レクチャー1 1122
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【取り組み方☆ 36127】
【京都入門 37216】
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【取り組み方☆ 36127】
○ベストにもっていく術を知る
舞台のライブに対しての、自分の体の状態を早く整えることを知ることです。この練習が終わってから整うようではよくありません。今の状態をみていたら、これから3時間やっても整わないでしょう。自分の体のベストな状態でもってきて、それのベストの声をだしてここでやることを、問うていかないといけません。
だからその準備をするために何をすればよいのかを考えていくことです。トレーニングの時間だけが大切なのではなくて、その時間にどう臨むのかということと、そこまでにどういう体の状態、心の状態をつくっていくかというのが問われます。一人ひとりがすべての責任をもたないといけません。自分ができないから、次の人にお願いするというわけにはいかないのです。
学ぶことというのは、口のなかがどう開いているとか、おなかがどう動くとか、鼻から吸うのか、口から吸うのか、そんなことではないのです。大切なことは、自分の一番できる状態にもっていき、そこでレッスンすることです。調子が悪いとき、調子よいときといろんなときがあっても、ベストにもっていくすべを知っていくことです。昨日までやってきたことを踏まえて、ベストの状態になるべくはやくするということと、そこで目一杯のことをやったときに足らないことに気づくことです。レッスンではその足らないことが何なのかということに気づいていけばよいのです。
自分一人ではそれがこれがすぐにわからないから、いろんな試みをレッスンのなかで精一杯やってみます。それでその課題をもって帰るのです。次にくるときまでにそれができていることは望ましいのですが、芸事ですから必ずしもそういうわけにはいきません。しかし、その判断力をしっかりとつけていくことです。
こういうものを聞かせたときに、あるいは誰かが見本をみせたときに、それになりきることです。そこでできなければ永遠になりきれないということです。歌っているのを、自分は自分という形をはずしてとり入れ、そのなかで共通のものをしっかりと読み込まないからうまくいかないのです。
○テンポとレベルをあげる
本当のことでいうと最初の発声練習も省いて、1時間、目一杯いろんなことをやりたいのですが、状態が整わないためにそれだけ割いているのです。そのなかで体も心もほぐれて、息ももっと流していないと何も身につきません。
入ったときはかなり、ゆるやかにやっていますが、少しずつテンポはあがります。結局、2年でやるべきことを2年でかかってやるには、すべての時間が勝負なのです。伸びた人などは、3時間くらい前からきちんと備えてきているのです。ここに入ってからではなくその前からが勝負です。
レッスンにはじめてきたときから、必ずその前に準備をしてからくるという利用の仕方が、あたりまえなのです。人のやらないところでやらないで、どうして差がつくのでしょうか。その差というのはこれまでにもついているし、今からもついてくるのです。いってみてもわからない人は、所詮わからないことでしかたがないので、そのことが身につまされる経験を望みたいものです。
日本の教育というのは、ノートにとることばかりです。ノートが埋まると学んだと思えるのかもしれませんが、そういうことではないのです。
自分が一番練習していてあたりまえだというように一人ひとりがしていかないと、みんなで場をだめにしてしまうでしょう。それはトレーニング以前の心構えの問題です。1人で調子よく声をだしているときのことが、ここでいつもできて、その上のことをやらなければトレーニングにはなりません。力が5あっても、ここにきて1では何も得られません。体も息も心も動かないところで、音をどうやってとるのでしょう。難しいといって1、2、1、2みたいなことをやっていては何年もすぐに経ってしまうのです。
外で歌ったら、思い切り歌うでしょう。そのときにお客さんがいたら絶対に今みたいなテンションではないはずなのです。テンションをピークにしてレッスンにとりくむことを常に心しておいてください。
○一つのレッスンは一つのライブ
一つひとつのレッスンは、一つひとつのライブそのものです。そこでできること以上のことというのは、本番のときにはできないのです。本番のときにできるとしたら、それは何か違う心構えと違うことをやっているわけです。そこの部分から偽りのものになります。
頭で覚えていくことではないので、よほど体ができている人以外は、相当体を動かしたり息を吐いたり、柔らかくしておかないといけないのです。スタジオに入ったら、他の人のことは顧みずして息を吐いて、柔軟をやってください。壁の方に声をだしてもよいでしょう。それがベースなわけです。それも含めてのトレーニングです。人に合わせて、後追いでやる人は伸びません。
極力、無駄な時間はなくしていきたいものです。無駄も大切なのですが、曲にすると、3回聞くだけで10分以上もとってしまうのです。こういう話をするのも10分、15分とってしまいます。どちらが無駄かといつも考えながら、なるべくことばをなくそうとしているのです。ただそのものから読みとれなければならないものを、読みとろうとしないうちは、こうした手がかりも必要でしょう。
1回ごとにここのレッスンは違います。「アルディラ」を3人のヴォーカリストで聞かせるということは、あとの2年間に1回もないかもしれません。それがどのぐらい聞けているかを覚えておきましょう。仮にもう1回あったとしてそのときに聞いたのと、今聞いたのとどう違うのかが上達です。
すべてがレッスンに組まれているわけではありません。しかし、一つひとつのレッスンから力をつけるのです。そこから気づかないといけないし、学ばないといけません。目的のないことはレッスンのなかでは一切、やっていないです。目的に値しないと思ったらその時点で、すぱっとやめます。
たとえば一つのフレーズは何回も繰り返されているわけです。それで音程がとれないというのは、能力がないのではなくて、真剣にそれを聞いていないということです。
小学校の教科書にのっているぐらいの曲ですから、曲を覚えるぐらいは簡単な曲なのです。だから真剣に聞いていたら3回ほどで歌詞もある程度わかるはずです。レッスンは歌を覚えることがメインではないし、鑑賞がメインでもありません。皆さんの表現の材料としてヒントを与えているのです。
3人で聞かせるのは、三様の歌い方があるということではなく、3人とも違うとしても、そこに、共通していることは何なのかを気づき、盗み、さらに自分の表現として出すということのためです。自分がやったらどう違ってくるかを問うことです。01秒も聞き逃してはいけないのです。そのためには音域とか声量の問題というよりも、もっと根本的な体とか息の状態を整えておくことです。
○モチベートを高くする
モチベートをかけるのには、なるべくことばよりは音楽の力を使いたいのです。ことばでやっていくと怒られているみたいになって気分も沈んでいくからです。自分のモチベートを高くしないとよくありません。音楽に感動しなくてどうして歌えるでしょう。こういうのをくり返しかけているうちに、しぜんに感情移入して、身につけていくのです。
こういうことをやる場合の資格は舞台になると一番熱くなるということです。ここは舞台です。お客さんより熱くならないといけないのです。そういうセルフコントロール、モチベーションをかけられない人は、それが最大の難関です。
その上で前に出していかないと声は解放されないし、目的もしっかりと定まらないから、表現が出てこないのです。つまらないと思うときに声を元気にだすとか、大きな声をだすのは無理な話です。そういう状態から抜け出せない人は、レッスンのレベルもあがりません。心の状態を整えないといけません。
皆さんの質問というのは部分的なものが多いのですが、大切なことというのは体のこと、心のこと、感情のことです。それをいかに素直に受け入れて自分の方が主体になって発信していくかということです。この場を自分がどう動かしていくかということと、そのために何をすればよいかということを、もう一度考えてください。
決して難しいことはやっていないのです。しかし、まず、今、ここで自分の力を全部出すこと、これが難しいです。慣れてなければ本当に難しいのです。しかし、このレベルで出さなければ永遠に出せません。
ステージ実習にでたらわかると思いますが、自分ではあのぐらいできると思って、出たら全然できなくなってしまうのです。しかし、できていないのに、できているつもりの人もいるので、それがわかるためのレッスンです。一人ひとりに順にあてて、できなくともそこに出て立ち続け見極めていくことが本当に底の力をつけるわけです。それをしっかりと出て、こなしていくことです。ここでは間違うことは恐れなくてもよいのです。
自分で枠をつくってそのなかでやってしまうことを恐れ恥じてください。それをやると最後、力がつかなくなります。他の人がうるさいとかこの人の声はいやだとか、人のことは気にしなくてもよいです。そこで自分の表現をきちんと練り上げていきましょう。そのためにトレーナーを使い、模範的にものをとり入れます。他の人たちをうまく利用していくようにしてください。
○心と体からの表現を
多くの人は音をつけると表現において間違ってしまうのです。ピアノはリズムも音程も正しいわけですが、その感覚と歌で聞いた感覚とは全然違うでしょう。ヴォーカリストの感覚をピアノに合わせてやるのでは、何もでてこないわけです。最低限、音程とリズムはとるべきですが、ここで優先すべきことは、そこに何をだすかということです。
実際の演奏として評価されたものを聞いて、それをまねなくてもよいから、そのよいところを自分で感動して心にいれて、そこから表現を出そうとすることです。評価はいやならいやで、その理由をはっきりとさせ、自分ならどうやってとりだすかを決めていくことです。すごいというだけではしかたがないわけです。その歌のどこがすごいのか、どこがよくないのかみたいなことを一回で、ベースの部分で捉えないといけません。
耳と体のことを、頭のことよりは優先してください。頭というのはそれを捉えるために使うのです。ことばで使い方を間違えないことです。ことばから何かがわかるというより、何を気づくかということです。
集中力や体力とかに関しては、話の退屈なときにでも時間を無駄にせずに鍛えてください。柔軟性、集中力など自分のステージにつながることは、ここ以外のとこでもできますから、やっていかないといけないのです。本当であればここの場の雰囲気は、自分の姿勢で決めていかないといけないのです。
大切なことというのは全身を使って読み込むことです。
座ってはいけないのではありませんから、具合の悪い人は座ってもよいし、体に感じるのにすわったり、ねころんだり後ろを向いた方がよいとかいうのも、その人によって違うから、何もいわないのですが、何となくみんなが座っているから自分も座ろうとか、疲れたから座ろうというのでは情けないことです。何かをするにはその理由が必要です。そうでなければ立っていた方が歌が全身で受けとめられるし、体も動きやすいでしょう。
聞いたあとにすぐに表現するのに「よいしょ」といって立っているのでは、もう帰ってくれといいたくなります。どこの人がそんなものぐさなことをやっていますか。60分も立っていられなくて何ができるというのですか。
声をだすときに座った方が声がでるということであれば、座ってもよいでしょう。寝ころぶとまわりの人に迷惑をかけるとまずいから、時間と空間を共有しているところで他人にあんまり迷惑をかけられないという限定があります。しかし、少なければ寝ころんで、レッスンをやってもよいと思います。
結果として今、問いたいのは声をだしたときにそこに息がかよっていて、その人と声が一つになって、一つの表現をしていることです。いちいちねころぶと時間がかかります。狭くてまわりの人がよけないといけないといったロスがでてしまうから、せいぜい座ることぐらいまででやるものですが。
体力、気力は、とても気になります。5時間立ちっぱなしくらいはへっちゃらで、それは最低限のことでしょう。レッスンが体力面でつかれるという人は、そこの部分を鍛えていかないといけないでしょう。あまり運動をやっていない人なら、体力づくりに2、3年ぐらいはかかるでしょう。それを鍛えるだけでも大変です。
今まで自分で立っていた姿勢から少し胸の位置をあげて、しっかりとあごがひけるような姿勢で立つということだけで最初は10分でもくたくたにつかれ、姿勢がキープできなくなってしまいます。どんどんくずれていってしまうのです。だから姿勢と呼吸だけでも大変なのです。しかし、そこでプロでないことはひと目でわかります。そういうものを常日頃から鍛える場に使ってください。
○音から声へ
「ティ セィ トゥ」
歌詞は文字でなく耳で聞き取って聞いたとおりにいいましょう。他の人と違ってもよいです。
生の声から直接、学んでください。
「アルディラ ティ セィ トゥ」
この「アルディラ」というのは人の名前ではありません。「アル」「ディ」「ラ」という3つのことばが重なっています。しかし、これらをばらばらにしないことです。イタリア語と考えなくてよいのですが、日本のカタカナではありません。声の線があってそこに音をおいていくのです。
日本では、どちらかというと、ことばから入っていて、メロディで伸ばすという考え方があったと思うのですが、そうではなくて声の線、息の線、体の線の方をだしていくのです。コーラスのレッスンではないので、まわりと合わなくてもよいです。
なるべくことばに近いところで、そのままの形でよみこんでください。幹を出し、その皮をはいでいくような声のイメージがあればよいのですが、最初はどうしても「ティ セィ トゥ」と口先でつくってしまいます。それをなるべく「ティ」のなかで切ってはいても、音自体のポジション、太さ、音色みたいなもので考えましょう。
「ハイ ラオ ララ」より、ことばの方がわかりやすくやりやすいこともあるので、ことばを使っているだけです。基本的にやっていることは同じです。空回りさせないことです。
○体と声を結びつける
どこでもできるわけです。誰でも歌えるわけです。なるべく今まで他人をまねたり、自分が操作してきたところを使わないで、もっと息や体に声をくっつけてやることです。普通は、口のなかでつくり操作するわけです。そうではなく確実に体と結びつけていくために体と息を養います。意図的に結びつけるのです。
だからそれはふしぜんです。ふしぜんだからトレーニングなのです。しぜんにできるのならすぐにやっていけるのですが、これには統合されるまで時間がかかるのです。
発声練習というのはあまり体や息を使わないと見られていますが、体や息を使うのに何年もかかり、そこまでやって、はじめて使えるものがついてくるわけです。それを無理にもっと深い息でやると最初はのどをつぶす危険性もあります。それを防いで、なるべく深く声がとれるようにしていくのです。ポジションが少しでも深いところでいえることが有利になるのです。
今、獲得して欲しいのは、そういう深い息と声からのことばです。自分が入りやすいと思うことばのなかで選んでやってみてください。感覚としてはことばを体を使って、深いところで息と一緒にだしていく、その循環のなかで、いずれ声そのものを音楽的に使いやすいところにもっていくためのことです。
○上達するための学び方
幼稚園児や小学生でもできることばの読みでは、しかたありません。できることを、単にこなすだけには何の意味もないということを絶対、忘れないでください。ここで1時間あるいは1日かかってやっているのです。なぜ1時間もかけるかということです。そこで他の人の声を聞き、何か気づいて共通の要素を正しく取り入れていく必要があるからです。何よりも自分自身を知ることです。難しいことをやるとやることに神経がいき、内容がよくわからなくなります。
簡単なことばで自分の声がどう使われているのか、他の人がどう使っているのか、なぜそう使われてしまうのかみたいなことをしっかりと捉えていくことです。ここのレベルのことだけでかなりの差がついていきます。
入ったときの差は、トレーニングによって縮まってきます。最初はこれまで声を使ってきた人は、声がでますし、小さな弱い声で話してきた人は声がでません。しかしそれは一つの現実として捉えておけばよいわけです。
差がつくのは、自分に対して1ヶ月、2ヶ月で何かがでてくるというよりも、そういう、大きなことに早く気づいていくことです。一つひとつ気づいて正していくことで将来が変わってきます。気づかないと気づけるところまでしか変わりません。変わる必要もないからです。
だからそれをやるときに一流の人と、同じ息と同じ体の同じ感覚というのを大切にしてください。私がこういうふうに話しているときでも、ヒントがあります。この感覚は何なのだろうということです。低いところでも太い支えがあり、太い声をとっています。
そのときにどうひびいているのだろうと考えるのです。ことばのうちの1つでもできれば、それが一致してきます。それを持続させたり、展開していくのは、次の段階でよいのです。
○トレーニングすべきこと
今やって欲しいことは、体と息を出し惜しまないことです。今やっていることというのは誰でもでる声に、息と体をつけて、息と体の方を変えていくことです。今、できないということは、体も息もそこまでのプロの体になっていないからです。だから何年後かに今とは全然違う強い体、もっと息が吐ける体で、もっと集中力があって息をコントロールでき、リラックスするところはリラックスできて、もっと入るとこには入れるようになるようにしていくのです。
最終的に体をそこまでもっていこうとしているわけだから、やっていることがこなしているだけでは、何の意味はないわけです。
トレーニングで体や息、精神力が極限まで使ったということで鍛えられていないと、本当はトレーニングにならないのです。歌うには、それ以上のパワーがいるのです。トレーニングはあくまで明日のためにやっていることです。今日のベストがでればよいというのではなくて、そのベストのところから明日のよりよいベストにつなげます。
小手先を変えるのではなくて、基本的な部分で変えていかないといけないことですから大変なことなのです。最初はそこはみえませんから、あとになってできて、はじめてわかることなのです。
時間がたてばできるのはどうしてなのか、ということは技術や頭のよさではないのです。耳ができて、体ができているからしぜんに聞いたらぱっと自分のフレーズでだせるようになるわけです。音や表現に敏感になってください。
ここにいればいるほど慣れて、鈍感になっては困ります。敏感にならないと意味がないわけです。前は1曲聞いて3つぐらいしか感じなかった、それが出だしから感じる、ぞくぞくとなってくるという感覚が必要です。自分が揺れないことには、人を揺らしたりはできません。ここで使う教材を本当に使えれば、それで大したものです。
今の時代に対して、美空ひばりや森進一の曲を使って、全部を新たな方に変えられる力が自分の力と思ってください。一つのことが与えられたときに、いかにポジティブシンキングして、よいものを創り出すかということです。つまらないと思ったら、もうそれまでです。せっかくの1時間です。もう取り返しがつかない一時から一瞬を取り出すというように取り組んでください。
○反応を鋭くする
グループでやっているという考え方をなくしてください。いつも一人のつもりでやりましょう。他の人は材料で、ここではマンツーマンだと思ってグループはでてください。各人の取り組み方でこの場がよくも悪くもなります。
順番はいろいろありますが、常に自分が1番で、常に何かを誰よりも価値づけていくぐらいの積極性と危機感をもって臨んでください。もっと余裕も必要でしょう。楽しんでもらえばよいのですが、そこの取り組みを他人まかせにしたり、頼らないことです。
ひとことも聞き逃すなとはいいませんが、まわってくる間に音程をとれるだろうなどと考えると甘くなります。一番目にあてられる人が1番レッスンできることになるわけです。ここで間違ったり、恥をかいたり、音程をとれないとか、声がでないというのは構わないのです。そこでしっかりと力をつけなければどうするのですか。どんなときも自分でリスクを恐れず冒険していくことです。
今のレベルがどうであっても、たくさん伸びたければたくさん出て、早く順のまわるところにいた方がよいと思います。緊迫感が違ってきます。ただどうしても自分は不器用で、最初にやると他の人に大きな迷惑をかけるし、気が滅入るという人はしかたありません。今はしかたないと自覚してやらないと、一生、しかたないままおわります。
できるだけ早く反応していくことです。ぱっと聞いたら、いわれたことにすぐ反応できるようになってください。最後の人は、最初の人の2倍くらいにできないとよくありません。ここでは強制しませんから、できない人は自分で自分を強制し追い込むことです。前にでてきてください。
もちろん後ろの方から一番大きな声でみんなをふりかえさせるというのなら後ろにいてもよいし、それぞれの考え方がありますから、あまり細かいことはいいませんが、自分を一番活かせるようにしてください。ただ他の人は気にする必要はないです。
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【京都入門 37216】
今まで2年の期間で見ましたが、やはり3、4年目から芽が出てくる人といったら変ですが、ぐんぐん伸びる人がいて、その関係を一回さらってみましょう。
声とか発声の勉強でやっているみたいですが、表現とか活動ということでいうと、あくまで声なんて一つのツールにしかすぎないわけです。いくら楽器がよくても弾く人の考え方とかポリシーとか表現欲とかがなければ何もそこから出てこないから、そういうのを参考にして、またカリキュラムもいろいろな人材の起用をして、その生かし方のなかでどうやってやっていくかということを考えています。だから伸びていく人の考え方や学び方は参考になります。
昔、私がやっているのだから誰にでもできるという形でやっていました。どうもここ10年、見ていて誰にもできることをやるというのは、誰にでも簡単なことではないというのがわかってきて、今のカリキュラムの置き方に変わってきています。
レクチャーで話したことをそこでわかってもらって、そこからスタートなのですが、あのこと自体がわかっているのに2、4、6年かかっている場合が多いです。それがどういうことなのかということです。毎日、練習するなんてあたりまえのことです。だからそれを補強する意味で、テキストとかレッスンの内容みたいなものを、会報にしています。私はここのレッスンを受けていませんから、私のレッスンを受けた人たちに、自分たちがどういう苦労をして学んできたかというのを説明してもらったりします。なかなか音の世界は見えないです。
これはわかると思うのが間違いなんです。やればやるほどわからなくなってきます。とても深い広い世界です。1年2年の短期でそれをとろうというのが難しいことです。今日はだからこの辺のことを実践的にやるのと、個別にいろいろな対応をとっていかなければと思っています。 合宿といっても、去年でもだいたいこの近くでやっています。ノリキを使います。
「東京のレッスンには、参加できるんですか」
東京に参加するのはかまわない形にしてます。
ただ東京は制度が違って毎日、レッスンがあります。東京は京都から出てきている人が何人かいます。毎日、最低でも2クラス、同時にやっています。東京はグレードがあって、ある程度クラスを分けています。参加のときは事務に聞いてください。
人助けをしたとか交通事故にあったとか、やむを得ない場合は、しかたがないので、遅刻は認めていますが、常習はタブーです。
「後半のクラスと前半のクラスでやっていることは違うんですか」
基準が違ってきます。前半のクラスでそれでよいということを後半のクラスでは、もう少しそれが出たら、それで成り立たないという形でやっているものです。だから課題そのものは、その日によって違うときもありますが、メンバーによっても変えていることもありますから、後半はあまり話はしないということです。ピアノを弾いているだけです。フレーズを与えることが多いです。長めのフレーズを。何回も回していくのです。だから、音程、リズムがとれないと、辛いところがあります。
ただ、耳の世界ですから、慣れていきます。たとえばピアノに合わせて発声練習しているというのも慣れで、最初は難しいですが、慣れてきたら体がしぜんになります。それと同じで、音楽が宿るのは進んでいくと自ずとレベルは違ってきます。でも、今の後半のクラスというのは一時期に比べたら全然レベルが低いです。
二年くらいいると、よい意味でも悪い意味でも基本が出てきます。そうすると入ったばかりの人がそこでポンとやっていくと、よほど図太く手慣れている人でないと、まわりの雰囲気に圧倒されたり、ついていきにくいということがあるでしょう。ある程度、年数というのは精神的なものとなってきます。
逆にフレーズの練習というのは声ができていくというプロセスを踏んでないとそんな難しいことではないのですが、バンドをやっている人とか音大で勉強してきた人にとってみたら音を捉えてことばおくだけですから、それくらいやっていてもレッスンに反映してこないということです。
体で声をつかむこととか、そこにどういう表現をしようかということを煮詰めて、それを体でしぜんにできてくる段階からがレッスンです。
ここでやっていることは、ことばで説明していることも含めてかなり基本的なことです。運転でいうとテキストを読んで、精神的な面での注意からです。
それから実践的な面でいうとギアの入れ方です。もしかすると道路づくりかもしれません。
単に運転していても、音楽ではないということです。しっかりと方向を決めてスピードの入れ方を覚えておといて、それから頭で考えるのでなくイメージでどんなコーナーリングをとって、どうしたら一つのベースになるかということを、最低限、体の単位でやっていこうということです。
それで、上のクラス方はどちらかというと、とにかく走りなさいということです。だから走っている時間が、長いです。好きに回ってくださいよということです。
回って気づかないのだったら、それは全然、練習になっていないです。闇雲に突っ込んでしまうと何も得られないで終わってしまうことになるので、私のクラスに関してはそうです。Wは音のリズムとかに、慣れていくことです。これも知識と同じで、やれば音程、リズムがとれるようになっていきます。いつまでたってもできない人がいて、それで課題が進まないとなると困ります。東京は今、5つに分けています。そういうことでいうとあいまいな区分です。
皆さんが上のクラスにいったけど全然ついて行けないとか、上の人でもここにきたら、ずばぬけててとか、そういうものはあまりないです。2年くらい前だとかなり差があったのですが、今、3、4人くらいです。あとは皆さんそれなりにやれてきています。
そういうことをやってわからないことがあって、難しいことがどこかにあって、そのことができてもできなくてもよいのですが、そのことを見抜いてやらないと上達しないっていう部分があるのですね。その辺のスクールでもカラオケ教室でも、他のところの方がたくさん体も動かせて声も出せてよい、ここにきて、三分くらしかできないところから入るわけです。話しばかり聞いて、本当は体を動かしたい、声も出したいというのでしょうが、その期間というのは、大切なのです。
私のしゃべったことがわからなくて誰かに聞いてみる。そしたらそれはこういうことなんだよといわれて「うん」てうなずいてしまったらもう終りだということです。そんなものでは全然ありません。正しいけれど、わかることは、できていかなくてはいけません。
できる人がそれをいうのはよいのですが、それを「うん」でうなずいてわかったことになってしまうことが勉強になりません。
一人の時間をとらなくてはいけないし、一人で悩まなくてはいけません。声のことだから悩まないで、よいやり方があってうまくできるのが一番よいのです。ただそれが表現活動とか芸術とか、人前で長く出すものである以上、どこかで突き詰めて自分のなかで悩んでいかないと、つまらないものになります。だから要領よく学べた人の表現のうまさというのは、大した説得力はありません。
ここでいろいろな質問をしたり意見をいうのはよいと思います。いろいろなものを考えてください。ただそのことをしっかりと身につけていったり判断するのは自分自身で、それを自分で苦しめとはいいませんが、自分で解決しなければいけません。自分で気づかない以上は、どんなに人がわかりやすいことばをいってくれてもそれでわかったと思ってはいけないということです。
それができないということは、ことばのなかでいくらうなずいてわかったといってもそれは問題を会話しただけです。そこを間違えてはいけません。知識の世界でないから、そういう答えというのを覚えるのでなく自分がそれを入れたらよいわけです。
ここの考え方はこういうことでここのトレーニングはこういうことに基づいてと、テキストも覚えていく。そしたら皆さんは歌の世界なりライブの世界でその声なり、音楽の表現としてやっていくわけです。それが入ってくるのはよいですが、入ってきたために何もできないというのでは何の意味もありません。だから聞くのもよいし、意見するのもよいのですが、そこから答えを聞いてそこから始めなくてはいけないということです。つまり彼らの答えでは皆さんの答えではありません。
自分で自分のためにやると、私と他の人の教え方もやり方も全然、違います。
自分で得たものであって、そこへのせていきます。だから、皆さんもいくらいう通りにやってみてもうまくいかないのあたりまえです。そんなのすぐにうまくいくのなら、日本中の人がそれなりに声がよくなっていますよね。そこを学ぶというよりも崩していかないといけないです。関西は東京より ベースの入った人がいると思います。日常の会話のなかでかなりパワフルですし、しゃべりまくるような文化がありますから。
東京では、立川談志さんの落語から、ダウンタウンまでもち出して表現のパワーを伝えています。関西の場合は、そこらでしゃべっている中でかなりパワーがあると思います。表現というのはそういう問題というところから入っていかなければいけません。
今やっていることというのは、とにかくここにきたときは、自分のやってきた成果を出してくれればよいです。ここで正味1時間くらいで声だけで問うのです。ものまねを1時間やってもあまり効果はありませんい。ただ効果はないけれどそのなかで声が抜けてきたり、いろいろなことを自分のなかで気づけるのだったらよいのです。他の人もいますから同じくらい練習材料になります。
他の人はどう体で捉えていて、どう体で表現しているかというのを、同じ課題のなかで見れる場所というのは、あまりないです。歌くらいは見えますが、歌の中身というのは見えませんから。
声だけ体だけから音の世界を理解するということがとても大切です。さっきの道路づくりと同じで、それは運転するまえの基盤をどう構想してつくっていかなければいけないのかというところがあります。
そういうことでいうと1、2年目の人にいっているのは、私も何とかレッスンをさせてあげたいけれど、そのことができる基盤を自分で整えていないとそのレッスンができないということです。もっと具体的にいうと、いくら息を吐いてみても疲れない体、息を「ハーッ」って全部、吐いても次に「スッ」って入る体になっていないと結局、音も入ってこないし音楽性がいくらあっても自分の体で再現できないのです。
だからそれをとにかく、息を吐くことでもよいし、体を柔軟に鍛えることでもよいからうまく自分でやっていくことです。2週間後、400メートルの水泳の大会に出るという気持ちで毎日、取り組んでおかないとオンしてこない。それが変わってこないと少々のプロであっても、しっかりとしたベースには乗ってこないということです。
「ハイ」「ラオ」とか「ラララ」を、今できなくてもよいです。できないことはできないでよいです。ただできるようになっていかなくてはいけません。そしたら何を変えていかなくてはいけないかというと、体を変えていかなくてはいけないです。
それから感覚を変えなくてはいけません。それはわざわざ月一回でも日曜日こういうところに来り、あるいは場をもたないと難しいです。
本を読んでみる、話を聞いてみる、そういうことがないと息を吐くこと自体もとても効果がなくなっていきます。トレーニングというのは大前提で毎日やることです。毎日やるのがあたりまえなんだということです。その30分TVをかけておいて声を出すというのもトレーニングなのですが、トレーニングをあたりまえにやっている人たちにとったら何のトレーニングにもなっていないということなのです。そのなかで問題をしっかりと解決したり条件を整えていかなければいけません。
とても集中力がいります。実際、舞台で3分間、歌うとしたらものすごく集中しないと、しっかりともっていけないです。だから1年目のレベルというのは、30分ぐらい集中しているくらいのレベルでよいですが、本当に2、3年目にそういう土台がしっかりとできていると、一つの声に対して音の感覚から入り込めるようになります。感覚からやっていかないといけません。だから一のことばに10秒、集中できる人も少ないです。100メートル10秒台に走るような力と同じような感覚が歌にも必要です。
その人間の生き方とか体の感覚自体がのんべりとしている歌になったときも同じです。集約できて、インパクトがボンと出てくるのは有り得ないです。体を鍛えるのにボクシングとかで皮膚の感覚を得てみてください。そうしないと、頭は固くなってしまうのです。
特に研究所で、ただ頭がでっかくなっても体を動かさないともっと本能的なもの現実なものを磨いていかないと出ません。
トレーニングというのはとても難しいです。皆さんも毎日トレーニングしていたら、息は深くなっていくし、体は強くなっていきます。声に結びつくためには声と息と体の結びつきを自分でつけていく。その先に出てくる声をどう使うかも大切です。今の皆さんとトレーニングのあいだというのは、はっきりいって声自体の効果でみてもらってよいと思っています。
ただ大切なことというのは外側から聞くというトレーニングです。サッカーでいうとボールを蹴ることが目的だと思っている人がいるのですが、ゲームで相手に勝つことが目的です。ボールがいかに蹴れたって何もならないです。遠くまで飛ばせるということは何の意味もないわけです。ゲームということを考えたときに、どう遠くに飛ばさなくてはいけないのかというのがあって、初めて遠くに飛ばす練習になるわけです。
ところが歌とかそういうのをやるときに最初はそこまで見えないわけです。見えないからいつ考えるのかというと、トレーニングしているときに考える必要ないわけで、とても難しいわけです。今の日本の音楽のシーンというのは、昔の2、30年まえの音声の基準があるわけでもありません。欧米のような環境のなかでここまでいかないと絶対に出れないというのもありません。自分のなかで決定していかなければいけません。
だから難しいけれどそれを見ない限り、教習所で運転を習ったらFIのレーサーになれると思っているのと同じようなこと起きるわけです。まったく違うのです。
彼らのもっている感覚とか彼らの全体を見る視野とか時間のそういったものが入らないで、そのことと同じことをやってもできないのです。だから今は本当に沢山のものを見て聞いて、体を変えていきます。
たとえば自分の歌っている姿をイメージしてみてください。声を出して、それで乱れます。乱れるから基本ができないわけです。そういうふうに関連づけていかないと、息だけ吐いてて歌が歌えるようなら単純な話です。
音楽的なことが決め手です。夕べあたりのVTRをみてもわかりますが、皆声が出るようになってきます。それで歌いまくる。だからといってことばが並んでいるだけだったら伝わらないです。そこに音楽がおりていません。
音楽というのはどこでおりてくるのかというと、その人がそれだけのことを聞いて、それでそれの動きだけを自分のなかで宿していく、その音楽の力の呼吸とかリズムとか音の感覚が、口先だけじゃとれません。口のなかでなくて、体を使って体ではない感覚を得るためにそのことをやっているわけです。そのくらいはトレーニングでもやれるわけです。ラララララってで、何か宿ってくるわけです。それが一番、怖いです。トレーニングをすれば何とかなるわけではありません。
何のためにトレーニングをやっているのかということです。ピッチャーとかバッターでも皆、トレーニングをやっています。そのときに30分やる、その30分、一瞬の油断もなく相手ピッチャーを想定してその急所を想定してこうくるんだというのを想い浮かべてやっているのがプロです。なかなかそれができないのです。イメージすること、イメージしつづけるパワー、は、疲れるものです。それでトレーニングだと思うなら30分くらい、すぐに終りますね。
ただ、やるのと、そこまで具体的に考えて体を使うってことを集中してやるのとトレーニングの質が全然違うわけです。1年目には脳天気にやってたらよいのも、2年目になったとき、そこまで深めることです。
だから今は1曲とか2曲とか沢山の声を出す必要はありません。声が出るときの感覚とか体の状態をつくれることのが前提です。へたな声でライブで歌っているのも、発声したりしているようなのも、マイナスです。たった一つの面からよい声の出る体の状態をつくることです。やっていくのはこれだけです。
よく風邪をひいたり体の状態がよくないとか、声が出にくいというのがありますが、声を出すことがトレーニングではないわけです。声を出せる状態をつくっておけばよいことです。
だから風邪をひいたときは、声を出したらよくないです。のどがよけいおかしくなって疲れるわけです。へたなライブをやってしまうのと同じです。それでうまくいくのだったらステージばかりしていたらプロになれますね。
それは集約度が全然違います。何が大切かというとその体の状態をつくるということです。なまらせないということ、風邪をひいているときに高熱でボーっとしているなら休むしかないですが、そうでなければ柔軟をして直った、前よりも衰えないようにしていけばよいわけです。
そういうやり方は歌の世界を誰かがはっきりとさせて結果を突き詰めていかないだけに甘くなりがちです。
自分のなかで見ていくということです。だから研究材料というのを皆さん自身材料として提供してもらっています。ただそのなかで音程をとるとか、ことばを埋めにいくというのが練習だと思わないでください。
そこで何を動かせているかということです。時間、空間を動かさなければ、伝えなくてはいけない。そのときの体の感覚を1時間のなかで一所懸命確かめたらよいわけです。
いつもいっていることは百回できるようにしなきゃよくないです。そうして質がよくなっていくわけです。
皆のトレーニングを見ていてもそうです。ただ百回やることがトレーニングだということです。だからよくないんです。
映像をとったらよくわかると思います。それで百回やって一回もよいのが出てこない、あるいは一回、出たけどそのことが定着できない、そしたらもっと一杯、息が吐けないといけない、もっと体を使わないといけない、もっと力が抜けていないといけないってことが突き付けられてくるわけです。そこで負けないようにやってください。そういう考え方がなかなかできないのです。
やはりその感覚です。本を読んでもよいし、音楽を聞いてもよいし、こういうふうな話を聞いてみてもよい。そのときに全身の感覚が働くような体にしていくこと、これ一番、難しいです。業みたいなものが身についていればよいのですが。ヴォーカルの世界というのはそんなものです。
リラックスしているときというのは風呂とか暖かいところでポカポカくつろいでいてそういうリラックスとは全然、違います。緊張しているときの集約したところで起きてくるものです。皆でいうとおこりまくって、もう行くところまで行ったハッーという感じのところにリラックス、それは力を抜いたら声がろうろうと出てくるなんていうレベルでは全然よくないです。
だから歌うこと自体は遊びが入っていますから、「よい天気ですね」って歌っていればよいですが、普通の人が「よい天気ですね」っていっても歌にならないわけです。そのまえに「あらしが」って、その「あらしが」パッと変わったときに「よい天気だね」っていって初めて歌になるわけです。その状態を自分のなかで瞬時に切り返して創り出していく。
とても難しいです。だからそういうところで、せっかくよい材料をもっているので生かしてやってください。
一番、基本的なことをやりましょう。まず、「ハイ」といったときにそこに集約されていて一つの道具として「ハイ」「ハイ」「ハイ」となったことが一つになること、それができにくい、体が動きにくいから、体を動かして、自分のなかでもやっていくべきだと思います。
その体を最大の状態にするということです。
そこでできるのかできないのか。そのできないところで練習していてもだめだと思ってください。
本にも書きましたが朝、起きて歯を磨くような感覚で「ラララ…」では絶対に出てこないです。
だから皆さんの体は起きるまで時間がかかるはずです。それがわかるにも最初にとにかく体でわかるように頭でわからなくても、体を曲げてみて上半身をぐっと曲げてみて息をぐっと吐いてみてください。
1分くらい自分のペースでやりましょう。そのときにあまり肩とか上半身とか動かないようにしてください。
そのとき、のどにぶつからないようにしてください。体が一つになる感覚です。とても難しいです。
腰だけがポイントです。それ以外は体がついていないような、何かスポーツをやったことある人はわかると思います。体が一つになるという感覚を目安にしてください。息を吐いて体がバラバラで下半身に全然、感覚がないというのではありません。
よくわからなければ一回、上半身を下におろしてしまいます。それで体は腰を中心に動いているというのがわかりますよね。歌っているとだんだんのどが中心になってしまうのです。頭しか動いていないような感じになります。それではしかたないです。
それで楽にしておいて盛りあげていって、姿勢に関しては一番ベースのことでやりますが、べつにこんな姿勢でなくてもよいです。自分が一番、出しやすいような姿勢でも構いません。それで息を吐いてくると、だんだんと一つになってくるはずです。
よくわからなければ。その一つになったところで捉えてみて、そこで体全身で歌は考えなくてよいです。音楽で考えなくてもよいです。単に「ハイ」なるだけ体に一つになっているような「ハイ」をやって見てください。
「ハイ」でない方がよい人は「ライ」でもなんでもよいです。
「ハイ」「ハイ」「ハーイ」にならないように。「ハイ」です。自分のすべてを集約するように。
他の人はそもそも何カ月かいたら他の人の体が読み込めるはずです。どこで声になっているかということです。それを他山の石にしてください。では、どうぞ。
最初にいった通り、一番の問題はこれです。これが正しくならないことには、表現にも乗らないということです。だから発声の練習をやりたいといって、いろいろなところで「ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラー」とやっていても音符を声にしているだけのがとても多いわけです。だから一つの表現にも至りません。レクチャーで述べたことが本当にすべての基本です。たとえばこのことが100回できるというのはわからないかもしれませんが、他の人を見て一緒に100回やったらたぶん、違うふうになるとか、もしかしたら50回ぐらいでのど渇れてしまうなとか思うわけです。それではよくないわけです。
そこは私は最初から決めているわけではなくて皆さんの体と感覚のなかで「ハイ」これいいな、「ハイ」これだめだなというのがわかるはずです。もっと純粋にとり出そうとしたらやっぱり冷静に一つになるわけです。
そういう生理的なところ本能的なところで正解を自分でみることです。「ハイ」「ハイ」「ハイ」っていうのがまったくわからないところだったら、勉強できていないということです。それでも他の人を見たときに、少しでもわかるようになってくるのです。とても参考になるから、そのためにわざわざグルーヴにしたのです。それで音が入っていないから音の世界がわかりにくい。歌いあげたようなものになってしまいます。
加工が入ってはいけません。そういうふうに生の声が聞けて、それで表現がなっているかというのを大切に研究し、それをもとに自分で練習する。
「ハイ」が1カ月、2カ月ごとにできるわけではないわけです。それはもう1年後、あるいは2年後で変わっていきます。それがまえのときよりも条件がよくなっていればよいわけです。
歌が少しでも歌えるのだったら、悪くなるわけないですよね。条件がよくなるのだから。ただより大きく体を使うから、へたに歌えなくなってしまうことはあります。声とか何も考えないでワーッて歌っていくよりよいわけです。的が定まり、基準がつくのですから。そういう歌を否定しろとはいいませんが、そのレベルで歌うのではないということを自分でしっかりとおかないといけません。
何かやっていけばやっていくほど、体を使えば使うほど歌として歌えなくなってくることになります。そうでなければ戻ればよいわけです。ただ戻ってもそれが自分の声に一致してしてない以上、限界です。
表現でそれをしっかりともたないと、表現をしたときに体が使えていません。集中力がないです。わずか3分間を完全に集中しまくる、本当にプロモーションみたいです。歌の世界ってそういう世界です。そうでなければカラオケの世界です。
今の皆さんの若さで何でもよいから、ともかく体の状態とか頭の状態とか過剰になることです。そう与えるとき過剰にならないと与える必要ないです。それがないところでそれが出にくいです。
いろいろなことを考えて、いろいろ悩んで、他人よりは要領がわるくてもよいわけです。
できるということは、それでやれているからそれで終わってしまいます。できないと自分でもの足りないわけです。できなくてもよいから、できていないということをしっかりと認めなくてはいけない。それからわからない世界があるということも認めていけばよいと思います。
体の条件がプロと同じになって、わからないこともわかるのでしょう。だからわからないのにできてしまう人は天才であって、普通はそれを自分で聞いた中で基準として自分で築いていくしかないです。
本当に1年目は学び方を勉強してもらえばよいです。「ハイ」をやってもできなかったとしても、それでここを卒業しても、そのことをしっかりともっていたら学んでいけます。
そのときのテンションや場の雰囲気がダラダラーってなったら、アマチュアでカルチャー教室みたいになってしまったら結局通用しない歌い手しか養成できないのです。
そういう意味で場というのは大切です。すぐれた人のところに行ってみて、緊迫感とかそういう雰囲気を得ていったら自分がだんだんそうなります。これはやっぱりあたりまえではないわけです。ちょっと1時間ぐらいしゃべってみてそれで生活できるようなお金をもらっている、それを普通の人がやってもできるわけないですから。
だから、音楽であり、ことばであり、手に入れることは必要です。座り方、一つとって見ても井戸端会議とかサークルと違います。
Kさんという元NHKのプロデューサーに私の「人に好かれる人になる」のまえがきを書いてもらっています。6回の講座やってもらいます。そういうのも出てもらえばよいと思います。
「小さくて重い箱」とか「大きくて軽い箱」とか表現し演出していくのです。振付けも歌、歌えたら振付けができるのですが、一回、思い切って体を使うことを覚えていた方が動きやすくなってきます。
しぜんに動くようになってきます。
最初は動かしても何かこう一致しない。音楽から入っていくのも、演技からもよい。手話なんてよいと思いまよ。遠くから見て表現できます。
手一つで、すべての世界を表現するように動いてくるわけです。ステージでも同じです。ヴォーカルのスタイルもいろいろあります。とりあえず終りましょう。
ヴォイストレーニングで大切なことは声を出すことではありません。要はヴォイストレーニングであれば声が出る状態をつくること、その感覚を出すことです。歌であれば歌が出てくる状態をつくること、歌のときは歌うしかないわけです。歌のなかで考えているとか、発声の練習のなかで間違ったことを修正していくとかできないわけです。出したら出すしかないわけですから。
まえに出していくしかないです。それをどこで捉えていくか。捉えていく感覚がなければまえに出してもバランスが崩れます。だから新しい人たちに少しゆっくりめにいっていることは体の身体感覚を敏感にしなさい。でも、水がぶっかかるような感覚です。本当のことをいうとね。リラックスして声が出るというのは確かだけどその声では何もできないということです。
とても緊張が高まっていて集約されていて、空間も時間もまったく読めなくなっているようなところでの緊張に緊張を重ねたところでのリラックスです。わかりにくければにっこり笑って歌うのではなくて、怒りまくって怒りまくって疲れてフッーていっているときの安堵感とかそのようなものから入るのです。表現自体そういうものですから。
こうやってしゃべっていても表現にならないわけです。何をやらなくてはいけないかというと、そのまえに自分で考えて葛藤して、それを試してみてというものがから出てこないといけません。
日常の会話は「よいお天気ですね」それで出てきて話せばよいわけです。ところがステージとか歌とか表現とかはそのまま出てきて「よい天気ですね」、それでは何も変わらないわけです。
そのまえに嵐がきていてその嵐が過ぎ去ったときに「よい天気ですね」といえばそういう空間なり時間が当然、違ってくるわけです。
たとえ話は難しいかもしれないけれど勉強するときに気をつけなくてはいけないのは、感覚を鋭くしていくことです。
やっていることというのはもう「ハイ」「ライ」「ララ」「ラララララ」です。その基本を繰り返し繰り返しやっていく中で光ってくるものを出してかなくては、磨いていかなくては、かわいがっていかなくてはいけない。そしたらどこに戻るかというと、体力です。
体の感覚をバランスを戻しています。研究所で心をしっかりとクリアにすること。自分で思っているからそれをどんどん反省していく。もうかったるくてもう表現すればよいではないか、表現してみてよくないら基本をやればよいではないかと考えるのですが、それはそれでいろいろな人がいてよいわけです。そう思いたい人はそれがやりたくて3年間うちでがまんしてきたのでしょうから、だからあまり短期に考えてもこういうものはしかたがないことなのです。
皆さんヴォイストレーニングとか歌とか最初、入ってきたときに徹底していっているのですが、サッカーのゲームをしようという分野があるとしたら、ボールを蹴ることが目的だと思ってしまうのです。そうではなくそれはゲームのなかにおいて勝つために、あるいはそれはよりよく運ぶためにボールを蹴ることが必要なのです。そしたらどれくらい蹴らないといけないか、どう蹴らないといけないか単に遠く飛ばすだけではしかたないわけです。
トレーニングというのは何か目的があって、それがトータル的にできないときに部分的にやるものです。これをやるために腕立てをやって、これをやるために柔軟をやる。腕立てをして柔軟をやって、ボールを遠くに飛ばせたらサッカーのゲームに勝てるわけではないのです。
しかし、ゲームに勝とうと思ったときに遠くに飛ばさないといけない。あるいは飛ばすよりどんどん早くパスを出さなくてはいけない。先にそちら側の方が見えていたら決まってくるわけです。だからそれが見えないところのトレーニングというのは質的に高まっていかないです。
結局、研究所はもともとそんなものを与えるとは思っていませんから、場というのは工面してます。場の緊迫感が欠けるようであれば、ここに何も宿ってこないということです。やっていく人というのは緊迫感とかその空間、時間を動かしていくことが、歌によって行しているわけです。相撲でもサッカーでも皆そうです。
リラックスしてやっていたら、稽古も含めてだれもそんなの見ておもしろいとは思わないです。そこが皆、昔はわかっていたのですが、だんだんわからなくなるのです。そうするとトレーニングは何のためにやっているのかわからなくなるし、今の練習が何に結びつくのかわからなくなって辞めていく。それはそれでよいと思うけれど、私ができるのは辞めたときにはプロとしてやれるまでの助走を何とかつけさせてやろうということです。
その助走をしていく期間をどこかでそれをつかんだ瞬間的にとること、あとは3年なら3年。2年なら2年。それを定着する努力ができないです。声に関しても同じです。
「ハイ」「ララ」その「ハイ」といっているときに体をこの状態にして、その一つを確実に出すということを、これがたまにできた100回とるたびに1回、出た。そこの1回が100回になることを努力しない、音楽でもそうです。何かのフレーズを歌ってみた。ところが100回やってみたら同じフレーズ歌ってみたら、1回何かの感覚をえてきた。それを何も考えないでトレーニングしないで出せる人は天才的な人です。
学んでいくやり方というのはそれをあてにしていても、いつくるかわからないわけだから、そしたら確実にできることを繰り返す中で、得ていくことです。繰り返すだけではだめで気づかないといけないが、その確率もあげていきます。より高い緊張度と緊迫感のなかでリラックスして、そしてその辺をよくイメージしてトレーニングとか数をこなせばよいという人と、厳しいトレーニングでは彼らは全部想定してやるわけです。
誰が投げるどういう球筋でどういう状態のときに、こういう形でくる、それに対して1つずつ設定して全部、打てた打てないで判断しているわけです。だからそれと単に30分で100回、振った1000回、振ったというトレーニングとは全然、違うわけです。最初はそれさえわからないからイメージできないから量をこなすわけです。体を使って息だけ吐いていく。
実際の場で試合とかでスポーツの場合は結果が出ますからよいです。音楽の場合は結果が出ません。歌う、あるいは歌えなくなって、それだけしかわからない自分で判断していくしか、そしたら基本になったときその基本のことができている、できていないかということを見る。そしてその線上で歌う。
歌えない方が普通です。歌えるのならそれは基本を外れたところで歌っている場合が多いです。そうでないと歌というのはもうそれだけですから。だから難しいことは歌ったときにそれをもとに戻せるかです。音をどう感覚化していくかというところが大切ですが、それは必ずしも表現的なものがすぐれているとは限りません。
ただ音楽的な線の上でミルバとかずっと聞いて、それをやってくるとそういう感覚が入っている。それを脱皮していかないといけないわけですが、別の面でいうとそこまでの歌は学べば皆できるわけです。
ところが何ができないかというと、息を吐く体を使う、柔軟する、そういう体の状態をキープしていないと結局、歌のときに体が動かないです。
呼吸とかそういったもののなかにリズムとか音の感覚が入らなくなる、そうするとうわっすべりになってしまうわけです。ピョンピョンってずっと飛んでいる。それで自分が一体になる、自分の体とか頭とか知識とかそんなものを全部、除いて純粋にスーパーボールみたいなものが跳ねているみたいな感覚です。それがベースです。歌のときに狂っていたり、それがついてこれなくなったら息が入っていない。息が吐けなくなる。そしたらもたなくなるわけです。
12月に1回BV座といってオーディションを初めてやるのですが、やったときに結局、3分間を完全に集中して作品をおいていく人というのがたまたま1人いましたが、それができないのです。本当に難しい。しかし、たった3分間、たとえば10代でそれなりにステージ活動をやっている人は、集中しているのです。ただそれを体で捉えて音と一体になっていないと、集中力はあって舞台としては集中しているけど、音楽のなかで集中できていないから、結局、表現が雑になってしまう。
それとそういうのをしっかりとにぎってやっている30、40代のベテランのヴォーカリストとは全然、違ってくるわけです。だからその辺を今日からでもトレーニングの目的そのものにおいてください。声を出すことはやっているでしょうから、大切なことは、一つの声なら一つの声をオリジナルになるだけの集中度をもって、それを固定させていくこと、出していくこと、と同時に音楽、一つのフレーズだったら一つのフレーズを何回も何回の繰り返していく中でやはり宿らせていくようにすることです。そうなると何が一番、足りなくなるかというと体力、気力です。
そこの絶対的な不足というのは、日本人がどうしても音声表現に入れないことの根本的な理由です。体を使って音声を出すということに対して、何才になっても初心者から出られないということです。それは技術が助けになる場合もありますし、キャリアが助けになる場合もあります。そこはいろいろなものを学んでもらえばよいと思います。
だからその辺がうちで見ていても皆さん、2年でなんとなく身についたなで出てしまうのでしょうけど、6年くらいの技術レベルが必要と思います。表現レベルに関しては、いろいろな刺激を受けて勉強しなくてはいけない、研究所に入るまえにいろいろなものを得てない場合は尚更です。
ただ、それが技術ということであって基本ということであれば声に限らず、歌でもあるいは武道でも同じです。だから、わからないという世界があるのを認めていくこと、それからできないことを認めること、できているところをしっかりと出すことという単純なことです。
最近のレクチャーで私がいっていることはヴォーカルで今、道がどこかわからないと、次に行く道はできないことです。そして、できたときには、またできないことが発見します。だから常にできないわけです。でもあるときできたりする場合もあります。ところができてしまうときの不幸は、そのあとできることがあたりまえになりますから何かやっても満足できなくなってしまいます。
高い目標が必要です。声でも、自分の声にびっくりしてあとずさりしてしまったとかいうレベルになると、それを定着させる努力というのは、並大抵のものではありません。それを何も意識しないで100パーセント出せてしまう人は表現の天才なんでしょう。
歌にしても、そういう才能はあるのでしょうけど、声の場合はそれの準備をしていくことの地固めとか、道路固めがしっかりとできていないから宿ってこないです。見るところをしっかりと見ていかないといけなくて、その場合、今の音楽とか歌がおかれている状況が皆さんの判断を難しくしています。
しかし大切なことは、そこでやることというのは道をつくる、道を鋪装するということでよいのですが、そのコースを自分のなかでどう運転するのか、それこそF1レーサーの感覚で見ると、やることは自動車教習所でやっていることかもしれませんが、ただ、それをギアを入れてハンドルを動かして一周まわることができれば運転だと思っている人とそうでない、彼らみたいな感覚をもっていてコーナーリングといったって本当に0.01秒の差によって一番うまくとれる部分があるわけです。
いろいろな回り方がある。だから歌で一番、私が腹が立つのはやはりそこが全然、考えられていないような雑でデリカシーのない歌、しかしほとんどの歌がそうです。
自動車教習所と同じで、とにかく回ってきなさい、同じ速度で同じように回って終わりという感じです。そんわけないですね、直線コース上でどこかでアクセルふかしてコーナーだったらコーナーの切り方というのはあり、最高の切り方がある、それを出して初めて早く走れるわけです。だからまず日本人の歌というか、うちも含めてスピードがない、メリハリがない、加速している部分がない。
だから不快、それから押していく感覚があがっていく感覚というのもない、音楽というのは上昇する世界です。それを音のなかで表現してつくり出していきます。ことばをいってみて、音程をとってみて、楽しく歌うのも確かに条件ですが、それで一周、回れたから何かできたということでは全然ないわけです。
それをやはり最初に見なくてはよくありません。だから進めることというのは、今の安易な音楽よりはわけがわからなくてもよいから難しいものに接していけばよいと思います。難しいものがあって、そういう難しいものが世の中で世界で通用していて、古今東西、受け継がれてきています。
そしたらそこで古いとかこれは今と違うと考えるより、自分の方が今、学べていない学べるものが沢山あるということを考えて、学べなくてもよいから、そういったものがあるところにしっかりと接しているという時間をもつことです。だからその辺を大事に見ています。ジャズでも何でも、私は最初に聞いたときに何がよいのか全然わかりませんでした。拍手する外国人がいる。何でこの人はこんなのおもしろいのかなあ、と聞いていてもわかりませんでした。
でもそのとき毎日、自分に強制づけていると、苦でなくなり、3年目ぐらいからおもしろくなってきました。
5年目くらいから見分けがつくようになってきた。そうやって何かの集積によって入ってくるのです。最初、聞いてみた、ピアフ、何でこの人、有名なんだろう、この歌の何がよいのだろう、そこから入ります。声がよい人というのは、何となくわかります。そうではない人たちが何でその国で天才といわれるのはわかりません。
でも自分が歌ってみたら絶対そうはならない。なりたいと思ってもならない。すごく違うと思っても自分が学べていない、その差です。最初はそのことさえわかりません。好き嫌いで否定するからです。
ジャズとかゴスペル特にポピュラーの場合そうです。ただ受け継がれているものは別にシャンソン、カンツォーネ、オペラに限らず音楽でも皆、条件をもっています。そうではないものは誰も聞かれようとしないから滅びていきます。出てきたときは神秘なもので奇妙なもので多くの人にはわかりません。
ビートルズも、まさか教科書に載るようになるなんて誰も思わないです。そういうことが変えていく。
だからこそ、今、いうのをやればよいということではないけれど、そこにあって変わらないもの、人間の心を動かしたり、聞いたらそれを残さなくてはいけないこと、伝えなくてはいけないこと。
自分にも感じるもの、埋まっているものがあるとしたら、それがあるからヴォーカルになろうとかヴォイストレーニング受けたりしているのでしょう。そこをもっと突き詰めることです。それと共にそれ以上に外の世界も知ったらよいと思います。
皆と初めから入ってくる人とは5年も違わないわけです。5年のなかで好きなものしか聞いてないのが大半です。今、自分を徹底的に壊して、3年後に書く内容が同じだったら、進歩してないということ。聞いている音楽にもよります。
まあどうしても10年、聞いてたら3年では変わりませんが、でも一回、入ったときに白紙にして、今まで好きだったというのはたまたまそれが身近にあったり、たまたまそればかり聞いて何もできていない。全部、聞いてきたらまた違う聞き方ができるのです。
だから最初からそれをまねなくてもよいからそれに対して何を出していくかということで、そうやって見てください。何年たっても、ともかく日本人になかなかない感覚、飛び跳ねる感覚とか、呼吸、息を大きくしていってそれを一つに声を展開していくような感覚。歌が全身運動、音量を表現する、それがないからです。
怒ったり、泣いたりしてものどが詰まって、口先くらいで終わってしまうような国です。全身の表現。日本は日本の表現の仕方がありますから、最近、私は日本人の感覚で聞けるようになってきたから演歌をやってみたり、日本の古い歌みたいなものをやってみたりして取りあげていますが、それはそれでよいと思うのですが、単に体のこととか息のこととか基本的な構造を勉強するのなら、向こうのやり方を取り入れるというのはとてもよいことだと思います。
合理的な理屈です。ここも理屈をつけてますが、あればよいです。向こうの人というのは人物を、書こうと思ったら、まずヌードのデッサンとか体のデッサンから始めます。それではよくわからないというので解剖学で骨まで知って、結局、人間の体ってどうなっているんだ、から始めます。ミケランジェロとかも、死体を全部、解剖しています。全部そこまで基本を入れてからやるのです。だから日本画の人物画がつまらないとはいいませんが、日本人は別にスタイルをもって、そういうことであまり生々しくするのにはすぐれた国民ではなかったのかもしれません。それはそれでよいです。
考え方として一番、大元、基本のところをしっかりとつめていくこと、すると日本の場合、道みたいな考え方になってしまいます。それに関わること、論理的な考え方を合わせてみないと学び方を進めていくにはどこかで限界がきます。道の一番よいのはとにかくそれにまっすぐに進むということがしっかりとあるからです。よくいいますが、マナーを学ぶために部分をやってもよくありません。
強くなることをやっていたらマナーが必要になってくることで身についてくるわけです。本当にそういうものです。その目的を日本人の場合、皆で気持ちよくやったらよいとか、仲間でよりそってやればよい、そこに目的をもつのです。仕事とか勉強とかに目標をしっかりともっといてそれでその活動をよりよくするために音楽に接して欲しいものです。
楽しんでやればよい、そしたら音楽が目的ではないし、その使い方は全然、間違っていないわけです。歌い手だってろくに歌えないけれど、いろいろなところを慰問して人々を元気づけたりします。ただ、そんなこと最初から限定しなくたって皆、同じ人間だし、向こうの人間だって同じ人種なんだから、高いものを目指したいということです。確かに100メートルでは日本人がトップで走れるかどうかわからない。ただ歌というのは絶対、風土、歴史土着、精神があります。
日本はそれがないからきついのです。民族というのがあって民族のリズムがあって、その声があれば比較的そのうえでワールドミュージックで満たそうとします。アフリカだってすごいし、アジアだって、難しいものがどんどんあるわけです。
声だけ聞いていれば、日本の場合、今や紅白もひどいものです。まともに声を出せる人は北島三郎さんぐらいです。音声表現としてはやはりおかしいということです。
だから皆がもっていなければないほどある人というのは有利になりますから、しっかりやっていけばよいと思います。世の中に認められないとか、やれないというのは努力不足だと思います。違うことをやったり他の人がおいていったものをやったり、古いものを引き出してくるだけです。
それには今のっているものの数倍のパワーが必要です。でも今のっているもので今もっているものを聞いてそれでやっていくよりはまだ簡単です。長くやっていたら勝てます。今の流行を追いかけて、それの声の出し方、歌の使い方にことばでやってたら、そしたら出る人はよいけれど、出てない人がまねしたら絶対まねしている時間で負けてしまいます。それをマスターしたころには時代が変わっています。
だから学び方を質的に高めていってくださいということと、それからもっと単純に戻してください。より表現を大き出したい、より伝えたいということがそのうえにのってくるのならより息をたくさん吐かないといけません。吐いた息をすぐ回収してすぐに「フッ」って入るような体でないといけません。そんなことで崩れるようであれば、そのぐらい揺れていてリズムをとっていたら、そのぐらい揺れたって対応できるくらいの収集のバランスの感覚です。
しっかりと戻してこのくらいに歌って、そのうち動かなくなって歌ってしまいます。そしたら結局、表現自体、死んでしまいます。勉強しているとだんだんそうなっちゃう人が多いです。頭でっかちになってきて、そしたら衝動的なものを失って、トレーニングではなくなってきてしまいます。
そういう意味で1年半ぐらいからのトレーニングは難しいのではないかと思います。中を見ていても、最初の1年や1年半は私は伸びたと思っているのですが、レベルでいうと今から2年くらいまえまで。東京でもよいレベルにいっていたと思います。そこから伸びていないです。伸びた人というのは出ていったり、自分の活動を始めたりあるいはそうではない人もやめていく人もいますが、研究所はステージの場ではないから1年半まで伸びるとそのあとが伸びません。今、支えている連中というのは1年半まであまり芽が出ませんでした。そのあとに何とか出していけるようです。
そういうことでいうとトレーニングの場をより生かすということをもう一度、組み立ててもらえばよいと思います。
昼のクラスというのはここ1年くらい入ってきた新しい人たちですから、何か希望があれば素直に書いていってください。人数とか講座の数ばかりがふえてもしかたないですが。だらだらなるくらいなら練習しない方がよいというのが私の考え方です。
一番、集約できるところで一番、質的に高い練習をすると、そのためにヴォイストレーニングの必要もあって、10時間、歌えるために練習するわけではありません。
試合というのは乱れます。歌もそうです。舞台もそうです。だけどヴォーカルでいうとその乱れたところが完全に出ている人自体は見られます。それで支えられるものとして声が必要になってきます。
それを出していきます。色も表現もなければそれなりにその人が熱いかということです。
だから東京の方もだんだん集団指導体制になってきました。逆にいうと3分の1の力しかないのに、舞台を張れるというのは違うノウハウがあるわけです。だからそれはそれでよいと思うのです。
音楽的に宿って表現が出てきたというところです。いろいろな人たちがいてもよいでしょう。声が出たら歌えると思っている人はとても多いです。自分の問題は声なんだとか、声なんかなくたって歌えるわけです。ただ声がなくて歌えるということを知るために声をもたないといけないこともあるわけです。
声の限界を見ればよいです。声があるわりに何かバンドや10代のバンドのやるのとかわらないなら、やはりうまく使えていないということです。全部その人の存在は結末的に表現することです。CDとかライブハウスでは消化されていきます。ただそれを出した人というのはその存在というのは消化されないから自分で守っていくし、いる場とともに残っていきますので、それだけ時間と空間が耐えられます。基本の基本からやっていきましょう。単に「ハイ」っていうことです。