一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー3 21270字 1122

レクチャー3

【特別 36116】

 

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【特別 36116】

 

 誰がくるかによってやることが随分と違ってくるので、今日、出席したメンバーの顔と反応を見て、それで一部と二部と共通した形で行ないたいと思います。渡しした資料は必要に応じて使うのですが、お土産、程度のものです。 

 

福島泰樹さんの「バリケード 1936年二月」からです。

 

今日の内容に関しては即興になります。いつも何かの講座をやるとき、台本を使って、それを私が即興で演じるような形をとっています。あらゆるレクチャーとか、あるいは表現の活動においては一人ではできません。 会報に関してもこういう講座に関しても、私、一人でやっていると思っている人がほとんどなのでしょう。しかし、いろいろな人たちに協力してもらって、今日、材料も用意してやろうとしていたことは配っているものなのですが、やることは違ってくると思います。 

 

まず表現の既論についていくつか私なりの考えを述べて、そのあたりから入ろうかと思います。表現というのは自分というものがあったら、これと他者を区別しなければいけない。何でことばを使うのかというと、ことばというのは人と自分を、あるいはものを区切るために使われるわけです。

 たとえば山と野原があるといっても名前がついたこれが2つに切れるわけで、実際、自然は一体なわけです。人間の体も同じです。頭とか胸とか足とかというから区切られるわけです。ですからことばというのは既念で分けていくものです。 

 

当然のことながら自分を他者にわけるときも使われます。逆にいうと一つのことができるのをことばが分析してできなくしてしまうこともあるのです。使うときにことばがどう使われているかを見なくてはなりません。ことばで相手にコミュニケーションをとる。こういうふうに話をする、それから書くということがあります。ここでやっていることは、これの延長上の歌、あるいは芸術的な表現です。

 

 

 ことばの他に人間が相手に伝える方法というのはいろいろとあります。ボディランゲージと、目線とか身体、表現とかいったものでも伝わるわけです。話すことと書くことの違い。話というのは、生です。こういう場に立って、相手と一体あるいは一体、他でやらなければいけない。そこでライブの形になる。音楽というのはどちらかというと、こちらに入るわけです。 

 

それに対して詞をつくる、あるいは曲を書くというのは、小説とか絵とかいったのというのは、別に人まえでなくても自分の家にこもってコツコツつくる。ただつくったものもそれで何かを象徴して、結局、人まえに出さなければ表現の活動というのは成り立たないのです。自分の主張の代理をつくるわけです。

 だからここの時点においては、マルチメディアといわれる現在、結局メディアに融合してくるわけです。基本的に詞とか曲とか小説とか美術でも、とにかく形として出さなくてはいけません。歌でも、音楽でも同じです。人間でも同じです。 

 

 

私がここにいて私が表現しているのか、私のことばが表現しているのか、手ぶり身ぶりも合わせすべてが表現しているのかですが、形をとらなければいけない。ここにギャップが生じるわけです。 

自分は自分です。ただ、自分は自分ですが皆のなかに入ってしまったら、そのなかの観客という役割をしているところの自分になります。別にどちらが主役とか脇役とかということはないのですが、これをここではさらに歌ということでやらなくてはいけない。

 

 結局、歌っている、演じている自分というものと、日常の自分というのは違うわけです。こういうことをいうと反論があるかもしれないのですが、同じ人間のなかでつくっているところから、この他者に対して自分を表現したときに、アーティストと私はいっているのです。その立場をとろうとしたらこれが一段パワーアップしないといけない。 

 

人まえでおしゃべりしていても表現といったら表現なのですが、ただこういうもの、特に芸のジャンルのものになると、たとえば板前さんがお寿司、一つ作るのもそうですが、お寿司が作品になる、その人が芸をやっているのは遊びとは違う。とにかくプロとしてその技術の部分で支えられて主張になるわけです。このとき、自分が表現者として立場をとるときに、ここにこないといけない。

 

 

 ここにきて何をするのかといったら、他者に対してコミュニケーションをしないといけないわけです。表現である以上、アウトプットしないといけない。アウトプットする、世話をする。話をしてもそれが価値がなければ表現にならない。何か出せばよいというものではなくて、その出したもの相手がいて、この相手を動かさなければいけない。皆さんがやっている仕事でも同じです。 

 

ビジネスや仕事というのは比較的わかりやすいのです。それからスポーツもわかりやすいです。同じ考え方で芸事だけ違うのではなく、基本的に何らかの価値を創出するのに他のものに対し、ルールが決まってないことがありその分、自由に求められるということです。ただその可能性を予期させる価値があればのことですが。

 

 価値というのは自分でいくら出したつもりでもよくないわけです。自分の歌がどんなにうまいなんていっても、相手がそれによって動かさなければ、結局、その活動をいうのは息詰まってきます。逆にその価値、自体があまりなかったとしても、相手がよく評価してくれるなら成り立ちます。動かされるというのは別にお金を出すということではない、心を動かされるでもよいのです。何かが動かされないと価値というのは生じないわけです。 

 

 

動かされるというのは変わるということです。変えないといけない。これができる人間になれば、表現するところのペースから何でもはできると思うのです。普通の人は普通の人のなかで一所懸命やっていて、いろんなことをいっていて、そのなかでも人を変えたり動かしたりして全部、成り立っているから、だからこのこととプロとの区別がしにくいのです。

 

 たとえば仕事だと、何かを提供する。それ対しても対価がつきます。お金で換算されます。もちろん芸に関してもそうです。タレントというのは一つのわかりやすい例です。 

その手段として当然のことながら、形をとらないといけないというのは大前提です。どんなに頭のよい人であって、どんなに歌が歌えるという心があっても、それが形をとらない限り他の人に働きかけないから、認められない。

 

 

 今日の講座でやりたいことも、合宿でいつもやっていることなのです。その手段を技術としてパワーアップさせるためにヴォイストレーニングがあるのです。普通の人が普通の状態から抜けるきるのならむちゃくちゃなことをやればよいわけです。ただそれを形のうえに昇華しないといけないのです。要はパワーアップをしないといけない。 

だからこの表現の核の部分がないと難しくて、これがある人というのは、トレーニングのときにいろんなものがついてくるのです。

 

 発声をやっていても、結局これがわかっていないといけない。これというのは人生観や価値観であったりするので、人からどうこう与えられるわけではないのですが、逆にそれがわからないと問題が解決されないままになってしまう場合が多いようです。人生講座をやるつもりはないのですが、ほとんどの場合がそこが欠けています。

 生まれてくる。生まれてきてからのことを、ここでも同じようなことをやっていますが、いろいろなものが入ってくるわけです。 

 

日本人の場合は悪い声だと私はいっていますが、悪いヴォイストレーニングをやってきている。そうしたらここまで生まれてきたことをどこかで再生しないといけない、トレーニングを繰り返す中でリピートオンする。去年の自分と同じであったら、そういうことができないわけです。永遠にオンするという形でこれを積みあげていかないといけません。

 

 

 ここで限定している条件というのは、マイナス要素の方が多いと思うのです。伸びない人に関しては特にそうだと思います。表現という問題にいくまえに自分を解放できないのです。だから一段アップしないわけです。自分を煮詰め解放することの繰り返しでアップしていくわけですが、1年やった、2年やったからと順調にいくわけがないのです。 

ただ、明らかにこの状態が違えるには、人から動かされるのではなく、自分で自発的にやっていくということができないとよくありません。 

 

いろいろなコンプレックスをもって、より大きなマイナスをもっているのはよい。ただ日本の場合はこの表現そのものに対してマイナスのものをたくさん背負っています。それを切ることが大変なわけです。

 舞台になるとこれがほとんど課題になっているような気がします。劇団みたいな荒治療をしてしまうと早く上に行きやすいですが、自分を伴わないことも多い。 

 

この話は芸をやっていく人とか、アーティストをやっていく人に必要であって、普通の人にとってみたら、特に日本の社会というのは群れに入っていないと安心した老後を送れないような構図になっています。だからこれはその人の価値観だと思うのです。 

 

 

だから一番まずいのは、こちらを志向していながら、あちらの生活から抜け出せない場合です。多くの人は、ここできついのではないかと思います。でも抜け出していく人たちというのは単純に、普通でない体験みたいなものがどこかにあります。要は今までにないものをつくるわけだからです。

 

 自分というものは今までになかったわけです。その世の中に生まれても誕生していないわけです。ここで誕生しているなら、まだよいのです。それでも生まれて死んでいけばよいわけです。再生したときに生まれた自分というのは、そこで得た価値をもっているわけです。

 

やはり芸事とかアーティストの部分での価値というのは、普通の人が生きている、個人として認めて欲しいというレベルのものではないわけです。仕事でも同じです。その人のその世界におけるプロのレベルというのがあって、それは既存の社会であれば組み立ててあるのですが、こういうところでは自らつくり出さないでしょう。

 

 

 今、もっとも欲しいことは少しでもパワーアップした部分の感覚を得ないといけないということです。最近、「坂本龍一の仕事」という分厚い本が出ています。「なるほど、20歳代でこういうものを書いていたのか。25、26歳のときにはこんなことを考えていたのか」と、すごい量で、わけがわからない。わけがわからないけど、そういうものなのだということを読んでいます。やはりそれだけの量をやっているというのは、絶対的なベースだと思います。 

 

これが素人の人と10倍とか、100倍とかというレベルではない。1000倍、10000倍なのです。これは音楽についてもいえると思います。それだけのものが入っているということが、一つの前提です。

 それからやはりどこかで自分を変える人に会っています。これも大きいと思います。皆さんのまわりにそういう人、そういう環境があったとしたら、随分、変わると思います。ここもそういう役割で、結局、芸の道を、あるいは表現の道を歩んでいくのであれば、何かの分野でそれを成し遂げた人たち、たった一人でよいというのはそういう意味ですが、その人を見ていたらよいのです。

 

 私は3人ぐらい、自分がどう考えても、逆立ちしてもかなわない師がいます。胃潰瘍であろうが、大病であろうが、それでもステージ、仕事をやめない。別に芸事に限らなくても、そういう生き方をした人を見ていると睡眠時間がなくても、身体をくずしても人間、何とかなるものだというふうに入るわけです。 

 

そういったことを積み重ねていくと、当然のことながら普通の人生ではなくなってくる、それがよいか悪いかという問題ではなくて、生き様です。それがおもしろいか、おもしろくないか。楽しめるか、楽しめないかということです。 

こういう生き方がしたいといわれることもあるのですが、私のスケジュールとか、毎日の行動予定を皆さんに配ったら普通の人はやめようと思うでしょう。 やっていけばやっていくほど、いろんな制限がかかってきます。そういうレベルであきらめたり、うしろを向いてしまったりして終わるのです。 

 

皆さんがやっている世の中です。結局やりたいか、やりたくないかです。昨夜も体調もあまりよくないのですが、それでも机から動かないで一冊、全部、細かいところまで直して10時間分、まだ集中力があるのかと、自分でも少し感心するのです。 

それはいつ身につけたかというと、やはり若いときです。他の人からいうと3人分くらい仕事をしていまして、今から考えるとよくできた、二度とやれないという時代を過ごしてきているわけです。そういう経験を踏むことは、人間の枠組みのなかで考えてもしかたないのです。

 

 今、皆さんが大変なのは却ってそういう環境に置かれないから、その環境まで自分でつくらないといけないということだと思います。人から置かれた環境では不平不満がたまってきますから、自分でそこに設定していくしかないわけです。だからその先にあるのがパワフルな表現です。 

 

 

私が今やっていることで頼まれる仕事というのはおもしろいわけではなくて、自分でやる仕事はおもしろいのですが、これを通すのは大変なわけです。頼まれる仕事というのは向こうがやりたいことと、やって欲しいことをこちらがお手伝いするわけです。

でも大体は断わりません。何で徹夜になっても何でやるのかというと、やはり迷惑をかけたくないからです。求めた人の期待に応えていくというのが最低プロの条件です。結局それだけの世界なのではないかと思うのです。  

 

自分がいてまわりにいろんな人がいて、アーティストの舞台でもそうでしょう。仮に何か期待されるとしたら、それに確実に3倍ぐらいに応えていく。そんな人はあまりいませんから、好きなようにできていくのです。3倍、答えるというのは大変です。力をつけることをしっかりと考えたらそうしたくなるでしょう。ところが、今はやりたいことをやろうなんて、やるべきことを断り、自分で力をつける道を閉ざすのです。

 応えれば応えるほど、また期待されます。そうしたら好きなことでやるしかないわけです。嫌いなことで応えていくと、また嫌いなことがきますから、そうしたらどこかで投げ出さないといけなくなります。 

皆さんたくさん時間があってうらやましいのですが、私なんて3年、5年やることが決まっていて、それがどんどん遅れていくので頭のなかが一杯です。そういう状態に置いておくことが幸か不幸かわからないのですが、とにかくそれに対して対応するということが自分の力をつけていくことです。 

 

 

大体の人が自分で自分の力を制限するのです。「そんなにたくさんできない」とか、「そんなにいっぺんにできない」とか「そんなに寝ないと死んじゃうよ」とか、じゃあ、やめたらというだけです。やってみて本当に死んだかということです。人間、死なないものですよ。死ぬギリギリまで生きてこないとわからない。

 

 私とかはある意味では極限のスポーツまでやっていますが、何かのトレーニングを極限までやると倒れるわけです。倒れたらそのままにしているか、立ちあがるしかない。立ちあがらないとのたれ死ぬ。そういう環境がよいのか悪いのかわからないですが、そうしたら自分に制限をかけるというのはあまりなくなるのです。 

 

今、私は頼まれた仕事はひどいものであっても、そのためにやりたいことが遅れても試練あるいは人生の巡業と思っています。会えなかった場合は何かと機会を見てこちらから足を運んでいます。それも勉強だと思っています。なるべくよい人材がいる業界にそういうところで接していると、そのなかのいろいろ表現するということをもう一度、見つめ直せます。

 

 

 音楽業界があまり好きではないのは、クリエイティブではなくなって、そういう人材がいなくなってきているからです。私が音楽を選んだのは、学校に行ったときに音楽をやっている人の方が目が輝いていたし、おもしろそうに生きていたからなのです。今はそうではないから、そこからそれてきているというだけです。 

 

いつもは私が台本を加工して自分のことばで述べていますが、今日はそのまま使おうと思います。それをすぐにことばに変えるというのは難しいでしょうから、3行ぐらいずつ読んでいってください。

 皆さん、聞く力が失われています。よく曲をかけるのですが、10回かけても結局、歌詞を聞きとっていないとか、そのなかで物語、感情構成を読み込んでいない。そういうことでいうと自分がいうことよりも聞くこと。聞いて何に気づくかということが大切なことなのです。

 

自分なりにまとめてください。もっと単純なことでいうと私が表現活動をする、こういう台本がある、この台本を2枚で5時間、話しています。そこに自分のイマジネーション、自分のいいたいことを盛り込みます。それはことばのなかの世界なのですが、音楽でも似ています。表現というのは決まった形があって、その歌を決まった通りに、昨日までやった通りに歌うのが表現だとは思いません。 

 

まったく同じものをライブでやりながら状況に応じて変えるのは芸です。落語のように。しかし私はそれよりも大きくことばまで変えたいのです。1枚のメモが2時間、3時間、あるいは3日間の内容にふくらんでいきます。歌ということで表現のベースで私が考えると私のレベルの表現になってしまいます。するとあまりに私の個人で統合されてしまったものとなるので皆さんには皆さんと同じところで悩んでいる人のものの方がわかりやすいのかもしれないと思います。

 

 

 まず過剰表現でないと人前に出せないものです。いつもパワーとか、立体的に前向きに飛んでこないといいますが、人が聞いているものは歌ではなく、その人のパワーを聞いているわけです。それに引き込まれ、共鳴します。ましてやこれから何か築いていこうという人の場合には完成しているものを求めていないわけです。 

 

そんなものは10年くらいでできると思っていません。10年先にもさらにのる器というのが見たいのです。悩むのはよいがどこで悩むかということを大きく捉えていかないと、いつまでたってもリピートオンしない去年、悩んだことで今年も悩む。それの繰り返しになりかねない。

 

 だからといって先に何か開けてくると考えるのが甘くて、常に正解は足元にあるのです。常に表現者の立たされるところはオーディションです。テレビでても新聞でもコメント一つです。たった一言でいうためにすべての体と頭を総動員させて、それでそこそこで瞬間に一つ発せられないと、次からお呼びがかかりません。

 

わかる人はわかるわけです。世の中を動かしているという人たちは皆そういう人たちです。 

当然、相手が鈍ければ、そういう感覚しかもっていなければ、そこでおさらば、「あぁ、よい人ですね」で終わってしまいます。こういう世界でいうと「関わっていかない人たちだ」ということです。 

 

 

ここでは、私は本音なしでやろうとしています。結局、人間がそれを超えるその過剰さが見えるということが、一つのベースでしょう。

 今日、3行もの役割を与えて、結局そこで出せるか出せないかがすべてです。それが日頃の結果として問われ 形となる。私の胸にあるいはまわりの人の胸にどうそのことばがひびくか、単純なことです。「こいつ力、抜いてないでいやがる」と思わせたか、「こいつ何かいいたいことがありそうだ」では芸にはなっていない。これでだめかどうか全部わかります。

 

 劇団のオーディションでも一言です。あれだけ人数がいても優秀な人間を見分けるのにたった一言でわかるのです。それがないと歌も踊りも見てもらえないわけです。 

人の期待を裏切らないということは、そこで自分が出して相手を満足させることです。脚本がある。私が読んで欲しいと思ってまわす。そこに表現できるかどうか。そうしたらそういう感覚で全部、取り入れてないといけないし、それを出さないといけないのです。 

 

ほとんどの人は言い訳をつくるわけです。「こんなこと自分に関係ないや、まぁ読んでおこう」「自分は歌でやっていくのだ」そしたら、どこでやれもせずにいつやっていけるのだということです。

 5年まえ、10年まえに私がいったことが、どういうことなのかというのがここにいると、いろいろな人のプロセスからもわかると思います。ただ、こういう人たちは関わらないからよいのです。

 

先に答えを伸ばしているだけで、そこに突き詰めないからです。ことばを読むということは、できるわけです。少なくともここで時間を使っているわけです。今日でも同じです。表現の価値もわからないからお金でいいますが、お金を取れるというのがプロです。それはお金を取ることが才能なのではなくて、価値を出せるからです。それも現実です。

 

 

 いつもいっています。何も出てこないなら身銭を切ることです。「モノトークするのに、払った分の価値のあるだけのことをやりなさい。」といっています。どこかの時点でその人が価値をもらう立場から出す立場に逆転しなければいけないです。何もここにお金を払って、外でもらいなさいということではありません。ここでお金をとることだってできるのです。価値ということをそういうもので換算されるだけのことです。そうしたらそれが何なのかを突き詰めて考えてみればよいわけです。

 

 何か出さないといけない。価値として一つの形をとらないといけない。その形として歌もあるし、曲もある。純粋に歌が好きだからやっていこうというのならそれでよいのです。世の中は役者であれヴォーカリストであれ年をとって立派なことをいっている人でも出たときは過剰でしょう。相当、過剰でなければ出られません。人と違いますから敵もつくります。表現するのです。

 

 皆さんのまわりで認められているなんていうのは、表現にも何もなっていないから認められているだけでしょう。 わかりやすく心地よいから認められるわけです。だからそこで終わってしまうわけです。まわりの人は声が届くところまでしかいきませんから。ただそれが伝播して伝わります。私にとってはここでミルバ、ピアフ、よい作品を聞くのも同じです。一つのプロデュースの活動です。 

 

 

自分にとって価値があるというよりも、この場に出すことに価値を認めてかけるということは、世の中で誰かが受け継いでいくわけです。

合宿のなかでは「星は光りぬ」でやりました。

 

「まぎれることのできない社会に生きた人々。わかりやすい例でアメリカの黒人~この歌は放送禁止になった。たしかにそうせざるを得ない迫真の表現です。」これは皆さんが見て判断してもらえばよいと思います。 

 

続けて同じ黒人でも生きる希望を表現した人、マヘリア・ジャクソン。レクチャーのときにかけています。「彼女は素晴らしい歌の力をもっていましたが~。」

 それから、最初にノスタルジアという映画の一部です。これは今回の主意からはずれるのですが、先に解説しておきます。「~どんなに表現者が伝えても心に届かないこともあります。」

 

 

 いろんなアートの表現がありまして、特に歌に限らないのですが、伝えられるものはいろんなものがある中でやはり歌を選んだのはなぜかということです。本当の意味で再生したところで歌を選んだのかというと、何となく歌の表向きのところで選んできたとすれば、トレーニングよりも生の舞台で、歌の素晴らしさにもう一度、気づき自分と結びつけることだと思うのです。それが原点だと思います。 

 

長く生きている人のなかでは自分で歌わなくとも、もっと歌のことを知っていて、歌が好きで生きている人たちはたくさんいるわけです。歌い手である人がその歌の素晴らしさの入口しか知らないで、よい歌が歌えるはずがないのは、あたりまえだと思います。

 

 これはすぐにというわけにはいかないですが、たった一人でもよいし、たった一つの曲でもよいし、もう一度、白紙にして聞いてみる、それを自分の体にしっかりと受け止めていくことだと思います。歌を選んできたのがということ。

 

 

ここで欠けているのは他の国であったり、昔であったりして、現代にぴたっとしたものでないかもしれないのですが、現代のものを今かりるのはとても評価が難しいのです。それが一つと現代に生きていると、皆は見られるわけで、ここでやらなくても自分で自分につけた価値をどういうふうに伝えるかということを、表現することであれば問うべきです。 

 

やったことというのは誰かが見ているものです。それは私も感じます。やはり誰かが見ているのです。だからそれを見られるような場所であれば、あるいは見ているところがあればやらないのはおかしいし、やれないのもおかしいと思うのです。

 

 ここもそういう一つの場ということで設けたわけです。ここでやれないことは他でもやれないのです。ここをやりたくてやっているわけではなくてよいのです。そこの価値観をもつことだと思います。 

皆さん、何か深くなっていくものがあります。芸人はおどけたことをやっている人たちでもありますが、それを支えるバックグラウンドを勉強するかどうかで、やはり何かを成し得た人はすごいことをやっているわけです。たまたまそうではなくてもやれている人もいるかもしれないですが、そういう人は当然もちません。

 

 

 人に対しての価値は何でつくのかを学んでもらえば、出口から学ぶことになりますから、もう少し早く身につくと思います。そういうポリシーがあれば、日本のように右にならえの国で、仮にまた戦争になったり、国が危なくなったときも自分の意見がいえるでしょう。歌にはいろいろな歌がありますから、必ずしもこういう歌ばかりではない。その時代があり、生まれ育った環境というのもあります。 

 

ただそこで自分の歌を歌えないのなら本当の意味では歌えないでしょう。世の中で歌っていなくても歌っている人はいるわけです。歌を選んだということは、歌でないとできないことをそこでやらないと、もったいないような気がするのです。 

宮沢賢治のは、最近、流行になってきています。当時の農民が今のビジネスマンというふうに考えればよいと思います。

 

 

 表現講座でしめくくって、アドバイスをしておくと、歌一曲というのはいつもいっていますが、体と精神の限界まで使うものです。たった3分間のなかでギリギリのところまでやって本能が生きる方向に動くと、私は思っています。そんなこといって死んでしまったらどうしようもないのですが、そういう経験が何かあればよいと思います。人から学ぶのにはモチベートを学ぶべきだと思います。

 

手塚治虫からも漫画がどうこういうことではなく、一つの仕事を成し遂げるというのは、どれだけの時間と量をやらないといけないかということだと思います。そうしないと人は認めてくれないのです。出ていくと叩かれます。いろいろな制限がかかってきます。ただ、それはどうでもよいことでやり続けていると、10年もやっていくと、認めるだけの人しか残ってきません。それだけの違いではないかと思います。それだけこだわるものを、皆さんであれば歌であるはずです。

 

 それから本物、一流から学べということです。美輪明宏さんの舞台を見にいくのもよいでしょう。ここの人たちの体力や気力よりもあるのではないかと思います。皆さんで一つの舞台をやったら、一番、精神力、集中力があるだろうと見えるなら一生かないっこないわけです。

おじいちゃんにも負けるくらいの人が、これから何なしていけるかということです。だから体が資本です。特にこれは歌や舞台でやっていくと同じだと思います。

 

 

 最終的には仕事はおもしろいとか、つまらないということよりも、人に迷惑をかけないというところで見ています。大きな意味でです。ということは自分の価値を出さないといけないのです。日本人というのは何もやらないことが、迷惑をかけないことだと思っているわけです。仕事でも、それはとんでもないことで、何もやらなくても給料をもらうからです。そんなことであれば10倍、売りあげて、5倍もらった方がよいわけです。そういう考え方がないのです。価値を出さないと人に迷惑がかかります。

 

 アートの世界はまさにそうです。人前に立って3分間の時間、相手のことを考えたら相手を3分間、退屈させる、あるいはつまらない時間を過ごさせるというのは最大の罪です。人間、お金より時間です。 

だからその責任感があればうまくなろうと思わないというのは、全然、人のことを考えていないわけです。最初は自分のことを考えればよいのです。だからどんなに芸が宿っていてもよいのです。

 

 歌がうまい人は日本中にたくさんいます。場が得られないといっても人に迷惑かけていたら場が得られないのはあたりまえです。誰も迷惑をかける人と長くやっていこうとは思わないでしょう。だからそう考えればよいでしょう。 

逆の人には人が集まってくるのもあたりまえの話です。ただ、出し続けることはやらないといけない、問わないといけないのです。だからその時期とかその方法というのは、それぞれの人がそれぞれ考えていくべきだと思います。 

 

 

私もいろんな活動をしているから、いろいろなところでいろいろといわれているようです。日本人はレッテルはりが好きで、こうだと決めつけないと安心できないようです。ただ見ていったらわかる通り、第一人者なんてそのジャンルにいるわけではないのです。歌い手でも確かに演歌とかゴスペルとかいろいろ分けていますが、しっかりと歌える人は何を歌っても歌い手なのです。

 

 ただ日本の社会というのはそういうところはやりにくいと思います。宮沢賢治が農民にいろいろなことをやっても何もいわない。私がビジネスマンに何かやると何かいわれる。今のビジネスマンは農民みたいなものですから、人に何かをするということでは同じなわけです。ただ、そういうことも説明していかないといけないのは、かったるい社会だと思っています。異国にいくともう少し私には暮らしやすいのですが、この国で戦っていくのも一つの意味があることだと思います。

 

 たった一言の重みを感じてみてください。一時間半の講座のなかで、本当はピアフのセリフをやる、チャンスは一つしかないです。それですべてです。それが毎回、毎回です。ここにいると2年間で見てもらえますが、普通のオーディションならそれで終わりです。次にきても悪い条件になります。去年ああいう形で落ちたというところで見られてしまいます。技術や作品ができていないのは時間がまてます。ただ、その人間のモチベートまで判断されていく世界です。

 

 

 逆にそういうのができていなくても来年、がんばればよいと考える人と、来年みたくないといえる人を分けて見ています。何十年もいろいろな人の歌にかける思いや執念、生き方がすべて出るところでやってくると、価値を出していける人かそうでないというのはすぐ見えるわけです。そういう中で失敗できないです。人とはこわいもので、こちらが見えていないから相手も見えていないだろうと思っているけれど、全部、見えているのです。本当に素っ裸になって。歌はそうです。

 

 皆さんが入ってきてやったときに全然、見えなかったことが、2年たって新しい人がやっているのを見たら「わかっていないなぁ」とみえるでしょう。 

それの繰り返ししかやりません。繰り返しもやらない人も多いのです。だから絞り込むことは必要だと思います。皆さんは歌に絞り込んでいると思っているのですが、必ずしもそうではないような感じです。歌をやること自体に迷っていては、何とかなる世界ではないと思うのです。歌であろうとなかろうと生きて表現する。

 

 絞り込めないということは絞り込む必要がないわけで、それを選ぶ必要もないわけです。他のものを選べばよいわけです。もっと社会的に認められているものを選んで就職すればよいでしょう。だからそこに理由がないといけないということはないのです。迷っているというのは、おかしな話だと思います。皆さんがやりたいと思っていて一所懸命やる世界で、迷っている人がどこまでできるか。最初から勝負を捨てているみたいなものです。 

 

 

バスケット部に入って半年ぐらいやってみて、まだバスケットをやろうかどうか迷っている。そこでクラブだと仲間が応援してくれますが、こういう世界はモチベートがなくなった時点で、もう終わりです。だから単純な話で決めたらやるだけです。やるしかない。

 それからリピートオンすることは、質的に高まるほど難しいものです。しかし、その充実感がなければ本来のおもしろさには至りません。 

 

もう一つは乗り移るというのか、芸事をやっている美輪さんがやっている手の動きは私はまねさえできないです。歌舞伎とか演劇、バレエとかを全部、取り込んで一つの手の動きで、たった一瞬の手の動かし方をどうするか。その動きをマスターするのに、60年の人生のなかで何百時間かけているのかわからない。でもそれをやってきたからこそ、いろんな舞台に立ったときに全部、応用できるわけです。どんな優秀な若手がきても全部かすんでしまうぐらいのものが出せるわけです。だから本当はそのことをやるために、研究があるのですから。

 

 そうなったときにこのステージというのか、どこに立っていてもパワーアップした人間のところの部分で捉える力というのは必要です。そうしたらよりパワーアップした人間がのり移ってきます。無の感覚になれば一番よいわけです。神も鬼も天使も悪魔もおりてきます。坂本龍一さんでも、何かを成し遂げた人と若いときにあれだけ難しいもの、芸術や哲学が音楽をやっていくのに何の関係があるのだろうと思われるものを読んだり、見たり、ノートを書いたりしているのを考えてみればよいです。 

本当のことをいうと、そうしないと自分の世界が出せないからです。

 

 

 高熱なら「やすきよの漫才」を見てから立ちあがってくればよいのです。人間が人間を動かすわけです。マヘリア・ジャクソンを誰かが受け継いで、誰かが映像にしてくれて、誰かが日本においといてくれたからここでかけられる。それをまたかける人間がいる。 

皆さんもそれを何かに書いたり、誰かにいうかもしれない。そうやって伝わっていくわけです。人間が人間、以上であるその存在に価値があれば伝わる。そこまでのことを出そうとしたら大変なことです。そうかといって百年も二百年もやっている人間もいないわけなので、やる気があればできる。やる気になるかどうかは、その辺を表現のなかでは考えてもらえばよいのではないかと思います。

 

 ステージの違いというのは難しいものです。音程とかリズムとかことばだからという、以前の問題だと思います。その人だったら何をしてでも見るだろう、引き付けられるだろうというものを、アーティストの場合はもっていないとだめでしょう。当然、日本でやれている人たちでも芸が低いとか、声がどうこうだとかいってもやれているわけです。そしたらそこで支えられている力を認めなくてはいけません。24時間そのことを考えている。それを5年、10年と続けている。そうしたら差がつかない方がおかしいと思います。その辺はやってみてください。

 

 それから入り込むことでしょう。同じものを見て、わかる段階、わからない段階あります。今、見たら私はよくわかりますが、若い頃はわからなかった。でもそのときにどこで何をすべきかも見ています。そこが違うのです。見ているのです。わからないけれど見ています。読んでいる、接しているのです。だからもっとやれている人というのは、もっとそういうものを見ているというのもわかります。

 

所詮、わかるものというのは、自分のなかでそれで満足していたら力はつかない。できるものですから。

自分ができるものと同じで、その日の力でしかないのです。その日の自分に対応できるものでしかないのです。だからわからないものから学ぶ、これがわかるとか覚えるというのではなく何か本質的なものを本質的に感じるということです。それができることがやがて一つのステージをつくっていくような気がします。

 

 

 前半の表現のレッスンに関しては、概論ばかりになってしまいましたが、よいのではないのでしょうか。いろんなもので勉強できると思います。宮沢賢治もいろんなことばを残しています。「書くんだ。指がちぎれるまで書くんだ」そんなものではないかと思います。

 それをまた見た人間がそういうことばを受けて、先日お会いした千住明さんは10日間で銀河鉄道のアルバムをつくったのですが、まさにそんな心理だったのでしょう。10日間で一曲つくるのが作曲だと思っている人と、実際、仕事は体です。その力はそのときにつくわけないです。10日間もらったといってできるわけではないのです。どこでその下積みやっておくかということです。

 

 何の力かというと気力、体力との集中力の力です。作曲の才能だけではないのです。その条件したでそれだけのものをこなせることを信じられることです。そうしたら人よりやっておかないと無理ではないかと思います。 

こういうのは私がいわなくても自分で勉強したらいろいろとわかるでしょう。山田洋次さんが新聞に書いていました。ある先生に会って「才能なんてあると思うな。才能というものがもしあるとしたら、それはどれだけ忍耐力があるかということなのだ。それだけ思って生きてきたんだ。」その先生は、構成の鬼とまでいわれた人です。

 

昔はこういう鬼がたくさんいたからよかったと思うのです。何となくこの魂がのり移って、皆、生きてきましたから。美輪明宏さんでも、三島由紀夫とか寺山修司とか、いろんな人がまわりにいて、のりうつったわけです。そういうことを勉強してみてください。私がいろいろ書いているものも、何かの意味があるのだということです。

 

 

 今日やろうとしていたのは、ピアフで「やめて」ということばでいったん空間をとめようということです。とにかく一言おろそかにして歌が成り立つわけないのです。一つにすべてやり終えたというぐらいのものをやってください。初心者ほど2曲、聞いてもらわないといけない、10曲、聞いてもらわないとわからない。 

 

とんでもない話で一曲の出だし4フレーズで聞けばわかる人はわかるわけです。私でなくても一般の人でもわかるわけです。そこで通用する力をつけることです。胸についた地声ということでは、日本人の場合平均して男性の方が女性よりも半分ぐらい有利です。少したつとそんなに変わらなくなってきます。日常の体とか息とかイメージの面です。女性の方はどちらかというと、胸で話せばよいのを「わたしは」と鼻先で男性の方が腹式を使っているので話している人が多いからです。それを戻すのに時間がかかるわけです。だからイメージが早くてできれば早く戻ります。

 

 それから体に関しては、最初はやっていくとどんどん伸びます。半年から一年は体づくりの時間です。そのあとは急激に伸びるということはないのです。スポーツのタイムと同じです。フォームができるところまではと伸びていきます。そのフォームがわかってある時期、伸びますが、毎年、2倍、3倍も強くなって息が吐けるわけでもないのです。だから大体一年半ぐらいたってくると、そんなに差はなくなってきます。女性が追い付いてきます。

 

 

「ハイ」 

 ひっかかりがあるのは、のどのところでひっかかっています。それをなるべくなくしていくために、体をリラックスしてやることと一つに使うことです。体が全部とまっていてはできませせん。

 基本の姿勢としては胸の位置を少し上げます。肩が少し下がります。重心を低く考えて、足を開くとよいでしょう。それでその「ハイ」「ララ」を呼吸と一致させます。 

 

最初はできないのです。できなくともやっていったら呼吸が声を連れてくるようになります。そうすると呼吸を流すこと自体で、声にしようという意識なしに声になるわけです。ただ、そのために用意をしているわけです。トレーニング中はそれでよいわけです。

 

 

「ハイ ララ」 

これも同じです。イメージの問題は大きくて「ハイ ララー」とのっぺらぼうになるとよくありません。なるべく縦の線でもっていきます。のどは開けるわけではなく、のどを開いた状態というのは、のどを邪魔する余計な力が入ってないということです。全部リラックスすると何もできないので、体と呼吸で声のきっかけになるところをとります。一つの抵抗です。

 

 声がよいとか悪いとか、明るいとか暗いとかいうのではありません。最初は暗い声こもった声になることもあります。体を使おうと無理してやっていますから、体を使うことが目的ならよいのです。声によって体を鍛えるのです。

 

「ハイ」「ララ」一つずつしっかりと入れたら、それだけ体が使われて強くなります。出てくる声がこもっていても、フラットしていても、そんなに気にする必要ないし、逆に声と体が一致していくことが目的だからこそ力を育てなくては意味がありません。

 

 

「つめたい」 

「つめたい」を操作すれば操作するほど、ひびきが統一できなくなってしまいます。発声練習をしてくると、ひびきの方をひろってしまって、体の方が動かなくなる人がほとんどです。固定した方が練習になるのではなくて、固定するとごまかしがきかなくなるわけです。固定しないといろんなところでことばができるわけです。そうしたらそれで歌えると思ってしまうのです。そこで出せるこの音域までとれたと思うわけです。しかし、固定したらできないわけです。もっと深い息をとって、より深くつかまないと無理でしょう。

 

 そういう意味で、ごまかしをどんどんなくしていくことです。一時、音域も、声量もなくなってしまっても体が正しく働くことが大切です。今まで歌えた歌も全然、歌えないようでもよいのです。単純な話、本当に正しく歌えたら発声なんて考えなくても歌は通用するわけです。だから「アエイオウ」とやって邪魔な音をなくしていくことです。

 

 今の時点ではどこから声が聞こえるのかを考えてください。その人のなかに「ハイ」と体の中心から聞こえているなら、今もところ問題はないのです。その声にことばをつけ、音域をつけていくと狂ってしまうのはあたりまえです。まず表現、それを支える声量から入りましょう。たぶん今、出している声は今までの歌には使っていないはずです。1オクターブで「ハイ」にことばがつけ、展開したときに、キープできないという問題ですからこの場合はそのまま入っていけばよいのです。

 

 

 「ハイ」というのを、体から捉えるのをわかりやすくするのであれば、体を曲げます。一番、簡単なのは床に手を近づけてみて、足は開いて、腰の位置を中心に、体の状態が床と平行になる感じにします。相撲のまたわりではないのですが、柔軟と体力は必要です。一番わかりやすいのは、とにかく床に平行に背中をすることです。あごがあがらないようにすることです。そこで息を吐いてみます。そのときにお腹の感覚をつかんでいきます。

 

 息のトレーニングでは声帯は痛めません。体と息の結びつきをどんどん深くしていくことです。そのときのどがかすれない声がよいのです。もし体の使い方がわからなければ、吐いていくとしぜんに入ってきてそのうち動いてきます。吸いかたは練習しなくても、鼻と口とどちらから吸うのではなく全部、吐ききったら鼻にでも口にでも、開いているとこからすっと入ってくるわけです。

 

 今まで歌を歌うときに、こういう感覚では歌ってきていないはずです。基本的には腰を使う。うえの方で「ラララ」とやっているだけでは体と結びつかないです。一番、基本的なトレーニングは、体を使う、息をはくことです。体を動いている状態にしておくことです。体の曲げる角度とかは自分で最終的に決めていきます。ただ、頭がさがってしまうと、血がのぼってきます。平行がぎりぎりです。

 

 

 姿勢は絶対的に正しいというのはないです。最初は間違えないようにやるだけで、あとはその個人の肉のつき方とか、骨のかたさとか、そういうもので違ってきます。2、3カ月は注意しますが、半年から一年になったら姿勢に関しては注意しません。私は声が出やすいのが、正しい姿勢という考え方をしています。 

 

ただ、体から息を声にするぶんには、体を曲げた方がわかりやすいです。そのときの注意というのは、のどにおくのではなくて腰まわりに置いてください。体の横、うしろ、その声、自体がのどをしめないで、息で「ハイ」とその呼吸のまま深くとれていたら、声がとれているのです。

 女性は日本の場合は強く表現することを避けてきているのです。それはできている人をみるとわかりやすいと思います。 

 

こういうことは何カ月も一所懸命やっていったら宿ってきます。ただ、自分のイメージで声を出すのにやわらかく出すとかいうものをもっているとなかなか直りません。息を吐くことに関してはいくらでも強くなります。いくら強くなっても、プロの歌い手から見たら全然、弱いものです。どんなにやっても4、5年ぐらいだったら、充分すぎるということはないのです。

 

その息で声をコントロールするという感覚で歌が捉えられたらよいのです。走り終わった状態で、「ハー」と声を出してみてください。そういう声の方が、あとで応用が聞くと思ってもらえばよいのです。つくりものはよくありません。

 

 

 グレードは分かれていてもやっていることは同じです。ただ、こういうものの習い方というのは、1~10までやって、それを深いレベルの2で1~10までやって、深いレベルの3の1~10までやっていくわけです。だから与えているものに対して、それをレベルの3で取り組める人は取り組めばよいし、6で取り組める人は取り組めばよいわけです。1でやっとだという人は、そこでしっかりとやっていけばよいのです。 

力づくでやっていける部分と、それからイマジネーションなり、感受性がないといけない部分があって、目一杯ぎりぎりの時間のなかで私のレッスンのなかでやっています。だから私のレッスンは自分のなかで結びつけてください。トレーニングをやっていると、どんどん体が固くなっていって、中に込もってしまう人がいるのですが、あくまで外に出すだめのトレーニングです。いくつかイメージを与えていきます。

 

 

 さだまさしさんを使うのは、滅多にないことなのですが、伝えるための要素を考えてみてください。これで声がものすごくあってたり、体が強かったら、見えなかったところが全部、見えてくるはずです。たとえば皆さんが今、声はあまり出ない、あまりうまく使えていないといっていますが、これだけの音楽性や表現力が宿っているかどうかということになるとその方が難しいのです。だからそういうところを見てもらえばよいでしょう。

 

 ことばが止まっている、息のなかできちんとフレーズができている、音の感覚が流れている、それからフレーズのつくり方を知っている。ただ外国人の体を発声というところに負ってはきていないから、その歌の方がこういう形での表現をぎりぎりにとっているということです。これはこれでこの人の表現ですし、この人の歌ですからよいわけですが、作品としては成り立っている部分を学ぶことです。一番、困るのは発声だけできていくということで、表現がわかってこないと発声はこもってきてしまいます。いかにも発声のための発声になっていくのです。そういう意味で聞いてください。

 

 音色と情緒、フレーズから表現になること。ただ「まちを あるく」とやっていても何も出てこないのです。それは最初のイメージづくりが間違っていて、何もやっていない。それが発声の使い方、間違いにつながります。そうではなくて、何かをやって人の心を動かしてきたものを、先にふまえておいてくとよいのです。ことばを伝える方向から決めると、その人なりにあるところで全部、出してやるしかないです。そうするとそんなに間違えないのです。

 

 変に発声練習をしたり、トレーニングをすると、どんどんとその眼が雲ってしまいます。それが一番、怖いことです。結局、声が宿ってきても、その歌というのはしっかりと捉えたものを突き放して、そこから歌わないといけない部分があって、中にかかえていると外には出てこないのです。だから、そういうのは、皆さんのなかで声がもう少し宿ってきてから問題になってくると思うのです。

 

 

 「あいのほほえみ」は、松崎しげるさん「愛のメモリー」です。

愛のメモリー」と何が違うのか聞いてください。 

 

日本は、デビューしてエンターテイメントになるところからピークが落ちています。デビューが死という感じです。パワーがストレートに歌いあげています。高いところで完全にポジションをキープしているので高くなったときに抜けないです。つっかえるようになっているのはマイクを遠く離しているから小さく聞こえるだけです。ひびかして今みたいな歌い方で逃げていないです。

 

 今はラテンみたいな雰囲気のなかに入っています。歌を成し遂げるまでのプロセスの一つの歌い方だと思ってもよいと思います。中尾ミエさんとかがとっていたポジションを考えれば、日本人だからできないことではありません。

伊藤ゆかり、弘田美枝子、雪村いずみさんたちのようにビートを体のなかに入れていて、それをことばのなかでかぶせながらそのビートを確実に捉えるという歌い方は、難しいものです。ここに300人いても3人ぐらいでできるかできないかでしょう。

 

 

大体は、ばらばらになってしまうのです。リズムをとりにいったらことばが切れます。ことばで結びつけようとしたらリズムが入らなくなる。そこで当時の体の強さと耳よさを学ぶことでしょう。選ばれただけあって、それと音色まで変えています。

 

 最近、音色を変えられる歌い手はいなくなってしまいました。中尾ミエさんはこういう音色も出しています。ここまで引っ張ろうとすると、相当つよい力がいります。プロ並の体がいります。あと音色ということでいうと、カルメン・マキさん。この歌い方をまねる日本人はいますが、その、そのあとの踏み込みがまねできないのです。わかりやすいと思います。 

 

ポジションを動かしていって、そこからそれない歌い方。ただ、上のクラスで取りあげたアダモの日本語で歌った「ジュテーム」、フランス人がポジションをハイトーンでとったらこうなるという見本のようなもので、このままで上のソの♯ぐらいまでもっていきます。

 

 

声楽もいろいろ誤解されているところがあるのですが、基本的には、私は同じ考え方で全部やっています。使い方、取り出し方をどうするのかというのを、その人が決めていけばよいことであって、共通しているところは同じです。一流は一流だし、一流のなかでもうまくいっている歌と、うまくいっていない歌があるわけです。いろんなところから学べると思うのです。それを自分のなかで一回、入れてみます。

 

 結局、精神的に強くなれないと、技術が向上していかないというのは確かです。やはり客観的に自分を見なければいけません。自分も突き放して、歌をおいて歌いあげていかないといけません。声も同じです。それがカラオケでやっていく人と外に出していける人との違いです。

 

 日本の環境はそういうとに関しては恵まれていませんので、表現のスタイルをつくるのは大変です。やわらかくビブラートをかけて歌った方が、気持ちよいというような受け止め方をするのです。どうしてもお客さんに合わせていってしまいます。第一線をずっと保とうとするのであれば体の原理にそって、正攻法のところはもっておかないとだめだと思います。 

 

いろいろと聞き直してください。何も新しいものを聞けということではなく、今まで聞いてきたもの自分の体ができるにしたがって、また聞き方が違って聞こえてきます。特にこういうのはわかりやすいと思います。声を動かすことと、つかまえることと、突き放すということ。ロックをやってきていきなりクラシックを聞くと、カルチャーショックを起こすのですが、だんだんと表現の本質のあるものを理解できるようになります。