ステージ実習コメント 1114
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【新入ステージ 36126】
【ライブ実習④ 3769】
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【新入ステージ 36126】
そんなに悪くはないです。聞いてショックを受けているでしょうけれど、それで眠れなくなる必要も、今まで何をやっていたのだろうと考える必要もないです。その時その時期の狙いがあって、今は大きくつくる時期なので今のこれをうまくまとめようと考える必要はないです。むしろこれをもっと彼らないといけないので、破れないからまとまらないと思ってください。それで破れないまま多くの人は2年ぐらいすぎるのです。だからそこまでがその人の器だと思ってください。
ここにへんに音楽的なことを入れようとか、ていねいにやろうと考えるとよいところもなくなってしまうでしょう。このへんは、何かを習うときに気をつけないといけないことです。どんなに吸収しても、出そうとしなければ何も出てこないというのを知っておくことです。いじられてないようなかたち、ここでは歌い方を教えていないのですから、もっとも根源的なものから、かたちとして取り出す中に、何かがあります。それをうまく取り出すための気づきを得ることが、ここの役割と思ってください。
発声に関しても皆、似ていますね。それを純粋にもっとしっかりととり出そうとすると、体力も技術も、イメージももっともっと必要です。しかし、全部よくないといって何か新しいものを教えたり、手短かにつくったりするものではありません。自分をたどっていくしかないのです。
今、出せたものというのは、大事にもっていなくとも、放り投げても残るものは残ります。今のレベルであまり大事にどこがよいとか、考えていてもしかたがないことです。アカペラで歌って、少しでも表現が感じられたり、歌になっているという判断ができれば相当なものです。
レパートリー曲は音城もひろく今の歌よりはずっと難しいものです。今は、リズムと勢いである程度もっていけるし、そのリズムも自分でつくらなくても、単に声を足にあわせていたら、何となくもってしまうのです。
アカペラでやったときには、歌詞が聞き取りづらいとか、それから間が狂っていくと致命的になります。純粋に歌の世界をはずして、声の世界あるいは声もはずして体とか息の世界に戻っていく時期です。今の状態にどうやってより勢いをつけるか、パワーにしていくか、もっとひきつけるかというかたちで考えてください。
ボリュームを上げると、まわりの人が耳を塞がないといけないぐらいになると、思ってください。やりすぎて雑になるのを恐れるよりも、適当な基準をもつことをやめることです。それにあわせてまとめようとしたところから本当の歌ではなくなってきます。息とか体とか使う方向であれば、なおさらです。
これを1週間ぐらいできれいに直すことはできますが、それではカラオケにすぎません。
カラオケをうまくなりたいとか、今のタレントのヴォーカリストみたいにもっと踊らないといけないとかであれば、声を使い分けていくような目的があるわけです。そうでなければ下手にいじらない方がよいのです。今1曲聞いてみたなかでどこかよかったところをみつけ、特にある程度パワフルに表現できたということでよかったということで考えていきましょう。
きれいにまとまったとか、ひびいたとか、ことばがしっかりといえたとか、そんなところではなく、もっと根本的なところで伝わる表現力を獲得していくということを課題にしてください。
アカペラが難しいのは、結局スタートからエンディングまで自分の呼吸で全部やらないといけないからです。曲のタイトルをいってからはまったく無の空間です。何もないところに自分が出ていって、そこからなにがはじまるかもわからないところからつくっていかなければいけません。誰もべースを引っ張ってくれる人もいません。伴奏やバンドがつけば別ですが先に頼ってはいけません。
役者さんの世界とか合唱団、ゴスペルみたいになると必ず指揮者がいてスタートぐらいはつくってくれるし、エンディングもつくってくれます。歌の場合は自分の呼吸で入っていかないといけません。そのなかで盛り上げもつくっていかないといけないし、1曲終わったときに終わったということがわかってそれでぎりぎりに出せて3分間です。どんな大歌手でも1曲30分の歌は歌わないわけです。
そうしたら一番よいところだけ凝縮して3分間みせないといけないということですから、大変な世界なのです。役者さんのセリフは、そこの箇所だけしっかりといっておけば、自分が引っ張らなくても、その役割を果たせば全体の流れというのは出てきます。共同作業でできる分、一人の負担は少なくなります。歌を提示する世界をつくるということの方が一人の力が絶対的に問われます。アカペラやピアノの伴奏1本でやるときというのは、その人のもつ要素が全てにおいて問われてきます。
だからといって数のなかの世界を、たとえば歌の世界があってそのなかのものをしっかりとおいていく、しっかりときれいに並べていくということなら簡単なのですが、これではカラオケの世界です。まず、一つの世界を自分で出さなくてはいけません。表現力を獲得するということはそういう意味です。メッセージをメディアにということです。
ここでなぜ、歌を歌うのかを問うているのでしょう。音楽が好きだからよいといっても誰でも好きでしょう。何であなたが歌うのかということです。結局伝えたいものがないといけないわけです。
それからメディアの選択です。自分のものを伝えるためにどうすればよいのかです。もしかすると歌う必要もないかもしれません。話した方が伝わるのであれば、話すことでよいわけです。
であれば歌のメディア、それから役者さんみたいなセリフのメディア、音楽をメディアとして使うにも、その音楽のなかでピアノをつける、足らないからベースをつける、さらにドラムをつける。その意味は何なのかということを自分で考えないと、よくないです。バンドは皆そうだから自分もつけるとかいうのでは、自分がどういう世界をつくればよいかわからなくなります。そこで声も声をどう使うかもわかるわけないのです。それは既成のものがあってそれにのっかるわけです。
数を提示する世界をつくる方が歌をつくるよりは難しいでしょう。歌を提示する世界をつくるということは、歌のなかで細かいところで音程が狂っていたとか、リズムがおかしいとか、そんなことを直したり、もう少し感情を込めてやったら歌がよくなると、いうように、単に歌の世界のなかのことではないのです。
歌を提示する世界がすでに与えられている人、あるいはそれを誰かがかわってやってくれる場合は別です。プロデューサーがいたり、あなたはアイドルだからここに立っていわれたとおり音程、リズムを合わせればよいというような場合はよいのですが、そうではない場合は歌を提示する世界のところで声も息も体も使わないといけません。だからトレーニングが必要です。
その人のキャラクターも、すべてが価値にならなくてはいけないのです。要は自分自身を商品価値にして出せないといけません。舞台ですから本当は音だけで聞いていたらよいのですが、ビジュアル面で効果的に補うことも必要です。映像でアップでみて自分でチェックすることまで徹底しましょう。声が足らない分、歌になっていない分は、表情やあるいは身ぶりでカバーします。ただあくまでカバーであって、そのために声が乱れたり、歌の世界がそこなわれるのであれば、本末転倒です。
どちらを重視するかということを自分で決めていくことです。天才的に踊れるのであればその力に少々の声の力があればもつでしょう。どこで価値を出してもよいわけです。全部トータルにして、自分の世界をどういう方向性でもっていくかを考えることです。
歌の世界には全部ありますからそれがわからないと困ります。踊ること、話すこと、ルックスやキャラクターファッション、そのよいところを全部もってきても何もできでこないなら、時間をかけて、一つのことからやっていくしかありません。絶対自分が勝負できる1つの武器というのは何なのかを知り、磨くことです。音感なら音感だけでもよいリズムならリズムだけでも勝負できます。
ただ、人と同じリズム感や音感ではしかたがありません。個性的だといわれるぐらいにそれを煮つめていかないといけません。他の要素も人並みでは到底、通用しません。プロのレベルを満たしていないといけないのです。
たとえば、アカペラでやると、ほとんどの人がテンポ感、パルスがくずれてきます。メトロノームのように正確に、パルスを打った上でリズムは働きます。自分で変えてもよいのですが、元のフレーズに入ったら戻らないとおかしいわけです。テンポ感、つまり自分のなかに1分間が60なら60を刻むものが入っていないといけないわけです。それをリズムは、何番目を強く繰り返し打つかということで拍やグルーブをつくるのです。音感も同じです。根本的なものを踏まえ、その上にそれをどうずらしていくのか、展開していくのかが、その人の力です。
あまり細かいことはいわないのは、その世界のなかでいくらやっていて、技術的にきれいな声が出せて、歌としてけちがつけられなくなっても、それでヴォーカリストになれるのではないということです。その世界を提示することを考えないヴォーカリストはいないからです。メッセージのない人は表現する必要がないから、いつまでも表現できないのです。それには、技術よりその人のアーティストとしての部分が問われるからです。あの人は歌がへだだけどうまくなるまで聞いてやろうという方向にもっていくか、歌はうまいけれど、もうみたくないなという方向になるのかは、はっきりしてしまうのです。
他の楽器だと技術としてうまければよいし、人間として嫌いであろうが、問われません。ヴォーカリストでも天性の声とそれをいかす技術が本当にあればそうなります。あの人の顔はいやだけど声だけはすごいから聞こうかという場合もあり、そういうヴオーカリストもいます。ルックスと一致するというのは、別に映画俳優になるわけではないから、その世界を声なり音楽でつくっていけばよいです。
今はそういうものを吸収する器を大きくつくることと、そこで出せるものをしっかりと磨いていくことです。まず、問われるのは一つひとつのことからどれだけ吸収できるかということです。そのときにせこまか細かく吸収するより、大きく吸収していくことです。
どんなに内面的にいろんな世界が充実しても、人は出した世界に対してしか価値は認めません。あがったり、緊張しても、あたりまえのことです。どんな舞台よりも、ここの舞台が一番こわいわけです。
日本では、お客さんはみんな好意的にみてくれますが、ここは少なくともヴォーカリストをやっている人や声に関心をもち、トレーニングに日々励んでいる人しかいないはずです。このなかの人さえ感動させられず、外で歌えているなどというのは甘えでしょう。これだけの近距離で何も助けてもらうものがなくやり続けること、そこで最低限のことができるようになることが番の自信になるでしょう。
2年で20回くらいしかできないステージを全てしっかりとふんでいくことです。人がみにいこうとするのは、まずは一所懸命やっているのがみえるかどうかです。パワーとエネルギーの部分です。その人がどんなにがんばって、ふりつけをしても、その歌とか声のなかにやってきたことがみえるかどうかでしょう。
ただし、今、一所懸命やって、パワーをいれているときはまともな作品になりません。一ヵ月くらいで歌にするということ自体が無理なことなので、歌の美しさとか、音程やリズムをチェックしているのではなく、表現力を知ることです。
表現力も、へたでもうまくてもどうでもよいから、とにかく印象に残ることから始まります。歌っているときによいとか、悪いではなく、終わったときにその人の声とか顔が思い浮かぶかどうかでしょう。それがないと次にお客さんはきません。カラオケみたいに満足して本人がうまいなと思われるように歌っても、誰も次には「きたくない」と帰りに思ってしまうのです。
活動は、続けること、そしてリピートする力が大切です。それにはインパクトが必要なのです。ヘたでもよいから、どうなるかみててやりたいとかあいつの歌はいつも最後まで歌えないからどこで狂うかみたいとか何でもよいわけです。それを相手にもたせられる人と、もたせられない人との差です。その器を大きくしていくことです。
今日のがひどかったと思ったら、直そうとするのでなく、もっとひどくするためにどうすればよいのかと考えてください。ひどくできなくなるから皆、歌えなくなるのです。きれいにしようと思ったら声も出せない、体も思いきり使えない自分の出せるものが、表情も大きく変えるわけにはいかなくなるわけです。そのなかでどんどん小さくなってしまって、OLさんが余興で歌っているみたいになると、誰が聞きますか。その人の表現の価値が全然なくなるわけです。
そうならないためにトレーニングするのです。
今は一曲ずつというより、1フレーズ、1フレーズのなかで一つひとつを勝ち続けないといけないのです。曲を勝つというのはとても難しいから、とりあえずそのなかの何カ所かだけでもよいから、何か発揮できた、発揮した感覚がわかったということを積み重ねていくことです。
そのために-番確実なのは、最初から技術やしゃれっけでやるというのは無理ですから、そこで息が使えたが、体が使えたか、汗をかけるぐらいに一つ入り込めたかどうかを問うのです。歌い手が入り込めないところに、お客さんに感情移入しろというのはそれは無理な話です。そういう方向をくずして欲しくはないものです。
今の時点でいうと歌という評価はしなければよいと思います。歌の評価というのは、余程しっかりと耳ができていないときは、大体、減点法でいきます。あらがない方がよい歌だという基準で、エコーをかけて、バンドを入れたときに何となくまとまっているようにして一丁上がりです。それはインスタントなもの、ピアノでいうと耳心地のよいだけのBGMみたいなものです。
何の価値もあとで出てこないでしょうあとでできてくることを優先しましょう。声に関しても、今、使いやすい声ではなくて、使いにくいかもしれないがそこでがんばっていたらあとで使えるようになる、大きく、これまでの価値を超えていくものを求めましょう。そうでなければ、みんな以上のことをやっている人たちはどこにもいるし、10年、20年でも歌をやっている人たちもたくさんいます。2年間ぐらいで何ができるでしょう。仮にできたとしたらまったく個性がないもので通じないということです。
根本的に逆に考えてください。皆が考えるように考えてきた人たちは、たいしたこともできていないし、あたりまえのことぐらいしかできていないわけです。そうしたらそう考えてはいけないということです。
どうしても日本人は、あの人の歌はうまいから、ああいうふうに歌おうと考えます。そこから間違ってしまうのです。皆そう考えてまねしてやってきています。
ロックもジャズやシャンソンも本場の歌い手みたいに歌いたいと思って本場のを聞くけれど日本で勉強している間に日本人の先輩のを聞いて、甘くなっていきます。結局その先輩も越せないで終わってしまうのです。原点というのはそうではなかったはずなのです。体や感覚が違うのに同じことをしても、同じレベルにはなれません。まず。声と仕手同じレベルをめざすことです。
だからそこを間違えてはいけないのです。皆、少しずつうまくなるのですが、少しずつうまくなってもしかたがないのです。皆がそうなってしまうのなら、その方を全然みないでとことん下手になるという方向に進んでいった方が何か出てくる可能性があるわけです。中心にいてまねるより、まったく違うところから一つの世界をつくることですといってもなかなか判断がつきにくいでしょう。
ひどかったらよいということではないのですが、とにかく自分は何でそのジャンルを選んだのか、そこにある曲の何に惹かれたのかを煮詰めることです。課題は歌ではなく、そこのなかから自分のオリジナリティとか原点にあるものを突き詰めることです。そういうものが元々あると思わなくてもよいのですが、厳しくみつめていくことです。発見してやがて一つの世界らしきものになっていくように、そのために必要なものを少しずつでも身につけていくことです。
何もないところに宇宙ができ、やがて地球ができてくるように、自分自身の世界を少しずつ大きくしていく期間を充分にとってください。一生かかって、自分をかけて歌うのです。早くできることを急ぐと間違えます。最初の最も肝心なところでミスをしてしまいます。それは基本をものにできないということで致命的なことです。
とにかく舞台に切れて、何かここでインパクトのあることを一つ、芸人としての価値を出せるように試みられる下地をつくって欲しいのです。それがあとにあなたの世界、宇宙となっていきます。
敵のまとめ方というのは、期待していません。体が一体化していく意志で宇宙の合を感じたいのですが、それが一番難しいことです。うまく歌えている人でも、体がついていない人は伸びません。そこをわかってください。頭で考えることには、まちがい。一人よがり、うぬぼれがありますが、体は正直です。
心は扱い馴れないと自分自身を偽ることもあります。声が取り出されていく体の理の部分に誤りはありません。誤るのは、自分の心や頭が取り扱い方を間違うからです。ブレスヴォイストレーニングは、そこで体に焦点をあてているわけです。神の人体のプログラムの設計を信じるのです。
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【ライブ実習④ 3769】
その人の思い込みやくせが音楽性を邪魔しているものに関してはその人に好きなようにやるようにしかいいようがないです。それが価値とか個性というなら、当人も一生気づかないで終わるでしょう。だから音楽がよくないというようなことをいっても意味がないわけです。
こういう世界は1つ与えられたときに3つにしてかえしていかないと残っていけないのです。全てに関してそうだと思います。普通の仕事でも3つ与えられて1つしかできなかったらこれは失格で、3つやってあたりまえです。その1つに対して3つやる心掛けがその人を伸ばします。
ただ、それが雰囲気的にここ全体が3つ与えて1つとればよいみたいな対応では、自分で自分の可能性を否定してしまうわけです。アーティックなものを本当にめざすのであれば、自分の枠のなかでのがんばりだけでは、限りがあるのです。声に関しても自分のなかでいくら一所懸命やっていても声というのはできていかないものです。まして音楽はもっとそうなのです。
いろいろなものを歌っているのはよいのですが学べていない。
「マイルスを聴け」という本が出ています。その著者はどのぐらいの耳をもって聞いているかはともかく、ことばとしても、そこまで分厚く書けるだけのものをもって聞いているのは、最低限の勉強です。何も本を書けということではないのですが、そのなかにその人のノウハウが入っているわけです。
1枚のCDでも、たった1曲でもよいのです。そこのところで基本を勉強すれば大半は手に入るわけです。しかし、その基本の勉強がなかなか難しいのです。自分の枠のなかでやってしまうと、自分が出るけれども音楽性が出ない。自分のくせの上に音楽性を自分のなかで思い込んで間違っている。それを出していくところの力はある意味で限界がみえるのです。
それがぴったりと出て作品になったというのは私からみたらここまではOKというところで、あとは荒れていくだけ、何もなくなっていく。それはとてもつまらないわけです。完成してしまうというよりも、それで限界が見えて終わりです。その完成品が一流だったらよいのですが、そうでなければ意味がありません。
可能性をみているということでいうと、一所懸命にやっているのはわかりますが、そろそろ自分の枠内でやることを一旦白紙にいや、毎回白紙に戻さないといけないわけです。そのことがわからないと自分で何をどう歌っていてよいということになります。歌というのは自分がよいところまで歌えればよいわけです。それでは、こことはいいませんが私を必要ともしないし、また私もそれに割く時間もないということです。
2年まではお約束だから、その可能性というのはみえなくとも、何か変わるかもしれないとみています。ただ、それを当人が決めて形にといったときには、それでもうステージをやるしかないのではないでしょう。両立しないとは私は思わないのです。基本の上にステージをやっていたら出てくるものは、狂いません。ただ、プロの人、しかも一流の人たちというのは、たえずバットを振っています。たえず基本をやっています。
少なくとも日本以外のヴオーカリストであれば、そのことに対してしっかりと基本をやっています。もちろんやらないところでやれてしまっていることもあります。ジョギングをしたりあるいはエアロビクスをしたりするところのなかにそれが入っていることさえあります。結局、やれている人はやれているということなのです。
そこを見分けていかないと、1曲とか2曲とかたまにぴったりあった曲でしか、展開していかないのです。前半、退屈したのはただ、歌っているだけだからです。その人が歌っているだけでは何にも残らない。
聞いている人に対してどういうつもりで立っているのでしょうか。その人が歌うことが楽しくて、それがステージだという状況にしていくのであれば、それはそれでよい。誰がどうこういう必要もない。
ただ、ここでは基本にこだわって徹底的に伝わる1フレーズの完成をめざしている。たった1フレーズでよいから、それを何とか3分つなげろといっている。3分つなげるというのができるようならすごいことなのです。
白紙に戻すということをしっかりとふんでいくことと、その1つのものから常に3つ与えていかないと世界は広げていかないわけです。何となく吸収ぐせというのかがんばり癖がついているのに、それが自分のなかで空回りしていくパターンになっている気がします。
進歩したということをどうみるのかというのはとても難しいのですが、伸びている人は着実に伸びています。声もめちゃめちゃだったとしても、結局、最終的に音声で聞きます。
オリジナルの声であろうがなかろうが、オリジナルのフレーズがもっと出てくればそこにまた声が宿って、それが変わってくるでしょう。それが半年単位にでも少しずつ変わってきている分には、これは別に2年という期限はないのです。4年でも8年でも待ちます。
1年半ぐらいまではここのレッスンは多くの人が一所懸命でます。そういうときというのはそんなに間違わないです。不思議なものでまわりの人が全部間違っていても、何か1つの基準というのが入っていたら、それは正しく出てくるもので、案外と間違わないのです。だからレッスンに出るべきなのです。
レッスンに出ないのであればこの1回のが全てです。ここで結果をみるのはあたりまえです。レッスンにどんなに出ていても、結果が悪ければよくないです。ただ、それは可能性をつないでいます。
④クラスの役割は、ある程度終わっていると思いました。ただ、そのなか①とか②でやり直した方がよい人、あるいは③クラスのところでやっていた方がよい人もいます。④というのは何をもって④がわからないのですが、その可能性は、はなしてあげないといけないという感じです。
具体的にどうする、こうするというのは決めていません。
私の一存で決められることではないのです。何名かはその可能性というのを追求していけばよいと思うし、あとはステージ活動に入るなり、自分の好きなようにやっていけばよいのではないかと思います。
皆さんのステージや今日の歌がどうこうというのではなく、あと半年やって、人それぞれの考え方も、歌への価値観もあるから、ここを利用できる人は利用していけばよいということです。今は、以前に会報に書いたようにベテランは去れとか、長くいるなということはまったくありません。ベテランとは入所して2~3ヵ月でもその気分になっている人をさします。ただ、可能性を追求する場において、それを限定するようなことをやることは本人にとってよくないということです。
まわりにとっては、声が出る人がいるとか、3、4年いて声がなくてもフレーズの大きさとか、何か学んだもので通用するという人が実績として、1人でも多い分には、ここにとってはありがたいことです。
でも考えてみたら、それは過去のもので、私がみていても面白くも何ともないのです。
この歌い方なら1年前の方がよほどよかったとなると、それをみているのはつらいのです。
みているとどうも1年から1年半が一番よくなっている、ならば、2年、3年と続けていることが勉強しているということでは全然ないのです。
エネルギーというのは、1年とか1年半でひいてしまうようなそれだけのものだったということです。2年目、3年目、4年目と勉強が厳しくならないとよくないです。本当は2年制を4年制とか6年制にといっていたのですが、2年で使いきれないものを4年たって使いきれるわけがないでしょう。2年で使いきったら、まだ課題がどんどん出てきます。
基本のことばかりやると表現とか歌というのは少しはなれるのですが、それは意としてここで全て出しきることです。表現の部分で、声を使ってどういうふうにやるか。それに関してはアーティストの集まる場といっているとおり、ここでなくてもできることでしょう。ここでは、それを全部きってしまって表現とは何だろう、自分で何が一番好きなのかと、常に白紙になれることなのです。
ここの歌い方はこうやる、自分のステージはこうやると考えなくても正されるようにすることです。本質がはずれているものというのは自己流です。自己流はいけるところまでしかいけないし、限界があるのです。声の限界も、ステージの限界も出てくる。歌のなかで伝わるものも限界が出てくる。ある程度できても、どこかでそのくせがその人の可能性を限定してしまう。
それをオリジナルだと思って、それを表現だと思ってしまうと、全部がそれに引き寄せられる。最初はそれもよいのです。まったく素人には、1つのパターンでもあるということは、それ出もっていける。ただ、それが体とか呼吸を邪魔してしまうときに変わろうとしなくてはいけません。
リズムを考えればわかりますよね。サンバを歌っているからといって、サンバにもいろんなパターンがあります。1つのバターンしかやっていなければ、他のものがきたときに、応用がきかない。リズムの場合はそれしかやらない人はそれでよいけど、歌の場合はそうはいかないわけです。まったく同じ内容同じようなメロディで歌う歌ばかりが続くわけではない。それでも1曲がしっかりと本当に育てば、そこからわかってくると思うのです。
ことばでいったり、録音でかけてみても、1年半くらいの人にとっては勉強になるのですが、3年目の人にとってみたら退屈なだけでしょう。それが退屈に思えてしまうというのは、うなずいているからです。自分でできていないことだとしたら、それは焼くなっているのです。
評価は私の主観というよりも、ここの場というのは私という鏡に映し出した状態で見えるのです。運営にもくせがついてくだらないことでごたごたとやられると音楽のことをやる以外の要素がいろいろ入ってきます。そういう状態ではよいレッスンもできません。
今入ってきている人たちも選ばれて入ってきている人たちです。
合宿というのは、よい意味では連帯感がつきますが、悪い意味でいうとその連帯感が全部裏がえってしまいます。それをよい意味で引っ張れるような自信が必要です。
結局、どうしてもやりたい人だけその必要性でやってもらえばよいという、もともとの原点の場にしていこうと思います。どこかで方向を転換していかないと、ここも何か“学校”らしくなって、世の中も変わっていったとはいえ、うんざりすることばかり出てくることになるのです。
そういう意味でかなりしぼりこんでいくと思います。そういう意味で底上げをしていましたが、自分の体力とか残された時間のこと、あとは役割を考えたときに、やはり最小限で最大の効果をあげる方向にいかないといけません。
全部のレッスンに出るというのは、前向きで好ましいことだからです。
私は月に1回でも会報1つでも、価値がある人たち(私にとっては充分にあると思っています。)とやっていくのです。皆さんが長くここでやってくれて、ここを支えてくれたので体制的にもレッスンの内容面も充実してきました。
そういう意味で先にお話しておくということです。最近、入ってきた人の価値観はずい分違ってきているような感じがしますが、それはそれで踏まえて対応するつもりです。
今までみたいに、皆さんに刺激を与えるために怒ってみたり、はっぱをかけてみたりするのと違う次元の問題です。ここの問題です。私も中途半端に投げ出すということはしませんが、この状態というのはよくないです。
皆さんの今日の作品そのものについては、また別の評価として問題があります。大体、いいたいことはいいました。私がレッスン以外のことでやるのは、行き詰まっている状況でのギリギリの選択です。
この世界に関しては私はやりたいことをやっていくし、やりたいことがあとでできるため今いろんな伏線をはっています。こに関しては限られた時間、必要とする人に対して必要な部分を最大限、出し惜しむつもりはありません。すべて出しきっていくというのは、自分の生きざまです。
出しきることができなくなったときにはやめないといけない、そんなことで動いていくと思います。