一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 28633字 1117

レッスン感想 1117

 

 

 

【GW B1特別講座】ほか

 

歌を点で歌う。点で歌う。歌に対して、点で聞き、点で歌うこと。つまり、フレーズ内の強弱をみつけ、踏み込みをはっきり感じて、リズムを作り出したり、タッチをつけたり、流れを感じながら歌うということ。

今出す音で、次を規定してしまうということ。自然流れで歌おうとするのが前提にある場合。次に出す声が、もう次を決定し、ひいては全体を予見するということ。「今」の重要性。流れは感じるもの。

だから、常に先を見据えていないといけない。意識的になりすぎるのはよくないが、考えるというより、全体の流れを感じながら歌わないとデコボコなる。

 

自分の出す声に常に敏感になる。どんなときも、自分の声を自分で聞いて、自分でコントロールしないと始まらない。

歌う中で常に“自由”なること。それでこそ楽しさ、活き活きしたものが生れる。歌を大げさにでもいいから、ポイントとして握ってみること。その大きな軸から、次にどう生み出すかを余裕を持って決めていくということ。

 

なるほど、リズミカルで、流れに乗ると、自由に次に移ることができる。「展開」ということが、感覚で体験することができた。そうなると、どう歌うかと、気持ちも前向きになる。生命感ある“流れ”が描けるようになる。浮き沈み。グッとためること。スッと引いてみること。グッと踏み込んでみること。

展開を感じること。自分の出す声に敏感になる。ということは、声を出しつくっていく過程のなかでは最も基本的な条件なのかもしれないが、それをステージの上の本番でやってしまうことは、いわゆる「入りきれていない」ことにはつながらないか。

 

少しは自分も成長したのか、声を出す前に怖くなるぐらい自分の出す声、瞬間の動作がわかるようになってきた。それがコントロールとしての第一歩だとしても、冷めたところで見下ろす自分を据えてしまうのは、没頭や専念という言葉と対立するのではないでしょうか。だから「出す声を意識する」より「出した声を判断、反省する」ことぐらいに止める必要もないでしょうか。 

 

 

自然な声で自然に歌う。聞く際、音楽が凝り固められたものではなく、自然な流れでできているということを感じる。そして、音の自然な流れ、フレーズの流れ、呼吸の流れを“見る”“感じる”・フレーズ内の強弱の部分を見つける。ポイント(点)を見つける。

 

元気、伝えるという気持をレッスンだろうが、ステージだろうが忘れないという大前提。・どこかに力を入れる練習を全て放ってみて、体の力を抜いて、自然な声で歌ってみること。

フレーズは、頭を使って意味などで考えるものはなく、とにかく歌って歌う中で、自然に決めて、探していくこと。

とにかく歌うこと。歌ってみる。とにかくよく聞くこと。

 

“歌い出し”の声に最大限に注意すること。それが全体を規定するということ。

また、最後に、前に出て歌ってみる、という発表形式が緊張感が出て経験になった。(もちろん、いつもステージだと思ってやっているが。やはり実際はすごい)一言でいうと「自然なものを聞き、自然に歌う」ということ。

それほど強い口調でおっしゃった訳ではないが、いくつかの音楽を聞かされて、ものすごい説得力を持って教えられた。水をかけられた感じ。いつも練習していることのなかで、スパンとその隙をたたかれた。強く声を出したり絞り出したり、感じながら出す以前に、最大にリラックスして声を出してみることを、もう何ヵ月もしていなかった。

強化メニューにもう一つ、いわば「解放メニュー」を加えないと、自分のやっていることがひどく不自然だらけになっていくだけだ。

 

ピーター、ポールアンドマリーなどは、ベトナム戦争期にアメリカでにわかに高まった“反戦フォーク”の代表だが、いつも、どんな同様のフォークを聞いても恐ろしく辛辣な内容の歌詞と、穏やかで美しい曲や歌とのギャップに驚かされる。「こんなことを歌っていたのか」と。正直、初めはそういう内容を伝えるのに、何故ハードロックなどではないのかなどを考えてしまい、平然とした表現で肩組んで歌う姿に違和感を憶えた。しかし、怒りに対して、あるいは、何か特別な思いに対して、そのまったく正反対の音楽で表現するというのは、それこそ逆説的で、皮肉的で、深みを与えているのだ、とも考えられるようになってきた。なるほど、直接的なものより、はるかに冷静で、説得力があって、高尚なのか、とも。一つの解釈にすぎないけれども。しかし、こういう内容の詞で、感情を抑えつつ、音や音の隙、静寂に託すのはどこか苦しい。ブクッと出してしまいたくなる。これが「自然な流れ」ってヤツ。まだ、浅いけど。

 

 

息だけで笑ってみる。これだけでも大変だ。次に声に出して笑ってみる。他の出席者が笑っている中でもトレーナーの笑い声に圧倒されてしまった。人間はこんなにも笑えるものなのかと思った。

 

歌詞をもっと読み込んでいくこと。1フレーズからイメージを広げていく。それを頭のなかだけでやらないで紙に書いてみる。頭のなかだけで考えていると、どうも混乱してしまう。

 

まず歌詞を読んでみる。次に自分の言葉でいってみる(イメージができてくる)この「私」の履歴書をふくらませてみる。自分なりに図のようなものをかいてイメージを立体的にしてみる。曲の構成(途中からドラムインやtempアップのところなど)からもつかめることが多い。

 

この曲のサブタイトルをつけるなら「ユニオンの旗の下で」かなと思った。何度も繰り返されるところでkeyとなるポイントだろう。それからレッスンでも取り上げた「コーヒーとサンドイッチ流しこみ」のところ、1番と最後に繰り返し部分、コーラス(2回目は)も入ってきて厚みを増している。その違いを出せるか。、まずその違いは何か。何が違うのか。その状況を自分なりに持っておくことが大切。それからどう出せるかにとりかかるのだが、最初にやった「コーヒーとサンドイッチ流しこみ」の「コーヒー」くらいしかピントが合っていなかった。

 

声を出せない場所での練習方法:“おかしくてしょうがない”状態で声を立てずに笑ってみる。歌の歌詞を読んで、その詞の主人公の履歴書を書いてみる、できるだけ具体的に、自分がその主人本人になった場合と、第三者として客観的に見た場合では、状況が変わってみえるはず、歌をもらったときに、まずする作業として“イメージをこと細かく書いていく”のがよい。イメージして歌ってみて、無駄なものがつきすぎている。イメージそのものをバンと出さず、いろいろ枝をつければいいというものではない。

 

恥ずかしい話ですが、歌の内容を自分なりにイメージし、実際“書いてみる”という作業は、今までやっていなかったことでした。イメージはしても、頭のなかだけだったので、これがいかに“なんとなく”程度ものでしかなかったか。今日書いてみて、初めて気づきました。

 

自分の想像力の乏しさ、イメージ力のなさを痛感致しました。本来“状況設定”とか“創作”とかが嫌いでない。というより、むしろ好きな分野だと思っていたのですが、今までの自分のステージはまったく創造ではなかったんだと、深く反省しました。でもこういったイメージを書いていくという作業は、やったらすごくハマリそうで、楽しみにしつつ、毎回必ずやっていこうと思います。

 

メロディが簡単で覚えやすい曲の難しさ。一見平坦にみえて、波がある。自分のプランを感じさせること(どこを強く出すか。強く出したら、その後どう着陸させるか等)が、あまり頭でっかちにならず、自然に、単語1コ1コをガツガツと出さずにブワ~ッと流す。体を解放して、ナチュラルに、フレーズを1つの帯状にする、息つぎとはまた、別である。

 

“The Cruel War”は、無理に作らずとも、そのときの聴衆は聞いただけで、その内容にうなずいて皆聞いた。今これを課題として歌うとしたら、時代背景が違うから強調する部分、等変わってきたりはするが、この歌い手は、何の操作もしていない。ナチュラルだから、右にも左にもいける。呼び止められたときに<サービス精神>を持つこと。

 

声が出せる環境でなくても、シャドウトレーニングは、いくらでもできる。何度も何度も曲を聞き、イメージ作りをしておく。いざ歌うとき、さんざん曲を聞いて、おさえていたものがバッと出たりすることがある。レッスンに出て“わかった”と思って帰るときほどウソくさいものはない。また、悩みを増やして帰って、どれだけ練習するか、である。“こうやりたい”“こう、やろう”と思うことが“声が出ない、声を出そう”という意識に、みなかき消され、カラまわりしていました。自分のプランとして“こうしよう”と思うこと。特に“ここを、ふくらませよう”という意識など、まったく気持ちがともなわず、形ばかり、そうしようとしてしまったのでカラまわりしてしまったんじゃないかと思います。が、こういった平坦な曲が、それだけ難しいのか、という気もします。また、自然な自分の声をパッと、取り出すことが“はい、やってごらんなさい”といわれて、できないものだというのが、よくわかりました。無意識にやっていることを意識的にやる練習をしっかりやろうと思いました。日頃の曲のイメージづくり。シャドウトレーニングも、自分は大変甘いやり方だったので意識改革に励みたいと思います。

 

シンプルなメロディで構成を出す。ここのゆっくりとしたシンプルなメロディに、音で展開をみせる。音でのヴォリューム、体のなかでの操作が大切。まずフレーズがみえること。音で出す。英語の発音にまどわされない。きっとそういう意味でカタカナ歌詞が用意されていたのだと思う。(実際にはあまり使いませんでしたが)でもここに英詞の落とし穴があると思うので、とてもありがたいものだ。

 

初めのところを「The cruel was is raging」(cruelの“u”、wasの“a”、ragingの“a”にアクセント)もしこういうアクセントが自然とついていたとするなら、それがちょっとフレーズ感の流れとしてはジャマしてしまうことが十分にあるということだ。よく「母音でつなげていく」というようなこともいわれるが、母音で伸ばして子音が巻き込まれるみたいなことが、このカタカナと「~」こういう伸ばすところによく表されている。自分もよく不自然だなと感じるときは発音を気にしていたりして、音色としてはまったくつながっていないことがある。多分これは先に音色を走らせておいて、その上に言葉を乗せていく方がより自然なのだと思う。

 

歌詞にこだわらず、メロディを大切にするというスタイル。メロディのなかで、曲の流れをしっかり描いて歌うこと。外国の歌手の声は改めて、話しているような感じがすると思った。自分がそれをしようとすると、どうしても薄っぺらいものにしかならず長い道のりを感じる。同じフレーズが繰り返される曲だったが、それを飽きさせず聞かせるプロの工夫というのは、大雑把にしかわからなかった。

ピーター、ポールアンドマリーのライブ映像を見たのだが、改めて、声の深さを感じた。3人全員が深い声をしていて、話し声の響きがすごいと思った。また、表情の豊かさ。歌の世界にいるかのような表情に、アマチュアとの違いを感じた。

 

リズムを感じる。リズムを創り出す。とにかく、毎日のメニューのなかに、リズム練習を加えないと、リズム感は身につかないし、使えないということ。

簡単なウラ拍子などに、瞬時に対応できないということ。憶えたり、反復練習しないと、少し長くなったり、複雑化すると、もうミスが出てきてしまう。

リズムのつけ方の二点・体のなかで必ず、リズムの大きな波を感じていること。・息の送り方、特に強弱と、伸ばすところ。切るところを感覚しながらやると、格段の違いがある。

 

とにかく、リズムを自分が作らないと、客にはリズムは見えない、歌にはならないと肝に銘ずること。もうドラムやメトロノームにばかり頼らないこと。確実にリズムが読めていたのは一人ぐらい。自分も、一回通しでやると10点満点だったら、7~6点といったところ。必ず、どこかでつっかかる。つかみにくいところを意識すると。できるところまで遅れたり。これが一人で人前でやることになったらどうなったか。リズムは間違いなく、10点か0点かの世界。ちょっとでも狂えば、もう0点だ。できて当たり前。音楽の大前提ですらある。ときどき練習するくらいでは、いつまで0点が続くかわからない。とにかくナイーブになって毎日練習しないといけない。いわれるまでもないところ、いつもいわれるところなのに、またやってしまった。地道にやらないといけない。

 

ストーリーを聞いて表現する。歌詞内容などから、その曲のなかで描かれる人物、状況、イメージなどをとにかくできる限り詳細に規定すること。詳しく書きとめるなどして、とにかく、リアルにイメージすること。イメージをリアルにするのは、歌う前にやっておくべきこと。準備。

曲の情景、テーマに対する心情をリアルにするのは、歌う際に、どれだけ内面を動かせるかということ。歌い手の内面が本当に動いていないと、何でもない声しか出てこない。歌はリアルになるはずがない。とにかく、感じながら歌うこと。③同じ音程の、同じ歌詞のフレーズでも、明白に表現し分けること。また、プロの曲から、そういう違いをはっきり読み取れるようになるのも条件。

 

トレーナーは、我々が順に回して歌うと、首をひねって「自分が入門のときには、これほどできなくはなかった」と、おっしゃった。あまりに悔しい一言だった。結局、この時間で教えられたことに、何一つ反応できなかったということだ。全て歌う際に内面を動かすためのものだったのに、「伝わるか」のレベルでは毛頭なかった。ということだ。しかし、それがどれだけ自分の身に引付けて感じられていたか。イメージは「見ていた」だけにすぎなかった。「実感」できていたとはいい切れなかった。それではどうにも表現できる根拠が見つからない。見ること、聞くことは簡単だ。しかし、それによって、内面を動かす、という経験があまりに足りなすぎる。機械的すぎて、何も本質的なことをわかっていないということなる。歌のスミーンなのか。人間なのか、アピールする必要がある。

 

これもくだらないこと、練習して自分でやって、聞いてみる他ないことだが、内面を動かしながら歌うと、あまりに主観的すぎて、ときに大げさで聞くに耐えない自分勝手なものになりすぎないか、ということ。どうにも、歌には「範囲」があるらしい。そうした思いの出しどころを決めるなり、バランスの問題だということなるのだろうが。自分で、力の出しどころ、最も強いところや抑えるところを決めるしかないのでしょうが。ただ動いたものの方が、あまりに平成なものより確かだろう。

 

言葉から音色へ、そして動き出すように。「アンケーセ」はイタリア語でやってみるが、なんとなくでも、きちんと日本語よりも音として絶対に出しやすいと感じた。日本語になると音というより言葉的なところも含まれてくるから、そんなに動かせないが、言葉はあまりわからなくても音として出せる、自由度としてみるなら、イタリア語とかフランス語がやりやすいだろう。だからもっと音の世界の神経を研ぎ澄ますこと。そこのなかの回転するような動き、つかんで放すような動きをまずつかむこと。

 

構成。「Ma io~」から展開していくところを声で出す。音として出すこと。絶対にここでは感覚が変わるはずというところ。強く入っていってバンバンバンとたたみかけていってもいいけど、どこかできちんと握って止まれること。ここでは、「Ma」にアクセントをおき、その後の「io」の「o」で握り、その後はなさずに「non voglio shiederti」から「niente」の「n」で握る感じ。入りは鋭く「マ、イーヨッ」の「イ」で踏み込む。「ニーエンテッ」の「ニ」で入れる。

 

「黒いワシ」これは前にプレで歌ったのを聞いたことがあって、私もこの曲は好きで、歌ってみたいと思うけれど、なんて難しいんだと、どうしようもなくなるな(途中で)ということを思っていた曲でした。まず、「いつか忘れたけど、ある日目が覚めると」でアウト。「いつか忘れたけど」でちょっと間があいて「ある日」と入るところが持たない。一気にまず全部をつかんでから、ためないと、「ため」にはならない。ただの間になってなってしまう。「大きな空がさけて黒いワシが飛んできたの」ここも同じ。自由がいっぱいで好きなようにできる分 、すごく難しくてたぶん自分のなかで探すのに時間がかかるだろうと感じた。ここの出だしでポカーンと間ができたら、もう命とりだと思う。ブツブツと切れてしまっても、よくない。

音の高低がかなりあるからそれもイメージとして入ってなければそれにつられてしまう。「音が自分のなかで自由になる方向にいくのが正解」「自分の内側の秩序を利用して接点をつけていくこと」今日のレッスンでSさんがいった言葉で強く残っている言葉です。こういうことが1つ1つ自分に落ちていくようにしたいです。

 

ことば(点)からフレーズへ(線)レッスンで学んだこと・フレーズを点でとらえてこそ、自由に動かせる。次のフレーズもそれにより動いてくる。

曲の展開は、自分の内側に基準(理由)を持たせないと、ぐちゃぐちゃになる。聞いている人はもっとわからない。

歌うことは本来気持いいこと。ピークになるにつれて苦しくなっていくよりは、もっと声出したくなるという素直な感覚をもっと大事にする。内側のものをもっと展開に組み込んでいく。

 

プロの歌を聞き、すごいと気づくこと。これをなくして何も始まらない。特にカンツォーネシャンソンは、演奏技術よりも歌い手の力で1幕、2幕と曲を展開していっている。その力とは。トレーナーはもちろん、私よりも、このことを長く続け、量をこなし、今の力を身に付けている。そしてたくさんの課題にぶつかってきたのだろう。私も早く追いつき、越えなければ、という闘志のようなものが湧いてきた。裏にある練習を少なくても越えなくてはいけない。

 

詞のストーリーからイメージを創ろう。まずトレーナーの声に驚いた。初めの一声で「えっ」て感じだった。声のヴォリュームっていうか厚みがすごくて、吹き飛ばされそうなくらいビンビンきてた。こんなすさまじい声を生で聞けただけでもよかった。ただそこから先が辛かった。誰もまったくイメージを飛ばせてない、と注意された。そして最後までコメントは変わらぬままだった。すごいショックだった。

 

自分の実力不足のせいでレッスンがレッスンにならなかったのだ。イメージを明確に思い描くこと。そして主人公はどういう気持なのかを探る。そして主人公になったつもり、もしくはその場面を見ている第三者のつもりで歌に気持ちを込めていく。という過程はわかっても、何も出てこなければどうしようもない。

 

初めに歌詞を見たとき「やりにくそうだなぁ~」と思ったが、それもただの言い訳。本当に必死になって伝えたいものがあれば、気持ちは入るのだから、その状態をつくること。歌じゃなくてまず、言葉をやるべき。また、フレーズを自分がやっているとき頭で考えてしまった。これじゃできるはずがない。とにかく表現は厳しいもので、死ぬ気でやらなきゃ、もっともっと練習しなきゃ身につかない。そういう気持を持っていよう。きっと今もどこかで甘えている自分がいるはず。他の人はどうか知らないが、トレーナーにこんなダメ出しされて「はいそーですか」で済ませられるわけがない。

 

プレブレスヴォイス座の観覧のグレードがA3からA5になったのもレベルが低いからだと思う。現状がヤバいという意識をもっと持とう。これじゃ絶対プロになれない。発声面よりも感覚面を鍛えよう。音楽をもっと聞こう。

 

リズムを取るのは楽しい。小学校くらいから何気なく8ビートを刻んだりしてたが、それも体に入れるという作業だったんだなぁーと思った。ブラスバンド部でパーカッションをやっていたのでシンコペーションもリズムを取るのは簡単である。さらに楽しかったのは、体全体でリズムを取るということがわかったかもしれないが、頭は使わず、感覚でやってたことだ。

 

腰で拍を刻み、リズムをつくり、頭も少しゆらしながら、というのが体でリズムを取る、ということかも。言葉で説明するのは難しいが、以前ゴスペルを見たときに彼ら黒人がやってた感じをまねてみた。そうしたら普通にリズムをとったり声を出したりするよりも楽にできた。そして楽しかった。ノッてくればノッてくるほど、これは楽しい。

 

このクラスでほとんど説明などがなく、ずっとリズムをやっていたのは、体に練り込むことと、課題のリズムは与えているのだから、そこから何を学び、どう学ぶかは自分で考えることだと感じた。あと印象的だったのがパソコンを使って音を出していたということ。多分、電子ピアノにMIDIインターフェイスでパソコンから出させていたのだろう。なんかうらやましかった。、まず、思いっきりやるということ。当たり前のことのようだが、もっと自覚すべき。リズムはいつでも体で取る、というようにする。その方がリズムを取りやすいし、楽しいし。ただ一定のテンポの裏拍をずっととっているといつのまにか体が裏を表でとってしまっている。それは日常の暇な時間などで直すようにしよう。体が裏を刻んでしまうと、感覚がわからなくなり、気味が悪い。多分慣れていないせいだと思うので数をこなそう。

 

「話し声の延長線上にある歌 -The Cruel War-」大きな曲の流れの意識。体=気持ちを解放。時代の共有感―表現は大げさに演る必要もない。歌い出してニュートラル→次に強くも弱くもいける(一番ナチュラルでいくらでも操作できる声)。やっばり声が浅い。ことばとして握っていられない。フレーズの最後のことばのおきかた、最後のおと(音の消え方)のいい加減さ→“3倍の意識”の欠落。キィ設定のミス(まったくいつもながら)→自分の声が一番生きる高さを体で覚える←反射的に返事として出せる声が取っかかり。

 

ポイントへ向けた流れ、ペース配分の計算=ヘンなところでブレスが切れないように。←“キメ”の部分のあとの着陸の仕方。始まりの数小節の何たる弱さ。ていねいに、静かでもテンションは高く、変に歌ってしまわない。たとえ、すべてがミスってうまくいかなくても、気持ちだけは何とか外へ出すように、気持ちを切らないように。硬い。まだ表情が一本調子。もっと極端に演らないと、たぶん聞いている側には伝わらない。何か、ことばがまだ自分の体から(ノドを通って口から)出ている感じがしない。いつもながら足りてない。一発でキメる集中力。常に“世界へ”向けた本番一発勝負の緊張感のなかで、どうリラックスするか。 

 

日頃から、素人は生まれつきの“器用さのようなもの”を誇らしげに歌っている。だから、作品での勝負でなく、自分がすぐれていると思っている。そこで、感情的に競ったり、うぬぼれている。だけど、新曲は歌えても、何年たっても、イマイチで歌い、今日は調子が悪いなど、言い訳ばかりで自分をごまかしている(実は、先生の本を読むまでは、これは私のことです)。“器用さ”より“基本を身につける”ことがいかに勝るかを、今は少しでもわかりかけてきました。器用さは、ごまかし、まやかし、うまいつもりの世界だからうぬぼれる。

 

基本は、自分はこんなこともできないのかと、気づき謙虚になる。世間でよく基本が大事とは耳にしますが、どうも基本ではなく、掘り下げの足らない、なんとなく新しい発見のない、音楽のための練習のようなもの、やりたいようにやったら結果が音楽になる基礎など、どこにもない。ここで始めて、一生やっていく課題に巡り会えたような気がします。だから、私の人生に生き方に、大きく歌が関わってきました。「声」を通じて、ここまで人生が自分が学べるものかと驚いています。

 

体をやわらかくし、リラックスさせておくことの重要性。歌うこと、声を出すことが、気持ちよいことを実感できるか。私の場合、両肩がすぐに固まってしまい、周辺も固くなっていく。いつもほぐして気にならないようにする。あと下半身もっとやわらくする。筋を伸ばすことは気持ちがよい。体をやわらかくして、体を使って自由に歌うことはとても関連があり、重要なことのように思う。体操の選手ではないけれど、とことんやわらかくしてしまおうと思う。あと立っているときの重心。

 

トレーナーのお話で、一流の人は歌うとき、足の裏から重心を引っ張られているような感じがする人もいる、ということを聞いた。私はそんなのを感じたことがないので、驚いた。まだ腰にも下りてきてない状態だ。それに立っているとき、私は左右に揺れてしまいがち、前後も安定していない。特に左右でいうと、左足の重心から外側へずれている感じ。もっとまっすぐ立つ。重心下ろす。

 

歌は自然なもの。トレーニングについて「肉の練習」と「草(野菜)の練習」の両方でやっておくことの重要性。つまり、体一杯を使って鍛え上げる過程の他に、姿勢の詳細な確認や、ポジション確認。リラックスや歌った後の声の出し方。体の使い方などについて、本当に細かくチェックしていく「地道な練習」をしないと、どうすれば自分にとって最善の方法なのか、という問題からズレてしまうということ。

歌というものをもっと、自分の日常の生活のなかに取り込んでいくこと。歌は歌と考えるだけでなく、もっと当たり前の表現欲求に近づけていくこと。そうした意識的な改善・改革がある限り、本当に「自然で、当たり前の表現」にはなり得ないのかもしれないが、いままでは歌というものを分けて考え過ぎるために、妙な不自然さが抜けていない、という先生の指摘は、その場の誰しもにいえることだった。「自然を意識する」のは逆説的だが、そうしていかない限り、いつまで経っても根本は変えられないかもしれない。ということ。

「自然に歌う」ことは、「なにも考えず、心を静かにする」ことと必ずしも同じであってはならない。伝え、表現しようといういう前提を失ってはむしろ、単なる脱力であって、不自然に見える。しかも何も起こらない。自然を心掛けて歌ってみたとき、自分がやっているのは体の力と同時に、心の力も抜いてしまうことだった。二回目にフレーズを回しているとき、トレーナーにゲップをされてしまった。それ程退屈で、何もしなかったということだ。悔しくてならなかった。歌い終わってみれば、体の力を入れ、声を意識していたときより何も考えていなかった。何も感じられていなかった。内側の何も動いていなかった。その結果がこういうことだ。だから「自然に歌う」とは「体の力を抜いて、ムダなところをまず、全てとっぱらって、心の動きだけをストレートに前に出していく。心の他に何も介さず、解放していくこと」であって、無心、無意識を考えることではない、ということ。無心になるには、心にまかせ、空間を作り上げられた瞬間に結果として、あるべきもので、目的であるべきではない。また、先生に「自分の好きな歌のフレーズをやっていい」といわれて、出し惜しんだ姿勢、ためらい、しかもそれをしなかったという結果はまったく最悪最低だった。自分が今何をしているかが露骨に出ていた。入ったときより、その点、失ってしまっているところが多いことは、どれだけ反省してしても足りない。自分にできることがまったくわかっていないし、できていない。できたことができなくなっている。最低。

 

ウオーミングアップだからこそ力を使う。いくら声が出るようになっても毎回意識して、注意してやるころ。最後までいい切り、体でとめる。「あおい」もう、ぶつけてやることはしない。あーおーい。次の音に移行するときの変わりをつかむ。その一瞬のなかに何が感じられるかが能力。不必要なことはやらないこと。声が出ているとか、長く伸ばせるとかじゃない。そこに生が入り、心が伝わるか。間違えても、狂っても、本人が気づいて、すぐフィードバックできればいいけど、たいていは自分の間違えていることに気づかないから直らない。

 

まず音の世界が読み込めるか、音に対する繊細さが磨かれているか。

自分の体から、それを外に出していく。計算された自然を1回で感じられるように。声とか歌とかじゃなく、その人間がきちんと伝える気になっているかどうかだ。必要に応じて出てくるのは素人。必要を作っていくのがプロ。たった1フレーズでもいいから、完成させ、次につなげてゆく。そういう勉強をしているかどうか。誰でもやれるものは価値がない。その1行に対して、そこまで感覚が変わり、わかってくるまで家で1人でやること。自分の呼吸も後ろのベースときちんと合っている、外人。すごいグルーヴとなる。ある意味ではつきはなさなくちゃならない。

つきはなして前に提示する。自分が音をどうつかみ、どう動かしていくのか。

 

古典、名人の1フレーズ、そのステージを何百回見て、 その通りにやってみる。できることをできるだけやっているか。何度も何度も耳で聞く。おもしろくなるまで聞く。更に時間をかけ、自分の呼吸で自分の体につなげるまで。適当にやっているとつまんないまま終わる。おもしろくなるまでやること、大切。遊びながら。だってそこからリズムや音楽が生まれる。うまくできたら、よりつめてやる。それ以前で終わりにしてしまわない。一偏にやって自然にできるまでのトレーニング。深めるために基本の勉強をする。常に自分の体を解放しておく。心の持ちよう。どれだけ聞けるか。

 

捉えて出す意志。各文字にリズムがあるというより、まとまったフレーズのなかでの速さや、入り、リズム。日本語の1つ1つにリズムをつけすぎちゃうと変。言葉をたたきつけたり、おいたり。形だけなぞっていくのでなく、1つずつ自分の体で捉えて、ねらって、出す感覚。自分のなかで配置をコントロールすると、まとまって聞こえる。本物はもっとサクサク入っている。適当にやるわけでなく自然にやること。苦しそうにでなくラクに。意識が1つであるかどうか。そういうのがわかると聞きやすい。あるものだけでやってしまおうとすると、伸びていかない。とりあえず、ないものに取り組むということ。人間はできなかったことができるようになっていくもの。自分が興味があることじゃないと聞こえないもの。だから心を白紙にして、とりあえず聞いてみる。

 

課題が必要。どうしてもわかりにくい、できるようになりたいと思って、それまでの具体的な課題をやっていく。細分化し、まとめる力。捉え、どこにさくっとはめるか。音をそこに入れる。という欲求。こんなもんかな、じゃなくて、明らかにここを捉えて出すっていう意志が必要。まずアクセクしてつかんで自分のペース、呼吸でやる。アクセクしたってやりたいかどうか。そこから先、もう1回練習が始まる。休んでも後で取り返すこと。

 

自分のなかに思想や意志もなく、フレーズを作るな。当てずっぽうでやるな。その方向を捉えて出す。胸の低いところでの響き、はーという発声を続ける。そこに言葉を入れていく。自分のタイミングが客観的に聞いて気持ちいいとは限らない。くせだけでやらない。自分のなかになかった呼吸も取りにくい。くせから抜けきるように練習。なるべくプレーンに最初はあくなく素直にやってみて、まずそれをできるようにする。何故くせをとった方がいいのか、というとやれることが広がるから。それ以降が自分の味の問題。

 

発展性がおもしろさ。感覚、ビート、実際に感じてそれを出すこと。(16分音符×8の5つ目アクセント)ダウダウ、ベターッとなんない。硬いのだめ。リズムに対して、もっとうねって円に。ただ歌うだけを回すんじゃなくて、その歌の根底にあるグルーヴ、歴史、命、のり、を歌う。きめ細かい練習を普段からすること、かつ大胆に。やはり理解できない曲は歌えないから、あらゆる種類の音を聞くこと。理解してないと、雑で勢いだけになる。SoulならSoulのJAZZならJAZZの、はっきりとしたものを理解する。リズムへの感覚と体をとにかく鍛える。体が感覚が柔軟であること。リズムはいろんなものを解放する手段になる。

 

速くて、わかんなかったら、まずゆっくりやって、余裕を持って感じて、そして速い中でも沢山感じる。自分の感覚のなかに固まってしまわないこと。真っ白の方がいい。新しくいろんなものを聞けるために。気づいて、できて、わかってくるともっと楽しくなってくる。切り替え。すぐその体勢に入れること。固まってしまって発展性がないとおもしろくない。ああこの人、いつもこういう感じかって。聞いた瞬間にもう動かなきゃ。

 

例えばバラード歌ってから16ビートの曲歌うときとか、そのシーンとなってしまったところからすぐに切り替えて、そののりを出せなければ。沈んじゃってから盛り上げるまでの時間を自分で作れるか、が大切。リズムを出そうとすると、歌が引っ込む、だからどちらも定着するように、何度も何度も作り直し。

 

家でCDを聞くのに入れないのは蛍光燈が悪いと思って、ちっこい間接照明つけてみたりしたのですが、そのときは単にムード問題と思っていました。先生がスタジオを真っ暗にして“この世界で音を聞いています”といわれたとき、なるほどと思いました。視界を取り除き、耳だけ、音声の世界。カンツォーネを聞いたり、回したり、話を伺ったり、またCDを聞いたりするうちに“ふみこむ”“離す”というのがようやく、ぼんやり見えてきた気がしました。声は見なくても“体が動いている”という感じがしました。

 

「TAXIに手をあげて」“タクシー”一つにまとめる、TAXI、タ~テーテ、タ~テあげて、即興でパッと切りとってできるところが自分のレベル。開かれた耳や感覚が再現するものはカンツォーネだろうと、民族音楽だろうと同じと思う。投げる言葉は、その人であること。ことばからメロディが聞こえてくるような気がすること。「タクシー」か何かを先生が息でいったとき、あやしい迫力がありました。スタジオのスピーカーで聞くと「おでん」っていうバックバンドも「ちくわ、はんぺん、じゃがいも」っていろいろ鳴っているのがわかるし、線とか見えやすくてインスピレーションが湧くのかもしれないと思いました。

 

家に帰ってアテンダンスを書いていると、いろんな人のホォ~って息が真ん中に集まったレッスンというライブの空間がとっても不思議な気がして、本当のところどれくらい吸いあげたのか、不安になりました。

 

ミルバの色っぽいLAN LA LA~って短い課題に全てがつまっている。入っていないものは出てこないし、見えないことには詰めようがない。まわりを気にしないとか、自分が引っ込んでいるところで出さない。(放り投げる)とか、集中力とかって“前に出ましょう”とか書いてあるの読んだり、いわれたりしたら、できるとか、そんなんじゃなくて、うまくいえないけど、それが前提であるというのはそうなんだけど一緒に深めていかなきゃいけないというか、単純なようで、ムツカシイようで、簡単なようで。スタジオの真っ暗闇は迫力があった。テノールとかバス云々の次元で声作れる可能性。

 

エネルギーの出し惜しみをせず、集中すること。あおいに対してもっと神経質に。あ、で開きすぎちゃうと、おい、で追いつかない。感覚がわかってもそれを詰めてかないと。ああ、体ってこういうふうに使うんだなってわかってくると雑になる。感覚として歌い手はピアニストよりも上をいっていないと。歌い手はピアニストを聞けないとだめ。歌とピアノのかけ合いのところを。ピアノの連続した波(うねり)に負けないイメージができてないと、指示できない。歌詞とかよりもその曲のポイント、ノリをつかむ。そしてその曲の表現やノリの微妙なところをバンドに指示できないと。ドラムがシンバルくっているとことかで、歌い手もそこに体で入ってないと、歌だけういちゃう。感じ方が小さいし、聞かなきゃいけないところを聞いていない。これだけ聞いててノリが入ってないの。こんなにはじけているテンションの高い歌なのにあなたが感じてたのはそんなもんと。音楽で動きを出すのに、全身を使うのが歌い手でしょ。なんでこんなもたついているのと自分で思えばいい。しかもフレーズは絶対バラついてとっちゃいけない。“体で展開”する。その感覚が展開されるまで、注意して聞く。慣れすぎてて、自分勝手にもってくくせがついている。小さくおさめてしまうな。相当求めていないと、それ以上は聞けない。人は必要なとこまでしか聞けないし、できない。そのリズム1つ出すのに全身を使わないと。フレーズを2、3回回したところでハーハーいうくらいになっているのが本当のトレーニング。

 

自分にくやしくて涙が出る。自分に負けた自分がくやしくて涙が出る。誠実でないことをした。「消化不良。それは今自分が全身で歌わなかったからよ」といわれて、自分の器の小ささに泣ける。あれほどの覚悟をしたはずなのに、その場のときをまことに生きれなかった自分は情けない。どんどんおごって、甘えて、ダラけて、集中力も落ち、注意も雑になっていく。こんなんじゃだめだ。この間2年くらい前の、声のことも、ステージングも何もできてない、歌いはじめた初期のライブの映像を見たら、今よりはるかに、一所懸命にけなげに伝えようとしていた。痛々しいほど、がんばっていた。あの自分はどこに。今の私はエネルギーの出し惜しみをしていないか。こんなんじゃ意味がない。より自由になるために、より伝えられるために、その声を手に入れ、人の度量を大きくし、私はやっていこうと、そういう人生を選んだのに、何だ、この時間に私の出したフレーズの命のなさは。ひどすぎる。とても悲しい。自分に、親に、先生に、神様に申し訳がない。自分で自分を愛し続けられるよう、怖くとも自分に負けず挑戦していくしかない。恥をかける自分に。このチャーリー・パーカーの言葉を忘れぬよう。「音楽とは君自身の経験であり、君の思想であり、君の知恵なのだ。君がまことの生活を送らなければ、君の楽器は、真実の響きを持たないだろう」 

 

自分では、何をどう直せばいいか、まったくわからないでいたことを、ちょっとした指摘通りにしただけなのに、随分と違って驚いた。具体的に言葉を発するとき、あてる位置が遅い。EX.「wise men say ~」のワイズの母韻のアの位置でなく、「WAIZU」のWのとこであてる。そして、もっと前に出していく。ゆっくりで単調な曲だからこそ、あてる位置を早くすることで、スピード感をだしていく。知識があるかないかで、全然ちがうことにはっとしました(当たり前のことですが)。

 

フレーズ回し1回目、2回目、3回目と感覚を変えていく。m―ma―はいっ共通して音つけてみる。体と心がバラバラで、うまく息を使っていない。響きだけじゃオリジナルにならない。吸って吐くときに、瞬時に声にしていかないと歌にならない。自分に置き換えて、自分がやだな、と思うことはお客さんにしない。内輪のライブは伸びないし、そんなとこで判断してちゃだめ。もっと本当のとこを見てかない。客観的に聞き、感覚を、基準を上げていかないと。

 

声って必要に応じてしか出てこないし、必要な分しかとってこれないもの。だから、自分がその声をどのくらい必要としているのか。でその分だけ身につくもの。だから、必要に応じてやればいいだけのこと。フレーズを回すとき、1回目、2回目、3回目と感覚を変えていく。同じやり方じゃいけない。うちで歌うときも、10回やり直すんなら、10回違うやり方をしてみる。そのなかで自分がステージでやりたいのはどれかと。そうしないと伸びない。いつも同じ1つの感覚だけでやってちゃだめ。いろんな感覚を自分のなかに。体が足りない。息が続かない。練習が足りない。体力もない。

 

ステージ実習②、もっともっと集中することが必要。そして、自分のなかでのピークをもっと前に、立体的に出す。空間を支配する。音声で支配する。なんてゾクゾクすることだ。声の捉え方。ピークのところで1番いい声をだせるように。言葉に気を入れること。音に表すこと。まったくその通りであります。

 

自分の言葉で、いつもいつも自分の言葉で自分のものとして。オールディーズとか、さも、みたいな終わり方。それはそれなりに理由がある。ゆっくりと気持ちよく終わるとか。Georgia Georgiaと2つ、続いていたし、意識を切らないように集中してつなげて。アカペラだけでも、もっともっといろんなもの入れていったら音楽になる。最低限の音楽ができた上で、自分の味をつけらんないと。何て難しい。それにはいちいち体でやっていくこと。

 

「Honesty is such a lonly word」のフレーズから「such」がはみ出してはだめ。ぶつけて、はみ出しちゃったら壊れる。あてないし、広げてもだめ。ここの速度、入れ込み、踏み込み方、前のめりに。どういう角度で入れるか。自分の角度や踏み込みを見つけることが大切。Honestyのときにsuchのこと考えてたら遅い。体は間に合わない。それには、もっと前、歌の始まる前から、大きく大きく容量を広く体を開いておくこと。今できなくても、感覚さえ持っていれば、感覚は前に出てくるから。「Rainy day(間)はね上げて砕け散った」の最後の「ay」、こういうところに、いかに気を使えるか。「ay」から間(ま)の練習。「ay」を置き続けている感覚。自分がつなぐ。アカペラなど。 

 

出だしのDaは低いし、出しにくいけど、だからという訳ではなく、最初からDaーっとMAXでやってしまうと、やっぱりおかしい。1回目はこのテンションを壊さないことを気をつけてやってみた。でも、私の口から出たのは、“出だしからMAX”だった。変だった。でも、この勢いは必要なのだと思った。それでビートルズ演奏風景を自分なりに想像して、それにビックバンドをつけ、コーラス隊(男性、ヒッピー系3人)をつけ会場は大盛り上りで、そこに、客のなかにも、ステージ上にも1人ずつ自分を置いてみた。そうすると出だしが、とにかくおかしいと気づいたので、徐々に盛り上げていくことを考えて、出だしはやはり、いつもいわれる“ていねいさ”も含め、「ヨーイドン」の体勢のような感じ。それで2回やってみる。でもまだ勢いあまって、つんのめりそうになって、コケた。それは「better better」からとっていくと一回ピークをむかえた直後の出だしということもあって、余計に、呑まれてしまう。でも、ここは3回目は、バランスを考えやってみた。何かが違う。

これがきっと先生のいうところの「固い」とか「直線」だと思った。それこそ、天国の階段を登っていく感じ。明るく、みんなで、「やっとこの世ともおさらばだよ、いろいろあったなあ」とかいいながら、肩を叩き合って、ゆるい坂道(の方が階段よりわかりやすい)を天国をめざして登ってくる感じ。それをイメージしたから、それを出したかったのに、私の口から出るものといったら行き当たりばったりな感じで、できない。何が足りないのか。そうか、円だ円。ぐるぐると円がクレッシェンドして、どんどん、巻き込んで「Hey Jude」まで、もっていくんだ。4回目、とてもじゃないけど、「Hey Jude」までなんてもたない。と中で、しぼんでしまう。これは大きく捉えることが大事で、だからといって音量や勢いではバランスのため、出だしは、fではない。ただ意識はもちろん、息と体をしっかり大きく入れとかないとだめなのだ。そして、これだけのことを、頭で考えずとも、体で、音を聞いたときに読み込んで放出できることが、1番の課題であると思った。

 

「It's not situation」 「Georgy Porgy puddin' pie」今回のレッスンのテーマはリズムを体の芯のところで感じ、刻めているかどうかですが、見本を聞いてリズムをとなると、手・足・頭という表面的なところで感じ取っているだけでした。しかし、自分の番になるとそれすらも止まってしまい、いつも通りになってしまいます。この曲は16ビートで、最近の音楽はそれが多いのに、その感覚が自分のなかにとても少ないというのを感じました。だから、この2つのフレーズはノリがない、つっかかる、いい意味で流れない、はねない、メリハリがない。こういう取り方はよくないという例を全てやってしまったという感じがします。特に2つ目はひどかったと思います。小節のなかで終わった、音が取れた、歌詞を間違えなかったと、そこのところだけで全てが終わってしまいました。

 

「Mull of kintyer」は比べるとかなりゆったりとしています。ただそれは単に遅いというものではないのでしょう。「歌は聞いているけど、演奏は同じほど聞いてないでしょう」という話しがありました。これはリズムをつかむ、感じるコツは演奏からの方がその流れ、変化を学びやすいということなんでしょう。まったく違うリズムということがすぐに、このフレーズを聞いて3拍子で、速度はこれで演奏はどんな感じで弾いているかというのを感じ取れるようになることが必要だと思いました。結局こういったことも日々の積み重ね以外にはどうしようもないということなんでしょう。速度は出たものであって、体のなかや感じているものは決して遅いものではないはずだと思いました。速かろうが遅かろうがテンポに関わらず、メリハリがなかったら間延び、空まわりにしかならないのでしょう。

 

「that I'm not givin' you up no oh no」最後の最後までつかみ切れずに終わってしまいました。自分の感覚でやってしまうと、だらっとした感じになってしまいます。見本はさらっと歌っているようでメリハリがきいていました。やはりこれは体の芯にリズムが流れているから、そういう歌が出てくるのだろう。例えばサビの繰り返しが3回あった場合、2回は伴奏付きで歌い、3回目にアカペラのみにした場合リズムがしっかりと感じ取れていれば伴奏がパッとなくなっても、聞いているほうは同じように聞こえるはずです。一流の人はみんなこうなっていると思いました。だから日本のプロのヴォーカリストも声がそんなになくても、こういった点をきちんと持っているから、ノリが出てきて気持ちよくこっちも聞けるんだと思います。

 

自分のフレーズは“生きていない”ということを最近感じさせられます。よく野球のピッチャーで生きた球、死んだ球というのがありますが、私の歌は後者のような感じといえます。いくら150Km/h出ていてもコントロールされていなかったり、回転がよくなかったり、ウエイトがのっていなかったら、簡単に打ち返されることがあります。ヴォーカリストも大きいだけの声、音がとれているだけの歌も同じような感じなのでしょう。最終的には聞いて気持ちいいかどうか何でしょうが、そこへくるまでの綿密に計算された(これは計算して出すというものではなく、反復によって身についたこと)ものが裏に隠されているということがないと、本当の意味では伝わらないのかなと思いました。

 

歌い手が何をつかんでいるのか。“Last Waltz”(日本語)ことばから入る→メロディに乗せようとしてしまう。出だしの音、ピッチをもっとていねいに。もっと神経を使う。低い音、ピッチ、息が伴わない(リズムでもっていってしまえばいい)→ことばをしゃべる意識でか。 リズムの意識、体で何かを感じようとする(自分がジャマしている)と、声をトバすことがトンでしまう。フレーズのポイント(リズム)かなり大げさに演るつもりでないと出せない。そこまで息をもたせるための罫線。やっぱり一発でキメる集中力。そいつが欠けている。チェックポイントの設定―ステージでのオリジナリティと違うベクトルに。もっと純化されたもの。すぐれた歌い手ほど、シンプルに演っている。計算外して自分のなかの感覚をもっと信用してみる→LOOP←それでダメだったら、もっと音楽を自分に入れる。

 

声・歌・音楽→ステージ これに集約すること→どこにピークをもってくるか。 “暗い日曜日”フレーズの一番最後の音の難しさ。不用意に伸びっぱなし、震える。作品として成り立っている規律。曲になる前のベースの部分(曲ができるような感情など)をつかんで表現していく。メロディよりことばの段階、感情を声に出した結果としてのメロディ。感情、ムードにひっぱられて、体が動き、声が出てしまうのが理想。フレーズが長くなると、そのなかでもっていき方(配分、3倍で考える フレーズが終わっても、フレーズのあと2倍の時間はテンションが続いている感じ)は恐ろしく難しくなる。小さい名かでは多少、展開しても大きく見るとすごく平坦。歌ってしまってはダメ。それは単なる歌の紹介に過ぎない。

 

語尾のだらしなさ―フレーズごとにシマリをもって。“息吐き”を意識しない、出さない→しぜんに身についてないと、ヴォイストレーニングやっている意味はない。自分がやっていること、出した声が一体どう伝わっているのか。 客観性を知る、感じる。いつも同じ感覚で歌えているか。 いつも出しやすい状態になれているきか。 それのサイクル。

 

Aメロ、Bメロの押さえ方←サビがサビとして成り立つため。微妙なメリハリ→(日本語)ことば、メロディを動かしがち。作品として流れているダイナミズムをどういう呼吸に置き換えるか。 その歌(曲)、歌のルール→自分が劣っていると感じたら、ルール70%、自分のもの20~30%、そうしないと、作品として成り立たない。リフレインの意味(まったく同じ歌いまほし)=区切りをつける→次にまた新しく入れる。それに乗っかる。

 

自分の思い込みや考えが流れを切ってしまう。歌い回し、それまでの流れ&それからどこへ向かおうとしているのかのなかで決まってくる or 考えるべき。キィのコンバート、そこで完全につまずいている。演ろうとすることがちっともできないもどかしさ。自分の感覚のなかに音がないから、そろそろいろんな音楽に対応できないと。客にとってあたりまえのレベルでつまづいていては、何の意味もない。演っているときには、一切妥協しない(トレーニングでも本番でも)。迷っている部分はスパッと捨てる→そのときに生きているモノを入れていく。

 

歌には形がない自由であるということを感じさせてくれた。サム・ハリスという若い男が「Over the Rainbow」を歌っていたのだけど、原曲とはまったく違う、新しい新鮮な曲になっていた。こんな歌い方もあるんだなと思いしらされた。あれが彼の呼吸であり、そしてリズムなのだなぁと思った。リズムは頭で考えて工夫してずらすのではなく、そのまま自分の感覚で音を動かしているのだ。私がやっていることと彼とは全然話にならないレベルなのだ。でも今の自分のやり方を否定してもどうすれば正しい答えが出るのか、さっぱりわからない。

トレーナーは、「体とリズムとの呼吸を一致させないといけない」や「大きなテンションと呼吸を維持しよう」などいろいろいっていたけど、そのへんも関係あると思う。

 

サム・ハリスは声で踊っている。そして客に伝えている。そういえばスティービー・ワンダーも出演していた。彼らとのあまりにも大きい差を強く感じてしまった。彼らのようになるということを、ちょっと甘く見過ぎていたらしい。Rを見る度に最近は毎回思うのだが、もっと必死にならないと。音楽、歌に対する判断や基準ももっと厳しくしよう。彼らと比べると、今の自分を見ててプロになれる気がしない。彼らと同じステージに立てる気がしない。でもやらなきゃ。まだ心のどこかにある余裕を早く消去しないと。がんばります。

 

言葉から、伝わること、イメージするどうしても「言葉を読む」ということから「音声として表現すること」にいくまで時間がかかる。気づくと、ただ読んでいるだけだ。それをつかんで自分のなかに入らなければ出てこない。その作業はゆっくりやっていくしかない。読んでしまってはいけないのである。間が一定で、とても不自然になる。ナレーションするのはきちんとていねいにそのことを伝えることであって、表現する、音声としての表現ではない。そういう変な固定観念みたいなもの(声のトーンとか)は除くこと。

 

言葉を新鮮に届けるには、自分が新鮮に読み込んでいなくては出てこない。その「新鮮さ」このことが、今日のレッスンで一番自分に響いてきた気がする。それはきっと瞬間的な感覚のことかもしれないが、例えばトレーナーが今日はこれをやりましょうといって「人家は地面にへたばって」と黒板に書き出していく。次は何。何だろう。どういうこと。と思いながら言葉を写していく。そのときの言葉との出会い。それをどうするかということを練っていく時間のなかでだんだん慣れていく。(その言葉に)そうやって自分のなかに取り込んでいれていくのと、最後にやったように、パッと言葉を与えられてすぐに出すというのは、もう感覚的に出すしかない。そういうときの言葉の新鮮さを大事にすること。

 

言葉の明瞭さが、ここまで重要なポイントになるとは思ってみなかった。言葉だけではなくてメロディラインにも聞こえてくる人のものはしまりがあった。4人にすごい差があった。練習の差だと思う。濃い練習をしているか、していないか、ただそれだけ。今まで粒をそろえるとか、質をそろえるとか、オクターブを体でとるとか、ふーんという感じで気をつけるには気をつけていたが、ここまで目の前で実感したことはない。自分の練習がかなり変わった。やっていることはあまり変わらないが、粒をそろえることが目的ではなくなったから、やみくもに歌わなくなった。自分の声を出せるということが、こんなに大事だとは思わなかった。そして多分それは一つなんだろうなと思った。つめが甘いのか勘違いなのか、何でそんな歌い方するのというのや芯がなくて響きのきれいさだけでやってしまうのは違う。伝わらない。

 

嘘と本物の差はたった一つ、一つの言葉を音として声として、濃く練習しているか。はっきりいって全部クセなんだから、クセのところで見ないで声のところで濃い練習をしなきゃダメだ。と人のことをいっているが、自分にいっている。何か定まらないのは練習が浅い薄いからだと思った。自分のことが一番わからない。自分の英語は相当ヤバいぞ、と思った。日本語でも英語でもはっきり聞こえる人は聞こえる。それはその人のクセのところで歌っていないからだ。英語は特に適当に読んで、それでよかったけど、全部クセ。ちっとも声のとここでやっていない。そんなものじゃ輪郭は定まらないなずだ。読み方の練習ではないということ。声のところで濃く練習するいろいろとおもしろい課題が出てきた。上半身を脱力して柔らかい声で出せているか。さんざんのどの奥を開けとか、声帯を柔軟にするとか、ため息で楽に出したところに体を入れていくとか、体のなかをあっためてから練習するとかいわれたことが一気に体のなかによみがえてきた。

 

MCの差。まったく出てきてから退場するまで自分の仕事だ。聞いてられないと思ったことが何度もあったが、勝田先生のレッスンで、自分が似たようことをやっている。練習不足できたらお客さんに本当に失礼だし、MCで動転してわけのわからないことをいってしまったり引き気味に脚本通り行ってもだめだ、と思った。何をすべきかといったら第一に、歌をきちんとすること。第二に空気を察知して話すことの大切さ。トータルで自分の責任。

 

自分のなかに、こういう詩を読むときに何ができていないのかの基準がないと思った。できていないといったら、自分はできてないんだけど、声や歌のように少しでも言葉のMAPを持っていればいいのだが、多分、ピアフと自分が目の前でやってくれても、全然違うということはわかっても、その差が何なのか、どうやって埋めればいいのかはわからないだろうと思う。今思えるのは、一所懸命やっても、読み上げても、読み方をしてもだめだということ。これを一体何に近づければいいのだろう。伝わる人の歌は何かがその人の声となって伝わってくる。イメージだとか、想いだとかいえばいいのだろう。伝わる人の歌は何かがその人の声となって伝わってくる。イメージだとか想いだとかいうふうにはいえない。なにかと声が直結して、すとんとこっち側に落ちてくる。それが詩を読むときにもそうなっていなければならないのだと思う。

 

詩を表現するときに声の芯をとらえる=自分の声を取り出すことがポイントなのではないか、ということを何となく思う。これはプレを見て思ったことだ。歌はクセに 入り込んでしまいやすい。これは嘘のもの。本物は自分の声でストレートに歌っているもの。言葉でも歌でもストレートさというのは、かなり強く印象に残る。それから声に芯をとるのと同時に言葉を“握る”ということも自分のなかでかなりあやふやな定義づけみたいになってしまっている。多分“読み方”とは正反対にあるもの。詩を渡されると“読んで”しまうけれど普段の会話ではそんなことはしない。その“握れた”状態が大事ではないかと思う。あと一つ、声だけで表現できる音の世界があるということ。声だけで振り返ってしまうってどんなことか。嬉しい、悲しい、怒り、恐怖は声一つで伝わる。字幕のない映画とか。そういう音色、感じ、多分間やスピードも柔らかいとか語気が荒いとか、そういうことと同じように詩も声、言葉だけで何かを伝えられるはず。

 

声が固い。口も開いていない。口が開かないと声が前に出にくくなったり、不利なことが出てくるので、歌う際には一度頭から出てくるのがいい。体が弱い。もっと鍛えるべし、体を意識するのは若干でよい。フレーズのなかにイメージを込めること。1フレーズのなかにも強みや弱みを出し、ただ流すような音楽は絶対つくらないこと。何か印象を残せるような、次が聞きたくなるようなフレーズにしよう。それにはどうすればいいのか。プロのフレーズと自分のをもっと比較する必要がある。まず発音にとらわれてしまうのも、どうかと思う。自分の出番がくる前にメロディと歌詞くらい覚えてしまいたい。

 

歌ったのは一番だけだが、さらっと歌い流してしまった。これはいけない。でもだからといって、どうすればいいのかはわからない。もっともっと練り込むべきなのだ。もっと緊張感を持とう。力を入れないように全力で歌おう。常にステージ実習と同じくらいのつもりで集中しなければ。今できるベストな歌を歌えるようにしよう。今までは歌の出来、不出来は反省してたものの、すぐにベストな歌を歌えるように、とは考えていなかったかも。どういうとき、声がよく出て、うまくできるか、それを調べよう。もっとあらゆることに目を向けなきゃだめだなぁと思う。どれだけ早く色んなことに気づくかが、どれだけ早く成長するか、ということだと思うから、視野を広げられるだけ広げてしまいたい。

 

紙を8枚重ねても倒せるような息の強さが必要。・骨盤で上半身を支える感じでお腹を支える。(イメージしやすかった)・歌を知ることで発声を知るという順番のほうが、やりやすいだろう。(逆はあまりない)・『歌を知っていても、インパクトなどが弱い』1曲は聞けても2曲目はだめ。

 

フレーズコピー ④のクラスのレッスンを聞いてショックを受けた。その人の声の存在感や伝わる力。一番びっくりしたのが3回しか聞かないで、これをやっているという反応の早さだ。この能力の差に思いっきりへこまされた。感覚の差を縮めることを、日々考えているけど感覚というものほどやっかいなものはない。

「これだけトレーニングをやりました」といっても感覚が入ってくるものじゃない。それだけに正直④のレベルに自分がたどりつくか、不安を感じた。シャンソンカンツォーネの感覚を日々研究していけば、少しずつ力はついていくものなのだと思う。この研究所の学び方のシステムのスキのなさに改めて気づく。

 

フレーズコピーはシャルル・アズナブールの「ラ・ボエーム」村上進の歌と比べると、同じ歌なのに全然大きさが違う。これだけのことができる日本人の素晴らしい人でも、まとめる方向に歌を歌ってしまっているのだから、果てしない世界だ。サビにいくまでのフレーズの運び方の違いがわかりやすい。うまく押えてサビまで持っていく村上さんと、高振りのためにサビに入っているアズナブールの感覚の違い。差はあるけど、お互い自分のことをよく知っている。村上さんの「カルーソー」は「ラ・ボエーム」と比べるとスキがない。日本人は1フレーズしか出せない、と先生はおっしゃっていたけど、それだけでもたいしたものだと思う。

 

アティキュレーションの話を先生はされたけど、これはかなり先のことだと思う。確かに聞き手にはかなりの効果をわかりやすく与えられるけど、今の自分がそれを考えてしまう基本的な本質を通り越してしまうと思う。福島先生がおっしゃったことは自然とそれができるようになることだ。アティキュレーションの真の意味は帰ってから勉強するとして今は、素直に動けるようになることだ、ギリギリの感覚を自分が余裕で外に示せるように、広く、大きい器を身につけていかなくてはいけない。勘違いしたり、思いこんでしまったりするけど、芸に遠まわりはあっても、近道はないので、確実に自分と向き合って、自分を高めていく。結局は自分から余分なものを取っていく作業だと思う。素直に学べていないから素直な作品にならない。

 

2年間先生に教えてもらい続けて(かなりうざったかったもしれませんが)芸事の共通点というか、根本というものを知りました。(知った気がします)・自己流で自分を表現することの難しさ、少し間違うと自己満足で終わってしまったり、既存の表現方法に頼りすぎてわざとらしくなってしまったり、自信と不安は紙一重というのを身をもって痛感しました。発声練習に重点を置いたため、感情の乗せ方に新しい学校で苦労してますが相手に心を伝えようとして伝わったときの感動(ごくたまに)がとても嬉しいのです。短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました。

 

ことばをフレーズにする(音をつける)今、自分が自覚できるのは、やってみて違う。気持ち悪い。それだけだ。今日レッスンの前に、ロビーで過去(っていうのは変かもしれない)の会報を読んでいたら。ふっと不安になった。「私はどこかちがう」というか、自分に対して“何か違うんじゃないの”っていう漠然としたもので、目が見えなくなったような感じです。内側で狂っている。読んでいって出会った言葉にハッとさせられた。それは、「私は生きているから歌うのであって、歌うために生きるんじゃない」という誰かのことば。このあいだFレッスンで日本の男の人が歌うのを聞いていたときに「ナレナレしててイヤだ」なんて書いたけど、自分も慣れちゃっている。そう許しちゃっている。イヤだね、自分のヤな面を見つめるのは、だけど、ここに出てきたらボロボロとはがされて、見るしかなくなる。こんなところは他にない。私にこんなにいってくれる人は他にいない。随分前に“いってあげているんじゃなくて、いわずにいられないだけだ”(みたいなこと)、Sさんはいってましたが、私は愛を感じるよー。合宿のときから特に、まわりの人にプレゼントされてばかりです。ありがとう。なんてこんなこと書いててもダメだから、伝えられるようになりたい。パッと歌っちゃうキモチ悪さ。ハナ歌でもキモチ悪い。Sさんが再現してくれることで、いかにおかしくなっているかがわかる。だけど、トレーナーは、私たちがフレーズを回すの一つ一つを、ものすごく本質的なところで聞いてくれて、人の本質を見ている。 

 

器をこわす。“ロンタン”という1つ言葉の繰り返し、ただそれだけなのに、そこに含まれている奥行の深さを感じる。でも別にこの人は、だからといって、大きな声だったり、強くしたりとかしているわけではなかった。本当に隣のマダムに話しかけているようだ。私もそういうこの曲の持つゆったりとした流れを出したいと思った。フランスの町並みを軽やかに歩くような、そんなイメージで、そして、カフェで、コーヒーを飲んでいるマダムにさりげなく話しかける、そんなおだやかな午後のなかにいる自分。声とかそういうことは一切かまわずに今日はやってみた。1回目、力はぬけていたと思う。ただ、ぬくのはいいけど、やはり、体を入れてやらないと鼻歌になってしまう。

 

トレーナーにも、もう少し体を入れるといいというアドバイスをもらって、やはりそうだなあと思い、2回目、さっきの感覚イメージを持ったまま、ただ体を入れてみればいいと思ってやったが、どうも体を入れるということがまだ、構えてしまうようで自然にできない。そして日本語になったらもっと他に意識がいってしまって、どうもまとまらない。一体自分がどうしたいのか、何をいいたいのか、自分でもあたふたしてしまった。でも、このゆったりとした感じだけはキープしたいと思った。だけど、どうしても体を入れてかつ、優しく、ゆったりと話しかけるように歌うことができなかった。それは、原曲を聞けば聞くほど、自分が遠ざかる感覚と、こうしたいのにできないというジレンマとが入り交じってその結果、と中で「あーできない」というあきらめのような自己嫌悪のような、そんな気持になってしまっていたからだと思う。

 

言葉「強化とクリアに出す」の両方のトレーニングが必要だと、先生から何度もいわれている。初めのころは何のことをいっているのか、全然わからなかったが、最近身にしみて理解できるようになってきた。これまでの1年近く、他の先生から「呼吸にクセがある」「根本から直せ」といわれ続けてきても、息吐きを欠かさずに続けてきたことが最近では、その効果を感じるようになってきた。誰がいっていたことが間違いだったとかそういうことではなく。間違っていたのは自分の体の使い方と声の感覚なんだということがわかった。「強化とクリアに出す」の両立は簡単なことではないけど、そういう声に対する柔軟性は、音楽をやっていく上ですごく必要なことに感じる。

 

(その夜、月は明るかったが、私は人と窓にもたれて語り合った。部屋の隅々に渓谷のように、よく響く笑い声が溢れていた。)どこで間を置くか、どの言葉を強調するか等は、型にハメ込んでしまわずに、伝えたいこと、自分の直感に頼る。まず一文を一息で読み込んでみて、大きな流れをつかんでから、細部にこだわってみること。レッスンのなかで感じたことは、どうしてもあわてて足りないという問題とは別に、細かい部分のアラが目立たなくなるからだと思う。先生も「ゆっくりと読んでも自然に聞こえるように」といっていた。 

 

布施明ボビー・ソロの「君に涙とほほえみを」先生が「布施明は、あとのフレーズに合せるために出だしのフレーズをかなり低いところで出している」というようなことをいっていた。もう一度聞いてみると、押しつけているような感じがした。人にいわれて気づくのと、自分で気づくのとでは大きな差がある。このようなことを自分で気づけるようになるためにレッスンに出ていく。

 

布施明の「ラ・ボエーム」声量があり、声もよく響いている。しかし、声があまり深く感じられなかった。だから、ただ声が大きいだけみたいな感じもした。「ラ・ボエーム」と何度もフレーズが出てくるが、まったく踏み込んでいないようだった。このような表面的に音をなぞるような歌い方は拍子抜けする。やれば、きっとできる人(踏み込んで歌える)だと思うが、それをしないのは何故だろう。ストーリーをよくつかんで演劇のように展開していく力はすごいと思う。手の使い方もシンプルだが効果的。ステージとしての表現は、学ばなければならないことが大きい。

 

フレーズを点でとらえる。アンケセ セ スタート ディカルタこの3点がどう動いているかが歌。一流の人がどうこの点で立体的につないでいくか。この点はリズムと関連している。でも言葉本来のアクセント(日本語のとき)が必ずしもリズムのアクセントと一致しているとは限らない。どちらをとるかはその人のセンスなのだろうか。そこらへんがまだ、よくわからない。曲の展開をどうすれば一番伝えられるか、歌の点がどのように歌を変えるのか、まだ、勉強が足りないが、点が明らかにわかっていないと、やはりリズム感や立体感が感じられない。

 

「When all I bad was a hat full of stars」表面的には「all」で強まって「I」で弱く「bad」(allの“l”、I、badの“b”それぞれに鋭くアクセントがつく)で「all」よりも強く「was a~」が流れて「hat full of stars」で弱いけど、リズムのハネは鋭く。このように聞こえた。先生は「all I bad~」と息が一本の線で「ハーッ」と続いているといっていたが、自分としてはレッスンで聞いた限りでは「all」「I」「bad」のアクセントで、それぞれガッガッガッと体を使っているように聞こえた。以前「アクセントの部分で体を使うこともあるし、またそうじゃないこともある」といっていたから、この場合はその後者なのかもしれないが、自分の耳ではそのように聞き取れなかった。体を使って踏み込んでいる音と、口のなかで調整して創り出されたアクセントの違いを聞き分けられるのも今後の課題だ。「ハーッ」の状態で「all I bad」をいうと、アクセントの感じがうまく出せない。これも今後の課題。また「ハーッ」と息を吐くことに意識が偏りすぎて、言語が不明瞭になってしまった。「hat full of stars」のように、はねるリズムも、もたれないように注意すること。