一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

「他人のことばに、トル」1141

「他人のことばに、トル」

 

『苦悩する落語』春風亭小朝著(タイトルは福島英)

 

 

「客トル」

 だいたい、お世辞のいい方に限って、会そのものよりも後の飲み会が楽しみだったりするわけで、こういう人は自分の人生がうまくいってない、そのウップンを売れている噺家にぶつけているだけなのです。

「オレはあいつが嫌いなんだ。アンタの方がよっぽどうまいよ」

「あの人は最近ダメだね。アンタもああなんないようにがんばんなよ」

 こんなことを言いながら、心のどこかで売れていない芸人に対して優越感を持ち、自分をなぐさめているのです。

 もちろんなかには本当にいいお客様もいます。ただ、自分に自信がない時はどうしても、もののわからないお客様の言った一言に救いを求めたくなってしまうものなのです。そして、いつしかそのお客さんと飲むことが何よりも楽しみとなり……あとは言わなくてもわかるでしょう。

 お客様の意見というのは、こちらがよほどしっかりしていない限り、聞かない方がいいかもしれません。刀で斬られるのもイヤですが、紙で切った傷も、あとあとまで妙にズキズキすることがありますから。

 

 

「コンクールトル」

 独演会も軌道に乗り、仕事も入りはじめると、なんとなく余裕ができて自分の力だめしがしたくなります。最も安直なのがコンクールを受けてみることで、私もNHKの新人落語コンクールにチャレンジしてみました。

 このコンクールが始まった頃、多くの若手はコンクールというものを勘違いしていたようです。

 俺はまわりから評判がいい、自分でも結構うまいと思っている、だから通るだろう。この考え方は、とんでもない間違いです。

 コンクールというのは短い時間でいかに自分の魅力をアピールするかという場であって、日頃の精進を察してもらう場ではありません。持ちネタが百席を越え、席亭に可愛がられている人よりも、たとえ三席しかできなくたって決められた時間内で審査員の心をつかんだ者が勝つ。それがコンクールのおもしろいところであり、恐ろしいところでもあるのです。

 ただし、最近のコンクールを見ていると、派手さだけでなんとか選ばれようとしている人が多すぎるような気がします。(中略)〈コンクールは自分のためより贔屓のため〉これを標語にしたいくらいです。

 

 

「群れトル」

 落語界の体質はあいかわらずです。おたがいそれほど仲がよくないのに、まとまっていないと淋しいから、とりあえず一緒にいる。

 それぞれの噺家に同業者の親友がいったい何人いるのでしょう。名前と実力のある人ほどおりません。(好きだけど嫌い、嫌いだけど少し好き)くらいの感覚で仲間と付き合っているわけです。

 そして、普段はまとまりが悪いクセに〈共通の敵をみつけると結束する〉、このときのパワーだけは呆れるほどです。

(中略)人の悪口を言うのは、まず自分たちが動いてからではないでしょうか。

 そして、共通の敵をみつけると結束する体質は、談志師匠や円楽師匠に対してだけではありません。自分よりおいしい目をみている人間すべてが〈敵〉になってしまいます。

 

 

「受けトル」

 大切なのはお客様の心がどれだけ揺れたかということです。もしも、笑わせることにそれほどこだわるのであれば、落語以外のフィールドに移る方がよいと思います。

 ウケることばかり考えて、他の大事なものをすべてぶち壊すということは落語の場合、よくあることなのですから。十ある落語の魅力のうち、八まで犠牲にして笑いをとっても、それは勝利ではありません。要は、笑わせる手段としてなぜ自分が落語を選んでいるのかということです。

 現在の落語界を見ていると、〈自分に欠けているものを正当化するための言い争い〉が、あまりにも目立ちます。さほどウケない人は、あんなことまでしてウケたくないと言い、自分がへただと思っている人は、くやしかったら笑わせてみろと挑発するわけです。そんなことを言っている場合でしょうか。どっちにしたって世間からは相手にされてないのですから。

 落語がほかの芸能と戦うためには、今までのように自分のこしらえた作品を評価してもらうという姿勢ではなく、各々の縁者が観客の心を少しでも揺らそうとする積極的なアプローチが必要です。

 

 

「古典トル」

 古典を選ばなかった理由が、何かあるはずなのです。ところが、私にはそれがまったく伝わってきません。新作落語の可能性は無限だと思います。それなのに皆さん、その入り口で立ち止まっている。自作自演に必ずしもこだわる必要はないのです。

 新作落語を古典派の人たちより説得力をもって語ればよいのですから。

 ただし、気をつけなくてはいけないのは、演技にことばが奉仕してしまったり、あまりにも未完成な会話を演技でフォローする作品が目立つ点です。ここを改めていかないと、後世に残る作品はできません。

 

指揮者のヴォルフガング・サヴァリッシュが、とてもわかりやすく解説している文章がありますから、それをご紹介しましょう。

「今日では、一度国際コンクールに入賞すると、もうすべてをマスターしたような気持ちになるようです。

 20年代に個性の強い、多くのすぐれた指揮者が生まれたのはどうしてでしょう。

 当時はまだレコードがなく、手本とすべきものがなかったためではないでしょうか。

 指揮者は誰彼を問わず、自分で総譜から学んでいかざるを得なかったのです。自分の目を、耳を鍛えなければなりませんでした。「春の祭典」は、総譜から勉強する他はなかったのです。

 何が重要なのか、どうひびくのか、何が自然と聞こえるのか、何を凝集させるべきか、というように。

 そして今日では、総譜をてっとり早く知るために、テープレコーダーやレコードを使うようになっています。

 カラヤンバーンスタイン、アパドが熱狂的にコピーされています。そして、独自の解釈をしようなどとは思わなくなります。」

 志ん生文楽、円生という名人の師匠方は、円楽師匠のレコードを聞いて学ぶことはありませんでした

 

 

ときには他人のことばをトル 福島英