レッスン 1133
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【基本トレーニング】
【とりくみ】
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【基本トレーニング】
中心の問題のほとんどというのが、トレーニングというのは部分的なものとレクチャーなどでもいいましたが、意識的にとり出してするしかないのです。結果的にそれができるというのは、そうなるしかないわけです。
声楽でも上にあてなさいといわれますが、あてているうちはあたっていることにならないのです。結果的にあたってたらよいのです。ひびかせていたらだめで、ひびいていればよいし、歌ってしまってはだめで、歌えていたらよいということです。
ことばのあやみたいですが、スポーツなんかをやっていた人なら理解しやすいと思います。
こういう時間の問題も、声を押すという問題が出てくるのも、要はトレーニングは中心のことをやるわけではないのです。歌のことをアップさせたいがために、歌そのものではそれは難しいので、条件面を整えていくのです。
なぜ条件を整えるかというと、状態というのは、かなり悪くなるときがあります。体調が悪いとか、そういうときに意識的に正しくとり出せるためにトレーニングするのです。トレーニングというのはある意味では、全て負荷トレーニングです。
「ハッ」と息を吐いて、そこで盛り上がりの部分をつくろうとしても、難しいでしょう。大きく出してみても「ハッ」と大きく吐かなくてはいけないと、自分でムリをしているわけです。その状態では最適のバランスになりえません。それはしかたのないことです。
トレーニングで間違えやすいことはたくさんあります。声だけ大きくなっていくのに、歌に反映されないという人もいます。それは、トレーニングを中心だと思っているからです。腕立て伏せをしたからといって、すぐに腕の力が強くなるわけではないわけです。却って無理して使えなくなったりもしてしまいます。
だから、声を大きく出したり高く出したりとか、長く出したりということは、普通の状態より無理していることになります。その無理が無理じゃないと思えるくらいに、まわりの条件を整えていって、それが統一されていってはじめて、トレーニングといえるわけです。
Wのレッスンでもリズムをとるときはリズムに、音程をとるときは音程に意識がいきます。しかし、もうそういうものが入っている人にとっては、しぜんと出せるものなのです。そういうパターンをいろいろと入れていったり、部分的なことをたくさんしなくてはいけないかというと、結局、大きくやろうとするほど、使うのに大変だからです。
声が大きい人というのは、歌うのが大変です。声の小さい人は小さいだけ、その分、調整しなくてもすみますから、声を思いっきり出す人の方が却って音痴になったり、ひどくはずしてしまったりすることもあります。でもそれをうまく扱えるようになったときに、歌として生きてくるのです。 バランスよく最初からやっていくというのは、難しいです。
トレーニングをやることというのは理屈でいうと、それをやったあとに声が一番出せる状態になる方がよいのですが、それは理想です。トレーニングをやると一所懸命にやる人ほど、のどの状態を悪くします。たまに休んだ方が声の調子がよいものです。それはそれまでやってきたことがそのとき出ているのであって、そのときに休んでしまうと、次に3年先に結果が出るようなものです。それは人によって違います。人によって周期もあります。
もともとマイナスな声をプラスにするためにはニュートラルな状態があって、そのときにナチュラルヴォイスになるのですが、これ自体では歌にはならないのです。ここでのステージ実習では、基本のところでやっている分には安心してみていられるのです。しかし、それをもうこれ以上、動かせないというところで応用したものをやってしまうと、それ以上、伸びないということになりますので、ダメということになります。基本のところであれば、歌がうまくなくても表現が伴ってなくても、時間的にみれるのです。トレーニングですから、あとから伸びなくてはいけませんので、そこに可能性が感じられなくてはいけません。
歌が難しいのは、ここのところだと思います。活動レベルとここでの研究レベルという基本のところで分けて考えています。ここで学べなくなったら自分で活動して外に問いなさいといっています。まとまってくれば、それ以上、大きくは伸びないのです。でも、お客さんに出すにはまとめなければいけませんから、それなりに衣裳を着たり、照明や音響などを考えていかなくてはいけないのです。そちらの方のか研究もしなくてはいけません。
ナチュラルヴォイスのことと「息から声にする」ところの結びつきのことをやっていきましょう。高音については、本にはあまりやるなと書いていますが、基本的にトレーニングばかりやっていると、その目的がわからなくなってきますから、あるときアウトプットしてみてそこで足らないと感じたら戻っていくという形をとっていく方がよいと思います。
応用をやってみることによって、基本のできてないことを知るということでは、高いところでも好きにやってみてもよいと思うのです。でもそれがトレーニングの目的になったり、一番の課題かというと、それは違うわけです。ですからファルセットでも裏声でも好きにやってみればよいのです。自分の実感としてここでこういうふうに出したいというものがあるときに、出せばよいのです。それは、そういう気分になったときでないと、ダメです。無理にそういう練習をすべきではないと思います。
先生にダメといわれても、本当にやりたければやってしまうものだと思います。かなりひどい目にあったりしながらも、そういうことを経験しながら、そのなかでみつけていけるのです。そのギリギリの感覚でやらなければいけないと思います。でも私たちの方からは、そういうふうにはいえないのです。
自分で自分なりのルールとかみをみつけていかなくてはいけません。何でも試みてよいのですが、いえることはリピートしてみてそれをあたりまえにしていって、それをオンしなければいけないということです。
リピートというのは、同じ過ちをくり返していきますので、過ちだとわかったらどうしてそうなったのかを、原因をきちんと分析して、全然予想と違う場合もありますが、そのことはくり返さないように自分でしていかなければいけません。
体を使うことですから、相性だと思います。先生とも相性だし、学び方も相性だと思います。ですから、そこは主体的に考えた方がよいということです。練習する時間もその人によっていろいろと違ってきますが、体力や集中力と連動してきます。ステージということも歌ということも切りかえていかなければいけないのは、集中力とテンションの方が大きいと思います。これが、もたないのです。
ここでも、1年間に1曲終わるまで集中力がもったというのは10曲あるかないかです。歌とか声とか関係なく、ここでのステージだとそれだけでもってしまうところもあります。ですから、だらだらとした練習は、やらない方がよいと思います。
「ハイ」だけでもよいです。
この空気中に何が起きているかということを見ていかなくてはいけません。のどをはずす感覚も、のどをあまり意識しない方がよいのです。お互いでみていった方がよいでしょう。鏡を見て練習してもよいと思います。それで見て、魅力的でない練習はやらない方がよいです。
表情は無理につくっていかなくてもよいと思いますが、よい状態のときの顔を自分でみつけておいた方がよいです。ナチュラルな声というのは、出すときにつくらない、加工しないことです。どこかに中心をもってこないと声になりませんから、上にあてたりしてしまうのですが、それがよいか悪いかは、人によります。
トレーニングでは、より体を使った、より息を使ったと感じたときに、気づいたら声になっていたという感覚から入った方がよいと思います。
だいたいの人は、お腹の前しか意識しませんが、横とかうしろとかをトレーニングした方が可能性が出てきます。
さらに中の感覚をもつことも一つの方法だと思います。ほとんどの人が、すぐ「ハイ」と出てしまいますが、きちんと出そうとすると、体の準備が必要になってきます。今のみんなだと、そんなに早くは入れないはずです。これは個人差がありますが、急いで出しても意味はありませんので、より正しいことを10回やったり100回やったりする中で、みつけていくことです。
今まで皆さんが音を扱うときに、その一つひとつの音の動きとか息とか、体とかを感じながら出していくということです。そんな複雑なことはやってないはずです。基本のトレーニングにおいては、その方がわかりやすいと思います。
では姿勢から入ってみましょう。
一番簡単なのは、体を曲げてみて、手をまっすぐにして、あごをひく、そして一回手を下につけてみて、背中を中心にしてヨガとか新体操の人みたいに背骨をまっすぐにすることです。ほとんど頭が出ています。ということは、それだけ首がまっすぐになっていないということです。あごが上がっているということです。なるべく首がないような感じにしてみてください。
それで息を吐いてみてください。「ハイ」と息で出したあとに声で出してみましょう。そのなかで自分のなかで一番一致しているときの声を感じてください。つくらないことです。いろんなことが起きますが、自分の感覚のなかで直していく方がよいです。
自分できついなと思ったら、体の状態を悪くしているのですから、動かしたりして自分で体を戻さなくてはいけないです。体を戻さないと、声も戻りません。今のなかでいうと、肉声が体のなかから出てくればよいということです。それが、部分的にどこかに働かないことです。そして、一つに捉えられればよいのです。
あまりにも声にならないときは、もう一度ことばに戻った方がよいです。普通で使っている状態に戻すのです。息を声に変えるのも、はじめはまったく同じ息を変えていくことはできないと思います。「ハイ」と出す半分くらいの息でしか、声にはならないときもあると思います。それは、自分のやり方でやってみてください。
ことばで「あおい」をいってみましょう。 今やって欲しいのは「ハイ」と同じ感覚で「ター」の一つのなかに「あおい」を入れていく感じです。要は、一つに捉えないと動きにくいということです。
日本語が一番やりにくいのは「クワァンド」でも「ク・ウ・ワ・ア・ン・ド」に楽譜の音符がついて、そこはもう動かせなくなります。彼らの場合は、これを会話の状態から一つに捉えています。
「ハイ あおい」にしてみましょう。
歌のうまいかうまくないかというのは、すぐわかります。その人間が全身のところで扱っているか、上のところだけで歌っているかということです。
今、皆さんにあまり細かく注意することは、したくないのです。なぜかというと、最初の一ヵ月は、自分でやる中でずいぶん正されていきます。その正されたところで、もう一度、調整するのならよいのですが、それがまだ自分のできる範囲のうちにこちらからいろいろというと、皆さんがそれに頼ってしまうからです。それは自分で引き出さなくてはいけないのです。まだ自分のなかで一致していると思います。
「ハイ ライ」でやってみましょう。
体から息を出して声にすることと、声・息・体の結びつきの矛盾が出てきます。それはしかたないのです。イメージでは、1年後、2年後、もっと出ていけるような感じをもつことが大切だと思います。その感覚をどれだけ忠実に出していくかというのが、基本のトレーニングです。
あとは、条件をよりよくしていって、声を扱う感覚とかを鋭くしていくことです。他の人のをみていて、体で読み込んでいくことです。1年くらい経つと読み込めるようになってきます。ですから、映像とかもたくさん観てください。
何か一流の人には共通するものがあると思いますし、まわりの人と共通するものがあると思います。まわりの人がもってないなというものもあると思いますので、そういうものを獲得していってください。他の人をヒントにするのが一番わかりやすいと思います。
1年目は、声のマップをつくってもらえばよいと思ってます。自分の地図みたいなものです。そうやって、基準をつけていくのです。それをレッスンなどで問うていけばよいと思います。
やはり、歌えている人というのは私以上にノートをつけ、いろんな勉強をして音楽をつくっています。だから条件が整ったら否応なしに上達すると思っていいと思います。
そうならないというのは、何かが欠けているということです。学びやすいものから勉強していけばよいと思います。体と心を使うのを惜しまないようにやってください。ほとんど伸び悩むのは、そこでこれぐらいでいいやと思ってしまうから、その先にいけません。そんなにせまくつまらない世界ではないのです。
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【とりくみ】
④クラスのライブ実習でもいったことなのですが、トレーニングというのは目的のためにやるわけですから、何がトレーニングで身についたのか何が失われたのかということが見えないと、そのトレーニングは嘘になってしまいます。
今皆さんは半年から1年くらいですが、④の人だと4~6年いるわけです。何も得られてないとすれば時間だけ経ったということになります。トレーニングというのは自分で認識していなければいけないわけで、そのときに一番大切なことは、自分で指標をつくっていくことです。
ここにきてカラオケ教室と同じようにストレス解消するためにきている人もいると思いますが、むしろ表現の場ですから、それをするために、それを練り込むところなわけです。がんばっている人も一所懸命な人は世の中にはたくさんいるのです。
たぶん、私の10倍くらい声のことをやっている人もいるだろうし、60才くらいになっても声の研究を毎日やっている人もいるかもしれません。でも、明確に私よりもそれができている人というのは1割くらいはいると思いますが、あとの9割の人はそういうことが追いつかないと思います。
それはきっと学び方の問題です。野村監督がストライクゾーンを80に分けているのかというと、それはやはりプロのバッターですから、それはそのくらいはつかんでいるからでしょう。それを明らかに指標として示せるということは、一つの基準ができるわけです。
長嶋さんみたいに勘でやっていく人と、そういうデータで示せる人と何が違うかというと、的をつくれるわけです。それは調子のよいときだったりすぐれた人であれば本能的にもっているのです。80で区切ってしまうと、160で区切れる人も80になってしまうというふうに、プロの世界だと甘くなってしまうのです。マニュアルというのは危険ですが、その基準さえ意識しない人にとってみれば、そこに何があるのかということを知ってはじめて、そのことに気づけるわけです。ここのレッスンやトレーニングも、そこまでおろしているつもりです。
演出の特別セミナーなどで、「小さくて重いもの」というのをやるときに、先生のやった通りにしかできないのならば、今まで自分で小さくて重いものを持ったことがないということになります。そうしたら、何でそういうイメージが働かないんだということです。でも、普通の人は働かないのです。それが働く人だったら、相当、勘がよい人です。タレントさんなどはそういうことができるのです。そうやらないと、十代で人前に出ていくということはできないのです。もっと勘のよい人はたくさんいます。
ですから、形から形をとることは、まったく勉強にはならないわけです。そこをやるのは小学校、中学校です。こういう歌も、そういう感覚のよみがえらないところでやっていくと結局、声をつくってみても歌になりません。音程、リズムがあっていても歌にならないのです。
後半になってようやく場が動いてくる。何かが飛び込んでくる。じゃあ、そこまでの人は何をやっているのかというと、歌っているのです。歌のなかで歌っているのです。
でも、歌というのは歌のなかで歌ってしまったら、歌になりませんし通用しません。そうしたらプロは何をやっているのかというと、100%伝えることをやっています。100%伝えるということはどういうことなのかというと、自分のなかにリズムも音程もそれをどう動かすのかということもしっかりと入っているから、伝えることに専念できるのです。それは、人前に立つときの最低限の要素です。
ステージの態度をみていればわかります。結局、何かの正解があって、それはいろんな段階があると思いますが、音程を正しくとか、体を使わなければと思ってやっている人は、そこで終わっているわけです。それしか考えられないから、そういうふうにしか出ないのです。
伝えることです。伝えるために足らない部分をトレーニングで鍛えるわけです。ですから、そうではない人にとってはトレーニングは必要ないのです。
方向がズレているのです。最初のスタンスとか向きがズレているのです。自分が一所懸命やることと伝わるということは、全然、違います。そんなもので伝わるのであれば誰でもプロになれます。がんばったり一所懸命やることは、条件ではあるけれど、それで何かが満たされるわけではないのです。あくまで放り出されたものがどう動くかということです。
ピアニストの人がどう音を飛ばしているかみてみてください。あの人たちは、正しく弾こうなんて思っていないのです。その音がどう飛ぶかというところに意識があるから伝わってくるわけです。
それは最初に考えなければいけないところです。そこで音程が弱いとかリズムが弱いという補強する要素が出てくるわけです。 たとえば声を出すというのが目的の人は、歌を聞くとお客はすぐにわかります。そうすると、いつ声が出なくなるのかというふうに興味が向いてしまいます。これでは全部できて0点です。ちょっとでも間違えたらマイナスの評価になります。
伝わる人というのは何をしているのかというと、そこで常につくっているわけです。好調であれ不調であれ、一番はじめのフレーズからつくっています。レベルの高いところでつくっているから、間違うはずがありません。ただ、何でもつくっていいのかということになると、最終的にそこに音楽が入っていないとだめだということです。
ここのトレーニングは、今の皆には難しいことかもしれませんが、バンドをつけたりカラオケで歌えているのにそれではよくないということは、どこかが大きく間違っているわけです。そうするとその間違いがあることに出てくるところでトレーニングするしかないでしょう。
バンドをはずして、ピアノもはずして、自分一人で歌ったら、音程も狂うしテンポも狂うとするなら、それが自分に入ってないということです。だからこそそこでトレーニングしていけばよいのです。カラオケで歌っていたら、何の問題も起きてきません。聞く力が養われないからです。
ヴォーカルというのは絶対勝たなくてはいけないわけです。こういうレッスンでも同じで思い通りいえてもいえなくても、伝わることで成果となるのです。そのつど自分が実感したことをいっているから間違いということにはならないのです。それが正しいとは限りませんが、歌詞に関しても、音程やリズムに関しても、自分が感じたようにやっていけばよいのですが、しかし、その感じ方をきちんと勉強しなくてはいけないのです。
リズム・音程・メロディなんて分けずに、どういうふうに音楽というのが成り立っているのかというのを早く見抜くことです。これはある程度、積み重ねの問題もありますが、気づきの問題でもあります。それから、そこに何をつくれるかということです。
でも、初心者はよくやりますが、原曲を全部、壊してまで自分でつくってしまうのです。それはまったく違うわけです。自分を出すのだけれど、自分だから通じないのです。自分でない自分が必要なのです。自分が無になったときの声が、正しい声なのです。
それは体の理の上に音楽の世界は音楽の世界のなかでやっていかなくてはいけません。どんな歌を歌ってみても、日本の歌というのは5つくらいの音符で書けますし、向こうのものも7つくらいの音符で書けるのです。
結局こういう秩序があるわけで、それに気づかなければいけません。そのためにコードの勉強をするとか、楽譜の勉強をするというやり方もありますが、本当のことでいうと、音で気づいて欲しいのです。
音で気づくということはどういうことかというと、たとえばこういう歌詞を与えたときに、それを覚えるというよりはその世界の根本をつかめるかということです。音声のなかでそれを感じて、それを出していかなければいけないのです。
では、歌い手というのは何をするのかということになると、日本の場合は定められた通りに歌うということになります。だから退屈になったり古く聞こえてきたり、時代と共に朽ちていってしまうのです。そこでつくることです。そこの客に対して、そこの雰囲気に対して、つくっていくのです。
アーティストの場合は、そういうもので音楽も成り立っている。私もよくしゃべれるなといわれるのですが、相手のことを考えればことばは出てくるのです。しゃべることは自分のなかにあるのですが、もっとしゃべりたいことがあっても、相手のわかるレベルにおとしてしゃべらなければいけないから、創造活動になるわけです。
足らないものを入れていくことです。こういう1フレーズ、4フレーズやってみて、どれだけ自分が足らないのかということを気づいてやっていくのです。よりすぐれた人が隣にきて出していたら、そこで気づくわけです。
すごいことが出てこない以上は、通用しません。合宿へ行くと、4フレーズぐらいだと相当すごいものがその人のなかから出てくることもあるのです。それを曲のよさや歌い手のよさに頼らないことです。
あなた方がこういうものを聞いたときにつまらないと思ったところから、そこをどうやるかということです。そういう意味では、即興的な力を問うてきます。要は、100%の力を伝えるために使わなければいけないときに、そこまでの感覚は体に入れておかなければいけないということです。そういうプロセスはあってもよいし、まだ皆さんはそんなに長く音楽をやっているわけでもないでしょうから、時間はみます。でも結果としてそういうものが入ってないと、出てきません。
それをレッスンのなかでみて入れていって欲しいです。それは音程をとれるとか耳コピーできるとか正しく歌えるという能力ではなくて、そこがあたりまえで、そこから何をつくれるかということです。そのことは同時にやっていかないと、間に合わないです。
歌えている人というのは、必ずしもヴォイストレーニングをやっているわけではありません。歌のなかではそれができてしまうのです。何かのフレーズを与えたときに、自分のフレーズを出せます。それは自分の勝負できるところを知っているからです。
そういう練習を重ねていかなくてはいけません。そこで一つできないことが、どれだけたくさんのことができないのかということを知って欲しい。何一つとして意味のない音はないのですから、それは単に音程がとれないという問題ではないのです。感覚のなかでのことで、一つは音楽が入ってないということと、もう一つは自分の表現というものをきちんと考えていないということです。
今、それをいろんなレッスンで分けてやっているわけです。でもその先に、それを統合するという自分の力が相当ないといけません。結局それを何で統合していくかというとテンションの高さとパワーで統合してしまうわけです。
それがあれば、音がはずれても気になりません。そのテンションとパワーで押さえておいて、正していくということです。体が正してくれます。自分のなかで違うということがわかっていれば、正していけるのです。
やれることというのは、つかむことと、それをきちんと出すことです。これは一度にはできないとは思いますが、それぞれのトレーニングのなかで、どう正されていくのかということです。
それを徹底して正していかないと、5年たっても10年たっても変わりません。こういう曲は苦手だとか、たまたま今日はできたとか、そういう勝負をしているわけではないのです。他の先生がやっていることが結果として、こういうフレーズをやったときに問われるということです。こういうことが5年経っても10年経っても苦手であれば、やはり歌えないと思います。そういう意味でいうと、テストはなくとも、自分で自分のことをみていかなければいけません。
日本の教育というのは自分で気づいたり発見したりすることに、まったく対応してこなかったと思います。全部、答えはこれだからこれだけ覚えたらよいということでした。先生が何かいっても、いろいろなことがそのなかにあるのですが、それに気づかないのです。でも、ここではそれに気づけないと、レッスンになっていかないのです。
ですからすべてのことが1つのフレーズのなかに問われているのだということです。1音として意味のない音はないのです。そのことに対して、自分の感覚を磨いていくしかありません。
どうして歌米のものを使うのかというと、それだけ凝縮しなくてはいけないし、体も使わなければやれないからです。そのつかみができないのはしかたないのですが、その違和感を自分で埋めていくことです。それは外国人になれということでなく、向こうの感覚の方が音と声処理が楽にできるからです。
「おぼえているから」
どうして私がぼそぼそといって伝わっているかというと、場と音楽のルールを知っているからです。
ことばを聞きとるときにリズムと音色で聞きなさいといっています。ことばとメロディではさんざん聞いてきたでしょう。
これをリズムで聞くとしたら「タタタタ タタタタ」(1、4拍目にアクセント)ですが、これをとってつけたように強く出してみてもだめなのです。上のところできちんと発音や発声してことばにしているわけではなくて、もっと違うものを出そうとしています。
それに対して、発声が伴っているからです。半分かすれたりしていても、なぜ間違わないのかというと、しっかりと押さえるところは押さえているからです。ですから、全部のことをいっぺんにはできないとは思いますが、そのポイントというのはあるのです。
いろんな実感というのは自分のなかにあるはずです。それを意識的にとり出すことが難しいのです。でもそれを取り出してみて、それがどうなのかということを自分でフィードバックして修正するのです。そのときのルールというのは、自分のやりたいようにやるのではなくて、音楽のルールに基づいてやるのです。これは絶対にこういきたいと思っても、ここはピアニストも抜こうとしているしと思ったら、そこでは抜かなくてはいけないわけです。そういう中でくみとれるようにしていくことです。
とにかく、イマジネーションと実感を常にもって、それに対して行動、体の反応を起こしてみて、修正していくことでしかトレーニングは成り立たないです。それはアイデアです。発案です。それがわかるためには、その先のイメージがなければいけないです。
歌の世界というのは人工的な世界ではなく、本当は皆のなかにある世界です。それを音楽的なルールに合わせてやろうとするのが難しいのです。その音楽的なルールは誰がつくったのかというと、それはあなたたちが自分だと思っているよりも、もっと深いところの自分や人間やその遺伝の血に流れているものにあるわけです。それが汲みとれないから、自分と一致しない自分が出てきてしまうわけです。
そういう面でいうと、自分がやってきたことでここまでできたのなら、逆にやってきたことではここまでしかできなかったということです。そこで、そうではないという感覚を得るためには、1回はずしてみるしかないのです。1年後、2年後にこういうものをやったときの対応力を自分でみていってください。
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【レッスン③】
「あの人と別れた夜は 泣いてしまったけれど」
今、自分が何をやれたのかということが見えなければ、上達はしません。結局、音と声を扱う感覚が足らないのです。それに気づかない限り、10年やろうが100年やろうが、自分の歌は出てこないということです。
舞台で見れば、はっきりとわかることです。そこが自分で気づかないのか、気づいてもそれを自分で直そうとしていないのです。それはそれでよいのだと思い込んでいるからです。最初は、形を壊しますが、結局、それは、自分で決めるということになります。
人間のやることは全部、外側をいくらとっていても自分のものにはならないのです。バッターボックスでボールがきたら手を出しましたということではなく、そのボールをどこにくるのかというイメージが入っているから、正面で捉えられるわけです。
新しい人を見ていたらわかる欠点と同じことが皆さんにもいえるのです。ですから、一流の人からみると、自分もその程度なんだと思えばよいのです。
レッスンで「ズベルカム ダンツォ」というのをやりました。
英語でも、あれだけ発音を注意していても、本人はそれをいえていると思っているのです。間違ってたら自分で気持ち悪いと思うはずなのに、口で歌っているだけで、自分の実感がまったくないでしょう。
私が見ているのは、ここに出てきた表情とかではなく、その人のなかの感覚です。そのなかの感覚というのもすぐには変わりません。しかし、こういうフレーズで少しは対応できるのも、ここにきて少しはリズムでとったり、音色でとったりすることに耳が慣れているからです。その段階から上がってきたのはよいのですが、そこで停滞しすぎているのではという気がします。それは、自分のなかで、まだ音楽の世界が入っていないということです。
もちろん、音をとれなくても自分で何かやっているうちに、前に出している人もいるわけです。それは自分を知っている上で音楽の世界がたくさん入っているから出せるわけです。そうではない人は、単にここを強めて歌ったりとか、弱めたりしていても人には通用しないということです。
本当に自分の歌った映像をしっかりと見て欲しいのです。それを見たときにプロは違う条件でやっているわけではなく、同じ条件でやってもそれだけ違うということに気づくことです。そこの差というのを見ていかないと、レッスンにしても何か違うような気がします。
歌は応用というのは全てイマジネーションで成立するのですから、そこでのイメージを膨らませたり、アイデアをどう声にするのかということを基本に勉強することです。レッスンでは、すぐに自分のイメージを声にもってくればよいわけです。
舞台というのは、そのイマジネーションのなかでのリアリティを瞬時につかんでなければいけません。そこでトレーニングとして必要なのは、そのなかでこういうのをやるときは、音楽的なものと同時に実感という部分から入らなければいけないと思います。
これを歌うだけの勉強であれば、音楽基礎レッスンでやります。そこから次に表現がつくっていけるところのベースを出さなくてはいけないということです。そこではつくり過ぎてもいけません。ある意味の素直さというのが大事です。
自分を歌えば歌になると思っているかもしれませんが、自分の気づかないもっと深い自分というのがあります。頭だけが働く人は今の感覚をそのまま出せば自分だと思って、ひとりよがりになるのです。ファインプレーは当人が意識しないところで行われるのです。トレーニングは、それに備えるためのものです。もちろん、ある程度意識しなければいけませんが、それを助けてくれるのが体であったり、音楽的なイマジネーションなのです。
せっかくよいメンバーのなかで恵まれてやっているのですから、何が違うのかを気づいてください。誰もがあの人はああいう世界をもっているのに対し、自分はこういう世界をもっていると思っているものです。しかし、自分にはそういうものはないということ、自分は出せていないということを感じてください。結局、声はつかまない限り、放すこともできないし、展開することもできないから、それをレッスンでやっているということです。
「チ・ル・ド・レ・ン」とそういってしまうと、皆さんは笑うかもしれませんが、そうなっているのです。ピアフなどをもっと聞き込んだら、音色とそこの動かし方というのがわかってくると思うのです。そこで自分のできることとできないことというのを自分で見極めて、ここはやってよい、ここはやってはいけないというルールをふまえることです。仮にそれがこういうフレーズをやったときに出てきてしまうのです。
それを唯一、超える方法があるとしたら、テンションの高さかパワーによるものです。声があったらまとまってしまうというところもあります。でも、それだけに頼ってはいられません。パワーだけだとメッセージにはなるかもしれませんが、音楽にはならないからです。
歌にまで歌い上げるという人は、パワーでよいと思います。トレーニングの要素として、期待したいのは、オリジナルな声を取り出すということです。ことばから入っても、音感から入ってもよいのです。しかし、なぜオリジナルな声にこだわるのかというと、音色とリズムで勝負する場合、そこをもっていないと浮いてきて、放れ流れてしまうからです。おさえがなくて浮くというのが、日本語の歌の場合は安易に認められています。それができないのは、できなくてもよいのですが、できた方がよいのなら、どうすればよいかということを何年か後にできるようになるために、みていかなくてはいけません。
「ひとりぼっち」の「ラララー」のなかにも、いろんな表現があるし、「ひとりぼっち」というのもその人なりのいろんな「ひとりぼっち」があります。そういうものを実感として一致させて練習していくことです。
流れにのっかってしまうのは、悪いことではありません。音楽にのってやろうとか、これは自分が語るようにやろうとか考え、そういう複雑なことを統一してやるように方向をとればよいのです。ただ、一般的にその要素は無意識のうちに入っているものですから、それを取り出すことを部分的にトレーニングしているわけです。
音があっている、あっていないということのチェックは、Wでやっています。でもそれが意識下で統一して使えるには時間がかかるのです。そういうことが使える方向に向けて、それぞれのトレーニングがなっているのかどうかということが大切です。
本当のことでいうと、声や音程やリズムよりも、伝えるというところにしっかりと核心を握っているのかということです。
私が悪い例というのを見せるときは簡単です。まず、集中を解いて、方向も目的も解くのです。そのとき声を出そうとか、音程をとろうとかを考えたら、必ず表現からはずれ、いい加減な声になってしまいます。サッカーでもバスケットでも、ボールをとろうと思って動いているわけではないでしょう。スペースが開くように動こうとして、反射的にそう動いているのです。反射的に動けるルールというのがあるのです。
それは音の世界でもいえるのです。ここを抜いたら、ここで入っていくとか、ここでこういったら、次はこういくと気持ちよいとかいう大きな流れあって、その感覚を自分で調整していくしかないのです。その調整の能力をつけるためにこういうフレーズの練習をしているのです。中途半端にやると調整どころか音があっているかどうかのトレーニングになってしまいます。
一番大切なことは、今、皆さんの耳でこういう曲を聞いたときに、何が触発されるかということです。たとえば歌詞のことについて、あとで質問するといったら、歌詞のことが入るでしょう。聞かせただけだとやっぱり入っていないと思います。
音声のことは、歌詞を聞いていたら音声やリズムが聞けないというのではなく、全部そこに入っていなければいけないわけです。正しく知識としてかえせなくても、少なくともこういうベースのペーソスの歌なんだ、歌い手はこういうことでこういうふうに変えてきたんだということを感じなければいけないのです。
そういうふうに感覚を全開させないと全身動きません。聞いたときにそれをどう捉えるかという問題と、表現者としてそこに立ったときに、無意識のうちにどう動かしていくのかという問題が両方あると思います。
とても大きな問題だと思いますが、とりあえず歌ってみているという段階では、本当の意味では、まったくトレーニングになっていないと思います。息をつかまえてみたら、ことばが始まる。歌が始まり、それは全て息が始まるというところからだと思います。
登場人物をしっかりと描くのは、動かすためです。それがストーリーとしてつながっていたから、漫画となるのです。その表現力があればこそ、プロでずっと続けてこれたし、絵もうまくなっていったのです。
デッサンをきれいにやることをどんなにやっても、他にきれいに描ける人はいくらでもいるわけです。登場人物は、書き手の意図した動きというだけでなく、人格をもっていくのです。こう動きたいとか、こちらにいきたいと彼らがいってくるのです。
それは音の世界でも同じです。それを決めつけ押さえつけてしまったら、歌の世界も壊れてしまいます。歌は自分のものではなく、投げ出されたものです。練習して欲しいのは、他の人に働きかけるものとしてです。
「ひとりぼっちの」のフレーズでも、自分の感情移入ではなく、「タ」と音が出たときに、何か働きかけるものが取り出せるようになることです。ことばの力というのは、ことばになったときには、それは消化されるべきです。シンプルな表現になってもよいと思います。
そこは音にあずけてしまってもよいとは思いますが、ただ、そういうプロセスを経てないのであれば、まずセリフのトレーニングをやってみるのもよいと思います。
それで自分が出したときにそれが本当かうそかというのは、見分けていかないといけないでしょう。自分の歌だから、自分のセリフだからといってそれでよしと認めると思い違いをしていることは多いのです。
歌米の歌には、常識はずれのところがあって、つかむところだけつかんだら、あとのところは、何をいっているかわからなかったり、いい加減に飛ばしていたり、歌ってなかったりしていることも少なくありません。
名唱あっての名曲といわれるものに対し、日本の場合はすごくきめ細やかです。ことばとメロディをしっかりとふまえないと伝わらないというふうに教わってきたからというのもあります。日本にいたら、耳はことばとメロディが優先されます。
だからこそ、音色とリズムを中心に聞く練習をしてみてください。
そうするとこの1オクターブでも相当、難しい課題に感じると思います。だから、上達できるのです。そこでやれている人と何が違うのかというと、大半は呼吸の力です。
声を出して歌っているところだけがみせられるものという考え方は、やめましょう。大切なのは、歌っていないところなのです。
歌を動かすという前の呼吸のところですぐれた観客は予想を立てて聞いています。そこで声量を期待しているのではありません。そのイメージを期待しているのです。そういうことでいうと、もっと同じものを効果的に使っていけばよいと思います。
ほとんどの人が「あの人は声があるから」とか「ポジションがしっかりしているから」ということでみていますが、発声上の違いが表現効果に直結しているのではないわけです。
ポップスでいうとむしろ、感覚の鋭さを勉強するのに声が出ることや、リズムとか音程がパッととれるのも有利だということです。だからといって、それが全てではないのです。
声がよく、音程、リズム、ことばがしっかりいえていても、つまらない歌は多いです。その人が舞台をやっているのか、ただ、歌っているのかということです。だから表現のためのトレーニングをやればよいわけです。
結果として声が大きくなるのも音程がとれてくるのもよいことです。しかし、いろんなアプローチができるのです。「これだ」と自分で決められるものがあるというのが大切です。決められたものはまねできません。
相手に投げかけたものが何を起こすかというところで考えてみればよいと思います。音程、リズムをしっかりとれなくてはいけないというのは、99%伝えることの方に精力的にならなければいけないがために、そういうことがネックになっていたらだめだからです。それがうまくいかないときに自分の練習課題として克服していかないとなりません。
最初は長くやっていると、何かが積み重なってきているものと思われがちです。あるレベルからいうと逆に長くやっていると鈍感になっていくことも多いのです。だからこそ場に出て正していくことが必要です。 そのなかで新たな発見や工夫がなかったり、より厳しい基準がなかったら、可能性が下がっていくことになります。
年齢は関係ないです。最初がどこまでできるかということより、そのあとにどこまでそういう問題をつきつけながら勝負しているかということです。
発声も、音感、リズムも、歌のなかの音楽をもっているがために消化できている人がステージをやれているのです。発声がよいわけでも、音感、リズム感がすぐれているわけでもなくてもステージはできます。逆にそういうものがすぐれているのに歌での働きかけがないから、だめな人こそ自分を無にして学ぶべきです。それを自分で壊し表現を獲得しないといけないということです。
カラオケは声がまったく出なくても、ちょっと音感とリズム感があればうまく歌えます。それは自分の力ではないということです。だから、まわりで認められ、ここで評価されない人はよくよく気をつけることです。それを直したくて入ってきたのに自分が直せなくしてしまうのです。
ピアフみたいなものを聞いて、そういう難しいことから入った方が自分の感覚の方が正されていくと思います。向こうは世界で認められてきたわけです。だから正しいということではないのですが、そこに少なくとも何らかの本質的な要素はあるということです。それはピアフの要素ではなく、人間を超えて人を動かす要素です。
遺伝的なものや人類のものにある深いものに触れていくことです。そうすると、中途半端な表現をしたときに吹っ飛んでしまいます。
ここのよいところは、他の人がいかにできていないかということをみることができます。そこに自分の問題を拡大してみたら同じだと思うのです。今日のようなトレーニングのなかでもわからないことばかりでも、それが練られていったら何とかなる、というものとして出していければよいということです。それがベースです。それを修正するのはテンションです。その覚悟のところでトレーニングができているかということです。