一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

イベント EI塾ほか 32912字 1119

イベント 1119

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【合宿 学び方入門】

【Ei塾「山頭火について」「場」3764】

【「野村監督論」】

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【合宿 学び方入門】

 

おとといまで合宿に軽井沢に行ってきました。入ったばかりの人から5、6年目の人までいます。

最大のメリットは、毎年、出ると定点観測というのか、同じ状況のなかにおいて、どのくらい違っているのかが見えることです。

合宿にくる人は、比較的出席率も高く熱心な人です。

その50人をみれば全体の、よくやっているレベルが知ることができるわけです。

発表のVTRをみて、それを検証します。

今回参加されなかった人も、同じところにいたら、どのくらい対応できていたのかというのを測ってください。

 

ここのところの著しい変化といのは、ここに入ってきた人ということではなくて、世代や年齢でしょうか、歌をやろうとしている人たちにみられる傾向なのでしょうか、肝心の音が聞けてないことです。

フレーズコピーをするのに時間がかかります。何かしら自分の思い込みと決めつけでやってしまうのです。それはヴオーカルにとって必要なことなのですが、あくまで耳が開いていて、そこに音が入っていることが前提です。

あてずっぽうにやっては外れるのです。まわりに合せても、まわりも外れていますから、ずれていくのです。

でも自分で気づけないのは問題です。たとえば半音近くフラットしています。先生から指摘されて直していくという方法もありますが、まず聞いていないのです。聞いているつもりでいて、聞いていないのです。

 

だから、前提となることを勉強していなくてはいけません。まず目と耳を開くことからです。自分がどこに置かれていて、そこの空間に何が聞こえてきて、それに対してどう反応していかなくてはいけないか。合宿もそういう傾向があると思うのですが、特にここのところ、入ってきている人たちを見ていると、目をつぶって耳をふさいでグランドを駆け回っているような感じがします。それは大変だろうし、自分で何かやった気にはなるでしょうけど、あまり意味がないのです。

 

 

目がキョロキョロしてみたり、目を閉じてみたり落ち着きがありません。結局、最初のとりくみのスタンスというところにいっていないのです。入門から①クラスなら、まだよいです。それは練習を軌道に乗せるための期間ですから。

しかし、もしかしたら2年後、3年後経ってからも、練習は、始まっていないのかもしれません。

私の経験でもそう思います。だからこそ、そこは気づかせたいと思います。

 

実際、2年経ってどこまでできたということはわかりませんが、ただ少なくとも自分がやれたことを検証していく必要があります。ここまではやれていた、ここまではやれてないということを知ってやれないことを課題として、そのためにやれていることを練習とするわけです。

そこの区分けが必要だと思います。

歌というのは自分がやれているなら、何をやってもやれるのです。カラオケも、高校生でも小学生でも歌の練習はできます。だからこそ、どの次元で練習しているかが問われるのです。

 

ここにきて、時間を費やしてやるということは、そこの基準を明らかにしなくてはいけないのですが、そういうことにあまり関心がないようでは困ります。

自分がやりたいようにやって声がでればよいというのもよいのですが、作品としては、その人が大天才ですごいことを出せていない限り、成り立ちません。変わっていきません。

 

 

学ぶスタンスとして、そういうことがわからない人は、そういうスタンスをきちんと見極めることを勉強して欲しいと思います。それはまわりからも勉強できるし、合宿の反省会でも勉強できます。4年、5年やっている人たちが、どうみて判断するかにも学べます。

どちらかというと新しい人は、勉強してきたと思います。誰でも3日間は大変だったと思います。でも作品の出来は全然違います。そこのなかでの自分の位置づけは何だったのかということを確認しておくのです。

 

だいたいこういうものを見るとテレビを見てもそうですが、自分でもできるなという気になるですが、できるなと思うことと、できていることというのはかなりの差があるわけです。その差をつめていくためにトレーニングというのはあるのですからその基準をもって欲しいのです。

その基準が厳しければ、誰だって練習できるのです。その基準が厳しくなっていくことが、練習の唯一の目的です。

だから、まず基準を知ること、その基準を厳しくしていくことが練習であって、練習しているつもりで力でがんばっていると、おかしくなっていくのです。

 

それは最終的にどこに行くかということをみていこうとしないからです。最初のヴオイストレーニングのレクチャーのときにもいいましたが、必要なのは、プロの感覚とプロの体です。それはここでやったではなく、それなりの活動ができている人ならば、みんなその感覚をもっています。

 

 

たとえば一つのフレーズ、何かの課題を与えたときに、すぐ対応できてこそ、一人前です。

みんなが3日間かかるところを、3時間くらいでも、たかだか5曲や6曲くらい、すぐに覚えて歌えてしまいます。それだけの経験と感覚が入っているのですから、覚える部分が少なくてすむのです。だから時間を創造にまわせます。多くの人は、その経験と感覚を補っていかなければいけません。

 

鍛えられるところは、楽器の部分です。体はやった分だけついてきます。持久力をつけていくという部分でも、やったら、ついていきます。まずは、そこの部分に目的を置いてレッスンを受けていきましょう。

 

音の世界がものすごく雑に扱われています。それは1つのものをきちんと入れてくるということを、あまりやっていないからです。今は恵まれていますから、手間をかけません。

昔は、ラジオの深夜放送で歌詞を書き留めていました。そういう経験をしろ、ということではありません。

音楽はそういう中で読み取れないよりは読み取れた方がよいということではありません。読み取れたからって別にすごいわけではありません。歌詞を買ってくればよいのです。しかし、その歌詞をどう歌にもっていくかといったときに、その経験がきちんと耳のなかに、そういうものを届かせてきて、そこから歌い上げてきたということが必要なのです。

 

 

今回の合宿ではミュージカルからとりましたが、踊りは抜き、全部、音の世界のなかでつくっていくことをやりました。そういうものを見て、自分だったらそこで何ができていたのかを知らなければいけません。そして、実際に何かできている人たちというのは、何があるのかを見てみてください。

 

ポップスのなかの基準というものはとてもあいまいにみえて、とりにくいものです。しかし、その人がどういうレベルで勉強の仕方をしているのか、というのは、一声、1フレーズですぐにわかります。1つのステージを組ませなくともわかります。

 

たとえばエビータのなかで3曲与えて、カンツォーネシャンソン、フォークなどから4曲を選んで、それで、その劇を音楽的につくりなさいといったわけです。脚本家や役者でないから、できないというのでなく、真にミュージシャンだったらできるわけです。それが仕事だからです。

単に数をつなぎ合わせて歌うというのではなく、歌というのはもともとそういう心の動きを音に取り出したものです。何か1つのテーマに関して、歌われます。

恋愛の歌が多いのは、人間の喜怒哀楽全部そういうものが象徴されて象徴化しやすいからです。そういうところで音を捉えていかないと、声は音楽もどんどん雑になります。

 

耳で聞かないうちに声にしてしまったり、自分の頭だけで考えてつくっていく、そういうものがいかに作品にならないかということで見てください。

皆さんの場合はまだ、ステージ実習しかありませんが、もう少し経つとピアニストがつきます。ピアニストが弾きやすいように歌えますか。

当然ピアニストも音の世界を持っているわけです。その音をどうやって作品にしていくかというのとピアニストは持っているわけですから、それに対してヴォーカルがそれに値する以上のものをもっていないと、ピアニストの方は自分で一人で弾くしかなくなるわけです。そういう中での音のつかみ方をいろんなものから勉強してもらえばよいと思います。

 

 

大事なことは楽器のところでの「ハイ」です。量をこなす時期も大切ですが、それをできるだけ早く自分なりにフィードバックしていけるようにして下さい。

 

今日は基本的なことをやります。ピアノの音の後に「ハイ」といってみましょう。それをどうみても変だと思うようにはやらないことです。狂ったようにとか、鬼のようにやるというのは、そういうはみだした部分はよいのですが、誰が見てもおかしいと思うものはおかしいのです。はっきりいって入門科や1では大半がそうです。それを直そうと正常の感覚にしようとしていますが、正常の感覚というのは普通に考えると、発声練習でも、みんなが一番いきいきとして輝いた装情で出せてないでしょう。

 

日本の発声練習はどれも、おかしいのです。とても醜い表情、ガチガチの体が動かない状態ばかりでしょう。何ごとでも習い始めはそうですから、それがよくないということではありません。

歌の場合はそういう基準がはっきりとしていないから、難しいのです。ただ、ステージでも、物をパッと投げられて、よけられるくらいの反射神経がなければ数の世界も動かせないわけです。

 

その逆のトレーニングをやっている人が多いのです。それはトレーニングに逃げているわけです。トレーニングがなければ歌がなりたたないわけでなく、歌をよりよくするためにトレーニングは必要なのです。

スポーツや、他のものは外側から見ればわかりやすいです。ところがこの世界は勘でやっていくことが多く、本人にはとてもわかりにくいものです。我々はその人の体の動きを見て、それが正しいかどうがわかります。その人のなかに呼吸とリズムが入っていないと、体は対応できません。

 

 

今、やらなければいけないことというのは、音に集中することによって柔軟になることです。敵になることによって固くなっていたら、まったく逆です。

 

 

まず、1つの音に対して「ハイ」と出してみます。私のレッスンはコーラスではないのでまわりに合わせる必要はありません。まわりに合わせると間違えると考えて下さい。「ハイ」をピアノに合わせて上、下します。「ハイ」「ハイ」「ハイ」「ハイ、ラ、ラー」と、このスピードのなかでついていけなくなったり、のどの調子がおかしくなってしまうのならば、体力がないし、集中力の問題です。それと発声の問題を分けることです。

 

今の皆さんがチェックできるのは、高いところが出ないというところくらいでしょう。でも単に高いところが出るからといっても、正しく出しているものとは違うし、低いところでも正しくありません。どこの音域で歌うのかというのは、あとあと決まってくることで、高いところの音が出せたからといっても何の価値もないわけです。そこでコントロールできずに、そこで表現できないのであれば、同じです。

今は音響の技術も発達していますから、そういうものも、頭にいれて、誰かが支えてくれるという立場であるならば別ですが、でも結局、それではいつまでも差がつけられません。

 

皆さんに見て欲しいのは、日本人、あるいは外国人のなかで声がどう扱われているか、ということをきちんと知っていくのと共に自分がどうなのかということを知っていくことです。

課題というのは、いつも単純です。今は発声の練習のなかでこのことを2倍のスピードでやったり、これを30分くらいやると、ほとんどの人が声をおかしくしてしまいます。

 

 

ということは最初から練習できていないか、どこかから対応できていないのです。

要は無意識に体が動くところまで入れておかない限り、どこかのところで乱れてくると、そこに疲れがきます。力でできる範囲というのは決まってきます。10メートルレースなら力で、もっていく泳ぎ方でやれたかもしれませんが、次に100メートルならそんなやり方をしていたらバテでしまいます。最小の力で最大の力を出せるフォームが必要です。

 

ヴォイストレーニングのなかで発声から気づいていく、というやり方が1つです。それと共に音楽を入れていくことです。演奏していくのであれば、やはり演奏に合せて、どこまでのことができるかということを見ていってください。自分の声やフレーズが音楽からどう離れているかを知っていくことです。

 

あなた方が仮にここまで歌えないとしても、歌える人と同じ基準をもつことです。その基準さえあればあとは年月の問題なのです。ステージ実習とかし愁は基準の勉強をするために設けているのです。オーディションでも同じです。

 

私の見方で、見られているのではなく、ある程度、耳のこえた人なら、相談せずに評しても、同じことになるのです。そういうことは長くいるとわかると思います。

ここが厳しいのは、その人のルックスとか踊りが踊れる人とか、キャラクターの総合評価を点数にしていないからです。日本では一般的にルックスや踊りが、音声よりも優先します。ある劇団は音声と踊は踊りとを分けているにもかかわらず、トップレベルもあの程度です。

 

 

どういうふうに歌えばよいのかといえば、合宿でも誰がということではなくその時々で誰かが何か出しています。1曲もたせるということはどういうことなのかということです。個性やオリジナリティとは、まねとかクセとかで歌ってはいけないといわれています。しかし、歌うということは一体どういうことか、ということをまず知っていかなくてはいけないのです。その上で、では自分はどうするのかというところをきちんとみていくことです。

 

ふるさとキャラバンは、素人の劇団発声の勢いでやっていますが、私は、ある劇団よりも心地よくみれます。ただ、日本のお客さんは、音楽つきのサーカスで喜んでいます。

ふるさとキャラバンは一所懸命やっている集団の熱意が伝わるのです。

どちらも音や言葉の世界でミュージカルがやられているわけではないのです。

 

音楽の世界で歌が歌われているということは一体どういうことなのかというのは、他の楽器の世界をみれば簡単にわかることです。伴奏に対してペットやドラムがソロをやるところを聞いてください。そこのなかでその人の感覚が作品として最大限に表現されているはずです。

 

 

大切なことはイメージしてそういうものをきちんとつくり上げていかなければ、いつまで経っても声もできてこないし、歌もできてこないということです。

いくら歌の練習をしても、いくら発声練習をしてもよくないのです。それを10年も20年もやってからくる人もいるのです。だから自分の基準をつけていくことです。

 

それを思い込みとか、一人よがりになっていかないために場できちんと訂正するのです。その場の訂正というのは、誰かがいって直すのではありません。

「私にとってこれは1番気持ちよく解放されて出る声なのです」と示したときに、場が動くのか、それとも揚にはねかえされるのか、ということです。

 

それはおもしろいものです。頭だけで考えている人はすべからくはねかえされます。頭だけでどんなにやっていても、体とか心がついていかないものというものは誰もが不快に感じます。そういう方向づけを我々がやりますが、まず当人が感じないところに何かが宿ってくるということはないです。

 

 

2年、経ってみて、「ハイ」を1つだけ回って、それでまわりの人を驚かせられる人というのは年間ここには、どこよりも多くいるでしょう。3年後にその扱いが確実になってくる人たちが歌に近づいていくのです。

半オクターブや「つめたい」ということばになってくるとますます厳しくなります。トレーニングの仕方を間違えるとそういうことができてこないということです。

 

「ハイ」だけの練習を毎日1時間から2時間やっていたら、たぶん2年経ったら離でも「ハイ」のことはいえるようになります。でもほとんどの人がそういう練習をしないから、10年経っても20年経っても声も変わらないし、音の世界もできてこないのです。それは基本の部分に問題があるからです。

 

今、皆さんにやって欲しいことは、とにかく自分のなかでの感覚をつかまえながら音と声のマップをつくっていくことです。それは自分よりのすぐれた人から学べることでしか、わかりません。ちょっとすぐれた人というのとも、そこの裏ではずいぶんと遊があるのです。みているだけではそこまですぐにいけると思っても、歩いてみると相当あるわけです。そしてその下に何があるかわからないのです。

 

ところが自分よりも下手な人とか、自分と同じような人というのは見えるわけです。あの人はこう考えたからこうやったんだと感覚が読み込めます。それは思い方、考え方の間違いなのか、それともそこの感覚のところから間違っているのか、それともその感覚とか、考え方はよかったのに、そこで息がついていかなかったり、音が高すぎたり、あるいは大きすぎたがために、はみ出してしまったとか、そういうことがわかり、自分で正せるのです。その基準をきちんとつくっていくことです。

 

演劇学校にも、いろんな人がきていますが、声と表現に関しては、同じ問題に思います。今、ある劇団に2年で「ハイ」がいえたらよいという課題でみています。そのくらいでないと引き受けられません。2年でプロレベルの歌い手は絶対にできません。

 

東京でレクチャーをやって絞り込んで集めたって2年でも歌えないわけですから。それは最初からお断りしています。よほど優秀な地方だったら別ですが、そんな地方は日本にはありません。

そこの劇団の主宰者は韓国で基本をきちんとやった人ですが、見方はまったく同じです。一言のセリフでも一緒です。日本人の場合は脚本や有名なタレントがそろえばOKを出すのですが、彼らの場合はOKを出しません。とても厳しいのです。

 

 

皆さんは「ハイ」のことで2年かと思うかもしれませんが、向こうはそのことで8年か10年で確実なものをもっていくことに価値を見い出しています。その1つの確実なものをもとに音を展開している人はどういう人なのかということを知って欲しいのです。

ここのなかでも20人そこそこくらいはいます。そんなにうまくないと思っても、白本でその20人を探そうと思ったら容易でないと思います。それでも彼らが常によいというわけではないのです。年に1回くらいよいというくらいで、あとはそううまくはいきません。

 

合宿にいった人はわかると思います。ミュージカル劇団のとここの上演を比べてみれば、ルックスもスタイルもよくないのですが、ただ声の世界でいうならば、超えていると思います。そのことを聞いて、そのことだけをやっているのですから、彼らの場合は他にもいろんなことをやらなければいけません。その代わりに、それに専念してできるという環境はあります。

 

芸大にいって、それでオーディションでトップで通って、それで何年も主役をやって、今、聞いたレベルが日本です。何が問題なのかというと、当人がわかっていないことです。まして脚本家やスタッフが、声がわからないのも残念なことです。

 

日本語だからこれしかしかたがないと言い訳しても、外国語でやったからといって同じになりません。マドンナが日本語でやってみたら、こんなふうには絶対にならないのです。それは音楽の世界でも成り立たせるために許されることであっても、中心や深いところではないからです。フレーズの線から外れたところで、どんなに着色してをしてみてもよくないのです。

 

 

「二人のビッグショー」での中島啓江さん、布施明さんの「Time to say~」はよかったです。音の世界のなかでどうつくるかというのをわかっている日本では少ない人避です。そういうものはキャラクターも必要でしょうけど、日本人のなかでも出せている人たちの共通の基準というのはあるのです。

 

それをミュージカルみたいに比較しながら勉強していくとよいでしょう。昔やったのはコーラスラインとONEです。それは振り付けまでやったのですが、今回は振り付けなしでやりました。もう少し音の世界が見えます。そのときにあなたがたが音の世界に対してどう心を動かすかというのが大切です。

 

マイルス・デイビスでも高橋竹山でも、音の世界に対してなんでもよいから、聞いてみてください。自分だったらこうしかできないけれど、彼らはどこをどうやっているのかというのを少しでも見抜いていくことです。

それは音のマップです。音楽にもっていくために必要なものです。声も同じです。

 

自分の声がそろそろ聞こえ始めたころでしょう。しかし、それがわかっていないといけなせん。目をつぶって絵を描いていては、うまくなりません。そういうことにとても厳しく観ていかなくてはいけません。

歌を流しても、その詞の意味を聞けていないわけです。別に歌詞は聞けなくてもよいのですが、昔の人だったら、歌がかかってきたら、さっきのはそういうことだったということが、それは意識しなくても入っているわけです。それは何らかの音の世界が基準として入っているからです。

 

 

「ハイ」だけでやってみましょう。最初にあまり細かくチェックしないのは、そうすると動かさなくなってしまうからです。1番よいのは無意識の状態のときです。

こんなところでなくても自分で楽な気持ちで、集中しなくてはいけません。だらだらやると絶対に正しいものにはなりません。

 

基本というのは面倒くさいものです。イメージは思い浮かべなければいけませんが、頭で考えるのではなくて、ものすごく高いテンションで集中していくのです。ちょうとでも何かが緩んだら失敗するのがみえるというのが基本の練習です。だから厳しいのです。

 

今、皆さんにやって欲しいことは、声のマップでいろんな声を自分で知っていくことです。何か自分で不快だとか、これはあとでそういう世界にもっていけそうではないなというものを全部切っていったら、ほとんど残らないはずです。

そういうものは意識して「ハイ」とはできないのです。体がそういう状態になるのをトレーニングするのではないのです。そこがおもしろいところなのですが、その瞬間は、ある人にとってみたら自分を離れたときになってしまうのです。

 

自分をくっつけていたら、自分の能力でしかできません。自分の能力ですごい歌というのは歌えないのです。すごいものを聞いたときに、ある瞬間それに移ってしまったり、それが移ってしまったりして、自分が自分じゃないように、そういうものが出てくるのです。

でもそれを固定しなければそういうレベルの活動はできないのです。だから毎日練習しなければいけないのです2年のうちで1回そういうものが、歌のなかでもよいし、声のなかでもよいし、絶対間違いなくこれだと気づく感覚が大切なのです。

次の日からまた出なくなったりするのですが、そこまで練習して、マップがきちんと描けている人は、そこのことが1回つかめたら、それがわかった次の日から完全にそのことが出せるのです。そうしたら、乗り切った、超えたといわれるわけです。

 

 

普通の人は練習していないから、そのことが出たことがわからないし、出てもそのことが取り出せないのです。だから、オンしていかないのです。ですから、日頃の練習は結果が出なくても続けることが大切なのです。

 

しっかりとそういう状態でやっておかないといけません。「ハイ」とか「ララ」でも同じです。頭だけでどんなにイメージしてやっていても、どんどんおかしくなってしまいます。自分のなかでイメージをして、集中してやるのですが、自分なりの構えのようなものが必要です。

 

合宿のVTRを見るとわかると思いますが、しっかりとできている人は自分の間があります。そういうふうな状態にしなければ、自分の体も心も働いていきません。そういうのに無神経になるようなトレーニングはやらない方がよいのです。

 

大切なことは自分が意識しないときに、体と心が教えてくれるものをきちんとオンしていくことです。それは声の世界や音の世界じゃなければそんなに難しくないことなのです。だから、わからないという人はスポーツとかなんでもよいから、そういうものを経験してつかんでください。見えない世界だけにわからなくなったら、他の世界のものからいろんなヒントを得ていけばよいと思います。芸も歌も総合力なのです。

 

 

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合宿の前後には行かない人も、合宿の課題をやっています。資料を欲しい人には配布しています。

日本で求められているものでは、そこまで呼吸は必要ないですが、本来でいうと、このことが30分続けられるというのが一つの条件です。

 

「ハイ」をやったときに、少なくとも2年前に自分がやったときよりは、うまく取り出せなくてはいけません。ことばの読みとかもそうだと思います。その次はメロディ処理という形で、ことばのフレーズの部分のチェックです。そこまでやると役者と外国人の条件だといっています。

 

よく考えてみるとここでもそういうことを満たしている人はあまりもいません。歌などはやらずに息だけのことを毎日1時間やって、「ハイ」だけいって、2年経ったら、たぶんできているんじゃないかと思います。毎日2時間以上、勉強している人も多いと思いますが、そういう人も少なくなったのかもしれません。

 

 

基本というものをどう整理するかという問題もあります。その条件のないところに次の条件をもっていくということは難しいわけです。そういうことは2年ごとではなく、チェックしてもらえばよいと思います。トレーニングというのは自分に入っているものをきちんと見て、それを意識的に取り出していくためにやるのです。

 

日本人として音声を扱っていないし、その感覚もない、どんなに歌を勉強していても、気づかないことを学ぶことです。そういうことができていく人たちが初めに気づいていること、というのが日本人の場合は、息と音色とリズムで聞くことといっていますが、リズムというのは音の強弱なのです。

その人の体の感覚にあります。実際に取り出されているときに、日本人のリズムの感覚でいうと、たたくのも歩くのも、表面的なものです。本当はその人の感覚のなかで呼吸が強く、子音を発するときに出されてくるものなのです。

 

当然ことばはそこから動いてきますし、歌はもっと大きく働いてきます。同じとはいえませんが、1番根っこにある部分です。

日本の歌は、メロディとことばを視してとっていくために、高低の感覚の方にどうしても引っ張られてしまうわけです。だからそこで間違いが起きてしまいます。や呼吸は、他の楽器のようにはチェックできません。

 

 

声の場合は個人差が大きく、そこの個人差が2年間で縮まらない場合もあるのです。今までずっと声を出していてよく声が出る人と、クラスで1番声が出ない人を比べることはできません。

レッスンをしないと、できている人は全然伸びなくなるし、できていない人はどこができていないかわからないまま終わってしまうのです。あくまでも自分の2年前と比べてどれだけのことがきちんと身についたかということです。

 

呼吸と声のチェックというのは、難しいのです。息を大きく強く吐くことが目的ではなくて、それを完全にコントロールできるというふうにもっていかなければいけないからです。別の意味の強さが必要なのです。

息というのは、間違っていることはないのです。生きていくのに必要な最低限のものはみんなもっています。そこから、楽器として使えるレベルに変えていくのです。

声も「ハイ」といえるときといえないときがあります。そのいえるときの状態を覚えておいて、それでコントロールしていくのです。

 

前に声域よりも声量の方を優先する理由を聞かれたことがあるのですが、これが高低と強弱アクセントの違いなのです☆。声量をクレッシェンドさせたり、デクレッシェンドさせるというのは、歌のなかの基本的な使い方です。

そこでクレッシェンドをかけるときの状態というのは、より高いところを取る状態と変わらないのです。よりテンションを高め、よりコントロールをし、より体を使って維持しなくてはいけません。そのことで1から2に進んでいくのです。

 

 

そうやって高いところが伸びるとか、低いところが出るということになれば、今まで出ていた音というのは、それでよいのかということになります。そうするとフィードバックして中間音の方もより厳しいチェックをしなければいけないということになります。それが確実にコントロールされているのかどうかを見なくてはいけません。

 

難しいのは、歌い手の場合のチェックの基準が甘ければ、音が出た、出ない、高い、低いだけで捉えるからです。日本語も声、セリフでも、そのことがいえていたらよいと、悪い間違えたらダメというふうに捉えるのです。その時の基準というのがほとんど高低アクセントに基づいた日本人の感覚に負ってしまうのです。そしてその上でつくられた作品を基準にしていくから、どんどんやっていくうちに間違えていくのです。

 

今回の合宿でも一番捉えて欲しいのは、アントニオ・バンデラスやマドンナが歌っているところの声の質感、音色の部分とりズムの感覚です。これを日本である劇団が歌って、なぜ眠くなってしまうのか、ということです。

 

 

韓国語でも発音は500~600音はあるそうです。西欧では2000前後あります。そういう音を認識して聞いてきた人間と、108の音5つの母音しか使わず、しかもきちんと使わずに、伸ばして広げて上つかせてきた、というところでは、感覚的にまったく違うわけです。

その感覚の違いというのは日本人にはわからないのですが、うまくいかないのを日本語のせいにしてしまうのです。

 

でも、マドンナが日本語で歌ってみたら、あそこまで飾りや型でもっていかないともたなくなるかというと、そんなことはないと思います。ところが日本人がやると、そこの延長上にあるべき音響や照明のように、歌の節回しとか、高いところの音の処理のようなものに逃げ、音楽のベースのものがどんどん欠けていくのです。

 

 

「ハイ」というのは0から1で、息で見えないものを音として取り出すことです。☆歌い出しのところで、その人のベースにあるものがわかります。劇団でも同じです。

それを「ラ」や音量や高さで応用してみていくのです。それができなければ戻るということで基準を高めていくのです。そういうことは私の本にも書いてあります。

 

ところが日本のような国では形のようなものができてしまうと、そこまで戻らないのです。基本に戻らないのです。ベースの方が弱くなってしまうからパワーに欠けるのです。

1年目の人より2、3年もやっている人が息を吐いてクラクラするというのはおかしいことです。「ハイ」といっても、その力が弱くなるというのはおかしいのです。

 

ところが日本人の場合は歌を歌うときの方が声が出ないのを認めてきたのです。しゃべっているときの方がよほど大きいのです。歌のために小さく歌うことはありまずが、全てをそう歌うのは世界中で日本くらいでしょう。

 

 

マイクがありますから、そんなに大きな声を聞かせようとはしなくても、柔らかく、感情を入れて歌えます。でもテンションの高さというのは最高のものを取り出すためにもっておかなければいけません。

音量やインパクトより音域重視になってしまうのです。しかし、声は、その支えを常に確認しなくてはいけません。支えの基本の部分が大切なのです。

 

見えていない人はリズムも感覚がありません。リズムは外側からたたいて取るのではないのです。何にもない人はそこからしか入ることはできませんが、体が動かない人は、体が動くようにしなくてはいけません。

声も深く取りなさいといって、深く取れたら、そこで取れたと思ってしまうと、そこが限界になってしまうのです。それでやっていくから、それ以上深くならないのです。

 

常にそういう感覚とかイメージがついて、「この感覚だな」という確信があって、そこが確実に取り出せるようになったら、それが、次の段階の日常レベルになるのです。

その次の段階にいくためには、そこでまたそれを壊して非日常のところまでトレーニングしなくてはいけないのです。これができなくて、全部積み重ねていこうと思うからミュージカルもクラシックでもおかしくなるわけです。

 

 

この歌い手さんも、呼吸もあるし、踏み込みもできるし、それからそれをもっていくこともできます。トップクラスの体をもっているのです。おかしくしてしまうのは変に見本を見てまねてしまうからです。お客さんの反応でビブラートをかけた方が受けるという感覚を得ているのは間違いではないのです。ただ、本当のことでいうと、もっとシンプルに多くを伝えるやり方があって、そこへの挑戦を安易に技術で回避しているのです。描きすぎるからパワーがえるのです。

 

それは私の理屈でいうと、日本の場合は客がシンプルなものを聞く耳をもてないし、そこのなかのハーモニーで聞いて、そこのなかに自分の感情を主体的に移入して読み込む努力をしていないからです。いわれた通りに動くように、指示を待っているのです。

 

歌い手が泣けといって歌い手が泣いたら悲しくなるのです。音1つを与えられたら、そこで悲しくなったり、音が集まるのを聞いて喜んだりするような主体性がないので、そこまで歌い手が形づけなくてはいけないのです。

そういうのを見ていれば、1つの見せ方として形があることもわかるわけです。しかし、そのまま形をとるので、日本の場合はそれが古くなってしまいます。

 

 

この人も声の質感とか、動かし方とか、つかんで握っているところとか息の深さからいうと、基本を納めてきた人です。でもこの歌自体がオリジナルではないし、いろんな人の影響というか、ある1人か2人の影響をものすごく受けたままなのです。この人の根っこにあるところの感覚では歌わないのです。だから、日本では評価されるのです。

 

日本の場合はそういう根っこの音を聞く人が悲しいほどいないのです。そこまで歌えるという人もいないから、歌えてしまったら、その人を主役にするしかないのです。

劇団でも全然声が出てないわけです。しかし、全国を回って、それで声や踊りの基本ができるわけでもないし、歌もできないなかでは、がんばっています。

 

日本の劇団は、お客さんが受けるやり方を知っていて、みんなで元気に一所懸命がんばって声を出そうと、それだけです。音楽的、いや声での表現というのが、ミュージカルから欠けてしまっています。しかし、客の反応は悪くないのです。

そういうことをきちんと見てもらった方がよいと思います。客が間違っているとは思いませんし、それを見捨ててしまったら何もできません。その辺が難しいです。

 

 

原曲のうたい方は、私は好きではないのですが、ただ、最後のところで、よい場面があったので、もってきました。

2年をすぎたら、イマジネーションでどこまで広く深くできるかということだと思います。声でも、深く入れようとしても入口が狭いとあるところで限界になってしまいます。そうしたら入口を広くしてして、より深くするということを考えなければいけない思うのです。そういうことに全然気づいていない人も多いのです。

 

慣れてくるとある程度、自分の固める範というのは決まってきます。だからレッスンとトレーニングというのはわけなくてはいけません。

レッスンというのは気づくために行うものです。ときには、なるだけ嫌いなものとか、無理なもの、ふられないとやらないものようなものをやりましょう。

一人のときのトレーニングでは、1時間くらいかけてやりたいことをやれ、という状況で問う方がよいわけです。

 

一流のアーティストというのは、どの状況に置かれても、そこですぐにパッとできてしまうのです。それは、能力というよりはそういう経験を、そのプロセスでやってきたかなのです。そこをここでは徹底して仕込んでいます。☆

 

 

自分が好きな歌を好きなように歌うというのは、自分の必要性に応じてやらなくてはいけませんが、それで通じなかったら、もっと広く他の人たちの感覚なり、音楽のベースを刺激するものを勉強しない限り、大きくは変われないわけです。大化けするにも、何かの曲を聞いたから、大化けできるわけじゃないのです。

 

スポーツも、1つのプレーを基本として習得するのですが、応用になるとそれてきます。たまたまバットを出したところに球が当たったというときに、そこばかりを練習する人はいないなずです。

歌の場合は、そういう人が多いのです。

それでたまたまできたから、これでいこうとした応用状態の練習をするから基本が崩れていくのです。

歌の場合はライブなどで多くの人がそればかりやっています。そのために悪いクセがついてしまいます。

 

基本がなくて応用ばかりしているからです。

音響やマイクの使い方でいろいろとやっていくほど、よけいにわからなくなります。

その人の価値観と総合力で好きにやればよいのですが、基本を固めたい人に対しては、基本に集中できるようにすることが必要です。

 

もちろん他のことでやっていける人にとっては、基本をきちんとやることなしに通じることもあります。ポピュラーでは、その人の世界を、ややもすると壊すこともあるのです。

たまにクラシックの発声をやらせたら、彼らのよさは壊れてしまいます。その世界の密度ですぐれているところで判断すべきだから、歌い手の場合は難しいわけです。

 

 

スポーツでもルールなどが変わって、基準が変わってくると、前に基本練習として正しかったことも必ずしも正しくなくなるのです。

でも覚えておいて欲しいのは、一流の人はそこで切り替えられるのです。

つまり、感覚のところで捉えているのであって、形のところで捉えてないからです。

そういう意味でいうと、得たものを必ずしも全て使う必要はないのです。基本をやってパワーアップさせること以外は、発声法などにこだわらなければよいのです。

 

とにかく1年ごとに投げ出して捨てていかなくてはいけません。歌は特にそうです。自分の何年か前の1番いい状態で1番うまく歌えたものに固執していたら、そこから変わらないから、古くなり、悪くなるのです。

表現ということでは、外国人のように40、50才になっても、今の時代のことを歌って欲しいものです。

日本みたいに過去のキャリアだけでやっていけるところはありません。

きちんとやれている人というのは、そういう部分の感覚は時代に応じてもっているわけです。

 

 

皆の創作した「すごい男」の詞を全部はり出してみました。見てもあきれるでしょう。ということは、何もできていないということなのです。だからといって作詞の勉強をしてみてもよくありません。

それは役割の自覚だと思うのです。

その場で求められる役割に対して、自分が総合的に日常考えているからこそ、判断し創造できるのです。より広い視野でより深いことをやっているからこそ、その時、何を出せば1番よいのかということがわかるのです。

 

あれはことばで書いていますが、ことばではないのです。そのことばがなんであれ、そこに出された音声でどう働きかけるかということなのです。

いろんな組み替えがあってよいのです。評価はそのときに出たことばで音声を伴ったものとして見ています。自分の音声がどう生かせるかということで詞を考えるべきです、

そんなことからいうと10くらいの基準でみようと思っていたことの1のレベルでもわかってもらえなかったのは、残念です。

 

それは難しいのではなくて、その人がやはりそれだけ鈍い感覚でトレーニングし、鈍い感覚で日々ことばと付き合い、きちんとしたことを踏まえていないということです。

人がつくれといってつくるのではなく、そういう課題に対して何が組めるかを知ることです。こちらが手伝わないで、相互の啓発のなかで取り出してできていかないことには、しかたないと思います。

 

 

入門の頃は、こちらと9:1くらいのバランスであっても、2年くらいいたら、7:3くらいで、こちらが3くらいに、4年いたり、プレBV座に出ている人などは9割から10割、自分でつくれることです。

それを客観的に見るということが難しいから、そこの部分でお手伝いできる、そういうところで、こちらが目をかけていくことが1番、望ましいと思います。

 

どれがよい、悪いというのは難しい判断ですが、ただその判断外になってしまったらダメだということです。そういったものがベースに入ると、昔は、到底、ムリだと思っていたことが1分間で対応できるようになります。そして、1時間で相当、感じられるものになるのです。そこはステージで通じるレベルなのです。

 

リズムとか食感だとかをせっぱつまってやっているときというのは、何も落ちてこなくて、それがあたりまえのようになったときに、ようやく、そこにいろんなものに自分で気づけて創り出せるようになるのです。

こういう対応力の早さのことも、いつも自分で引き受けていないといけないと思います。自分で引き受けた上で、お客さんは私達の反応を見るくらいでよいと思います。

 

 

自分のなかで正さないといけません。リズムも、毎日リズムのレッスンに出ていれば、試験のときにできるのはあたりまえです。それは身についたということではありません。

こういったことは、身についたことしかカにはならないのです。そういうものをチェックしていくために合宿も、このクラスも利用すべきです。

 

自分が難しいと感じたり、同じ条件に置かれたときに、やれている人もいるということです。そこにすごい差があるのです。やれている人より上にいかないと、こういう分野ではすぐれたとはいえません。すごい人ばかりがここにきているわけではありません。

 

ここは個人の場として成り立たせたいと思うので、その個人としての才能が伸びていかなくなってしまうのはよくありません。そこは難しいところです。こういうものでも1回、色とか形とかを取ってみたときに、一体どこでもつのかということです。そこに戻ったところでやれるようにならないといけません。

歌い方ばかりを勉強してもよくありません。技術とかが何もなくて元気だけでやっていると、それでもつし、通用するのです。しかし、そのままでよいのですか。

 

 

このフレーズで反省すべき点というのはたくさんあります。技術がいくらあっても、その人がなにかを提示していかないと伝わりようありません。歌いこなしたり、歌いあげていくことで、伝わることが少なくなってしまいます。

日本の場合はタレントさんなら、その人の世界が見えたらよいというのですが、この場合はエビータの世界です。エビータはどうでもよいのですが、その人間を通じて自分が気づかされることに価値を求めたいのです。

 

音の世界を通じて、最初は、一人よがりでも、ここまで自分の「今宵」を3つに歌いわけられるんだというのを示します。それが実際に結果として歌いわけられているのならば、この人はいくつもあるうちの3つを出したんだと思い感動するんのです。

しかし、ここまで明らかにつくられてしまうと、こいつ3つしか思い浮かばなかったのか、この3つをすごいと思っているんだな、ということが見えてしまうのです。だからその人の勝手な世界になってしまうのです。その人がよほどの感性をもっていないと伝わりません。

 

合宿では、すごいことを要望しているわけではありません。やれることというのは何かというのを知って、出し切って欲しいのです。ことばとかメロディのよさのところを最大限に取り出して、自分なりに目一杯、増幅させてください。少なくとも殺さずに伝達するということです。

その歌を聞いていて、星が思い浮かびますか。

あの人バタバタしているなという感じになってしまいます。その人のキャラクターやタレント性でもってしまうと、より真実味がでてこないのです。

 

 

向こうの人は1つの音をきちんと保つだけで何かを感じさせます。

日本ではそこまでお客さんが感じてくれないので、ビブラートをつけたり、次はこういくよとかこう変えるよとか、安易なところでことばや振り付け、演出技術が使われているのです。

これは楽器の世界ではあり得ません。そんなことをやると余興になってしまいます。

 

それが日本の歌では第一線で使われてしまっているということです。だから、誰でも何万人の前でステージができる。どちらがよいとか悪いとかということでなく、そういうやり方でいくならば、そういうことに秀でた人、得意な人、いや、選ばれた人には、勝てないということです。

 

ルックスがなくても、かっこがよくなくても、踊れなくても、聞かせられる部分があるなら、その部分に深く入っていくことです。

タレントも音楽を聞いているし、歌も勉強しています。

逆にいうと舞台があるがために、人様に出さなければいけない分、根本は学べていないのかもしれないし、舞台はそう割り切ってやっているのかもしれません。それは、もっと長くみないといけません。

 

ただ原理から外れたところでいろんな加工をするのに、そのだらしなさとか、不快感みたいなものがお客さんに共感され、ブーイングもこない。日本の現状です。

それが一番、その世界をやっていく人にとっては、障害のような気がします。

何かを伝えるのも大きく声が出ていたら、それで伝わるといわれたら、それで通じてしまっているわけです。

 

ニコニコ笑って、とにかく大声で伝えさえすれば、その熱がお客さんを動かす、それでもたいていは感動してしまうわけです。お客さんはその人を見にきたり何か所懸命やっていることに感動するのです。

そのことはベースなのですが、その上で何がなされているかというのを問わなければおかしいはずです。それらは、音楽の世界より劇団、ミュージカルのビジュアルの世界で問われているということです。

 

1人でやるともっとやりやすいと思いますので、勉強してみて下さい。本質的なことをみていけば迷わないと思います。

形でやっていると誰かに何かをいわれたりするとカチンときたり、自信をなくしてしまったり、自分は何のためにやっているんだろう、ということになります。

 

そういう経験を昔の人は外国に行ってつきつけられていたのですが、最近の人たちは外国に行っても外国のものを聞いてもあまり感じないようになってきているので、限度があるという気がします。

上達する方がおもしろいと思うのですが何をもって力がついたというのかということです。

 

 

 

 

 

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【EI塾「山頭火について」「場」 3764】

 

ここにいるのに、全て出るという人もいれば、何をやるかわからないことには、なるべく出ようという考え方があったりもすると思います。そういうことも含めていうと、そこまで求めていませんという人もいるかもしれないので、ここにいること、今日のここの存在理由というのが、何か期待されているのであれば、そういうことから考えてみましょう。

 

私なりに考えたことを皆さんの話の順番に合わせ、一言コメントしていきます。

これは皆さんのことについていうのではなくて、私が思いついたことをいうということです。

そうとられてしまう場合もあるので、あらかじめ断っておきます。

ましてや、皆さんの見方がだめとかケンカを売っているとか、こないようにさせようとしているとか、そういう意図もありません。

 

私もドアを開けた瞬間に失敗したと思いました。

でも、その人の話のベースとかがあって、自分なりには聞けたし、関係なくそれなりに楽しめたと最終的には思っています。

基準にはしないでください。私が楽しめたのに楽しめなかったのは、力がないせいだとか耳がないということではなく、異質なもの、だからよいのです。

私も以前は年寄りの話は退屈でした。なるべく交えないように抜けて生きてきたのですが、30代になってからは、その人の普通のテンポ、歩く速さを大切にしています。じいちゃんの前に座ったときぐらいはゆっくりということを心がけましょう。

 

 

脱脂粉乳という話がでました。バナナがまだ高級品でメロンは病気のときしか食べられなかったといったら、じいさんは、のってくるわけです。

それで大体30分ぐらいその人の苦労話でたってしまうのです。

戦後日本はこうだったとか、お前は知っているかなどと、勢いづけてしまうのです。

過去をもつおやじはもっとも苦労したときを語るのです。

 

コンビニというのは便利ですが、そのためにトラックが何回も運送してそんなにできたてが食べたいのかというのですが、ごみの問題に関しては、文明は便利さを求めるがために環境をこわしています。

ファーストフードとかファミリーレストランもそうですね。日本人の残飯をどこかの難民とかに送ればよいといっても、実際には輪送料とかの方が高くなるのです。

残飯を送ればよいのではなくて、最初に食べる分だけ食べるというふうに考えましょう。

 

フォルクスで働いている黒人さんというので、前に会報に載せたことがあるのです。

そういう時代というのは確かにあります。

この辺の感覚はまだ皆さんがもっているとよいと思います。

豊かさがあたりまえになっている人たちもいます。そういうことに気をまわす最後の世代になったのではないかと思うのです。

 

 

上もよくなかったら下もよくないです。まずしいところからきたら、パーティに行くとお肉から食べようと思います。昔はみんな何で食べないだろうと思っていましたが、この年齢になると何でみんなが食べないのかよくわかってきます。そこで偉い人ほど食べないのは、食べにいっているのではないからです。

 

選挙演説パーティなども、タチが悪いといったら失礼ですが、食べることを目的にくる人たちが多いところであれば、バーゲンセールみたいになります。ああいうところ食べることをよしとしない人というのは、日頃しっかりと考えをもっている人だと思うのです。でも、食べ残しも問題です。

 

宗教は大きな問題です。本当の宗教というのは徹底して考えるものです。宗教ということばを使うときには私も気をつけているのですが、自分で自立しているということが前提です。本当に頭のなかで徹底して考えていくのです。その上でいろんな悟りがあったり経験があるのです。

 

 

プロが欠点だらけでやればよいというのも、半分賛成で半分反対の部分があって、それは皆さんにいわなくてもわかると思います。いつかやれるというのではやれません。

ただ、人間というのはやる時期というのはわかるのです。

それが最初にくる人もいれば、一生そのままの人もいるし、最初からやっている人もいれば、最後にやる人もいます。このへんに関しては何ともいえないです。

 

「たまごっち」は、育てています。私が育てているわけではないですが、面倒なものです。ゲームは、つくった人はおもしろいけれど、やっていく人というのはそのなかで踊らされているだけです。

遊ぶことがクリエイティブとかインタラクティブとかというのは、おかしいわけです。

誰かの設計図のなかでやっているわけですから、そんなものなら誰も掘らないトンネルを掘ったり、橋をかけたりしている人の方が、すごいでしょう。そのことをたとえ一生かかってもそれゆえ感張れます。

それ以上の仕事を私たちができているか、死ぬときにあのトンネルを掘っただ、10年かかったのだと勝れるようなことをやれているのかと思うのです。

不安というのは何かをやろうと思ったらつきまとうものです。それはそれでよいと思います。

 

美の問題に関しては何ともいえないです。

日本の善悪の研究というのは、日本の鬼の研究があるから、そこから入るとおもしろいと思います。鬼は、オン(隠)からきているそうです。

 

 

迷わないもの、自分を信じるというのは、信じた自分が迷うわけです。これは難しいのです。私もよくわからないです。わからなくなってからわからないのが現世だと思います。

 

録音のなかで聞けないところは自分のイマジネーションで補うか、あるいは聞くということ自体を放棄しても、これは自由だと思うのです。そのときに自分の世界に入り込めれば、録音はBGMでも別に構わないでしょう。

ステージ実習とかライブ実習とかにも決まりがありますが、こういう人のなかで啓発されたり反感をもたれたりしていくのです。その心の動きが大切です。

 

そういうことがおきなければ、心地よい時間が過ごせたでしょう。よい子守歌がわりになるのではないでしょうか。1分ぐらい眠っていましたが、気を失うような感じで、なかなかそういう状態にしてくれる人はいないのでよいことです。

 

 

お年寄りとまわると、植物の名前をよく知っているのです。このへんは多分、日本人が失ったものでしょうね。植物園とか札がついていてわかるけれど、年輩の人はたくさん知っています。

 

「虫を殺さない」とあったのですが、仏教の世界でも殺生によって命の尊さを知ります。殺すなといって最後に大きくなって人間を殺していたらしかたないわけです。そのときどきの役割というのはあります。くじらや豚ならかわいそうで、虫だったらよいということではないのです。

 

 

ここにくるにも、ここをやめるにもいろんな理由があります。精神的に追い込まれると、考えざるを得ないでしょう。ここにたよりすぎるからやめるという人もいます。

そんな問題ではないのですが。

このくらいでモチベートがなくなって、必要がなくなるとしたら、それは、最初から大してあったとは思えないのです。

 

そのことに気づいてそれで他のことをやるというのは、それもよいことです。

違うところで自分で歌をやっていたら、ここで1年で気づくことを10年で同じことをおこしていたかも、あるいは、違う意味で、もっと楽しめたかもしれません。

自分なりの理屈をつくっていかないと行動できないのが、人です。

それが前向きだったらよいのですがポジティブに生きていないと、いつも後ろ向きの理由がついてしまうのです。

 

自分はここにあってないとか、自分は違うところに才能があるとか、誰でも思うのです。それが本当か嘘かというのは、問うでも無駄です。

他のところにいっても同じことを繰り返して、ぐるぐる回っているだけなので、それなら一つのところに集中した方がよいでしょう。

 

3年でも5年でも、一つのところにいるということは、同じ地点に毎日5年間通うということは、他の人がやろうとしたらそこから5年かかるのです。

バラバラのところにいくのは、他にもやっている人はいくらでもいるわけです。

 

時間をキャリアに変えるということは、そんなに難しいことではないのですだから続けるということがあたりまえになっていればよいのに、多くの人はそれができないから、それをやった人に価値がつくのです。

 

5年いるからいろんな仕事を知っているとか、会社のことをたくさん知っているとか、そんなことではありません。そこにその人が生きていることがその人の価値です。100年生きている人は生きているということで価値があるのでしょう。そういう考えもあると思います。

 

 

山頭火が「体をはってついたてになった」ということはあると思います。

ただ、こういうふうに自分を捨てるというのは、強いからできるのです。体に自信がなくて次の日に風邪をひくような人だったらできないでしょう。かえって風邪ひいて相手に迷惑と負担をかけます。こいつはついたてになって、それで風邪ひいたら悪かったなと思わせてしまうから、健康で丈夫でないといけません。

 

愛情とか優しさには、絶対に強さが必要なのです。それがさりげなくできるというのは本当に強い人なのです。できるとか、できないではなくて、弱い人が強がってやっても迷惑かけますからよくないです。

 

現実というのはいろんな形に変じます。絵画の世界でも音の世界でもそうですが、みえているものが現実なのか、あるいは頭のなかでイメージしていっているものが現実なのか。物の見方というのは変わります。同じものが気分によって色まで変わってみえるわけです。そういうことでいうとなかなか難しい。

 

 

構図というのはよくわかります。ルキノ・ヴィスコンティの映像のような完全な構図です。花瓶1つの位置がくずれていたらくずれるという中で全部構築されているのをデッサンの勉強でやります。

 

ある生徒のなくなったお兄さんは、大学時代に先生のところにいって、電車のなかでデッサンをするぐらいでなければよくないよといわれたら、本当に電車のなかでデッサンをやったと。それでグロッキーブックに何十冊もやって先生にみせにいったら、私は全員に対して電車のなかでデッサンをやれといったけれど、電車のなかで本当にデッサンをやったのは君だけだいわれた。

馬鹿正直にやるのがよいのかどうかは別にしてみても、それだから才能が開花されたのか、才能があったからそういうことをやったのでしょうか。

 

だからといってその先生の教え子がみんな電車のなかでデッサンをやりはじめたら困ります。幸いなことながらほとんどの人はやらないものです。やる人だけがあるところまでやって、多くの人は馬鹿みたいとやらずにやめてしまうのです。やれる人は夢中なのです。それは人にいわれたからやることではないからです。自分で自分の方法をみつけるのがよいことです。

 

 

仕事を一緒にやっていく上で、もし上の役割があった人が下に対して正しいことを主張できなくなると、どちらのためにもよくはないことです。遅刻を注意されたためにアルバイトをやめたのだったら、やめた人が悪いわけです。やめてしかたない。そうではないと今度はお客さんとか他の人たちに迷惑がかかって、最終的にマイナスになります。

 

どちらがよいということではなくて、基本というのがあるのです。そのことをはっきり示してやらないとよくないです。

私たちの仕事も最初はぶつかります。終ったあとでぐたぐたいってもしかたないですから、価値観のずれを主張しぶつかるところで早く知るためです。別の主張があれば、それが聞けなければ、これはしかたないのです。

10人のうち9人がやめてしまっても、1人そのことがわかる人がいたらそれを大切にしていくのです。

 

 

 

 

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【「野村監督論」】

 

学ぶには、学び方が大切です。それを2年間、かけて入れてください。いろいろな学び方があります。とにかく皆さんよりすぐれている人がレッスンしているのであれば、そこから学べるだけのことを学べば、そのレベルまではいきます。

 

器用なタイプ、たとえば「今の2曲はどんな歌でしたか」といわれたときに歌詞やメロディの世界がすぐに出せる人は、すでにしっかりとメロディや詞のストックのある人です。このくらいの人数がいれば1、2人います。

でも、ほとんどの人がわからないと思います。それは普通の人です。前もって、あとでやらせるとでもいわない限り、普通の日本人であれば入ってきません。それは、とりくみができていないからです。黒板に書かせても、読ませても入らない人もいます。自分で歌っていても入っていない人も多いようです。そこまで鈍いのです。

 

日本人の音声の環境自体がそういったものです。こうやってしゃべると聞かなければいけない、応じなければいけないということで対応します。しかし、作品になってしまうとお手上げでしょう。そのなかで自分の見方や指標ができてこないといけないのに、この国では相当苦労していないとわかりません。だからといって「歌詞を聞き取れ」といっていたら、今度はメロディもリズムも音感も聞こえなくなってしまいます。最初はしかたないです。

 

 

とりあえず聞こえるように聞いて、それで会報を読んで、同じレッスンに出て「全然違うことに気づいている人もいる」、「そんなことも起こっている」「できるのか」というところから始めてください。レッスンでの今後の自分の可能性を見ていくことです。

 

私もいろいろな方に接して勉強させてもらっていますが、二流でも三流でも何でもいいのですが、何流といわれるところになる条件が皆さんの場合、必要です。そういうものには、まずは、あたりまえのことをとしてこなすしかないです。

 

毎日そのためにはあたりまえのことをやって、次にそれをどこかで質に変えなければいけません。そこから99パーセントの人の勝負が始まります。ところが大半はここで止まってしまうのです。やっているという実感のもと、自己満足に陥り伸びることを放棄してしまいます。

こういう話を聞いたらやれた気になる人もいます。それは学ぶにも学ぶものがまったく何たるかわからず、二年たっても何も変わらない人です。

 

 

ここは、その人の意志とトレーニングでできるところまで到達させようとしている場です。体づくりや声づくりは基本的に無茶なことをやらなければ身についていきます。

たとえば「ハイ」だけを3年間やっていたら「他の人と違う」ということになるのです。

ところが、甘い基準で先にいこうとばかりしてリピートをしっかりとやらないと、いつまでも基本のところが固まらないわけです。

 

日本の歌い手の大半は世界の一流から見ると、二流のレベルにあるのです。そうしたらそこの差は何だろうということを見ることでしょう。

見られるようになったら、ワープできる可能性が出てきます。

歌は、体の条件が整って感覚が入ればそんなに難しいことではありません。ただ一流は一流のレベルでの努力をしていますから、追いつけないということです。としたら、その努力の質とコツを見ることです。

 

レッスンも最近は大分変わってきました。昔は自主努力を前提としていました。

今は、最初にたくさん出ていても2年ももちません。多くの人には2年くらいもたせてからでないと何も出てこないのに、そこまでテンションがもたないのが問題です。ベースダウンしてしまいます。

ここは2年経ったら、質のレッスンに入れるように、先生方に頼らないで自分でできるようにしているつもりです。曲を聞くにもそういうふうに聞けるように、そして、どう出せばよいかというその本質をしっかりと見極めていくためにあります。

 

 

 

今、野村克也さんが巨人を突き放していますが、監督でいうと、あの人も不器用な人ですから考え方をたどっていくとよく似ているわけです。

普通では一流になれないとしたら一流になるためにどうすればいいのかを考え、そこで一流と二流との差を徹底的に分析したのです。

バッターでいうと、その差は3割と2割5分。というのは、単純にいうと10本のうちの3本打つか2.5本が、20本にしてみたら1球の差でしかないわけです。

当然3割になってくると、向こうの配球も意気込みも違い、マークされますから、そんな単純な計算ではいえないのですが、野村監督がやらせているようなことをみると、力のつけ方のヒントになります。

 

ストライクゾーンを全部で縦に10、横に8に分けて、80のゾーンで分析しています。デレビでも、3×3のマトリックスが画面に映るようになっていますが、そんなようなことを徹底してやっている。

そんなことをやらなくても、プロのバッターですから、打てると思うでしょう。

少なくともプロ野球に入ってくる人というのは毎年10人そこそこで、何万人のなかから選ばれているわけですから、才能がない人はいないし、一流になる素質のある人ばかりなのです。そこであれだけ差がついてしまうのはどういうことなのかというと、そこのちょっとした差を見ているかどうかから始まるなのです。

 

ピッチャーを分析してみたら7割は配球がよめるそうです。プロのバッターなら、読んだコースにきたら、ヒットにできるわけです。次にどこにくるかがわからないから、難しいわけです。バッティングマシーンで、150、160km出せるようになって、バッターの方が有利になりました。ピッチャーは170kmなんて出せないのに、バッターの方は160kmの球に慣れることができるわけです。私なら、投げるのも打つのも3×3ですが、プロは10×8で投げ分け打ち分けられるのでしょう。

 

そこの差を気づくかどうかでしょう。配球により、次にどうするかを、全部のケスを予め決めているそうです。最初にストライクが入ったとき、次にはどのパターンがあるかというのを読んでいるわけです。ピッチャーに配球を指示するときにも全試合の全ての球を指図しているのです。

 

 

管理野球といえばそうなのでしょうが、ただ、そのデータに基づいてやったとしても、人間と人間のやることです。ピッチャーがその通りに投げられるわけではないし、バッターがそれで打てないわけではありません。しかし、それを一試合で勝つことではなくて、3年先に優勝することまで結びつけているとしたら、どうでしょう。

 

野村監督が阪神に行って一番戸惑ったことは、1年目に基本をつくって2年目に応用して3年目に成果を出せばいいと思っていたことが、阪神ファンは1年目に優勝しないと許さないような雰囲気になっていることだそうです。戦力は巨人の半分もないわけです。「同じ戦力をもてば、長嶋監督とでは9パーセントの確率で野村監督の方が勝つ」と、そんなことを森監督がいっていたようです。

 

それが戦略なり戦術の組み立てであって、だからいろんなやり方があると思うのです。勘だけでできる人というのがいるけれど、どちらにしろ勘だけでそこに立って勝負するような人たちと、次にどれがくるという仮説を立てて、それに対して成功した失敗したという的を絞り込んで経験していく人たちとは、同じ才能であれば確実に成果は違ってくるということです。

 

 

イチローや野茂、桑田選手も合理的な考え方の人です。徹底してその一球、あるいは一つの素振りに対してイメージします。どういうピッチャーのどういうケースでどういうシーンでどこに投げ込んだときの葉振りだということをとらえます。それには何が必要かというと、イメージを徹底して使うことです。

それからもう一つは、面倒くさいけれど、体をそれに合わせなければいけません。

 

小早川選手が野村監督に挨拶にいったときに「今年はがんばります」といったそうです。そこで監督が「何をがんばるんだ、プロだからがんばってきただろう」と。「今までやってきたことをがんばってみても、今までやった程度だ」と、これはあたりまえのことです。

 

あるレベルを越えたらがんばっていない人はいないわけです。どこの球団でもがんばっていない人など一人もいないわけです。いくら選手が遊んでいるとか飲んでいるといっても、やることはやっています。

そうするとがんばれることは何かということです。他の人と差をつけるには、頭を使うしかないだろうということです。

 

 

歌の世界も似ています。どういうふうに読み込んでいくか、どう予測していくか、それにどう体を対応させていくかということを、徹底してやることです。とても研究熱心さが必要です。

それと共に「がんばる」といっても、今まで通りでがんばってきたではないかと。何もやっていない人は別ですが、そのなかでも相当やった人には、私はそのやり方が限定しているといっているのです。同じやり方だとせいぜい1割も変わらない、1割くらい変わることで2年もかけてしまってもよいのかということです。

 

一流のプロでしたら、1割上がるだけで相当すごいことですから、頭打ちの状態になったりします。ただ、2倍、3倍と変わらなければいけない場合にどう考えなければいけないかというと今までやってきたことは何かということを整理して、それが100だったら1000になる勉強をしなければいけません。

 

それは、たとえば今まで本当に耳を傾けて、大音量で聞いてきた曲が10曲しかなければ、単純に、それを100曲にすればいいのです。1つの歌で1行のことしか書けなかったら、それを10行書けるようにすればいい。1つの歌で2点しかなければ、それを20点にすればよい。1曲、1分から10を気づくことです。それが最低必要とされる準備です。

 

 

人間の能力の差はよくわかりませんから、そのプロセスにおいては書き出させているのです。しかし、会報を見ていても学べている人は全然違います。一番よいのは4のクラスの人が相互批判したもの、これを見てみればよいでしょう。このクラスのなかでも半分の人は何もわかっていない。他の人を見るときの視点や基準で潜在能力がわかります。他の人が見れていなくて自分を見れるわけがないからです。

あのなかである人の評価については、半分の人が成している。後の半分はとても厳しくその弱点を指摘している。そのことがわからないと、結局自分のなかのことも変わらなくなります。レッスンで急いではいけません。

 

川上や森監督などのように一流といわれた監督が選手とのミーティングでいっていることは哲学と宗教といった精神的な面だけなのです。彼等は禅の達人みたいなものですから、技術舗などは子細にいいません。もちろんプロは技術についてわかっているので、段階が違うかもしれないです。でもその技術を確実にするために、必要な人間の精神やモチベートがあります。

 

活躍していても、欧のレベルは落ちて許されてしまうと、その環境がその人をよくなくしてしまうのです。活動のレベルは上がっても歌のレベルは落ちていかないためにここがあります。あとは自分の目的に沿ってやっていけばよいと思います。

 

 

美空ひばりがジャズや洋楽で相当なところまで捉えながら、演歌の方におりていった。それが間違ったということはいえないわけです。そこから日本の一つの表現を深め追求してきたわけです。

彼女の発想が違うのは、「川の流れのように」でも、自分がひらめいたフレーズを歌に出す。そこにすごい創造が取り入れられています。歌い手も一流か二流かを聞くのは簡単です。クリエイティビティーの有無です。

 

皆さんの歌は、1フレーズ目を聞いたときに最後まで予測がつきます。予測がついてしまったらつまらないということです。何も起こしていないということです。10曲歌うとしたら、1曲目を聞いたら、大体10曲までどういうペースでいくのかが見えてしまいます。単にその人の声の質を聞いたら、それで最後までいくなと、少しでも歌を知っていたら全部予測がついてしまうのです。それは、何もしていないからです。

 

日本の歌い手で1番を歌って2番を何か違うことを起こすとか、最初に2、3フレーズ歌っていて、4、5フレーズ目からまったく違うことを起こすことは難しいというより、それを考えている人さえ、ほとんどいないのです。

 

 

ここでもレパートリーとして歌を与えているわけではありません。ただ、それで成り立ってきたポピュラーの偉大なる世界があるのですから、そこから得られるものは、ルールでも信仰でも感覚でも、得ることでしょう。

皆さんにいいたいことは、今の体に合わないもの、生理的な感覚に合わないものは、それをこなせばかなり力がつくということです。それを好き嫌いで判断していたら学ぶ必要もないし歌う必要もありません。

それから一番大切なのはパターンと組み合わせです。

 

配球パターンと同じでいろいろなパターンがあります。あくまで人間のやることだから、数字にはできません。けれども、いくつかのパターン化はできるということです。そうすると、いろいろな可能性がそこで自分でつかみやすくなります。変化させるということがどういうことなのか、こうなった場合に次にどういうパターンがあるかということです。本当はそこから勉強しなければいけません。癖がどう動くのかによって、人間は心地よくなったり不快になったりするのです。

 

その一つの例として音感やリズム感があるということです。これらは部分的な勉強として取り上げられるのは、決して全体ではないからです。全体のことをやるために、音の組み合わせはややこしくて何百バターンもあってわからないから、12音、7つのスケールのなかでの進行、あるいはコード進行を頭で覚えてしまえば聞きやすくなるというのが理論です。

リズムの勉強でも同じですシンコペーションの練習するのなら、それはどこから生まれたものかということで英語の勉強などで強弱、リズムの移動でもやっていた方が細やかに感覚に沿った表現から外れないものができるわけです。そこから歌も生まれたのですから。

 

 

基本をやるというのは、どまん中で確実に打てるようにすることです。内側も外側もそれに巻き込んでいくためのまん中です。だから絶対強いところを自分でしっかりともつと共に、そこの感覚自体を音楽の原理、声や体の原理と合わせていくのです。今はそれをやっていかなければいけません。

バルバラが声を伸ばしたから自分も伸ばしてみるのではよくないです。その伸ばしている音の質感や音色、スピードや息と体の使い方を自分なりに読み込んで、同じ長さ、あるいは同じ質やレベルでできていないというのを、たった1音のなかで気づいていくことです。それは明らかな差なのです。

 

向こうはマイクを渡して、その音だけで5秒伸ばしていたらお客さんはうっとりするわけです。皆さんがやってもイメージとしてそういうものが得られていないから、発声器官自体がそれを導き出せるような形で動かないわけです。その基本にあたることをやらなければいけません。高いところで長く伸ばすことでできないのなら低いところでよいのです。

バルバラやムスタキをパッと聞いても、普通の日本人はそんなにうまいと思わないはずです。でももっとうまい歌い手がいるような世界で、彼らが独特な地位をきちんと保てているのはそれこそがその人の意楽性や独自性、作風だからのです。

 

そこから、そういうパターンもあることに気づく。それをまねる必要は全然ない。でも、表現の世界のなかで音声が扱われているというレベルを知ることが大切です。

そういう耳をつくっていくことです。音声で聞いたときには、わからないかもしれません。日本人ですから、やや入っていないものが多いのです。

 

 

たとえば坂本龍一さんのノート集(出版されている)などを読んでも、何を聞いてきてどう考えたのか、さっぱり理解できません。その範囲だけでもすごいことをやっています。それだけ判断したり書き出したり、ことばに頼る作業をやっているのです。

ことばというのはものごとを無理に分けるわけです。わかるがわかるということにつながります。そういう指様がつくれるからです。野村監督の80のゾーンもプロだからこそ分けられると思うのです。僕らの場合は9つで分けるので精一杯でしょう。それでも思い通りいかないから意味がないかもしれません。

 

プロとの違いは80に分けるというレベルが意味をもち意識が働くギリギリのところだけということです。それを160に分けたら、プロでも人の限界ということです。あるいはそこまで問われないのかもしれません。

それをピッチャーごとに用意すると、一つの指標でのパターンができます。仮説の設定ができます。そして、その通りやってみるとよかった悪かったという方法が自分のなかに入るのです。勘だけでいって一番恐いのは、体調や気分によって左右されることです。

 

音楽の聞き込みをやってください。少なくとも曲を聞いたときにはアレンジがどう違うとかいうところからです。そういうことをやると、知識がないとか楽器を弾けないからとかいう人がいますが、ヴォーカルにはそんな必要はないのです。勘がよければよいのです。それが気持ちよいという感覚で見ていくのです。わかりにくいときは各々の楽器を勉強してみるとよいでしょう。

 

 

私の友人が大塚博堂という人のファンクラブを5年前におこしました。京都大の先生がそれを新聞に載せたら、関西から何人もくるようになったそうです。大塚氏が亡くなってもう18年になります。ニューミュージックの走りの人で32、33歳でデビューして37歳くらいで亡くなってしまいました。

その人が10年前に布施明さんと来日したムスタキに会って、歌っていたときに、アポイントをとったら呼んだら来るということで、今回きたのが、ムスタキです。今回は彼のプロモートで全国を回っています。70年代ムスタキは有名で、いろいろなシャンソン歌手がその曲を歌っていました。

 

日本でも紅白歌合戦シャンソンカンツォーネ、ラテンなどがたくさん出ていたときがあります。外国の数の邦訳の多かった時期があります。いや、むしろ戦後はほとんどそうでした。日本の演歌や民謡ばかりを歌っていたわけではありません。

そういう時期のファンというのは根強いものがありまして、歌の力は大きなものだと改めて思った次第です。

ムスタキと同席する機会があって、全日空ホテルで食事をしました。この人は詩人で、すばらしい歌詞を書きます。元々はピアノや作曲から認められた人ですので、アコーディオンもギターもうまいのです。

ギタリストやピアニストでもあり、大した音家だと思いました。ピアフに見い出された世代の人です。

 

 

ここでかけている音楽には最初は違和感があると思います。

しかしこれから作曲作詞をしたり、歌を歌うのには、感覚として他の人間と違うすぐれたものがたくさん入っていた方がよいでしょう。

 

ここで聞いているだけでは足りませんが、いろいろな音楽がどのくらい入っているかは、とても大切です。聞いただけでも、いろんなフレーズパターンや進行パターンがとれるからです。すぐれた歌い手は、ステージでうまくいかないことが起きたときどれだけ代替作業ができるかなのです。

 

たとえば皆さんの場合、歌詞がとんだらそれで終わり、あるいは音を一つおとしたらそれで狂ってしまいます。ところがプロの歌い手は0.1秒のなかで修正して結果として気づかないようにします。音が見つからなければコードやリズムパターンのなかから探し出し、すぐに歌にして保つことは最低限の能力です。

だから私はヴォーカルは失敗することはありえないといっているのです。正に、失敗するということは最初から歌えていないわけです。

 

 

日本のヴォーカルの多くは覚えたものを繰り返しているだけでしょうそんなことをやっていても人生おもしろくないのでしょうか。舞台ステージが幻想にあざむかれている。同じ歌い方で何度も歌うのでなく、常に新しく歌うことが大切でしょう。

彼等にとっては、歌は話しと同じものだと思います。お客さんの顔色や気分によりかえるのです。

 

アメリカから来日した宇多田ヒカル”というキャッチのアメリカの若いヴォーカリストの記事がありました。「日本は出ただけで拍手がくる、これは絶対おかしい、私が歌をお披露目してから反応すべきではな「いのか」といっていたそうです。

 

どこの国でも初めて来る人に対して、拍手するやさしく甘い国、日本への批判です。たとえ歓迎の意味でも私の音楽を待っていたのではなく顔だけ見たかったのかといわれることになります。でも、ホントにそうなのだから困ります。

 

 

簡単にフレーズの練習をしましょう。なぜ私がカンツォーネシャンソンを使うのかというと、この方が操作がなく伝えやすく基本がわかりやすいからです。

最後の「アルディラ」のところは、ほとんど棒読みというか、単に声を出しているだけですが、それまでのところは全部歌っていますね。その歌のなかでの、歌い手の限界もわかります。

 

たとえば今のプロデューサーであれば、この5割くらいの音量で歌わせて、あとは音響で加工します。うまく結びつけるようにします。だからわからないでしょう。

しかし、当時のはその人間の限界点やこの辺まで声を伸ばせるとか、息が使えるということを見やすいのです。今の音楽から見ると、なぜここまでまじめにつまらなく、しっかりと歌ってしまうのかという感覚になるかもしれません。ビルラやミルバを聞いていてもおもしろくはないでしょう。

 

でも律儀に楽譜通りにしっかりと歌っているものが、少なくともプロと聞こえたり何らかのインパクトを与えるということは、基本的な歌い方であり、大切な基準となるところだからです。

 

 

発声に関しても、基本的な発声で、いわばすべてのノウハウがここにみえやすく入っているのです。基本の勉強をする場合、何フレーズかのなかでしっかりと完成させていくのですが、そのときに見本にとりやすいのです。聞こえる通りに体が読み込んで、その通りに出せれば、変なクセはつかないから、見本によいのです。

 

母音の種類の問題や声の使い方でも統一したところで歌っています。だからがんばっているように見えます。高いところも区切でも絶対に抜かないですね。これができた上で抜いた歌い方があると考えた方がよいのです。

外国のものになってくると、最近は随分歌を大きく揺らすので、どこの点で捉えたらいいのかわからないでしょう。けれど、これはどこの部分をとっても同じです。だから高いところはそれだけ体がいるようになっているのです。

日本の歌い方というのは、悲しいところは悲しい顔して歌います。音色でなく、顔と口のなかで表情をつけます。これもよくありません。音のなかでは、音色やハーモニで表現するのを優先することです。