課題曲レッスン 1133
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【「兵隊が、、」「今宵私が」2】
【「アルディラ」】
【「ケセラセラ3」3703】
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【「兵隊が、、」「今宵私が」2】
フレーズを聞いたときに、どこに中心にもっていくのかを考えることをくせにしてください。「あなたのむねで」か「ききたい」か「このうたこそ」か、どこが中心なのか、どれもが、その人の感覚と力しだいで中心になるのです。
ただ、フレーズからいうと、最後の「いまいちど」は無視してはいけません。だから、これをピークにもってこいということではなく、自分なりに考えなくてはいけません。体の乱れや、統一感、集中力の乱れはこういうところにでます。極端にでます。下できちんとやった上で、展開をしていかないと歌を支えきれなくなります。そこから動かしてみてください。
「あなたの」の前半の部分はつめてもよいし、ひろげても、よいと思います。このあたりに関しては、皆さんの感性にまかせます。皆さんが思っていることは、そんなに間違いはありません。どういう正解があるかではなく、その人だったら、こういう形が確かに慣れているだろうということです。そこから冒険をしてみることで、違う課題にはなります。その時間と手間を惜しまないことです。
典型的な日本人のフレーズのつくりかたを破りましょう。
きちんと踏み込んでおいて、もっていって、踏み込んでおいて「いまいちど」という形にするのです。「あなたの」で、ずらしておいて「むねで」で踏み込んでおいて「ききたいの」で、ここまでもちあげておいて「このうたこそ」で違う線をだしておいて、「いまいちど」で終わると、4つで展開しているスタンダードなタイプになります。
ほとんどの人は、同じになってしまうか、平坦に終わってしまいますから、それらと同じにならないことをするのです。そのことを考えて、言語に近いところ、あまり操作しないところで捉えたいものです。
同じ音域で、同じところなのに、イタリア語でやっているほうが、声を密に使って、大きく揺らさないで、囲みも入れないで、楽にできています。4つという感覚もなく、4つをおいています。
日本人の場合は、ここで切りたい、ここで入れてみたいな感じで、少し意図的につけています。すると、サビからの効果が違ってきます。日本語的にそれだけ歌ってしまうと、後で盛り上がっても、バンドのパワーで盛り上げるしかありません。
ところが、こういう出だしの仕方ですと、同じくらいのメリハリでも、相当大きく聞えてきます。この歌自体が、動き出してきます。だから、小さく歌えということではなく、ここだけの構成のなかで、体と声のことと、オリジナルの音色をどういうふうにしていくかを考えてください。
最初から細かな構成を考える必要はありません。大きな筋道をつけてください。自分なりにやってみてください。ことばをつけなくても構いません。
複雑にするのではなく、シンプルに1本通っていなければいけないということです。全部に対して、その上でどこを歌にするか。歌にするということは、なにも歌っているところだけではなく、ことばで歌にする、響きで歌にする、フレーズで歌にする、間のところで歌にする、要は、音楽がおりてきたり、何か聞えてくる場所をどこでとるかです。これは、難しいのです。
ケースバイケースで、必しもここが歌で、ここが歌ではないといえるものではありません。そのときによっても人によっても違ってきます。実際、練習やリハーサルの場合と本番の場合では、まったく違ってしまうということは、よくあります。入るはずの歌だったのに、全然、入らなかったとか、到底前へ投げていた歌だったのに、なぜか、入ってしまったということもあります。それは、しかたないのですが、ある程度、意図的にしなければ練習にはなりませんから、そのとき体が逃げないようにしておくということです。
煮つまっていかなければいけません。まだまだ問題があるような気がします。
それから「あなたの むねで」での「むねで」は、メリハリのつけ方をことばから捉えることができればよいと思います。粘りがありません。こういう歌になると、難しいのだと思いますが、音楽的に粘りや何かを残すということは、フレーズをまいてできるものと思います。
日本語はそうするしかないのですが、ことばそのもののなかにも、「ききたいの」のどこかに、感覚を変えておくだけで違うと思います。
感覚を音で出すから音楽なのです。そこから跳ね返ったところがやわらかくなるとか、ひびくとかふわっとなるというところで音楽が生じるので、それを先につくってはだめです。
皆さんが考えるべきところは、踏み込むところ、伝えるべきところ、きちんとおくところで、あとは、まかせるしかありません。その後まで計算してしまうと、つくりものになりかねません。とても微妙なバランスだと思います。
「あふれるの」「る」がご存じの通り、日本語が残るようにしています。こういうものは、悪くありません。できる人がする分には、よいのです。
前半は、日本語のテクニックのようなものなので、後半の「むねにあふれる」のところから入っていきましょう。まねするのではないのです。参考にまねして、同じフレーズになってもつまらないでしょう。
自分でフレーズをつくっていって、動かしながら、きちんと形におさめればよいのですから、比較的楽です。ただ、キイの設定などは慣れないとやりにくいかもしれません。
「こころにしみる」から入れたら、入ってみてください。最後だけでも構いません。自分のなかで設定してください。
いくつかポイントがあって、「こころにしみる」の「しみる」のところ、「しらべは」のところも同じです。全部2つ目にあります。それを踏んだ上で、フレーズをつくらないといけません。
それから、上にいくのはよいのですが、上にフレーズを作った分だけ下の支えをきちんともっておかないといけません。歌のなかでは、下が見えなくても、これがきちんと安定していればよいのですが、これが、なかなか安定しません。それをきちんとことばのなかでやっていかないといけません。
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【「アルディラ」】
今、いくつか聞いてもらった曲は2オクターブあります。大曲といわれるものはだいたいこれくらいあります。ある意味でこういう歌は簡単でしょう。細かいことは何もやってません。その辺をしっかりといれて欲しいということです。音程やリズムがとれていないわけではないし、声のコントロールできていないわけではないです。
こういうものを聞いたときに、このように大きい声が出ないとか、高い声が出ないと感じてしまうのですが、そのまえに低い声も、小さな声も使っているのです。そこの部分で同じことができないのに、高い声も、大きな声もないということです。
その前にそういうものが入っていなければ、ヴォイストレーニングも成り立たないし、歌の世界もいったい何をやっているかがわからなくなります。そこの評価をつけていくのです。世界各国では、この基準はきちんと満たしています。
どうしてこの時代のものを使っているかというと、わかりやすいからです。ここみたいにマイクひとつでミキシングも何もつけないでやるとこんな感じになるということです。今のコンサートというのは、ずいぶんいろんなものをつけています。最終的な形はどんなものでもよいのですが、トレーニングのプロセスとしてできることというのは、今ここできちんと自分の声を出していくことです。そういうことではシンプルにしておいたほうが気づいて学ぶのには、とてもよいわけです。
ピアノを弾くことが目的じゃなく、演奏することが目的なのです。すると、その演奏のイメージが音の世界で人っていなければいけないのです。2曲の「ジンガラ」は、まったく違うテンポ、違うキィ、違う歌いかたです。だから結局どうするんだということをその人が決めていかなければいけないのです。それは勝手に決めるのではなく、その人のなかに基づく原理にそって、人間として働く原理をきちんと取り出すということです。これが基本です。
そしてそれぞれの違う体をどう生かしていくかということです。その2つをきちんと煮詰めていかなければいけません。今の状況をみていると、はじめの2年はクラシックでも何でもよいのですが、いったい2オクターブで3分間で展開されている曲に、どれだけのパターンや要素があるのかということを勉強するのです。そのことはとても有意義なことです。
基準ができない以上、上達はしないです。パパっとやっていくと、人様並か、人様よりも頭ひとつでるくらいにはなりますが、とても2年後、3年後やっていけません。というよりか、だいたい2、3年後で頭打ちになってそれから落ちていく方が多いのです。
日本の場合はそれ以上の表現というのは声という音のなかでは必要とされません。そういうところは皆さんのなかで正されていくようになっていくとよいと思います。量をたくさんやればよいといっても、早くそれを質に変えていかなければいけないし、そのために、それを感覚できる部分の感覚と、それを少しでもつかみ出せる部分の体というが必要です。ちょっとすごいなというものも、よりすごいものをみたら吹っ飛びます。人間の欲って限りがないですから、その範囲を超えたものをよくみておくことです。
「ティセイトゥ アルディラ」
歌い手はどうしてイメージをいれているかというと、そういうふうに歌って欲しいからではないのです。だから、そういう練習を2年もやっていたら鈍いだけになります。何でこういうものを聞かせるのかというと、まねしなさいということではないからです。
一度自分のなかにきちんといれて、そこから表現として取り出しなさいということです。音をつけると、音をこなせる力はないと、「ドレミ」しか聞こえてこないでしょう。聞いたものはそうではなかったはずです。前の人と同じことをしていたら、間違っていると思ってください。そんなに簡単に表現というのは出てきません。ですから体から接点をつけていくことです。次はことばでやってみましょう。
「いのちかけて」
劇団のオーディションとしては、このくらいの課題で最初の審査はすぐわかります。出てきて歩いている姿で半分はわかるものです。曲を聞かせるのは、これだけのテンションを持たなければ、それだけのコントロールもできないということです。
今やったことは、ことばでいうと日常的なことです。表現でもなんでもないのです。高校生の劇団以下です。できないことはしょうがないですが、できることをやらないのはお互いにメリットがありません。
だから常に音声で表現する舞台としてレッスンは求められていると考えてください。そこでつかまないとどこにも入らないです。そこにリズムをつけて、音程つけて、歌の構成考えてみても、一つひとつの音色、そしてそれを感覚でくみとって、わずか1秒の間にいろんな形で変えて出していくというようなこともできません。
ただひとつ、今みんながつかめるところは、「ハイ」とか、「いのちかけて」をひとことでいうところ、ワンフレーズを思いっきりいえるところでいってみる、そういうところからでしょう。
練習は練習、本番は本番ではなく、全部本番のつもりでやるのです。練習は家でするのです。よくわからないならば、いろんなことをやってみることです。
「いのち」だけでいってみましょう。全体的に何か似ていますが、似ているということはよくないのです。評価されません。似ているということはまわりに合わせるために自分を殺してしまっているわけです。だからといって、無理に奇をてらって一人よがりに作ってみても、休の原理からはずれては、よくないので、そのギリギリのところやるわけです。それで難しいし、だからひとつしか決まってきません。その一つを取り出すために100パターンやって99は捨てなければいけません。
「アルディラ」といって、次に音をつけてみてください。伴奏に合わせる必要はないです。今ので自分の表現がわかると思います。
「アルディラ」といったときに、ことばが自分の思いを裏切っていませんか。「アルディラ」と何か伝えたいというときに、何か違うことが起きているとしたら、それは自分で自分を裏切っているのです。体とか心でこれをきちんと握っていないからです。
音楽の勉強してきた人ほど、こういうものはわかりにくいようですが、そこのイメージをもつことです。なぜあんなにテキストや分厚い会報とかを与えているかというと、あれを読んだら頭でっかちになるのはわかっていて、でもそれを知ったうえで、それだけ読み、考えてみたら捨てられるだろうということで与えています。
大切なことは、トレーニングもレッスンも歌と同じです。そのなかで自分のイメージを増幅して作っていかなければいけないのです。つくるというのを忘れたらだめです。つくるために感じなくてはいけません。そうしたらこういうレッスンでどれだけ感じられるかです。
ここで演奏ができる人との違いというのは、一つのフレーズを与えたときにどれだけそこから感じられるかどうかということと、その感じたことをどう出せるかどうかという違いです。出せる、出せないというのは待ちますが、感じる感じないというのは、ずっと感じないままだと何も出てきません。そのうちそれでよくなっていきます。鈍くなり、才能は閉ざされるのです。
まず「アルディラ」というのをイメージして、その感じを残しながら入れていくか、いっている中で感じてやっていくかのどちらかにしてみましょう。自分が感じないことをお客さんが感じるというのは無理なことです。だからいろんな経験をたくさんのものを聞きながらつんで欲しいのです。雑にいいかげんに歌っていても、それだけインパクトをもって通じてしまうものがあるというのも歌の力とか声の力です。そのかわり体も心も出し惜しんでいません。だからそういうことを出し惜しむようなレッスンはやらないほうがよいです。
リズムの練習や音程の練習のときには、それは部分的な目的でのトレーニングですので、そういうもの全てに体も感情も使いなさいということではないのです。それは今は無理なことです。しかし、最終的にそれらを意識しないで使えるようになって初めてそれが身についたということです。結果として身につけていくという練習をしてください。
私の声とか、まわりの人の声とかを本当によく聞いてみてください。今までそんなにいろんな人の声を感じながら、真剣に聞いてきたことはないと思います。それが伸びない第一の原因です。本当にヴォーカルの声の1秒、0.1秒、0.01秒のなかに何が起こっているのかを勉強してください。
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【「ケセラセラ」】
音、ことば、声に関する基準がわかってきたら、こちらがあまり説明しなくても自分のなかで判断がつくので、グレードを上げていく形にしています。同じ話を繰り返しても、(本当はそれはとても大切なことなのですが、)その人によって、ことばをかみ砕いて説明しなければいけない場合と、一言で伝わる場合と個人差があります。
さらにタイプ別に分けていこうと思っています。皆さんはこれにでているだけ前向きです。ここを理解したもらった上で、何が必要だということをわかった上で、こなくなってしまうのは、私は構わないと思っています。何も全てのことが、ここでできるわけではありません。
ここでできるのは、本当に1つのことです。かなりレクチャーやいろいろなところでいっているのですが、そこをわかってもらうのに時間がかかりすぎています。もっとも個人的に時間をかければわかることではないのですが、何かがあってここに来る人が少なくなってきているようです。何かを見つけに来る人が多くなってきました。ここはもってきたものを全部受け入れる体制をとっていたのですが、そういかなくなりつつあります。
ややもすると、あるステージができている人達にとっては、退屈なレッスンになりかねません。「ぐたぐた能書きをたれている暇があるのだったら、声の1つも教えて」ということになりかねないので、分けようかと思っています。ただ、見ている限り、出てきている人達はそんなに問題はありません。あとは、待つしかありません。
出てきていない人は、私はどうでもよいと思っているのですが、そういう人はいろいろな業界を回ったりして、己の力のなさをひけらかし、ここを誤解されかねない行動もとります。ここを知らない人に、いろいろいわれるのもあまりよいことではありません。そういう考え方を、会報などのまとめたもので入る前にきちんと提示しなければいけないということは考えています。
プロでもアマチュアでも、何をもって規定するかということなのですが、ここは、私が考える意味でのプロをめざしています。それは、別にデビューしなければいけない、CDやライブにして人前で歌わなければいけないということではありません。その人間がやりたいことに対して、技術を習得していて、やりたいことにできるということです。やる、やらないは、別のことです。
もっと簡単なことでいうと、誤解を招いてはいけないのですが、1人で金がとれるようになるということです。いろいろな学び方があって、身につけなければいけないことは、いくらでもあって、では、どこで答えがでるかということになってしまいます。別にお金で計るわけではありません。
皆さんがお金を払って惜しくもない、何万円払っても、その人と接したい、その人が出した作品を得たいと思う価値をつけない限り、結果として価値は出てきません。プロとはそういうことでもあるわけです。
ヴォイストレーニングや歌というものは、慣れると気持ちがよく、リラックスもします。当然、歌に対し、声を出していくことをやらなければ、そのこと自体が、違う意味でおもしろく、心地よくなっても、音楽を聞いていれば幸せということにはならなくなります。これは、どんな世界でもそうです。ちょっとやってみる分には、おもしろいかもしれませんが、それが生活になったときには全然違います。ですから、好きなことしかないのです。その好きなことをより深めるところにもっていくために、そのまわりの世界も引き受けなければいけない場合もあります。
ここの価値観というものは、私自身の生き方なり、ここを手伝ってくれている人達の生き方に似てくるのですが、基本的に世の中がどうであっても、自分がやれればよいのです。自分に力があればよいのです。その力のある人間であってこそ、どこかに行けば、まわりの人間を幸せにできる。あるいは、日常の生活で疲れた人達を元気づけられる。そういう人間が、いつもくつろいで、たらふく食って、ぐっすり眠ってという生活をしたいと思ったら、出て行ったときにどうなりますか。他の人間も戦っているのです。いろいろな事情があるのです。
ここは、皆さんが会費を払っているから教えてあげるのではなく、多くの人は力がないから、きているのです。時間もなくては、ここには来れません。空間でも、北海道や沖縄の人なら、もっときたい、いくら払ってでもきたいと思っている人がいても、これません。
健康でもなくては来れません。それをきちんと自覚してください。
自分の投資なのです。私が、お布施や寄付金がいらないといっているのは、そんなものを貰っても、何かを与えられるわけではないからです。
自分が千円払ったら、千円以上のものを取っていくということです。ここのシステムをいろいろと変えるべきところもあると思うのです。確実に1日送った、千円払った、千円分自分に身についたと、表向きはともかく、知識ではありませんので、何ページから何ページまで身についたということではないのです。ただ、それを体に確実に刻んでいくのです。
ここに毎日きている人もいますし、ここにきて、いろいろなことを築いてもらうことはよいのです。しかしここはトレーニングの場ですから、結局、お客さんからお金を取っていないところで救われているというだけです。その分だけ実験ができるということです。
それだけの話であって、1つの戦いの場であることには、変わりありません。でも、お客がいても成立する気迫は必要です。ここですべてが問われていて、ここでできないことは、他でもできないと思わなければいけません。ただ、1人で自立してやるということの場合です。
バンドのメンバーが優秀であって、プロデューサーがついていて、アイドル路線でということになると、これはまた別です。あくまで1人でということです。というのは、ここ自体で与えることが、バンドやアレンジ、照明やプロデュース的なショーではなく、1人の肉体に対して、その技術なり、歌なりを宿していくというところまでしかできないからです。あえて、そこに焦点をあてています。
音楽を聞いていない人が音楽を聞けば、ある程度、はいってきます。体を今までそういう形で使ったことのない人が使えば入ってくるのです。皆さんの体、あるいは、人間の体というところにベースをおいている以上、変わっていきます。しかし、それだけです。そこでさらにつくらないとだめです。
ですから、皆さんが器用に歌えて、何となく業界の3番手くらいでできそうだという場合には、ここを出たときに好きにやればよいのです。ここでいる2年間は、そんな中途半端では、もったいないでしょう。それは、1番手がいたら必要ないことであり、その人間のオリジナル、原形からそれているということです。そしたら、大して伸びません。ならばもう旬でなくてはいけないということです。
ここは、グループのレッスンや個人のレッスンなどいろいろとあってわかりにくいので、やれるところというのは、皆さんのオリジナルのところです。それが、たとえ歌になってなかろうと、今の音楽からは理解できなくとも、オリジナルのものが出ているものに対しては、高く評価することです。
それは、皆さん自身にはわからないかもしれませんが、心が動いたり、何か感覚でキャッチできたことです。日本のようにわかりやすいものを認めるというより、わからないものに興味をもちますが、わからないものが、価値があるか、価値がないかは直感に頼るしかありません。それがわかるようになることです。もっと難しいのは、価値があるものになっていくか、なっていかないかということが、その人がどこまで本質をキープできるかにかかっていることです。
キャッチャーのようにミッドを構えて待っていても、ほとんどの人の声は届きません。前に出そうとしない、ぶつけてこないのです。ボールを自分のなかでいろいろと振り回してみたり、地面に叩きつけたり、上に投げたりしているだけで、それでは取りようがありません。ストライクゾーンとはいいませんが、大暴投であっても、キャッチャーが立ち上がって取ろうと思うような球を投げてこない限り、動きようがないでしょう。仮に大暴投であっても、ワイルドピッチであっても、ワンバウンドしても、とにかく何か届いたというときにピッチャーがその感覚をもっていたら、ストライクゾーンというものがわかってきます。
ドまんなかもわかってきます。だからといって、ドまんなかに投げたから試合に勝てるわけではないが、上達していくには、ドまんなかに投げることが基本です。そのことが自分でできないといけません。ここにいる間は、トレーナーがそれをやってくれます。しかし、自分のキャッチャーは自分でもたなければしかたないのです。その位置が、あまりに定まらない場合に、ここの基準を使うとわかりやすくなるということです。
まず、前に出さないとだめです。思いっきり前に出そうとしたら、何事も1つになります。ボールを思いっきり投げてみると、腕を痛めるかもしれませんし、肩を痛めるかもしれませんが、少しでもうまく投げられたら、体も気持ちも1つになります。それができないときに歌にはいってしまったり、音楽にはいってしまうと、そこを踏まえてからの表現になってきません。
特に、日本人の場合は、先に飾りをつくってしまいます。体と呼吸と、その人間が表現しないといけないような原初の動機をきちんと取り出すということです。その判断基準が甘いというよりも、最初はわかりにくいのです。
それは人間に5、6人いってみて、こういうものが人間なんだ、こういう人ばかりなんだと思っていることと同じです。100人、1000人にいわなければわかりません。たった1人か2人に いうために、100人、1000人にいわなければいけないのです。だからここにきて、3日でわかるはずがないのです。
2年間、毎日のように通ったほうがよいのは、2年、3年、10年といった年月のなかでたった1日か2日、キイになるポイントがあります。それに巡りいうために続けなくてはいけないのです。たくさん来いということではありません。
あまりきていないからだめということではなく、その人の事情に応じてでよいのです。ただ、1ヵ月に1日しか来れないという人と、毎日、本当はこれることができるのに2日くらいしかこない人とでは、違ってくるのです。ここに来なくても、それ以上のことを他でやっていればよいのです。ただ、そのときに、きちんとしたパスワークというか、その感覚がつかめているかどうかということです。それができるのであれば、ここに来なくてもできると思います。
ここがよいのは、今ここで問う場が常にあるということです。自分でやっているときにできても、ここにきてどうかということの方がステージに近いレベルでの問いとなります。
声にもいろいろな声があります。100の声を出しても、1つの正しい声はわかりません。それをトレーナーにいって「私の声は、この3つの内のどれが正しいのですか。これですか。
では、これを伸ばしていきましょう」というようなものではありません。体も感情も、肉体も呼吸も変わっていく中でいろいろな声が出てきます。その声のなかで最終的に自分が使っていきたい、あるいは、使っていくと体が開放されていく、気持ちも相手に伝わっていく、そういう声が出てくるのであり、最初はありません。
あれば、一日教えたらできます。だから最初から答えを求めないということです。いずれわかってくるというよりも、やっていたら定まってきます。人間が1つの体を使って、1つのことを伝えようとしたときに、そんな何通りもできません。野球だったら、そういうフォーム、ラグビーのタックルだったら、こういう形、柔道だったらこれといった基本がきちんとあります。音楽に関しても同じです。
まず、その位置にきちんと立つということが大切だと思います。自分の足元をきちんと見つめることです。足元をいくら深く見ても、それは自分のなかでわかっているだけで、キャッチャーにはわかりません。それを常に投げて試していかなければだめです。
投げて、投げられなかった。肩を痛めた、何かとんでもないことになってしまったというところで気づいていけばよいのです。声や歌を完成形で考えているからだめなのです。人間と同じで、どこが完成しているとか、何が完成なのかはよくわからないのです。1オクターブ歌えたら完成、1曲歌えたら完成ということではありません。声もそうです。音楽も歌も全部媒体です。表現でさえそうです。そうしたら、そこで何を伝えるかということだと思います。
芸術とスポーツは似ています。オリンピックを見たらわかるでしょう。アストリートというものは、そのまま肉体芸術のようなもので、そこから音楽を宿していくのか、どの形で見せていくのかによって随分違います。ただ、新体操などは、体操で鍛えた人が、その体を使って芸事に入るわけです。そういう心や感覚があれば、ゼロから始める人よりも、歌もやりやすいでしょう。その瞬間、1分をどれだけ使えるかという勝負になるとスポーツ選手は強いものです。
しぜんでありたいし、声もしぜんにしていくと出ていくのですが、それは所詮、しぜんのなかのものしかなく、人間も赤ん坊のときはしぜんでよいのです。しかし、そのまま動物として生きられるがというと、現実があります。ですから、実践していかないといけないと思います。
心から楽しむのは、オリンピックでもスポーツでもアマチュア精神でよいのです。それを手段に、そのことをやっていくために、価値を出していくのです。その価値を発揮させたければ、自分1人で泳いでいるよりも、オリンピックに出たほうがわかりやすいでしょう。するとそういう仲間が集まってきます。そうでないと、自分が正しいことやっているのか、本質的なことをやっているのかはわかりません。そこで間違えます。
なぜ、スポーツ選手が自己流でやらないのかということを考えればわかるでしょう。自分のやっていることというのは、自分のなかでは見えません。それは、無理なことです。舞台でやっていて見えたと思っても、結局、自分のなかで理解できる自分が演じている程度のレベルの芸なのです。それが天才的に高い人は、自分を見ないでもやっていたら自分の芸になります。しかし、それを人々は認めませんから、皆に伝わる芸にはなっていかないでしょう。
相手の心を読むことと、それを裏切ってでも、自分が伝えたいことをきちんともつことの両方が必要です。伝えたいことが何かは、最終的なものです。
音楽や歌自体はおもしろいのですが、基本的にアーティストの役割は、現実が間違っているからといって、山のなかに引っ込むのではないでしょう。“自分は違う”というのではなく、自分で世の中を変えることだと思います。そのために歌を使うことだとは思いません。自分は自分の真実をきちんと突き詰めていくというようなことで、よいのではないでしょうか。
日本人でも笑顔の素敵な人はいます。外国人ほどではありません。ここでにもいるかもしれません。それは1番よいことです。それで、食べていけます。そういう人のその顔に巡りいわないところに、難しさがあるのです。
本当の笑顔ではなく、演じている笑顔ばかりのなかで、それが本当の笑顔なのは、何があるのかを見なければいけません。
芸事というものは「天気だよ。気持ちがよいよ」それだけでは、芸にならないのです。その前に嵐がきていてそれから晴れないと、天気だよといっても、誰も振り向きません。誰もよかったと思いません。
「春がきたよ」というのもそうで、冬があって始めて春がきたと成り立つので、1年中春だったら、春といえないのです。春が来たり、天気になったからといって、ずっとそれが続いたら、もう春とは呼べないし、天気と呼べません。
ですから、どこかの時点で完成ということがないのです。ただ、何か成しえて一息つけた。そのためにずっと、9割9分つめていくのです。それは、成し遂げた瞬間壊れます。また、0からです。今度は前よりもよいものをつくらないと許せなくなってきます。この繰り返しです。
こういう世界は、とにかく、諦めないことだけです。本当にそれしかありません。続けることというと、難しいかもしれませんが、諦めないことです。どうなっても諦めないことです。死ぬところまでいっても、諦めないことです。
何も成し得ていないのは、たまにライブでもやって、プロのつもりで騒いでみても、そんなものは諦めるも諦めないも魂が宿っていませんから、ちょっと大変になってきたと思ったら消えていきます。消える理由はなくとも、存在し続ける理由がないからです。
ですから、いろいろな人がいろいろなことをやっても、私は全然気に止めません。5年先、10年先を見てみなさい。足元をきちんと見ていないところに根差したものは、何も残っていないでしょう。ただ、その時期はそれで楽しかったということであれば、それはそれでよいのです。
しかし、これから後何年生きるのでしょうか。もう1年で死ぬというときの1年の過ごし方と、10年、50年、何年生きるかわからないという感覚は違うでしょう。1年で死ぬといったときに、中途半端にバタバタ騒ぐかといったら、思いきり本気で騒ぐか、そうでなかったら自分の本当にやりたいことをやるでしょう。そのことを続ければよいのです。というと簡単なのですが、死に損ないでもない限りは、難しいというのが現実でしょう。
1人で、誰も知られなくても作品をつくってきたら、ここは場があります。それが認められないとしたら、その作品を認めさせる力があなたにないのです。それだけのことです。オリジナルのものであれば、あるほど自分のキャッチャーが他の人と違うところにいればいるほど、それを人を伝えるためには、完全な技術と、ものすごい情念がいります。
中途半端に出しても、変わったことをやっているで終わってしまいます。そのことをやっていたら「まだやっているの」「もっと自由に楽に暮らせばよいのに」といわれます。それを投げ出してしまったら、自由にはなりますが、自分の勉強ができなくなります。甘くなります。それはやはり、本当の自由でないのです。
そこの基準がアマチュアはアマチュアの基準でどんどん上がってきます。だからプロはプロのなかで上がって、さらにその上で通っていかないといけません。ここでいっているのは、オリジナルな声、オリジナルなフレーズです。いろいろな才能が、皆さんのなかにもあるのです。
世の中にうまく合っていきやすい才能と、合っていない才能があります。合っていなければ、世の中を引っぱってくればよいのです。1つのことを5年くらいやっても世の中は動きません。10年くらいやっていれば変わってきます。そのメイキングオブが人生の全てです。
皆さんは、舞台がプロの最高の場で、作品だと思っているかもしれませんが、基本的には全てメイキングオブなのです。それを支える見えない力の方が大きいのです。
映画でも上映は一部分だけです。編集してわかりやすくしたものがステージであったり、舞台であったりするわけで、それはエッセンスです。エッセンスというものは、それを組み立てるために、何日も、ヴォーカルそのものでいうのだったら、何年かかっているかわからない、そこのメイキングオブの部分なのです。それは、他の人には見せられません。どこで感動を味わって、どこでやりがいを味わっているかといったら、ステージは結果にしかすぎません。試合と同じです。常に、このステージはこのステージで全てと思っていくことでしょう。
練習だと思ってやっていては何も変わっていかないのです。本番ってどこにあるのということなのです。練習の場が全部完全に自分で勝負して、勝ち得てこない限り、本番の場はありません。それを考えてみたら、練習の場はすなわち本番です。
今日のことは今日で結果を出さなければいけないし、結果が出ないからだめなのではなく、気構えとしては、結果を出していかないといけません。今日は今日で終わり、きちんとしたものを出していかないといけないということです。
2年間あるから、ということではありません。それが積み重なって、2年たって結果が出ない。これは、よいのです。それは結果の話ですから、まだ、次につながります。
しかし、逃げないことは、なかなか難しいのです。表現していけば、表現していくほど、最終的にどの自分を信じられるかどうかということです。全然、声が宿ってこない、歌がうまくならない、でも、続けていったら、諦めないでやっていったら、それが出てくるのか、出てこないのかわかりません。
スポーツの場合は、ちょっと乱れると、成績として出てきます。突きつけられますから、早く挽回できるし、否応なしに気づきます。肉体も衰え、引退ということもありますが、音楽の世界は、あると考えたらあるし、ないと考えたらないのです。
何回立ち上がれるかです。逃げない、続けるということが難しければ、諦めないということです。ものになるまで、諦めない。諦めた時点で、ものにならなくなるのです。
伸びた人も何かあったわけではありません。だた、他の人間よりも諦めなかった、他の人間が1ヵ月やって諦めないと思い直すことを、1日で諦めない、諦めないということを30回繰り返して1ヵ月送っていった、その積み重ねの結果がでてくるのです。
結果にならなければだめということではありませんが、結果が出るようにしていかなければだめだということです。問うものが、わからなくなれば、自分の体が得ていっているのかがわからなくなれば、自分で本にしてみる、あるいは、舞台にしてみる、CDに入れてみる、ものにしてみればよいのです。
先ほどの5分間は、あれで1つのものです。その評価をどういうふうにするかということを、自分のなかで一つひとつ、つかんでいけばよいのです。皆さんは、ここにいるお客さん、皆さんがもっているお客さんに媚びる必要はないと思います。客が呆れるくらい諦めずに続けていったら、客はついてきます。世の中が変わってきます。それは私の実感です。
皆さんは、本当によい時代に生まれています。2000年を超えなければだめかと思っていましたが、たぶんもう2、3年で全てが大きく変わります。
今音楽の才能がある人は、必ずしも音楽をやっていません。公務員をやっていたり、大企業にいたり、きちんとした仕事をやっています。それは音楽を通じて、何を実現するかということをやっていたときに、現実問題として音楽よりも強い手段が、今までは企業社会だったので、ビジネスという形でとってきているのです。それがご存じのように、政府、官公庁、会社、大企業からガタガタと崩れています。今までクローズだったものがどんどんどんどん出てきています。才能も出てきています。
人間ですから、自分の才能を生かそうとしていきます。そのことに気づいて、今から用意している人は、5年10年たったときに、少し有利になるでしょう。けれど、そのことに気づいていない人は、逆に今まで時間がなかった、あるいは、会社に行かなければいけなかった、いろいろなことでその才能を発揮できなかったのですが、そのなかから、自分には、絶対にその才能があると思っている人間たちが出てきますから、もっと厳しくなるでしょう。
外国と日本の一番の違いは、外国は、こういう分野に才能がある人は、こういう分野を迷わずに選びます。次に、自分の会社を作ろう、自分の店を作ろうなどと動きます。そうではない人間も一概にはいえませんが、大きな会社に入っても、組織人になるわけではありません。
日本の場合は、私の同期にも、ある意味でいうと、音楽的に優秀な人がいたのですが、企業に入ってしまい、才能は伸びません。もちろん業界も同じです。5年経っても、10年経っても歌はよくなりません。それは、日本のプロデュース、日本の音楽業界、あるいは、まわりを支えている人、ファンなど全部合わせて、そこまで音楽に厳しさを問い続けていかないからです。
自分が本当に伸びたければ、その環境をつくらなければだめです。ここもその環境です。私が伸びたいからつくっている環境です。私も皆さんもお金を出しています。その環境をきちんとつくりながら、外に問い、それと共に、仲間を増やし、お客をつくり、刺激的な場にしていかないと、単に「世の中で変わった人が集まっていて、一時、人数が増えて広がったけれども、閉じてしまった」になります。ですから、諦めなければやっていけるのです。楽観的にみなさいということではありません。
私は前から、こういうところに来る人や、歌えない人は才能があるといっています。諦めないということは、基本的にぶつかるから諦めたくなって、諦めないということが起きるのです。ぶつかっていかなければ、諦めないなんてこともいわないでやっています。やれるかやれないか、自分を信じられるか信じられないかを常に問われるのです。諦めないで走り続けるしかありません。本当に走り続けるしかないのです。いろいろな人を巻き込んだり、いろいろなものを出していくと、だんだん荷物が重くなってきます。そうなると急に早く走ったりはできないのです。
皆さんは今、軽いから思いきり走らないといけません。まわりに合わせたりしていたら、だめです。今走っておかないと、後で走れなくなります。
たくさんのことをやれ、ライブをやれということではありません。1日悩んで、1日で諦めようかと思って、1日で諦めないといえるようなことを毎日のなかで問うていけないといけません。
日本の人が伸びないのは、半年に1回くらいライブをやってみて「うまくいかなかった。やるのをやめようか」半年や1年単位でそんなことを問答していてもだめなのです。密度が違います。そんなくらいでは、3年も経たずに辞めてしまうでしょう。
小さく勝っていけるということは理想ですが、この場というのは本当に難しく、その辺のステージでは何とでももつような人達が、やはり勝てません。だいたい、客がのろうとか聞きにきているわけではないからです。
ただ、そのなかでもいろいろな差がそれぞれあります。でも、せっかくきたのだったら諦めないでやって欲しいと思います。ここをやめるなということではありません。ここは、窓でしかありませんし、鏡でしかありません。
そこで自分が、素裸になれるという人は、そうして自分を見て、そうでない人はたくさんの衣を着て、いろいろなところを回ればよいでしょう。どこかでぶち当たらなければいけない1つのポイントでしかありません。ここをポイントにできるのだったら、食いついてポイントにすればよいと思います。
他のスクールと全然違うことは、私は教える立場に立っていないということです。私は、自分のためにここを役立たせようと徹底的に考えているということです。だから価値があるのです。そうでなければこんな重たいものをもちません。こんなたくさん人間もいりません。自分と同じ価値観があって、力がある人10人くらいでやっていけばよいのです。
しかし、それではそれで終わってしまいます。ここがよいのは、これから走り出す人間がそのプロセスでいるということです。何か成し得て終わってきた人というのは、またそれなりにすごいことを教えたりいったりはできるでしょうが、ここはそういうスタンスはとれません。
私がどんなすごいことをいっても60歳で一芸を成してきた人の一言の方が重いのです。しかし、自分を見せるということと、自分を発しているということが、皆さんの感覚にはいってくれば、もう少し違うものがでてくると思います。
いつもはこんなにぐちゃぐちゃと話さないのですが、これからです。よく1つずつ評してくれといわれますが、そんな浅い世界ではありません。青年の主張でも見て、自分で文句をつけていればはねかえってくると思います。ああいったものの方が、よほど材料があります。その人の練習ほどもやっていないのです。
慣れていってください。それから、自分のスタイルを見つけていくということです。その前に、自分に返るという表現はあまり好きではないのですが、1つになるということです。空間も時間も1回解き放されて、空間と時間を支配するのです。やっていけば、おもしろい世界です。