にその場でどこまで対応できたかという問題です。
100パーセントできていたらすごいものになりますので、対応できないところは構わないのです。逆に、歌いこなせてしまって、練習である程度仕上げてしまったというのは、どこのレベルでやっているのかというと、耳も使っていないし、体も使っていないところでやっているのです。
ですから、日本のヴォーカルと同じで、それで完成というレベルです。それならそれで通用しなければいけません。
そこからいうと、全然心地よくもないし、何をいっているのかわかりません。歌の世界としても成り立っていません。
器用な人たちと同じようなやり方をとれとはいいません。発声のこともやり、実際、声を出さないと身につかないことも確かなのです。
本当のことでいうと、そのイメージが入っていて、体が変わっていく実感があれば、そこに声というものは乗ってきます。音感もそうでしょう。
なにもピアノの練習をしなくても、よい歌を本当に何回も聞いていたら、それだけではだめですが、たまに歌ってみることによって、正されていきます。
その歌ばかりを、まったく判断がつかない状態で、狂ったようなピアノに合わせ歌っているよりは上達します。
勉強の仕方のところで、考えてもらいたいところは、最終的な到達点に対しての目的意識です。判断の基準を置いておかないと取り出せないということです。
人間の体のなかから、息づかいと同時に聞こえてくるような音や声の変化を自分のなかにいれておくことです。
にどのような勉強の仕方をしているのかを出してもらいましたが、本当に感じ方でした。60くらいのメニューで、そのうちの50くらいは、その音をどう感じるかということです。
後の10は、その感じに対して、どう声を使うかということです。息を吐くメニュー、ことばをいうメニューもありますが、それは私が本に書きました。
そのレベルのメニューをつくろうと思ったら千でも万でもあります。つくっていけばよいのです。
結局、そのメニューが深まっていかないと、音の取り扱い一つに関してもとても雑になってしまいます。単に、声を大きく出すことが、伝わることだと勘違いしてしまうことにもなってきます。
感覚的なものだからこそ、感覚的をいろいろなものを材料に磨いていって欲しいです。
ことばには限度がありますので、いろいろなものを聞かせるのですが、まずよく聞くことです。小さい子を見ているとよくわかると思いますが、やりたがる子はやりたがらない子よりも上達します。
しかしやりたがってまわりを見ない子はよくないです。自分ばかりがやっている子は、ある程度しか上達しません。
本当に上達する子はなるべくよい人のを見て、イメージを入れています。よいものとそうでないものをそこで判断しています。
目で見えるものはわかりやすいです。音の世界も、いろいろなわかりにくいものがたくさんあります。
楽器の世界で聞けばそんなに間違いはないと思います。楽器の世界で聞いたものを数のなかにでも移し変えて、どこが何を起こしているのかということをつかむことです。☆
それを自分の身体感覚に置き換えなければいけません。前に体に読み込むということをいいました。その作業が本当は練習のはずなのです。感覚に移してみて、同じようなことを出してみたときに自分にとってフィットするのかしないのか。
もう一つは、自分の働きかけとして、聞いている人にフィットするのか、しないのか。媚びる必要はないのですが、少なくともその判断のなかで、無限のなかからある一つの形をとらなければいけません。それが歌という作品です。
それをとったら、その次にどうなるのかということが全部、頭で計算していくことではないから大変なのです。呼吸や体でやっていくのです。
一番よいのは、映像でも何でもよいのですが、それを聞きながら歌うとか、声を出すということよりも、まずしっかりとその呼吸を体に入れるということです。
最初は、なかなかわかりません。自分で歌ってみても全然違う。全然違うことはわかるのですが、何が違うのかわからないのです。
それに対しここで使っているものは、比較的わかりやすいものです。いろいろな音楽のつくり方がありますが、中でも体づくりと、イメージをつくらなければいけないので、比較的ごまかしのないものを使っています。体の音が聞こえるようなものです。
あなた方がどんなに違うものを歌いたいと思っても、もし、体を鍛えたり、そこをプロの用途としてその原理を使ってやっていくのであれば、そこに基づいてトレーニングはしていかなければいけません。
ポップスの人と発声練習をすると、声がひどいのですが、歌を歌ったらよい人はいます。発声練習を見せるわけではないので、それはそれでよいのです。ただ、そのときに発声練習でやらなければいけないことは、体の原理に戻しておくということです。
歌でやっていることは、伝えることがメインですから必ず、狂います。試合と同じです。発声練習のときに、その体を元の体に戻してあげることで、かなり狂ったり、かなり動かしたりしても、次のフレーズで呼吸が元に戻るためのことをやります。
伝えることばかりに気がいっているときにはできませんから、別に時間をとって、ヴォイストレーニングのなかでやるのです。
ですから、ヴォイストレーニングは完全にコントロールするためにやることです。他の人がどう聞いていようが、そんなことは考えなくてもよいのです。自分の原理のなかで一番忠実にやります。
のどにかからないようにとかいろいろないい方がありますが、最大で最大のことをやっていきながら、最小で最大に動かせるようなコントロール感や統一感を身につけるのです。だから、調律ということになるのです。
そういう位置づけが、何となくばらばらのような感じがします。歌にしても1ヵ月間ばたばたと仕上げて、自分のなかでも納得しないものを出してしまっている。できる限り、自由曲などは半年前からセットすることです。
だいたい歌なんて最低3ヵ月はかかります。それで7割くらいできるどうかです。3年温めないとできないものですから、たった1曲でも、たった1フレーズでもよいですから、そのなかで自分の感覚が変わるということです。
その変わった感覚によって体から声が出るということを気づいていったり、実感していくことがレッスンです。
それは自分が声を出すときばかりではありません。いろいろなものに出会ったとき、聞いたときに感じることもあります。
「枯葉」のように一つの曲をアーティストを変えて聞いてみたり、時間を変えてみて聞いてみる。
皆が感受するときに感覚が「あれっ」とか、「こうなんだ」とか何がそこでわかってもらうためにかけているのです。発声練習のためにかけているわけではありません。
感覚が変わらないものに対して、体がついてくることは、たぶんありません。大きな音で出すな。これは、初歩の初歩です。
音程がとれることやリズムがとれることはあたりまえのことなのですが、それがとれたからよいということではありません。
基本で勉強すべきところは、そのなかでの音の世界に表現をどうもっていくのかということです。
一番ベースのところに皆さんの体があります。この体の動きを使わなければいけません。準備体操をし、汗を少しかいて、それと同時に心の状態も柔らかくします。
なるべくしぜんにする。しぜんにするといっても、鍛えた上のしぜんですから、だらーとしていればよいのではありません。ハングリー精神や、リスク、切迫感なども必要です。
トレーニングは50年かかってやっていくわけではありません。なるべく早くやっていくということです。そういう意味で脅かすものも必要です。
本当はのんびりとよい気持ちで歌っていたらうまくなることが一番よいのですが、あくまで自分の楽しみではなく、作品として問うていくものですから、そこに対して刺激が加わっていかなければいけません。
うまくいかなくて落ち込んだり、よくなかったということも全てプラスになります。自分のなかに入っているものです。
日本人の場合は声がないから、いれなければいけないので難しいのですが、祖先代々からつながってきているもの、自分の生まれ、育ち。田舎で育った人と、世田谷で育った人では感覚が違うでしょう。
それを切り捨ててポップスの世界が成り立ってしまっているので、とても難しいのです。日本の場合、民族の音楽が結晶化されていません。それはしかたないと思っています。
ただ、その体の部分がベースです。後は、感じることです。この感じることは、皆さんでも自分の好きなものに対しては感じていきます。
それは誰でも感じていくことですから、嫌いなものも含めてよいものに対して感じられるようになっていかないといけません。単に聞こえてくるという感じ方ではよくないです。自分が感じに取りに行かないといけません。
学ぶ場合は特に背伸びしなければいけません。まったくわからないものでも世界で認められてきたものですから、何があるだろうとしつこく聞いていたら、そのうちわかってきます。
20年かけてわかったものと2年でわかるのでは全然違います。皆そうです。先輩からこれを聞いてみろといわれて、こんなの聞いてもつまらないとよく思いました。最初の出会いはこれなに?でした。
ここで育った人たちもそうでしょう。ただ、それが信用のある人間から与えられたものであったら、彼がいうのだから何かあるのだろうということで聞いていくと、聞き方が変わってくるはずです。
ここで昔は、それがずいぶんと早い段階で起きていたと思います。3ヵ月、半年で理解していって、1年くらいでガラッと変わっていった。変わったからといって自分がなくなるわけではないのです。
元々そこまであるのは、自分が聞いてきた環境のなかで、たまたま狭いもののなかで音楽がつくられてきただけで、そんなもので全部なくなってしまうのなら、元々何もないということです。
それで生き残ってくるものがあって、本物です。
それがビートルズであっても、プレスリーであってもよいのです。
それも構いませんが、もっといろいろなものがたくさんあるのだというところで自分で感じて、それを感じ取れるようにならなければいけません。
感じるというのは、向こうから流れてきたものに心動くということです。クラシックの世界でも、私もわからないことがたくさんありますが、やはり、よいものはよいです。
料理などと同じです。それは、学ぶときの一つの努力の方向だと思います。
映像作品もつまらないものもたくさんあるでしょう。でも、そういうものも見るから、よりよいものの意味もわかります。
自分がわからなくても、他の人が感動していたら、やはりそこに何かあるのだということは、自分を変えていくために学んでいかないといけません。
自分の感性は大切にしていかなければいけませんが、それらを全部取り組んだ上で、結局自分がどれを選ぶのか。そこではなるべく包括していってとっていった方が私はよいと思います。
決めてしまったら、それで卒業というか、そのスタンスで外でやるということです。そこまでのことは、比較的、体や心の状態によります。ステージのために、いろいろな条件づけをしていくのです。
作品をつくり出すというのは、感じたまま気持ちよく歌っていればよいのではなくそこに意図的な判断力が必要です。画家も、壁をつくっている人もそうです。
自分でやってみて、何でもよいとは思いません。これはよい。これはだめ。これは、もっとこうした方がよくなる。よくなかったとかいうことを判断していきます。
判断する元というのは、本質を把握する力ですから、自分自身であるという人もいるかもしれません。しかし基本的には一流のものを見たり、何等か見えないまま自分に入ってきて、やはりよいと確認してきたものを頼りにするしかないのです。
それが入っていないと、判断そのものが働きません。他の人の作品に対してもわかりません。①クラスのレベルでは、④クラスの人がやれば皆、うまくみえてしまいます。
上の④クラスの人たちや私たちが見ていたらひどいと思う。もっとできるはずなのにと思う。
あるいは、本当に感動するということは、こんなことではないというようなことがわかります。何回かいろいろなものを見ていたらわかります。
そういう経験を重ねていくと、基準としてはつけやすいです。同じ場所で同じことが行なわれているからです。
本質的なことを見るのに、一つのところをみるのは、大切なことです。
たとえば、日本人のヴォーカリストと原曲を聞いてどこが違うのか。日本人のこの二人並みにも自分は歌えないけれども、この二人の条件があったら、自分だったらどう変えればよいのかを考えるのです。
自分の声が10年後にどうなるのか、自分の歌がどうなるのかはわかりません。わからなくても、同じくらいの感覚があるようになったとしたら、自分はどう直すべきなのか。
あるいは、どこがすぐれているけれども、どこがよくないのか。どこはこうやろうとしたが、本物の方がよりしぜんに、より大きな世界をつくっているように思えるのはなぜなのか。
そういうことを徹底して吟味しているのかということです。
そんなことをいうと、歌は理屈で歌うのではないといわれますが、プロの世界はそれを取り出さないといけないから、理屈っぽいのです。
頭で考える理屈ではなく、そのなかで完全に判断が働く理があるのです。
本質的な判断をしっかりともたない限り、アイデアも発想も浮かんできません。ブロはプロのトレーニングをするといいます。誰がつくるのかといえば自分でつくるしかないのです。
歌もフレーズ、1フレーズ自分で決めていくしかありません。そういうことで、創出していかなければいけません。
アイデアを出していかなければいけない。発想していかなければいけません。
それが問われます。だからテンションが高くないとよくないです。最終的に表現しなければいけません。
表現というのは、歌っていればよいというわけではなく、それが伝わらなくてはいけませんし、形にならなければいけないから書くことにしても、話すことにしても、歌うことに関しても、全てが計算して、その場に応じて、ふさわしい形で取り出しているという作品にならなければいけません。
演奏の部分と楽器の部分で、楽器の部分は最初、数だけこなしていればそのうち質になってくるのですが、演奏に関しては、よほど真剣にそういう勉強をしてこないと、最終的に独りよがりで終わってしまいます。
いろいろなメッセージを書かせたり、自分の反省を書かせたりしていることも、その芽を取り出すためです。
作品ということに関しては、音だけです。ただ、それだけでは疲れないいろいろなものがあります。音で全部出せるわけではありません。
一つのテーマについてしかいえません。
創出すること、アイデアを出していくようなことと、表現することをレッスンのメインにもってこなければ、結局、何もつくれていけません。声が出てきてどうなるのだということに最終的になってしまうのです。
声が出なくても表現できるし、歌える人はいくらでもいます。それは、勘が鋭かったり、耳がよいし、それに最低限ついていける体があるのです。
あるいは、そういうものがなければ自分の使い方を知っているのです。ただ、それだけでは、それなりの人がきたら吹っ飛んでしまいます。
どこに根づくのかというと、自分の呼吸や自分の体になるのです。だいぶ失われてきているのは、自分の呼吸のなかで音をつかんだり、歌う経験です。
これは、いろいろなレッスンでやっていると思います。そのなかでいろいろな働きかけがあって、それをしっかりと比較、検討して勉強していくときにやっていくということです。
日本人で皆さんよりも声量があって、勘もよくて歌い手としても認められている人たちがどのくらいしかできないのか。あるいは、どこまでできているのかを知るのは、とてもよい勉強になります。
彼らも最高のことをやりたいということで人生かけているのです。舞台は舞台としてまわっているのです。そんな舞台がやりたいわけではなくても、そこの部分を音楽と同時に体に入れていくのは、大切です。
タンゴイタリアーノはリズムが3つにわかれています。細かくやっていきたい部分もあるのですが、大きくやっていきます。どうやって直していくかといえば、聞くしかありません。感覚の問題です。
1回聞いたときに音楽が入ること。少なくとも歌詞が入ってくることです。今の日本の歌を使っていたら難しいです。そもそも歌い手が意図して歌っていません。
それを取り込めるようにしていく。楽譜を渡すのは、それがなくても本当はできなければいけないものを面倒臭いから渡すだけの話です。
1回か2回聞いたときに、この歌はこういう意味であって、歌い手はこういう感覚であってとある程度そのステージが見えるということが必要です。
歌い方は人のものなので、自分のものにどうすればよいのかをしっかりと聞き取れるということです。ステージ実習、ライブ実習で皆さんの“感想文”を見ていると、自分のものを正しく評価できていません。
正しく評価するのには、難しいのです。だから、他のものを評価する勉強をしたり、いろいろなステージを見たりするのです。
体はやっていけば強くなりますし、声くらい出るようになります。それを歌にするには演が必要です。演奏の勉強をするためには、感覚を変えるしかないのです。それは認めていくしかありません。
ピアノやギターが弾けても、なぜプロと違うのか。人様に与えられるものにならないのか。その感覚がないからです。その感覚が磨かれていないならよくないです。
自分を否定するということではないのですが、感覚の鈍さやその程度の反応力であれば、出てくるものもどうしようもありません。
自分の映像を見たときに、感覚の誤りなのか。体の誤りなのかをみることです。
感覚でこう出したかったものが声としてできないということあればまだ、ヴォイストレーニングで対応できるかもしれません。
ヴォイストレーニングも基本的には感覚の問題です。
声をたくさん出していればよいというのではなく、今日やったフレーズを100回、200回やったときに、よりフィットしてくるのがでなければ単に、のどだけ痛めることになります。するとおもしろくなくて辞めてしまうでしょう。
自分で気持ちよいとか、原理に忠実に声が出ているなとか、感覚としてフィットしていると思わないものが人に対して働きかけるわけではありません。頭で考えて、勘違いしてはいけません。
向こうの人たちの曲を向こうの人たちのように歌ってみて、それにのっている。その感覚は自分の感覚ではないのです。
自分の体のなかにあるものではなく、彼らのものが入っていて、それが聞こえているからもっているようなものです。お客さんもいい加減ですから、知っている数だったらそのバックのものを聞いています。
バックのものを聞いているのではしかたないのです。その人がつくり出さないといけません。そうしたら、その人間が何を歌ってみてもオリジナルなのです。
こういう勉強は、皆さんには不慣れかもしれませんが、音楽は全て即興から入ります。それをやってみる。やれないところは、しっかりと問題を掘り下げていくのです。
いろいろなところに問題があると思いますが、たぶん聞く力は大きな問題だと思います。それに対してどう出していくのかというようなことです。
一番わかりやすいのは、皆さんの仲間のステージを見てもらえばよいでしょう。歌1曲で、どこかよいところがあるという感覚でやはりよくないと思います。
何回も何回も同じものをかけます。わかりにくい感覚をどう説明すればよいのか。プロのものをいくら見ても、そこから感覚を学べない人が、それを何十回見てみてもだめでしょう。気づくしかないのです。
これだけの部分で、先に行けるかどうか。勝負は先でよいのです。皆さんの曲もそこがよいとか悪いとかでなく、見切られなければ大したものです。質的な問題にはいっていかなければいけません。
そこの部分だけで、よいと思います。2秒か、3秒でわかります。少なくともプロのスタートはそうだと思います。
ここでいろいろな音楽を聞かせているのも、それをわかって欲しいからなのです。体で表れてくるのは時間がかかります。そちらの方向に進んでいるかどうかということです。
よく、私のレッスンは難しいといわれますが、難しいのではなく、今日のようなレッスンは、少なくとも5年前には人門科のレッスン内容でした。今日のもです。
昔はそういう部分から入っていって、わからないなりに対応してきました。
「聞く力がものすごく弱っています。だから体が反応できない。声の問題ではないのです。
自分が何を出しているのかは、次に来る問題ですが、まず音楽をしっかりと聞くことです。これは、難しいことです。
私も聞けない音楽がたくさんあります。それを好き嫌いで判断してはいけないということです。ジャズでもクラシックでもつまらないものはあります。
でも、聞いていてわかってくるのもあります。そういう体腕を何回も重ねていくと、偽物か本物かがわかります。それにはよいものを見るしかありません。
フラメンコなども感動しないものは全部、足らないのです。だから、本場に行って、10人踊っているものを見る。一人はすごいが、後の9人はそれから比べたら大したことがないのがわかります。
そのすごいには、何が違うのかというと、その人間がもっている感覚が違うことと、その感覚から出てくる体の反応が違うのです。
結果としたら、皆が歌えればよいわけですから、歌えたもの、映像でも自分が練習しているものでも聞いてみればよいのです。
聞いてみて、ちょっとの違いだなと思うことがどのくらい違うのかは、わかりません。1秒でとっているのか。0.1秒でとっているのか。0.01秒でとっているのかは、2年や3年で直る問題ではありません。
何で直すのか。発音やリズムをピアニストの先生にやってもらうのはなぜかといえば、やはり感覚だからです。
そこで接しても、こういうことかという気づきの積み重ねが必要です。それは先生が指摘するのではなく、自分で感じるまで、そういうレッスンを何回も何回もやっていくなかで学びます。
そういう気づき方や聞き方が歌に対して、できなくなってきています。それができてから実現するまでに時間がかかるのですが、それが見えなければ実現は難しいと思います。
量はやっているでしょうし、繰り返しレッスンに出ていることもよいでしょう。大切なことは、それはベースで、あたりまえのことのリピートです。
質は、それにオンすることです。たとえば、以前に同じ曲をやったら何かわからないし、全然のれないし、自分の体で全然対応できなかったし、こんな歌は歌わないからと思っていたものに何か接点がついてくるのです。
最初はそれでよいのです。そうして中に入りきる。しっかりとその音楽を把握していたら、敬い手の心がわかります。
バルバラでは全然対応できないので、岸洋子さんのもので、まだ日本人のものでやったほうが音が取りやすいでしょう。
課題は一つ下げているのです。本当のことをいえば、オリジナルものを聞いてオリジナルで対応して欲しいです。
ただ、この日本語のもので音が取れないと、本物では取れないでしょう。試してみてください。半分は取れないでしょうから、ある意味では難しい歌だと思います。
でも、音符のなかの繰り返しで、慣れていないということも大きいです。そういうものに慣れていくことです。
自分の好きな歌も課題曲もやっておいて欲しいのですが、むしろそこで何が気づけるかということでいうと、慣れていないものや嫌いなものをやって、耳から体、心への反応力と楽器としての音への反応力、この2つです。
大切なことは、その感覚に対してその時間のなかでいろいろなことを読み取っていくことです。それを鋭くしていくということです。
自分の作品があるレベル以上でできる人が、他の人に対してまったく評価できないということはありません。
ここはいろいろな材料があると思います。音をたくさん聞いてみて、自分でそれに反応していくようなことが基本だと思ってください。楽典の知識も得て、楽器もやって欲しい。やって欲しいことがたくさんあります。
レッスンに出て欲しいのは、感覚と体を変えるためです。レベルアップするためです。他の人にはわからないくらいのものがはいるためです。
ここでやっていることは、難しいと思います。バンドで考えても、バンドを外してピアノ1本にしたら難しいでしょう。
ピアノを外してアカペラにしたらもっと難しいです。こういうものは用意しないで、聞こえたものにすぐ反応するのです。
そのくらいの厳しさのなかで差がつけられないのであれば、1曲まるまるやってみても、その差が何なのかわかりません。
わからないということは、練習してみても上達しないということです。それを誰かにいってもらうのではなく、自分で判断基準をつけていくのです。
ポップスですから、自分がよいと思ったものはよいのです。ただそれが、すぐれている、すぐれていないが、わからないと、カラオケのおじさんやおばさんと同じになってしまいます。
もっと足元です。もっと心のなかの声や体の声です。評価されてきた作品をもう一度自分でしっかりと評価し直すというのは徹底してやるべきです。これは、どこの世界でもそうです。
落語でも、漫才でも、あるレベル以上の人たちは、ある時期、5年、10年掛かりで一流で残ってきたものを全部やってきています。
徹底してさらっています、自分がやれているからといって、違うものばかりに取り組んでいるわけではありません。
そういう意味で、シャンソンやカンツォーネは好きなわけではありませんが、何かを伝えようとしたら、英語の歌や今のJ-POPのようなものではやりようがないと思います。
今の日本の歌は、一度音楽と声に戻さないといけないので、面倒臭いのです。戻した形でどうなのかを自分で探求してみてください。
昨年、一昨年聞いていたから、今年は聞かなくてもよいということではなく、昨年、一昨年聞いていたものを今年はどう聞けるのか、来年はさらにどう聞けるのかということを問うのです。
つまらない作品は2回聞くに耐えません。好き嫌いではなく、その奥にある、自分にわからないけれども伝わってくるものや、何かしら引きつける要素があることなど、そういうことにとても敏感になって欲しいです。
わかるものを勉強しても誰でもわかります。そうなれるのだから何の差もつきません。わからないものをわからないまま取り組んで、わからないものが出ていればそれが一番すごいのです。
ヴォーカルの10曲歌うのがわかってしまったらステージは成り立たなくなるのです。もっともっとわからないもの、難しいものでよいのです。
理屈で難しいのではなく、このリズムは訳がわからないというものに取り組んで、そういうものが何かしら自分に働きかけていくということが質的な勉強だと思います。
ピカソがわからないといって、わかりやすい絵ばかり見ていてもしかたありません。
要は、そこにくるインパクトです。何でそれは人々の心を捉えてきたのか。国が遭う。歴史が違う。
でも、全世界でそういわれているのはなぜか、というところに何かあって、それをまねて書いてみても絶対にそうならないのです。
では、何なのか。結局、自分でつくらなければいけないということになるのです。そういうプロセスは音の世界ではなかなか見えません。
自分で聞いて感じて、11秒のなかで何が起きているのかということにもっと敏感になってください。
なかなか難しいと思いますが、難しいことが難しくなくなったときにできます。私はレベルを下げようとは思いません。
レベルを下げるとなおさらわからなくなります。これでもよいのではないかと思ってしまったら、勉強になりません。
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【「聞くこと2」】
歌を聞くと、その人の個性や情緒などいろいろなものがあります。そのなかから歌が歌った部分をもってくることです。楽譜でもリズムでも基本的な要素があります。
他の歌い手とは別に自分の声や体のなかにあるもの、こういうものを1回自分のところに下ろすという作業をしなければいけません。
たとえば、ステージ実習で何か歌うとします。いろいろな歌を聞きます。聞いているなかで、それをそのままコピーしようと歌っていたら、気持ちも感覚も違ってきます。
ピアニストでもドラマーでも音楽をやっている人には自分の感覚があるのです。自分の感覚というのは、何が気持ちよくて、何が気持ち悪いということについて音楽においての判断です。
ここでつくっていくことは、プロの感覚、プロの体です。必要なもの、一番足らないものはこれです。
私がここをつくったのは、楽器ができていなければしかたがないからです。これは時間をかけるしかありません。
ある意味でいうと、そこは時間で勝負できてくるものです。そしてトレーニングの一番のベースになっています。
どんな人でもあるところまでは強くなります。ここの部分は基本の基本です。これは、リピートしていくしかありません。
ここでも、ある時期、皆そういうことをやっています。一所懸命がんばって、汗だくになって身につくのはこちらのベースです。
もう一つコツや秘訣というのか、先ほどの部分はある程度、力でやっていける部分なのですが、頭や才能によるのが感覚です。これには気づかなければいけません。
もちろん、あるところまでは、積み重ねていけるのです。たとえば、楽譜を読むこともそうです。
1ページ1ページ読んでいくと勉強できていきます。誰よりもたくさんの楽譜を読んでいたら、誰よりもできるようになります。
教えやすいし、評価しやすいし、体験しやすいことです。体ではありません。知識です。勉強して、復習していたら、そのうち答えられるようになってきます。
でも、本当に大切なことは、リピートの部分で、そこにオンさせる部分です。オンさせるとは、感覚が変わることです。気づくということです。
最初に自分の好きな曲、一番歌ってきた曲、自分を一番アピールできる曲をここで歌って、映像で見なさいといいます。そうなったときに、部分的な修正できるものであれば、それは直したらすみます。それが、レベルが全然違うとか、どう見てもプ口に見えない、どこを聞いてみても音楽かどうかよくわからないというものであれば、感覚なり、体も今までのものを否定しなければいけません。
自分で生きていく分には、自分を否定される必要はないのですが、仕事とプライベートのような違いで、仕事上の誤りは仕事上で直すしかありません。どんなに人柄がよくても、仕事ができなければされます。
だからといってその人の人格を否定しているわけではありません。こういうものは、そういう要素がとても強く全ての人が同じようになる必要はありません。なりたい人がなっていくものです。
レッスンとしてはこういうものをやっていきたいというのはよくても、いろいろなものを吸収していきたいがために、レッスンのレベルを下げていってはいけません。
たとえば、音楽家にとっては耳と体、間に心が入りますが、これだけの世界です。うやって説明することとわかりやすい反面、失われていることもとても多いのです。
イタリア語で聞いても、イタリア語がわからないのだったら、耳で聞きながらになります。歌詞も書かないでやります。
書いてやったほうがていねいだと思いますが、本当でいえば、自分で聞き取れて、イメージして出していく。
歌い手にしても現代になっても歌詞を見ながら歌っていません。それは、自分がその歌を歌おうと思ったら、見たくなくなるからです。
なぜかといえば、限定されてくるからです。感覚を変えることを難しくしてしまうからです。全部体に入れてしまって、そのときに出るものを取り出したほうが、よりしぜんで自分に心地よいからです。
そうしたら、レッスンもできるだけ甘えないで、そういう感覚でやっていったほうが、より気づけることが多くなるということです。
私のレッスンが理屈のことが多いのは、伸びた人を見て、理を得るために理屈を忘れてはいけないことがわかったからです。
彼らがどう、この3年、5年変わってきたのか。伸びる人のプロセスは、ここの回数からです。最初にすごいことができるということよりも、最初の1年、2年の間の多くのプロセスを経たからです。
ステージ実習をやっても、録音を渡していませんでした。それでも、自分が何をやったのかということと、何ができなければいけないのかということに気づく。
そうやって基準をつけていかないといけません。ここで私が、そういうものを使うということは、自分が気づいたものを説明したり、伝えたりするときにそういうもののほうが伝わりやすいからです。自分でやってもわかりやすかったからです。
原曲を聞いてみて、日本人が歌ってみたものをしっかりと比べてみたときに、どう違うのかに気づく。
それと同じことが、この日本人と同じくらいに歌えない自分にも同じようにあると思えばよいです。原曲は0.1秒くらいの感覚で入っていて、マッハで加速しているとします。
それを日本人はまねているはずなのに、0.5秒くらいかかっていて300キロくらいしか出ていない。それにも当たらない自分は、もしかしたら1秒くらいかかっているかもしれません。
感覚的なものですから数字に表わせられないのですが、比べていくというのは、一つの勉強の方法です。
自分はどのくらいか、自分よりも後に入って、ぜんぜんできていない人は、入っていないのは、どの程度わかるでしょう。結局、相対的なものです。
スピードではわかりやすいのですが、それが感覚になってくると自由になってきます。でも、すぐれているもの、すぐれていないものがあります。それをいろいろな作品を見て知っていく。ここではあまり間違っているものを使っていません。
あるアーティストの作品でも4つくらい使っていますが、残りの歌は使っていません。それは、ゆがんでいるからです。なるべく一流のものを聞いて、同じ人の作品でも、選曲によっては一流の作品なったり、三流だったりします。
古典を聞かせることは、優先しないと、今、流行の曲ばかり聞いていてもわからなくなります。これだけ聞いていたら、これがっていてもわかるようになってくるということではありません。
ここのところを生理的にうまく働かせようとしたら、ここからそれているものをいろいろと取り組む必要はありません。
感覚に関しては、説明しにくいのは申しわけないのですが、いつも回っている通り、わかるものです。ここで何かをやって全員がわかるものでありながら、できないことが基本の感覚です。
自分だけがわかったもの。あるいは、他の人が気づかなかったものが感覚に近いようなものとなり、理となり一つのルールとなるのです。
全然違う方法でも、あるレベル以上の人には、不思議なことに共通してきます。そうでなければ、すぐれている、すぐれていないという合意を人間のなかで得ることができません。どこまで深さでいくかということです。
自分の得意な分野があれば、そういうものから見ていってもよいと思います。ルールといっても、定められたルールではありません。
わからないものを、わからないなりにたたき込んでいきながら、そのなかで自分の感覚として、「これは違うな。これなんだな」ということを声に対して起こさなければいけません。歌に対して起こすことは、難しいです。声に関しては、それだけやっている人は、やれてきていると思います。
ヴォイストレーニングは前からいっている通り、再現性です。自分のよい状態をつくるわけですから、単純に判断できます。これ自体が試合として問われるわけではありません。
そのことを100回やって、あるいは、ここでヴォイスジムを1時間やってみたときに帰りがけに声を出して、こんなに出るという感じになるのがレッスンの効果です。
歌に関しては、日本人はほとんどいません。ライブをやってライブをやる前よりも声が出る人はまれです。それは、消耗してしまっているからです。
ヴォイストレーニングからいうのであれば、本当はそうあってはいけません。次の日に一日休むことができても、若いときはよいのですが、年令をとってくると、のどを痛めてしまったり、うまく声が出なくなってしまう危険性もあるということです。
今は、感覚を入れるところからレッスンをやらなければいけません。いろいろな感じ方があります。感覚を入れるのに一番よいのは、嫌いなこととはいいませんが、自分が不得意なことをやればよいのです。
たとえば、ボサノバやタンゴで歌ってみるか、サンバでやってみると、まず、できせん。それができるようになるということは、何か感覚が変わっていくのです。そういうものをレッスンに入れています。
声でそういう教材は出ていないので、ドラムやギターを応用してやっています。
発声練習のかわりにやってみましょう。これはブルースの基本講座です。好きに歌ってみてください。このギターの通りに歌うのでなく自分の感じる通りにやってみてください。
ここには必ず、一つの進行があります。ルールというのは、コード進行ではなく、こういうふうにいったからには、次にはこうくるだろうと予測です。
予測が切れたら、自分の感覚を切ってそれに対応する。それが2つや、3つのパターンであれば、予測は自分でもつくはずです。お客さんである聞き手でもつけているわけです。
それに裏切るということは、あまりうまくないことです。そういう意味での音楽の理解のために、楽器をやるというのはよい方法です。
今日の前半1/3の発声練習は好きにやってよいです。ただ、感覚を対応させるということです。それがどたばたしていてもよいのです。徐々にいろいろ対応できればよいです。
楽しめればよいと考えてください。自分のなかにそういう感覚がなかったり、何も材料がないとあまり楽しめません。それは、だんだんそうなってくればよいと考えてください。
トレーナーがいっていたがもしれませんが、向こうでのレッスンはサックスで吹いた通りに、声を使ってみろというものでした。何か月かやってみて、やはりうまくできなかったそうです。
声のコントロールはそういう次元のことをいうのです。音色をどうする。息をどうする。どういうふうに相手に音を届けるのか。日本ではそんなレッスンはまず、やられていません。
ここではむしろ、聞いたものを自分の体でどう感じて感じた通りに出したらどうなるのかということを確認するプロセスがぎりぎりです。
歌を徹底して解釈してみればよいです。たとえば、これはどうしてこういう伴奏なのか。なぜこのテンポなのか。歌い手がなぜここで切っているのか。なぜここで入っているのか。鶏がキンキンなっているのは、どんな効果があるのか。なぜ、入れたのか。
伝統的に残っているものには、なんらかの理由があって、それは聞き手の快感が歌い手の方向性、その人の世界に合わせてコントロールされているわけです。歌い手がこう出そうにも準備が必要だし、方向性も必要です。
どこに行くのだということもきちんと示さなければいけないし、収拾をつけなければいけません。その時間が普通の時間ではなくなるためのトリックが全部はいっているわけです。
ここのレッスンにも、いろいろなレッスンがあると思います。それを原曲で聞いてみる。この原曲に対して加わったのは何か。切り捨てたのは何か。この人が嫌いだったのは何か。好きだったのは何か。選んだのだから、何か好ましかったのでしょう。
そこにある共通するものは、とても大切なものです。歌い手がそれをなくして歌ったら意味がありません。
課題曲にしてもこうやって、それぞれどこかの箇所を聞いてみてください。自分ではそんなにすごいヴォーカルとは思わないし、感動しないし、古くさくて何か嫌だなと思っても、自分が歌ったらどうなのでしょうか。
比べてみると、この程度のこともできない。その差は何なのか。ビートルズにしてみても、曲は、歌もすごいとは思うけれど、歌い方はあんなにかったるく歌っている。それでも自分が歌ってみたらどうか。
かったるく歌ってみたら、ああいったテンションが出せない。思い切り歌ってみても、おかしくなってしまう。彼らはプロとして通用している、そこにあるものは一体、何なのか。それを見ていくことです。
プロの作品は、どこかを切り取っても瞬間的にわかるものです。音楽は線です。これがあまり聞いてきていないから入っていません。今の日本の音楽が使えないのも、やはり、点でとってしまうからです。
これは、昔の日本人を見ても、感覚的には点をつなげているという感覚があります。滑らかではありません。音楽はとても滑らかです。声をつかんでいるものが、線になって、それをどう動かすかというだけの感覚で彼らがとっているからです。
ことばを発音しようとか、体を使って響きにあてようとか、そういう感覚がないのです。それは、自分たちでわかっていかなければいけません。すぐれた歌はここでの感覚が違います。声が違うとか、音色が違うとか、個人差という問題ではないのです。
感覚が違うのです。その感覚がどのように得られているのか。息を吐いたり、音楽に合わせて声を出すのはよいのですが、それはあくまで体の部分をやっていること、声の感覚、体や心、呼吸と結びついたところでどう出したいかというところにいっていません。
2段階必要です。自分の体から声を取り出すというのは、あたりまえですが、その声がどう作用するのかというのが音楽であり、歌です。
私は歌は歌い手のものではないとよくいうのですが、歌が投げ出されて、それがまわりにどういう効果を与えるのかということが重視されることで、歌い手の体のなかで何が起こっていようとそんなことはどうでもよいのです。
聞き慣れていない人が聞くと、これは早口言葉のように聞こえるでしょうが、本人たちの感覚でいうと、とてもゆっくりなのです。ゆっくり練り込んで深く入れて出しています。ただ、体がそれを覚えているから楽に出ます。
何で向こうからきてもらうかといえば、その感覚をもっている人は本当に少ないからです。勉強できる人とできない人がいると思いますが、ここでいうのであれば、2年のうち1回でもよいから、1年に1回でもよいから、その感覚をきちんと得るということです。
1回でわかったということはありません。それが遥なっていって何かになっていきます、ここで期待することも、歌い方としての価値観は入れていません。その人からおもしろいものが出てくればよいのです。
ステージに出せないのは、歌っているだけではおもしろくないからです。
歌がおもしろいとはその人の世界を実現していることです。難しいかもしれませんが、ロックもこういう歌も、そこにいろいろなリズムが過巻いていて、それが音の形を取ってこう来るのです。自分の体、実際は耳を通して、感知できないものが自分から出ることはありません。
大切なことは、とにかく音楽のなかに浸りきってしまって、それを自分の体に形態をとるということです。よく声楽で聞き方を勉強していますが、なぜ勉強するのかとうと、音がなっていく。それを自分でえて動かしていくことを全身でやるからです。
声でイメージしていていても、わかりませんから、こういうところでこうやるとか、こういう音楽に関しても、自分の体にまず置き換えてみることです。
置き換えがうまくいっているところが、最終的に出口が声ということです。ピアニストだったらピアノ、ドラムだったらドラムになるのです。
勝田先生の演出レッスンは、強制的に大きな箱とか、小さなものを手にもつ感覚をやります。歌い手の場合はそれに加え、音の時間のなかで走っているものがあります。線の世界のなかでどのように読み込めるか。
リズムだけ読み込むのだったら簡単なのですが、そうではありません。リズムのなかでいろいろな変化のあるものを自分のなかで感じて創るのです。体も動いてきます。
慣れだけの問題ですが、私も話し慣れてきたらいろいろなところが動くわけです。そうでないと、伝わりません。前にでたときに、口しか動かないのは日ごろ歌っていないからです。
感覚としては、体が全部働いているわけですから、こういうもののなかでどこまで細かく感じ取れて、大きく出せるかです。それはとても大切なことです。
大きな音で聞けばもう少しわかるかもしれないので、大きな音でかけてみましょう。無理にでも、1年、2年動かしていたら、そのうちフィットしてきたなとか、リズムのなかで、歌い手ですから当然、歌になったときにそのままやってしまえばよいということではないのですが、とにかく外したとかはまったということはわかってきます。
すぐれている、すぐれていないを判断しなければいけないのですが、それが自分の体に入っていくのか、入ってこないのか。耳で心地よいとか、よくないとかではないのです。
そのことがきちんと回ってきて、そうすると一つの法則でもってくると、歌がなくなっても、その後にこういう感じだったと感じます。
最初は無理に、今の皆さんの場合は少し無理をしないとこういう音楽に入っていけないかもしれませんが、そのうちその音楽がそれを取り出してくれるようになります。
そのときにその感覚が入ってきます。それは腕でも手でもよいし、顔でも体全部でもよいのです。ただ、歌い手は最終的にそれを声で取り出します。
でもその声の前に体のなかでそれが入っていないと、この人が感じているだけのリズムや感覚を感じていないと同じレベルのものはたぶん出てきません。
声にしていきなり扱うことは難しいです。なかの感覚があって、次に発声技術があっで、しかも出たあとにどう伝えるかをコントロールしなければいけません。
ピアノをうまく弾けていなかったり、ドラムをうまく叩けなかったときに、こういうものに合わせて叩くことと同じくらい技術的な問題です。
それを心のなかで練習することはできますが、体操がわりにこうやっていてもよいでしょう。結局、歌で動けないということがどういうことかといえば、日ごろ動いていないから、音楽と体の全体が結びついていません。
演出のレッスンもここではあまり派手なことはしませんが、聞いていなければ聞けよというときに、手が出る人と出ない人があります。日ごろもっと体を大きく使っていたら簡単に出るようになります。
でも、日本にそういう使い方がありません。田舎とかに行くと、おじいさんで外国人のようにやっている人もいるようですが、どちらが得かといえば、やはり、表現ですから、やる方がよい。
指揮や手話もやろうかと思っています。音というのは、聞こえている範囲しかわかりませんが、手旗信号は、遠くに見えることと、耳が聞こえなくても、聞こえていてもわかるのです。
歌い手も、当然ながらステージで全身で表現します。ただ、それを役者さんのように振り付けからやるなということです。そんなことをしてもおかしくなります。
形からつけてはだめで、自分の体や芯がそう動いたらそのまま見せればよいのです。外国の歌手などは、人で相手と踊っているようにして出てきたりしています。
向こうみたいなところでないと、さすがに日本でやるとキザになってしまいます。もう1回かけてみますので、自分なりに解釈してみてください。その解釈を、まず、感覚としておくということです。
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【「聞くこと3」】
まず、地に足をきちんとつけることです。そこできちんと体に返してあげることです呼吸であれば、このくらいのフレーズであれば、しっかりと下半身のところまで空気を入れ、その動きをしっかりと感じることです。
ルールなり、方向性を自分のなかで変えてよいところは変えてよいですし、変えてはいけないところは変えてはいけません。
それに決まりがあるわけではなく、その人の体と呼吸にあっているかどうかということです。次のところをやればもう少しわかると思います。何回もやってできない人は、自分が感覚の線がずれているのか、それとも感覚にそって出した声の線がずれているのか。それがわかっているのかどうかを知ることからです。
こういうフレーズは、そんなに頭も、勘もいらなくて、感覚だけでできてしまうものですから、案外うまくいく人もいます。先ほどのところよりもある意味では簡単なのですが、考え始めるとできなくなります。
小さくまとめてもできなくなります。走らせておかないといけないということです。
日本人にとって、線を走らせるということは難しいと思います。
このくらいのスピードだったら、なんとなくわかるのでしょうが、これも微妙にいろいろな使いわけをしています。何回もやれば対応力というのはわかります。
課題曲もそういう意味で置いているのです。やって欲しいのは、「はい」や「らら」と歌でどう聞くかということです。そこで行なわれているフレーズというものをつかむことです。
たとえば、花でも物でも動物でも、これをどう見るのかということを、いろいろな画家が、いろいろなデッサンの仕方をしています。このなかで共通するものをここで見ることはないかもしれませんが、ここから下りたものであればわかるでしょう。
このままとってはいけないのです。この線をどう見るのかということを自分のなかでイメージしてみましょう。それを得るということは、必ずしも自分の出せる線と同じとは限りません。
一流のヴォーカリストの声の高さとか、ボリューム感というのは、イメージしてもできません。でも、そのイメージは大切なものです。これが他人のものではいけません。そのなかで、どう組み立てるのかということを組み立てていくのです。
もう一つ大切なことは、声そのものを皆聞いているわけではなく、声にのっかっているものや、声をどう出すのかということを聞いていることです。体のなかで何が回っているのかということです。
体の部分での楽器づくりも大切なのですが、もっと大切なことは、それをどのように出すのかということです。これはコツという感覚です。見えないものを、見えないままに出して、その感覚のなかで、要は、自分のなかで起きている感覚ではなく、そこに投げかけられて、正していくのです。
そこでどのような効用を起こすのかというところの感覚をフィードバックしなければいけません。本来は、これは一致すべきものです。声がどうおちているのかをいちいちフィードバックしていたら、次に進めません。遅れてしまいます。
発声練習と違うのは、部分的に止めることができません。歌の場合は、回っています。とにかく、ここで100パーセント完成させた声を出す必要はなく、この次の動きを取っていくほうが優先されます。
ただ、そこで何かを残していかないといけないから、ぱっと飛びすぎるよりは、止めて切っていきます。
線をきちんと見るということです。線のなかに音楽である以上、やはりポイントがあります。簡単にいうと、拍のところや、「はい」が入るところや、ベース音が聞こえるところです。これはリズムのポイントですが、声に関しても、ここでしめているとか、ここではなしているとかがあるのです。
ブロはプロなりのやり方をとっています。日本語の処理にしても同じようには歌っていません。あまり複雑にやる必要はないのですが、それを自分のなかでわかることです。
自分の声でイメージをたどってみたときに、そのイメージ通りいかないところは何なのかを知ることです。
その結果、それは、イメージのほうを正したほうがよい場合もあります。自分には、そのイメージは無理だから、もう少し呼吸をとか、もう少し早く切ろうとか、もう少しテンポを上げようとかです。
そういうものをわかっている人やわかっている人の元でやっている人は、向こうのものをコピーするにしてもまったく同じキー、同じテンポでやりません。アレンジを変えたり、バンドも変えたりします。
歌い方も当然、変えるわけです。5番まである曲を3番までにしてしまったりです。そういうことも全部こういうかけひきのなかで決まるのでしょう。
今日使ったものは、12小節、ブルースの元です。これと同じで、声のフレーズの元の部分のところで、自分の何が出ているのかを気づくということとです。そして完成していなければいけません。歌のどこかを部分的に聞いても、歌は完成しています。
そこで終わるという完結ではなく、次に繋げるというところで、その役割を完結していっています。
このように出されたときに、難しいのは、そのためです。ここでやっていることは、難しいと思いますが、それに対応できるだけの感覚と声の扱い方を身につけていくことです。
実験をしてみるのです。考えてみれば、ピアノ1本でも難しいのです。ピアノを外して、アカペラだともっと難しいでしょう。練習をしないで、この場でやろうとしたら、もっと難しいです。でも、難しい条件だから、シンプルに見えるので、番勉強になるわけです。
これにバンドをつけて、自分のつくった曲をやっていたら、気づくことはなかなかできません。こういうときに弱い部分が、自分に足らないところだったり、何でそれに対応できないのかは人によっても、差があります。
入っている音楽、入っていない音楽、まったく入っていない音楽もわかります。入っていないと、声も対応しにくいです。自分が何をやったのかわかりません。だから、自分でそれを置き換えてみるのです。
そのためにまねてやってみることと、まったく違うものを自分でつくってみることでしょう。
その間のところで聞き返すというのか、体でわかる人が一番よいのですが、体でわからなかったら、録音で聞いてみて、どうしてそうなるのか考えてみましょう。
だいたい、頭を働かせてしまうことが多いです。まとめようとか、うまくやろうとか、ここでなんとかすればよいとかです。
計算は必要なのですが、それが出てしまうと、足がつかなくなってしまいます。体がさぼってしまいます。若干、先の動きが留まっていても、今は、しっかりと歌い上げればよいのです。このくらいのフレーズです。
ものまねをやれということではないのですが、こういうすぐれた人たちのものをいろいろなパターンとして覚えておくことは、私は歌い手の場合、ヴォイストレーニングが100パーセントでなくてよいと思っています。
ここでのステージで歌っている人も、ヴォイストレーニングに対して、そんなものが100パーセントであろうがなかろうが、歌がよければよいわけです。
そういうことでいうと、マイクテクニックではありませんが、いろいろなパターンのいろいろなしのぎかたがあって、自分のなかでとっさに出てくることがとても必要です。
特に日本語の歌は、なぜプロの人があんなややこしいテクニックをたくさん使うのかというと、やはり外国語にない複雑な問題を多く抱えているからでしょう。