ステージ実習コメント 1124
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【ステージ実習①「夜明けの歌」35625】
【ステージ実習③「夜明けの歌」35625】
【ステージ実習③「五番街のマリー」35721】
【新入ステージ実習 368】
【ライブ実習「帰り来ぬ青春」361014】
【ステージ実習② 36722】
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【ステージ実習①「夜明けの歌」35625】
ことばの問題、発声の問題や音の問題、全体の構成イメージの問題とそれぞれがあります。単に読めば「よあけの歌よ わたしの心の 昨日のかなしみ流しておくれ」「よあけの歌よ わたしの心に 若い力を満たしておくれ」これがことばの捉え方です。日本語はそんなにうまく歌についているとは限らないので、メロディから考える構成と違ってきます。
たとえば「よあけの歌よ」と「心の かなしみ」で切って、「流しておくれ」から「よあけ」のところまでノンブレスでいくことは、歌だから、音楽だから許されることです。そのフレーズがのれば許されるというところではずれたような部分でもっていく。次のフレーズまで読み込んでいくことです。退屈に二つ同じことが繰り返される場合、二つめの出だしを崩すことがあります。
「わたしの心の」も音の高さが違います。最初のは四拍目が三連でついていて、次のは8分音符で三拍目の裏からついています。それはより、どちらが強くて、どちらがより大きく表現しないといけないが決まってくるわけです。フレーズをしっかりとつくれば、テンポ感もくずれないし、枠にはまる歌だと思います。
全体の印象からいうと、日本人の感覚としてはあまりもっていないものですから、求めても歌からはみ出てしまうところかもしれないです。しかし、ヴォイストレーニングの課題として設定しているのであれば、ねばりの部分が完全に欠けています。あがったり、思った通りにいけなかったり、いつもの練習していることがここでできるとは限りませんが、なるべく大きく歌った方がよいです。いつも大きくつくらないとステージのときには小さくなってしまいます。
それからつっぱねるところです。インパクトとフレーズ、あるいはスタッカートやレガートというのは、押していくということを一つの流れのなかにもっていくことです。その流れをつくろうとしたときに形にとらわれてしまう場合が多いです。それは単なる技術であり、カラオケの人でも歌えます。体や呼吸と一致していないと、計算が丸見えになってしまいます。聞いてきたイメージをそのままとってきた方が正しいです。そこで新しいものが出せたかどうかとなると、何とか無難に消化した部分が目立つのは確かです。
皆さんが今回選んだ曲も、他では歌わないような歌が多くて、それはそれでステージ実習らしくてよいとは思います。曲でも、声の出し方でも、力一杯フレーズをつけて体をつけて歌おうとすると、そういう選曲になります。しかし課題は二曲あるわけです。二曲あるということは、二曲同じように歌うのは愚の骨頂です。
本当にここの場を楽しむのであれば、二曲あれば一曲はアップテンポで走るような曲、もう一曲はゆるやかな曲など対比をつけていくのが、曲の構成です。構成にも対比をつける。何かをしないと飽きてきます。
課題はどういう曲をもってきても構わないですが、歌い方に関してはあまりひきずる必要はないと思います。かえって変えた方が歌いやすいかと思います。自分で雰囲気をつめていけるのならよいのですが、雰囲気に引っ張られるのじゃよくないです。一曲目の雰囲気に引っ張られるのでなく二曲ある意味というのを少し考えてください。
イメージを拡大していくことです。歌うときというより、一つの曲が与えられたとき、どこまで歌えるのかを考えてみてください。どこまで体を使って歌えるのかを考えてみることです。練習でかなり踏み込んでやっておけば、本番で全部忘れても体がついていきます。ここで体をつけるというのも、体をつけて歌うわけではないのです。日頃、体を結びつけることをやっていくから、そこで考えなくても体がついてくるということです。声も同じです。声を出して歌うわけではないのです。
トレーニングの過程では、一時、声を出そうとか体を使おうと思わないとできないこともあります。一つの歌になったときには、声や体を考えている余裕はないです。今はできるかぎり踏み込んでおくことです。
本番で体を全部使うのは無理です。歌でなくなります。本番のときに自分で意識しないのにしぜんに、練習したから体の力が出てくるというようなところまで、練習で大きくやっておくことです。練習で力が入っているのも、がんばっているプロセスにはなりますが、本番にとっては音楽ということでいうと、あまり好ましいことではないです。練習途中を無理にみせているだけです。それは練習でみせればよいのです。
ステージ実習をベースにライブ実習、ブレスヴォイス座とライブに近づくにつれ世界が狭まっていったらしかたないでしょう。そこから開いていくことです。少なくとも人前で三分もたさないといけないですから。
大きなフレーズをつくるのと同時に、1フレーズのなかにもこだわって欲しいものです。声で勝負する、アカペラで勝負するときには、問われることは、どこまで1フレーズにこだわれることです。「よあけ」ならそのことばに徹底してこだわるということです。徹底してどのぐらいこだわれるかということです。そこに音声のイメージが同じです。
曲の聞き方にもいろんな聞き方がありますが、まず心の部分で捉えて欲しいです。心を動かされて、感動して、動き出します。その次に耳を傾けるのです。
楽譜の読み込みの練習も少しずつやってください。迷ったときに楽譜には大きなヒントがあります。頭を使ってやるのも練習の課題としてはあってもよいと思います。そうではないと当たりはずれが出てきます。自分の感性にフィットするものは流して歌えても、それ以外のものは処理できないのも、必ずしもよいことでありません。
イメージを拡大していくことが、声を獲得していくことになります。そのイメージは声一つでも体に宿ったときに、時間がかかれば体がしぜんにその方向に動いてくるだろうということです。それをトレーニングで少しでも早くなしていくのであれば、ポジションをその時期その時期で考えていくことです。
他のものと違って、今日の正解が一年後の間違いになることが多い世界です。一年後は一年後の体で考えないといけないからです。いつもチェックしないといけないことを忘れないでください。自分で過去のイメージを否定していくことです。
イメージを拡大することは、声の使い方のヒントにもなります。そこで流れをつくるのです。流れをそのまま流してしまうと、薄っぺらくなってしまいます。流れのなかでどのくらい読み込んでいくかです。流れを邪魔したり、無理な使い方はしない方がよいでしょう。
大きな音量を出すよりも、音楽のなかに乗せていった方が声自体はうまく育つようです。要するにバランスです。時期によって各人の正解も違います。将来的に音がのってくるという声を本質的に捉えるしかないのです。
いろいろな要素があってわかりにくいかもしれませんが、自分で突き詰めていけばよいのです。正解があってそれを正しくやろうとは考えないで、自分がそのとき思ったことを煮つめていって、それなりの答えを出していったら、全て正しく統合されてきます。
トレーニングは声をしぜんに使えるためにトレーニングするのです。声を固めて加工するためにしているわけではないのです。感性をみずみずしいままで保つことは難しいことです。技術がついてくると、それに負けてしまう場合があります。
原点は初心のままであって欲しいです。必要なものは捉えていき、必要なものがついたらより感性的なものとか、流れとか音楽の感覚を磨いていくことです。自分のつけた技術や体が自分のつけた息に負けていく場合があります。
自分の世界があるとしたら、それをより大きくするために何かをやっているはずです。その何かのことと歌の世界のずれを自分で認識しておくことです。
少なくとも強化トレーニングでは、その声はそのまま歌にはならないです。その距離を自分ではかることです。
本当は歌のなかでできるのが一番よいですが、そのためには一声出したらトレーニングの声と一致しないといけないです。一致させるところにもっていくというのがここの目的です。
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【ステージ実習③「夜明けの歌」35625】
冒頭の「よあけの歌よ」が乗りそこねています。同じことを二回やってもしかたがないわけです。「わたしの心に」三連が八分音符になったり、ゆっくりになって高くなっている。体の使い方とはいいませんが、歌のスケールとしては大きくみせておかないといけないです。このなかでのメリハリをどうつくるかということが、この曲の課題だと思うのです。
ことばでもっていけるような歌でもないので、無難にこなしたというようなところです。新しいものが出てくればよかったと思います。情景とかストーリーを結びつける必要はないのですが、「若い力を満たしておくれ」という希望への変化みたいなものが表れるかです。歌って何か変わったのかというところがあるはずで、そのあたりを考えてください。
日本語でことばではめていこうとすると、はめていくことと、流してきれいにまとまるのと、どちらがよいかというのが難しいです。この場を舞台としてみるか、トレーニングとしてみるかで違ってきます。しかし、練習する以上は、ステージでも大きめにつくっていくということです。
体を使おう、息を使おうと歌わなくても、練習していてフレーズが入っていたら、体が使えてしまうぐらいに体に覚えさせておくことです。それがあってはじめて自由にできます。新しいものの感情を巻き込んだりできます。そこが舞台とトレーニングの違いだと思います。立ってみないとわからないのです。トレーニングで計算するよりは、体に根づかせておいた方が、歌としては大きく育ちます。
曲に何を入れるかということが一番の要素です。トレーニングでいったら体も声もいれないといけないということです。一つの舞台ということになれば、今もっている体も声でどういうふうに展開させるかを捉えなくてはいけないわけです。同じ時間、空間のなかで同じ曲を歌うのです。トレーニングとここでやることが違っても構わないのです。両方から考えてください。
構成に関しては、日本人の感覚でいうと難しいのですが、あまりに単純すぎます。最初に歌い出した顔と最後の顔がまったく変わっていないです。本人が変わらないと、お客さんも変わりようがないです。聞けることは聞けるので、文句をつけようもないのですが、逆にいうと文句をつけたくなるほどのとらわれ方もされないということです。
無難に終わらすことは、あまりよいことではないです。何か冒険をして欲しい、展開を変えて欲しい、何かのところで何かを盛り込んでいくべきだと思います。インパクトの問題とそこから流れるフレーズが問題です。その両方をもっと踏み込んで、もっと保たないといけない部分です。
単調で一本調子ですから、声の音色も変わらない。最初から最後まで息の流れが変わらないでしょう。ヴォイストレーニングならそれを一つの目的としてもできますが、歌の場合はそこに何かを置いていかないといけません。時間と空間の使い方が浅いような感じがします。伝わるものを置いていく努力が見えないです。
置かれたものがどのぐらいあったでしょうか。大分もったいないことをしている感じがします。何もすべてを置いていけとはいいませんが、それでもまだまだ置いていけるものがあったと思うのです。
声、体、息がバラバラになっているのはしかたがないですが、感情と声が一体化していくことです。ヴォイストレーニングは苦し紛れに歌っていたり、泣きながら歌っていたり、感情をおさえて歌っていたり、プロセスとしてはトレーニングではないところで、感情と声を一体化していくことのように思うのです。そこから声をつくっていく必要があるのではないかという感じがします。
むしろその要素で失ったものを、もう一度声に取り戻さないと人間味が出てこないような気がします。きれいにいきすぎているきらいがします。しぜん体というのとは少し違うのです。目新しいことをすればステージも少しはもちますが、それを続けるというのは難しいです。自分でバランスはわかっていないといけないというのが最大のネックです。
世の中に一回きりで出れる人は多いのですが、それを続けていける人は相当バランス感覚があります。世の中に対してのバランス感覚もあれば、自分の考え方なり、トータルでいうとその自体なり、人間の理解に繋がってきます。歌い手もそのあたりが見えてきてもよいと思います。
個々の要素でいうと固いよりは柔らかいほうがよいでしょう。固めたものよりはしなやかな方がよいでしょう。姿勢や目線に関しても、トレーニングの状態のままここにくるのはよいですが、見え方一つによって大分変わってきます。ステージに立つものにとってみたら、相手を見ない限り相手は見てくれないのです。アイコンタクトの方が大切です。
伝えるというのは、まず目にあらわれますから気をつけてみてください。目が集中しないと、歌にも集中できないと思います。下を向いていようが、横を向いていようが歌がよければよいという世界ですから。それ以上のことが出せるのなら、それはそれでよいとは思います。
表現に関しても心を動かすとか、何かを残したか、残していないかを問わないといけません。歌えたか歌えないとかというレベルはそろそろ卒業しないとよくありません。人の心を動かすというのは、気持ちよくさせるという場合もありますし、何かを感じさせるということでもよいのです。ある意味だと、不快感をもたらすということでも、何も動かないよりはよいです。
総合的な要素を課題曲、あるいは自由曲につめこんでいったときに、自分のベストでどのぐらい入っているのか考えていってください。ばらばらな要素をまとめるのに体、息、声が必要であって、そうではないところのフィーリングだけであれば必要もなくできます。そのフィーリングは本物ではないのです。
情熱でも、リズムの感じでも、パワーでもよい、そこに人間味とかポリシーとか出るのなら、それはそれでこしたことはないのです。とにかく今日やるべきことをやるしかないでしょう。同じ時間のなかで一回きりですから、その時間のなかでどれだけ濃くできるかということです。
将来的にどういう課題が残っていて、どういう順番で取り組むという設計をしていってください。長くいたり、学びすぎると、逆にだめになっていく人もいるわけです。一流のものを聞いていないと、できてくることで自分の基準自体が低くなる場合があるのです。歌いこなせて何が伝わっているかということに敏感になってください。
すでにあるものをパワーアップして、それを出し続けるという方向でトレーニングをする。そこまでは取り組んでおいて、歌のときにはどうバランスをとっていくかという問題です。真摯に学ぶというのも、時間が経ってくると、学び続けることが難しいものです。自分で課題を発見しないとすぐに中だるみをしたり、甘くなったり、元に戻り、あるいは元以下になってしまいます。自分がみずみずしくなくてはいけないです。
やればやるほど顔がよくなってきてくれないといけない、姿勢もよくならないといけないです。自分なりのバランス感覚で矯正していかないといけません。どんどん体を強くしていっても歌にはならないです。そのずれを自分で把握することです。把握した上でもっとずらそうというのはよいのです。わかっていたら戻れます。わからなくなって、そのずれているものが歌なのだという方向にすると理解できなくなります。
本当に本質的なものかどうかを自分で判断する。客観的に自分を映像で見てみる。うまく歌える方向ばかりを守ってばかりいたら、何も出てこなくなります。
ですから時期で区切るというのも大切なことです。とにかく何か相手に感じさせるというのは原則です。ひきつけること、それから感じさせられることです。感じさせるのは粘りと時間の感覚です。
同じ一秒のなかでの感覚の積み重ねです。一曲をやらないで、1フレーズを徹底的にやっている意味をつかむことです。1フレーズでの置き方や感じ方が大切です。
自分のなかで急がないことです。体の差もありますが、まずは感覚の差です。同じ一秒、同じ1フレーズでも違います。そこにあるのは心理的な時間です。これを空間という形で捉えればどまんなかでやってもらうぶんにはよいです。周辺でごちゃごちゃやるよりも、まんなかで根性を据えてとにかくやることです。トレーニングをできるための体をつくってきたはずですから、それでトレーニングをしないとよくありません。一番怖いのは自分のなかでの本質的なものや本性や真実はくもっていくことです。それが歌には敏感にあらわれてきます。
この研究所を好きになってくれる人はたくさんいますが、それよりも自分を好きになることです。どこの分野の人でも一流の人は同じ考えをしていると思うのです。何か新しいことやすごいことをやっていても、そのこと自体がバランスがとれていなければ、人は認められません。分野でなく本質としてどまんなかでやると迷わなくてすみます。
どまんなかというのはまわりを全部はずしていけばわかります。装置やマイクをはずして、体一つにしたら自分一つです。そこで捉え、さらに自分のなかでも同じことをします。するとそんなにそれていかないでしょう。自分の体のなかで捉えたものが、正しいということです。
そこで大切なのは出したものを判断できる客観的な目があるかどうかです。どまんなかに本当になっているのかということです。どまんなかをやっていたら、自分がやっていることに自信がもてるはずです。たとえ最初は反応する人が100 人のうち1人でもいればよいでしょう。その一人の人間の心にどのぐらい深く浸透できるかから問うていくことです。
練習してきたものの七、八割がここで出てもつまらないものです。練習した二倍が出るように、ものすごく大きなものをつくって凝縮して、その密度を出せるようにしてください。
人を動かそうとしても動かせないわけです。どまんなかのことを体の理にかなえて出したら人の心は動くのです。素直に先入観をもたずにやればよいです。本当によいものを聞いたときは、頭ではなく心を動かされます。その部分は全人類共通しています。
素直になって聞くということです。もっと自信をもって大きく想像しましょう。日本人がよくないのは歌うのにはこの程度だというイメージのもち方です。ワクがあって自由ではないのです。
やってきたものは裏にためて、それをしっかりと一つの作品にして提示していくことです。裏のほうでは大きくやってください。まわりからみたらきちがいみたいなほどやっていたら、ここにきたときに汗一つ流さないで歌っても伝わるものは伝わるのです。
ことばでいうと英語より深いイタリア語をやったほうが入りやすくなります。感覚をフレーズでもっていて、それを体に出す練習をするだけで、「夜明けの歌」は、楽になってきます。イメージはもっとしっかりともって欲しい。声をしっかりと使っている人たちの方が純粋に体の理にかなっているわけです。粘るというのは本当に難しいです。もっと粘ってもよいかと思います。そのために体をつけて、息を使って、声をつけているわけです。
皆さんが好きなヴォーカリストを聞いてみたら、同じ出だしのところの入り方とか、声の回転の仕方と、さりげなくやっているかもしれませんが、声そのものフレーズそのものをもっと聞いたら、そこに何か確実においていっているのがわかるはずです。なるべく大きくつくってみることは練習として、ここでやるときはすべてを忘れてみることです。こわすというのは、そういうことです。本番になったら、全部を解放してみましょう。
歌ですから、解放しないと聞いている人も心地よくないです。体をこんなに使っているのを見せられても心地よくないです。解放してみてそのとき残ったものが確実なノウハウで、本質に近づいてきます。トレーニングはそれを発見し発掘し輝かせて自分のなかにもつためにやるのです。もったいない、もったいないと全部もっていたらいつまでも歌は出せません。必要ないものを捨てるという潔さも必要です。
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【ステージ実習③「五番街のマリー」35721】
ふらついている部分は自分でアレンジしたとか、変えたとかというのならよいのですが、どうもそうではないようです。曲はしっかりとできていますので、原曲のよさをもっと生かしてください。
日本人の体を破ってそれ以上のものを手に入れる。もちろんその人の世界によってはポピュラーですから、何もそれを破る必要のない人もいます。あるいは逆にこわしてしまうことが必ずしもプラスでない人もいるわけです。
そのあたりを決める期間ということで、二年以上必要でしょう。声が身についてくる人もいれば、体が変わってくる人もいるでしょう。一年目に相当大きな声が出るようになる人もいれば、二年たってから声がまとまってくる人もいます。このあたりは指導の難しいところで、結局、本人のイメージするヴォーカル像まかせにならざるを得ないのです。その方がよいと思っています。ここばかりは答えのないところです。そういう形で大きなところから見ていると思ってください。
正しいか、正しくないかというのは歌ではなく、ヴォイストレーニングからははっきりと判断はつきます。今ある体でどのくらいまとめているかということと、今ある体の器をどこまで大きくしていくということです。大きくしながらまとめていくというのは、大変ということはわかります。
読みことばで声の進歩があっても、徐々にとまっていきます。最初は音域も獲得できても、だんだん一音獲得することに時間がかかるようになってきます。体を待つのですから声というのも、土台にのせ時間をかけて待つしかないのです。音声のイメージも、体とともに宿ってきます。半年に一音でも確実にしていくやり方がよいと思います。
「5番街のマリー」のタイトルどおり、時間と空間が見えることがポイントです。この歌の世界は時間も距離も長いです。この時代のものをこの時代で歌っても現代風にしても構わないです。
ライブ実習とかライブになるとまた違いますが、ステージ実習においてはなるだけ大きくつくって欲しいというのがあります。体のぎりぎりのところでやって欲しいです。どの程度のところまで大きくつくれているかというところも、ステージ実習独自の基準でみています。
強弱で進むことばの処理の場合は、リズム、音程、ことばの順で捉えることです。日本語はばらばらですから歌いにくく、英語などの外国語の多くは一致しているから歌いやすいのです。一致させる域まではトレーニングなり、歌の練習で、強弱からつかまえて、その感覚で歌わないといけません。
イタリア語もフランス語も英語も同じです。英語も微妙に聞いたらずらしているわけです。日本語はもともとばらばらです。英語とかイタリア語は一回統一しておいて、その上でことばのイメージのところ、音程、音感、リズムのイメージのところを一流の人ほどうまくばらしています。それが味というようなところなのです。そろそろそのあたりに踏み込んでみてください。
確実にとった上で変化させることが必要です。その変化の仕方に、その人のオリジナリティや考え方が出てくるのです。
もし、わかりにくければ一流の人がスタンダードな曲をどのぐらいのところで使い分けているか、編曲とかアレンジではなく、同じテンポで同じようなキイで歌っているのに、何かが違うかという部分を考えてください。
全体の構成も見える人が出てきた感じがします。歌をどう動かし感じさせたらよいのかというようなことです。それを全体的につかんでみてください。つかめていない人はもう一度映像で学ぶことです。
胸のポジションとか頭声の発声というよりも、ひびきとシャウトのバランスとスタンスです。簡単なことでいうと、声と息とのミックスの度合いです。
息は使って欲しい、体も使って欲しい、しかしそれを全部押していったらよくないわけです。そのあたりはそれぞれに音声的にやっていますが、それを自分でどのフレーズに対してはどういうふうにしていくかというのを、練習のなかでもっとつきつめてこないと、ここに立ったときに作品になることはあり得ないのです。もう少し細かいところまでやることだと思います。
いつもいっていますが、一曲のなかで一か所聞かせられればよいのです。その一ヶ所に100 %自分で突き詰めていって、そこのフレーズができれば、あとは前後がついてくるみたいなものです。そこに味が出る方がよいという感じがしました。
こういう静かな曲で語りかけるようなものは、役者になりきらないとよくありません。狭いところですから、自分でのまないとよくありません。その基本的な要素ができていないのは、なぜでしょうか。
日本語の処理でいうと助詞はあまり強調しないでおいていく場合と、抜いて逃がす場合があります。日本人の歌い方はほとんど逃がして歌います。そこで無理に声を出そうとする人は、あまりいないわけですが、その使い分けも考えていってよいと思います。
助詞は日本語の場合どうしても伸ばしたいところにきています。サビに入ってきたらフレーズにもっていくとか、それを過度に伸ばしたり、クレッシェンドさせたりするという助詞としての役割をとめて、再構成していくこともあってもよいと思います。
この曲も一拍目に助詞がきたり、一拍目に最後のことばで終わっていることが多い曲です。ですから出だしのところは強調できないわけです。そうするとその助詞の処理の仕方が難しいです。これが日本語ではなく外国語だったら、外国人であればノンブレスで普通の出だしにして大きく構成をつくっていけます。この曲はとても大きくなる曲なのです。
別の面では体の動きと音の安定性が欠けています。低いところは低く思わせないで、高いところは高く思わせないでやることです。それは姿勢を含めトータルでのイメージづくりです。舞台は声だけでイメージをつくっているわけではないです。自分がどういう目線を送るか顔つきをするかで声が判断されるわけです。口の向きとかでも声の明るさや、ひびきかたは違ってきます。自分のことは知っておかないといけないと思います。その意味で調整しないとよくありません。
高くなっても低いところで握っているのだというイメージを自分でつくらないといけないです。逆に低くなって声はでないけれども、出しているのだと自分で思っているとそのように見えるわけです。そこをさりげなくやって、楽なところほど苦しい顔をみせないといけないという調整が必要です。もちろんギャップを出していきたければ、誇張していけばよいのです。このこともステージやライブをやっていく人は、そろそろ考えましょう。
どちらにしろ大きな動きに流れを求めていかないと、声が出てこないです。大きく捉えるというのは基本をしっかりとやるしかないのです。練習のときは大きめにつくってその感覚は捉えておきながら、実際のときは体がついている、息が流れている、歌詞が考えなくともすらすら出ていく。その段階になってはじめて細かいところに神経がいくわけです。独りよがりで歌ってもよいのですが、ライブであったり、お客さんがいればそちらにほとんど神経を使ってしまうわけです。そこまでのことは体に入れて人前に立たないと難しいでしょう。
オリジナルに加工したり変えているのはよいことです。人と違うことをやればやるほど、あるいは変に見せていけばいくほど、基本の技術は問われます。その技術を見せられるような形に変えないとよくありません。やりたいことはわかりますが、変な上に技術がないと最悪です。確かな技術のあるところで勝負しないとしかたがないのです。
大体は音が届かないから下げようとか、伸ばせないから短くしようとか編曲すべきなのです。ところが逆のことをやる人がいます。できないことはさらにできなくしているのです。それは自分を知らないことを表している以外に何でもないです。自分で歌をこわしてもしかたがないのです。オリジナルを変えてやるということは、原曲よりよくないといけないということです。自分で確かな技術でみせられるのが、よりよく変えたのだと考えられないのなら、元通りに歌ったほうがよいです。
キィの設定は低いところは無視して自分が張りたいサビのところが一番張れるような音域で設定することです。低いところは時間だけで何とかもたして、サビのところで聞かせるというやり方をすべきです。どこにもメリハリがなく平坦にやるよりはよいです。自分の出せていない1オクターブにそのままあてはめても表現できません。
声に専念するのはよいですが、舞台ではそれはあまり見えない方がよいです。伝えるという意志や、伝えようと努力していることが見えることはとても大切です。二曲あるわけですから、その二曲の意味を自分で考えてください。トータル的な意味で自分の幅をみせないとよくありません。
この人にはもっといろいろな世界があると思わせることです。それが限定され決まってしまうと損です。なるべく一曲目と二曲目のイメージは変えることです。二曲あると何らかの差をつくった方がお客さんもあきないでしょう。自分のなかにある違う面をとり出しましょう。
すぐに歌い出すのは構わないのですが、心と気分を一致させたところに入ることです。スタートというのは自由にできるわけです。それがアカペラのよいところです。また間奏がありませんから、自分は一番ふみこめるところでふみこまないと、そのままずるずる流れてしまいます。時間と距離がポイントです。
歌に関わらず、このステージで自分の時間と空間をキープできるか、コミュニケーションをとれるかというようなことです。そのために歌が平坦にならないように盛り上がりをつくることです。盛り上がりでみせて、落とし込んで、そして安定させるということです。どちらもできないのであれば、盛り上がりだけだけでもよいし、落とすことだけでもよいから、とにかくここまでできるというようなところを出してみることです。
フレージングの立体的な見せ方というのは、直線的にならないことです。ぐいぐいとひっぱっていき、ひきずらないようにするためにはどうしたらよいでしょうか。
英語は日本人に不利なのは、それで生活していませんから表面的なことば以上に伝わりにくいのです。それで生活していなくても自分の身に入っているようなことばを日常からつくっていくしかないです。日常の生活のものでないと、微妙なニュアンスはでないと思います。
声をつかんで、心と声が一致して、その声が動くのをまって、動きたがっているようになってからもっていくことです。これが原点です。あとはイメージを思うだけでよいわけです。思うだけで表現されているのがよい歌なのです。自分でどうしようかと見えてしまうとよくないのです。
逆にいうとすべてのパターンをやってくればよいわけです。全部つぶしてくれば決まってきます。すべてやってきたら、本当にやれなくなってきます。自分の評価眼が高ければ、自分のなかで判断がついてくるはずです。それで最良のものを組み合わせてくるというところまで煮つめてきてください。
二年のなかでどこまでを目的にするのかは人それぞれ違います。器をこわすことを二年で目的にしている人もいますし、歌をつくることにしている人もいます。歌を歌うことをしている人もいます。それはその人の頭での正解となります。
ここが目指している音楽というのは、息を吐いたら吸いたくなる。怒ったり泣いたらしばらくは放心状態になる。動いたら休みたくなる、といったようにもっと自分の感情とか動きとかの部分と声を直結させるところから出てくるのです。
歌の世界に入ったときに、それだけのものを大きくつくっていくことは必要です。そうしないと歌のときにまとまってしまうのです。狂っている部分、鬼のような殺気の部分が必要です。そうしたら堂々とのびのびとやれると思うのです。
誰よりもやっていたらそれ以上自分にはできません。あとは自分の能力がどこまであるかは時間をかけるしかない持久力の勝負です。粘り勝ちということです。それ以外のことはないから、結局そこにいくわけです。自分で悪循環を作っていかないことです。
歌を歌ってみても、ほめられたり、けなされたり、いろんなことがあってストレートに受けすぎてしまう場合があります。すべてよい方に解釈すればよいのです。ここでやる以上のことができないとしたらやるだけのことをやって、後はそれが落ちてくるのを待つしかないのです。そうしている間に身につくものは身につきます。
もっと過激にとはいいませんが、声や歌でいろんな働きかけをやって欲しいです。日本人の音声表現では、たたきつけるとか相手の心に焚付けることが身につかないのは、そういう過激な気持ちがないからです。それが芯にないと音楽が成り立たないです。
相手がぶっとぶということを歌でとはいいませんが、一つのベースだとは思います。絵でも何でもアーティックなものは、ある一線を越えた過剰さが相手に沈黙を強いります。美しいとか、きれいとか、うまいとかいわれるようなものでは何の表現力もないわけです。
それだけのことを表現しようとしたら、自分にのめりこむのはあたりまえです。表現する何かがあればそれをつかんでいけばよいのです。表現する何かが自分をして表現せさしめているようになることです。それを音楽ということでやるなら、歌の正体なるものをやっていくことです。
ステージの感覚を出してください。役者の感覚でもよいし、バンドの感覚でもよいです。そこのところで思い込みをどんどん強めていくと何かが出てきます。思い込んで一番危ないところは、それが本当に自分なのかどうかということです。
自分の体と自分の声で、つきつめることをやらないといけないです。何となく好きだということと本当の自分の好きは少し違うのです。それがなければいろんなものを聞いたり、叩き込んでいれることです。それが自分の音となり、自分の歌となっていくわけです。そうでないと不しぜんなものになってしまいます。
トレーニングは不しぜんなものですから、しぜんにできるために不しぜんにやっているわけです。目的はしぜんにするためであって、不しぜんを突き詰めるためではないのです。何も考えないで、もっとしぜんにやるために強靱な力が必要であり、体と息が必要となるのです。ややもすると何かに憧れて、目的を不しぜんにおいてしまう人がいるわけです。それは近づいているように見えますが、どこかのところで限界がきます。
あんなアーティストになりたいと目指すことはよいのですが、自分と同じところの共通の部分だけをとることです。あとは捨てないといけないのです。自分の創っていく世界を優先するのであれば、あきらめないといけないところは確実にあるわけです。そうではないと物まねになっていきます。自分の体を確かめ、音を確かめ、それで感じてやってください。
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【新入ステージ実習 368】
2年間のなかでどういうことをやっていくのかということです。スタ-トラインに立つということがどういうことなのかということを確実に捉えていって欲しいと思います。はっきりいって2年以内にスタ-トラインに立てればよいと考えてください。それは、歌としても声としてもです。しかし、まずは表現からです。
基本的に2年の間に大して差がつくわけではないです。2年たったら声が完成して自由自在に扱えるわけではないです。一つのものごとを極めるのに10年かかるとしたら、2年というのはその10分の2です。どこの世界でも10分の2と10分の1との差というのは、そんなにあるわけではありません。
ただ今日やった課題のようなことを突き詰めてやっていくと相当力がつくでしょう。そのなかからどこまで当人が選択して吸収していくかということです。
皆さんは手に入れることができることは、手に入れないといけないし、一つの武器を用意していくというスタンスは大切なことです。だいたいみていると、2年たって声ができあがったから歌がうまくなっていくということではなくて、声は相変わらずでも(-入った時よりは相当できてても-)声の使い方とか使う表現力の大きい人が勝ってきます。それは伝えることがある人、伝える必要のある人だからです。
それはもうしかたのないことで、ヴォ-カルというのはイコ-ル人間力みたいなところがありますから。そういうことも一つの声をしっかりと伝えるというなかで感じていってください。
こういう世界はなかなか学ぶのに難しくて、実際やってみると何か違うという形になりかねないのです。ヴォ-カリストでもア-ティストでも、一流になりたければ、一流のヴォ-カリスト、ア-ティストをみて学んでもらうのが一番早い方法です。しかし、そのまま上っつらだけまねてもしかたがありませんので、自分とはなにが違うのかという違いを突き詰めていくことからでしょう。
場に馴染んでいくよりも、その場をつき破れないと何の表現もでてきません。日本人の悪いところで、場が設けられているとそのなかで荒波をたてようとはしない方向にいってしまいます。その部分を突き破れないと結局、何の表現も出てきません。このことを私は1年位くり返していっています。
がんばっている人しか表現しなくなってくるとわかりやすくなってきます。こういう場というのは、落ちこぼれも先に行くもないのですが、とにかく出てこないとよくないのです。この位のなかの型は破っていかないとよくないです。皆さんで破っていくということではなく、一人で破れることです。
ここに水があったとして、あなたに飲む気持ちがなければ無理に私が飲ませるわけにはいきません。自分で生きて表現して欲しいと思います。死んだ状態でも私が息を吹き込むことが役目なのかもしれませんが、自分で表現していくのが基本だと思います。
それから、ステージ実習もいわゆる“舞台”ですから、今すぐにというのは無理かもしれませんが、少なくとも人前にでる場がセットされている時には、その場を楽しむ力をつけていくことが大切です。勉強していけばしていくほど難しくて、だんだん苦しくなったり、楽しんで歌ったりすることができなくなったりするかもしれませんが、まじめに考えすぎると、どんどん楽しめなくなってしまいます。
人前に出ることをこれは、うまい、ヘタではなく、サラリーマンやOLの人でも楽しむことはできます。基本的に人前に出る場の空間があって、そこで音と歌と、あるいは声とたわむれられなくてはいけません。それを自分で固めてしまって、「今日は試験の日」となってしまうと、皆さんの嫌いな歌いたくないイメ-ジの方になっていってしまうのでしょう。
自分のやっているいつものバンドと一緒だという考え方でやってください。バンドの演奏とは違うんだというのは狭い考え方です。自分の一番よいところ、よい要素をここで問うてだしていってください。そうでないと、皆さんが主役でやるという意味がなくなってしまいます。
人前で歌うということは、別に50人、100 人の客がいなくても10人の前であっても同じです。この様な場の方がやりにくいと思います。こういうやりにくい場で鍛えていくというのがトレ-ニングの基本的なメリットだと思います。
初心に戻って、それでがんばっていけるだけの思いを呼び起こしてみてください。今日発表したことは、ここに入ろうと決められたときの思いとずれてしまったのではないでしょうか。その思いをもつことで、最終的に壁をつき破っていく原動力が得られます。「トレ-ニングしなくても歌える」となってしまったら、もうトレ-ニングは必要ないわけです。自分で基準を高くして、このなかでいろんなことを吸収していくことができるかということでの違いです。
今、人様並に人前で歌えなくても一切気にする必要はないです。ただ、自分でやっていかないと、いつまでたっても変わっていかないということです。
歌が難しくなるというよりも、本質を捉えられるかどうかがすべてだと思ってください。有名だとか人気があるからということで本質のところで歌っていると判断されるわけではありません。どこか他の意味での本質が、その人を助けていることはありますが、それはここでいう本質ではありません。
今のはやりとか、タレント性とかそういうことを目指すのであれば、それはそれでそこにも本質があるし、時代の本質というのはあります。ただ、声や歌の本質を突き詰めていくということであれば、自分のなかにあらかじめ本当に伝えられる声や感情があり、外に出せば価値のあるものがあってそれをどうやって発見していくかということになります。
私の思うヴォイストレ-ニングというのは発声を学ぶのではなくて、歌なんてややこしいものの前に声そのものに宿っているものを突き詰めていくということです。人間の体がそうつくられているから、トレ-ニングをやっていく人は声が出てきます。やっていかない人は声が出てこない。だとしたら、やっていけばいいという単純なことです。歌は難しいと考えれば難しくなりますし、簡単だと考えれば簡単になります。ただ、簡単に考えられる体なり声になった方がいいのではないかということです。
それから、コトバのウソという問題はありますけれども、絵であれ歌であれ舞台のなかで描かれていく世界は今日の表現も含めてこれはもう虚構の世界であって人間のなかで何が真実で、何がニセモノかということは難しい問題なのです。最終的にはその人そのものの本質がストレ-トに伝われば人は感動しますし、魅了されるわけです。
カラオケがうまい人、のど自慢のうまい人はそれなりに勉強しているし、技巧をありますが、何かのかりの姿であり、カリモノですから、そういうものに支えられていると、ストレ-トには伝わらないです。「あっ何か。アレっぽい」ということになってしまいます。
しかし、日本のお客さんというのは“それっぽい”ものを見たがり、芝居くさいもので満足する人が多いから、なかなかわからないのです。
もし皆さんがヴォ-カリストとしてやっていこうとしていくのなら好き嫌いという前に、まず何がすぐれているのか、すぐれていないものとは何なのかということをみきわめていかないと、のびていくことができないです。だからヴォイストレ-ニングでは、発声とか歌というよりも、基本的に身につくことの決め手となるのは、そういう部分です。
思いがあって、そのまま歌っていたらそういう要素が身につくという人もいます。歌ですから、ことばを使わなくてもよいわけです。ラで歌ったり、エ-で歌ったり、ことばで歌っても全然構わないわけです。それが、ことばの壁を破れることなのですが、ことばを使わなくても楽器なみに伝えられるだけの音声イメ-ジとか、声の使い方というのをきちんと自分のなかで捉えていかないと、通用しません。
表現されたことというのは虚構ですが、ある意味では真実のことです。その人の心のなかはホントで、表現されたものはウソだという立場をとってしまうと、世の中動きようがないです。何かを表現した、そうしたら、それをホンモノとして動いていく。あるいはそれにリアリティを感じていく。そういう世界がアートの世界なわけです。
それが衝撃であり、何か表現された中に感じるリアリティです。そうでないと、歌詞なんて全部ウソになってしまいます。歌い手の真実と、それを伝えて受け取った人間がリアリティを感じるところの真実とは違います。歌い手の場合は自分のイマジネーションで受けとり与える。そういうところでアートは成りたつのです。コトバをそのままいって、そのままのコトバの歌詞を解釈して感動する人というのはたぶんいないでしょう。
ここでは、時代がどうあれ、世界がどうあれ基本的に先に一歩進んでいる状態、未来ということを考えていきたいと思っています。日本人であるということと、外国人であるということには別にとらわれずに国際人として、人間として同じという立場のなかでヴォイストレーニングを伝えていきます。だから、それがカリモノにならなければよいわけです。
かつてゴスペルというレッスンを設けたとき、歌い方はうまくなってくるし、歌としてはうまくなる。カラオケで1曲歌えない人がなんとなくゴスペルを歌ったらそれっぽく見える。
ただそこでそういう歌い方を許してしまうのは難しい。それは外国からすれば3流でも4流でもないもの-教会の隅っこに加えても目立たないくらいなもので、一人でゴスペルを歌ってめずらしいからと見られているくらいでは、真実ではないのです。
歌1曲歌えるということとそこでホンモノが出るということは違います。ただ、ゴスペルであれジャズであれ、それを日本人が日本人としての表現をもてれば本物になるし、あるいは向こうの人間と同じスタンスで表現をもつことができればそれはそれでよいわけです。
間違ってはいけないのは、プロである限り人前でやる以上、外国人に笑われてしかたのないような英語や歌を使っていては何も意味がないわけです。7割くらいの方が英語で歌っていますが、自分の国のものでないものに対しては、その国の人たち以上に勉強しないと何も伝わりません。ニセモノだということしか伝わらないのです。
いろんな動機で入ってこられる方がいますが、一番最初に出して欲しいのは舞台が好きで好きでたまらないとか歌が好きで好きでたまらないとかそういう情熱です。最終的にはその情熱に、ノウハウとかトレーニングなんか負けてしまうところがあります。その情熱がからまわりしているようではダメだということであって、その動きとかモチベートは自分のなかで高めていって欲しいです。
一所懸命やってうまくいかないと、嫌いになっていくということもありますが、そういうことも含めて好きなのか嫌いなのかというようなことは聞いている人間に敏感に伝わります。ステージのなかでも特にそうです。アーティストやタレントはそういうことが好きでやっているんだし、好きでやっていることは歌がうまいとかヘタとかを超えて、見ている人は喜ぶしそれをみてよかったなと思います。だからそういう要素さえ見えないのに声をいくら極めたってしかたがないのです。好きでこだわるサービス精神の世界なのです。
材料はなんでもよいのですが、今回の「赤とんぼ」のなかで、基本的にこの空間のなかで自分が声を出したり、一人で3分間、心に感じてみたり、声をきいてみたりしてください。「赤とんぼか、嫌だな」というふうに考えないで自分がそのなかでどう表現できるかということを問うて、それこそ楽しむことです。
この課題は音域的にも広いし、表現的な要素を考えてもトレーニングや歌として考えたら、難しいです。だいたい設定でもされない限り、絶対やらない歌でしょう。そういう曲から気づいていく方が、気づきやすいのです。
何か一つでもつかめれば、それが大きなものになって自分の身についていきます。自分が好きな音楽や、やっている歌というのはここでやる必要はなく、自分でやればよいのです。先程もいったように、声とか歌とか言葉のなかの本質とか人に伝わる要素、自分の心を動かすような要素を学んでいくことです。
本質、つまり聞いている人が魅きこまれる要素というのは、ヴォーカリストだったら誰でももっているものです。ベースの部分に通っているものです。それ抜きにしてこういう世界は成りたちません。
プロと皆さんとの一番違うところは、消化の具合です。一つのことをやるのにどのくらい準備しなくてはいけないかという心がまえが全然違います。 500回1000回と歌ってステージ実習に臨むのがあたりまえです。技巧とか声とかいう前に覚えただけで臨むくらいだったら意味はありません。勉強になりません。
曲が何曲あっても自分の曲をどんなに歌っても、そこから学べるものと、それから他から何か曲を与えられたときにそこでどのくらい自分の力をためせるのかというのは違います。中途半端な状態で構えてステージ実習に臨んでも損するだけです。こういうところは一人立ちしてやるのがあたりまえです。それだけの回数をやってくる、煮つめてくると、やっぱり何かみている人に伝わるものが出てきます。
その辺を自分のなかであきらめると勝負できずに終わるし、これからの二年間みえてしまうわけです。そのうちトレーニングもしなくなる。レッスンに出てこなくなる。そういうことにこちらとしては責任はとれません。結局一つひとつのことを自分でくみとって、吸収していけるかどうかということがトレーニングの目的なりプロセスです。
今の若い人はパッパッと自分のいる場を頭で判断していきますが、その判断を低レベルの所でやるからよくないわけです。たとえば私の声のレベルが目的ならばそれを超えるまではいかなくても、同じことができるようになったら、ようやく一つの役割は終わるというくらいに考えるべきです。
たかだか声一つにしても歌一つにしてもそこで勝負しない以上、まわりの人とみくらべてみて、「まわりの奴ヘタだな-」くらいでレッスンにでなくなってもしかたがないことです。そういう考え方だと、皆さんと同じようにやって、皆さんと同じようにダメになります。それだけの、パタ-ンです。なんとなくそんな感じが見えているので、警告しておきます。
あとは素直にやっていくことです。別にこの場に尊厳をもつ必要はないですが、自分がやること、自分のステ-ジに対してプライドと敬意をもつということ、そして、責任をもたなければいけません。今日のステ-ジも本来はその責任をとってもらわないといけないわけです。ただ、ここはトレ-ニング場だし、皆さんがお金を払って習いにきているところです。お客さんからお金をもらっているわけではないから、誰一人文句をいわないで終わってしまえるわけですが、それだけの心構えでやっていては足らない世界です。
それがスタ-トラインに立つという最低限の条件です。単にここに通っていていわれた通りにしているから、身につくわけではないのです。かといってどこか他に行ってそこに通っても身につくということでもないです。皆さん自身が動かしていかないことには何も身につかないものです。
カンツォーネを選んでいるのも、到底できないような曲にとれくらいたちむかえるかと、またそういう曲を聞いたときに何を感じられるかというところを問うためです。日本の曲と外国の曲と交互にやっています。カラオケみたいな形になってもしかたがありません。そこで声も聞きます。フレ-ズも聞きます。それから外国語と日本語の違いも聞きます。レッスンでやっていることはすべて聞きます。そのなかにすべて入っています。
そこで差を感じてその部分をどれくらいつめてこれるのかということにアタックして欲しいものです。キレイに歌えてそれで終わりということでは「赤とんぼ」も「ヴォラーレ」も意味がないです。歌にすること、それが必要です。そのなかでオリジナル性と歌っていきたい方向性を出していくようにしてないと、いつまでも見えないまま過ぎてしまうのです。そうすると、やはりスタ-トラインに立てなかったというふうにしかみえないわけです。そのことを自分で問うていってください。
誰の声でもない、皆さん自体も自分で気づいていない自分のなかの本当の声、それからその声で伝える歌、歌い方、それを全部一致させていかないといけないから難しいです。考えていかないとしかたがないです。そう考えている中で一つひとつの機会を大切に捉えてそこで勝負していかないとどこで勝負するのかということです。
いろいろ人それぞれの考え方があってもよいと思いますし、私のいうことをそのまま受けなくてもよいですが、少しでも私と同じ土壌で、捉えていけるようにならないと、2年たっても何も変わらないでしょう。ア-ティストのアの字も知らないのに、ア-ティストだとか、自分は自分だといってしまうと、なかなかものごとの身につくプロセスの考え方ができなくなってしまいます。そういうことをいつも通りですが考えました。
課題曲に関しては、私もギャップは感じています。ただそのギャップを埋めてくれるくらいのことを、それこそア-ティストならやってもらわないといけないのです。そのギャップに気づかないで2年たつよりは、3ヵ月でそういうギャップにどんどん気づいて、表現できるものを吸収していくことです。そういうことで通用していくようになるわけです。通用しないのは課題が悪いわけではなくて、感じる自分、出せる自分がないからその部分に力が足らないのです。そういうふうに引きうけていかないと、この先の課題も歌になっていかないと思います。
月に一回は、たいへんだと思いますが、本来なら毎週、あるいは毎日のように人前で5曲くらいは歌えないといけないのです。皆さんが目指す世界はそういう世界です。このくらいでまいらないでがんばってください。
しっかり反省してみて次の課題へ移っていってください。そして自分の課題を作っていってください。その課題を作らないと、これで打ち上げにはできないわけです。今回気づいたことを次の月に課題にしていかなければいけないということを忘れないようにしてください。トレ-ニングですから、これが完成ではないです。おわかりでしょうか。
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【ライブ実習「帰り来ぬ青春」361014】
ベーシックな踏線で、比較できる実物がいるとわかりやすいわけです。耳で聞いてそれを体でしっかりと表す。それだけの世界で、それをしっかりとやればよいのです。余計なことをやらなければおのずとオリジナルティが出てきます。そこが読み込めないから、コメントが必要なので述べます。
気になったのは、ピアノとの呼吸です。いつもリハに充分な時間がないのですが、リハにやっておいて欲しいことは呼吸が合わないときも、とりあえずこの方向に引っ張るということをピアニストにわからせてやることです。これは人によって違います。
引っ張っり方も乗せ方というのも、それをピアノに合わせてとか、呼吸が合わないというのでもたついていると、リハが終りません。それまでに自分でしっかりと明確に方向性を出していくと、所詮、今日みたいな曲になってしまいます。ピアニストと役割というのは補助的な部分になります。それが気になってぎくしゃくして、逆にそれでくずした人もあったような気がします。
後半の方はペースが見えてきたのですが、自分のペースというのがあるわけで、それを絶対くずしてはいけません。当然バンドに合わせるとか、ピアニストに対応するというのもありますがそのまえに自分が定めた絶対、守らないといけない間合いとかベースがあるはずです。それをしっかりとわかるというよりも、わからせないといけないです。バンドやお客さんに対して、それをくずしてしまったら息苦しくなります。まず欲を全面的に出すことです。まだ目線とか顔つきとかが気になります。
息をまぜたり、ノイズを出すのもよいのですが、しっかりと音でとること。その辺を何か表現を考えてやわらかく歌おうとか、ひいてはいけません。トーン自体がやわらかくなるのはよいのです。ただ、それを媚びてあるいは媚びるつもりもなく、感情表現だということでひいてしまうと、だらしなくなります。
当人はそういう気分で気持ちよく歌っているのかもしれませんが、最後までたらたらといってしまいます。音楽にもけじめというのは大切です。最初のけじめというのは入り方のところです。それからそれをどう表現するかというのは、この曲の難しいところです。その心地よさのなかに自分でひたる部分は当然、必要ですがそれは練習でふんでもらって、ここにくれば当然、突き放してまえに提示しないといけないです。
それができるかできないかというのは一つのこういう場で商品になるかならないかということだと思います。しっかりとできた人もいますが、煮詰め、凝縮が欲しいと思います。流していてもつ歌ではないです。シャルルアズナーブルのを聞くと何となく流しているように聞こえますが、全然、違うわけです。当然しっかりと構成しています。すきがありません。それから、相当、大きな歌です。歌の大きさを知ることです。
私がこれからいうことをそのまま体現したもの、それがわかったら、いうことでもないという感じがします。フレーズ、メロディ、音感での差も出ます。正しい人、正しくない人、いいかげんな人、いいかげんでない人。進行と展開も難しいです。そこまでの問題は解決しておかないとよくありません。ここで出すのは、そんなレベルのことしかたないのです。ピアノの音を巻き込むで吸いあげていく感覚とか、ハーモニーの感覚です。それはいけないようなそれ方をしているような感じがします。
そういうことならぶつけていってもよいです。ぶつけていく歌い方は、必ずぶつけたあとに離していかないといけません。そうではないと最後まで単に退屈しゃべりまくっているという歌で終わってしまいます。これは、大きなフレーズのところで構成しないといけない。だからこの曲のよさを、捉えないといけないと思います。
これは課題曲ですから嫌いだと思っても、これに何を感じ、何を表現したいのかというのを、今さらまでもないのですが、やはり出てこないといけない。いつもいえるのは、特に自由曲で目立ってしまうのですが、顔の表情もそうですが、声の表情の展開がとても乏しい。結局、笑った状態にならないと、そういう顔も出てこない。この曲は笑う曲ではないのですが、それに近いようなところ、それを笑い抜けてしまったところに到着したところに、一つの芸の落ちつきというのが出てきます。
それからピアノの感覚をずれたところにどうフォローするかというのは、、見えていてそれがうまくできた人もいますし、逆に混乱してしまった人もいるような気がします。ただ、何を考えているのか、何を伝えたいのかわからない人はよくないと思います。中には不快なほど音が定まらない人もいました。コードのなかで、その音をとらないと難しいのです。だから大きくつかまえないといけません。
ただ、そのことは徹底していくには音に対してとるのではなくて、表面よりは浮いているところで感覚の部分に対してあてはめていきます。そうしたらそれようがそれまいがよいわけです。
所詮ヴォーカリストというのは、できている人にとっては失敗はないわけで、やりたいようにやってみたらそれは作品になるわけです。ここで張りあげたいと思ったら張りあげればよいし、弱めたいと思ったら弱めればよいわけですが、ただそのまえに条件を組んでおかないといけない。
それは器の大きさとか、解釈力、耳のよさというのがあります。声のトーンも大体モノトーンで最後まで同じ単一のトーンでいった場合がどうしても多いようです。それは少しずつ変えたいと思います。ただ、展開デコレーションの練習ばかりしていると、したの線が消えてしまいます。その線は活かさないといけないから。ちょっとしたことばや音それに息のおき方によってずいぶん違います。
それからひびかせていて低音に入るときがうまくいかなかったりします。そうしたら声で落とし、シャウトしてしまうとかよいでしょう。かすれ声でもよいから、とにかくことばを伝える方を優先します。そういったいろんなことは、バラバラではできなくなると思うのです。
それからもう一押しということ、特に自由曲に関しては全然、足らないと思います。もう二押し、三押しぐらいしていかないと、よいところも伝わらないと思います。そこがサービス精神です。そこの部分を出すから、普通の歌で終わらないというぐらいに考えるべきではないかと思います。
この曲のよさというのは、やはり聞き込んでいかないとわかりにくいと思います。アズナーブルみたいな歌い方をされると、余程、音楽的にいろんなものを聞いている人ではないと、どこがポイントで、どう歌いあげているのかということが見えません。そこがプロなのです。
結局お客さんを熱くすればよいわけです。その伝えることを凝縮する。もっともっとことばを噛みしめておくとよかった気もします。もっとメロディとか構成の流れというのも、大きくとれたのではないかというような感じがします。それをぎりぎりでやっている人に対してはよく見えます。
どこが課題になっているのかということも見えます。それから外れたけれどリカバーしたというところも見えます。
大体、意志の強さとか伝えたい欲が強いとリカバーできるものです。当人は失敗したと思って聞いている人には、私みたいな聞き方をしない以上は、まず無難で終わっているはずです。
たとえば比べて初めて「イ」の深さが全然ないとか、音がうまくおさまらないとか、そのために大きな線が消えていって、また新しくつくり直しているとか、そういう小細工っぽいのが見えてくるわけです。
それを急に変えろというのは無理ですが、そういう課題を自分のなかで考えていけば徐々に変わってくると思います。そういう課題曲を歌うのに何がすぐれているのかを見ること、それを消してしまうと難しいでしょう。それに気づく、気づかないというのでは、半分ぐらいの人は気づいているような気がします。それと大切なのは自分を通したら、どうすればもっとすぐれるのかというところを出さないといけないです。
完璧にやろうとすると欠点が目立ってきます。それはパワーと意志でやぶれかぶれにやっていく表現法もロック、ポップスの場合は許されています。それでもよいような気がします。
あとは音色そのものにいろんな表現がついてくるのはよいと思います。日本人らしくひびきをやわらかくしてみて、そこに思い込みをいれるようなものもあるし、欧米的にもっと音楽的な形のものを、息とまぜてハーフトーンにしてもっとやわらかくするとか、いったものもあります。歌をまとめていけばいくほど、息をうまく使っていき、その息をひかないとことです。これは気をつけてください。
日本人の歌い手がどんどんスケールが小さくなってしまうのは、息を出さなくして声を殺すということを覚えて、どんどん体が使えなくなってしまうのです。その方が楽です。尻あがりにしてふわっと浮かして、そこでそれっぽく抜いてしまうと、日本語というのは語尾を強調すると汚くなってしまいますから、きれいに聞こえます。
ただ、そのときに息の線をとか、大きな体の線をこわしてしまうといけないと思うのです。思い入れて泣きになっても、その音が金属音みたいになって、それで感情が伝わるも、表現がもつものであれば、堂々とそれをまっすぐと出していってよいと思います。
日本人にとっては目障りかもしれないですが、ただ、こういうプロセスをおくことです。ただ、お客さんを見ないとそれていく場合もあります。そういうのはなるだけ鋭角的にやっておいて、構成をしっかりとさせるということです。日本人は大体あいまいにしてしまいます。日本人はふにゃふにゃとさせた方が情感が込もっていると思いますが、感情を構成のなかで聞いていくには、それはまどろっこしいような感じです。フェルマータなのに、単に音がふらついているようなのはよくないでしょう。
歌詞の「残さないで」の「ないで」というところの「な」をどういうふうにいうか、あるいはそういうふうにおくかというだけでも、違ってくるわけです。それを体の方に覚えさせていくのです。頭に覚えさせもしかたないです。
3分間のなかで体が動かなくなってきていく人がいます。一番目がよくて途中がピークで、そのあとがだんだん詰まっていく。それは3分間の集中力とともに、解放できる状態を維持していくことができていません。途中で動かなくなったら動かすしかないです。大切なことです。歌の方に引っ張られて、歌っているつもりが歌わされてつもりになってしまうと、そのときにはお客さんの心は当然はなれてきます。
歌のなかですきがあります。お客さんがいたら何となくすきが消えていって、うまくまとまっていく方向にそれっぽく歌う方向になるのか、逆にそのためにごまかしていくのかわからないのですが、ここでもお客さんがいるという覚悟で歌って、すきはつくってはいけない。3分間のなかで体力がもたないとか、少しでも気が欠けてしまうと、歌ですから直接出てきてしまいます。せっかく出だしをしっかりと歌っていても、あとの方でできなくなります。見を惜しまず、全身で一つの音、ことば全てで表現をおいていくとそのことに価値をもつ生き方がないとこれ以上、伸びません。
同じトーンのまま最後までいってしまうというところは、もう少し展開できないかということです。
たとえば呼吸というのがあります。これはまえのフレーズと次のフレーズをブレスがつなぐわけです。当然やわらかく歌っていたり、ゆっくりと歌っていたらそこで呼吸はゆっくりになります。次に早く出たいというなら、そこでははやい呼吸になるわけです。
あるいは感情的に歌っていて、リズムに乗って歌っているときに呼吸というのは早くなるわけです。それで接続するわけです。そうしたらその呼吸を一つ変えるだけで、次のフレーズの生き方とかそういったものも変えます。接続詞をいうのは、まえのフレーズの結果をしっかりとまとめるというのと共に、一つのことを歌ってそこでブレスする。このブレスがまえまで何を歌った、どう歌った、どう歌ったというところを教えると共に次にこう歌おうということを予測させるわけです。
日本人はそういう聞き方をしません。歌っているところしか聞きませんが、歌っていないところの聞き方ができていません。歌っているところしか出せていませんが、皆に対しては歌っていないところの聞き方を相当やっているはずです。小さなところの展開は必要ないのですが、もっと大きく捉えたうえで音色やトーンの展開ができる感じです。
ただ、難しい課題なので、また1年、2年たってみたときにこういうのは結局、1カ月や2カ月でこなせるものではなくて、いやになるほど半年ぐらい歌ってそれから3年ぐらいおいてみて、力が抜けたときに歌うとよい味が出てくる歌なのです。すぐに完成する歌ではないです。それからイタリア語で歌っている人が随分いますが、英詞の方がのりやすいかもしれないです。日本語は難しかったかもしれません。そのへんはまた研究してみてください。
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【ステージ実習② 96722】
この前、読んでやった後に例に取りあげた曲ですが、かけたのは別に大した理由はないです。朝は、ゆりかもめに乗って、シンポジュウムに出てきました。そこに、友寄さんという人がいて、この方とは10年らいの知り合いですが、何年かまえ四万ケタの円周率を暗唱というので、ギネスブックをとった方です。もともと一万五千ケタで世界記録で、そのあとに二万ケタ、ソニーにいらっしゃったのでよく存じあげていますが、そこでご挨拶をしたら、このまえ四万二千ケタで破られたので、それでさらに挑戦しているそうです。今、五万までできたということでちょうどキリもよい。そこで私は「破られたとき、どんな思いをしましたか」と聞いたのですが、ソニーを引退されて、高齢の方ですが、うれしかったといっていました。それで今ワクワクして充実しているそうです。
別に円周率のケタを覚えるのが偉いということではなくて、歌も、そういうものという気はします。合宿から帰ってきて、合宿時も今回は珍しく仕事はしないで、たまにはコミュニケーションをということで毎日、3時頃までミーティングをしていました。
やはり、何事も絶対量が違うということが第一です。絶対量というのは時間の量です。
これが入っていない以上、出てこないという方が無理だということが、はっきりわかってきました。だからそれだけ特殊な人が、一方にいる、ヴォーカリストというものも特殊な人だと思っているので、その差をどういうふうに詰めていくのかというのです。
今回の合宿の課題では、皆さんにノートをつけてもらい、過去のことを振りかえっていくということをやりました。やはり、伸びる人は、難しいことをやってきているわけです。ベートーベンの構造分析とフィガロの結婚と難物をやっていたわけです。理解できていなくとも、ただそういうものに取り組んでいるものから得てきている栄養が正式な判断眼、何かをオンにしていくものになっていると思いました。
今日、行ってきた会もそうですが50、60才まで本当にまじめに生きてきた人ばかりなのに、前にいて話すメンバーというのは、みんな世の中をチャカして楽しんで生きてますので、やはり波長が合わないわけです。結局それでどちらかで生きていくかということでは楽しい方がよいし、お金を払って行くよりも、お金をもらって行った方がよい。
だから一番、心配しなければいけないのに、みんなで同じようにつまらなくしていくような流れができてしまうことです。今回の合宿で考えたのは、勝ち戦さを覚えさせなければいけないということです。それが前提となって、研ぎ澄まして力をつけたから勝負に勝っていくということを、小さなところからやっていかなくてはいえないです。
それが失われたままきて、ここでコメントをすると、ダメだ、私はダメだ、歌に向いていない、やめようか。そんなところで労力をさいてしまい、悪い循環になってしまいます。
ただ絶対的な量というのは、やはりあるから、上達を急ぐことをやめようという気がしています。今の歌でもそうです。基本的にナタリー・コールの表情が、声のなかとか歌のなかに出てくるわけです。だからそれだけでもってしまうわけです。
音声をいうのは、それだけのものをいろいろ含んできて成り立ちます。
そのために音とか声の勉強を本来しているわけです。だから教えて同じようにつまらなくしていくということは簡単です。今日の歌の流れを見ていても、そこでつまらなくないようにしようという方が難しくて、これを違うようにしなければいけないわけです。そうしたら、それを違うようにするやり方というのは教えられないから個々に自分たちで気づいていくしかないわけです。
これはもう教えようがないです。そんなことを教えられるのならば歌を教えています。教えないというのはそういうことです。たとえば教えられたジョークを繰り返してやらせても絶対におもしろいはずがないわけです。そういう点でいうとやはりつまらないものが、つまらなくないようにどうやるかということを試してみてください。彼は長年やっていて、上達しないものを考えてみましょう。
パーカッションをやってみたりピアノもやります。毎日、弾いているのもかかわらず、どんどんヘタになっています。これはどういうことかというと、やはり前は皆さんにきれいに合わせないといけないとか、左手を動かさないといけないとか、やっていたわけです。そのうち左手でジュースやペンをもつようになってくると、今度は右手だけになって、そうすると左手が動きにくくなる。そこにうまくなりたいという強い意志が働いていない場合にそうなります。
だから消費型でトレーニングやレッスンが行なわれているとするならば大きく変えなければいけないです。だからピアノでショパンを弾いてみようかと考えればよいわけです。才能だと思いませんが、やはり好きだとやっていくんだろうなということです。全てがまず学び方です。これ以上、いってもしかたないですが、だいたい同じことしかいっていません。合宿のとき会報も同じ、ここでいうことも同じです。そしてだいたい同じ人にいっています。
そのときにおもしろいものは、なかなか出てきませんから、よくないものを見ているわけです。
プロレベルからいうと、やはりよくないものから学んでいけないということがあります。しかし、これは学ばなくてはよくないです。よくないものを見たらそれと同じことをやってはいけないと、同じことをやっていたら気づくはずです。少なくとも課題が同じものをポップスで、20人チャレンジするのを見る場というのはないわけですから。
そうすると、うまいのをしっかりと聞いて、そしてうまいなぁと見ているはずです。そこからもあまり学んでいないような気がします。よくないものからはもっと学べるような気がします。今グルーヴの形態をとっていますので学んでいる人は学んでいると思います。よいものから当然、感覚とかそういったことは学んでいかなければいけないし、何がよいものかを見つけるということも、大切なことだと思います。結局は、よくないものをよくないものだとして判断すればよい気がします。
皆さんの評価を見ると、とても甘いです。いろいろなものを書いてきているものを見ても、自分に対する評価は難しいようです。
ただ他人に対する評価も、たぶん私のレベルでやっているのではないです。私たちだから見えるということではなくて、そういう作品ですから作品に対しての評価ですから、素直に聞けばよい。どうも勘違いしているような気がします。
それはたぶん難しいものに触れてこなかったところがあるような気がします。だから少し難物にあたっていくこと。ここでも頭から相当な難物をぶつけているはずですが、すぐにクリアできないものを見た方が最初にギャップがわかります。そういうことでもう一度、足元を確認してもらってもよいと思います。あとは①のレベルでいわなければならないようなことを含めて、練習不足のことについてはいいません。自分で反省してみてください。
練り込まれていないということです。皆さんもそうです。私でもいつでもスラスラと話せるわけではなくて、話し終わったあとに半分しか伝わっていないとか、一割しか伝わっていないとか、反省しているわけです。
それから何か課題が入ってきたり歌を歌うことになると、日頃やってきたことを全部、忘れてしまう人が多いわけです。今日の音楽を聞いていても最初は「アー」というところがあって、そこから音楽が始まっています。
しかし、そんなところから急に始められるわけがないのです。こういう曲であったとしたら、そのまえの1分間はまえの人が終わってから、あるいは終わるところにこの曲に入っていて「アー」が出るまでのところ、ほとんどの人、半分くらいの人がその「ア」はうしろに回しています。やはり最初から「ア」で入れないということを自分たちで知っているわけです。だから途中から始めて、それが乗り切ったところで「アー」とやるわけです。
ただ本当のことでいったら、そのまえにそれをやっておくことです。歌ってはよくないですが、ここにきたときに、そこから入っていかなければいけないということです。
この場にきたら歌の始め「アー」だといって、いきなり「アー」とやってしまうわけです。そうするとそこからそのあと、こんな大曲ですから挽回ができないです。もうほとんどその発声練習が勝負です。ファルセットでごまかすのも、そちらにそらしているだけです。
どこで取り戻したかというと、「降りつづくのぉー」というところがありますが、ああいうところで体を使って自分のペースに戻すわけです。
そこまでは歌っていても歌ではないわけです。歌っていても自分のペースにもっていけていませんから、人には伝わらないです。
舞台の経験というのはそういうことを勉強するために踏んで欲しいのです。乗ってよかった、乗らなかったダメだったではなくて、乗っていけないときにどうやればよいか、ここに出てくるまでの表情づくりとかそういうところもとても大切になってくると思います。
この黒いカベのなかに飲まれてしまっています。ポンとまえに出てこないわけです。
全員がそういうわけではないのですが、どうもまえの方からズーッと重くなってきて、そこで破るということは、難しいけれど、それができることで一番、勉強になります。バンドが付いて、客も乗っていてまえの人も全部うまく歌っているところで出てきて、うまく歌えるというのはあたりまえで、そんなことはアマチュアでもできるわけです。自分の世界を創るというのはそこのところからです。
やはり薄っぺらかった。たぶん自分のペースにもっていけなかったというのが多いですが、息がとても浅いです。自分の呼吸のペースにはまってこないから、どうしても薄っぺらくなってくるし、処理をしてしまったため、何も残らないという感じです。
だから歌がわからなかったです。私も歌詞で聞いていませんが、この曲はこういうことをいっているということをみんなで少しずつ伝えてくれたとはいえ、一人で一曲、伝えるということがペースです。歌がわからないということは結局、伝えようとしていないというより、伝わっていないということです。別に歌詞がわかるというレベルの問題ではないです。
それから最後までのど自慢とかオーディションで終わってしまったような気がします。結局こういう難しい歌はどれで勝負するか決めるべきです。センスで勝負する、あるいは音感、リズム。なかなかどれも勝負できないから難しいですが、ことばの感覚で勝負する、構成で勝負、リズム感ですぐれてそこで勝負するとか決める、全部は難しいです。
八神さんもこのまえ新聞に書いていましたが、昔デビューした当時くらいにアメリカに行くと自分は三流か五流でめんくらったといっていますが、とても技術のある人ですが、やはり難しいのだと思います。
だからやはり出して欲しいのはいろいろとそのなかでこんな色、あんな色ももっているんだなぁというところで、その辺がやはり仕込みだと思います。
音楽を聞くだけではなくて自分のなかでフレーズの練習とか、たとえば最初の「アー」だけでもよいですが、そういう中に応用していく体験を積んできたか積んでいないかです。
演技の勉強、表情で歌う人がやはり演技を一時期、徹底的にやると、身につくこともあるから、やるべきだと思います。今日の勝負なんかは全部、息が吐けていたら勝ちというようなものです。こういう歌とか自由曲はほとんどの人が吐き切れなくて終わってしまうわけで、とても難しいことだと思います。
最初に一回だけ息を大きく吐いてみるとか、とにかく自分のペースにもっていかないと、やはりのっぺりとして浮いてこなくなってしまいます。
前回のステージ実習のときに立体的に見えないのはダメだ、リアルに見えてこなければダメだという話をしました。これは声を大きく、たくさん出せば見えてくるいうことではないです。やはりテーマを定めてそれを出さなければならない、そのテーマが見えないです。
この歌で何を伝えたい、何を誰にどう歌うのかということです。
基本演技の部分のポイントをしっかりと止めておかないとよくないです。ダラダラする人はいなくなってきましたが、けじめけじめで別に意味もなく音を伸ばすようなことを半数近くの人はまだやっているような気がします。もっと凝縮しないとよくないです。要は文章と同じで、わからないこと、迷っていること、いい加減になってしまうことであればやらない方がよい。それくらいに凝縮して作ってくること、それから応用力です。これは節が出るか出ないかというのが最終的なことですが、個性とオリジナルとかスタイルの部分です。
課題曲は発声とか声の技術を勉強するわけではないですが、そういったものをもってこのなかに巻き込んでいかないとよくないです。自由曲に関してはどんな練習をやっているのかということが、練習そのものがよく見えてこないです。本人は真剣な練習でやっているでしょうが、そういうことをやってきた人のなかから見たらタラタラと時間だけ過ごして回数だけやったまでのような気がします。