レクチャー2 1132
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【とりくみ入1☆】
リズムに関しては、音楽基礎レッスンを置いて、かなり基本的な勉強の仕方を中心にしています。私のレッスンはトータル的に全部いれています。本当のことであれば、そのレッスンでリズムも音感も全部学べるはずなのです。ただ、耳がよくないとなかなか難しいから、Wで合わせていくのです。
ここまでに入ってくるまでに演奏経験がない人が増えました。昔はバンドをやらずにここに来る人なんてほとんどいませんでした。だいたい、レッスンの意味をわかるにも、それなりの経験がないとわかりません。今のようなやさしい説明をしていませんでした。そういう意味でいうと、人数は少なかったのですが、最初の1年目からかなりのレベルの演奏ができるくらいのものでした。
それが、今わかりやすくなってきて、学校らしくなってきました。土地を買って、専門学校でもつくってしまうと、もっとおかしくなってしまうのでしょう。私は専門学校は1年で辞めてしまいました。親の金で通って出席だけとりにきて、卒業が目的だからです。同じようなことが、このなかで起こり始めていることに気をつけなくてはなりません。
何が足りないのかというと、ライブを見せても、自分とそことの差がなかなかわかってもらえないことです。確かに、そんなにすごいライブはそれほどはありません。すごいライブというのは、ここでは2年に1度くらい、何曲かしか出ません。この前のライブくらいでも感動してもらえるし、それはそれでよいのですが、それでも、そこでの歌での大きな違いや差がみてもらえないのです。これが困ります。
①クラスと③クラスの違いなど、ほとんどありません。④クラスのなかで、数倍の違いがあります。それは、同じレッスンにでるようになればよくわかります。音が入っていて声を扱える人というのは、順番にまわして「はい」を一つ、あるいは、一フレーズをいわせてみても、そこで音楽が聞こえてきます。それだけパターンが入っているのです。そのパターンを勉強することからです。たとえば、今のレッスンも少し難しいものをやろうと思ってやりました。ボサノバでプルプルと練習しているよりも、この音楽を聞いていて歌っていた方が、早いように思います。ケチャなど、いろいろなものが入っているCDも、聞くとよいのではないのかと思います。
学び方は本当に難しくて、私もあなた方に一番よい学び方と先生方の才能を発揮できるようなセッティングをしたいとは思っているのですが、ただ結局、何もやらない人にとっては同じことです。こういうCDのようなものがたくさん出ていればそういうもので勉強でき、能力が身につくということで、本当に最初に考えて欲しいことは、昨日のようなステージができるようになるのは、ただごとではないのです。
ましてや、それ以上のところでやっている人は、どのくらいのことをやっているのかということです。しかしそのまえにやれているレベルがどのくらいなのかということを自分のなかできちんと把握できるようになることだと思うのです。
こういうレッスンCDをつくると、そんなもので、何か一つか二つでも得られると考えてしまうくらいにしか、音楽や歌の世界をわかっていないから、伸びないのだと思います。CDを買うことはよいでしょう。なんでも買えばよいのです。ただ、それ以上のものがいろいろとあるのに、こういうかみ砕かれたものした使えないということは、かみ砕かれたところまでしか上達できないわけです。そこを見て欲しいと思います。
スポーツや武道のVTRも見てください。カルチャー教室で週に1回空手教室に通って、まわりが大したことないと自分で腕立て伏せ、ランニングを人一倍やっているくらいで、世界に通用するように思ってしまう。そんなはずないのです。
本当にやっている人は、5時間も8時間も毎日やっています。ましてや、世界には、いろいろな人がいるのです。小さな頃から、歌に生活をかけて歌っている人もいるのです。
歌だけが違うわけがないでしょう。日本だけが、そういう人が少なく、その通りに作品に出ます。結果として作品はとても正直です。その人の力以下のものが出ることはあっても、力以上のことはでません。 しかし、ときにその人を通してすごいことがでることはあります。勉強して欲しいことは、それに対してして反応できる用意をどうしていくのかです。
基本とはプロの感覚を磨きこれに対応できる体をもつことです。ここでできることは、そういうことです。それ以外の武器でもやっていける人もいます。それなりに自分の強みがわかっている人は、そういうところをきちんと勉強すればよいのです。
しかし、皆さんに一番足りないところは、自分の位置づけを知ることではないかと思います。自分が今、どこにいるのか。歌のうまい、へたということよりも、結局、どこに行きたいのかということです。それが歌に見えないのです。
それが見えていたら別に業界が何であれ、年齢が何であれ、他の人が自分の歌をなんといっていようが関係ないのです。進んでいけばよいでしょう。これがないとトレーニングが好きな趣味集団のようになって堕するのだと思います。これは、自分自身で決めるしかないのです。
私たちが一方的に与えたら洗脳になってしまいます。別に、洗脳でも、宗教でもよいででしょう。声は信じないと、出てきません。しかしどこまで信じられるかということです。クリエイティブな世界では自分の努力を信じるのです。
そしてその結果こういったものに対応できるようになることです。
たとえば、上のメンバーでは、先ほどの2曲まで、1時間で終ってしまいました。ということは、一つのフレーズをやるのに、2回か3回で聞いてまわしているのです。当然、慣れもあります。
でも、それは耳で聞いているか、目で勉強してきたかの違いです。日本人は目で見たものしか、入ってきません。耳で聞いたものは入ってこない。それだけ我々は、耳の世界がないのです。そこをみていかないといけません。プロの感覚の部分での差です。
そういう能力がついた人を検証していくと、最初の時期に聞くものが普通の人と違うところからはいっているのです。本当に高いところをめざすのであればすぐれたものから入ることです。
今やらなければいけないことは、発声法ではなく、三大テノールのようにすごい人を見てみたら、それが容易にできないことを体で知ることでしょう。他の人のもっているものを覚えていくのには、分析して、これやって、あれやったらなれるなどとは凡人が考えることです。
やれた本人は何も考えていないと思います。そういう天才的な人達がいて、それに近づくために技術というものがあって、少しは技術でいけるのです。10年、20年かかることを2年、3年とはいいませんが、そういう一つのやり方、プログラミングで少しずつ近づけるのです。早くいけるし、そうでなくとも結果として伸びれば、それも集大成でしょう。
しかし、必ず、そこにはコツのようなものが入っているわけです。音楽の要素のコツに当たるものは一体何なのかを考えればよいでしょう。トレーニングをやっていたり、教科書をやっているよりも、曲を一万回聞いていれば根本のものは変わるのではないかと思います。
ただ、逆にいうと、それを一万回聞いた上でさらにそういうことをやらないとやるために必要な意味がわかりません。わけのわからないことでも実感を持つこと、そのためには簡単なことから接して、2年もかかってでもそこでわかることです。そしたら次がわかります。
そこまで行かないなら、やってもあまり意味がないと思うのですが、充実感があるのでしょうか。行きたかったところへ行けたら、それでよいと思うのです。ここで迷いに迷って、一体何だったんだろうと思うのは、やらなかったか、気づけなかったからなのです。
一番大切なことは、芸術の世界でも歌でも、年に1回でもすごいもの、理解できないものがでたら、それを見極めようとすることです。大体はできませんから、声一つからそれを感じるのです。
考えてみると、一流のものは全部理解できないものでしょう。
理解できないものに近づくのに、理解しながらやっていこうということが大きな間違いなのです。世の中にはわからないものがたくさんあって、それは外からはわからないものです。
それをわかるためには価値観を持たなければだめですが、少なくともそういう方向でやっていきたいということであれば、すぐれているものをきちんと認めた上で、わけのわからないものを聞いていればよいのです。
世界で一流といわれているものをたくさん聞くことです。わからなくても、誰よりも聞くとなるほどとわかってきます。マイルス・デイビスに三味線を掛け合わせたりして、ここがフィットしているとか、ここは合わないとか、楽しんだことがあります。
それを決める自分の感性は一体何なのだろうとみるのです。わからないからすぐれた人の本を読んだり、レッスンでやってみたりしてそういうところの判断から、耳を磨きます。すると、それが作品に落ちてきます。
歌も一方ではわかりやすいものも使っていますが、今のミーナなどのように、聞くだけでとりあえずはプロだと思うというのは、素直に受け入れていくことです。すると自分でやるにはたいへんなものだとわかってきます。結果的に歌に落ちてこさせるには、声を体と結びつける作業が必要です。
特に足らないことは、音楽をいれるということです。たとえば、富士でジャズのフェスティバルがありますが、ここでも多くの人はあそこに行って一般の人並みにも楽しめるのかと疑問に思います。何の演奏ができない人達でも楽しんでいます。ライブハウスでも同じです。
それを考えると、ヴォーカルとはなかなか音楽が入っていないパートなのでしょう。日本の場合、一番音楽がわからないのはヴォーカルです。楽器の人で音楽がわからなかったら、やっていけません。弾くことはできても演奏はできません。
あなたは、体を動かしてリズムをとってきたり、踊ったりしたことがあるのでしょうか。そこまではレッスンには落とせません。
ミュージカルを課題に合宿をやったことがあります。そのときに中途半端に遊んで、学芸会のようなことをしていてもしかたがないから、もっとよいところ、どこにも負けないところがあるのだから、そこに特化してやっていこうと思いました。
ソロのステージをやっていくとしたら、それなりに強みを、いろいろな方面から自分を分析してもっていかなければいけません。こういう歌を自分で口ずさんでみたら、呼吸法ができているとかいう以前に正しいとか、正しくないということより、自分の今の感覚で全然ついていけていないことがわかると思います。
一流を見た方がわかりやすいというのは、基本が入っているからです。そうでないと、自分がどの程度正しいのかがわからなくなってしまうからです。正しいとか、間違いとか白黒つくものではないのですが、やはり、作品の器とその人の器があります。それだけ呼吸機能が強くなければ、出し尽くすなんてことはできないのです。
聞いたから何かになると考えてはだめです。ただ、やらないよりは、やったほうがよいということはあります。しかしもっと時間を有効に使うには、もっと高いレベルのことを入れていくことです。わからなくてよいのです。こういうものがあとで効いてくるのです。
きっかけは、映画でも、絵でもなんでもよいのです。そういうものを理解できずとも、どの辺まで執着できるものがあるのかという問題になってきます。
音の世界は、語るのに難しいので、私は文章で、その感覚の一端を示しています。絵や写真ビデオでも映画でも何でもよいのですが、そういうもので代用します。そこで同じくこういうわけのわからない世界から人間に働くようなものを捉えます。時代なども勉強していかなければいけないでしょう。
ここは、今のところ、グループを中心にしています。確かに今の皆さんにとってみたら、グループレッスンに3回でるより、個人で2回見てもらう方がきっと親切だと思います。でも、それはそれなりの心構えで望まないと結局、トレーナーの妥協になりかねません。
ポップスの場合は正解がありませんから、自分が正解だということで、こういう場のなかでまみれて、これだけの人間がいるなかで何かをやってみたという実体験で足場を固めていくというプロセスがとても大切です。
ここのなかとか外ということでは区別はありません。このなかの人でも何年もいたら、ほとんど外の人です。ここにいる人達も世の中で生きている人です。そのなかでも自分の足場ができるということを問わなければいけません。
落語などのようにその世界ができているところでも、真の内弟子は稽古をつけず、住み込みにして力をつけさせます。競争意識が旺盛で切磋琢磨できるのがよかったでしょう。
先生のお眼鏡にかなったら世に通用するといえる分野ならよいでしょう。本当に自信があったら、私も何も考えず私のいう通りやれという育て方をするでしょう。演出家や映画監督は、そういう育て方の人もいます。
それは、その世界で既に決まっているという条件があればできます。自分の色が鮮明にわかっていて、そのなかで色をうつせば使えるという場合です。劇団もある程度そういう育て方ができると思います。座長が自分の舞台を実現してくれるキャラクターをとっていくのです。
ただ、ここは自分の研究をするところです。ソロのヴォーカルの場合はそれを他人にされたら終りです。ロックヴォーカリストは弟子などとりません。ミュージカルならまだ、できるかもしれませんが、それでも全然違うものがぶつかっているから本当は面白いのです。
学校や音楽スクールのように皆、同じような歌い方をされるのなら、先生が一人歌えばよいのです。先生ができないことをやるのだから、やる意味があるのです。
そういう分野を一つ持とうと考えると、最初は、本当に音楽の初心者であるのなら、1割くらい自分の好きなものをやって、9割は嫌いでも、とにかく世界で通用してきたもの、そういう分野、何でも自分が知らないものから学ぶ方がよいわけです。
要は、自分が歌ってみてもうまい歌にならないのだから、自分が変わるしかないでしょう。性格や生き方を変え、感覚と出し方を変えなければいけません。それには、何かと出いわなければ無理でしょう。
日本の場合に一番に考えるべきことは、若いときに才能があった人達が、その後のプロセスで全てだめになってしまうのはなぜだろうかという一点です。プロまで行った人達は、普通以上の才能があったのです。それがいつしれず慢心して、舞台では逆にお客さんに媚びて歌うようになります。
神様に向かい、心の真髄から歌っていたら、そう簡単に客が悪い、日本人の耳が悪いからといって、崩れるわけではないのです。ところが、日本人の場合は大半が崩れてしまいます。
ということは、それを崩そうとする要因が日本のなかにはあって、そうでない方が難しいわけです。貫徹したのは、美空ひばりさんくらいでしょう。
一つには歌が表現された結果として体制に対決するという構図が日本ではとれないから、難しいのでしょう。芸術の表現とは、単に心を癒すためにあるのではないのです。品行方正な優等生の歌い手でないと、日本の場合はお客さんが集まりません。メディアに出られません。
世界のヴォーカルには刑務所に入った人や、犯罪として挙げられた人、裁判沙汰を起された人が、どのくらいいるでしょうか。日本にこんなに社会逃避の歌い手が多いのはなぜでしょう。その手段として歌を使うのは私には感心できません。
今やって欲しいことは、自分の体から音をいれていくということです。目で見る世界では、日本人は随分とすぐれていると思います。それが見えないところから見えたところまで行けます。聞こえないものは出てこないのです。そこの学び方を知るのが最初の2年間です。それを勉強するために、いろいろな教材を使い、たくさん見るというくらいで考えるとよいと思います。
大勢いるときは、同じ課題を回してみて、私がいうことばよりも、相互に見て聞いて勉強をしようということです。
1フレーズずつ回すのですが、自分のことは最初は、よくわかりません。だから他の人に対してきちんと評価できるようになることです。鏡を見たら鏡に写っている自分も、そこにもう一人いるみたいでしょう。そこで何かおかしいと思ったらおかしいことをやっているのです。それを直すのです。とても単純なことです。
音の世界を徹底して聞くことからやってください。目をつぶったらその世界になります。映画館でも眠くなったら、音しか聞こえてきません。違う世界が感じられませんか。そういう世界での一つの価値づけの力を持つことです。好き嫌いから、すぐれているかどうかでみていきます。たとえば劇団を見に行って、そういう耳で聞いていたら、誰が音声的にすぐれているのかわかってくるでしょう。日本では演技がすぐれている役者が、一流といわれますが、それに音も伴っている人もいますし、伴っていない人もいます。
今度は音声だけで聞いてみましょう。ここでやっていることは音だけではありませんが、とにかく、音を聞く力が弱いなら、強化することです。
こういう機会を与えているのは、他の人の声に関しても、本当の意味で耳で心に届くまで集中して聞いた経験がどのくらいあるかということが大切だからです。歌もそこから発揮するのです。
電話も音声だけです。よほど親しい相手なら声の調子で判断するでしょう。あとは内容しか聞いていません☆。
ここでは、自分が材料になる、つまりよい材料として、自分を他の人に提供していきながら、他の人のよいところも悪いところもみていきます。とにかく、自分がそういう立場になったときに、できるかできないかをきちんと見ていくことです。ステージでもお客さんとして見ていたらしかたないのです。
自分がそこに立っていたときに、どれだけのことがいえたか。あいつはああやったけれども、自分はああはやらない方がよいというようなことを全部身に入れていかなければいけません。
自分が積極的にやるのだったら、変わるのに、変えられるのを待っていたら、時間だけ経ってしまいます。自分で変わっていくこと、そのために変える力というのは、気づくことからであり、それがすごく大切なことなのです。
いろいろなところでいろいろなことを話していると、「先生はよくそんなに気づきますね」といわれます。でも、気づかない人が何ができるのかということです。
世の中で何かをやれていて、他の人よりも気づかなかった人がいるでしょうか。全ては気づくことの差でしょう。
もちろん気づいたもので現実を変えなければダメなのですが、まず、すべては気づかないと自分を変えられません。自分が歌っている歌も絶対にうまくならないことになります。
皆、自分をそのままの自然な自分を見てくれといいたいのでしょうが、家族や恋人はともかく、一般の人にはそんなものは全然興味がありません。舞台では鍛えられた体であったり、鍛えられた感覚であったり、磨かれた感性があってこそ人は感心を持つのでしょう。
何ももたずして何かが伝わるのでしょう。
難しいのは、目で見る世界ではないからです。音の世界にどっぷりと浸かってやって欲しいと思います。いろいろな声があることも知って欲しいです。いろいろな呼吸もあります。どれが正解、どれが不正解ではなくて、すぐれたものが、その人からでていたら、そのことがその人にとっては、正解であり、それでよい世界です。
ただ、すぐれているというものを他の人が思うだけのものを出せるためには、人間の原理が最終的に正しく働いていないといけません。基本を勉強することは、原点に戻っていくということです。サッカーの選手でもすぐれた選手が最初に出たときには、トレーニング方法はありません。
たまたま、そういう人が奇蹟的に出て、自分でも知らないうちに理想的なトレーニングをやっていたのです。監督か何かになって、できない人のできない理由をみて、自分はこういうことに気づき、こうやっていて伸びたからとメニューをつくっていきます。そのうちあれは、あいつにしか当てはまらないメニューと思われるものは受け継がれず世の中から消えていきます。
つまり大多数にとってよいものだけ残っていきます。だから、やがてその形だけがまねられるのです。そして小学生でもわけもわからず使っているわけです。
どのメニューが一番よいのか、悪いのかというのは誰も全てを試せませんから、実証は難しいものです。試せるとしたら、感覚で選び試すしかありません。ここでは、いろいろなトレーナーをおいて、いろいろな教え方をしています。すぐれた感覚のある人に学ぶことです。それをあなた方が選べるか、そこまで直感が働くかどうかということです。
私はトレーナーに指導もしていなければ、レッスンの優先順番も細かくはつけていません。どのトレーナーにつきなさいとか、誰に出るようにともいっていません。
それには、自分で自分が一番生かせるように選んでいくのです。他の学校に行っても、全部自由です。しかし、自分が好きなトレーナーより、学べるトレーナーにつきなさい。
そういうようなところであるから、自分を磨いていかないと間違っていくということです。こういう分野に関しては、その責任は全て自分で持つのです。
まず、初めは「はい」だけでよいです。何の制限もつけません。元気に「はい」といってください。
この「はい」だけでもいろいろあったと思います。「はい」というときに、心の準備をして、体の状態を整えて、恥ずかしがらずに出すことです。声を出すにはそこにすべてを込めて、充実させていきます。歌でも同じです。
3分間、うまく歌えないのはなぜでしょう。メニューは、たった「はい」だけかと思うかもしれませんが、歌も3分間くらいしかないのです。3時間も、3日間も、30日も歌えるわけではありません。全部そこに凝縮されています。そのわずか一瞬の重みがわからないうちは、30秒も、3分間も他の人に与えられるはずがありません。
投げやりにやったつもりはないでしょうが、そのくらいでやったなら、お客さんが見ていたら、きっとつまらないと思うでしょう。やった人もつまらないでしょう。そういう自分で自分の足を切るようなことはやめてください。
発声法も呼吸法も難しく考えないのは簡単なものです。私が皆さんに話しているときも、本当に伝えようと思っていっているときと、まあいいかなと思っているときの違いくらいはわかるでしょう。私はなるべくポーカーフェイスで悟られないようにはしているのですが、顔の表情とか瞳でわかるでしょう。本当に伝えようと思ったら、それだけ体を使いますし、眼も力を持ちます。自分のテンポや歩調にも慎重になるでしょう。
そこで間違ってはいけないということも考えるでしょう。全身が一体になって表現される方向へいくでしょう。歌でも同じでしょう。
歌の場合は、こういうふうに伝えたいのに、高い音が出ないとか、大きな声が出ないとか、長く伸ばせないとかいうことが制限となりますから、もっと鍛えなくてはいけないのです。呼吸法や、間の取り方やリズムの取り方などは、すべて人間の自然な感覚を大きくしていくことが中心です。ただ、歌の世界は表現ですから、話しているときよりもずっと条件が厳しいのです。そういうものの感覚は舞台を想定して、そこから入れておくのです。
体は、声が自由に出るようにすればよいのです。感覚というのはリズムや音感を鋭くしておけばよいのです。そうしたら自分がいいたいことがあれば、前に出ていってみれば、最終的に音楽になっていくでしょう。そのプロセスの取り方はたくさんあります。テキストが何冊か終わったからといって、何かできているわけではありません。
それよりは、今「はい」といったときに、「あいつは何かすごい」とか、「何か説得力がある」とかまわりが感じられることをやることです。「何か作品になっている」ようなプロセスをとっていることです。それは声の力だけではなく、その人のもつ全体的なイメージからくるものもあります。しかし、結局ステージには、それも大切なのです。それがないときには、どんなによい声を聞かされてもお客さんは、しらけるだけです。
ステージでも「よくこんなに難しいことをやるな」と思うことがあります。お客さんを自分が語っていることで押し切れなければ、しらけてしまうのです。ここのお客さんは難しいです。ここで笑いを取ったり、雰囲気を和やかにしようとしようにも、皆、声を学ぼうとしてきているわけで、心から楽しもうと思ってはきていません。それを忘れさせてこそ、本物です。
その辺が、学び方の難しいところです。学びながら楽しんで、楽しみながら学べているというのが、一番自然なのです。トレーニングのときも同じです。トレーニングをしていて、喉を押しつけて「ららららら」となっていたら、歌の感覚で考えてみたときに、それはおかしいと自分でわかるはずです。
それがトレーニングだけに一所懸命になっているから、どんどんわからなくなるのです。それはトレーニングで力をつけるのでなくトレーニングに力を出すことが目的になっているのです。だから力を抜いてやらなければいけないのです。
もう一度「はい」だけでやってみましょう。
こうして、「はい」という音声だけで、他の人の声を20個くらい聞いたわけです。まず、世の中にどんな声、音があるか、それを知ってみましょう。次の段階で、自分のなかに何があるのかをみるのです。
歌も同じです。ミーナの曲を聞いて、おもしろいと思う部分があっても、自分でやろうとは思わないでしょう。でも全部やってみるのです。
すると、できる、できないとかかっこよいとか、かっこ悪いとかが少しずつわかってきます。この人のだったらここまでできるとか、やっているうちにいろいろなことがわかってくるでしょう。
「はい」も同じです。低いところでやれば、もっとうまくできるでしょう。トレーニングの結果それを低くも高くもできる人もいます。かすれさせることも、響かせることも、太くもできるようになります。できる、できないということのまえに、自分がどれだけの音色とか、どんな使える音を持っているかを知っていくのです。
日本ではあまりいわれないのが音色です。「はい」に対して、やさしくいってみたり、怒っていってみたりしましょう。役者ではないと思うかもしれませんが、表現の世界である以上、役者とヴォーカルと分けることはありません。
ただ、役者は役者として強くしなければいけないところがありますし、ヴォーカルはヴォーカルとしてもつべき部分があります。
そういうものを、まねするのではなく、やってみるのです。やってみることは、まねではありません。
「〇〇くんのステージを見ていたら、こうやっていた。自分も、こうやったらその声が出るのか、どうかをやってみる。」すると、「彼は出たのに、私は出ない」、では、キイを下げたらどうなるのでしょうか。そういうことがわかるように見ていくのです。自分がそうやったら声が出ないはずです。出る人は、どうやっているのでしょう。自分が何か感銘を受けたことなら、試してみることです。
見ているだけでは力になりません。たとえば、社交ダンスを見て、かっこいいし、やれそうと思っても、やってみたらやれないでしょう。やれそうなのに、で踏み出さなければそれで人生は終わってしまいます。できないのは、初心者だからよいのです。こういうところに8年も10年もいて、初心者レベルでやるのでは恥ずかしくてしかたないでしょう。だから、最初の年は何をやってもよいのです。それがどういうことなのかを知ることです。
ここは、そういうところは本当に自由だと思います。まず、それでやってみることです。自分のなかから全部、取り出してみましょう。全部取り出してみないと、自分のよいところもわかりません。自分がよいと思ったところを出してみます。自分でも全然だめだと思ったら力をつけるしかありません。
「はい」で説明していることは、歌でも同じです。このレベルの違いだけです。たとえば、今の「はい」では、自分がここで勝負だと出せるキャリアがまだありません。
考えて見れば、最近の私は「はい」しか見せないでやっています。たまには、いろいろなこともやりますが、それで通じてしまうのです。つまり、ひとつのものを誰から見てもしっかりと、出せること、「私にはできない」と他人が思う部分で持つことがスタートです。
「はい」といってから「らら」もいってみましょう。
自分のことはわかりにくいでしょうが、他の人を見れば皆、おかしなことをやっているでしょう。教える場合は、あなたはここが悪いから、ここをこうしなさいと、「目がきょろきょろしている」から、表情がだめですなどと懇切ていねいに教えればよいのでしょう。見ていたらだいたいわかるでしょう。何かさまになっていないのに声が出るということはないような気がするとかいう感じがどういうものなのかということです。
私がやったことは皆がイメージとして持っている、感覚として持っていることを実際に体から出る声を出して結びつけたということです。
イメージの時点で、自分が持っている楽器よりも大きかったり、長かったりしたら、無理がきます。そうしたらイメージの間違いです。このイメージの違いがわかるためにも、自分でたくさん出していかないといけません。
それから、よい見本を聞くことです。トレーナーや生徒のなかのすぐれている人、今、聞いているなかでも目をつぶって聞いてみたら、、自然に聞こえてくる人と、どこかでつくっている人や、そうやればよいと思っているだけという人など、いろいろなことがわかります。
歌を聞かなければ、点数をつけられないというわけではありません。先生から何点といわれるのではなく、自分で感じて欲しいのです。感覚を磨いていくことが勉強です。感覚を磨こうというところでは、他の人を見て、自分でこう思うというような地道な作業をきちんとすることです。先生に決めつけられる前にできる限り自分でやるのです。そのプロセスが大切です。フレーズのことでも同じです。
感覚で、やろうとしたことが、実際やってみたら、思うようにはできなかったというのは体の問題です。こうなってしまうのは、多くはイメージを定めていないことでの問題です。たとえば、息が上がってしまったとか、緊張してしまったとか、体が変に動いてしまったとかは自分で鏡を見たり、自分で何回も練習をしてもわかります。ここにきて順番がまわってもできなかったとしたら、スタンスの問題です。
舞台に対する時間の感覚、はシビアです。前の人が終わって入れなかったら、とうてい歌に状態が間に合いません。歌はとても、速く鋭い世界です。そういうことが、少しは時間の感覚として見えてくるようになるでしょう。すると、一瞬でその状態をつくらなければいけません。
歌は特にそうです。歌のなかでもくるくる変わります。1曲が終わって、次の曲になったら、まったく表情を変えていなければいけません。そういうことも、他の人達のステージを見てみたら勉強になると思います。そういう表情や体の使い方でないと、音色も本当の意味でコントロールできません。それを、あるベースよりも落とさないために、統べるために息の強さや発声法などが必要なのです。
それがあれば、「はい」がかすれても、正せるということです。
声一つでやってみましょう。この結び付きを確実に出せるということが安定感です。
基本というのは、再現力です。「はい」でも100回、同じことができるということです。いろいろと応用して、これが変になることはよいのです。変になったときの位置がわかっていたら戻せるということです。「はい」は歌とは少し違います。トレーニングと試合の関係です。この場では、両方やっているわけです。
試合という意味では、まぎれもなく他の人の前でやっているのです。つまらなそうな顔で「はい」とやってもまわりの人には伝わりません。本人もおもしろくないでしょう。お互いが元気をなくすようなことは成り立ちません。と同時にトレーニングにもなりません。
テンションの高い状態のなかで、落ち着いて、常に取り出せる力が必要なのです。何回も歌ったらできるとか、家でやったらできるというのはプロセスでしたらよいのですが、実際にはまだ使えません。
いろいろなトレーナーにいろいろな指導を受けると迷うものですが、結局、自分に実感できるものしか取り入れられないのです。
マイルス・デイビスを聞けば、三味線がわかるわけではありませんが、三味線がわかれば少しマイルスがわかるという捉え方もあるわけです。あるいは、両方かけてみたら、何かわかってくることもあるでしょう。何かそういうきっかけ、ヒントが必要です。そのために、わけのわからないものをたくさん入れておけといっているのです。
タンゴを聞いて、そこでの共通のものを感じておくこと☆が財産となります。今、わからないもの、見えないものが大切なのです。ダンスの映像やクラシックの映像もいろいろと見まくる時期が必要です。
すると何かそれに対する、感性の引っかかり☆ができるでしょう。これがよいのです。これは何となく違うような気がするとか、そんなに曖昧なものから始まるのです。でも重ねているうちに確信がでてきます。
私たちの場合、難しいのは、自分の好みで皆さんをもっていけないことです。一応、戻さなくてはいけないというところがあります。しかし、それ以上引っぱることはできません。
位置づけというものは、とても大切になってきます。どこに立ってどう感じさせるかがスタンスです。
トレーニングで息吐きをすることが、体を鍛えたり、深い息をがんばって出す目的だけのためだということであれば、それは間違いです。歌からいえばおかしいでしょう。やってはいけないのではなく、歌のなかではそういう深い息が使えないから、わざわざやっているわけです。
それはトレーニングとしての部分なのです。腕立てしてすぐに試合に出る人はいないことと同じです。ピッチャーが試合の前日に、ほぐすことはあっても、腕立て伏せをしていることは、ないでしょう。でも、どこかでは、やっています。それが自分でわかっていればよいのです。
このトレーニングの中心は、自分のステージなり、歌なり、発声を正しくするようなことであっても、今やっていることは、ここで固めるようだけれども、あとでこちらに戻さなくてはいけないということです。深い声のことを鍛えているなら、その間はステージではバランスがおかしくなるのだけれども、そういう感覚をつかむための練習であるということがわからず、それが中心だと思ってやりだすとおかしくなるのです。
トレーニング中の場合、うまくやれないときもあります。声もうまく展開できないという場合もあります。ただ、感覚から体でこの目的が何なのかを知ってください。
自分がイメージして、そのイメージで、こんな音色だとか、こういう歌い方をしたいとか、こんなフレーズをつくりたいとイメージすることです。いろいろなすぐれた人のパターンを知っていたら、応用ができます。
自分はよくわからないし、自分には何もないこともあります。そこで、あの人がやっていたようにやってみようというのでは、通用はしませんが、練習のプロセスとして、そういうものをやっていくことはよいことです。
それをやろうと思ったときにうまく対応できないし、その音色がでないからうまくできない。伸びないのでしょう。あるいは、高さが届かない。特に高さに関しては、高音トレーニングをさせていないのですが、それだけを目的にするのはあまり意味がないのです。
アプローチの仕方としてはあるのですが、気持ちの伴わない音とりは、基本を固めてからやらないと間違いしか起こさないからです。結果的にその人がどれを選ぶかですが、もっと根本的にいうのであれば、どれでも選べる声の柔軟性をつけておくのが、ヴォイストレーニングなのです☆。
入ったばかりの人はともかく、1年くらい経っても、声に力が入りすぎていたら、一度力を抜かなければいけません。表現に跳ね返ってきません。歌でも声でも、前に出して行くことが原則です。その辺は常識で考えればよいのです。
なぜ、力が入ってしまうのでしょう。多くは、深いポジションをとるために、声をいれるのに、それをずっと握っているから、動きが出ないのです。そう歌っている人はいません。
ここの部分でやっているにはよいのですが、どこかで戻さないといけません。それには、時期もあります。時期を間違えて、すぐに戻しては、何も出せないままです。そういうときは、一時、ずっと握っていても構わないと思います。しかし、それは中心でないことを知っておかなければいけません。握るのは、より大きく離して、大きな動きをつくっていくために使います。
声の目的をきちんと捉えていかないといけません。皆さんにとっては、よい声ができるというのではなく、より、使いやすい声、確実に表現を再現できる声、もっと柔軟な声が必要なのです。それは自分のイメージに対応する声です。踊りと同じで、自分のイメージを浮かべる。そのときに体が動くかどうかでしょう。声帯も同じです。しかし、イメージが固いのなら番外です。
そのように発声も捉えていかないと、絶対に混乱します。それぞれが教えているようなところでは特にそうでしょう。勘でよいのです。ただ、勘を磨いておくことです。
自分が受け入れられないようなことをいわれるのは何か理由があるということです。そう捉える人も世の中にはいるし、それがどういうことなのかがわかってくれば、学び方がもっと深くなっていくはずです。ものごとは表でとらえるのではなく、それを支えている裏を読むことでつかんでいくのです。表が応用、裏が基本、表が表現、裏がトレーニングです☆。
トレーナーによって優先順位も違います。皆さんにわからないことがあったら、カウンセリングで聞いてください。私はそれぞれのトレーナーの方法や優先順位は把握しているつもりです。だからといって、それを統一するのではなく、そのなかでも対応できなければ、だめなのです。そんなすごいレベルを最初から求めているわけではありませんので、すぐれていくなら、対応してくるはずです。対応できる力をつけていけばよいというだけではないかと思います。
生徒と先生の間で考え方の対立が起きることもたまにありますが、ほとんど優先順位の問題です。響きで整えていってステージングを考えていく方法を早くとっていく場合と、それを後にして、体だけのベースをつくっていこうとする場合などがあります。
これは、ピッチャーなどの育て方でも同じです。投げ込ませようという場合と、まだ、1球も投げてはいけないという場合とあります。どちらが正しいかなどは、わかりません。教え方にもよりますし、投手の筋肉や体の状態に、年齢などにもよるでしょう。何よりも準備期間の長さにもよります。そこまで把握するには、なかなか困難です。だから、検定やイベントを出口としての中心にプロセスを考えてください。
自分の声の状態は、こういう状態ではないのかというのは、自分で把握するしかありません。よく、声のマップを作れといっています。自分のマップはつくりにくいでしょうから、まず、他の人のマップからつくればよいのです。表や図にすることはありませんが、音のイメージをどのように捉えていくのか、そしてどう出していくのかが大切です。
トレーニングをあまり複雑にするなといっています。できるだけ感覚で捉えて、感覚を鋭くして、そのなかで体が動くようにするために、起こってくるようなことを全部認めなさいということです。
BV座などでは、体の使い方が全然違うでしょう。皆が1回も使ったことのないような体の使い方で声を出しているでしょう。それが表現力と結び付いているのです。彼等にそういうことも見せて欲しいと思ってやっているのです。それが表現やステージのベースなのです。
ステージだからといって、ディナーショーのようにタキシードを着て歌えばよいものではありません。形からはまねられませんが、それを体験しながら結局、まっすぐにきちんとして歌えないのに、動かして歌ってもだめということがわかります。どう表現したいのかや、どういう感覚で出したいのかということとつながってきます。そのつながりがその人の歌なのです☆。
一番磨いて欲しいのは耳の力です。このサラボーンの曲のなかにいくつの楽器がはいっていて、どう組み合わされていましたか。普通のヴォーカルの人には見えません。でも、ベーシストだったり、ドラマーなら皆、音を同時に捉えています。オーケストラの指揮者ともなれば、おかしいものがあればすぐに、気がつくくらい、繊細に聞いています。ヴォーカリストにもその能力が必要です。そういうものは鍛えられます。
他の人が聞かないもの、興味のないものでも一流のものを聞くことがよいと思います。ここも、その辺では聞けない曲ばかりやっています。音の世界が豊かになります。そういうなかで自分とフィットするものの本質がわかってくるのです。
好きな曲は長く聞いて、そのときどきの思い出なども入っていますから、友達と同じです。どうしても客観的に見れません。だから、歌にもしにくいのです。しかし知らないものや嫌いなものははっきりします。☆嫌いだから何とか接点をつけようとします。そこでついたとしたら、好きか嫌いかは別にして、自分の才能や感覚の力です。
カンツォーネなど歌いたくないと思っていても、そのなかによいと思うのは何がよいのか、どれがよいのか。このなかの何が自分を引きつけるのかを考えてみたらわかりやすいでしょう。日本でプロになったヴォーカリストは、へたに歌っていようが、何であろうが許されてしまいます。おのずと基準が甘くなります。厳しく正される場を持つことです。
楽器だけの演奏を聞くことは、とてもよい勉強になります。ヴォーカルの教本よりは楽器の教則本か、あるいは、楽器の演奏マニュアルの方がよいと思います。曲も楽器を聞くほうが勉強になるでしょう。楽器のプレイヤーは音の世界だけでやっているからです。
トランペットやサックスのプレイヤーに合わせて歌うこともよいでしょう。サックスが吹いたようにまねるのではなく、声のなかでその感じを出すのです。 向こうのレッスンは、そこまで耳がないと対応できません。音程が外れるとか、リズムが狂うとか、そんなレベルではありません。それでも音程、リズムと別れてあるわけではありません。勉強しようとするときに、教科書に分けて書いてあるからそうなってしまうわけです。本当は一体で捉えていって、一体で出すものなのです。
声の弱い人やまったくマップが浮かばない人は、楽器をやってみましょう。音楽をもっと楽しむというか、自由にしていって欲しいです。ピアノなども、バイエルを弾くのではなく、こことここをこう押したらおもしろいぞとか、そういうなかで自分の感覚と一緒に結びつけていくのです。そのために基本もやらなければいけません。
楽器よりもヴォーカルの場合は体が基本ですから、スポーツと同じです。楽器でも同じですが、精神集中しなければいけません。
ヴォーカルの場合はもっと自由度が大きいので難しいのです。楽器の場合は、たとえばピアノは、指のおき方でも決められています。楽器の寸法も、自分の体に合わせて決めることはできないものが多いでしょう。そういうことでいうとヴォーカルは体一つです。自由度が大きいだけに使いこなしが難しいのです。
他のレッスンでも、できるだけ他の人を見たり、聞いたりしてください。すごく勉強になるはずです。そのなかにすぐれている人がいたら、もっと勉強になりますし、すぐれていない人を見たときは、自分も以前はこうだったと見るだけではなく、自分の今できないことがそこに拡大されていると見ればわかりやすいのです。
私はそれを実践してきましたし、ここのトレーナーもそうだと思います。他の人達ができないのに、自分のできることは、何なのでしょう。ほとんどのことは、もっとできる人もいます。また、他の人ができないところで、できることとできないことが、今自分のできることとできないことの相似形となっていると思えば学べます。
スピードにしても、早いとはっきりと聞けないでしょう。でも、もっと早いものを聞いたら、それもゆっくりに聞こえます。そういう相対的な感覚の差を利用して勉強していくことが、こういうものの一番早い勉強の仕方です。レーサーになりたくても自動車教習所で勉強していてはしかたありません。
モータウンの映像で、レッスンの前にヨガをしているのは、あの場でひまがあるからしているのではないでしょう。ここでも上達した人を見れば、それぞれのやり方で落ち着いて自分のコンディションを整えています。待っている時間も自分できちんと生かしています。
音楽がかかっているときもそうです。全部、音を中心に生活をくみ上げるような2年間を送るのが理想に思います。すると映画館に行っても勉強になってくるでしょう。どこに行っても音や声がいろいろと聞こえてくるでしょう。生活全てがアートしてくるから、生き様なのです。
フレーズをぱっととれるのは慣れでやれるようになってきます。ぱっととれないようではだめです。まだ、歌い手ですから、何百回も練習してみて、それができた後に狂わなければよいともいえますが、やはりすぐれた人でそんな人はいません。やれるということは、ぱっととれるようになってくることです。とらないと、出せないのです。
ライブになれば、即興でピアニストとニュアンスを交換しながら歌わなければいけないのです。そういうものでは、機敏にことを起こす力が必要なわけです。
自分が何かことを起こさない限り、何も起きてきません。レッスンでは私がメニューを決めて、進めていかなければ、何も進んでいきません。バンドにしてもヴォーカルなら歌のなかで自分で決めていかなければいけないことがたくさんあります。何よりも発想力や想像力が必要になります。メニューだけではなく、歌い方でも同じです。本当に1時間、練習できているときというのは、30も50もメニューが浮かんでくるはずです。そして、時間が経つのを忘れ、次の日もやりたくてしかたがなくなるはずです。
発想力というのは、歌の解釈力であり、自分で歌をつくり出す力です。よいものを聞いていたら、最初は見えなくても、何かが少しずつわかってきます。1年や2年の勝負ではありません。しかし、今からでも入れていって欲しいのです。
声が全部できてから、音楽を聞いてポピュラーを歌いましょうというものではありません。クラシックを何年もやって、ポピュラーに転向しても、ひどい歌い方の人ばかりです。わかっていないことがわかっていないからです。わかっていると思っているからまったく学べないのです。
皆は、たぶん2年、3年では、彼等がやったくらいの発声もできないはずです。彼等は、音大に行って、毎日何時間もやっているのです。ということは、声の問題ではないのです。
声も最低限必要ですが、もっと大きなものに支えられているのです。今の日本のアーティストでやれている人は声の問題はあると思いますが、逆に他のことはそれなりの発想を持って独自の出し方を常に考え、創りだしています。そのスタンスが決まっていかないと、トレーニングもうまくまわらないでしょう。
トレーニングのために、トレーニングがあるのではないのですから、間違ってはいけません。結果として出なくてはいけません。この辺には敏感になることです。声が最終目的なら歌や表現はどこにも生ずることがないのです。普通は、それをプロと呼ばないのですが、日本の歌手だけはそれでやれているのです。
いろいろな勉強の仕方があるからおもしろいわけです。いろいろなトレーナーから、あるいは過去の会報から学んでみてください。合宿の会報が置いてあるのも、考え方の基本を知ってもらう意味があるからです。そこで実際やったメニューは、一人の人間からその人の歌が表われ出て舞台となるプロセスを経ています。原点にきちんと還っていくということです。
基本の勉強をするときの一番よいやり方は、どうすることでしょう。人間の基本を考えるときに、赤ん坊の頃に戻るでしょう。 母親の体内でどうだった。赤ん坊のときにはどうだった。幼児期のときにはどうだった。親はどのように育った。家庭はどうだった。
もっと逆上ると人間は何から進化したか。全ては音楽も同じです。ギタリストはエレキがないときには、何を使っていたのか。ドラマーは太鼓を使っていた。その太鼓は何から生まれたのか。そういうようなことを勉強していくと、一番元となる基本のことがわかります。
それが道具が変わり、時代が変わって複雑になり、本質が見えにくくなってきます。パソコンや、エレクトリックがはいって、さらにわかりにくくなったのですが、いつも同じことなのです。
ドラマーが腕を使うことで腕も道具です。手の先にスティックがあっても、これも道具です。その先に太鼓があっても、これも道具です。それらは、感性を取り出すのに使われ、そこから生じるものを全部拡大しているのです。絵は絵の具でキャンパスに拡大するのでしょう。その感性自体が働いてこなければ、何も生まれてきません。
それを音の世界とくっつけるのがミュージシャンです。本当に音の世界に関しては日本人には欠けています。それがすぐれたらよいものが出てきます。すぐれなければよいものは出てきません。歌という音楽に関してはそれだけです。
しかし、そのためにヴォーカルは声という道具を磨く必要があるのです。もちろん、歌はヴィジュアル的にも見せられるものですから、表情の研究もやってください。