レクチャー2
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【レクチャー 353】
【特別 361012】
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【レクチャー 353】
今日の課題というのは、歌唱での問題ではなく、ヴォイストレーニングです。
まず、今まで声に対してどういうふうに考えてきたか、歌に対してどういう聞き方ができるのかという部分を問うています。
たとえばすぐれたヴォーカリストの曲を聞いて、声に関して語ることができ、それぞれ原稿用紙10枚ぐらいずつ書けるということであれば、ヴォイストレーニングでの成果というのは、理想的に伸びるでしょう。
皆さんが今まで日本で受けていた教育というのは読み書きからはじまって、音声教育はなおざりにされています。
かたや日本以外の人たちは言語の構造上、発音から音声の正しい使い方、を母国語で学んでいます。耳に対して敏感な環境でも育っています。教育もことばをはっきりと伝えるところから入っているのです。それが歌うためのヴォイストレーニングの部分の前提のところにあるわけです。
そこがわからないとヴォイストレーニングそのものを正しく行うのは、難しいものです。
クラシックの分野でも本当にハイレベルで使えるヴォイストレーニングは一割ぐらいしか行われていないと思います。ポピュラーのなかでいうと残念なことながら名前ばかり先行しています。本当に声が育ったというところまでやっている人はどのくらい、いるのでしょうか。
外国からきているトレーナーもいます。彼らは日本人をあまりわかっていないみたいで、あるレベル以上の日本人の歌唱テクニックに対してしか伝えられません。すでにある声からスタートするのです。
もっとも難しいのは、もう一つお客さんの問題があります。日本人の日本人に対する歌の評価の問題です。お客さんをひきつけられるところでの違いというのがあります。
ヴォイストレーニングをやって、声ができたら、それがお客さんに伝わるかという問題です。それはステージというライブあるいはCDを作る場合の問題でもあります。ヴォーカリストの問題には全部が混在しているといってよいでしょう。
そこで目的をある程度わけていかないとトレーニングといっても説明がしにくいのです。
ベテランの歌を聞いてみてどうでしたか、曲がどうだったか、詞がわからなかった、そんなことを議論しても意味がないのです。
ヴォーカルトレーニングとヴォイストレーニングの違いから説明しつつ、私がここでやっているスタンスを説明していきたいと思います。
一番困っているのは今の日本のヴォーカリスト、特に若手のヴォーカリスト、よくかかっているヴォーカリストのなかに声とその使い方を見本にとれる人が少ないことです。世界中探してもそういう国は他にないでしょう。ですからヴォイストレーニングを説明するのに、原点よりもさらに戻らないといけなくなります。それがここの価値観にもなっているのですが、トレーニングでつけていく力とは何かということです。
それは、トレーニングをやった人たちの声がプロとして成立しているかということで判断することでしょう。いろんな判断の基準があるのですが、皆さんが育ってきたときに、聞いてきた声自体、そしてそれを受けて発している自分の声が整っていないというところから、スタートしたほうが早いと思うのです。
自分の声を録音に吹き込んで、魅力的だと思える人がどのくらいいますか。日本人にはほどんどいないと思います。それこそ声域や声量の問題に優先して片づけるべきことでしょう。
ヴォイストレーニングというといろいろなことが述べられているのですが、たとえば私が今しゃべっている声は、日本では、何かプロの声として活動している人の声といわれ、とても目立ちます。
ところが外国にいるとあたりまえなのです。日常会話をこのレベルでやっています。
電車でも日本人はこそこそですが、彼等の音声での距離感覚というのは、向かいあって車両の端から端まで聞こえるぐらいの感覚です。そういう環境で育ってきた人と、日本人みたいに音声をはっきり出していくというのが、むしろ、いやがられる風土的にマイナスのイメージがあるところでは、随分と違うということです。
ここに関しては、基本で二年という期間を設定しています。厳しいようですけれど、二年を考えないのでは、難しいという考え方をしています。そうでなくても、通用する人もいます。役者で第一線で何年もやってきた人もいます。育ちにどこまで声が入っているかの個人差が大きいのです。
ただのプロでは、ここの初年度の課題もこなせないでしょう。こなせていないこともわからない。まず耳ができていないからです。声の音質そのもので判断する訓練を積んでないのです。
もう一つは、体づくりです。ここで伸びた人、あるいは一所懸命トレーニングをしている人はトレーニングと同時に体づくりをはじめます。そうしないと落ちていきます。年齢よりも体力的な問題があります。
それから集中力も芸事ですから問われます。特に音楽というのは、時間との戦いみたいなところがあります。反射神経とか運動神経も要求されます。スポーツ選手のように強靱な精神力と感覚が要求されます。
それらを補うのに苦労をしいられているのが現状です。だからといって、ここで、走ったり、腹筋をしたりすることがトレーニングではないのです。心技体が整っていくのに時間がかかります。そのベースとなる力はこういうところに負うことが大きいです。
さらに聞く耳です。それがなければ音声のイメージがないから、結局、歌に結びつく声ができてこないことです。外国にいると声が大きくなります。日本に戻るとまわりの声が小さいのでどうしても自ら制限してしまいます。
二年間を単純に分けると、一年目は、日本人の声はマイナスなのだから、それを外国人や役者と同じくらいのレベルにすることです。そういう人は、日本でのレベルにたえるところまではもっているわけです。
ポピュラーと声楽と違うところは、こうやりなさいとは決めらないことです。ここは、はっきりいうと耳のレベルより声のレベルの部分です。
声優や役者の卵がここにくる理由はヴォーカリストのベースになってくるのです。声にも真実がありますし、それから音楽にも詞にも曲にもある。それぞれみんな真実があって全部がからみあって一つのヴォーカリストなりアーティストがあるのです。
ヴォーカリストというのはわかりにくいのは、総合的なこととして問われるからです。
だからこそトレーニングにおいては区切っておくほうがよいでしょう。
今日本で歌っている人の多くは、アイドルやタレントヴォーカルです。カラオケの中級者のレベルのことを目的にすると、声というのは身につかない。というのは、身につかなくてもよいからです。
土台、売りものが違うということなのです。
声だけよいとか悪いとかの判断は、そんなに難しくないのですが、ポピュラーのヴォーカリストの場合は正解がないから、使い方というオリジナルにおいて、大きなレベル差があるのです。
よく聞かれるのは、上達するメニューです。それをやったら誰でも上達するメニューがあると思われていますが、そんなものはないのです。
ここではいろんなメニューをオープンにしていますが、出しても意味がないのです。
メニューを100やろうが、200 やろうがそれだけでは何の力にもならないです。
それで何をつけるかが大切なわけです。
メニューというのは本当でいうと一つでもよいわけです。たとえばプロのヴォーカリストの人たちと1フレーズでも同じようなレベルでできれば、あとはそれを3分もたせるだけの世界なのです。
それができないのに何十曲、何百曲歌っても仕方がないのです。
そういうことをやっている歌のうまい人たちは、カラオケではいくらでもいます。皆さんよりも長い年月歌っていて、レパートリーも百曲あるとか、一つの歌を二千回歌っているとかいう人です。その人たちと本当のヴォーカリストの違いをしっかりとわけておくことです。
ヴォーカリストは、人に歌で魅せる、自己満足に終わらない、まったく売り物が違うのです。
あのヴォーカリストぐらいなら歌えるとか、もっとうまく歌えるとか、今の日本をみていても意味がないでしょう。音楽スクールよりもお笑いの養成所にいったほうがよいです。売り物が違うからです。いろんなバックがあってやっている人だからです。
今の日本の音楽において声をだめにしたのは、歌謡曲やニューミュージックです。その貢献は認めるのですが、この分野は、かっこよいとか、かわいいで商売するために、人を何万人も集めるのにどうすればよいかということで、歌が使われてきたわけです。
まわりの優秀なスタッフのおかげでなりたっているわけです。
皆さんがそれを得られるのであれば別です。
運命を他人の手に委ねては、努力のしがいもないでしょう。
プロになりたいとなれば、違う考え方が必要です。二年でプロというのは、かなり短いという意味です。本当に体を変えて、そこで歌おうとすると五年、十年がかりになるはずです。
どこまでという完成もないはずです。
何年でできますかという質問は答えられません。ヴォイストレーナーによっては一ヵ月でもできるでしょう。一ヵ月でもプロにできるとかいいます。
それは、何をもってプロというかによって違うでしょう。
皆さんがどこまで見ているかがとても大切です。最終的にヴォーカリストには正解がないのです。
リズム、音程がはずれるのは論外ですが、それ以外は、当人が満足できれば、それでもよいわけです。
多くの人が歌で耳で判断できているところというのは、ほとんど音程とリズムくらいです。
日本ではこれができて、作詩、作曲の能力があれば、何となく通じているのです。耳というのは、違うのです。音程とかリズムはあとからついてくればよいことで、声のなかにある音感を鍛えればよいのです。声のなかにあるリズム感も大切です。まとめていうと、これは呼吸ということです。
音程やリズムに気をつけて、複雑な声、しめつける声をつくっていったら、結局、歌えなくなってしまいます。体をシンプルにしなくてはできないからです。
ヴォーカリストの世界は、ある意味では、シンプルでわかりやすいのです。私の声を聞くだけで多くの人は何か違うとわかるわけです。
一方、カラオケのブームですから、通りを歩いている100人のなかから、一番歌のうまい人をつれてきたら、それなりに相当うまいわけです。
それとプロとは全然違うのです。
しかし、そこのなかにいるとそのなかでの優劣に支配されてしまうのです。
何が違うかわからないと、よくなりません。
私がここでやりたいという人に対してもレクチャーの形をとっているのは、誰でもうまくなるからきてくださいというのではなく、はっきりと見極めて、ここに向いていないならやめたほうがよいと伝えるためです。
それは、ヴォーカリストに向いている、向いていないではありません。ここでできること、その目的に対して、ということでしょう。声を仕上げるのに、それ以外の才能を問われても、ということです。
ここでやることは二つだけです。一つは耳ができること、自分で練習ができるようになることです。
練習ができるようになるというのは、たとえば、朝起きて、歌える声が準備できて、どんなに調子が悪くても歌の声にはマイナスを抑えられるということです。
風邪をひいても声そのものがくずれたりするようなことはないようになります。そして、今日、自分が何の練習をどう組んでいけばよいのかわかるようになるということです。
ブレスヴォイストレーニングのトレーニングというのは、ブレスヴォイストレーニングという決まったメニューがあるわけではないのです。
たとえばここにいらしたら、一ヵ月めは、課題をつくります。ことばの読みの練習は、自分のつくったことばを使います。
日常使っていないことばにどうやって心がこもって、体が入って表現できるかということです。自分の頭のなかにあることばが、できたら体験したことばを使うのが一番よいのです。それはその人の課題です。
ヴォイストレーニングも個々で、やり方が全部違うのです。確かにトレーナーや方法との相性もあります。しかし、私は基本的にはその人が自分自身のヴォイストレーナーとなって組み立てていかないといけないという考え方です。トレーナーの養成をするわけではないのですが、自分にとっての最良のヴォイストレーナーになることが必要だということです。
楽器をやる人は、楽器のことを知っています。どうやって調律すればよいか、知っています。
自分の体で声を調律しなければいけないのが、ヴォーカリストの条件です。
プロになれるとはいいません。オーディション制もとっていません。
それは今の力よりも伸びる人をとるためです。
ヴォーカリストというプロとしての体があるのです。
トレーニングをやった分、体がヴォーカリストに近くなるといっています。
役者は、もっと身振り手振りお客さんに対して、どう空間を利用すればよいのかをいろいろと考えなくてはいけないので、別の意味で複雑です。
だから、ここでは音声の表現力に限定しています。
ヴォーカリストというのは、歌っているとき勝負できればよいのです。少なくてもプロであるなら、その人が身一つでできるものが、そこにあります。それこそ肉体芸術です。
体のなかにすべてあるのです。
普通の人が普通のことをしても、人を感動させられません。それ以上のことをしているヴォーカリストがそれだけの表現することは、普通ではない体と感覚をもっていると考えればよいわけです。
あたりまえでは、それ以上のことをするのにあたりまえではなれない。そのあたりまえにならないものが体の差であるなら、プロの体というのがあると考えた方が早いわけです。
ここでは、ライブとしてのヴォーカリストを想定していますから、劇団の方に近いでしょう。体を使ってやるものですから、舞踊とかダンスとかそういったものと共通しているような習得の方法と考えてください。一所懸命やった人には、初めてやる人より絶対にもっている体というのがあるはずです。
音楽が好きで音楽をたくさん聞いてきたから歌ったらうまいというわけではないです。楽器であっても、演奏者というのは体でやっています。トランペットであろうが、ピアノであろうが、口先、指先で通用するわけがないのです。楽器が体であるヴォーカリストなら尚更です。
スポーツをやったことのある人はそのプレーを習得した過程を考えてください。基本のときはどうだった、最初のときはどうだった、どうしてもうまくいかない日がつづき、あるとき気づいてみたらできていたということと似ています。歌も体につけていく芸事と考えてください。
外国人の場合は、実際ヴォイストレーニングをやってみたらわかるのですが、0からスタートできます。0の声があってそれを10にしたら天才なら8ぐらいから才能が出てくる。
ところが日本人の場合はマイナス10からスタートしていると考えてみてください。とりあえず0に戻していかないとなりません。別に数字でわけられるものではないのですが。
声ということで聞くなら、劇団をみたりミュージカルをみたら皆、日本人が感じているふしぜんさは、ある程度当たっていることだと思います。0に戻すということであれば、一番シンプルなのはトレーナーの声を聞けばよいでしょう。ここが0です。
芸事というところでは、録音で入れて、聞けるかどうかです。それなりに、そこに表現できるものはトレーニングと一致するわけです。ヴォイストレーニングの一つの形として思ってもらえればよいでしょう。
声を録音して通用するかどうかの世界です。このときに通用しなければよくないでしょう。それがヴォーカリストとしての基本の部分です。
日本の場合、生まれつき声が高い人がもてはやされます。それは高いのが出るのではなくて高いところに設定されている人がいるわけです。日本の音楽界の特徴です。その人たちの声は、それでよいのです。ヴォーカリストによっては、詞のところに真実があったり、曲のところに真実があったりするから、必ずしも声の真実がなくてもよいのです。
そういう人たちは、高いところが出るだけで中間音や低音は普通の人以上にでません。高いところも声としてはプロのものをもっていない。高いところに届いているだけです。しかし、それでもヴォーカリストとして通用しているだけ豊かな才能がある。曲や詞を書く才能があるのです。
ただ、問題は、それらはトレーニングで育てられないのです。
トレーニングというのは効果があがるからトレーニングというのです。しぜんのことをしぜんのままにしていたら成果がないのでトレーニングをするのです。だから体や声を中心にします。
力をつけるためにやるわけですから、間違ったことをやらない限り、成果があるのはあたりまえでしょう。そうでなくても人間が何か毎日したときに何年たってもできないことはありません。二年やってきた人の前にたって同じことをやったときに差がつかないなら何がトレーニングかということです。
歌い方とかカラオケはちょっと教わるとうまくなりますが、そのために行き詰まっていくのです。一ヵ月で上達するのと、二年間で基本をつくるのとは、教え方とか違ってきます。一ヵ月で仕上げようという教え方と五年で仕上げようという教え方も根本的に違うのです。早くやろうとしたら、本物の声を育てたり、腹式など使っていたらまともに歌えないのです。
初心者は、アピールできる力がないので、歌ということでは減点法で聞かれます。ですから、減点されないように教える人が多いのです。自分のもっている声をどこまでまとめて使えるかという力です。声自体よりは、まとめる完成度が要求されます。
アイドルならアイドルの声でもよいわけです。それを九割まとめられたら、あとは音響とエコーで使えばそれなりに聞こえるわけです。間がもてばよいわけです。普通の人はアイドルやタレントではないですからもちません。カラオケも同じです。それは調整のトレーニングなのです。
プロの人のように、リラックスして、肩の力を抜けといわれても、それは力があって、その前に調子のよいときには本当にプロとして打てたとか投げられた人でないと無理なわけです。力をつけるまでは、ランニングや素振りをやるしかないわけです。そこをしっかりとわけておいてもらわないといけません。
日本人は耳に鈍感で、歌に本当に大切なことを聞いていないのです。声そのものは十分の一です。あとの十分の一は音楽の基本のところです。あとの十分の八というのは結局その声をどう聞いて、どう使うかという技術です。あるいは声そのものをどこまで本物をとりだしていくかというところです。
ポピュラーの場合は声楽とは考え方が違います。声楽の場合はある程度、理想的な声というのは決まっているのです。オペラにも役割があり、求められる声があります。そのため、資質や声帯そのもののよさも問われます。作品も昔は歌い手のために書かれていたのですが、今は、すでに決まったものが多く、音域も設定されているわけです。
テノールをやりたいのなら、日本人のほとんどはまず音域を獲得するところから入らないといけないです。それからマイクを使わないので遠くまでひびくようにしないといけません。ですから高音にむけてレガートでやっていくのが中心です。高音に届かせ、ひびかすことを優先するのです。
ところがポピュラーの場合は、曲を聞いてみたらわかるとおり、しゃべったり、叫ぶように歌っています。声楽家はポピュラーの優秀な歌い手を評価できない人が多いです。発声にとらわれるためです。ルイ・アームストロングや森進一など、しわがれ声やジャズの声を声では評価していないのです。
ポピュラーは、声を聞いているのではないのです。息を聞いているのです。だから私は息がつながっていればよいという考え方です。もっというのなら音楽が息でできているか、呼吸でできているか、それが大切です。その呼吸のなかに音感もリズムも声の音色そのものもあります。だからそういう声をひきださないといけません。
日本人の生声というのはつくられている部分が多いのです。日本の文化として、たとえば目上の方には話し方を変えて、少し高くしたりしています。女性が低い声でハスキーでしゃべっていたら何をいばっているのだと日本ではみられます。音声で強く表現することがマイナスに働く文化なのです。何か思っていることがあって、それを伝えないといけなくても、はっきりさせるとかどがたちます。
外国は異民族の混合している社会ですから、逆にはっきりと思うことを音声で伝えないと許されない文化があります。自分がもっている意見を常に表現しないといけません。歌の世界もその延長上にあるのです。
文化の違いまで克服しようというところまで、ここでは正しいことを正しくやっているつもりです。それは正しいというよりも外国ではあたりまえのことです。
歌っていたり、自分でトレーニングをやっているのに、三年、五年と経っても声が全然変わっていかない、声が荒れていく、あるいはでなくなってくるとしたら、おかしなことです。年齢とともに無理は回復しなくなってきます。日本人ではよほど確かな判断力をもたないとそうなります。大音量のなかでやっていると耳も悪くなってきます。
ヴォーカリストとして、もっとも大切な部分をつぶしていくとしたら、可能性もなくなります。トレーニングは可能性を最大限追求していくためにやるのです。そこで才能がでてくるかどうかは別の問題です。日本のヴォーカリストで声と声の使い方に才能をもって歌っている人は少ないです。欧米では声が出なくて、うまく歌えるのでは絶対にステージには立てないのです。
人を魅了させないと、ヴォーカリストになれないのです。全然知らないヴォーカリストでも日本人と比べるとまったく違う器をもっています。街のゴスペルクアイエットのメンバー全員が日本のプロヴォーカリストよりうまいわけです。それだけの実力の差があるということです。
私は価値観を押しつけないようにしています。だから歌も教えません。ただ、ヴォイストレーニングで声を身につけようとするなら、どう考えた方がよいのかということで述べています。ブレスヴォイストレーニングはいろんなものをとり入れています。
今、日本というのを問わないといけないでしょう。多くの人が英語で歌っていますが、まともなヴォーカリストで生活したこともないようなことばで歌っていて、母国語で歌えないヴォーカリストはどこの国でもいないです。そういうところがわからないと本当に声そのものが身についてこないのです。借り物のスタイルでいくら歌っていても、よくありません。
ここの教材で使うものは、一流のヴォーカリストの声です。耳を鍛えるため、多くのLDをみてください。アーティストやオリジナリティ、ポリシー、生き方ということも考えて欲しいし、ステージの構成なども考えて欲しい。その他に声そのものをどう扱っているかということ、舞台裏も含めて学んでください。
自分のなかに入っていなければ聞くだけのものは出てくるわけがないということです。
ここで話すことも、声ということを唯一、考えていったときにそう考えたほうが確実だという考え方です。偏見みたいに聞こえることもあるかもしれないですが、そう思って聞いてください。
ここは自由に本人の判断でやらせています。個人個人の価値観を尊重しています。変な人がたくさんきてバラエティにとんだほうがよいです。年齢とか性別とかそんなことではなくて、他のところでは生活できないような人とかみんなが煙たがる人とかそういう人がこないとこういう場所はよくありません。仲よくやって協調性で動くと個の力がつきません。日本は特にそうなりがちです。あたりまえのことをあたりまえにやったら伸びるのです。何があたりまえかを知ってください。
声に関心をもつということと、一日も欠かさずトレーニングするということです。このあたりまえのことをやれば、あたりまえのレベル、ヴォーカリストとしての才能がでるとかでないとかいうところの手前、つまり0の地点まではいけます。ニュートラルまでには入れるということです。
ここまで二年でいくのも難しいようです。一年目は一所懸命やる人が、二年目ぐらいになると甘くなってしまう。特にお客さんをもって場をもっている人は、自己満足してしまうのです。それは歌のほうで歌ってしまうからです。
その前に自分のベストの声を磨いて出すことがおろそかになるのです。ヴォイストレーニングの練習ができるというのはいつも一番ベターな声しか使ってはいけないということです。スポーツをやった後とか、快活なことをやったときにしぜんにのども何も使わないで声が大きくでたような経験があったとしたら、その声こそオリジナルに近い声です。それは笑っているときでも何でもよいです。
「ラララララ」なんて発声らしい声は使ってはいけないです。それを使わせることが音域をとるための発声法で教えられています。
たとえば、音域は1オクターブでればプロと同じなのです。同じ条件のなかで歌っているのですから。プロでも二、三音ぐらいで大きな差があります。
皆さんは高音がでないからプロになれないと思っていますが、とんでもないことです。1オクターブは皆さんもっている。それを2オクターブとか高いところを安定させたいといっていますが、そういう声が本当に出るのならそこでもうプロなのです。それが通用しないならだめだと考えたほうが早いということです。
いくらそこで歌ってみてもそこで技巧を覚えても10の器のなかでは50、100 の器がある人と同じことができっこないということです。
今の声のなかでベターの声をベストにしていくことをベースにトレーニングすることです。劇団とかでもミュージカルなど歌い出すやいなや今まで使っていた説得力のある声がとんでいます。いきなり歌ってまわしています。そこで表現力がぷつんと切れるのです。それが今の日本の現状です。
ヴォーカリストにとって一番大切なことは表現できているかどうかです。人の心を捉えているかどうかです。魅力があって聞いてもらっているかどうかです。
人の心を動かさなければ何でも簡単なわけです。自分のレベル相応までうまくなればよい世界です。
音程とリズムを直してそれでもうできましたというような曲の上げ方をしていったら、何曲でもレパートリーをもてるわけです。
そういう人は本物のプロがとなりにきたら何も歌えなくなるわけです。フレーズでも声が出なくなってしまう。それだけの差をどこでも縮められないからです。最初に差がわからないからです。
トレーニングとはベターをベストにしていくということです。口のなかだけで歌わないで体のほうにしっかりともってくるのです。体でコントロールしていきます。体はダメージを受けても、トレーニングだからよいのです。どんどん強くなっていきます。
声帯は直接には鍛えられません。そこを荒らしていくとだめになっていきます。何事もしっかりとできている人は肩の力が抜けて、体の中心にすべての力が集まります。そして、それを解放するという使い方をしています。スポーツでも芸事でも一つの呼吸です。それに反している人たちは不しぜんです。そういうものを見たことがない人たちはよいヴォーカリストを見ることです。
歌のほうがごまかせるわけです。ヴォイストレーニングはごまかせないです。歌はエコーかけてみたり、マイクを使ったり、音響や照明、表情などトータルに問われるからです。ここではアカペラでやっています。アカペラのなかで完全に声をコントロールする力がつかなければ通じないと考えています。マイクを使ってうまくなるならカラオケをやっていればよいのです。
確かに外国人と日本人とは違うのですが、お客さんの耳の問題があります。日本でしっかりと歌える人が外国で歌うときのことや外国人が日本人の歌をどう聞くかからいろいろなことがわかります。そういう材料をここではたくさん出しています。
そういうもののなかからいろいろ考えると、声を体を使うというレベルで捉え、人間の体はみんな同じだというところにたったほうがすっきりするということです。歌や声には男女という性別も年齢も関係ないです。
20歳までは、体づくりのほうを優先してください。声帯がまだ安定していない場合が多いからです。歌の場合はそんなに年齢は関係ないです。体力、集中力の問題です。声楽の場合も40代半ばが最もよいといわれています。テノールでなければもっと寿命は長いです。ましてやポピュラーの場合はどうでもよいわけです。基本的には自分が歌いたいものが歌えればよいのです。そういうことで30歳や40歳でも遅くありません。
他の楽器やスポーツとは違います。ベースをしっかりとつくっていくことです。ベストの声というのは最初はコントロールできません。これは体がついてこないと無理です。
私がほとんど口なんて動かさなくてもしゃべれるのは体のまんなかのところで捉えているからです。体は疲れます。息をしっかりと身につけていくと、声をどんどん小さくしても遠くまで聞こえるのです。高くすること、低くすること、それから大きくすること、小さくすることを完全にコントロールしようと思ったら、日常より離れていく分だけきつくなるのです。一つになっていかないといけません。それから体の中心で声を捉えるということです。正しいものはシンプルだからです。
日本の音楽教育のなかで一番よくないのは楽譜から入っていくことです。それに声をのせるようにやりますから、歌ってもらうといかにも教育を受けてきたという歌い方になってしまいます。これは全部、間違いです。
発声などが聞こえてきたら歌ではないのです。まともな人たちはストレートな感情表現だけです。一番大切なものを失って、いらないものを身につけてもヴォーカリストになれません。音楽の基本はリズム感や音感のトレーニングです。しかし、音程やリズムのトレーニングをでない声で出してはよくないのです。歌えない発声になってしまいます。そして、日本のスクールではどんどん複雑なことをやっていくわけです。
のどをしめて無理に出して本人はできていると思っているのですが、はっきりいうとくせにくせをつけたような感じです。普通に話している声すら日本人の場合はくせがついています。それを歌声にすると、もっとつくってしまいます。外人がストレートに伝えるような表現がなかなかできないです。役者さんと同じように表現したいことを伝えるときにどうなっているかを考えてみましょう。本当に伝えるのならそこに体と息が使われているはずです。少なくともここでやるトレーニングというのは棒読みみたいなことを歌のなかではやらせないことからです。
棒読みで「おかあさん」といっても誰も振り向かないでしょう。ただし発音は正しいし伝わります。しかし、本当に何か必要があって「おかあさん」といったときに表現しようと相手を振り向かせようとしたらそのときは体と息と声がたとえかすれてても一体になるのです。声は体に入っているし、息も使っているはずです。体を使うからつかれるはずです。
1フレーズやっただけでも、体が必要です。歌もその延長上にあるから、ヴォーカリストは汗もかくのです。表現力はそこからでてきます。カラオケやアイドル、タレントの歌い方というのはまったく違います。
どこに真実をとるかはとても難しいものです。歌には歌の真実がありますし、曲には曲の真実、詞には詞の真実もあります。声がまったくなくても、その真実で歌えるのです。ただトレーニングで確実に身につくのは声とか体とかにあるところです。これは体は鍛えれば強くなるからです。
たとえば腕立て伏せを30回やっていたら、二年もたたないうちに30回くらいは楽になると思うのです。それは獲得できたということになるのです。体というのは本当に単純でトレーニングしただけ、使えるようになります。そのかわり一日も休んではいけないという厳しさがあります。
ここで二年で区切るのは、基本的に何年もあると思ってだらだらしていてもしかたがないからです。二年で一区切りつけるつもりでやって、さらにまた続けることなのです。耳に関しても体に関しても、そうやって区切っていってください。ですから二年たったら歌うなり、劇団にいって活動をしてくださいといっていたのです。しかし、最近は外に出してからここで得た真実のものがぼやけていく場合が多いことに気がつきました。だから、希望者は残ることもできます。
1オクターブを三分間キープするような力というのは、それの三倍から五倍の力が求められるのです。1フレーズだけ人に伝わるようにいいなさいということなら、素人の人でも何ヵ月かトレーニングすればできるのかもしれない。そこに音がついてくると難しくなります。
クラスで、一番声の小さい人でも村一番とはいいませんがまず大きくなるところまでがんばりなさいということです。結局今まででない声で歌で苦労しているわけです。そうしたらまず一つの条件として、一流のヴォーカリストやヴォイストレーナーくらいの声があったら、きっと楽だろうと思ってまずはその体を得ることです。
外国のヴォーカリストを聞いてみて、話し声を聞いてみたり、笑っている声を聞いて「あの声なら歌ったときにも楽だろうな」と思えばそこからやりなさいということです。
ことばに音をつけてみて、それが歌になるかならないかの世界です。それより難しく考えてしまうと歌もややこしくなります。技術や計算ばかりみえて人には伝わらないカラオケになってしまいます。
体のところから一つにした表現を、声で完全につかんでおいて、相手にしっかりと提示するところからです。バットを100 回ふってみて100 回同じところにスイングがいかない人がいくら試合にでてもしかたがないというあたりまえのことです。
最近はそういうことをいっても、体に何かを身につけてきた経験がない人が多く難しいようです。知識詰め込み反復型の教育を受けてきていますから、資格をとるみたいに、これをやったらこれでこういうふうに二年やったらできたみたいな考え方をします。
そんなものではないのです。かなり地のなかにまでもぐりこんで、よくわからなくなって、そこで本質的なものを本人が直感的につかんでいくのです。直感で気づいたものだけが身につけます。本質的なものをつかむのが大切なのですが、その前に自分の頭のなかでそれだけのものが入っていないと出てこないというのも真実です。
そこまでの教育とか音楽の聞き方というのは日本の場合は残念ながら、よくありません。特に皆さんが聞いて育ってきた音楽というのは声から離れているのでそれをとり戻さないと難しいです。ゼロからとり戻したほうが早いです。
たとえば、CNNを聞いてみれば外国人のアナウンサーの声というのは女性でも低く太い声なのだとわかります。これが向こうでは伝わるものとして認められているのです。日本人のアナウンサーの声だとよくないのです。
そういうことが区別できるようになってきたら、自分の声がわかるようになってきます。そして声が体に宿ってきます。だから細胞を変えてくださいといっています。
今ここで行われている課題は、皆さんのお父さんとお母さんがジャズ歌手とゴスペル歌手、あるいは声楽家とか役者さんであれば生じてこなかった問題です。そういう環境で育っていたら、しぜんと身についていたことを二年間でやってくださいということです。それが確実かつ、強い力になります。
結局、バックボーンがなくても、ヴォーカリストは一人だという考え方で、どこの国にいようが難民キャンプにいこうが、そこで歌ったらプロのヴォーカリストがきたと認められないとよくないのです。プロダクションやマネージャーがいないとだめということではないです。
マイクやスピーカーがないとできないということでもないです。他の国のヴォーカリストなら、それをもっています。日本の場合はそうではないのです。他の国のプロであればどこで歌を聞いてもそれなりに聞かせられるものがあるのです。歌のまえに声一つを聞いたらわかります。
日本人の場合は残念なことながらあまり感動させてもらえないです。大体何かのパターンにそって歌っているだけです。オリジナリティがそこに出てないからです。それは自分そのものの声を使っているわけではないからです。
日本の詩人はあまり歌いませんが本来、ことばは声も含めて歌うものなのです。
その人の使える声というのはもっと別にあるのです。ただ歌として1オクターブとろうとしたときにその声が使えないから、別の声のところでくせにくせをつけて、一つの歌としての伝わる表現の仕方をしているのです。
あなたのなかにももっと本当の声があるのです。そのしぜんな声は自分の生命が危機にあったとき、叫ばないといけないときに出てくるような声です。
歌というのは声を完全にコントロールして人にみせるように整えて三分保たないといけないから大変な体力も集中力もいるのです。そこまで特化するトレーニングをつんできていないから、その声がまったく使えないです。
一流のヴォーカリストが共通にもっているベースがあります。個性、オリジナリティ、スタイルを除いたところでの基本の技術です。日本人のヴォーカリストがもっているのは個性というよりくせです。体も声の使い方も才能を別にして共通の部分を理解し、安全に習得していくことが大切です。声楽家でも一流の役者でも同じでしょう。ゴスペル、ジャズ、シャンソンと何であろうが、スタイルというのがあり、それは好き嫌いがあります。
しかし好き嫌いはあってもプロはプロとしての技術をもっています。共通の部分がわかりやすいものから学ぶに限ります。フレーズの大きさや、ことばの入れ方です。ところが今は、それがわかりにくくなっています。コンピュータやいろんな録音加工技術が発達しているから、それに頼ったからです。声そのものへの関心も一昔前よりは薄れています。
今はようやくロックがはじまった国のほうがストレートに声を使っています。音楽は今の時代に合っていればよいのです。ただし彼等はそういう体をもっていて、今のリズムとかテンポにあわせて音楽をやっていることを間違えてはいけません。
少なくともここでのヴォイストレーニングはすぐにできるわけです。そこが完全に違うと思えばよいです。そうするとその課題は何かと踏まえて、できるような課題によって少しずつギャップを埋めていけば近づいていくのです。それをしっかりとみないとヴォーカリストといってもいろんな人がいます。何が何でうまいというのかを知らないと、自分の声の判断や自分の歌がへたなのかどうか本当にわからないままです。これではあるレベル以上に上達するわけがないのです。
それからヴォーカリストは体がついてきたら、高い声もそうですが、発声が間違ってくることなどありません。たとえば自分の声の出しかたが合っているかどうかなどという疑問があるなら全部間違っているか、スタートラインにさえついていないと思えばよいです。
正しくやっていくと絶対に迷わないです。迷ったら歌の世界や音楽の世界は成り立たないし、指導も成り立たないです。秀れたヴォーカリストが直感的に捉える声と、私がその声だというところはまずはずれないです。誰でもしっかりと二年間トレーニングをやっていたら、自分にとってのベストの声がわかってきます。
もともと2オクターブを声帯というこんな小さな器官でだせるのは、神様がプログラムして設計したものなのです。自分が歌っているのではない、神様がくださったと思うのです。ですからその力を邪魔するものをすべてとり除いていくという考え方です。一番よいものだけを使えるようにしていくのです。
マイナス10を0にするということは、日本人の感覚をはずしていくことなのです。声帯がこうなっているとかそんなことをイメージしてはよくありません。体で捉えないといけなのです。計算すればするほどおかしくなるのです。
単純なことば、イメージの感覚でいると共通の人たちがみんなもっている要素は高い声ほど体のほうに低く深く入っています。体をより使うし、重心が低くなるということです。そういう共通のものが感覚としてあるのです。
マイナス10から0というのは、のどを開くということです。発声のトレーニングでのどを開けてとやらせていますが、そんなレベルのことではないです。完全にのどを開くと口をまったく開かなくても伝わるということです。日本語は上で整えているので微妙には調整しているのです。少なくとも英語みたいなことばで唇をかんだり舌を使ったり、体から息を使って、それを邪魔させる必要はそんなにないことばです。
日本語は体を入れなくてもできてしまうことばなのです。それから発音のトレーニングで直されなくても、ひらがなで読めてしまうから音声教育がいらないことばなのです。聞いたら、そのとおりに書けます。かなを一つひとつ区分けすることが、耳にならされるのです。
擬音語でもすぐかけますからいろんなものを文化として取り組むのによいのです。ただ音声に関してはそれを表現しないで伝えていこうという書き文字文化なので、当然そこに関しては劣っているのです。外国にいった人や外人と接する人は常々考えていることでしょう。それは日本語の欠点でもあります。
歌としてもそういうものを声として聞いてきたのか聞いてきていないというのは大きな差となります。本当に聞いてきていない人がとても多いのです。リズムとか音程とかだけに重きをおいて正確にトレーニングしていくとどんどんコンピュータと同じように正しいだけになるのです。
ピアノというのは不自由な楽器です。ドのシャープとレのフラットは本来違うのに同じ鍵盤なのです。ヴォーカリストのピッチやリズムというのは不安定なものです。発声も同じで、一つのゆらぎのなかでできているわけです。それが快感に聞こえるか、聞こえないかということです。ビブラートも1オクターブ上になってくるとゆらぎが大きくなり、高低に半音ぐらいずれているわけです。ずれてもゆらぎがでてきて、それが心地よく聞こえるか聞こえないかということなのです。ピアノみたいにその音そのものがでるわけではないのです。それはリズムもことばもそうです。
日本語というのはそのまま音がつくわけです。「あおい」だったら「あ」「お」「い」となります。それでは動きや波は出てこないし、伝わらないのです。他の言語は強弱アクセントでことばが一つに捉えられた上に次に進む力をもちます。しかもそれがゆらぐのです。「あ」と「い」も微妙に音が違ってくるわけです。
強弱がついていると「あ」と「お」と「い」を三つにわけていくような考え方はしなくてすむのです。どれがまず強いのかを決めるとそれがリズムになって先に進むし、呼吸にもあってくるわけです。リズムに関しても音程に関しても、楽譜の音符をそのまま声におきかえていくようなものではないということです。
譜面に書けない世界が99%あってそこを捉えないとよくありません。そこで体の使い方、息の使い方を知り、それに対応できるように鍛えていかないとヴォーカリストになれないのです。それは教室のなかで教えられるものではありません。本当のものをきく耳があってそういうものをたくさん聞いてきて、自分の体に入れてきた人が、何か表現しようと思ったら、物まねことではなく、そこから出てくるものです。それを出していくところまでの準備に相当かかるのです。
たとえば10回、同じ声でことばをいうことをやって、その10回のうち1回でも声の使い方が違っているなら、それはものになっていないのです。ヴォーカリストは一回きりの勝負ですからステージだったらミスはできません。今のフレーズでは声がはずれたから、かすれたからといってやり直すことは許されないのです。そうしたらそれは完全にしないといけません。
完全に使えないところというのは、使えないところで全部そろってしまいます。全部を完全にコントロールするというのは難しいから、ヴォーカリストには大変な技術がいるのです。
共通の要素をとり出し、それを習得していくことです。声楽家もゴスペルシンガーも、一流のヴォーカリストなら、とても深い息があります。深い息ということです。それは体を使って声を出すということがどういうことなのかがわかると出ます。皆さんの場合は体と声とが結びついていないから、体と関係なしに声は出るし、いくらでも動くわけです。
まず、体でしっかりと捉えなくてはなりません。そのために声をシンプルにしていくこと、一つにしていくことです。声と体との一体感で何か伝えたときには声が出ていて、「あ」というのと同じ感覚にならないといけないのです。ですから一つひとつの条件を全部チェックしていけば、そこの差がわかると思います。
ここで今日、体験したことが二年間、続くのです。それ以上におもしろいことはないのですが、力がついてきたら、おもしろくなります。それに耐えられるのならきてください。必要性を感じたときに入ってください。入ってみないとわからないとはいいません。とりあえず二年間でやるべきことを説明していきます。
マイクののりがよいというのは、遠くまで聞こえる声で、うまく共鳴しているということです。
それから体の使い方というのも強化のトレーニングと調整するトレーニングは違うのです。ブレスヴォイストレーニングは、強化のためのトレーニングです。
調整というのは10の声があったら、それをどう使うかとまとめていくことです。リラックスしてみせていく形をつくります。ところが100 の声を出したいなら、それをいくらやっても無理なわけです。そういうときは強化トレーニングしかありません。
息を出したときに体がふくらむのかへこむのかなどというのは、愚問です。声が出てコントロールできればよいのです。話していてもおなかは動いているのです。ところが普通の人は動かないです。声楽家は腹筋も横の方が動くわけです。そういうところは共通しているのです。
ところが動かない人に対してトレーニングするなら、おなかを意図的に動かしたらそのうち息を吐いたときに声と一致して動くということです。トレーニングは不しぜんなものです。意図的に早く正確に目的に対して、動けるようにするために強化するのですから不しぜんなのです。だから使い方しだいで両刃の剣みたいなところがあります。うまくいっているときはよいのですが、一歩間違えると壊す場合もあります。歌でも同じです。
そのときに大切なのがイメージです。ゴスペルなどを毎日聞いて育っていたら、基本的な問題は起こらないないというのと同じです。英語を聞いて育ったら誰でもしゃべれます。それをトレーニングですから当然のことながら短縮して身につけていくのです。
たとえば中学校に入って泳げなかった人でも水泳部に入ったらみんなより早くなるわけです。毎日やることで相乗効果がでます。役者の場合は毎日練習している人が多いので、三年、五年たつとプロらしい声になっていくのです。私はポピュラーの場合は、その人らしい声が出てくるのが一番正解だと思っています。
ヴォーカリストの声とファーストフードやエレベーターガールの声と一緒にしてはいけません。あれは発音トレーニングで整えた声です。調整のトレーニングの結果です。日本人は発音はきれいに、音程、リズムにあてるだけのために結局、国を越えて伝えられないのです。
ワールドミュージックがどんどん出ているのに、日本の歌が世界で聞かれないというのは残念です。外国人に聞くと何で日本人の歌がヒットするのかわからないといいます。きっと日本人自体が音声を聞いていないからです。
音声を獲得したら音程やリズム感は体で捉えられてきていますから、楽にしぜんになるのです。そうでないと歌を歌うのにがんばらないといけなくなります。
ポピュラーはそんなに日常からはずれたものではないのです。声も同じです。声を出すというのはヴォーカリストも出すこと自体が快感で、そのなかで自分の体が浄化されたり、何か魂と結びついたりというのがあるのです。それをとりだしていかないといけないわけです。
ここではことばから歌に入るということをとても重視しています。たとえばことばで表現できているのに歌をつけたときに他の国の人に表現できるだけのパワーがないなら歌う必要がないということです。ことばで通じるのならことばでよいわけです。そのためここにはヴォーカリストだけではなく、役者さんや声に困っている人もきています。
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【特別 361012】
今日のテーマは、このまえやったものの続きです。このまえも洋楽と邦楽とまぜてやろうと思ったのですが、それが洋楽だけで終わってしまいました。今日も皆さんの進行次第ですが、邦楽で終わる可能性もあります。
講座の目的は、ここで書いたことは全部ふれますが、私がふれるというよりも、皆さんのなかでこのまえやった人には出てくると思うのです。表現として出てくると思いますから、細かいことはいいません。
最初に今日の目的を少し話します。それをふまえて聞いてもらった方がよいからです。似たものは、昨年にリズムの講座をやったときに今日、話すことの5分の1ぐらいは話しています。
ここのやり方というのは別に洋楽、邦楽を分けたり言語を中心にやろうとしているわけではないのですが、基本、声を置いています。日本人の風土があり、日本語という言語があり、音楽とはいえないまでも歌につながっていくところのベースに言語があるのはどこの国でも同じことです。
ここではこの基本を解決することをやっているのですが、今もスクールは歌の世界をコピーしようとしています。それはやりやすい人はやれてもそれ以上に伸びません。体力もない人にプロスポーツを教えようとするのと同じようなことをしてもしかたがありません。そこで解決できるのはそれだけの条件が整っている場合です。
今の歌の場合はシンガーソングライター的な要素で、作詞、作曲やバンドとしてのキャラクターなどといったところでの価値で判断されています。それに対して必ずしも有利ではない人たちがたくさんいるわけです。たとえば普通の人よりも声が出ないとか、体ができていないというのもあるでしょう。そしたらもう一つのベースの部分、たとえば外国人であったり、役者さんであればある程度、解決している声の問題から入っていくのです。
なぜヴォーカリストは解決しないのに、役者なら解決するのかというようなことを突き詰めていくとよいです。一つは体の問題があります。これは今回はふれません。もう一つは耳の問題です。日本人が日本の生活のなかで取り入れているということは、自分たちの生活に都合がよく取り入れて、そのために知らずに失っている部分もとても多いわけです。それは歌以前にことばの段階でもありますし、曲の加工の段階でもあります。それを今日は突き詰めていきましょう。
そのうえで出てくるフレーズに、洋楽がよいとか、邦楽がよいということではないのです。オリジナルなフレーズであれば正しいのです。体から出てくるものというのはオリジナルな声です。本当はこれが基本だと思うのですが、これはすぐにどうこうやることはできませんから、時間をかけてつくっていってください。そうかといって声がないと歌えないとか、体がないと歌を歌えないとかといっても、最終的にオリジナルが出ればよいということであれば、誰にも可能性はあります。
それを日本の曲から取りあげます。しかも演歌です。日本の曲から取りあげるときにここの耳とは大分、違うのです。私は今の音楽にスタイルとか、踊りとかキャラクターとかの出し方にも感心するところはいくつもあります。しかし、日本を離れたところの目から見てみて演歌は日本人にあるベースです。こちらが日本人であちらが欧米人と考えなくてもよいです。すべてが人間と考えてください。
ここには日本の歌の入っているような人たちがいます。こちらの方から声を捉えるようになったときに、演歌を聞いたときに私の耳で聞く演歌がどう聞こえるかということは、外国人が日本の演歌を聞いたときに「何でこう歌ってしまうのだろうか」とか、「何でこういう感覚になるのだろう」というところと似ているように感じます。
そこでこの耳の違いというのを自分のなかで、それを聞いたときによいところも、悪いところも感じられますが、それを今日は基準にしてみます。
「曲の歌い方をまねる」とか、演歌の音色の処理の仕方とか、そういったものを勉強するのではありません。そうではなくそれを題材として、影響されずにフレーズをこなしていきます。音楽として成り立つ共通の部分は同じです。そこの部分と体としての共通部分を取り込んでいきます。体から出ている声も勉強してください。同じようなフレーズがあったときに、どう息をもってくるとかいうところはそんなに変わらないのです。ただ、フレーズのスケールの大きさとか声のヴォリューム感の大きさとか強さといった違いはあります。それを自分の体に合わせてください。
まえからの復習も兼ねて、いくつかのポイントをもっていきます。演歌を聞いて私が感じたポイントです。これは日本人の生活のなかからきていることですが、基本的にやわらかく出します。楽器の場合ですとトランペットでもフルートでも、息を半分ぐらいまぜるという演奏で出てきている音をやわらかいといいます。ハーフトーンといい、息で調整します。息と声の割合で調整するやわらかさです。かん細くしておいて、それをどういうふうに動かすかというところにあります。これはことば、たとえば関西弁、特に京都弁に見られます。皆さんの普通のものの言い方でも見られます。
それから母音をそのまま伸ばすという特徴になってきます。英語は子音をはっきり言い切るという形です。日本の場合は子音もはっきり言い切らないで最初からやわらかく出してやわらかく抜きます。
5秒で、言い切るトレーニングをしましょう。これが日常のなかでできていないのです。何回も聞き返されるというのは、強アクセントをつけないためです。言語の言い切りも鋭さがないとよくありません。それから出だしの鋭さというのもないです。「やっほー」とかいったときの「っ」というのが、日本人の場合はいえないのです。それというのは結局、腹筋力とか、そういったものに支えられます。
彼らの場合は言語のなかに入っています。お腹から声を出すというようなことは、日常のなかで行われています。子音に関しては日本のは私が聞いている限りでは、やはり遅れがちです。遅れがちに乗せていきます。
逆にいうと主張しない方向にいきます。すべての物事をはっきり主張しないとよくありません。彼らは日常のなかでそれをやっています。人に伝えるためには弱くしといてはよくありません。
ところが普通の日本人の会話形態というのはそういったものです。それの克服にあたるトレーニングは、たとえば「ヤ」「ダ」「ガ」です。こういうものをやると、トレーニングになります。
「ア」はものすごく浅い母音の方でやわらかくするために、そちらの方向にいきます。それから「イ」と「エ」に関しては、どちらかというと鼻に近いところで、やわらかくひびかせている人が多いのですが、そのぶん浅くなります。「ウ」に関しては特に男性の発声とかが問題がありますが、のどで押し殺してもいます。深いところの「ウ」でとれないです。
気をつけないといけないことは、音楽を聞いたとき我々に聞こえていないものがあることです。演歌の場合だとほとんど聞こえています。そこのなかのひびきも含め耳で聞いた通りです。まねできるというのは、また別の問題ですが、少なくとも線は捉えられる。線をどういうふうに加工しているのかという微妙なところは捉えれるわけです。だから日本人に響きをまねます。ところが外国の音楽になってくると、この線さえ本当の意味で捉えていない場合の方が多いのです。
一つは声とひびきとなっているものだけが、この線をなしているのではないことです。息だけのところか、あるいはことばが出るまえのところに体が使われている。だから日本だと「つ」となっていても、そういうのは歌としては感覚として入れなくてもよいわけです。だから外国語をやればよいのですが、日本人のなかでも方言としてヴァリエーションはあります。鼻濁音にならない人もいます。地域のことばの影響がかなりあるということが、一つひとつわかってきます。
日本人である限り、日本人に都合よく聞いてしまうわけです。「YES」といわれても、それを日本人はカタカナでふって「イエス」となるわけです。歌のなかでいうと、高低アクセントに全部、音域がいってしまいます。高低アクセントというのは、音程アクセントです。それから語尾を切らないということは、歌のなかでいうと、語尾をぼかし、あいまいにしていくという方向になります。強く言い切らないのです。これは日本語の言語構造からそうなっています。
もっと単純にいうと、外国語は主語かが入ります。何回も「I」とか「WE」あり、それに対しての目的語がある。大体、目的語のところで強く握って伸ばします。日本の場合は「~にしましょう」など殺していかないといけないです。まっすぐに出てしまうと強すぎていけない。
それから等時性というのが顕著に出てきます。向こうの人は「しん じゅく」となったりするのは、ぜんぶアクセントですから、差が差さの等時性をくずす方が普通なのです。メリハリや動きをつけて表現力をつけるのですから。
これに対して日本語でやるときには、向こうのことばでも「イ エ ス」というような形で、同じ感覚におこうとするわけです。何も意識しないで歌ってしまったら、外国語をこういう形に処理していると思えばよいと思います。
それから日本人に一番、聞かれる声は、か細いというか、向こうに比べると、細くひびかしたところの音での浅く薄っぺらい音色の変化です。だから日本の歌の世界の方が、深いという人もいてややこしいです。何でこんなかったるいことをするのかと思いますが。ただ、そこがよい人にはたまらないわけです。
それに対して欧米の方はもっとストレートで、かなり大胆です。要は、体のところで表現をとっていたら、受け入れられるだろうというようなものです。どちらで考えるのかというのは別の問題ですが、両方、知っておけばよいでしょう。 我々に聞こえない音があって、その聞こえないところで彼らはやっているということを知ってください。20ヘルツ以下だと人間は聞こえませんが、もし動物であったらそういうところで奏でているというのと同じです。
演歌を聞いてみると日本らしさが表れているような気がします。そういうのはたくさんあってもよいと思うのです。世界にもっと民族音楽があり、日本でももっと違うような音楽形態にベースについているものもあって、演歌は演歌なりに正しいのです。 私が思ったのは演歌という歌い手がいて、その一人が歌っているように同じところをやっているのがつまらないのです。そのベースの部分をまとめていって、共通の要素をとっていくというのはできます。
お腹の声では、腹声といってもよいぐらいのストレートな声があります。ここでの抑揚のつけ方というのは、当然、音色で抑揚をつけていくというやり方とは、全然、違ってきます。だから、演歌の人たちをまねしたときに、できなくなることはその部分だと思います。それは演歌の勉強をし、カラオケ的な感覚がないと抜け切れません。日本の演歌もそれに近いです。
結局そういったものは全部、言語の感覚とか風土からきていますから、急に変えるということはできないのです。声がうまく身についていかないとか、歌になったときに向こうのものが歌いにくいとかということまでは共通していると思います。
それから、体で捉えたリズムは一致してきます。普段のレッスンのなかで一番、欠けてしまうことだと思うのですが、もう一度、皆さんが今日のテーマをインターナショナルな部分で通用させるような要素にしたいと思ったときに、リズムを勉強していって欲しい。感覚的なものです。
呼吸のリズムということでいえば、当然、四拍目から上にあがるところのアフタービートがあって、二拍目というのもアフタービートです。演歌のリズムとか、日本のリズムとかは等拍です。強弱はありますが、結局、浮揚感が出てこないのでは、アップビートの二拍目、四拍目のところです。このアップビートのところで声を引っ張っていく。要は腹声だと引っ張れるわけです。上のひびきの浮揚感だけであおぐ日本の歌に対し、下の腹声つまり深い息で。つきあげるのが、欧米のシャウトです。
ボールが跳ねるというか、ひもに球をつけてぐるぐる回したときに、これで一つの周期だとしたら、その周期のスピードが違うということです。下にいったときは早い。あるいはものを落としたときも、下にいくときには広がって早い。上にいくにしたがって止まるわけです。落ちると加速していく。跳ね返ると逆に減速していくわけです。向こうのリズムのおき方は、大体ここの速度の切り替えみたいな感じです。ある意味ではくずれてくる。
日本の場合はくずれないのです。たとえば一つの小節があるとしたら、日本人の説明だと全音符の半分が二分音符でという長さなのです。そうではなくて、それが全音符だとしたら、これに対して二分音符というのは、その距離が同じだという考え方です。メトロノームみたく同じではなく全部、違うわけです。そういう感覚が日本の音楽に中には出てこないのです。スイング感といってもよいのですが、そういうものを入れていったら、もう少しストレートにとれるような気がします。
そういうことでいうと密度とか、ヴォリューム感とか、あとは声と息の変換率とか、そういったものを洋楽とか、インターナショナルに通じる音楽をやるときには必要な気がします。ポップスの問題ではあまり出てこないのですが、声楽家が向こうの音楽をやるときにはポップスの場合はリズムとか、ハスキーヴォイスの問題とが大きく取りあげられていますが、そこはそういう耳で聞いている人はいないからです。
楽器の人が一番わかるのではないかと思います。日本で育ってきて楽器をやった人が向こうの曲を演奏するときに感じるギャップです。民謡歌手が声楽を歌いにくい、逆に声楽家が日本のポップスを歌いにくいというのは、そういうところに根ざしているのだと思います。
メニューを組んでやりつつ、徐々に曲を入れていきましょう。いきなり曲に入ろうと演歌に馴れていないと思いますし、日本人である以上、向こうと同じ感覚でというのは、最初から勝負、見えています。あくまでここで述べた考え方を取り込んで、ベースをつくり、そのうえで歌謡曲でも邦楽でもニューミュージックでもよいのですが、自分のスタイルをつくっていけばよいと思います。
学び方ということでは、体、耳というのをインターナショナルな部分に置いていくことです。音楽においては、サルサをやっていくとか、タンゴをやっていくとかいう人ではないのでしょうから、それは皆さんのなかで考えていかないといけないことだと思います。
導入としてスーザン・オズボーン。別にこれにのらなくてもよいです。1オクターブさげてもよいです。何回かかけますから、それで声を出して調整してみてください。
ひびきと声です。音楽を取り入れつつ体をほぐしてください。リズムに合わせそこで足を踏んだり動いたりするのもよいでしょう。ダウンビートのところというのは、踊りでいうと体重がかかるところです。踊りでもそこでステップしたときに、ステップといくわけではなくて、ステップしたあとに一つ踏み込みます。その体重移動みたいなもの。それが下にぐっと押さえられる。それが歌のなかに出てこないところで全身は動かないでしょう。
ことばでは「しこを踏む」という感覚です。人によって違うと思うのです。腰で感じる人もいれば、手で感じる人もいれば、全身で感じる人もいる。体がついている人とついていない人はまったく違ってきます。音のためみたいなもの。こういう演奏でもそうで、「パパパパー」といくのではなく、「パ パ パー」そこで待てるか、待ったあとにそれだけ立ちあげないといけないです。その立ちあげの早さとか、入り方の早さは、日本語の感覚にはないのです。
いきなりばって入ると驚いてしまうし、ばっと切ってしまってもだめでしょう。そういうのがリズムです。日本語だとこういうふうに短く切る感覚もないです。スタッカートというのもほとんど出てこない。こういうのに合わせて歌ってみたり、そのままコピーするのはやめましょう。