一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 18212字 1134

ステージ実習コメント 1134

【ライブ実習②361216】

【ライブ実習③】

【BV座コメント】

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【ライブ実習②】

 

 正規のものとしては今年最後のライブ実習です。楽しかったらよいのではないですか。全然わかってないなということです。だからこういうのがよければ、こういうのをやっていればよいのではないかな。力のないギャラリーというのはうるさいもので、私が聞いていてもとても耳ざわりだったのですが、歌のなかでよいところも多少ありました。 

 

ただ、歌に対して音程、リズムなど分析してもしかたないけど、よくなれば聞こえてくるものは聞こえてくるわけです。だからギャラリーはともかく、歌っている人がそれもわからないとしたら、これは大変なおろそかなことです。勉強してきている場で、ライブ実習ですからちょうどステージ実習とライブの間みたいなものだから、それは楽しくできればよい。ただ、できていることの条件があって、歌の力で楽しくてもらわないと困るのです。 

 

確かにロックのヴォーカリストは楽器も含め、あるいはバンドも含め、すべて含めて一つの表現になればよいというのはあります。だからヴォーカリストの力がどんなになくとも、ギターの力とかベースの力とかドラムの力があれば成り立ちます。

 

 ただ、基本的にそれができたヴォーカリストというのは、どのぐらい勉強しているのかわからない。LDを見ても、本場のコンサートにいってもヴォーカリストは音の要を絶対はずしていない。完全に音楽のなかに一体化になっていて、それがさらに飛び越えるものを出していると。だからそのことをこのなかであまりいってもしかたないけれど、何か残ったかということです。

 

これで、もし残ったということだったら、このことを続けていけばよいと思う。感動できたということであれば、帰り道に考えてみて、よい夜だったと、よい音楽が聞けて、よい歌が聞けたといえたらです。だからもしそのことが冷めてみて、結局残っていないということがわかったら、そうではないコンサートは何があったのかということを、常に自分で問うていかないといけないでしょう。

 

だから本当に音の動きを聞いて欲しい。全身で聞くのも大切だし、踊りながら聞くというのもよいと思います。それはよいけど、はっきりいって聞いていないではないでしょうか。楽しむのはよいでしょう。楽しめるだけのものが出ていたら、よいのです。10代の子のように全部が全部といいません。

 

 前半的に勢いはあった。これは3とか4の人に見習って欲しい。10代の子のような勢いがあった。ただ、そこで基準を置いてしまうとSMAPのコンサートと同じになってしまう。だからそうではないところの要素、それなりにいろんな人たちが出しているし、それを伝えようとしていますが、多分、皆さんは全然そこを聞いていないのです。一番大切なところと耳が違うところにいってしまっています。最初はそれはしかたないと思うのです。ただ、そこを磨いて的確に評価してやって欲しいというのは第一です。 

 

表現は出ていたと思います。どんなものでも、それは評価します。私は1とか2というのは、歌に関してはどうでもよいと思っています。表現できてここを退屈させないでくれるというのが大事なことです。

 これがもう存在そのものとしてできている人は、それをやっているだけではしかたないわけです。そうしたら歌を出さないといけない。そうすると歌とは何かというと音程、リズム、ことばのことも含め、その声にしっかりと支えられているということです。だから私は厳しく、聞いています。 

 

はっきりいうと聞かなくても、聞こえてくるものが音楽です。そこで音楽が奏でられているかどいうかということです。ところが当人自体がそこに目標をおいていない、あるいはギャラリーもそこに目標をおいてなければ、私は邪魔者にしかすぎない。それはそれでどこでも楽しめるし、そういうライブハウスはあるから、そこでやっているものの方がバンドがついていてよいでしょう。音響もよいです。トータルのプロデュースもよいです。だからそこと並んでやってみて、負けることをやってもしかたがないというのです。 

 

 

何が音とか声を支えているかというところに、学ぼうとする人は耳を傾けて欲しい。最初から表現の方にみんな頭がいってしまったのか、それともリハのときに、テンションがあがったのかしらないのですが、のど声でひどいです。声が間に入っていないです。前のステージだとか、あるいはレッスンのところで出している表現に比べて、いつもよりはよいという見方ではみているが、どうしてそんなに雑に扱えるのでしょうか。

 

 3ヵ月に1回の一つの歌、一つひとつのなかにもっと音とか声を込められるはずのものが、声によって支えられて表現が出ているはずなのに、それを抜いて、何で体からいきなり表現になってしまうのでしょう。 聞いている人に勢いは伝わるし、表現は伝わるかもしれない。声とか音楽と聞いていたらノイズになってしまう。私は表現が出ればよいと思います。声とか音楽がノイズになってもよいといっている立場ですが、それも全然残っていないのです。

 

 もう一つはコピーらしいところもちょっと気になりました。ここは誰でもできないことをやって欲しいのす。だから方向性のところで勘違いがあるのと、この舞台のところでの出し方とひきつけ、表現があるからひきつけも一見強いように思いますが、音楽とか歌というところからいうと、何をひきつけたのかしらというような気がします。 

 

 

全般的にいうと、やはりマイクを渡したのが悪いのかと思わせてしまうのはよくないです。今までいろんなステージみてきて、そのなかでせっかくのパワーがあって、歌もそれなりにマスターしているのに、何にも残らない。もっと残るはずです。よいステージできるはずです。 

歌っている人も途中で舞い上がっているわけです。客をなめている。それで客もなめられてしかたがないような評価しかしていない。

 

 舞台になって変わるのはよいです。当然練習のときの歌い方と、ここの歌い方は変わってきます。客が無視しても客に伝えようとしてもよいです。そのときに一番核心でつかんできたものを、全部放り出してしまうと、結局残らないです。 

 

その勘違いの方が、恐ろしいという気がします。ここでみているのも完成度ではなくて、器とかあるいはそれが声とか技術の可能性として、どのぐらいまで出てくるかというところです。声のコントロール力とか呼吸とかみていますが、基本的に完成してしまうと先にいけないです。その完成度が本当に高ければ、これはそれでよい。やめて歌っていればよい。それで認めてくる人たちも多分、出てくるでしょう。日本の場合はそこの基準もとてもあいまいだからです。

 

 

 だからその難しさが、ほぼ全員に対して、とても気になりました。体と息はわかるけど、何で声にならなかったのかとかというよりも、やはり声の線として、あるいは音をつなぐということが歌だということをどこかに置いてきている。いつもと逆のことですね。いつもはとにかく表現する、退屈させたらだめだということではよいのです。逆にそれができてしまったら、こんなやり方で音楽や歌をおいてこないと、退屈させないということができないのかということになってしまいます。

 

 オリジナルな声を獲得していっている人たちにはオリジナルな展開を求めます。その上に表現がのっているというのは、とても心地よいものです。ライブはライブで、違う雰囲気でやってもらうのはよいと思うのです。ただ、ギャラリーはしっかりと評価してやってください。そうでないとほめ殺しになってしまいます。本当に今、心に残っているかということです。 

 

それとともに、しっかりと一流のものを聞いてください。要は自分です。誰かのファンクラブをつくっているわけではない。その自分のなかに何をとりこんでくるのかです。何か一人よがりのものと偽物のコピーというのは、これは快感ではないのです。

 

 私も盛り上がることは嫌いではないです。盛り上がることをメインで、ステージも保っているわけですから。リハーサルでどういう流れになってこうなったのかは、わからないのですが、トータルでみて、聞こえてこないということです。楽器と感覚がずれていたり、音とか声のところが不確かになったり、リズムをうつところで変になったりしているのがトータルで聞こえてきます。しかし、本当は気持ちよいなら席も立つし、拍手もするわけでしょう。そうではなくて形だけで立てるのだったらそれでよいのではということです。 

 

一人でじっと難しく固く、不快になっている私が邪魔なわけです。 

これはステージの問題です。どのステージでこの場を運営していくかというやり方なのです。わかる人にはわかってもらえばよいし、わからない人はわかろうと努力するか、そうでなければ本当に自分の耳と体に聞いていくことです。

 

 今は完成度は問うていません。あとで何がのっていくかというその器を大きくしていくことを問うています。音程やリズムがはずれることが起きるのは、表現するためにはずれるなら、よいのです。ただ、そのことを自分がわかっていないといけません。どこでどうなったかということを知り、そこを埋めていくのがトレーニングです。そのときにそれがはずれないで、違う展開ができるならよいのです。耳をくもらせないこと、本当にうまくなっていく要素というのはそれだけなのです。

 

 

 何が歌とかステージを支えているのでしょうか。もし音楽とか歌というのを本当の意味でやりたければ、そこに敏感になることです。ステージとしたら間違いではないのです。ただ、その声とか一つの表現の扱い方を甘くみていると思います。本当にひきつけて本当に放すということを繰り返さないと、次のフレーズはこないのです。それがどこかで力まかせになってしまったりいい加減になっています。 

できないことは私はいいません。できるはずのことなのに、意識がそこに集中できていない、違うところに意識がいってしまっている、それには注意することです。

 

 基本のことをしっかりと出すということからステージを意識したら、もう1、2割おさえた方がよい人が大半です。100%や120%出せということは、結局、体の力とか、歌の構成をおさえろということであって、聞いている人にはイメージの方が大きく聞こえるのです。要は大音量を出したらたくさん相手に訴えるという世界ではないということです。それを半分にした方が2倍訴えるとしたら、半分にすることが力を出すということなのです。3分間のなかでのステージですから、そのときそのとき目的が変わってもよいと思います。

 

 

 とにかく思いっきり振りつけをやってみようとか、今日はできるだけの声を出して、とにかく歌ってみようとか、そういう使い方もここでは許されます。ただ、これまで歌なり声として評価されたことがある人であれば、今回は甘いと思います。トータルでちらちらとおもしろいところはみれました。何人かでとてもよいところみれました。それが3分間できたら大したことだから、できなくてもよいと思うのですが、できなかった原因が何かということを知ることは必要です。

 

チャレンジして、その結果、破れたということよりも、途中から雑になり、何でというようなことが起きてます。モチベートが入らなかったとか、ここで何かひきずられてしまったかということでも、当人もわかってくれるとよいのです。ただ、当人もわからないまま最後までいいきって、出しきったような感じになってしまうのです。この場をこえてくれるというのはよいことです。ただ、私がみている以上、基準があることを知って、舞い上がったりしないことです。実のところ、作品は油断とすきだらけです。 

 

本当によいときには私も踊っているかもしれないし、にこにこしております。何かぶつけにきただけですから、どうも悲しくなる気がします。今はパワーが不足していますから、そこでは評価したい。だから逆にいうと今日のステージは評価します。何回か眠くなりましたが、何回か起こしてくれた。ただ、そこだけで評価したくないというのは私はあります。やはり歌、音、声のところで確立することです。それができそうだった人が何か、そがれたような気がします。 

 

 

映像を見て、もう一度よく本当に表現できている箇所がどこなのかをみてください。部分的にはあると思います。ところがそれの展開とか、その次のフレーズになったときに、不しぜんになっているところがとても多い。ライブとかパフォーマンスとかいう形でみてしまうと、評価は成り立たないので、それでとてもおもしろかったとはいえません。

 逆にいうとそのへんのライブハウスに比べて、私の見方とか聞き方の方が偏っているのは確かです。私は音楽や歌が聞きたい。その人だけの声を聞きたい。純粋にそのところでできてくるものをみたいのです。 

日本人でなくても、だまっていても自分の心がはずんできたり、体がとても気持ちよくなるようなところの部分から、声や息のことがあると思います。 

いろんなことが起きるのはよいと思います。思いっきり歌う場を用意します。音楽を聞いて立ち上がった覚えもなく、手を叩いた覚えもなければ、そこで体を動かして踊った覚えもない人もいるでしょう。私は研究所は、そういうことが全部終わった人がきているのだと思っていたのですが、そうではないようです。

 しかしそういう体験を、それを研究所でやるというのも情けないでしょう。ミラーボールでもつけますか。それなら、クラブにでもいく方がよいわけです。 

そういうライブであれば、すぐセッティングできるのです。毎週金曜日はここでライブをやって、仲良しのお友達がさくらみたいになって、わっといっていたら、成り立つでしょう。でも、ただ一人になったときにどこにも通用しなくなるということです。 

 

 

大分、私の考えも変わってきています。昔はそれでいくつも所内のライブをつぶしました。歌うのやめて走ってこいと3年まえには、VCCライブを壊しましたね。しかし、走っていない人にとってみたら、ここのステージで走らせることも、経験として必要なのかと思うようになりました。 

あまりにロード(道)がない。ただ、本質でやらないといけないようなことからどんどん遠ざかっているように思います。来年の初めには勝田さんに演出力というのをつけてもらいます。演出力も必要だとわかって欲しいからです。それからもう一つは瞑想とヨガの先生です。何か、なっているような気がするのです。しかし、体のことと感情の表現のことをやらないと歌もはじまりません。 

 

あまり日本人の枠にそまらないで、その点をクリアしている人が何人かここにいてくれるのは、ありがたいことなのです。そこからいろんな音楽の課題に入って欲しい。それは他のところでは問われないことだと思います。耳というのはとても大切です。体の内面のことを外に出すことができている人は少しずつわかってきます。そうではない人が多分7割ぐらいでしょう。

 全身を本当に死ぬまで思いっきり使った経験がある人は、あまりいないのではないでしょうか。本当に自分の指先とか、足先の感覚を感じて生きてきた人、そんな難しいことではないのです。死ぬ思いをすれば絶対そうなります。自分の細胞とかそういったもの動きがわかるようになってきます。それにこだわり、学んできた人の存在に触れさせてみたいと思います。 

 

今日のステージは私にとってもよい課題になりました。よいところはよいところで残して、わけてやりたいという気がします。だから今日のせることができたり、なんやかんやギャラリーをわかせられた人は、一番前に座っている私の前でやるようなことをしっかりと積んでいくことです。そうではない人は逆に私がいないところで、どうやれば客を笑わせられれるか、のせられるかみたいなことを体験していくとよいでしょう。あまりやったらお笑いみたいになってしまいますが、自分のなかで判断してください。

 

 

 どのフレーズがもって、どのフレーズがだめで、どこにどれだけの課題があるかということです。特に何かの他のものを加味してくるほど、自分で自分の味がわかりにくくなってきます。でもそこの一体感を確実に出していくというのが、歌とか音楽の世界です。皆さんが次の世代を大きく変えてくれることを期待します。気をひきしめて勉強してください。ライブは自分がやる気になればどこでもできます。勉強は自分がひきしめて、油断を絶対にしないようにしないと、すぐに甘えになってしまいます。

 

スポーツでは、自分たちが一番強いのだと思っていて、コテンパンにやられるから反省して練習になるのですが、歌はそれができないから、ここを活かしてください。だからいわないとしかたがないのです。本当にないものは私もいいませんが、それにはまだまだです。もう1年しっかりがんばって、文句をいわせないようにしてみてください。

 

 

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【ライブ実習③】

 

 結果だけみていけばよい世界です。プロセスはかっこ悪いものです。特にヴォーカリストに関しては、プロセスはみないで、とにかく結果だけで問われる世界として、力を出せばよいと思います。ただ、研究所の場合というのは、かっこ悪いところ、プロセスみたいなところもある程度伝えていかないと伝わらないと思い、プロセス中継を始めました。 

本当のことでいうと、結果が出ている人はプロセスをしっかりとやったというあたりまえのことなのです。すごいことをやれている人はすごい理由があるのだということなのです。

 

 最近、入門科も自己啓発のようなレベルからスタートになっています。それぞれのレベルによって意識が違います。多分ここにいると、人間力というかその迫力みたいものが確実についていくと思うのです。それはそれでよいと思います。それがないと何をするのもだめだからです。皆さんと上のグレードの違いというのは、声の声量とか歌とか技術のところよりも皆さんより長くいるという分、結局ここで何が問われているかということを知っているということです。

 

そのことは確実に毎回毎回ここに出てきてもらえばついていくからそれはよいのです。ただ、目的がもし歌にあるとか、ヴォーカリストになるということであれば、そちらの方の力をつけていかないといけないというのは確かなことで、それが目的というわけです。 

 

 

箱(器)はできてきているような気がします。声の技術が伴っていくのを少し意識してください。音の感覚というと難しいのですが、時間の感覚です。徹底して煮詰めてみればよいと思うのです。 

準備に必死になってやっていたら、そのなかで一日空けたらその一日はとても長いわけです。一日18時間も詰めて仕事をして、そこで5分コーヒーを語みにいく。その5分間は長いわけです。それが一つの時間の感覚です。 

 

単にだらだらとなっていくのではなく、他のところが緊張して張りつめているがために、そこのところで間があいたところがゆっくりになるような感覚というのは、音楽のなかでも大切だと思います。 生活の張りが歌にも出るのです。生活と結びついているものとは別で、音楽は音楽で高めていく方法もあると思います。たとえば、技術というのはあとで理屈がついてくるので、やっているときはわからないものです。

 

 歌というのは私にとってみたら崖から飛び降りるような快感です。「入浴で気持ちがよいという」イメージ、ぽかぽかと日にあたっているような感覚はないです。むしろ、真夏の太陽を浴びたけだるさのようなものもあります。これは人によって違うと思います。 

 

皆さんも普通に生きている中でそれを凝縮して、歌のなかに詰め込んでおく、そういうところの感覚、時間の感覚を捉えてください。そういう経験がない人、歌や表現に結びつかない人は、2年間必死にトレーニングしていたら、否応なしに身についてわかってくるわけです。

 

 

 歌の世界は、見えない人には全然見えないし、見えている人にはあたりまえに、見えています。見えている人には、説明する必要もないから説明していないし、見えない人には説明しようのないものです。 

何回かできてくると仲間になって近づいていく、次元を超えてきていることがこちらも本人もわかります。ことばなしで伝わる世界です。ここは研究所ですから説明しないといけないと思いながら、やはりやりようがないです。私は若いときにピアフを聞いても感動しなかったし、わからなかった。だから認めたのです。

 

 そして、5年、10年と聞いているうちに少しずつわかってきた。わからないときにできないのは、それはしかたないことですが、ただそのときに入れておくか、入れないかというのは大きな違いだと思います。そういうものが後々3年後、6年後とほぐれてきて、自分にとって、とても大きなものが何か出てくるのです。 

 

だから歌のことに限らず、この一瞬のなかで何か胸にきゅんときたものを大切にしまいこんでおくことです。できたら、ことばや文章にしておくといつか出てくると思います。とにかく自分がどう受けとめるかということです。作品がよいとか悪いとかという問題ではなく、その経験は将来、人前でやっていこうということであれば、しまいこんでいく期間が必要な感じがします。 

 

そこの感覚の違いというのは超一流の人、一流の人、プロといわれている人、習い事でやっている人とは全然違うというのが私の結論です。だから歌をやっていない人でもその感覚がある人が歌ったら、それなりの歌になるような気がします。ただ、感覚を声に置き換えるのに確実な技術が必要なのです。そういう生活をしなさい。誰も全てはできないです。集約されているところでそこの感覚に自分で一致するものしかできてこないです。

 

 

 普通の人間が人前に立って何か仕事をやろうとしたら、人と同じことをやっていて、人前に立てるとは思いません。そういうことをやれということではないけれど、そこまで追いつめたところで人と違うところをコンプレックスでなく高めて自信にしていかないとだめでしょう。欠点も伸ばせば長所なのです。ただ、それを知っても、高めることは難しいのではないでしょうか。 

 

歌を歌っていくというよりも、歌というのも一つのジャンルぐらいに考えてください。ここは音声表現をやるところというような定義ですから、声優や役者志向の人もいろんな人たちがきています。皆さんに期待したいのは歌いこなすというレベルではなく、新たにあなたの名でしか定義できないような一つのジャンルをつくれということです。

 

 大きく考えてください。ジャンルをつくろうと思ったら、歌ぐらい歌えるようになります。歌を本当に歌おうと思ったら声ぐらいできるようになります。その本当というレベルの高さ、厳しさへ挑み続けることが、難しいのでしょう。 

 

 

やすきよ横山やすし西川きよし)の漫才」も何が違うかというとパワーが違うということです。一つの時代を築いたものは、パワフルです。そしてライブ感覚があります。それを支えるのが基本トレーニングです。 

ダウンダウンも、24時間笑いのことを考えていると、あんなに考えている奴はいないといわれています。いろいろ悪いことも伝わってきますが、あなたは自分でよいことと思う方を全部とっていけばよいわけです。

 

 すごいということは絶対に理由があるわけです。何もしないで天才といわれている人はいなくて、それだけのことをやっているかというだけです。 

がんばってやれる人はやってください。ここを出ていくとき胸を張って挨拶をしていく人は半分もいないでしょう。手紙がくるような人となるとわずかです。しかし、ここで2年で何か思いが伝わって、それを積んでいって活かしてもらえる。それが表現として人前で出して誰かが受け継いでいく。素晴らしいことです。

 

 私は昔から一人の人間がどれだけ大きなことができるか、考え方一つでどんなに違ってくるのを見てきたから、自分のことをいつも認められない感覚があるのです。歩いていても普通の人よりもきっと時間も意識しているし、他の人がすごいと思うようなことは、あたりまえでやれるような環境にはまってきたのだと思います。ここも本当はそういう環境であるべきなのです。場が人を育てると思います。 

 

その場は皆さんの取り組みによって、決まってくるのです。人前で表現をするというのは、自分のなかで過剰にならないと無理なのです。自分の生きていることが作品とまでいかなくとも、自分のどこかの時間の部分をみつけて切りとって出すだけで作品ができてしまうのです。 

 

 

自分のなかに音楽があふれている、フレーズがあふれている、オリジナルなものがあふれている。そしたら、歌も出くるのです。 

最初からそうだったという人はいません。最初は何もないわけです。何もないことを知った上でどこか引き出さないといけません。それがハングリー精神です。ハングリーでないと引き出せないのです。どんなに歌えていてもこれではだめだと一度全て、捨てないとだめです。そういうプロセスを経て、歌を大切にしてくると出てくると思います。

 

 お客さんがいるのだから前に投げかけるというのは基本です。投げかけられていないということは、そこで何かをつくりだそうとしないし、それを見せようとしていないわけです。ここは自分の学ぶ場と考えてください。外国ならライブでもやっていれば客が価値観と私ぐらいの耳はもっていますから力が問われます。ところが日本の場合は研究所でもつくって客のレベルアップからはじめるしかありません。日本でやろうと思ったときの最大の限界客の低いテンションです。

 

 考えてみればどんな天才でも50年も100年もトレーニングをやっている人はいないということです。やはり10年か20年の勝負なのです。そこまでのことをやって、「自分は天才ではなかった」とか、「才能が出ない」というならよいのですが、やらないこと=負けなのです。 

普通に長く続けるだけでも人並み以上のことはできるはずです。これは自信をもっていえます。だから研究所を営んでいるわけです。そうでないとやりません。 

 

その割に少し成果がぐらぐらしている感じがします。本人自体に何もなくてもよいのです。ここに入って、何もなくしてはじめた方がよいわけです。これまでのキャリアは本当のものであったなら、あとで動いてきます。

 私が日本の音楽やミュージカルを認めていないのは、結局、声のないところでのくせとかフレーズの形を先輩から受け継いで、それでもたしているからです。本人の力ではないわけです。演出家の力やお客を集めた人たちの力、歌を指導した人の力で成り立っているわけです。 

 

表現としての価値はなくても、本物をみることができると価値が出るわけです。それで1、2曲はもつのは自分を偽っていないからです。 

気をつけないといけないのが、歌にしたときに偽ること、嘘のことをやらないことです。そうすると体に宿っていかないからです。ここの一番よいのは何をやっても、それのパクリやくずれみたいにはならないことです。それをやるとだめなのです。

 

 

 だから5年かかろうが、10年かかろうが、皆さんが自分自身のままである分には私はみていけると思います。全然できなかったと思って卒業していく人がよい意味で案外と正しく、うまく歌いこなせたという人は必ずしもそうではなく、勘違いしていることが少なくありません。自分が歌っていなから自分の歌でないものを歌っていると、外で歌っても通用しません。それならタレントの方が使えます。そこを自分のなかでしっかりと区別していくことです。

 

 まだ皆さんは間違うところまでは、なっていないです。耳がないとここから間違え始めます。とても難しいのですが、聞いている人にとってみたらあたりまえのことです。どこまでひきこまれたかということをやってなんぼの世界です。みんながうまいといっても何にもひきこまれなかったとうのは、評価できません。耳のある人が聞いてみてそう思ったら、やはりそれは表現としては何にもなっていないのです。

 

 

 課題についてはもう少し勉強して欲しいところがあったのですが、しかたないようです。本当は「おきのかもめ~」あたりからが勉強になるところですが、その前に歌として終わっているからです。八代亜紀さんのうまさはどこからくるのかというのを日本語で歌う人は研究してみてもよいと思います。

 

舟歌」はすぐれた作品です。まねをしなくてもよいのですが、それを与えられたときに課題っぽくこなすしかみんなの力がないのです。課題が課題としてしか伝わらなくなってしまうのは、結局、皆さんが何もないからです。そこで何をつくったかというのを問うための課題であり、歌として聞こえて欲しいものです。

 

 まず音に徹底してこだわりしがみつくこと、それが音から自由になるための唯一の方法です。皆さんの歌を聞いていたら、歌でも、雑すぎて歌がかわいそうになります。私はぶっきらぼうに聞いていますが、それでも続けているのは年に3~5回は泣かされているときがあるからです。

目に涙があふれているときもあります。しかし、それは必ずしも歌がすごくて感動したというだけではないです。あそこまでがんばっているかというようなところなど、打たれるところがいろいろとあるからです。 

 

たとえば「いい」ということばがたくさん出てきます。「いい」の感覚を、八代亜紀さんから学んでください。歌というのは音のつながりですから。「おきのかもめの~」の意味も1フレーズ目を歌うときに考えておかないといけません。皆さんのなかでそこまで歌えた人はいませんが、そこの表現をそこの場で出すには全体のモチーフが必要です。

 

 

〇勝負どころ

 

 表現ということであれば、ここに出たときに自分の窓を開かないといけないです。表現とは、前に出てだまっていたらまわりから押されてつぶれてなくなってしまうものです。常に開いて自分の寸法だけは場所を確保しないといけません。   

課題曲でそれが確保できたという人は、課題曲を自分の箱の大きさまでこなせた人が1人、3行までもった人が1人、2行までもった人が1人という感じです。自由曲では光が一筋さしていた人が1人という感じです。1人でもいたらよいと思っています。 

 

何か1フレーズでもそれが聞けたら、私はきたかいがあったと思っていますから、そういう意味で評価しています。歌の世界は感動して入るのですが、全部の曲に感動しているわけではないでしょう。1曲のなかで同じように感動しているわけではありません。そのなかでものすごく感動する部分があって、その一瞬を自分でつかみたくて入ってくるわけですから、その一瞬を与えてはじめて、ヴォーカリストと呼べるのです。そうしたらここでやることは、その一瞬をつかみ、そして出すことです。

 

 その感覚をどこかでつかんでそれを忘れなければ、伸びるのです。トレーニングのなかで考えていくのと、ここでやってみることは、感覚も全然違ってくると思います。その人間の力でごまかせるようになるキャリアはよくはないのですが、それも一つのキャリアです。それを何とか歌、要は目をつぶって聞いたときの声の技術でもたせられるようになってください。当然、顔つきからパフォーマンスといったものも必要です。 

 

 

歌いきれている人はそこで勝負して欲しいし、そこまでいっていない人はとりあえず歌を選んでください。歌を選ぶということは他のものは犠牲になるとはいいませんが、選んだことによっていろんなものが変わってきます。徹底して選ぶということで感覚まで変わってきます。

 

 もう一度そういうことからわかって歌を選び直すということが必要だと思います。体、息、声、歌、それから表現というなかで体はしぜんな状態で、絶対に正しいのです。息も正しいのです。それを声にしたところで多くの人は間違えます。その正しさというのも判断基準としてははっきりとあります。 

 

それが歌になったときに声の正しさとは違ってきます。表現の方を捉えていかないといけません。そこに芸が宿るか、どうか、というところで、自分を出すということはよいけれど、あまり急いでやるとうまくいきません。声のなかにオリジナルなものを得て、それを表現としてオリジナルを守っていくのです。それには、いろんな勉強が必要になってくると思います。理屈の勉強ではなく感覚の勉強です。 

やっていることを変えるつもりはありません。こういう場を大切にして、これをみてから何に気づくかというのが勉強です。詰めをしっかりやって下さい。

 

 

 

 

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【BV座コメント】

 

 今日感じたことというのは、自由曲のなかでやはり少しずつ勘違いやズレが起きてきていることです。判断基準がBV座というのは、私にあってはいけないわけです。だから私はきたいときにみて、あまりきたくない、みたくないというときには、こないというのが一番理想的です。お客さんはそういうものですから、そういう形でやりたかったのです。しかし、相変わらず私の方に判断基準がある。それだったら、しっかりと内部のものとして分けた方がよいと思いました。 

 

研究所にいてそんなに長くもないのに、本当のことを置き忘れてしまったみたいな場合があってはいけないのです。BV座自体をどういう位置づけにするのかということもこのままではよくありません。今後、よい人材がどんどんあがって入れ替わってくれるとよいのですが、いつもやむなく上がってやっているというのが現状です。

 

 個性は豊かな人が多く、長くいる人も多くなってきました。ばらばらの方向を向いているのはよいのです。原色としての個人の強さがないと一人でやろうとみんなでやろうとふっとんでしまいます。人材難になってきています。音楽の傾向がかわり世代がかわっていることもあります。 

 

 

BV座の色というのは、久々に聞いてみるとかなりはっきりしています。ある意味で色がついている。これがよいのか悪いのかわからないのですが、それでよいと思っています。これがばらばらになっていくのもおかしな話です。2ヵ月前みたときに中途半端なところで同じ傾向でこじんまりとまとまっているということが、危機感でした。皆さんとしては楽しくやれても、他の人にとったら全然つまらないわけです。

 

 私は外から見た目をもちこもうと思っています。こんなところでマスターベーションしてもしかたないからです。ただ、日本の音楽業界が少し違ってきているのは、昔のプロデューサーというのはみる人はみえていて、その上で売れる線をやむをえずやっていたのですが、今のプロデューサーは、売れるところしかみれていない、売ることをみているからです。いろいろ話していても、その人自体が面白くないし魅力がないのです。アーティストを利用はできても、育てたり見抜くというのは考えていない人たちがやっています。

 

 ここにいてもそういう人の目にとまったら、力を認められたと勘違いするのですが、雇用されるのでは、ありません。アーティストが利用する側にまわらないとしかたがないのです。 

そういう意味で基本の心を、この場においても問いたいのです。基本というのは、私にとっては、はじめて私にいいにくる人の前で、最初に私が門を叩いたときの気持ちで対するということです。だからレクチャーというのは、おもしろいわけです。向こうも必死です。本当のことでいうとそのなかで何らかの形で、こちらが選ぶわけではないのですが、話を聞いて選んでここにくるということは、選ばれているわけです。本人の意思だから尊いのです。

 ところがそういう人でもわずかな間にいろいろとやらない理由をみつけます。考えて欲しいのは、力が私やトレーナーのレベルに到っていないのなら、その理由はすべて逃げでしかありません。一人でやるのもよいでしょう。そして、5年、10年後でも、このレベルになれたら、見返しにきてください。おなじことができない以上、目に見えないほど多くのものが、簡単に手に入らずやった人のみが得られるものだから、価値があるのです。今は、ただの人が、その気持ちを2年間もち続けるのは大変に難しいことだと思います。歌を習いたいという理由の裏にもっと大きな理由がなくてはいけないからです。 

 

 

前にも増してレッスンにきている人、自分でやっている人はいます。グループレッスンでは個人レッスンの中心にくるようになるのもすべて自分の判断にまかせています。 

ステージというのは、基本がそのままではおもしろくないから飾りつけをしていくわけです。同じものでももっとよくみせようというサービス精神が心遣いです。それだけにこだわり、自由な発想でやっていかないといけません。BV座に関しては、かなりシンプルで、飾りはつけず、核となる若さとパワーを生のままで伝えたいつもりでやってきました。

 

 プロセスということでやっていますから、完成品は、その人が人生をかけてやっていくのですが、トレーニングの基本と形を毎日捉えていかないと、どこかで走りだしたときに解放されなくなって自分の世界が限定されていくのです。その危険性のある人はみていてもわかりますが、本人が明日のための今日でなく、今日だけを選ぶならしかたありません。解放ばかりしていてよいというわけでもないです。

 だから私もはじめての人にいうときに自分がはじめたときのことを思い出すようにしています。これは心の基本のことなのです。体のことよりは心のもちようや考え方が大切なことなのです。戻すのでなく、今なりにまた、そのときのこと、そして、そこから何かがやれるようになってきたかを捉えていくことです。 

 

 

この前、中国のロックヴォーカリストの人といっていろいろ話しました。彼らと比べるとやはり日本人は、幼いまま、大人になりきれていないようで、まだ7歳ぐらいの差があります。向こうの18歳がこちらの25歳くらい。こちらで30歳ぐらいが向こうの22、23歳ぐらいです。 

 

歌というのはシンプルでよいと思うし、最初は一つしかみえなくてよいのです。かたくなな方がヴォーカリストらしいし、歌にも力があります。ここにいる最初の期間というのはそれでよいと思います。 

10代なんていううちは、もう本当に一つしかみえないまま歌っていけばよいのです。ところが向こうの人たちというのは20歳まえでも大人の歌になって、22、3歳にもなると人生を歌いあげたり、社会的なことも含めて、芸にまでしてしまうのです。中国でも歌米でもそうです。それはキャリアの差もありますが、それだけではないのです。日本の音楽界では動かしている人は大人でも、ヴォーカリストが子供だというだけです。 

 

応用するために、もっと自由になるために、シンプルな部分を忘れてしまうからいけないのです。一流の人は基本を誰よりもやる人です。野球でもサッカーでも、強いチームと試合ばかりやっていたらよいのにと思っても、絶対に違うわけです。それをやるとだめになってしまうのを知っているから、オフや自分の練習のときには試合をやらないで、基本のプレイを何回もやるのです。そこを深めているうちに解放したらしぜんにプレイに応用できるようになります。それはこういうことについても同じだと思います。

 

 だから一番困るのは、トレーニングによって、頭のなかでできてしまった世界に限定されることです。頭で考えなくするためのトレーニングが頭を固くすることです。そういう人は決まって「どこどこの〇〇先生が」といいます。いろんな可能性があるのに、決めつけていかなくてよいのです。感情の趣くままに展開していけるようにしておくのがベースです。

 ややもすると作品にすることがまとまり、完成をめざしたものになります。作品とはいえ、先にもっと大きくなれるプロセスを出すべきなのです。プロセスとして一回一回をしっかりと一区切り、一区切りと考えていってください。 

可能性こそが最大の魅力です。 

いつも1ヵ月で一区切りでなく、できたら3ヵ月から半年前から曲を用意してピークに合わせていくというようなスタンスにしていくことです。課題曲は前日に与えられてもこなせてしまうような、ライブ性を期待したいのですが、それがうまくいかないことを知り、時間をかけてつめてくることから学ぶことです。ようやく音楽の耳ができはじめるとそれに対応して、体がついてきます。すぐれた人のコピーをできるようになったところからオリジナリティがはっきりしてくるのです。

 

 音楽的な理解については、皆さんの演奏を聞いても、ピアニストの方がずっと上です。強弱のつけかた、チャチャの入れ方、波の起こし方など、皆さんが理解している上で表現しているのは、呼吸の切り替えがずれています。 

 

全部をヴォーカルで引っぱり飛ばしてしまう人は、飛ばしてよいのです。アップテンポの歌だとヴォーカリストがひっぱる部分と、ピアノにまかせて何かそこでひといきつく部分、そこに別のことを感じさせるような解放の部分とわける方が楽でしょう。流れてしまっている人もいます。そういう人はインパクトやとめるということを考えないとそれで、切っているつもりでいたら、単に逃げているだけになります。

 

 

 6曲ぐらいは、自信をもてるレパートリーをつくってください。一つのステージで最低6~8曲もたせることが力のある人の一つの基準になります。6曲やっても4曲は認められるレベルにするというのはとても難しいのです。6曲やったうちで4曲OKというのは実際のステージでは2曲ぐらいは自信があったものがくずれて、1曲ぐらい予想外にうまくできたとしても、もう1曲うまくできて4曲です。 

 

6曲はしっかりとそろえておいて、そのうち1つ2つ、こけても4曲は通用するようにしましょう。絶対に強い曲を本当は3曲ぐらいもったら理想です。難しい課題になるかもしれませんが、今まで歌い続けてきたものとか、絶対に自信があるものを練り込んでいくことです。そういうのを2曲か3曲確認して、もう3曲ぐらいレパートリーとして毎回、冒険するようなことをやってください。そんな形になるとまた違う意味で難しさも出てくるし、おもしろさでも出てくるでしょう。そうなると幅広さが問われます。

 

 ヴォーカリストらしい歌い方で歌っていくというのは、3曲ぐらいもちますが、そうではないと3曲目ぐらいで聞いている方が飽きる場合が多いようです。結果として退屈になってしまうとどうしようもないです。 

だからそういう意味で6曲というのは一つの基準です。入ったばかりの人は何とか他のメンバーに支えられずに、プラスマイナス0までもっていってください。1人で3人分ぐらい、やってもらえると、15人で5人がしっかりと歌えたら、それでもつでしょう。だからどこまでのことができているかというのを確かめてください。皆さんの傾向とかやり方とは、違いますが、やはりインパクトとかのれた、ということではっきりしておくことです。

 

 

 ここで3年同じことをずっと一日も休まないでやってきたら、大体アマチュアの上の方にいきます。耳は、プロレベルになります。ヴォーカリストで3年、基本のトレーニングをしっかりとしている人は本当に少ないわけです。だから5年ぐらいヴォーカリストの基本のことをやっていたら、プロといわれる中にだまっていても入っていくのです。ただ考え方がしっかりしている人でなくては、もちません。 

 

そのとき、その時期でその5人の人がいるから色がついているということはよいと思うのです。10人いて10人がパステルカラーでは困るわけです。きれいだなというのでなく、濃い一色になること、1人でなりきることです。1人でできる人が3~5人で何かをやっているのは、お互いにみていると、とてもおもしろいのです。一つのパワーが音楽の表現に出てきます。

 

 東京では、BV座育成の時間が欲しいと思っています。ここの色をそのまま出した場合は、装置をしっかりとやらないと音響や照明のことだけで人がこなくなるでしょう。人の目にかなりのフィルターが入っているから、それをはずすパワーと完成度が問われます。 

 

その点から地方の方が楽です。1人きりでも勝手なことでもがんばりつづけやっていたら、熱が入ったらお客さんは反応し、元気だけでリピートしてくれます。地方からの、座を発信するかもしれません。その方がやりやすいです。安いし、人が集めやすい、継続させやすいからです。東京は、まわりのスタッフを固めたり、音響を固めたり、場所をしっかりとすること、お金と集客に神経がとられかねません。