一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン1 20546字 1113

レッスン1  1113

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 【表現 361222☆】

 【特別2 3611.6】

【フレーズ 3768】

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【表現 361222☆】

 

再び表現を考えるというテーマです。実質ヴォーカリストがやらないといけない部分、舞台での表現とします。

声がよければ通じたのは一昔前のことです。

表現は一回でできるものではないですから、今回は触りのところぐらいまでやって、あとはいろんな表現を実習します。

 

映像から自分のオリジナルな部分に入るようにしてみます。また、今まで使ってない曲をこういう機会に20、30曲やります。

前半は我慢して、材料を自分の表現に結びつけるためにどうするかを考えます。表現するために動いていて、表現するためのことをやっているのに、どうも発声とか体とかのところから出られないままにいるようです。

 

長くやっていたら出られるのではなくて、一生、出られないまま終わってしまうこともあるのです。

今の日本の状況を考えてみると、まわりをあてにしていて何か開かれてくるものでは

ありません。

だからそうではないような部分を、表現ということでもう一度、捉え直せば、きっかけが出てくるでしょう。

 

 

私は私で世に出て、勝手に歩んでいるのですが、ここでは入ってくる人と共に歩まないといけないので難題です。

とにかく今年から来年にかけては、やはり体のことを中心でやらないといけないと思います。

心のことと体のことというのは、本来、ここでやるべきことではないのですが、少なくともそのアプローチの手段までは与えておかないといけないようです。音、リズムのことが足りないからです。

 

日本の今の音楽は、どこかの場で、たとえば、学校にいっていたからといって、身につかないでしょう。ですから、何かもう少しアプローチの仕方を考えないといけません。

それとともに外に出す方の力を、あるいはその対象、目的、手段を発揮させるということは、もたないと難しいと思うのです。

 

演出力もその一つです。結局、人に対して働きかけるものですから、相手がわからなくて、どこかでものすごい声でわめいていても、それはそれだけで、何も残していかないし誰も受け継いでくれません。

逆に考えるのなら、誰かが受け継いでいくものは何なのでしょう。あるいは誰かが誰かを呼んでくるような形でひろがっていくものは何なのでしょう。

 

 

これは簡単にわかるのです。皆さんが何かをみて、それをよかったといっていること自体が、その中心の動きです。

私もいろんな人に会って、それで今でも残っている人、それから全然思い出せない人がいます。そういう人間と人間のなかの関係からはじまるものを難しく捉える必要はありません。

ただ、音楽とか芸事というのは特殊なものです。違う意味で解体してみて、もう一度再構築してみるのがレッスンです。表現に対する一つのきっかけとなるはずです。そこに一つの基準があります。

 

そこに入っていくのに皆さんの方がプロのレベルのモチベートで入っていったらブ口のことを教えてくれるでしょう。

一般の人のところでいったら営業マンの話し方鱗座みたいなところで終わってしまうでしょう。

営業も人に物を売っているわけですから働きかけているわけです。そういうことで捉えると、表現がもう少し身近になると思うのです。

 

そういうことなら社会のなかで行えばよいわけです。こういう場で特にやるということは、それを芸事にしていくところの表現です。

だから、芸になっているもの、なっていないもの、いろんなものを見せます。そこから入って、それを皆さんの実習に多くしていこうと思います。

最初に声を出していってから、それから入っていた方が体も心も開かれてできると思うのです。

 

 

谷川俊太郎さんの作品です。いろんなことばを音楽的に詩に残されている方です。

それと「ニューヨークニューヨーク」。そのへんから入っていきましょう。

 

それから5曲ぐらいことばから音にするようなことを取り出すような表現にします。アレンジとか作詞までは無理でしょうが、曲を変えてみるところまでやってみたいと思います。

 

「ニューヨーク」

声がつまってしまっていますので、ラかアでやってみましょう。10割の力でも構いませんが、もう少し力は抜いてください。

体で力を入れて出そうとするほど出なくなります。体で力を入れるのと、実際の声が出ていくのとは違います。

流れを捉えていることです。力を入れてやると、失敗してしまいます。形は力を入れたときに覚えてもやるときにはそれを抜いてやります。

 

 

今、配ったものを一人一行ずつ読んでいきましょう。今日はいろんな形でヒントを与えていこうかと思います。

自分の呼吸で読むということです。要は歌に必要な、あるいは高い音や声量に必要なところの呼吸が出ているかです。

 

プロの呼吸にしていくということですから、その呼吸が見えるようにして、それを自分の体と同じに合わせます。合ったらその体より大きく見せていく。

ところがその体がなくなるときが多いのです。体がないのに大きく出しても表現力としてはとても弱くなってしまいます。

 

自分で読んでも何ができているかよくわからないと思うので、他の人を読んでみたときにどうだったか考えてください。日本のいろんな芸事の多くは、いつ知れず、みんな形をつけすぎていくのです。

たとえばテレビに出ると、「みなさん、こんにちは」とハイトーンで入る形になります。これはもう形なのです。

 

 

声ができているとか、芸ができているのではなく、その高さでそのテンションで出せば何となく普通の日常からかけはなれてくるからです。

ある意味では、こういうはったりも必要なのです。しかし、それをやっていくと体から離れていきます。もちろん中にはそれを長くやって、身についてくる人もいます。

そういう無駄なことをやるよりも、一番基本のことだけをしっかりとやってそういうのが出てくるようにします。

 

日本にいるとどうもそのへんが区分けできなくなってくるので歌になったときには、まったく違う歌い方になってしまうのでしょう。最初はそれでよいのですが、その結びつきというのは自分が意識して、そこだけを本当に正しくやっていくべきだと思うのです。

そうしたらそんなに間違えないのです。体ができた部分、息ができた部分しか声が出せない、あるいは歌えないというのがわかれば間違えようがないわけです。

 

 

「いきているということ」

朗読教室、アナウンサー教室、ナレーション教室のように、ならないようにしてください。

今までそれを5年、10年勉強してきた人には悪いのですが、それが表現を殺してしまいます。声をたたきつける、体をたたきつけるような表現をしてください。

思いきり吐いたり、出したりするとうまく声になりませんが、とにかくそれを一つにすることです。この文章が消えていくことが目的です。

 

「いきているということ」を皆で読むと、何か危ないことをやっているみたいな感覚があります。そうではなくてこれが題材になっていて、声だけが聞こえてくると、こんな声をしていて、こんな張りがあるとその肉体の呼吸が歌に聞こえてくるということが目的です。

一つに捉えて一つに出していくということです。広いところでボールを投げながら声を出したりするのに近い感じです。

 

まだまだいろんな課題があると思います。どうしても同じに聞こえてしまいます。何かそこで起こす、あるいは変わったことをやるためにどうするかというのは表現の第一歩です。

それを形でやるのではなくて、ゆっくりしゃべるとか、どこかにメリハリを思いきりつけてしまうとか、声で伝える存在感をもっていく。

 

 

文章がつまらなければつまらないほど、その人が見えてきます。文章と一緒につまらなくなってしまうということは表現できでいないわけです。

よいところを読んでいるときに、それがいきいき聞こえてくるのはあたりまえです。どんな人が読んでもそうなります。

 

だから今やっているのはモノトークと同じです。こういうことを表現したいというときに、何か違うことを出せるというのが表現、あるいはオリジナリティです。

それを意図してつくらないことです。つくらないで掘り下げることです。これがとても難しいと思います。

 

ことばの世界でも、「いきている」ということに対して、「今生きていくということ。」と「今」をつけているということは、これは何かものすごい意味があると思うのです。

こういうことを感じないのに表現は成り立ちません。音声の世界ではどう組み立てていくのでしょう。

1行、2行と深めていくかというような世界をやっていくわけですことばだけでは難しいから、もう少し音がついているものを2本ぐらいできるところで実習していきましょう。ダウンダウンの音楽的なネタです。

 

 

続いてイザベル・アジャーニの「カミーユ・クローデル」から「ロダン! 」の叫び。

 

「メケメケエメケスクセ それがどうしたのさ メケメケメクスクセ こいのおわりさ」

 

このぐらいの人数でやるとわかりやすいでしょう。音楽的な表現というより、まず息が入っているか、ことばとしてそれが浮いてきたか、「メケメケ」と入れるか、入れないか。そういうところから音声がはじめられるか、はじめられないかでわかります。このまま歌いこなしたらしかたないのです。

 

同じフレーズをやっていて、その上で音の世界というのが出ているかなのです。すでに音の世界でやっている人もいます。リズムと音の感覚だけでやると働きかけるでしょう。

ただ、本当のことでいうと、その感覚と息、ことばのところで息吹というのか、その両方が見えればよいのに、大体どちらかのタイプにわかれてしまうのです。本当にうまい人はそれを両方入れているわけです。

 

ふくらましが出てくるし、その上で音の世界でゆらしていく。何もないところでゆらしてしまうと、通用しなくなります。

だからから飛びだす、楽を飛び出すためにどうすればよいのかということです。

 

 

この2曲の歌い方でも大分違うわけです。なるべく息吹を、そこで聞こえるようにいれてやることです。そういう感覚は必要だと思うのですどこかで決めるところがあって、出すところがあって、引くところがあります。

 

比較的これはうまく歌っていると思うのですが、2番の入り方はかなりセンスの悪い入り方です。そういうところでかけあいをしていけばよいと思うのです。

ことばと音とを自分のなかで動かしていきます。これも相当動かしています。たとえば一番目の最初の入り方はうまいです。嫌でも認めないといけないものは認めていきましょう。

 

 

私がギターを始めたときの教本は「荒城の月」からでした。

この曲をみんながいかにおもしろくできるかというところをやってみましょう。

このまま歌ってもしかたがないので、アレンジメントしてみます。このグループサウンズくささを抜くために、どうすればよいのかというふうに考えてください。

 

今風に蘇らせればよいです。ジョルジアならどう歌うかと考えれば、こうは歌わないでしょう。

頭をうった日本人らしい歌い方になっていますが、そこにシンコペーションをかけてみたり、遅らせてみたり、フレーズで息継ぎの箇所を変えてみたりするだけで相当変わるはずです。感覚を思いっきりはずしてください。

 

狙いとしては映画も、漫才もそれでみているのではなくて、そこから浮き出てくるものが表現だということを知ることです。

歌も、ことばからことばではなく浮き出てくるものがある。楽譜ではなく浮き出てくる部分は均等になってなっているようなものではないわけです。

 

違うリズムつけたから、違うフレーズをつけたら出てくるのではありません。ものすごいスピードもメリハリも緊張感もイメージに必要です。そういう中でつかんでバンと出してこないといけません。

感覚でつけていくやり方はいろいろとありますが、もっと単純にいうのなら、たとえばこれを何回も聞いてみてください。

 

 

「かわいそうなくじら」とついていたら、何かそういうところのものをとっていけばよいのです。

歌い変えは得意ではないかもしれませんが、楽譜で歌っていたら、いつまでもたっても楽譜で歌うことしかできなくなってしまいます。正確に歌わないといけないのですが、それを「いつかときのながれに」となったときに、たとえば「なが-れに」とこのように一つ強く入れるのでもフレーズは違ってくるわけです。

 

「ながれーに」でも違うでしょう。どこかにそれを一つ入れていくことからやりましょう。そしてそこの部分というのは浮いて立体的になれば、成功です。何か違うことをやっても、見えてしまうとよ

くないのです。音としてつなぐ。

 

この歌の流れをコードでとってみましょう。「いつかときのながれに」ここをどのぐらいのスピードでやるかというのは、一つのポイントです。

「おしながされて」これをできたらフレーズにしてやった方がよいねけです。そうしたら「うみに」とこっち側で入れます。

 

 

よこの長さではなくて、たての長さをどうやってつくっていくかということをみていかないといけません。

「らーあーあーあー」というのも発声みたいにやらないで、次に落とすわけです。結局、大きくつけられるところというのは決まってくるわけです。

 

自分で全部やってみればよいわけです。自分で次のフレーズを、いちいち全部歌わなくてすむように、勢いをどこかでつけるのです。どこかのところで大きくつかんで大きくその流れのある分には、はなしたり、こういう遊びが許されるわけです。

 

最初に出さないといけないのは、フレーズの流れです。バンドが盛り上げていたり、ギターでなっているところというのは、人が聞いていたら、音に働きかけられて、それで惹きつけられる要素の大きいところなわけです。そうでないといらないわけです。

 

バンドともやるまえに、アカペラで考え、そういうところでどう強調するのかというのをセンスとして磨くことです。ただ、これは答えはなくて、どうしてもスタイルになりますから、こうやりなさいということではないのです。

 

 

「くじら」のあの「ら」から「あ」に変化させてください。そこを一つ決めます。「いまでは」のときには、息がないぐらい落とせるようにしておくその高さを高くしておいてください。

それから「ながれに」もどこか変えられるのなら、変える。「おしなが」と「されて」は、時間の感覚が違うのです。早くいかないといけないところと、ゆっくりいくところがあり、ゆっくりいくところでも、もたついてはいけないのです。

 

その分、体を使って息を吐いて、声量をあげていかないと、聞いている人は退屈するわけです。体が続く分しか、もたせられないなら、きついのです。

それができるのならそこに体プラス気を使う。そのために日頃、息とか、声の鍛錬をやるわけです。そういう形で自分でアレンジをしてみてください。

こういう歌からどのぐらい離れてよりよい作品にできるかということをやらないと意味がないのです。

 

作品で見たら、動かしているのはあたりまえだから、聞いていて何か違うのか、よくわからないのですが、こういうところで近づいてやってみたら、自分がどこを握っていて、どこを動かせるかわかるでしょう。握らないと動かせない。

 

 

たとえばピアニストになれないというのは音を動かせないからで、いくら練習しても、間違えないように練習していたら、音が動いてこないからです。

その音をどこかでつかまえて、どこでやればよいのかがわからない。それを誰かが動かしたらブロだとわかるのです。そこに人間の力を超えたものがおりる人がプロのピアニストなわけです。

 

誰でもものすごく練習しています。中学生、高校生でも、コンクールで優勝するような子たちは、練習をしています。

そのなかでそれを越えて12歳ぐらいでも、ゆらせるものを出せるような人もいるような世界もある。

 

ヴォーカリストの場合は、音だけではないから難しいのですが、ただ音で捉えた方がわかりやすいとは思います。「くじら」の「らー」をどういう感覚でいうか。他の要素もたくさん入ってくるのですが、本当はそこで勝負すべきです。

 

 

内容が何であろうが、伝わるということを超えてやらないといけません。解釈できたからとか、ストーリーが読み込めたから歌えたとか、いうことがヴォーカリストというレベルのものではないとは思うのです。

こういうものを聞いたときに、それを数に仕上げる人がヴォーカリストです。

 

練習のプロセスにおいては、結局今やったことの5割増し、あるいは2倍、3倍のことを完全にコントロールしていって、頭から最後まで出していくことでしょう。

だから体力とか、集中力とか、あとは自分に対しての自制心というのかが必要です。できているか、できていないかの基準みたいなものを、しっかりともっていかないと難しいのです。

 

それがわかってくると、100回に1回ぐらいうまくいく感覚がつかめる。1曲全部がそうなるのは難しいのですが、1ヶ所でも2ヶ所でもよいから、それではずれた、はずれていないというようなことをみてください。

その上で声がうまく扱えないとか、歌がわからない人は人のを聞いたみたときに何が違うのかを知っていきましょう。何であの人だけが目立ってしまうのか。顔とスタイルとか一切関係なく、後ろの方にいようが、前の方にいようが、声やその動かし方といった何か表現のなかで目立つ人がいます。それが耳障りでも、まずは個性でしょう。

 

 

自分の体のオリジナルなところにもってこないといけません。そうすると人間の体の声とか、息とか、そういったものに根ざしている部分なら、マイクでは拡張して効果をもたらすし、そうではないのはノイズになっていきます。思いきりやっても雑なつくり方をしていると成り立ちません。

 

たとえば今のことばを10回やってみなさいといって、10回同じことをできる人は、いないと思うのです。そうしたらそれが10回できるということが、正しいということなのです。正しく技術を習得しているし、正しく体が働いているから、そういうことができるわけです。

 

バッターボックスに立ったときに、当たったとか当たっていないではなくて、とにかくそこにきたら10回確実にミートできる点を、一つもたないといけないということです。

どちらに打ちわけるかとか考えるのはその次です。

 

 

それをあまりせこまか歌とか、楽譜とか、日本の狭い弱い音声の現力の世界でやるより、一流のものを聞いてそれを体にのりかえていく方が楽でしょう。

「くじら」だけでもよいです。自分で声が一番出しやすいものを、こういうふうに練習してください。本当に2年同じことをやって、自分の練習のときに正しく歌うことよりもつかむことを重視しましょう。

 

材料のなかでも、そういうのも勉強できるかどうかです。音の感覚は日本人に本当にわからないから、常に音の感覚が動いているという部分を自分で工夫してみつけていってください。

今日みたいなものをメニューに組み替えてみてください。干も2千もメニューをもってピアノをがちゃがちゃとやってそれを楽しむという入り方からきていないわけです。

 

ここを出てから人前で歌うようになったら、そんなところは勉強できません。今のうちにばかみたいなところの、何か音の感覚とか、空き缶をけっとばしてその音をまねてみるとか、単純なことですが、そういうことを感じていけばよいと思います。楽譜と音を聞いただけだと、限界があるからです。

 

 

 

 

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【特別2 361106】

 

流れをつくっていきます。これで一つの物語です。

難しいのは、たとえば、4つで完結するとして、4番目にやるときに、本当は、それまでの3つの流れをくんで、間や音の高さ、色合いも決まってくればよいわけです。その3つが、てんでバラバラだったら、4番目はとても難しくなってきます。

しかし、この空間が働いてくると、これは歌い手も同じことなのですが、そこに音がはまってきたり、そこにことばがはまってくるだけです。それをどう動かすのかということです。

 

自分が決めつけた表現を出していくということから、それをその場で自由に操ることの感覚がセリフのなかでも必要となってきます。

歌になってしまうと、いろいろな要素がついているので、なかなか取り出しにくいものです。

歌も舞台も同じなのです。

それが、バンドとやる、あるいは、MCとやる、客との掛け合いでやるというだけのことであって、すべて、この流れが必要なのです。

 

スポーツで考えればわかります。自分のプレーとして、自分の役割を果たすことが必要です。ワンマンになってはいけないし、流れのなかに位置づけられなければいけない、流れのなかで流れてもいけない。

すると、人の動きにも感覚を研ぎ澄まさないといけません。

他の人のものも全部聞いていなければいけないし、自分のものも出さなければいけません。

 

 

読みながらではできないでしょう。だからといって、強く出せばいい、弱く出せばいいという話でもありません。そういう流れのなかで調和していたら4つで1つのシーンが産まれてくるでしょう。

そのシーンを現出させることが大切であって、ことばの間違いなどはどうでもよいことです。

 

そのときに、その風景が出ていで、そのリアリティがそこに表現できているかということです。そのリアリティが出されていると、それをもってきて、自分でつけ加えればよいのですからとても簡単なのですが、出されていないと、自分で出していかないといけませんから、難しいです。

そういうことも考えながらやってみてください。最初が肝心です。

 

自分のことは、わかりにいので、他の人のものを観ていればわかると思います。

たとえば「これをやるのだったら、誰を起用しようかな」と思ったときのキャラクターは、必ずしも、見栄えがよく優秀で声がよいということではないはずです。

当然、役割にふさわしいという人もいますが、むしろ、その人の個性が強烈だったら、その人の個性に合わせてことばを変えてみたり、役割やつくりを変えてみたりするでしょう。

 

 

そこの役者の要素と歌の要素というのは若干違ってきます。そこに音がついてきて、それを巻き込んでいくのです。そうすると、役者ではなく、音楽が入っていないといけません。ある意味、歌の勘どころを押さえて聞き、それを出すような練習をしていくのです。

 

こういうものはベースだと思います。歌の場合の見本や基準というものは、体が同じでないと取りにくいでしょうが、役者の場合というのは、一流の舞台を観ていると、そのことばそのものでしたら、少なくとも声のことをやっているなら、皆さんでも雪えるわけです。

 

声量や、発声など皆さんもがんばっていますが、表現力から入ったほうがよいと思います。わかったらそれを突き詰めることです。出せる、出せないが偶然ではいけません。そこが難しいのです。100%出せないと芸になりません。

 

 

最後のところをやってみましょう。

 

みんなだれでも かたくかたく あいしあおうと

いつのひかは はなればなれに わかれるもの

あいはかなしい さりとて あいは すてられない

さあ あなたに しあわせとやらを さしあげようか

 

テンポはもう少し早めてもよいと思います。最後もインテンポのなかでやっても構いません。コードをベースだけ押さえてみて、つくり替えてもらって構いません。

これをまねると違う方向に行きかねません。

自分で、これを歌い上げるくらいに考えてみてください。昔のセンスにまかせます。

伝わる、伝わらないの差がわかりやすいと思います。

 

先ほどの延長になりますが、どちらかというとリズムや響かし方という意味での音楽のセンスよりは、ことばからきた音楽ですから、これがすべての音楽的な条件とまではいいませんが、低音部、中間においては、7割くらいの条件がことばの延長上にあると思います。

 

 

そのことばをしっかりと握っているかということ、声を握っているが、それを最後まで離していないかということが第一です。体にしっかりとくっつけている、そこから離していないこと、これを最後までしっかりともっていないと何も伝わりません。

通していて初めて盛り込めるのです。盛り込んでいるものが伝わるのです。ことばそのものや、音程そのものが伝わるわけではありません。

 

それから、音がありますので、上に揺さぶってみたり、伸ばしてみたりという波がつくれます。それは、普通の言語でもできますが、音楽になればなるほど、そのバイブレーションがいろいろな形でかかってくるわけです。

たとえば、高音あたりになるとビブラートがかかり、半音くらいの上下がでてきます。そういうことによって人の心を揺さぶる力が強くなるわけです。息も当然入ります。

 

本当にやっておいて欲しいことは、ことばの読みとともに、こういう中での「あんたにしあわせとやらをさしあげようか」でどう終始をつけるのか、ここで終始がついていないと、他のところを読んでもしかたがありません。

そうしたら、「さぁ」のとこからつかんでおくのです。「さしあげようか」のところで一瞬でも離してはいけません。完全にくっつけた上で離すのはいいのですが、こういうところは決める部分ですから、離してしまうと、それで終わってしまうと思います。

 

 

その前の文章も比較的よいのですが、練習の方法だけ伝えて、先にいきます。

モチベートがかからない人は、歌詞でも読んで少しつくってみてください。日本語でなくても、止めてもらえばよいという話です。ここが音楽のよいところです。条件があります。

 

「あなたの こえで」これが厳しいのです。本当に音楽を止めなくてはいけません。

「くるしみがほうわして~」は、自然な流れの感じが現われること、この前提を読んでいけばわかると思います。

「全身の毛穴からも悲しみ、苦しみが噴き出したようなものが感じられること。心ぐちゃぐちゃ、表情ぐちゃぐちゃ、全身構え」そして、、、ということだと思います。

 

後は、先ほどもいった通り、自分との接点をしっかりと探してください。あえていうと、これは演技です。演技だと思ってください。

ただ、リアリティを出せばよいわけです。こうやって苦悶したらどう叫ぶでしょうか。一番難しいことは、このときに顔の表情、体の状態をつくることだと思います。役者と同じで、歌い手もベースとして、それが必要とされます。

 

それが必要とされない音楽もありますから、一概にはいえませんが、全身から声をつかんだり、そういうものを磨いているときには、そこのトレーニングをやっておくべきだと思います。

その上で、きれいな音楽をきれいに歌うことがあってもよいと思います。

 

これだけが、表現ではありません。ある意味で、限られてきます。しかし、限ったところで自分の接点をもつということでは、自分があって、接点があってこそのものです。そこで芸が宿るか、宿らないかということです。乗り移るとは、そういうことです。

 

 

美輪明宏さんがピアフをやるというのは、

美輪明宏さん男⇔ピアフ女、

時代も違う→国も違う。ただ、そこで表現されたものが何らかの意味で認められて、あるいは、日本人のなかでも、これがピアフとわかる。姿ではないわけです。歌でもない。そうしたら表現の部分での核心を彼が取りだしているわけです。

もちろん美輪流で、他の人とやったものとは、違います。彼であって彼ではないという部分をもってこなければいけない。それを高めなければいけません。これが、表現です。

何回か練習しましょう。

 

何語でも構いません。音の高さも変えて構いません。

本当は、音楽的に処理したいです。これは、ことばですが、歌なのです。

 

ピアフの場合は、ただ話しているだけでも歌になっている部分というものがあって、ピアフにとっては、これはことばなのです。「電話帳を読んでも敵になる」といわれたことばと声のフレーズ。遅れても構いませんので、ピアフに影響されないでください。ここで間が開いてもよいです。そうしないと急ぎすぎて入ってしまいます。この入り方は日本人では、難しいと思います。

 

 

期待していることは、絶叫や大声ということではなく、音楽を止めることです。音楽は一応流しますが、それに合わせようと考えないでください。ダイミングがはずれても構いません。

 

スポーツの練習のようなものですが、先ほどの最後のフレーズをつくるということと、今やったことは同じことです。結局、歌い手の3分というのは、ボクサーの3分と同じで、1秒間にどのくらいの感覚で動けるかということが音で入ってくるということです。かといって、128ビートとかが出てくるわけではなく、せいぜい、16ビートか32ビートくらいしかありません。

 

こういうものになってくると、時間の感覚と、その状態からつかまえることです。誰でもいうことはできます。そこのところで、全部を音として表現にまとめられる、出せるということです。しかも、音のなかに処理できるということは、音楽を考えていたら間に合いませんから、すでに音楽が宿っていて出したものが音楽になっていないといけません。ここで止まらないと、次の部分も歌えません。表現の可能性を自分で限定しないことです。

 

 

どんなに、出し尽くしても、出し尽くせないということをいっていますが、美輪さんのステージも、最初は客席から飛び込んできて、喧嘩から始まります。そのままでもインパクトがあって、それをやり続けることでまわりを巻き込んでいくしかないわけです。まわりが理解できる程度のものであれば、理解されてそれで終わりなのです。

 

何が起こるかわからないくらい巻き込んでいくことが必要であって、そのうちりが「あいつがやっているから、やらしてやろう」「あそこまでやっているのだから」と納得してきます。そして、そのうち引き込まれていくのです。どういう舞台でも育つには時間がかかります。何十年もかかる場合もあります。舞台によっては、わからない部分もあります。

 

わかる人だけが、最初わかっていきますが、これは、本質的なものを観ているわけです。本質を宿らせるということが、できるかできないかは、わかりませんが、ただ、誰でも1人でやってきたということは、ありませんので、そこまでのプロセスを辿れば、近づけるでしょう。出力していると、見えても毎日のなかで相当いろいろなものを吸収してきているのがわかるのです。

 

 

どうせ吸収するのであったら、いろいろな本や映像もありますが、たくさん吸収できるものを選べばよいわけです。自分と違えば違う程、いろいろなものが勉強できると思います。それを、認めていくとよいです。表現できている、歴史に残っている伝統になっている、その国の人たちが皆、賞賛しているとすれば、何かがあるわけです。

 

自分がそれ以上のことができたときに、それを認める認めないは、別の話です。できた人というのは、そういうものを自分の体に置き換える。学ぶということは最初わからないことが、より、わかってくるということだけだと思います。

 

 

皆さんが今日読んだこと、前半に1つ、後半にも3つくらいしか課題はありませんでしたが、吸収の仕方、ステージのなかで殻を破るということが、なかなかできないのです。ポップスですから、日常のままでできて、ギター弾いて歌えばよいという考えもありますが、それだったらそれで、認められないとか、やっていけないとかいわないことです。

 

それ以上のことをやっていきたいということであるならば、パワーアッブされた状態が必要です。たとえば、人が1つ上ったような状態の感覚を得て、そのなかで音楽や歌を捉えて出すという練習を積むことです。

 

スポーツの場合は、体をいじめることによって、そういう状態になりますが、歌の場合は、のどを壊してしまったりと、素直に成果がわかりません。耳で聞きなさいといっても、最初はどうしてもわからないでしょう。そうしたら、表現力をもって聞くしかないのです。

 

 

歌のうまい、へたでは、うまい人はいくらでもいるわけです。しかし、時代、環境、伝える必要性、伝える相手がいるという、いろいろな状況から歌は成り立つのです。

それが、しっかりと結ばれたときにステージができるのです。

 

技術を磨いていくというのは、別の問題です。メディアですから。逆をいってしまえば、技術などなくても、聞く相手がいればステージというのはできるのです。そのときに、どのくらいの責任を感じるかです。

 

うまくならなくともよいという人もいますが、同じことを時間をかけてやるのであれば、うまい方が人を幸せにできるわけです。うまくなるべきだと思います。価値がなければ、迷惑以外の何ものでもないのです。やる以上は、途中でよいというものがあってよいものだとは思いません。プロセスの使い方によって、いろいろな効果があるとしたら、そういうところでも頭をつかう。たとえば、人を呼んでみて、3曲のみ聞かせる、ということも愛情です。

 

 

15曲も聞かせることだけが、やさしさではありません。1曲で切り上げることが、やさしさである場合もあるわけです。自分のなかでステージをセッティングしていく。

そうしたら、今できないことができる可能性もあります。その価値判断をやっていってください。

今日試してもらったことは、あくまで、一つの問いであって、勉強の仕方としてやってみたものです。

 

 

 

 

 

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【フレーズ 37608】

 

「タクシーに手をあげて ジョージの店までと」

どのレベルで判断するかというのはとても難しいですね。

リズムというのはフレーズで変えて構わないのですが、音程の乱れは困ります。音程に合わせようとしたら歌えないのですが、このぐらいは、カラオケで歌いなれていたら乱れない部分です。

 

 

「さよならした人に 会いたくなるなんて」

初心者は、課題をこなすことよりもしっかりと表現を出せる人が、何が違うのかから勉強してください。

 

「I LOVE YOU TONIGHT」

「男と女には OH OH OH」

「恋はわたしの恋は  そらを」

「空をそめて  もえたよ」

 

はじめて参加した人はとりあえず楽しんでください。こんなにばっととるのは大変だなあとか、みんな体を使っているのだなとか、声が出ている人もいるなとか。それは最初ですから構いません。

問題はもう少しやっている人たちからです。オリジナルのフレーズだから体も使うし、息も使うのはよいのですが、歌にしないとよくないです。歌というのは、もっと前に出てこないとよくないです。

 

どこでも人が集まると、一つの集団の山となります。本当は皆さんが内側からこわさないといけないのですが、私がなんやかんや横からつついているのですが、結局、そのなかでやっていることというのは出てこないのです。聞いていて働きかけがないのです。

 

 

これを歌っている人たちは、日本人であろうが外国人であろうが何かを出しているわけです。出たところから実際の問題に入ります。出てみたにしては体が使えていないとか、フレーズがもっていないとか、音楽性がないのではないかということになるのです。それは出てきたらそのことで問えるのですが、出てこない分には問えません。

 

それから日本人のを聞いて、そのままいくらコピーしてみても、みんながコピーすればコピーするほど表現から離れます。

日本人というのは、自分の体がそれぞれ全部バラバラのままで歌っていると思えばよいのです。だからそのバラバラである表面をまねてやろうとしても、これは嘘が丸見えになります。

私は外国人のなかのレベルの判断もある程度できるつもりですが、日本人の場合は、とても簡単です。「まねているな、それだけだな」というのは、表には出てこないからです。

 

だから一見きれいに聞こえたり、うまく聞こえたりするものほど伝わりません。まねるのが勉強というレベルで入っている場合はそれでよいのですが、こんなのをまねたらよくなくなってしまいます。

レベルが低いのではなく、まねるところが違うということです。大体それっぽくなってしまうというのは本当のところをまねられてないわけです。

 

 

敬というのは、ことばを声に出し音をつけるのではなく、歌を伝えるわけです。だから山のなかにこもってそのなかでいくら回転させてみてもうまくいきません。これをこう出したときに何が相手の方に伝わるかを絞り込んでみることです。それを人のいる場で人の前でやるのです。

結局、このフレーズをいったときに、そのフレーズを聞かせてもしかたないわけです。そのフレーズをやったことによって何が相手にぶつかっていくかということです。

よい歌というのは終わったあとに心にじーんとくるし、間奏のところでもその歌が聞こえるし、そういうものでしょう。

 

文章でも、いくら文章を一所懸命書いていてもよくないのです。文章というのは何かというと伝えるべきもので、それを読んだあとに伝わった大きさでみるわけです。伝わるというのは相手がいますから、相手によっていろんな見方はあります。そこで基準がわからないから、1回、スタンダードに入るのです。

外国人でいうと基本的なことはスタンダードな意味での一流のヴォーカリストだったら、これをどう歌い上げるかというのを考えてみればよいわけです。エンゲルベルト・フンパーディンクだったら、ミルパなら、ピアフならどうするというのが、わかりますか。

 

でも、それをまねてはよくないのです。そこから、伝える要素という本質を取り出してくるのです。そうしたらそのなかで共通のものが出てくるはずです。それは絶対にことばを追ってみたり、フレーズをもってみたり、歌詞をなめることではありません。歌を声と音を使って伝えるわけです。それが飛んでこない限りよくないのです。

 

 

全然、飛んできていないということではないです。いろんなものが飛んできていますが、守りに入ってしまい、全部引いてしまっています。声量を出せとか体をもっと思いきり使えということではないのです。そんなことをしたら余計に飛ばなくなります。

もっと感情移入しろということでもありません。歌のなかで埋まってしまったら歌は一致しません。

だからいつもいっている立体感とか生命感とかが必要です。前に出るということはそんなに難しいことではなくとても単純です。

 

皆さんより歌うレベルが低い人、もっと声が出ない人、もっと音域のせまい人でもやれている人もいます。それをある種のセンスという場合もあります。そこに特化していかないと体を使う問題、声の問題というのは、確かにトレーニングになるのですが、歌になっていかない。さらに音楽性の部分があって、それと自分との一致するギリギリの線というのは本当に一つぐらいでしょう。自分という線に対して音楽という線を前に戻さない限り、よくないです。

 

これをずっと取り込んで自分の方にもってきたり、音楽の方に逃がしてもこれは伝わらないのです。それを短くしていくしかありません。長さからとって均等にしてしまうと本当に表現が埋もれてしまいます。それは体力がないとか息がないということだけではありません。これは音楽性と自分がまだ用意されていない人はここからやっていかないといけません。

少なくともそれなりに長くいる人たちはそのことがわかってきています。うまくいくのとうまくいかないのがあるのはよいです。ただ、オリジナルフレーズというのはいくつもあるので、それを一つ歌えたらよいということではないのです。

 

 

「夜があけたら一番早い汽車に乗るから」

こういう歌もみんな前に出ています。それなりの音楽性と自分があったところで出しています。昨日「アンジェリータ」の構成をやりましたが、フレーズを処理するときには、たくさんのことを一致させないといけませんから、頭で考えているとバラバラになります。

頭だけでやるから失敗してしまうのです。体でやらないといけないのです。体は最初はわからないし、使えないから、頭で考えないといけないということで難しいのです。

 

「アンジェリータ」

歌にするときに、どういう状況が必要だったのかがもってこれたら、組立をこの時間内でやれるはずです。

たとえば100回歌ったり1000回歌ったら、何か感情が宿ってきて歌になるということは確かにあります。しかし、逆にいうと何回歌ってみてもそこにクリエィティブな感覚を自分のなかで宿して、とり出さないと、自分の体を落ちつけてその状態にもっていけないとよくないです。

 

状況というのは自分のなかのイマジネーションです。これは恐怖感を与えるとか、歌えといわれて歌えるものではないです。結局、この世界に入るということです。

ここに入れるというのは一つの才能です。しかし、入っただけではよくないです。出してくるというより、出てくる。そしてそこにいるんだということはなげていくのです。その両方を握らないとうまくいきません。

 

 

「んー 夜があけたら一番早い汽車に乗るから」

音楽性というのは、たとえば「んー」というところの入り方でも象徴されています。この入り方で入る人はいないと思います。同じようにあげていって歌い出してみましょう。こういう歌を聞いてしまうと入っていた方が歌っぽく聞こえると思ってやる人が多いのですが、それはまねにしかならないわけです。

 

この人がここにいてこのオケをやったときに、皆さんは理解できないかもしれません。理解できないのに認めざるをえない世界ができているわけです。それは何かというと声の力もありますが、声以前の部分で違います。その人の生まれながらのセンスとかではなくて、音楽の受けるものと自分の出し方が合わせられるのです。自分がそこで埋まらないで伝えられる。そうすると自分がやっていることは全部正解となるのです。

 

頭を使うのは部分的にでなく、頭を使うといったら全部で使っていくのです。体も脳の一つで脳も体です。それがわかればよいです。どう呼吸にのせようとか、どう体にのせるということに頭を使うのはよいのですが、頭から自分でこういう2通りがあるとか、そのことばをどういうふうにわけようとかいうことに、体がついていかないのです。

 

 

作品として取り出すにはもっと練習をするでしょう。ただ、そのパターンをいくつも出してみて、そのあとで自分でフィードバックしてこれがよいと選んでいくわけです。1回やってみてすぐに成り立つというのは、結局自分のなかに音楽性が入っているかどうかということです。

 

もっと簡単なこというと、この1つを400も500もやっていることです。そのなかでどれから選んできたという経験をしっかりと積んできているからできるのです。それが2年もいて、いつもはじめてここでやるというのではこれは数にならないです。いつもオリジナルの声とオリジナルのフレーズの勉強をしなさ

い。

 

歌い手の場合はオリジナルの声よりは、オリジナルのフレーズです。声には日本人では限界があるから、ここはオリジナルな声をとり出すことに専念しています。オリジナルのフレーズというのは誰でももっているわけです。それがより人としての体にくいこんでいくようにすることです。

 

 

もっと簡単にいうと呼吸にのるかのらないかです。呼吸にのっていたら少々ゆらいでいても、まだ自分でことばがいえなくても間違いにはならないです。

呼吸というのは正しいのです。呼吸が正しいということよりも、その力でフレーズができて伝わります。それがとまったところであまり余分につくると、逆に難しくなります。表現上、不利になるということです。

 

裏声で歌ったり細い声で歌うと、そのときには半音ぐらいずれても何となく不快になってしまうでしょう。それは本当の技術でないからで、そちらの方を勉強するには5年、10年たってもできない人にはできないと思っています。

 

息のなかに音が半音ぐらい違っても気づかせないようにして歌っているのであれば、凡人でも息を吐くというのはあるレベルまでは強くなります。

そのときによって音楽のつかみ方が変わってこないとよくないのです。そのフィードバックをこういう場というのは、自分のパターンでいくら考えてみでもいくつものパターンも考えられないのです。

 

 

それを本当に考えていかないといけません。それは曲によって違ってきます。メロディ、訴えたいことによっても違ってきます。その日の気分によっても変わってくるから面白いのです。

 

自分よりへたな人からはいろんなパターンがみえるでしょう。そこからまた読みとるようなやり方がよいでしょう。その人のものが出てくるのが、一番難しいです。

 

逆にいうと声量とか声域とか発声が正しいとか、音感がよいとかというところで差をつけられないレベルになってくると、ある意味おしきってきます。

だからこういうドラマティックなものから入っていく方がよいわけですあまり細かく情緒的に入れていくようなものを先にやっていくと、どうしても体がついていきません。順番ということで、両方必要です。

 

 

「別れのそのわけははなしたくない なぜかさみしいだけ」

一つのフレーズというのは、もう3つぐらい先のフレーズのところまで入れないとよくないです。できるだけ長く練習した方がよいのです。それがわからないときはまだ体が動かない、息も声ももたないのです。そうしたらこのなかでどれが一番表現できるか。

 

全部を30・30・30ととるのでなく、20・50・40として50のところだけでもできるだけ一致するようにやっていくことです。

 

プロの歌というのは完成度をもっているわけです。その完成度をそっくりとまねるのは早いです。ただ、音楽の感覚とかそういったところでは、ある程度フレーズは入れておかないといけないし、それを選ぶということは自分が勝負できるフレーズ、完成度が高いフレーズとして出すということです。

 

 

「さみしいだけ」まで歌ってしまうとよくなくなるわけです。自分で自分を厳しく判断していかないとわからないでしょう。はじめて参加する人はそういう世界があると思えばよいのです。ことばを歌ったり歌を歌ったり音楽をやっているのではなく、後ろにいてそれを動かしている世界をみることです。

 

その距離をとらないと歌というのは動けないのです。少なくともこういうのに出てくる人たちは声量とか音楽性で勝負しているのではありません。

 

技術的によくないのは「い」です。「はなし」「ない」。これが入らないと、そういうところで発音を変えてしまうとできません。

 

 

「あの夏の光と影はどこへいってしまったの」

男性がこういう情感を出そうとしていくら歌ってみても女性にかなうわけないです。そこをどう訴えていくか。そこでその人の世界があるかないかわかるのです。

 

女性の歌詞だからよくないとか、歌の場合女性になりきって歌わないといけないということではないのです。そのかわり自分のスタイルを出さないといけません。

 

 

「せつなくなるだけ Hold me tight 大阪ベイブルース 俺のこと好きか あんた聞くけど」

オリジナルフレーズは月に1回ぐらいはやればよいと思います。1/10が発声、1/10が音程、リズム、音楽の基本にしかすぎないのです。

そして8/10は本当にこのことを徹底して煮詰め、それで課題が永遠にあるわけです。それを忘れないでください。

 

何も歌がうまくなれるとか、ステージができるようにということより1フレーズでよいから、オリジナルの声を使って、1つのフレーズを完全に1つ出すことから全てが始まります。

それで前に1歩、出られるわけです。その1歩出るのができないと、一生、出られないわけです。1歩出られたらプロではないのですがスタートできます。だから1フレーズを完成させることです。

 

ここで半オクターブ歌えたら1オクターブ半の歌まで数えるといっています。ただ、安定度とか調子の悪いときとかどうしようもないとき、あるいは何曲もやるときに、やはり1オクターブないときついので、オリジナルの声からやっています。

 

 

「ハイ」なら「ハイ」を100回でもよいけれど、その条件が2年たってしっかりとあるかないかが肝心です。だからまた2年やればよいわけです。全然できなくとも、また2年でそれをきちんと身につけていけばよいのです。

 

そういう基準を自分のなかで厳しくしないといけません。それとはなしたところにいろいろつくっていってしまうから型がないのです。

基本が身につかないのは、そのためです。ここでやる基本に限らず、どこでも基本というのはあります。それは共通します。

 

私はこれらの音楽というのは、その時代に聞いていて感じなかったのですが、むこうのを聞いていたからだと思うのです。今聞くとうまいと聞こえてくるというのは、ここのおかげです。

日本人のなかで声がなくても息がなくても歌えるところは歌えるわけです。ステージということを勉強すると、このことがわかります。どこで出ていくにしろ、自分の一番強いところをもたないと難しいです。

 

 

残念なのは2年のなかで、あるいはそれまでのなかで本当にその人の正解みたいなものが出ているのに、それを歌の世界に結びつける努力をせずに、いつまでも入れない人がいることです。

ここにくる人の3割近く、1フレーズぐらいなら4割近い人たちが出せるのに、結局それを3分間もたせられません。

 

たとえば一つのフレーズがうまくいったとしたら、この完成度をもう3割ぐらい高めて3分完全に出そうとしたときに、どこにも出てこなくなってしまう。そのままお客さんの前に立ってしまうと勘違いしでしまうわけです。

 

だから客の前に立つまえに、その勘違いをとることです。プロにはプロの基準というのがあって、自分のなかでは10個間違えても客が絶賛するという、その基準のレベルが違わないといけないわけです。

その基準を早く勉強していけばよいと思います。それは声が出るとか音程がとれるとかそんなレベルのことではなくて、そんなものがどうでもよくなるぐらいの何かが出ているということです。

 

 

常に前に出さないといけないとは回っています。そうでなければ1、2曲はうまく聞こえてもうまいだけで終ってしまいます。うまい人というのはカラオケでいくらでもいるわけです。

うまいだけでは何にも伝えられないのです。そのへんを考えながらやっていくと歌になると思います。歌は肉体労働で全身運動だということです。そこを感じて、重い楽器を使えるようにしてください。

 

今日のも一つの勉強の仕方です。やろうと思ったらいつでもやれると思うのです。単に量をこなすのではなく質的に高めてください。まだまだやってないところがたくさんあると思うのです。

自分でもいろんなメニューが浮かぶと思います。あとはやるかやらないかです。つきつめていけるか、練習の質を高めていけるかということです。