一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン 21818字 1143

 

レッスン

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【耳と体 361110】

【基本トレーニング361016】

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【耳と体】

 

 美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」です。ちょっと長くなりますので、また機会があったら触れます。前半に関しては「耳と体、うた、語り、表現、伝えること」ということで、とりあえず、音楽的に取りだすところまでをしていきたいと思います。

また、18日に「ひびきとシャウト」をやろうと思っています。この辺になってくるとついていけない人がほとんどで、時間とともに落ちていくような形でいつもやってます。

特別セミナーだからできるようなことは、みんなのレベルを考えずにやります。

 

 今日はこの前の表現のレッスンの応用、あるいは、合宿の総まとめみたいなことを意図しています。この前の表現のときに聞かせるものがとても多かったので、今日は実習も入れてやろうと思います。最初の5分くらいで、台本を読んで1時間半くらいやるのです。先にこの前と同じで台本を全部読んでいきます。 

やりたいことは一杯あって、だいたい3つくらいの文をいっぺんに前半にやっておきますので、今日はそんなについていけないような内容ではないと思います。

 

 

 まず、言葉のことです。歌のなかでも再三繰り返していますが、結局、言葉をいうときに必ず「こんなこという自分は何者なんだ」と、自らがどの状態に置かれているか、ということを意識しています。これはプロである限り、誰でも意識しております。そしてウソなのか本当なのか、ということも意識しています。 

でも本当だったらよいということではなく、ウソでなくてはいけない場合もあり、そこで問われることがリアリティであるということです。言葉そのものに意味があるのではない。 

言葉そのものも意味を帯びているということ。今日いっている言葉というのは誰の言葉でもいいですが、特に音声で表現する歌詞と思って下さい。いくつかの言葉を引用してます。これも台本通り読むだけです。

 

 「言葉は人を真実の近くまで連れていく、というのは言葉こそ人を真実から遠ざけるものだから」「言葉という不安定な器に現実を盛ることはできない」この辺りが一番大きな、歌う原因じゃないかと思います。言葉というのは不完全な器であると、それに現実を盛ることはできない、と村上春樹さんがいっています、ということです。 

 

 

「書を捨てよ。街に出よう」これは最近またブームになっている寺山修二さんの作品です。書を捨てて街に出ればよいということではなくて、書を捨てよ、というのは書を持っているから捨てるわけです。書を持っていない人が、街に出よう、ということではないのです。そこを間違えないようにしてください。都合よく引用されてしまいますけど、書は持たないと捨てられないといことです。

 

 言葉は不完全な器ですから、たくさんのものをそこに入れようとしてもこぼれてしまいます。そのこぼれていくものを追って行くような1つの仕組みを音に純化されたものが、歌として考えています。歌も芝居も同じということで表現として考えればそうです。音楽は音楽で音楽的な表現が出てきますが、今日の部分でみんなに見せるものは、歌と直接関係しているものではなく、むしろ耳とか体とか、声、語り、表現に近いところをやろうと思います。

 

ですからこぼれていくものに対する視線とかを失ってはいけないということです。不完全な器であるというキーワードと共に、合宿でも言葉で何度も同じようなことをいって、みんなにも言葉でいろんなもので書かせていますが、ことばはキーワードであるということ、イメージを持ってくるためのキーワードです。勉強するためのキーワードです。

 

 

 言葉など使わなくても勉強できるのですけど、同じイメージのものをパッと再現したいとき、あるいはそれ以上のものをやりたいときに、何かキーワードで引っ張ってこれるものがなければいけない。そのときにとても言葉は便利なのです。 

また、言葉そのものの持つ力みたいなものもあります。それは自己暗示というか、そういう世界に入っていくと、今度は言葉に呪縛されていくのですが、それを解放するために音が付いているという感じです。

 

 「言葉は、インスタントラーメンの麺である。お湯をかけてあげなければいけない」このお湯のかけ方を勉強しようというのが歌だと思います。比較的シビアな状況になりますと、何人かの友人を失った。死ということについても、それは道路のどちら側にいたか、あるいは渡ろうとして向こうに行こうとしたか、というだけのことで日常的に起こってくる。言葉を使うとき、あるいは言葉と付き合うときも、その道路の渡り方というのを考えなければいけない。 

 

お湯をかけることを思いつく、あるいはお湯をかけて違う形態にする前に、そこにあるもの、そのインスタントラーメンの麺が元はどういう形態であったか、ということを捉えていかなくてはなかなかわからないわけです。

 話を元に戻します。言葉は不完全な器であると、完全な方に心を巡らせてみるのです。そして現実のなかに入ってきたとき、これは舞台、あるいは、生のステージになったときに必ず考えることですけど、どんなときにこの言葉を口にするか、ということが1つです。 

 

 

それから当然言葉によって、その状況を作らなければいけないのです。それは照明でやったり音でやったりいろんなやり方があります。どんな状況をその言葉で表せるのでしょうか、役者の世界だと一言で決まります、ヴォーカルの世界でもそれに近いわけです。その2つは現実のなかで常に問われることです。そうすると言葉が生まれてくるところも状況のイメージが必要になってきます。

これが想像力で、イマジネーションといわれるようなところで、感受性がいいとか、感性が高いということで、これは声とかヴォーカルということと別にあります。素質じゃなくて、そのことをやってきたか、どうかということだと思います。

 

 肉声という言葉です。この肉声を取り出すということが、ここのところ研究所の最大の問題になっています。人間の肉体から絞り出されてくる声は生々しいものです。1回そこまで戻っていこうということです。それは絶対に間違ってないといっています。だから声にしたとき、言葉にしたとき、歌にしたときには間違っているけれども、体は間違っていないし息は間違っていないのです。ただそういった肉声を出すのに、体の状態とか、あるいは状況がそこまで追い込まれていないとだめです。段々固まっていくと、それがインスタントラーメンだというような形の台本です。

 

 「大きな耳」という本はよい本です。「グロテスクな声」というのがあります。「ライオンは立ち止まり、僕をじっと見詰めた、僕は勇敢に見返した。ライオンは突然吠えた。それはこちらを威嚇するような声ではなく、メゾフォルテで、これが俺だといっているようなうなり声である」イメージはアフリカなり、ライオンの前に持っていって下さい。「僕は既にすっかり魅せられていたので耳が全開になっていた」「大きな耳」というのは耳のことに関して書かれたエッセイ集です。耳をどれくらい開かなければいけないかということです。

 

 

 今回、「耳と体」というタイトルにしたのは、ここからです。「そして僕は彼の咆哮が、その内面を実に詳細に語っているように語っている様に聞こえたのである」「僕はライオンの内側の闇の中の胸部とその空洞、赤い層や腸や内臓の全てが、まるでポートレートのようにポーズでもとっているかのように、ありありと見えたのだ」「これが俺の体の音の映像だ」とライオンはいった。「俺の存在をお前に伝える」ライオンはいった。ライオンはまるでズボンを脱ぐかのように造作なく、完全に自分の内側をひっくり返して見せたのである」 

 

みなさんにも声を読みこめというのをいっています。ライオンじゃなくて一流のヴォーカリストの声をです。耳の世界というのは目の世界とは違うのです。これは目の世界で例えていっているわけです。音のことから、それだけ感化を巡らして、そして説明するときは文字になったり、やはり視覚的に説明せざるを得ないわけです。それを音で表しているのが音楽家なわけです。

 

 当然のことながら、美術館に行くと世界中にいろんな作品がありまして、それは17世紀のものであろうが、15世紀のものであろうが、それが残っている限り対話できるわけです。いい作品があると。ところがライブとか生の舞台というのは、まあ録音技術が発達しましたから、ここ100年、200年前のものはなんとか残っていますけれども、それ以前のものというのは想像するしかないわけです。

 

音響が音の世界に普及してきて、我々の身近になったからといって、その世界のなかが豊かになったのかというと、どちらかというと逆ですね。だから教科書でいうとヴォーカルになりたい、音楽家になりたいということであれば、24時間音楽に浸りなさい、といっていますが、考えてみれば、そういうことをやってきた人間はそんなに音楽に浸ってないのです。特に音楽に浸るときの集中度が違うというだけであとは静かなものです。

 

 少なくとも私は今の音楽をTVでかけっぱなしなんてことはなく、どちらかというと耳が疲れるような感じがして、止めてしまいます。音楽の嗜好が体の生理としてあわないのです。今の10代の聞くもので育っているわけじゃないからです。ただ、体が読み込めないのです。それが一番の不満です。 

よいヴォーカルをどうやって見分けるかというと、背骨が見えることといっています。一般受けする、しないというのもありますけれども、本当に一般受けするものというのは認められる人は認められるレベルでは、何か認められているわけです。 

 

話を戻します。「グロテスクな声」というので今語りました。「肉声とはグロテスクなものである。動物はとてもよい声を出す。動物は気のない声は出さない」心のこもらない歌は歌わないと、ま、人間は本能が壊れているということをいいたいのです。「そう感じたから、そういう声を出す」これが原点です。

 

 「動物は心の通りに体内を震わせ自分のはらわたの声を出す」はらわたの音というのは今の人間にはむずかしいです。合宿などでも演じてはみますけど、どこまで本当のところできているのかは、よくわからないです。そういう生活に戻らないといけません。「すなわち、自分の音を使っている。うそはつかない」動物ですから嘘をつきようがないです。人間は、ことばがあり、ウソがあるから、歌も芝居もできるし楽しめるのです。

 

 

 「のどや口の奥だけで出す声ではなく、はらわたの音を使うなら、歌はグロテスクなものになるだろう」多分そうでしょう。 

ライオンのうめき声を音楽として歌としては聞けません。今、イルカとかクジラの音楽なども出ていますが、それは虫の声と同じノイズです。 

「ただ歌い手も人前で自分の書をひきずり出されているようなものである。自分の内臓の震えを持ってまで伝えること、すなわちこれが俺だと主張しながら自分を伝えることである。はらわたの音にのせる言葉をもっと知っていてよいのではないか、そしてはらわたの音をもってその言葉を送り出した人の心を、表情を、状況をもっと知るべきであろう」 

 

全部読んでいくと退屈すると思うので、ちょっと画像を入れながらやっていこうと思います。それからみんなの方にも、やってもらいましょう。

 昨日から1泊して河口湖の方に行ってきました。あるカラオケ大会の審査員で、私がカラオケの審査員を引き受けるときは絶対条件があって1回は引き受けると、でも2回からは絶対に行かないことにしています。体中汚れきったような気分になっていますけれども、まあ、ただそういう人達がそうやって盛り上がるというのは、楽しいものでした。それで久保田一竹さんの映像をみなさんにも見せたいと思っていて、ようやく落としてもらえたので、それを始めの方だけを紹介します。始めにキリマンジャロのところからセリフがでてきます。 

 

 

「雪と氷の山頂に、ひからびた一頭の豹の骨があるといいます」あんまり影響を受けないようにして下さい。声優がかっていわなくていいです。で、さっきまでいっていることと全部結びついています。ライオンのことも状況のこともです。

 みんないっていることしか頭にないのですけど、少なくとも音のことをやっているわけですから、音でいったことくらいは記憶に残しておいて下さい。あとは風景のことと、自分のイマジネーションでやってみて下さい。役者の養成所に行っている人とか、アナウンサーの学校に行っている人が聞いたら、下手というだけのものですね。アナウンサーのノウハウとか俳優さんのノウハウとかも、あると思いますが、それは教えられません。みんなの場合もそれを学びにきているのでないのなら、もう少し表現の仕方があると思います。少なくとも言葉からフレーズになっていないと、音楽にならない。 

 

いつも最初のテンションがかかるのがとても遅くて、盛り上がるまでに時間がかかるのですが、まず自分で何を養成しているのかを考えてみて下さい。耳に体、伝えることのタイトルできて、どうしてこうなるのだろうと、不思議に思います。

 毎回いじめていくと、よいことにならないし、歌というものはもう少し解放されたところでやらないといけないのですが、パワーの方向を右にいっているのを、まんなかに向けなさい、というのはできますが、パワーを出てないところにパワーを出させようとすると、地獄の特訓とか宗教的な修行とか、どうしても悪い方向へ行ってしまうのです。 

 

当人がイメージしてないし、伝える意味を感じてない。しかも相手も想定してない。みんなの歌もそうです。そういうことでいうと、そこまでの準備ができていない、状況ができていない、追い込みができていない。その場にすぐにのってしまうだけなのです。もっと単純なことを考えればよいわけです。

 他の人の聞いてどう思います。だらだらしていやだなと感じないとしたら、平和な人生を送れます。それで自分が精一杯やったときにできないというときには、技術的なものはなくても、何か伝わるのです。だから、伝えることの一番の基本というのは、やはり伝える意思があることです、今日は伝える勉強なのです。これはテーマにしてもいいと思います。声優さんをみせたのがいけなかったのかもしれませんが、読みとは違うわけです。語り、歌ですから、前に出していかなければいけません。

 

 

 一番わからないのは、そこのギャップをみんなが感じないで一時間過ごせてしまうところです。ライオンが内臓を出しているという、その言葉自体がみんなに影響しないんですね。だからそのイメージができないし、そのイメージが出せなくなってしまうんです。全体の責任もあります。でもそれをいっていたら意味がないし、私は全体を見ているなんていっていません。表現する人間を見ているのです。したい人間に対しては何か与えられるつもりですが戻ってしまいました。

 

 「はらわたの音にのせる言葉をもっと知ってもよいのでは、そしてはらわたの音をもってその言葉を送り出した人の心を、表情を、状況を、もっと知るべきだろう」みんなもいつも、こういう風に重ねていって、この後も映像を見せますが、そういったことをしてあおっていくとそこでできるのです。 

 

でも少なくとも1年、2年いる人や合宿に行った人はこのことと同じことを何回やってます。いつもゼロになってしまう。そこのところにふんばっているのがヴォーカリストなり、表現する人であり、それを示すのが最低限の責任でしょう。だからレッスンで、学べるものが少なくなってしまいます。材料は少し難しいかもしれません。単純にいきましょう。何も考えなくてもよいです。余計なことを考えてしまうから、いけないわけです。みんなの頭がカチカチになると本能が壊れてます。単に一番大きな声で出していってみてください。その方がよほどいいです。まだ何か起こる可能性がありますから。

 

 

 「その豹がなぜ、そんなところまで登ったのか、誰にもわかりません」暗くしているのも、スライドをつけているのも、みんながなりふりかまわずできるように状況を作っているわけです。活用して下さい。さっきみたいに読んでるだけだったら、アパートで読んでいればよいことです。 

それを表現として見せるには、まず自分のなかで全力で言葉を捉える。言葉でいわなければしかたないですが、声でもよいです。声でワーワーといってもよいです。そういうベースの部分を取り戻していく、全体で、それが第一段階です。

 数人ちらほら、聞こえたという感じです。あとは言葉の方に気をとられています。まちがっても構わないわけです。変えても構わないです。その上で今度は何かを置いてくる。ということをしなければいけません。 

 

今ライオンのレベルのことまでできていたら、次のことをやれるわけですが、できていないのでムダなのでそれは止めます。ただ課題としては、それを体で読んで1つに捉えたこと、体を痛めなければダメです。悪い意味で痛めるのではありません。本当に1つのことを伝えようとしたら、1音で胃も腸もきしむはずです。 

だからこそそんなことできしまないように体を鍛えているわけです。使う必要がなければ鍛える必要もないのです。

 なぜ息とか声とか鍛えているのですか。必要性がほとんどの人が感じられないです。2人か3人くらいはわかりますけど、あとはいるの、という感じです。表現考えているの、本当にそうですか。本気で考えて2年送ったら、変わるでしょう。どのくらい汗をかいて、どのくらい体から絞り出すか、ということです。

 

 ただここにきたら、上がって何もいえなくなってしまうとか、そういう時期もあってもよいですが、やっていれば吹っ切れます。 

次に時間を感じなければいけないはずです。本当は状況を読みこまなければいけません。声優とかアナウンサーと違うのは、メリハリの付け方です。正確に聞きやすいメリハリ、ヴォーカルの場合、必要ないわけです。そのかわりに、そこに音があるし、強弱があるし、リズムがついている。大切なことは、とにかくまず1つに捉えるということを、言葉でもよいし、声でもよいし、まずそのレベルをやっていくということです。そこに息を生かしていくということ、そこに音感とリズムが入っていたら、口から出たものは歌になります。後でその辺りのことをやっていこうと思います。

 

 

 とりあえず耳と体、声と語り、特に語りに関してはプロの人達のを見せます。まあお遊びみたいなものですが、耳の世界を磨いてみて下さい。今日取り上げるのは日本人のものです。後半は少し歌の世界に入ります。必ずしも日本の民謡とか、浪曲の勉強が、ここでやっていることに直接結びつくとは思わないのですが、何か一代で築いた人というのは、それだけインパクトがあったわけです。そのインパクトとパワーを勉強してほしいと思うのです。

 

 久保田一竹さんは60才でデビューして今80才です。あと20年やらないと仕事が終わらないといってやっているわけです。美輪さんも、61才であんな舞台をしているわけです。本当に年齢じゃないです。みんなの方が60か80才くらいにみえてしまいます。もったいないことだと思います。 

語りの映像を見せますが、コメントを付けません。近代漫才をつくったというやす、きよから始まります。たけしの言葉でいうと、「やす、きよには絶対かなわない、だから自分は違う形を作った」といっていました。次にたけしの師匠の談志も出てきます。

 

 (上映)・やす、きよの漫才。・談志の語り。・藤山寛美。・美輪明広の舞台。 

人は死んで評価が決まってくるので、そういう意味で亡くなった人もいて申しわけないのですが、村上進さんの「愛に生きる」と「カルーソー」です。何回も扱っている曲です。

 最近感じるのは音の世界、例えばカラオケの好きな人というのは、もう完全にコピーというかマネなのですが、徹底してマネする、技量は追いつかないが、そういう耳で聞いて近づこうとしている。それに対してここ1、2年、みんなの音の世界ってどこにあるのかなということです。 

 

例えば落語というのは音の世界で、身振り手振りも当然ありますけれども、耳で聞いても面白いわけです。ラジオなどのDJの語りなどもそうです。例えば映画であれば1時間半みれば1つのストーリーを人に語れるくらい、しゃべれるわけです。

 村上さんの曲を今かけましたが、これは何をいったか書いてごらんといったら、一体わかっているのかどうかです。それは歌い手が力がないからとか、伝え方が悪いということでなく、普通に伝わっているものに対して私たちから上の世代、世代でわけるのも変ですが、普通の人が聞いときにああこれはこういう歌だなと、そういう線で思って説得されることも、何か伝わっていないような気がしてならないのです。 

 

映画でいったら画面を見てあらすじがいえることです。歌も同じで3分のなかで1つの物語が展開していく。当然、物語だけではありませんが、それも一つの要素です。

 課題曲をやっても結局それが、その人に伝わっていない、伝わってないから、その人の心が動いていないし、本人が動かないところで出した作品が成り立つわけがないのです。漫才も落語も、自己流にやっている談志さんも、とても器用にものまねをしているのです。発声器官がどうこうというよりも、耳の世界がきちんとあるわけです。相手の口調を全部押えて、その表現をきちんと見せる。しっかりと使い分けているのです。

 

 歌い手というのは、芝居とかモノマネの世界ではないのですが、それ以上に敏感じゃないとだめでしょう。そこに音もリズムも入ってくる世界ですから、体で聞きこめないと思うのです。私はやれないことはやりませんから、漫才とか落語とか、最初は考えていたのですが。相方にして掛け合いをやってみたら、どのくらい違うんだろうとか、やすしさんのツッコミを受けられるのな、それも受けられなければ歌い手はできっこないでしょう。一流のバンドがいて、一流のお客がいて、まわりが全部オーケストラで、出ていったらできるといっても、その方がもっと大変です。

 

 アイドルとかは別ですが、普通の男が出ていってそんなところで歌っても3分間ないのです。抽出してきたところで、みんなに伝わるところ伝わらないところがあったと思います。関西のものは向こうの感性がないとわかりにくいのもあります。吉本新喜劇とかを見ていても面白くありませんが、そこでやっている芸や言葉とか、声などは読み込めるような気はするのです。ユーモアのセンスとかは地域性がありますから別ですが、共通して流れる部分のものというのは何か取り込めて、その舞台にその人間がきちんと座っているかどうかという問題になると思います。 

 

どうも、人の歌詞、人の舞台、人のマイク、人の歌のままで出してしまっているのを感じます。この前の表現のときにもいいましたが、与えられたら自分のものですから、自分のものにしなければダメです。

 逆に自分がシンガーソングライターやっているといっても、どこかのステージを借りるわけだし、自分の店で自分の曲を自分の身内に対してやる、という場合は、別かもしれませんが、客観性は帯びなくてはいけない。だからといって、人に合せる必要はないのですが、そういうことを考えるきっかけになればよいと思います。

 

 映した1人は1つの名前でやってきた人です。最後の課題です。「カルーソー」の歌から取りました。今まで何回も出た人はやってきたと思います。しかし、果たしてどのくらい考えてやっているのか、というのが疑問です。頭で考えなくてもよいのですが、気持ちになりきれないとか歌が表現できない。声の問題なのかというと、なにかそうじゃないような気がします。結局はらわたの音が出てないのです。それだけの苦しみを自分で感じていないし、それだけの表現をそこで意図していないから、とんとんと順番が回ってしまうのだろうと、思います。 

全員がそうとはいいませんが、それを舞台でCDに入れようと思ってやるときは、スタンスが違ってくるとは思います。まあ考えてみて下さい。

 

 

 「カルーソー」の歌詞を起こしておきます。今の歌というのはコマーシャルでも字幕を見ないと何をいっているのかわからないし、耳だけで聞くことも難しくなってきています。本来歌というのは耳で何をいっているにか聞こえるように歌うのですから、そういう曲調になっているから、みんなの耳も一緒に風化していき、体も動かなくなってくる。そっちの方が問題です。それは、演劇学校とか声楽を扱っているところでも感じている問題だと思うのです。それと覚悟の問題というのもあるのでしょう。これは、最終的にいうと、「死」を歌ったものです。

 

 歌詞「死ぬほど愛した」とあれば、じゃあ死ぬほどってどういうことなんだ。最後に愛したっていうことなのか。一番愛したということなのか、なんで死ぬって出てくるんだ、ということを突き詰めないから「死ぬほどに愛したー」なんて歌えてしまうわけです。冗談じゃない、作詞家や作曲家がそんな感じで作っているか、という話です。あなたたち歌い手がダメにしています。 

「この固い絆」でも小さい子供が手を結んでいるくらいの絆とか、糸と糸で結ばれてくらいの絆でしか感じてないのに、そこに表現が加わるわけがないのです。当人がこめようとしてないのですから、そういう表現に対して、体とか息とかが動いてくるわけがない。 

 

みんなの1分よりも談志さんが1分しゃべっている方が、よほど体を使っているわけです。歌い手の方が体を使わなくてどうするんだ、ということです。もっと大変なはずなんです。 それのトレーニングなのです。この後はテニスのグラフと伊達の試合のときの顔です。そこまで見せたくなくなりました。それくらいは自分達でイメージしてください。 

そんなものを勉強したからといって何にもならないかもしれませんが、結局、自分で濁したらいけないということです。一所懸命というのも心を込めて接していかないと、あるレベルからはダメになってしまいます。雑に扱ってしまうと、そのまま跳ね返ってしまいます。だからヴォイストレーニングをやるわけです。

 

 

 そこからスタートすべき。その先に何もないような気がするんです。そこが大きな問題になってきているような気がします。突き詰めるというのは、そういうことです。みんなに文章を書け書けといっても、なかなか書かないのです。この前もいいましたが坂本龍一さんなんて曲を作って演奏するだけですけど、ものすごい量を書いていますよ。大学のときから。誰もかなわないくらい読んでるし、書いている。結局やった人というのはそうなんです。仕込みを世界レベルで通用するだけのことをやっているというだけのことです。その上で才能というのが出てくるんでしょうが、それだけやれないと問うことさえできません。やれないけどやらなくてよいのかというと、やりたきゃやるしかないのです。 

 

こういう歌詞に関しても同じだと思います。そこをどこかで踏んでおかないと、何かをパッと与えられたときにすぐにこなせないです。毎年、毎年こういうのを与えられて同じレベルでこなし、そのうちモチベートがなくなってやめていきます。体を鍛えるのを怠っていても、そのレベルは、下がってしまうのです。そうすると元に戻らない。そうやってダメになってしまうのです。 

 

最初の1年とか1年半というのは誰でもトレーニングできるのです。そこからが大変です。 

そこで質に変えるとよくいいますが、リピートでなくてリピートをオンできるかという問題です。本当にそれが難しいことなのです。オンするということはステージとは違うところに立たなければいけないわけです。

 

 

 結局、談志さんとか寛美さんとかのように、ああいうふうに全てを自分で引き受けてなにか1つやっている人間の感覚に自分が乗り移れて自分がやらなければいけない、ということです。その責任はイマジネーションの世界でできるわけです。合宿でもいいましたが、5万人の前で歌っているもりでやれと。それだけの体も状態をつくり出せと。普通の人はそこでかちかちになってできなくなってしまいます。 

それはイマジネーションのなかでできるわけです。

 

というか、それをみんな普通、イメージして勉強したり、ヴォイストレーニングをやったりするわけです。そこの世界が入らなければ自分なりに入れていけばいいと思います。それを取り出さなくてはいけない。それが表現ということだと思います。それに対してうまくいかないから感情を入れようとしたら声がつまってしまうとか、3分間も声をはりあげてようとしたら何かのどが痛んでということで、ヴォイストレーニングがあるのです。何かライオンの声といわれる前に自分のなかでそういう欲求がないのかというのを一番感じます。 

 

理屈でないから、表現するのに何か論理が必要であるとか、自分のポリシーがいるとか、そういうことはいわないのですが、もっと体からそのことを歌に結びつけなければいけません。言葉とか音声にしなくてはいけないということです。

 小説を書きたいとか絵を描きたいとかいうことでもいいと思います。メディアの違いだと思います。ただメディアの違いというのは、その人の才能で、なんで歌でなければいけないのかというと、その才能が絵を描くよりも歌の方が好きだとか、好きだというだけではダメですが、そこの方がうちこめるとうところで選んでいるわけだから、それをきちんと育てていくようなことを、オンしていくことでやらないと、難しいと思います。 

 

なんとなく自分で枠を作ってそこでアップアップしているような感じです。これはずっとステージ実習、ライブ実習でいい続けていることです。だから言葉のなかで心地よいのをだけ、聞くことが多くなって、あんまり1人で勝負してたり、そういう人達がデビューまでにどれだけのステージを、どういうところで踏んできたかということを、みてないし、見る場がなくなってきているんでしょう。

 その辺はこの世代の悲劇なのかもしれないのですが、体が使えない。本能が鈍っていくということは恐ろしいことだと思います。 

 

言葉のところでやっておきましょう。言葉にお湯をかけるということです「お前を愛した。死ぬほどに愛した。この固い絆は誰にも断ち切れない」というところです。本当に2年間でこれをきちんと読み切れるところまでいけたら、何か乗ってくると思います。まず短めに回していきましょう。難しい人はとにかく大きい声を出して、その状況をつくるだけでよいです。

 

 とにかく獣でよいです。獣が「ワオー」と吠える、その状況をつくり出すことだけでよいです。ある程度それができる人は、どういう状況が自分でバトンを受けるのか、そこまで考えてください。しかし、あんまりややこしく考えないでください。言葉というより、声でよいです。そこのところからが背骨までくれば、そんなに難しいことではないと思います。声量とか、声域の問題を気にしていますが、「お前を愛した」というのがいえて、そこで「お前を愛した」という言葉のなかで背骨まで感じていたら、そのまま投げ出していくと、その後でバーンと伸ばしていくところは難しいかもしれませんが、ここくらいのところはクリアできるような気がします。 

 

この曲はイタリアの歌劇王「カルーソー」の最後の日々を歌ったものといわれています。「カルーソー」は喉頭ガンにかかって、余命いくばくもない、そんなときに一人の娘と出会い恋に落ちます。娘を横においてこのセリフを叫ぶわけです。例としてみんなにやってもらおうか、と思ったんですが、「ただ一人」とか「1番に」に変えられ「死ぬほど」という言葉が選ばれてきているのです。「命かけて」「死ぬほど」です。そうしたら、そこに何らかの壮絶さを自分でイマジネーションしなればいけないでしょう。

 

 

 実際、現代のシーンからいうと、こういう歌詞もなければ、こういう歌い方もないのですが、私が一番やってほしいことは、体を大きく使えるのが正しいところでやることで一番伸びると思っています。それを 感情面でも体でも取り出してやることです。ですからこのセリフがうまくいえたらよいのではなくて、このセリフをいったときの、体の感覚とか声の音色のいろんな複雑な面を、あるいはいろんな可能性がそこにあることを自分で知っていくことです。それを使うかどうかは別です。 

 

これらはやはりトレーニングのときにやっておくべきだと思うのです。歌になるとやはりパターンにはまってきます。最近のものでは、歌に中で壮絶さをなんていっても、そんな歌自体降ってきません。そうしたらこういうところでやって、その体を生かしておくことです。そうしたら死んだような歌を歌っていても、その歌を生かせることができるでしょう。それは大切だと思います。

 

 

 それから「死神がやがて2人を引き裂いてしまう」と「いつでも変わらないといった絆の永遠性」は死によって変わるものではない、というような抵抗も歌ったものである、ということです。これもいろいろと置き換えてみて「誰にも断ち切れない」と置き換えられないんだという理由を持って、この歌詞を歌えばいいと、これは音でやる人がいてもよいし、曲調でやる人がいてもよいです。ただ、まだ言葉の方が簡単だということです。 

 

これはこんな音でしょう、とやるのはものすごく難しいし、また、聞く人によって音は抽象化されますから、それから比べたら言葉でやった方がよいです。ですから絶対的に、その言葉、その音、を使わなければいけない必要があって、決まってきたものだということを忘れないでください。名曲はみんなそうです。1音も狂わせずに、そういう面で捉えてください。 

 

そこまでして作られてきたものを安易に扱わなければ、体が全力で働いてくるのではないかと、いうような気がします。昨年村上さんの死については話しました。なんでこれを最後のアルバムに選んだのかということもわかると思います。もう1つ「3001年にみなさまに違った形でお会いしたく思います」と入っています。歌い手の場合は、そんなもんじゃないかと思います。 

 

続けて後半にはいりましょう。

次がジャンニ・モランディといって、来日しました。参考までに。

ジャンニ・モランディ。・エリック・クラプトン

 

 

 

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【基本トレーニング】

 

 「ガゲゴ」「高―低」基本的なところからやりましょう。「ハイ」から回してみましょう。のどにかすれて、ひっかかっているのを取ることです。「ハイ」回します。つくりすぎです。体と一致していません。バッティングと同じでただ振っているだけです。どこかで邪魔している力が働いています。 

体の底が見えるように声だけがあるように、体がそこで邪魔しないようにして下さい。 

 

「ハイ」回す。まだ少し、どこかで作っているのです。「ハイ、ラオ、ララ」でやってみましょう。 

基本に戻りますが、歌うところで作らないこと、、体の底のところに持っていくことです。単純にいうと、言葉や音楽的な表現を除いたところでやることは2つしかありません。「ハイ」と普段話している浅い声を深くすること、これが音の変化をして、高くなったり低くなったりしても、声量を出しても同じところでキープすることです。そのためにそれを邪魔しないことです。 

途中のところで出さないことです。下のところで捉えられていても、それを「ハイ」と出すときに作らないことです。ストレートに出すこと。息で「ハイ」というのと同じ感覚で出すことです。

 

 一番難しいのは、息で「ハッ」と出すと体が使えるのに、声にしたときに、そこから引いてしまうことです。のどを引いてはダメです。 

歌というのは出し切ったところで、自然と体というのは引くものです。そこでメリハリが作られるわけですから、自分から引くものではないのです。 

息で「ハイ」を出して、次にその深さと同じところで「ハイ」と体の底が見えるようにやってみて下さい。 

 

「ハイ」で回す。それは小さくやれということではないのです。しゃべっているところというのは、そんなに間違いではないのです。間違いではないのですが、日本語で話しているところというのは、浅いから、そこに声量と音域をつけたときに、どんどん引っ込んでいきます。 

レーニングの基本的な考え方というのは、もっと深いところで、そのところのなかに歌うことも入れていくのです。 

 

 

歌というのは構成や展開したり、飾りつけもしますから、声からいうと、ごまかしの世界に入ってもいいわけです。サウンドになってきますから、その判断は声だけではやりません。

 今の「ハイ」といっているところ以上に大きな声は出せないのです。日本人はマイクや飾り付けに頼り、歌のなかでは体を使って「ハイ」と思いきりやったところは使わないのです。体をより使っているときにバランスを崩れないようにすることです。体を使っても、バランスは崩れてはいけません。タイミングも崩れてはいけません。用意しなければ声にならないのです。 

 

体を身につけていくときというのは、必ずフォームというのを意識しておくのです。フォームが作られてしまった人というのは、意識しなくても動いたのがフォームになるのです。そこまで使い込むことが必要です。

 みなさんも思い切り声を出したときに出ているようでも、それを3分間続けていったときにフォームが崩れます。そういったときに基本の力とか、バランス、タイミング、コツが必要になって、それが崩れたときにどう直すかというのを学んでください。 

 

ですから小さくする、ということではないのです。今のは小さくしすぎです。小さく出すと余計に体を使わなくてはいけないので難しいです。もう少し、素直に楽にやってみてください。「ハイ」で回す。バランスということでいうと、上のバランスはまったく考えないでください。息だけで出すときの一番深いところで「ハイ」というと全然ひびかせていないのです。むしろ、上から押しては、発声としてはよくないのです。体を使うところ、声を使うところまでは一致していて、邪魔なものを入れてしまうと、変なふうに出てしまいます。胸声の発声は、役者の練習期間のときのような発声です。息を深いところで取って胸だけをひびかせているような発声です。 

 

 

最初にいったように体の中心があってそこから声が出るような感じで、そこがベースの部分です。それは高いところではやりにくいし、高いところでやるとハスキーヴォイスになります。そういうのが好きで歌っている人もいますが、かなり体力がいります。 

中間よりもう少し低いところで体を使ってやりましょう。体を曲げた方がやりやすい人は曲げてもよいです。

 「ハイ」回す。この辺のところというのは、歌でいうと日本人にはできないのですが、中間音、低音のところのメリハリ、あるいはヴォリューム感を出すときのベースです。今のだと少し押しつけています。全部解放しておくのです。それに息が浅くなっています。息を吐くときは深くなっているのですが、声にするときに、上から計算して出そうとせずに、全部解放してそのなかで出していくのです。声のなかに感情を練りこんでいくというのは、この辺でもできます。むしろヴォリューム感のところです。 

 

「ハイ」ピアノの後につけていう。(低―高)この発声というのは、基本的にいうと、高くなったときほど、体が使われなくてはいけないのです。ポジションが同じであれば、「ドミソミド」に乗せていくのは誰でもできるのですが、上の音のときに太く強く出せるようにするのです。「ドミソミド」で音として何の問題もないのです。しかし、2音でいくならば上の音の方が必ず体を使っているということです。そうしたらどこかで絶対に限界がきます。そこからしぜんとひびきに入っていくのが、ことばから音楽の世界への移行です。

 

 

 今はまだ言葉の世界で、自分なりに確かめてみてください。少し低めからいきます。音楽でいうと「ハイハイハイ」で「ハイ、ハイ、ハイ」にはならないようにしてください。2番目を強くと考えてみてください。「ハイハイハイ」(ピアノに合わせて)今の2音目が大きく取れるところのギリギリのところです。意識では、大体まんなかか、まんなかから1、2音高いところです。そのときにポジショニングがいろいろと変わってくると思いますが、それをなるだけ変えないことです。 

 

変えないために息を吐く。もっと基本的なこというと声にしようというところをなるだけなくすことです。そうでなくとも、あてると使えるのですが、そこに頼らないことです。そこでは体を使いようがないからです。フレーズというのは全部同じで、それを息で動かしていくのです。 

 

 

発声で呼吸法が大事だというのは、呼吸でしかコントロールできないからです。呼吸以外のものを使ってしまうと邪魔することになるのです。安定はしても、余計な音が全部入ってきますから、そこだけで取れなくなるし、後で伸び悩むのです。最終的に共鳴ですから、確実に吹いていたら後は息の量を多くし、スピードを早くするしかないでしょう。そのときに元が狂ってしまうと、大きくならないです。

 例えば「ラララ」でも2音目でポジションを変えれば簡単なのですが、それをまったく変えないで今しゃべっているところよりも深いところで「ハイ」と捉えておくには、体の支えがいります。「ラーラーラ」と言葉を言い換えずに動かすのは体です。 

 

息を吐いていけばいくほど、高くなっていく感覚にするのです。ムリにキープするとそうなります。歌のときはそこまでがんばらないのです。しかしポピュラーでは、そこでがんばって歌っている人も多いです。みんなに聞かせたシャンソンとかカンツォーネというのは、アメリカに行ったら1オクターブ半から2オクターブ歌えるような人ががんばって、1オクターブで歌っているような歌い方と思えばいいわけです。1番高いところでシャウトできるように持っていくということです。 

 

同じ体があったら今の時代で歌うとしたら、もう半オクターブ以上高いところで歌っていると思います。体が違うわけではありません。アメリカで歌っている人でも相当強いです。ただ強いところで完全にもってこれるところで、歌を作らないで、音楽的な部分にズラしていると思えばいいです。

 

 ですからトレーニングで考えたときには、どちらをやるかとなると、音楽的なズラした方でやると間違いやすいわけです。基本をしっかりやった方がよいのです。流して打とうが、引っ張って打とうが、日本人の多くはこのクセ声を使っています。飛べばよいというのが歌の世界なわけです。基本をやるときには基本のフォームをやるしかないのです。それは1番体で使えるところ、音自体は完成していなくても、体が明日変わっていくところを徹底してやっていくことです。

 

 

 「ラ」でやりましょう。「ラララ」でも「ラーア」でもいいですが、3つの音が変わらないようにします。変わるとしたら2音目で大きくなっていく感じです。「ラ、ラ、ラ」と3つで考えないで、「ラーラーラ」と次にいく音の階段の差がわからないように降りていくことです。それには息を沢山吐くことです。「ラ、ラ、ラ」と吐くのではなく、2とか1とかで考えるよりも「3、10、3」みたいな感覚でやるのです。

 ピアノに合わせなくてもいいです。自分が移れるところで移ってもいいです。「ラーラーラ」(ピアノに合わせて)「ラーラーラ」回す。ピアノみたいな打楽器みたいに、トランペットみたいな感じで出すとよいでしょう。 

 

今やっているところ、というのは難しくて、下のポイントのところの声のポジショニングをきちんと握っておかないと、そのポジショニングの上だから「ラーラーラ」と息は流れても、底を取っていないから、声が3割、4割となくなっていくのです。インスタントにやろうとしたら、合唱団みたいに、それを全部まとめて、口内で上あごにあてるとひびいてきてつながります。しかしそのつながり方ではヴォリュームは出せません。息とか体から反し、全部作っていくことになります。ポピュラーからいうとまわりくどくなって、音域、声量もとれなくなります。

 

 その前の上のポイントというのは、大切ですが、表現を忘れずに考えていけばよいわけです。声から考えていくから間違ってしまうのです。どの声を使おうか、とか、この声をここに当てはめようというのは邪道な考え方です。ポピュラーからいうと、声がよくてもしかたないのです。その表現をやったときに、声がつながっていればよいだけです。声が目立ったら一番いけないというのは、きれいな声を聞かせるわけじゃないからです。ナポリターナなどポピュラーでも声そのものを聞かせようというのもありますので、一概にはいえないのですが、表声のない多くの人には方向違いになってしまいます。

 

 今欲しいのは「ハイ」といえているところです。「ハイ、ラーラ」とやれるかです。「ハイ」という点では、筆に墨をつけて、そのまま動かせばよいということです。そこに墨がついてないとかすれたり違うところで動かさざるをえなくなるわけです。音楽的に結び付けていったら、それを言葉にすればよいわけです。 

 

 

「アモーレ、アモーレ、アモーレ」も息をずっと流している上でいうような感覚です。音楽だからそこにビートをつけて「ンダッンダッ」とことばはどうでもいいわけです。その間が見えたらダメなのです。体にそこまでのイメージを流して、やっていくのです。山なりになったらいけないわけです。

 

 自分であとで動かせるように自分の体のなかでまずフレーズを作っておいて、そこのなかで動かしていくのです。なるべく音の差を作らないことです。これでも半オクターブあるわけです。そのときに「ア」と「モ」で変わらないことです。音楽的にいうと「モ」の方にアクセントを付けた方がいいです。

ここで「モ」で踏み込んで、「モーレ」でそこで「ア」を入れなくても「モーレアモーレア」と1つに捉えるのです。 全部が均等に分れてしまうのは、音楽的にはよくないのです。声楽では最後までひびかせなければいけませんから、きちんとまとめるのですが、ポップスの場合は間が切れても、自分の体とタイミングが合っていて、それが表現したいことであれば、それでよいわけです。

 

 もう一つは言葉から入りますから、そのときの言葉がどうなっているかです。合宿で「アモーレ」が全然できなかったのは、「ア」と「モ」と「レ」がまったく揃わなかったからです。「アモーレ」と1つで捉えないで、「ア、モー、レ」とカタカナでいっているからです。それはあまりに日本語的です。単に「アモーレ、アモーレ、アモーレ」といっているようなところでも、1オクターブいっているような感覚になってしまうのです。広げたらいけないということです。 

 

 

1オクターブあるものを1音みたいにみせるというのは発声の基本です。しかし歌の世界では、逆に半音しか変わっていないのを大きく展開したように聞かせる場合もあります☆。しかし基本的には逆に考えた方が、音域とか声量とかは伸ばしやすいのはあたりまえです。1つに捉えない体は使えないのです。

 「アモーレ」でも「ラ」でもなんでもよいです。

 

「アモーレ、アモーレ、アモーレ」と実際やってみると大きくなっていきます。それは歌っているということではなく、足をすくわれているのです。そこは押えておかなくてはいけません。押えた上で展開するのはよいのですが、それだけではどんどん大きくなっていきます。こんなところで大きくなっていってはいけないわけです。声の最初のポジションが押えられていないからです。 

 

言葉をかえましょう。「ラ」だけでやってみましょう。体を使わなければいけません。体がサボッているのです。「ララーラーラー」で考えなければいけないのは、歌ってしまうことで、歌を忘れたらいけない、ということと、声を見せるのではないということなのです。

 

 

 声楽を何年かやってここに来る人もいます。いろいろなスクールに行くと、いろいろな発声をやってくるのですが、表現のことを考えずに声だけ出しているので何にもならないのです。それだったら「ラーラーラーラー」とギリギリのところで出している方が伝わるわけです。なぜかというと、体を使っているのが見えるし、息吹が見えるからです。息吹きが見えないとものすごく難しくなるのです。 

 

「アモーレ、アモーレ、アモーレ」といっているだけのところで同じに使うこと、表現にはまってくるのです。それをコントロールできないといけません。1番単純なことでいうと「ハイ」でも「ラ」でも1つに確実に捉える、その捉えたものを展開する。展開した後にきちんと戻っているかを確認するということです。それが音域が上がっていく、あるいは、言葉が展開していくと変わってくるわけです。「アモーレ」の「レ」が上にはねてもよいのですが、「レ」の位置に戻しておかないと、次に入れなくなるのです。どんどん狂っていきます。

 

 言葉で「アモーレ」といって、そこから「アモーレ」とやってみましょう。方向はきちんと定めておいてください。「アモーレ、アモーレ」 

音をつけて言葉で歌にするというのは、言葉のところで5の力を使ったとします。今、歌のところになったときにみんな音域を取りにいったし、長さも伸びましたよね。そうしたら、その5よりも体を使っていないと、表現にはならなくなるのです。トレーニングにはならないのです。

 

音を高くする、長くする、より言葉を変える、ということをやれば、そこで「アモーレ」ということを伝えようとして、言葉で5の力を使ったのであれば、歌のときにそれが10か15必要とされなければおかしいわけです。「アモーレ」といって、そのときに伝えたいことが、同じ言葉だと歌うことによって薄まってしまうのです。

もう一度最初のところに戻ると、まず、声にしたときに「ハイ」とここでつくる。次に言葉で「わたしは」でもっとつくる。歌にしたときに「わたしは~」ともっとつくるわけです。3段階で作ってしまうからどんどん離れていってしまうのです。離れていくけれど歌らしくはなります。 

 

今やって欲しいことはそれと反対のことです。「ハイ」で声にするときはほとんど同じところで、言葉でも「わたしは」と同じところでやって、それを歌うとなると、そこでもっと体を使わなくてはおかしいのです。少なくとも、その結果をトレーニングするというのであれば、トレーニングは体を使ってやらないと、何にも変わっていきません。そこをまず逃げないことです。 

「アモーレ」といってなぜ伝わるかというと、体を使っているし、逃げてはいないからです。そこを忘れてしまうと伝わりません。

 

 

 結局、聞き手というのは、声を聞いているのではなく、その声を通してその人間、あるいは人間の体や心を聞いているわけです。その人の体のなかでどこかでつっかかって、どこかで邪魔していたら、当然聞きにくいし、その人間の体の1番中心のところ、深いところにふっと入っていったところで引付けられるわけです。表面だけできれいになっているような声を聞いても、ダメです。少年少女合唱団みたいなものには絶対に引付けられないのです。それがきれいだという感覚はあります。 

 

しかし、そこで踏み込めるか、踏み込めないかです。表現の形としては「アモーレ」ときれいに歌うよりは「アモーレ」とギリギリのところで歌う方がよほど伝わるわけです。一所懸命にしているから伝わっているということではないのです。音楽そのものが動いているものですから、動いているというのは根本的には呼吸の部分にもってこなければいけないのです。

 

 自分が「アモーレ、アモーレ」といって、呼吸と合っていればよいのです。それを先に声を考えてしまって、そういう型にあてはめようとすると、自分の枠があって、その枠のなかの歌なのです。それではダメです。自分の息、自分の体にどこまでももってきて、その流れのところでそういう枠を破ろうとする力が働かないと、相手には伝わらないのです。まとまっていると、1人で勝手に歌っていれば、となってしまうのです。 

 

 

そんなに間違っていないのですが、音楽にするとき、歌にするときに出して出して出し尽くして、過剰なほど自分の体にかかえているものを出していかないと伝わりません。そこまでのことをトレーニングでやっておくのです。声も同じです。 

さっきのがなぜ歌に聞こえるのかというと、間は見せていないし、声量も見せていないけど、そこの部分を聞くと予感できるわけです。「あの人はもっと出るんだろうな」と。それはイメージの世界ですけど。

 

 ですから考え違いというよりはイメージの問題です。イメージのもっていき方が、先に音楽的な形があって、こういう歌い方になって、それに声を合せようとなっているのです。それだと面白くなくなってきます。むしろ自分に宿っている声、自分の呼吸のところで、自分が破っていったときにどうなってくるか、です。そうするとひびきが浮いてきたり、楽になってくるときがあると思うのです。1つのフレーズを1000回くらいやっていたら1回か2回くらい、そんな感じがあると思いますが、それを追求していったらいいと思います。なまじ歌えてしまうと方向性がそれてきています。