一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

「成り立つ場のために」1131

 

「成り立つ場のために」1131

 

 自分の創作力を応用してみて、自らの実力を客観的に確認する、それが合宿の目的である。

 

創造活動において、音声を使う実践発表の場として、もっとも舞台に近い、その合宿をやめた。

そのいきさつは、すでに述べた。

 

ステージ実習では一人で完結すればよいが、合宿では他の人の力を使う力も問われる。

ということは、大変なようでもあるが一人で一曲完結できる力はなくとも、1フレーズ、通用させられるなら、他の人と組み合わせて、もたせることができる。

そこで成り立つということに対して、自分の本当の地力を知ることと、

それをどう選択して出すかということがつきつけられる。

 

 私は、歌や芝居も、人とともにやっていくものである以上、

集団の場で経験を積むのは当然のことだと思う。

それが欠けているなら補充することだからである。

 

力がなくとも、まわりに認めさせる力の方が優先される。

しかし、その構えが足らなくなった。

 

 そこで合宿の代わりに、歌唱に至る音声、表現、舞台の基本のチェックを

個人別に応用において行い、接点をつけてみることにした。

つまり、一つの声、せりふ、フレーズ、歌を、あらゆる面から補強してみることにした。

 

そうでないと、昨年のようにオーディションで合格者が出なかったり、

プロとしての最低レベルの可能性を求める合宿の再開が、

不可能のように思われるからである。

どちらにしろ、劇団や合唱団でないソロヴォーカルでは、

集まっても、半分は妥協作品になるものだからです。

 

“歌を個人別に補ってみる”のである。

 

 きっと、これはときたま行っていた個人レッスン以上に好評であると思うし、

これまで“?”だった多くの人には、とてもわかりやすいものになると思う。

 

歌について、何十ヶ所もの指摘と直し方と、こうすべきだというやり方を伝えることこそ、

きっと今、ここに来る多くの人が、レッスンに望むことらしいからである。

 

それは、私としては、ここで毎時間やっているのだが、

気づけないなら、こうして10倍の時間を連続してかけて、

拡大してみようというわけだ。

 

歌唱指導は、必要悪だが、必要とせざるをえない状況になったともいえる。

 

 

 ここ1、2年、体と心と音のうち、一つ二つを伴って動ける人をみるのは難しくなった。

それとともに、以前から、うぬぼれ、自己陶酔、自己流の人は、確かにヴォーカルの特長でもあるから、少なからずいたが、多くは、レッスンのなかで正されてきた。

だいたいは、正しにきたのだから、たくさん出ていると、しぜんとそうなったものだった。

 

 しかし今は、音程やリズムが狂おうと、まったくキィの合わないところでも、何回も同じことばかりやる。あまりレッスンに出ないこともあり、それに気づいて正すことが、みられないまま何ヵ月も過ぎていく。

 まわりはできていないのに自分はできていると思っているのか、まわりも自分もできているのに、なぜ進まないのだろうと思っているのだろうか。

やっていることイコール、やれていること、やれるようになっていくこととは、まったく違う。

 それは、今や、どの場でも10人に1人くらい、素直に歌っている人がいると、それで引き立ってしまうくらいである。

 

 

 できる人は注意しなくても修正するし、できない人は注意しても修正できないからこういっても、どうしもようもない世界である。

だから、できるところをやるようにとセットしているのがレッスンなのに、なおかつ自分勝手にやりたいようにやっているだけに思える。

いったいそれをかたくなに疑わぬところにある、根拠となる感覚や考えや経験、自信とは何なのだろうか。

 

 のど自慢でカネ一つの人でさえそうだから、少しまわりよりもできた気、やった気になっている人、少し高い声や大きな声の出る人は、さらに始末が悪い。

こうなると、まわりの、できていないことが、その人があたかもできているかのごとく、裏づけていくかのように、勘違いを助長する。

 

 

 とはいえ、文章では伝わらないから、

アポロシアター、日本ならブルーノートにでも行ってライブをみてきて欲しい。

 

 なんというか、サッカーでいうと「私はこう蹴りたいんです」とか「こうやったら、前にゴールに入ったんです」とかいう感じのままである。

「20本シュートするから悪いところあったら指摘してください」とでもいいたいのかもしれない。

 

でも、それは1本で充分わかることだし、少なくとも個性や個人差や志向のレベルの問題ではない。

ましてトレーニングの方法論や、やり方に負うものではない。

これでは、レッスンになりようがない。

 

 それだけ、大きな錯覚、いや幻覚から目を覚まし、現実に向けるため、いったいどうやればよいのかというのを、このままでは直りそうもない人のためにも、特別講座としてみる。

こういう機会に、積極的に臨んで欲しい。

 

 とにかく、ただ待つだけでは誰も上がってこないようだから。

すべて、いってから待つのも、一つの現実対応であると思うことにした。

 

 ここのレッスンに接点のついていない人、どこが悪いのかわからない人、わかっていてもできない人(というのは、本当はちっともわかっていないということだが)、転機を得たい人の参加を望みたい。

 

一度、形を壊したところからこそ、よりよい修復が可能だからである。

(もちろん、すでに会報や本に言い尽くしているように、

すぐれたものを知らずして判断はつかないし、

すぐれたものを入れずして、すぐれたものは出せない)