課題曲レッスン 1123
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【「君の涙とほほえみを」36612】
【「ラノビア」35613】
【「ナポリは恋人」35522】
【「二人でお酒を」3566】
【「ヴォラーレ」3574 A】
【「ヴォラーレ」3574 B】
【「ヴォラーレ」3571 C】
【「バラはあこがれ」35712 】
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【「君の涙とほほえみを」36612】
「たとえいまは」
これが「タタタ タタタ」と音になるわけです。そこで歌というよりは音の世界共通のイメージになってきます。そうすると今度はこれをつなげないといけないわけです。やって欲しいことは一つのことを確実にとるということです。「タタタ タタタ」と続いても、モールス信号みたいになりますから音楽は出てこないわけです。ここからイメージの世界です。
たとえば音の長さの幅があります。これが横の幅よりも強調の幅の方がついてくれば一つに聞こえてくるわけです。声量というより声のポジションをとらないといけないとか、ある程度フレーズをつけるというまえに、声をしっかりと大きくしておけばよいというのはつかみやすいからです。それから強弱をつけるとこれがさらに動きだします。
いつもいっていることは強く大きく太くすること。太くというのがポイントです。これはポジションが深いととれないです。それだけ体を使わないといけません。
それから息を流さないといけません。今は息の使い方を勉強しています。音をつなげるのが息なのですが「セピアンジェ」で何をどう展開させるかを問わないといけないのです。声の線、それからフレーズ、音声のイメージ。それをつなげるために声の線を出していかないといけません。
声の線というのは結局、自分の体のなかに落としておかいと、口先だけで音をとっていてもできないということです。問うて欲しいのは音がとれているとか、そこでことばがいえているということではなくて、ことばいえなくても音がとれていなくてもよいから、声が展開されていること、声の線が出ているということです。
「ロンリ ヴェ ドライ」
イメージで出てこなくてもよいのですが、音、出そうとしないと永遠に出てこないのです。まず「ロン」「リ」「ヴェ」「ドライ」こういう置き方をやめることです。
聞こえているのはそうだとしても、「ターラララ」ととれている人が「ター」「ラ」「ラ」「ラ」とおくわけであって、これは先につながっているわけです。出ている声と実際の体の動きというのは違います。
たとえば「ロン リ ヴェ ドライ」と歌える人が、「ロンリ」「ヴェ」「ドライ」と歌っても構わないわけです。このときには必ずしも体がたくさん使われているから、声が出るということではないのです。
まず一つのイメージに捉えること。「ターラララ」自分のイメージで、声のイメージだと「たとえ」「いまは」と読み込みをやっていきますが、音楽ですから別の意味で音のイメージを捉えます。「ターラララ」にリズム、音感、いろんなものが入ってくるわけです。それを展開させない限り、その人のオリジナルのものが出てこない。オリジナルの声からオリジナルのフレーズがイメージできる方向にしていって欲しいものです。
「セピアンジェ アモーレ」
歌うのはあとの話であって、今やって欲しいのは、自分の呼吸と合わせていくことです。その呼吸がまだ小さいからやりにくいし、つながりにくいのですが大きく捉えていくということです。声の線に乗せるというのはそういうことです。一つの流れに乗せていく。
フレーズとしてはこれは同じ音ですからそのままでよいのですが、実際に歌うときは「セピアンジェ」が上のひびきをもっていて「アモーレ」はどちらかというと太さをつけている。
理屈としては、「ジ」と「ア」が同じポジションでないといけないということと共に、そこでつながっていないといけないわけです。全部、まえについている音です。強のあとなので弱というわけです。そのまえにしっかりと踏み込んでいかないとよくありません。
「レコルダ センプレ」
声のことは気をつけないといけないのですが、音のイメージを抜かしてしまうと声にもそのイメージがとれなくなります。
「ソ クライミィオ ボルト ロンリ ヴェ ドライ」
わからないことがあると思ってもらってよいです。音の感覚がある人も強弱のリズムの感覚がある人も少ないのです。「タータタタタタ」だと音の展開はしないのです。皆さんは自分が聞いた時点で、メロディだけでとってしまうのです。これはことばだけでとってしまうのと同じです。
同時にすべてをとることです。そこの音のイメージでとらないのと、仮にとったとしても自分がやるときに私が今やったのでもそれなりに体を使って、それなりに意識を集中しているから表現になるのであって、だまっていたらできるものではないのです。
私は3分の1か5分の1ぐらいの力でやっているのを皆さんが3倍か5倍ぐらいの力でやってみて通じるくらいです。今ぐらいの表現に実際にマイクに入れて録音したら聞こえるぐらいに思っておけばよいです。
だからまず舞台とか表現ということに対して、こんなにやってもよいのかと日本人が考えるぐらいにやってください。
向こうどころか日本のなかでもへとも思われないぐらいに思えばよいです。それ以上のことをやって「派手にやりすぎたかな」ぐらいでも目立たない。ステージで普通にやっていると思うためには、皆さんの感覚からいうと、相当、枠を破らないと難しいと思います。そこが表現の方からくるようにする。こういうのを聞いたときに、それを徐々に捉えるようにしてください。
「タータタタタタ」で間違っていけないわけです。しかし間違っていないというだけのことで、それは練習にならないわけです。頭からはいらないと納得できない人は、理屈で考えてもよいです。感覚から入ればよいのですが、感覚は磨かれてこないと入ってこないものです。
そのためジャズをはじめにかけていたのですが、あのジャズの細かいリズムのなかに自分の体が特化できて、そこで刻めないと自分がやったときはまったく出せないのです。乗っているだけではしかたがないわけで、自分の方が動かさないといけない。
まず音を展開させないといけないというのを考えてください。皆さんは声がそろっていなくても、声の声量がなくてもよいから、とかく常にイメージとして2年後、3年後をつくっていかないといけません。課題というのはそういうことです。そこで表現を出していくということは、そこを越えないといけないです。
「かたく しんじあうの」「たとえ いまは」
ことばだけでいってみてください。まず、日本人の癖というのがあります。感情表現をやるのに技術をとってこないといけません。やって欲しいことは、癖のついた感情は使わない。「たとえ いまは」これは感情は入っていないけれど、体が入っています。体も入れて、一つの基本線をしっかりと出していくこと。そこまでいくと土台になります。
そうしたら声は「たとえ いまは」というところのフレーズをとっていながらどうやるか、音になるともう少し自分の感情のところに、どう入れていくかということです。自分の感情をそこに入れて、その線を変えていくわけです。
どちらにしろ表現しないといけないということに関しては同じです。本当の意味で生きたことばの練習をやってください。つくらないところでのことばの練習、それからそれがストレートに伝わる、伝わらないということで声に戻ってください。
音楽的なことに関しては今日、いったようなことができるのに何年もかかりますが、体で捉えて体をしっかりと伝えるようにする。声量がとれなくても、音がとれなくても表現することばがしっかりと生きていたら半分ぐらいの声でも大体、通用します。通用しないというのは、結局、息のポジションが変わっていってしまうのです。まったく声になってなくても体でやった方がましです。それだけでしっかりと伝わるわけです。だから今は体で、出し惜しみをしないように考えてください。
「トゥ ベ ライ」(レミド)
ピアノを聞いたときに音を取りやすいように聞くのですが、表現が飛んではいけない。表現への意欲が超えていなくてはいけない。
歌から聞いたところのイメージを残しておいて、音を叩いてはいけないということです。ことばが助けるのもよしあしです。「トゥ ベライ」これがつながっていないといけないということと、そこに表現を入れていかないといけないですから、そこからどういうふうにやっていくかという中にいろんな表現があります。そこで音色を出していかないと、歌にはならないわけです。声量というよりは体自体を一つにして使わないといけなくて、そこから決まっています。今の段階ではしっかりと切っていって、放していくことをやらないといけません。
「ディミ クァンド クァンド クァンド」
まず一つで捉えること。一つに捉えるとはどういうことかというと、「たが いのここ ろに」皆さんのはそう聞こえるわけです。だから外国語、歌ってみてもあんまり様にならない。向こうのは別に音楽になっていなくても、「ディ ミ」という意識はないです。
「ディ」を入れたら「ディミ」。何が違ってくるかというと、「ディミ~クァンド」までで一つなのです。それにどういうふうにことばをのせていくかとことで、その流れができていないと、正確にやればやるほど音楽からずれていきます。ピアノや楽譜それに一つずつていねいにやっているだけで、捕まえないといけないのはフレーズ、感じ、そちらの方なのです。
それから声を出したときに、声がどうしても使えない慣れていないからそう楽にはならないかもしれないけれど、少なくともどこかにアクセントをつけたら、動かしていけるはずなのです。強アクセントはことばをつかむポイントです。三度ぐらいのところで確実にやっておかないと、その先にいけないのです。
今、求めていることは向こうの人たちみたいにヴォリュームを出しなさいとか、高いところで歌いなさいということではなくて一番、自分によいところで三度となったら同じことができるだろう。その集約度を出せない限り永遠に同じことはできないということです。何も鑑賞用に聞かせているわけではなくて、これの参考に聞かせているわけです。それが一つになってきたら、次にリズムが入ってくるわけです。
今はリズムまで入れなくても構わないです。イメージの違いが気になります。そのイメージができないままに英語の勉強をしているというので、カタカナでふりがなをつけてそのカタカナばかり読んでいて通用すると思っているぐらいのギャップがあるのです。わかっていてできないのはしかたがないから時間を待つだけでよいのですが、それをわからないと声も出てこないのです。
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【「ラノビア」35613】
「アヴェマリア」
前に進む線を出してください。フレ-ズにして流れにのせていきます。「ア」と「マ」をつなげます。深い「ア」がとれていたら、ひびきとしてはしぜんともつわけです。それを自分のなかにいれていけばよいです。できないときは「リ」をはっきりいうより「マア」の「ア」のなかに委ねてください。二つの「ア」のポジションを深くとって、その間に「リ」をおくのです。
「さいだんの」
「だ」のところからどのぐらい体を入れていけるかです。「さい」の息をしっかりと入れておかないと保てません。さ行もた行もはみだいやすいことばです。50音で練習するのなら、「ハ」「マ」「ヤ」と後半の方がよいです。「だ」は開くことは開くのですが、離さないことです。まず「さい」のところで体を入れ、「だ」で一番深く入れ、それから展開していくことです。
「しろくかがやく」
「かがや」でいれておかないと「く」でとめられません。音楽のメリハリから、そう考えてください。単純にいえば「しろく や」で捉えてください。
「や」のところが一拍目になりますから、ここに強調をおきます。すべて三連で進んでいて、日本語の矛盾を片づけるためにこういう歌い方をつくっていると思えばよいです。
基本ができている人はそう歌っていきます。その意味で基本の課題と思ってください。曲と息とことばとメロディと呼吸とすべて合わせるとこうなるのです。
ただ、ここで犠牲にしているのは、日本語です。日本語の感覚は犠牲にしています。それはヴォーカリストのなかでのバランスですが、他の要素をすべて入れたらこうなります。イタリア語のなかに放り込んでも、楽譜から解釈してみてもこうなります。
それがわからないと「何でここをのばしているのか」「何でここでこういうフレーズになるのか」がわからないと思います。リズムとメロディのラインとスローロックがわかっていると、正解といえる歌い方とわかります。その共通のルール感覚をもってください。
フレージングとか音のとりかた、リズムの感じ方というベースは、トレーニングのなかで入れていくことです。
「アヴェマリア」
基本的な構成は「マリア」です。声楽でもよく使われる練習方法で、「マ」「リ」「ア」を「アイア」と母音でをとっていきます。「リ」の高いところを低くイメージして深く入れるのです。ことばの間を切らないでつなげることです。メロディからとると「ドシド」とおくだけでしょう。ほとんど地声の部分でもっていけますから、抜くことは必要ないです。
一つの声のなかに音やリズムは入りますが、それをただひっぱっただけでは音楽にはならないのです。ヴォーカリストがつくっていくリズムの感覚は「アー」のなかで一致させないといけないです。
ヴォーカリストの音というのは、とどまっているわけではないのです。上にいけばいくほどビブラートがかかってきますから、半音ぐらい高低に動きだしてきます。下のところからその揺れを感じておくとよいでしょう。
その部分で体をよみこんで、息を吐いて、それで上にいくのです。高いところでも同じポジションでキープしたければ、そこに体を使って息を吐く。その息の流れのなかで声をのせていくことです。フレーズのなかに声をとりにいくにも声になりません。それが息を吐いたときに声になってくれば動かせるようになってくるのです。そうすると最初からあまり固めないほうがよいわけです。それがこの歌でわかればよいでしょう。
立体的というのは「さいだーんの」のメリハリです。ひびきとことばの差がなくなってくると、流れてくるようになります。ここまではベースです。本当に聞かせられる人は、そこにうねりや波を出していきます。すると立体的になってくるのです。メリハリを大きくつけるということです。ことばでいうのではなく読み込んだところから歌い込むことです。「だ」ではなく「だーん」とします。時間的な差ではなく見せ方の違いです。
「こころをかくした」
「かく」というのは本当は強くいえないのですが、日本語の場合は一音目をはっきりさせないと、意味がわからなくなってしまいます。「かくした」と聞こえるためには、リズムの法則を破って、強拍の法則を破って一拍目の頭をどうしても強く出さないといけないという言語上の構造です。
高低アクセントは英語の強弱アクセントも、高いということと強いということは抜けてきて強く聞こえるのです。「かくした」と対応していおうとしたら、そこにフレーズをつくらないと、「を」のときに広がってしまいます。フレーズもくずれる、メロディもくずれる、ことばからもくずれるわけです。
音を殺すためにはおさえる方法や、抜く方法があります。日本の場合はほとんど抜く方向でやっています。普通はとめる方法、あるいは殺す方法で、どちらもやりたくなければより「こ」の方を強く出すという方法もあります。か行、さ行、た行ははみだしやすいのです。「し」でいわないと「た」で開いてしまいます。意識して線のなかにいれておかないと難しいです。
「うつくしい そのすがた」
ことばとフレーズのかねあいで、ことばでフレーズを殺してしまうところです。「美しい」ということばを日本語として生かすためにいったん流れを殺してしまうわけです。
「うつくしい」と殺しててしまうと、「そのすがた」どこかで挽回してフレーズをつくらないと歌がとまってしまうわけです。大げさすぎるかもしれませんが、曲そのものの緊張感を失わないために挽回しないと一曲が完全な密度をもってもたないのです。長くしていくと、たらたらとしてしまって、二番目になると退屈するのです。しっかりとつめて構成するという意味では勉強になります。
日本人のは一つおとしこんで、ひきつけるところをつくらないといけないのです。向こうの歌い手は、歌っているものはおとしていないのです。これは日本の歌詞のなかでやっていることです。そういうことも考えて構成されているのです。
「そのめに」
日本語によくある言い換えです。「そーの」とのばして「め」をキープしないといけません。これを殺すわけです。「に」をフレーズにしていくわけですが、助詞なのであまり伸ばせないです。「そのめに」といってみて展開してみればよいと思います。
「うつくしい そのすがた」
「が」の方向性がそれてしまうとよくありません。ここでフレーズをどうつくるかということです。上にあがる音の前に「す」といわないといけないです。そこで捉えておいて、「す」と「が」の三度を開かないようにするのです。下で「ドレミ」というより、上で「ドレミ」というと同じように開いてくるわけです。同じにしていった方が有利なわけです。なるべく凝縮して捉えるというイメージの問題です。イメージがそうなっていたら、そう歌えるわけです。
リズムからいうと「が」のところで微妙に半音入れています。この歌の特色ですが、変化させています。ビブラートが和音の変わり目のなかでかかってくるのです。それは耳をすまして、自分に素直になって歌えばそうなってきます。
「がーたー」と開いていくと、収拾がつかなくなってしまいます。体のなかでもどうしょうもなくなってきます。もし、フレーズをつけていくのであれば「がー」のところで入れてみましょう。中間音だから大きなフレーズがつかないということではありません。
高音は誰でもやりやすいのですが、まともなヴォーカリストは低音、中間音でメリハリを出せます。
そこでポジションをとって、息を吐き込んでいくわけです。高音はあてて強く出していったら、マイクを通したときには流れます。中間音のメリハリは難しいものです。この曲を参考にして、中間音あるいは低音のメリハリを聞いてください。
「さいだんの」
ここも立体感をどう出すかという課題になります。体の強さとポジショニングのキープの問題です。器をつくっていくのなら、「だ」のところにどれだけ息を読み込めるかです。息を吐いて、ポジションをしっかりととって、それを体でキープすることです。逃がしてひびきをとる歌い方もありますが、今やって欲しいことは「だ」といえることです。
そうするとあとは歌わなくてもおさまるわけです。声の線でベースをつくるということです。なるべく「だ」でそれないことです。10の容量があるとしたら、「さいだんの」ということばを、大体均等にわってつけます。とにかく「だ」に力を使うのです。どこか一つ通用させないといけないです。その使い方をしないと土台にのってきません。
声というのを中心に考えたときに、声に音域をつけていくのです。音量、声量を先につけていきましょう。それから伸ばします。ことば、リズムがついてきても、すべて体の力がいるわけです。どれを優先するかということで考えるのなら、声量のなかに声域が入ってくると、しぜんに伸びてきます。
フレージングができてくると動いていくのです。
ことばやリズムは、そのなかで消化されていきます。そう考えたほうが楽です。そうでないと大きな構想が出てこないです。声が出るようになってきたらコントロールしていくのです。
「ねがう」
ここでは変化させています。ヴォーカリストが自由にできるのは音の感覚のところ、あるいは日本でいうとこぶしのようなところでしょうか、小フレージングをつくっていくわけです。リズムやメロディ、コードの感覚などが入っていたらしぜんとそうなります。
あとは、アドリブでつくっていくわけです。声帯は打楽器ではないので、トランペットやヴァイオリンと同じように、微妙に音の方向性を変えてやることです。
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【「ナポリは恋人」35522】
歌というのは、どこかで強めてとこかで弱めると思ってください。弱めたいから弱めるのではなく、強めたら弱まります。その呼吸を自分で捉えることです。すると頭で考えなくてもフレーズができていくわけです。
「ナポリ ゆめのまち」
「まーちー」と分かれると歌らしく聞こえなくなります。「まち」としっかりといっていながら、キープしてその間を「あ」でつなぐことです。「ナポリ」のところで使い切ってブレスを入れる。そのブレスにのせて「ゆめのまち」とつづける。
「ナポ」というのは、ことばなので、全部を伸ばしていたら歌にならないです。「リ」と引っ張ります。「ゆめ」これもことばです。どこか一か所でもよいですから、メリハリをことばのなかでつくっておくのです。ことばを転がしてフレーズをつくっていくということと、伸ばすということの二カ所だけ考えてください。
歌いあげているように聞こえると思いますが、あまり歌っていない歌なのです。明るくイメージを意識するぐらいです。音色そのものも皆さんが思っているほど明るくないでしょう。表現の出し方と曲調が明るく聞こえるためです。声を確実につかんで、つかんだところの息の深さをキープして、転がしているだけなのです。日本人の感覚で歌うのとは大分違うと思います。こう考えた方が体も使い、息も使います。この歌い方に対して体が使えるようになると思えばわかりやすいと思います。深く入れておいて、放していくことのくり返しです。
「ナ」のところで開けすぎないことです。日本語は浅く平たくなります。体の力がついてきたら、開口(アペルト)させてひびかせます。これには条件があって、体のところで芯を捉えて、それを効率的に使わないとどんどん広がっていくためにできなくなります。どちらかというと体でにぎっておいて口はそんなに開けない方(アキューズ)がやりやすいです。日本語ではそのまま強くしていくと、のどがびりびりになってくるのです。
「ナ」とあまり開けない、なるべく狭くする、より深く入れるとともに上の方にひびかせる。たての線とはそういうことなのです。強くすれば声としては出るわけです。いろんなところでひびきますから、コントロールが難しくなります。
胸中でしっかりと「はい」「ナポリ」といえるところでもっておくことです。その線で伸ばしていくことです。そうすると体が使えるようになってきます。イメージの問題ですが、日本語にはないところです。つかまえたところで声が回転していきます。その線上で動かすわけです。ことばでとるのではなく、フレーズでとるとはそういうことです。トランペットを吹くように体を使うということです。
体の使えるところまでの歌になりますから、出したいと思ったらもっと出せます。パワーかける効率の問題です。声楽であれ、ゴルペルやジャズであれポピュラーであれ、日本の歌謡曲を除いて全部共通に体のベースはあります。
日本人はそういう形のコントロールをしないのです。なぜかというと、体を必要としない日本語で歌っているからです。皆さんもことばでいうと、その条件は若干はふまえていたわけです。ところが歌になると浅くなってひろがっていくのです。
そうではなく歌になればなるほど、より深くつかまえないといけないのです。安定した部分があって、それをつかまえるのが一つのノウハウと考えてください。息の深さが全然違います。基本的には歌っているわけでないのです。深い息を相当吐いています。感情を伝えようとしたら、息は吐かないと伝わりません。そこを間違えないことです。
「ナポリ ゆめのまち」
方向性をみないといけないです。一つずつ切っていくと流れが出てこないです。つかんで放していくことです。音程だけにとらわれるのではなく、音の方向性がみえないのは聞きにくいです。「ゆめのまち」ここまでは体で捉えないといけない。5音で捉えるとよくありません。フレーズをつけておすことです。
それができたら「ナポリ」からとおしてみる。どこかをしっかりとにぎることです。日本人の歌はどうしても「口パク」になってしまいます。だらだらします。
大切なことは「ナ」のポジションです。声の発声するところ、声立てということでとても大切です。キープして維持することです。「リ」と「ゆ」は同じところでとる。そうしたら浅い「ゆ」にはならないです。フレーズから覚えていった方がわかりやすいです。明るくイメージを出すのはよいですが、その前ににぎっておくことです。そこからどう展開するかはフレーズが続いていたら、どんなに音が小さくなってももっていけます。
ことばを歌わないことです。ことばからいつまでも抜けられなくなります。一番大切なイメージや情感と、声の魅力に足止めがかかり重くなります。この歌は本質的には明るくないですし、思っているほど、はやくはなくゆっくり歌っています。とめて歌っているわけです。どうしてそう聞こえるかというと、歌い手のそのイメージが一曲を通して完全に流れているからです。
体ができること、声ができることは、基本の条件としてありますが、それは何のためにそうするかというと、ことばが生きること、メロディを生かせること、それを総合して歌としての要素が出せることであり、その逆ではないわけです。
声量があって、声域がいくらあっても、それは条件にしかすぎないわけです。条件を整えていくことも大切ですが、できることならそれを先のイメージからことばを生かすためにどうすればよいか、メロディを生かすためにどうすればよいか、統一した一つの作品として価値づけるためにどうすればよいかというふうに考えましょう。結局、体を使わないといけないはずです。そこから声がないといけないとなってくるはずなのです。この関連が、まだバラバラになったままの人は多いようです。
いろいろと取り組んでみて、それとともに耳を鍛えていって欲しいものです。こういう歌をどういうふうに聞くか、他の人たちはどれぐらいできているか。自分の評価は難しいのですが、それは後回しにしてもかまわないです。自分のときは思い切ってやることです。
迷いがあってはよくありません。迷っている時間はないのです。出したらそれまでの世界ですから、出すしかないのです。考える必要はないわけです。
恥をかくのも練習ですから、思い切ってやることです。また、思い切ってやらないと身につかないです。作品となるときれいに聞こえてしまうのですが、この曲も日本人の感覚からいったら、相当オーバーな表現をしています。しかし、彼女たちにとってみたら、かなり押さえているわけです。感情をあらわす表現力の差がありますから、皆さんが体に身につけよう、声に身につけようとするなら、日常生活はともかくこういう練習のなかでは、感情をあらわすことは考えなくとも、ことばをより生かす、メロディの情感をもっとたっぷりとするために過剰に表現することです。レッスンのなかでよかった部分を体で捉え、感情をよりいかすことを失わないことです。それをつかんだままフレーズをこなしていくことを考えてください。
ここでは音程やリズムのチェックをしているわけではありません。それが狂っていても表現として生きていたらよいわけです。こわごわやらないことです。自信もってやれば聞かせられます。そこからつかんで音楽的にフィードバックできるような耳をもっていくことです。自信だけしかないのも問題ですが、両方一緒に身につけていってください。
ことばで区切るという感覚は、なるべくなくすことです。少しでも早くフレーズ、息の流れにことばをのせていくことです。そこにことばを動かしていくかを考えていくことです。外国語のことばは生きているわけです。動いているその感覚をとってみてください。その動きを日本語に吹き込み、命を与えてください。
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【「二人でお酒を」3566】
「それでも たまに さみしくなったら」
「そ」のところに入らないとよくありません。ことばでいえているところで動かしていかないとよくありません。その入り方が浅いと動いてこないです。「そ」で引っ張ってもよいのですが、「れ」で引っ張った方がもっていきやすいです。
「たまに」の「に」も抜いているのですが、抜く前に入れますから、あまり感じさせないでしょう。
これはことばをおいていく感覚の歌に比べて、これは切り離していく歌です。だらっとなってしまうとよくありません。
トレーニングの目的からいっても単純に考えて歌うのが一番よいと思います。どこにフレーズをつくるかということです。「それでも」と一つににぎっておいて、あとに「で」のところで盛り上げる。この距離をどのぐらいとるかということです。全部入れるところは、決まっているわけです。
「で」で入れておかないと「も」になったときにあがらないです。低いところを高くとる、ひびきでとる。高いところは深いポジションでとる。そうすると高いところと低いところを同じところでとれるのです。一本の線が出せるわけです。そこにまた別の線をもってくるというふうに考えてください。
「さみしく なったら」
「し」で入るところが一番難しいのですが、開きすぎないことです。点をつかまえてそれ以上開かないで、どう動かすかということです。息を吐く方向に全部入れてそこに息を吐いて、フレーズとして浮いていく線をみせないといけないです。
「し」のところで入りますから、「ら」のところにアクセントがくるのです。「ら」は最後の音なので入れにくいかもしれませんが、本当は「し」で入っていたら「な」のところでは浮かしているわけです。線がとぎれてしまうのもよくないです。歌い手より観客の方が先にいってしまいます。そのあたりが切れとか鋭さとかということです。
皆さんが思っているよりも大きめにつくっています。そこで落とし込むので自動的に歌が成り立つのです。今のところでは感覚として、これを読み込めるかどうかでしょう。
「のみましょうね」
「の」で深く入れて「み」で一つ早めに入っておいて「ま」のところで充分とるのですが、ここでブレイクするわけです。「み」にゆとりがあれば「しょうね」までもっていけるのです。「み」はポジションを深く入れたところで、上にひろいあげないといけません。難しいのは「の」と「み」が同じ音になっていないからです。「ま」で開くと次で放せるのです。方向性をもつというのはそういうことです。その意識をもたないとよくありません。
「それでもたまに さみしくなったら 二人でお酒を のみましょうね」
高いところをどう処理するかということです。一番高いところをそんなに出さないわけです。その次の段階になると高い音の前の音を大きくしておいて、高いところを少し下げるのです。中間音でサビをつくらないといけないので難しいです。
一拍目のところが強めにしていて、最高音が三拍目になっています。中強と強ですからリズムを重視して動きを出そうとすると、一拍目の方を強く出すのです。メロディから考えると高い方を強く出します。
とって欲しいのはフレーズのところです。
「それでも」の「でも」と、ここで息をとめられることです。「たまに」の「ま」でもよいです。息と一致させていくことです。ここが最終的な歌のうまい、へたの差になります。
1オクターブをとるために自分でフレーズをつくらないといけません。息をより吐いて、より体を使っていく。それが長さになる場合もあります。呼吸を体のなかに全部を入れていく。その呼吸とリズムを合わせていくことです。
「うらみっこなしで わかれましょうね」
拍のついている音以外はよごしてしまう、あるいはあいまいに発声する方が正しいわけです。逆にしっかりと発声するからカタカナみたいになるのです。どこか入れるところだけ入れておいて、あとは聞こえなくてよいのです。線があってそこで動かしていくのです。その動き自体をどうつくるかということです。
トレーニングからいうと「で」から「わ」にオクターブ飛べばよいのですが、実際の歌になってくるとその前にアクセントがあります。「な」が一拍目になり、「れ」を浮かして、中間は経過音にするわけです。
なぜ「わかれましょうね」があがっているのかというと場面が変わるわけです。音色のニュアンスの問題です。一番下の音をおいていって、中間音から入っていくわけです。高音のところも中間音で処理する。それは1オクターブあるからできるわけです。その意味で1オクターブを同じポジション、音色でもちなさいということです。
普通に話したり、歌っているなかでできるようになることです。中間音でもりあげる、低音もおとさないでキープして聞かせる動きをつける。高音はごまかしがききます。逆に中間音や低音の基本をしっかりとやっておくべきです。中間音と低音でねばってください。
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【「ヴォラーレ」3574】
英語やイタリア語など、日本語以外のことばの場合は、強弱アクセントで進みます。こういうことばが何で音楽的になるところがわかると、歌っていく人にはよい勉強になると思います。この曲は、向こうの人たちの感覚だと三連の歌い方です。三連のリズムでとっていくとおいていくようになるのです。最終的にはことばを三連でおいていきますが、先にこのまま、ことばで読み込み動かすことです。
「ほんとにふしぎな ゆめをみるの」
乱れるのが「を」と「み」の部分です。日本人の場合は長くなり、定まらないのです。ここのところで歌ってしまわないことです。歌わないといけないのは、次の「ヴォラーレ」からです。
日本語のイメージのところと、三連のリズムのイメージのもの、フレーズのイメージ、ことばの部分をかねるのは難しいのです。二拍三連の場合はこころもちゆっくりめです。テヌートと思えばよいのです。アクセントの場所というのは二拍三連は、一拍目と三拍目だけとればよいのでしょう。ことばをいおうとすると、どんどんことばがばらばらになってしまいます。先にフレーズをとりましょう。
音質的なことでいうと「みる」のあたりで、音程差を出さないことです。上の音を深くとるのです。日本語の処理としては最後の音は浮かせるのです。浮かせたくないし、計算がみえないようにするためには、「ん」や「め」でとめておくことです。
日本語はその形になりにくいから難しいのです。向こうのことばは「め」でアクセントがおけるのです。日本語の場合はそう考えたらバラバラになってしまいます。あとはうやむやにするしかないです。本来は好きなところに強弱をつけられればよいのですが、日本語での限界なのです。ただ、音声のイメージがあれば、日本語をおいていくことはできるということです。
「ほんとにふしぎな ゆめをみるの まどからそらが しのびこんで」
「を」で強くすると難しくなります。高い音なので歌いやすいのですが、前で「ふしぎな」と強くいった方が目立たなくはなります。「を」が浅くなって切れてしまうとよくありません。「ゆめを」はきついけれど、ここで処理してしまうことです。どこかに強弱をつけるのであれば、難しくないところに移すことです。特にシャンソンは、しぜんなフレーズでもっていっています。
音のところのサビとことばのところのサビと、リズムのところのサビを微妙にずらすのです。普通の人は一つになってしまうわけです。
全部を強くしたときに全部のところにアクセントがきて、単調になり、お客に読まれてしまうのです。計算してもできないと思うので、その通りにとっていった方がよいです。読み込みの重点を自分のなかでつくっていくことです。
「かおも りょうても あおく そまると」
体をつけようとするなら、日本語のところ(「か」「り」「あ」「そ」に強アクセント)と別でとるとやりにくいでしょう。イタリア語の切れ目と、日本語の切れ目との違いです。
「かおも」とことばでしっかりと入れるかどうかです。そこは歌っていないわけです。ことばを音に配置していく部分ですから、日本語の場合は難しいのです。かなり大きめにいってそれを音声のイメージにのせていかないといけないです。
「かおも」をことばでそのまま入れないといけないです。そこにメロディをつけるぐらいの感じです。それだけ体を使わないといけないのです。ことばでいってつないでいるだけです。それから体を放していきます。中間音でよいから、ヴォリュームをとることです。
問題はフレーズです。四つを捉えたときに、そのまま読み込んでいけばよいのです。フレーズの読み込みというのは、ある程度テンポをずらしていくわけです。「ほんとに ふしぎな」とまいてしまうのです。まいた分だけ早くいっているわけですから、「ゆめをみるの」ここで大きく強くして、しかもゆっくりにしないといけないです。それには体を使うわけです。
逆に体があれば皆さんが考えているよりも、ヴォーカリストは楽にがんばれるわけです。大きくもするし、強くもするし、しかもゆっくりしていないといけないです。テンポも変わってくるわけです。自分の体相応のところで、同じ三連のなかでもテンポ感はもっていないといけないわけです。どこかで早めた分、どこかで戻すということです。大きくしたら、どこかで小さくするというのと同じです。一つの線の動きを意識してください。
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【「ヴォラーレ」3574】
「ほんとにふしぎな ゆめをみるの まどからそらが しのびこんで」
ことばの部分で音程やリズムに左右されないことです。単純にひびかすのか、ことばで捉えるのかというぐらいに捉えてください。イメージをもって、ことばをフレーズとして出していくことです。音楽の場合は、間を全部表現していかないといけません。体のなかで一つに捉えていかないとバラバラになっていきます。
声としてもっていく部分、技術としてもっていく部分、イメージの部分があります。力でもっていけるようなところであれば、トレーニングしだいと考えればよいわけです。
原則はあります。たとえば、出だしの一拍目は強くします。そこからフレーズとして、技術ということで考えるのであれば声量を配分していくわけです。いろんなやり方がありますが、それは自分で考えないとよくありません。音声イメージになってくると、心に感じたものの展開になります。
歌い手や技術をもっている人たちが、どうみせるかということには、表情や歌の方向性も含みます。それがフレーズの日本語のおき方にもなってきます。「を」があまりにも強調されると統制がとれないです。イメージを変えていかないと、悪い方に力を使うことになります。強弱の関係でもっていった方がよいと思います。音の差をなるべくなくしていくことです。ことばをいっているところから、はみ出さないことです。すると否応なしに体をつけないといえないのです。
最初から歌ってしまうと大変な歌になってしまいます。そのへんの感覚も少しずつ覚えていってください。
要は上の線と下の線とのバランスです。日本人の場合は、ドから上の1オクターブのところは上の線に頼ってのどを詰めていくのです。そうではなくて、常に二つの線があって、そのバランスのなかで捉えていくということです。中間で「ほんとに ふしぎな」といってしまうと、どちらつかずになってしまいます。
それで声区のチェンジをどこに決めたらよいかという教え方が出てきますが、できるだけそれまでの期間を長くとった方が結論としてはあとで伸びます。ドの音はこう出すと決めたら、その音声イメージで体は縛られるわけです。体が使えないわけです。せっかく将来的に使える体、より強い体で出せる声の可能性をなくしてしまいます。
ところが、できていない体で音をバラバラにとっていくと、歌の方に結びつかないわけです。最初から思い切って、体を使ってまともに声が出せるわけがないからです。ただ、体は強くなるし、声も強くできるので、声区のチェンジなどを学ぶのでなく、声の音色やバランスから考えていく方がよいわけです。
まともな歌い手は1オクターブのなかで、上の線も下の線も自由にとれるのです。
下の低いところに上の線をとって、上の高いところに下の線をとればどこでもことばでできるわけです。上にいって上の線、下にいって下の線だと半オクターブの歌が、2オクターブのように広くに聞こえてしまうのです。これでは、歌は大変です。
彼らの歌というのは高低の感覚とか、リズムの感覚とかいうよりは、全部ことばの強弱感覚で処理しているわけです。その上でどこかのサビのところで出してみたり、伸ばしてみたり、ビブラートをかけてみたりするのです。その感覚はことばの感覚です。ことばを強く出していったら歌になるということです。ですから、サビが盛り上げられるのです。
「あおい おそらに ほんとに いいきもち」
ことばでいえるようにするには、どこかにアクセントを入れることです。英語も日本人が歌うとカタカナになってしまうのは一か所を強めないからです。捨てないからです。全部をいおうとするからよくないのです。いいたいところだけいえば、それっぽく聞こえるのです。
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【「ヴォラーレ」35711】
注意しておきたいのは、ブレスヴォイスのトレーニングというのは、今の自分に合わせてやらない方がよいということです。この場でうまくできることが目標ではなくて、あくまでトレーニングの場として将来の大きな可能性につなげるのです。そのためには、世界のヴォーカリストを聞いてみたり、一流の人をきいてみてそこからつかんでいってください。
ここでまわりの人がやっているように、それに合わせてやると必ずしも正しくないということです。やけに息を使ってみたり、おなかを使っているのをみると、負けじととなってやりだすのですが、それは違うのです。形そういうだけでなく、出てくる声で判断しないといけないということです。体にしろ声帯にしろ人によってすべて楽器が違うわけです。中にはまわりと同じようにやることで正解の人もいるかもしれませんが、それが正解だと思ってやってしまう人も少なくないはずです。
ここはジムとしてでも、体を動かすことでも使ってもらえばよいでしょう。最終的には音声にしていかないといけないのですから、音の入れ方を学ぶことです。
見本というのは、皆さんがここでやっていることを合わせていくことではないのです。そのあたりを自分の段階に応じて組みかえてつくっていかないとよくありません。
何となくよくない傾向があらわれてきています。大きな声で読めばよいとか、かすれても息だけ出ればよいとか、ことばが不明瞭になっても汗がかければよいとか、それらは一番肝心なところからポイントがずれているような感じがします。のど声になったり、かすれたりして使っている人が多いのも気になります。一所懸命やってもみないと方向性が違ってくるはずです。
体を使うのはよいのですが、使える体というのは限界があって、それを急いでやってはいけないということです。急ぐことだけが間違えるということなのです。自分に応じてしっかりと加えていくことです。全体的に皆さんが同じような雑な声の出し方になっているというようなことを感じます。
読み方を聞いていても何も伝わらないです。伝えることを覚えていくのでそれはよいのですが、音声のイメージというのがあります。自分がそこで創造性を発揮しないといけません。ことばなら一行目を読んでいるときに、最後まで読んでいないといけないです。そうでないと単なる日本語の発音練習になります。
音声も何でたくさん聞かせているのかというと、聞いたままやりなさいということではなく、聞いた中でイメージを助けるいろんなヒントがあるわけです。なるべくピアノを聞かせない、歌っている見本をみせない、楽譜を渡さないということも、イマジネーションが働くようにしているわけです。その制限を破りたいからです。与えられないから、何もつくれないというのではよくありません。自分のイマジネーションとともに、何かを伝えたときに相手にイマジネーションを与える力が問われます。受け取った人がイマジネーションを大きくできる力を出しましょう。単に強くぶつけていくだけだと、それは一つのインパクトになるのですが、必ずしも合っていないのです。そこの部分と音楽はかみあっています。
音楽にするのは、そこの効果を最大にもたらすためにやっているわけです。朗読でもうまい人であれば、何語で朗読していてもある程度感じは伝わるわけです。伝わるということは、ことばの壁を破っているわけですから、それは言語から詩、歌になっているわけです。そこでのメリハリのつけ方や音の情感、声の使い方というのは、そのままヴォーカリストの音楽、つまり歌と思えばよいです。しゃべっている中で間をとる、あるいは強くする、弱くする、やわらかくする。そうしたら、そこに歌はあらわれてきます。
英語で歌う人が多くなったのですが、なぜ英語で教えないかというと、発音の方に気がいって、体がつかないからです。強弱で進むアクセントの言語が、日本人の場合はほとんど体に入っていないわけです。どんなにやってみてもカタカナっぽくなって、日本語の浅さになるからです。
表現のことでいうと、上の線のひびきをしっかりと出すためには、下の線のことをしっかりとやっておかないといけません。それは声、息、体の部分です。歌というのは、上の線にマイクをつけてそこで歌った方が楽です。下のところがない人は、しっかりと支えていかないといけないのが第一の原則です。それを声と捉えている人もいますが、声は両方にまたがって当然あるわけです。読んでいる声もそうです。そこでひびいて、共鳴しているわけです。
今の器以上に誰でもカラオケで歌えますし、1オクターブぐらいの音域はもっています。それをしっかりした声で本当に歌おうとしたときに、歌が感動するとか、魅力的であるということは、まず声の支えがしっかりとしていないと無理ということなのです。
それは楽器としてしっかりとできているという部分で問われるのです。そんなことをいわなくても歌えるというなら、最初からもう歌えているわけですから、そこをもう一度確認して欲しいのです。
日本人の場合、向こうの人たちのように普通に話していて、そこにメロディや表現を入れたときに、しぜんと上の方に移行しないのです。だから、ひびかせますが、その前に下のことを、しっかりとやることです。歌詞の読みも一つです。この歌詞はどうみても、力でもっていって何か与えられる歌詞ではないのです。歌と同じようにバランスで伝えることになってくるのです。そのときに使う声が、そのまま歌になるべきなのです。
「ほんとに ふしぎな ゆめを みるの」
プロミナンス、どこを強調するかしっかりと決めることです。日本語にはないからリズムになりにくいのです。ことばの単語のなかでも強弱アクセントがなく、文の構成のなかにもないからです。文中のどこか一つを強調するだけで違ってくるわけです。説得力がでてきます。四つのうちの一つを強くするだけではなく、どこかを中ぐらいに強くする、中ぐらいに弱くする。そうすると全部が変わるわけです。その変化と流れから、とるのです。
「ネルブル ディピィンドディブル フェリーチェ ディスタレラス」
日本人の歌い方は頭だけたたいているのです。「ネ」「ル」「ブ」の頭です。これはカタカナの特徴です。顕著なのが、日本語の構造です。向こうの言語は「ブル」のほうが強いのです。しかも、それを点ではなく、フレーズとして流れを捉えます。そこを捉えないと、下の線は声として出てこないです。それが体の線としては出てくるわけです。強調しないことばはあいまいにしても許される部分があります。強弱アクセントの違いと、ビート感の違いです。アフタービートでことばのなかに入ってくるのです。
「リ」のところで強くするだけではなく、「フェ」の後半も強いわけです。下の線で支えていて、上の線では言い切っていけばよいのです。言い切り方は自分で考えて、ここは強めるとか、弱めるとかしても体がともなわないので、イメージのなかに入れるしかないのです。そこに出てくる流れを生かしていくわけです。微妙に音が変化してきます。ひびきも変化してきますが、それを悪いと捉えないことです。そのままでよいと思います。ただし、一つの線上にのっていないといけません。戻れるところをもっていないといけないのです。
「あおい おそらに ほんとに いいきもち」
フレーズをつけていかないと全部、飛んで浮いてしまいます。「あお」で切ります。こういう歌詞は、原語から歌っていかないといけません。自分で読み込んでいくことです。
「とおく たかく」
日本語の三連と感覚が違います。三連の置き方は三等分に均等に配分しますが、日本語はスタッカート気味になるのです。二拍三連や、三連は早くいきたいのを、心もち、ゆっくりみせていくと思ってください。
体なり息なり流れをとってください。そのままだと歌にならないので、強弱アクセントの切れをしっかりととっていきます。流れに乗せて少し力を抜くと、やわらかさが出てきます。本来はそのやわらかさのところで歌わないといけないのですが、そのバランスに関しては決まっていないです。その人のつくったイメージで歌えばよいでしょう。
基本的には一番声になって出やすいところで統一していていくことです。それを体でコントロールして、操作します。なるべく読んだ通りにやっていくことです。レッスンでは方向とポイントを示していますが、トレーニングでのつめ方を間違えないことです。煮詰めていったら、何も考えず歌になるはずなのです。自分の感覚がそこに入っているかどうかです。
アフタービート感は難しいです。日本人にとっては三連の処理、三拍子、ワルツ、8分の6拍子、4分の3拍子の曲というのは、ことばが入るとニュアンスがずれます。こういう曲は最初にイタリア語で聞いて、それを日本語にあてはめ、あるいは英語で歌うとよいかもしれません。
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【「バラはあこがれ」35712 】
イメージを拡大すると、いろいろアレンジができる曲なのでおもしろいと思います。フランス語のほうが強弱アクセントが一致しますから、しぜんと上の方にひびきにいきます。
「ラポタ ラポタ セラローゼ ラポタ セラローズ クァモァ」
一つに捉えてそこにアクセントをつけて、自分が動かしていくわけです。そして上のひびきをにぎる。にぎっておきながら、放すと捉えていけばよいです。線だけをとっていってたたみかける。フレーズとしては同じようにおいていて、幅を大きくしたり、小さくしたりします。
「ラポタ」のところの線を意識しておいて、その上にそっておいていくのが一番、楽な歌い方です。高さが出てこないと少しわかりにくいかもしれません。上にのがしてしまう場合もあります。呼吸と合わせ、うまくいれこんで、波が三つ出せればしぜんにいくでしょう。「ラポタ」でしっかりともっていたら後はおりてくればよいだけです。歌わなくてすむぐらいの歌です。前半はことばでいっていけばよいわけですから、大きく捉えたらそんなに難しくはないはずです。
「セラローゼ」
課題としては「ラ」のところをどれぐらい盛り上げられるかです。その前後は捨てても、大きくとってみることです。そうするとはみだしてきますから、その前後をうまくつけられるとよいですが、コントロールできないのであれば枠のなかでやっていくことです。音声のイメージのなかに出していきましょう。インパクトの部分を出すために前後を捨ててもよいという考え方でとりあえずもっていくのです。そこで呼吸とタイミングが合えば、両方まとめられるはずです。しぜんとまとまってくると一番よいのです。
歌にはここが聞きたいというところがあるのです。イメージのなかでどう出すかというところを期待して聞くわけです。それを出していかないとよくありません。体と声ということであればしっかりと出すことです。出すためには全体のイメージができていないと無理です。
音声のイメージでまとめないといけない部分もあるのです。ことばを切っていったり、流したり、いろんなことを何度もやっていくとわかってくると思います。部分的に決めて、その部分のなかで相対関係を全体の構成をフレーズのなかで捉えることです。それを両方やろうとすると難しいわけです。一部分ならできても、長いフレーズを繰り返すと全部が薄まってしまうのです。そこで粘らないと練習にならないわけです。大きめにつくっておくということです。
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【フレーズ① 361118】
テーマは「ひびき、シャウト、フレージング、メリハリ、音と歌の感覚」ということで、一番オーソドックスなものです。特別レッスンというのは、普段のレッスンでは、どうしても、「ハイ」とか「ララ」とか、ことばのよみのレベルが中心になるので、歌に必要な要素すべてが入らないので、オリジナルのフレージングというのを集中してやることにしたのが最初です。
オリジナルのフレージングの勉強になるだろうというのと、ポップスの場合は声楽と違って、正解がないわけです。特に高音域に関して、ひびき、シャウトなど、たとえばいろんなことができる人たちが、いつも声楽のようにはやらないで音と声を伝えているわけです。だから、いろいろなものがあるということです。人数が集まるといろいろと勉強になると思います。
歌の感覚もそうです。同じ課題のなかで他の人がやったのを読み込むと、いろいろあると感じやすいでしょう。
高音というのは、ポップスの本などでもやり方というのがありますが、あれは声楽的に遠くにきれいにひびかせようとやる方法です。ポップスの場合には、それからはずれる人はたくさんいますから、そういうことでいうと自分の体が完全にコントロールできるところで何か表現を出さなければいけないわけです。それが結びついていればよいと考えてください。前半に関してはスローテンポでやりますが、後半はついてこれる人はついてくるという形でやります。
「愛してる 苦しい あなただけ 何もみえない アモーレ」
「何もみえない アモーレ」
ひびき、シャウト、フレージング、メリハリというのは基本の変形ですが、一番欠けているのが音楽の感覚、それから声です。
声というのは今は小さくなっています。体の問題と表現の問題が一致すればよいと思うのですが、ここでややこしく説明するほど、頭でやることになり表現が狭くなってしまうので、それからの解放の必要性を感じています。
なぜプロセスを踏むかというと、それはより伝えるためにやるわけです。結局、歌という作品でとり出して、そこでやりたいことをやるのが表現です。
狂っているのは、体からの声でフレーズ、メリハリをくむときです。そこで何か余計なものが加わってしまうのです。もっと簡単なことでいうと、自分がより心地よいようにやれば、伝えようと思わなくても本来でてくるものがあるのです。
体をつくっていくことと両立しにくいことですが、体や声をつくっているから、一時、歌がへたになるというのは、歌はへたになってもよいのですが、伝えるテンションや表現力が落ちるのでしたら、やらない方がよいように思います。ここでやっているのは音声表現のことですから、表現が出てこないということは、その人が表現を考えていないか、表現しようとしていないか、必要性がないからかなのです。
何が欠けているのかがわからないから、歌も表現にならないと思うのです。声量とか声域のまえに皆さんに絶対になくて、一流の歌い手が絶対にもっているものを聞いてみてください。
「ペーパームーン」
伝えるということを単純に魅きつけるということです。それを聞いて、ひどいものでもよいのです。とりあえず、見に行こう、聞きに行こうかという魅きつける要素がなければ、歌なんてやらないで、ことばでお願いするしかないでしょう。
魅きつける要素は、インパクトでも美しさでも、元気のよさでも何でもよいのです。フレーズとか芸事のステージというのは、パワーアップしたものとして出さなければいけません。学ぶときに、何かを吸収しても、うしろ向けに出していくのではしかたがないのです。
出そうと思って出し切ったときに、足らないところがみえるわけです。それがみえているときはよいのです。みえているとベースより上のレッスンというのはおちてこないです。
逆にいうと、声量がなかろうが声域がなかろうが表現はできるわけです。まわりの人たちから学べる部分がもっとあると思います。それぞれ伝え方が違います。ただ全部、完全なものというのはありません。完全なものというのは心地よく聞こえます。その人のなかでしぜんになるからです。しぜんになるというところまでトレーニングをしなければいけないのです。
意識やおき方が違うと困ります。意識のおき方が体にこもらせようとしているような気がします。日本の社会に住んでいると、どうしてもそうなってしまうのかもしれないのですが、いくら初級でも、そんな井戸端会議みたいにポソポソ歌うならやめようということです。井戸の上に立ってみて、ポンと身を投げてみたら、できるものとできないものがはっきりするのです。
練習が成り立つのは、できることとできないことをはっきりすることからです。今の表現もどきではどちらもはっきりしていないのです。感覚をもっている人もいるし、体から声を出せているのに、その方向性が違う人もいます。はじめて参加した人は、よく聞いてみてください。いろんな声があるとわかると思います。他人のまねをしてもよくないのです。勝負する要素は、誰一人として同じではないのです。
そこまで出してみて、何が足らないのかがわかればよいと思います。バランスよくまとまっただけでインパクトが足らないより、インパクトはあったけど音楽的にはぐちゃぐちゃだというのを調整していくのを自分の体にまかせておく方がよいと思います。
研究所にもたくさん本があります。しかし、発声法とかヴォイストレーニングとかいって救われている気になっているところがあっては、いけません。地面に足をつけなくてはいけないのです。それをふみとばした人がそれをけっとばして上がらないといけないのです。発声法など、そんなものです。それにとらわれていくと、自爆していきます。仮に5年10年かけて発声ができても、よく私がそういう人の見本をみせますね、だから何だってことでしょう。声楽家みたいにポップスを歌えても、それで客がくるわけがないのです。それを誰かがみたいと思うかということです。
それには時代とか、置かれた状況というのをくみ入れていかなくてはいけません。それは、今、ここで現実に生きているかということが問われます。
そういう意味ではここはシャウトするのか、ひびきに浮かせた方がよいのかということと同じく、自分で決めていかなくてはいけないのです。それにはセンスが必要になるわけです。当然、ファッションから曲のアレンジから全部含めてトータルな力です。作品にそこまでのことはできないから、トレーニングをするのです。
勘違いしてはいけないのは、声なんてものは、離さなければいけないのです。表現のために大切なだけです。人とやっていくのなら伝えることが必要です。自分だけでやっていくのならそれでよいのですが、だからそのときにどういうバランスになるかということからだと思うのです。
ひびきとシャウトのバランスだけで考えてもしかたがありません。日本では共鳴やハミングはトレーニングのためのトレーニングになっているようです。そして皆、るつぼにはまっていったのですが、そういうものではないと思うのです。音楽を入れていくということも大切ですが、それはこういう場で動かせるかどうかということから問うべきです。
自分がここの今の時間を変えなければいけないのです。サビから入ってもよいし、その経験を積むことが大切です。あるいは、まわりの人の声を浴びてみるのもよいと思います。
「何もみえない アモーレ アモーレ ペンソー」
「アモーレ アモーレ ペンソー もっと強く抱きしめて」
これは音楽的に消化していますが、同じようにしても、皆さんの表現にはなっていかないのです。だからといって、感情表現しても、だめでしょう。ただのシャウトとかひびきとかは、声のベースから、それているものです。もっとそこに練り込んだり、そこに違う動きが加わってくることです。
それは、より伝えるために入ってくるものですから、技法ではないのです。そこでは、自分の表現のことを考えるしかないです。伝えようと思ったときに声がかすれると、どうなるでしょう。もちろん、声があろうがなかろうが、伝えることはできます。伝えることを離さなければということです。それを声などということを生じ勉強したがために、声の方をとってしまう人が多いのです。
それは未消化なだけではなく、声の器官の使い方も体の使い方も、間違ってしまうのです。外に出していくということが必要です。
もう一つは「抱きしめて」というのを感情を入れて自分で表現したときに芝居の世界ではないのですから、どこかで音の世界に変えなければいけません。変えなければいけないことですが、そこまでには声を練り込んでなければならないのです。
最終的な結論でいうと、楽器の場合は音がまえに出ていなければいけませんが、ヴォーカルの場合は音が出るか、音の世界が出ないのであればその人が出るかのどちらかです。人が出ても、3曲以上になると、あきるのです。しかし、その人自体の魅力があるならもちます。
ですから、どちらに色がついているかということです。声や歌のなかに色がついている場合もあります。フレーズも声量も、大きくするということは物質的に大きくするわけではなくて、フォルテとかピアニッシモと同じように音ではなく、感情を強くするということです。
感情を強くしたら大きな声で感情を弱くしたら小さい声というのは関係ないわけです。特にポップスの場合は、そうだと思います。そのなかで、音や歌の感覚がおちてくるというのは、伝えることを前提としたら、そんなに間違わないと思うのです。
そこでおかしなことが起こるというのは、本能的に自分で気づくはずです。これは伝わってない、これははずれたとか、それは自分で判断するしかありません。他の人がみればみえるのですが、はじめはみえにくいと思います。
「カンターレ ウォウォウォウォ ネルブル」
聞いている方は、声で首をしめているのか、音が出ているのか、そこで歌が誕生したのかどうかを判断しています。自分で鋭くフィードバックしていけるようになればよいと思います。あとはいろんな伝え方があります。「Wow wow wow wow」というところも、何も考えていない人と、そこに音を入れてきている人とはまったく違います。
「スルロストゥウナモー チャオ チャオ バンビーナ」
「スルロストナーモー チャオ チャオ バンビーロ」
ここでステージが展開されているとしたら、勘違いや、よくないところはよくないんだというのが、はっきりとしてきます。声の問題より音の流れです。自分のペースで歌のなかで引き受けている感覚があります。それよりも数倍テンションが高いことを感じてください。そういうことを味わったことがない人は問題です。
水泳でいうと、力を入れて、かいてないのに水に乗って自分が進んでいるときの感覚です。そうではないときは、かくことが抵抗を生み、沈んでしまいます。その感覚の一致点がそれてしまうとよくないのです。
こんなこと考えて、こんなふうにやっているからだめだというのは、レベルの高い人には全部みえます。その流れを殺してしまってはよくないのです。その流れというのは、単にひびかしたり、伸ばしたりすることではないのです。このくらいのフレーズでは、構成になってますから、ことばだけをいおうとしているのか、しっかりとそこにつくり出しているのかというのが、はっきりしてきます。
「ロマンティカ トゥセイ ロマンティカ」
声量というよりは、そのおき方とか感覚でもっていきます。慣れていない人はコピーになってもしかたないとは思いますが、自分で引き受けていくことです。雑です。「ロマンティカ」のことば一つに対する扱いでわかります。きちんとそれを伝えようとしたら、そこに思いを入れ、気を入れないとことばは動いていきません。つまり、全然わかっていないのです。
一番難しいのは、わかっていないことをわかることです。音とか歌が、どこで聞こえ伝わるのかを判断する耳をもつことと、それをやらなくてはいけないことです。ことばとしての音として宿っているというのは、ことばよりも一つ上の段階です。向こうのヴォーカルはみんなもっていますが、日本のヴォーカルは欠けているところです。そういうレベルでやろうとするならば、日頃からやっていないとよくないわけです。
特別レッスンは、そういうものを問うためにおいてます。また、日頃の成果を出してもらうためにおいているのです。ここでは出たものしか聞いていませんから、そこで音程が違おうが声が大きかろうが小さかろうが、その人がこうだというものを体に入れて出すのではなく、やったら出たという感覚だと思います。出そうと思うと遅れます。計算もしなければよくないですが。
「アベーロ アベーロアベーロアベーロアベーロ」
テーマがあって、そこが終わって、次の展開に移るというところをやっています。音楽らしい課題です。
「アルディラ ティセイ トゥ ペルメ ララララ」
音楽的に考えると「ティ、セイ、トゥ」の3つが同じようには、きません。きちんと計算した上で3つをおくというのならわかります。できている人とか魅き込まれていく人のもつ要素をみてください。
「アディオ アディオ」
自分の寸法でやってみてください。「アディオ」というのをことばでつかんで、そのまま出すのではなくて、音におきかえて出すということです。ことばでも歌にはなります。要は伝えるために「さようなら」という気持ちがなくなってはよくないのです。音楽が聞こえても、気持ちの方が引っ込んでストレートに出ていないのはよくないです。歌い上げられないところが、歌は難しいのです。