一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン  21015字 1143

 

課題曲レッスン

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アコーディオン弾き1 3610】

アコーディオン弾き2 3610】

【「愛に生きる」361112】

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アコーディオン弾き1】

 

 いろいろな要素があって、しかし音のこと、体、声のことをやっているのですが、歌の場合はトータルに、それが整っていかなければいけません。テキストを全部読み、自分の体でわかるようになればよいのですが、難しいものです。 

やり方としてとても簡単なところからやっていくやり方と、ものすごく難しいものをぶつけて、そのギャップを感じてやっていく方法の両方をやってください。可能性を、この程度だろうとレベルダウンさせてその程度のものだけをやっていると、そこから抜けられません。

 

 レッスンでわからないということをいわれますが、わかったらすごいのです。わかってもできません。できたらすごいわけで、簡単にわかってたまるかということをやっています。だからそれは気にしないで下さい。 

何回も出ている中で、言葉ではなく、わかる部分が出てくると思います。それを待つだけです。私やトレーナーは言葉で伝え、いろいろと落としているものがあります。時間はもったいないのですが、なるだけ私のレッスンでは、しっかりとしたものを聞かせる時間をとっています。

普段はあまり大きな音では聞けないでしょう。会報を書き終わったらその曲は終わり、ということにしていますが、そこから、本当のレッスンなのです。

 

 

 エディット・ピアフを取り上げます。「愛の讃歌」のピアフの音の取り方。音感の移し方、大歌手で勉強になると思いますが、最初は何がよくて世界で評価されたのかは、わかりにくいと思うのです。 

シャンソンを使っているのは、まず言葉のなかでの問題が片づくこと。歌のなかでだいたい言葉がきちんと通用すれば7割くらいは解決します。

 

歌詞を与えられてその歌詞が完全に読みきれたら、1オクターブくらい歌えるのです。自分で言葉を伝えて、相手がわかるレベルの舞台になれば、その条件のなかに姿勢も呼吸も入っているし、感情表現や間の取り方も入っているからです。唯一入っていないのは、そこに音の高さがついて、またひびきのなかで構成していくとき、歌としての型としての展開です。これは違います。

 

 言葉でいうとき「街の女のマリーは美人だった」。これに「ターラーラ」と音が入ってくるときとフレージングというのが入ってきて違ってきます。ですからそこの部分の3割を抜かして言葉で解決しておいてもらうと助かります。普通の歌をヴォーカルが普通の声で歌っていたらわかりにくいのです。こういう一流の人を聞けばわかると思います。1コーラスずついきましょう。 

 

 

次は、今日の課題の「アコーディオン弾き」です。まあ違和感を持って聞いてもよいと思います。10代で聞いたとき、わかりませんでした。何でこれが世界に残る歌で、何でこんな声が出るのか、声にも感心しないし感覚的にも入っていけなかった。しかし、そのことが、徐々にわかるようになったのは、体ができてくるにつれてです。もしその感覚が先にわかっていたら、フランスで育っていてこういうものを聞いていたら、多分もっと早かったでしょう。歌いはじめたときにその条件ができていただろうと思います。

 

 ここでやることというのは、時代を越えて共通のことです。人間の体として人種を越えてのことです。時代の古さとか伴奏の古さとか、歌詞の内容の古さとか、そういうものを抜きとって下さい。そのときに残る、例えばこういうヴォーカリストが今のアメリカの最新のものを歌ったときどうなるか。という風に置き換えてもらえばよいとおもいます。 

例えば1つの言葉を読んでみて、そのことが相手に伝わるか伝わらないか、それだけの世界なのです。そんなところから入っていきましょう。

 

 

 「街の女のマリー」まで、言葉でいってみましょう。いつも考えて欲しいのは、中学生や高校生ができることをやってもしかたない、ということです。今のテンションだと10年経っても何にもならないです。できないことは待たなければいけませんが、できることはやらないとダメですよ。自分のなかで自分で限定していることはよくありません。殆どの場合が、演技を習わなければできないのではなくて、この程度で通用すると思っているからです。 

 

全部やりつくした後に足らないところが出てきます。何を学ぶのかということです。足らないところがわかったら、そこを勉強すればよいし、そこの体をつくっていけばよいのに、自分の方でまだ、体もある、息もある、表現だってできると思い、そこを突きつめる勉強しないところに勉強も落ちてこない、ということです。 

 

別に厳しくしているわけではありません。できないことに関しては、長く待っています。5年でも10年でも待ちます。入ってきて2ヵ月でそういうことができたら、ここに来る必要がないのです。ただ本当にそのくらいしかできないのかと、本当に伝えるということをやったときにわかるものです。

 

 

 今のでも「街の女のマリーは」といっただけでお金を取るのです。そこだけでです。プロであればです。プロ並みの技術をめざして下さいということでいうのであれば、実際そんなことするかな、ということです。そういうことを合宿のものでは永遠にと書いています。しかし、それは1回1回のレッスンのなかでやっていることです。表現を持ってこないのであればどうしようもないのです。 

 

持ってきたときに、本当に伝えようと思ったときに、体が動かない、またその言葉のなかで、自分では思いっきりやっているのに、何か聞いている人に、練られていないとか磨かれてないと思われたとしても、そこの部分は身についてきます。

 

 その前の意志のところがなければ、誰でもできます。誰でもできるようなことはやってはいけないわけです。やることは誰にもできないようなことをやっていて、ただ体だとか声だとかがまだ誰もと同じだから、そうなってしまう、というとこまではみなさんが持っていかないとレッスンも成り立ちません。まず、それに気付いていくことです。 

 

 

音声の感覚のなかで生きてきた人にとってみれば、あるいは自分の一言が伝わったか伝わらなかったか、すぐに自分に跳ね返って、伝えることを目的に言葉を使っているところでは、それを自分で判断できます。「あ、今のここのところはきちんと入ったけれど、次のところは全然伝わってないな」ということがわかります。そうでないと単に置き換えただけになります。

 

 リズムにしろ、音感にしろ、そういうトレーニングが日本の場合は多いわけです。リズムトレーニングといったら一定のリズムを刻んでこの曲では「タララ、タララ、タララ、タララ、タララ、タララ、タラララ」これだけなのです。こういうことをやっていても、リズムで感じさせる部分は全然出てこないわけです。それは基礎かもしれないけど、リズムはリズム、音感は音感のところのもっとギリギリでできる部分があって、1つの歌になっているのです。

 

 「街の女のマリーは美人だった」言葉のなかで7割できるというのは、今のなかで呼吸、声の大きさ、そのメリハリ、間のあけ方、と置き換えていかなくてはなりません。「マリーは」と「美人だった」のあいだの間や「だった」の言い方にしてもまったく違ってきます。当然魅きつける要素が必要です。魅きつけていかなくてはいけません。 

 

 

役者の勉強みたいですが、それを歌の場合は、音に変えていかなければいけないからもっと抽象度が高くなるのです。「タラララララララ、タラララララ」で聞かせていかなくてはいけない。でもこれではダメだから音が付いてくるのです。音にそのことを合せていく。

 そうかといって何もいわなくてもいいわけではないのです。階名でいうと簡単です。でもそれに言葉を当てても伝わりません。「冷たい」という言葉の例でいいましたが、全然違うのです。日本語では難しいですが上のクラスでは日本語の歌を使ってやっています。それは日本語の問題がベースで解決できた上で乗っかってくるからです。直接聞いて、直に置き換えていく、ということをして見てください。

 

 日本語がついていますからどうしても難しいので音でやってみましょう。「ラ」でも「タ」でもこれを置き換えてみて、例えばフランス語で「街の」というところに「ラ」とこれだけなんですが、フランス語で取れる人はそれで取ってみてください。取れない人は「タ」でも「マ」でもなんでもいいです。

 それが歌になってしまうとよくないのです。音のイメージにはなるのに、音程を取ったり音符を取っていくとだめです。メリハリをつけなければいけません。

 

もともと向こう言葉みたいなメリハリそのものがないですから、やりにくいわけです。強弱のアクセントを日本語につけて、読み上げてもよいし、音が付けられるなら音をつけてみて下さい。日本語からひっかかってくる点、日本語をはずすわけじゃないのですが、ただ音楽の要素を入れていくためには、日本語はとてものりにくくて、「/まちの/おんなの/マリーは」と全部頭を打っていきます。 

それに「まちの」の「ま」がすぐに入れなくて、「んまちの~」となってしまうと日本語っぽくなります。この前、演歌の特集をやりましたが、「びじん」の「び」が入れないわけです。

 

 

 アマチュアの場合は語尾を伸ばしていきます。伸ばすということは、必要性がないところで変なことをしてしまうと退屈させてしまうのです。それをきちんと捉えておくことです。逆になるというかリズムの感覚が「ラララーラ」となって、2、3人はそういうものを捉えている人はいましたが、それを動かすためにポジションと体の呼吸がいるわけです。

 

 例えば「ハイ、ラーラ」とやるのも体の力だけで、何の調整もしていないのです。日本人がやっているように口のなかでチェンジしてみたり、こっちにひびかせてみたり、していないのです。1つ握っていて、あとは呼吸とリズムだけの感覚を取って、動かしてズラしているだけです。直にこういうことができていることをきちんと認めればよいのです。 

 

要は我々には1音か2音くらいしか「ハイ」いえないのが、彼女たちは1オクターブでいえてしまうがために、高いとか低いとか考えなくても、強く出したら適当に高くなっているのです。

 これは日本人も同じですが、日本人の場合は強く出したり高く出したりすると声が裏返ってしまったりして、きちんといえなくなってしまうのです。低いところでも同じでこもってしまったり変わってしまうのです。 

 

 

それがポジションと呼吸みたいなものです。その感覚で捉えるというのは、声ができていないというか、その息のなかで、息と息を合わせていくようなことをしないといけませんから難しいわけです。 

歌の世界というのは、ほとんど、それで1オクターブ取った上に、ひびきの世界のようなものを乗せているように感じてください。そういう耳で聞いてみて下さい。 

 

こういうところを聞いても、ワルツの3拍子のリズムが入ってないといけないわけです。ステージ実習と同じように伴奏がありませんから自分の呼吸で動いていくのです。16ビートとか速いテンポのロックになったときに体が本当の意味で呼吸が取れているかというと、取れていないわけです。バンドの方にあわせるのに精一杯になっていまいます。

 

 もともと歌い手というのは、自分の呼吸があって、そこにのった声があって、ここのところは速くしたい、遅くしたいというのがあるのです。それをリズムで刻まれてやっても、ベースが整っている人はうまく聞えるのです。でも、どんなに日本人がマネしてもうまく聞えないのは、そこのベースがないところで乗っけているからです。こんな曲はやりたいとは思わなくとも、そういう中で、自分の呼吸とあわせて出していくことを徹底して考えることです。自分の感情もそうです。

 その出し方がまったく見当外れになってしまう場合と、ピタッとはまる場合があって、はまっていないと、こういう人達は認められていないのです。そこの部分の感覚を磨いていくことです。 

 

 

当然のことながら、日本人の取りにくい3拍子、このジャバのリズムは、私たちには入っていません。

そこでそのなかで動けないわけです。しかしそういうことに動けるように柔軟な体にしていかないといけません。 

サンバやボサノバでも、そのときに乗れるように難しいリズムの勉強をしておけばよいのです。これは単純な方です。

ジャバというのは2拍目にアクセントがつくのです。最初に呼吸というのがあって、それでアコーディオンが弾くベースのラインがあります。

 

 歌い手がそのままべたーと歌っている国というのは日本ぐらいで、セッションとして、その音に対してどうぶつけていくか、どう乗せていくかということが本来描かなければいけないヴォーカルの線なのです。本来離れていなければならならいのです。ただ、離れるためには、そのことが全部体に入っていないといけない。だからそういう感覚というのはとても難しいのですが、これもそうです。

 

 離れなければいけないというのは、「タララ、タララ、タララ、タララ」というのに乗っかってしまうと離れていないわけです。離れようとすると、どこかで握って、どこかで乗せていく。その感覚に中で歌を出していかないといけません。その感覚のない人にいくら声があっても、「タララ、タララ」という歌い方になってしまって、全然違うわけです。

その密度の濃さとかメリハリの付け方みたいなものが違うのです。逆にその感覚が持てれば、後は足らないのは声だけです。声がついた時点で歌になってきます。そういう覚え方をして下さい。つまり、声の問題よりも、その感覚の問題の方が多いのです。そこは声楽とも、また違うところですので、考えてみて下さい。

 

 

 もう一度いきましょう。「街の女のマリーは美人だった。お得意のお客もいて貢いでくれた」までやってみましょう。

これでわかりにくければ「街の女のマリーは淋しかった。アコーディオン弾きは兵隊にいった」の方でもよいですが、こちらも難しいですね。

 「街の女マリーはひとりぼっち。若い女はじろりとにらむし」

これは美輪明宏さんがつけている歌詞ですので、きちんとしています。

できるところまででよいのでやってみましょう。 

 

今のところは3つの音しかないです。「ドレミ」だけです。今のができたら3つの音が1音になったと思ってよいです。次が6度になります。倍の音になります。「客が帰った後は今度はマリーが」階名でいくとほとんど1オクターブはないはずですが6音です。ここの部分を体で押えておかないと、どんどん声量がなくなっていきます。それからリズムも消えていきます。音程だけをなんとかひっかけて歌うようになってしまいます。

 

 ですから、いつもやっているトレーニングと、ここまでが結びつけば6度のなかでの言葉の処理くらいはできるわけです。まだ歌に入っていないところです。ただ歌のなかで歌うところというのは、本当に少ないので、それを言葉として置いていることが歌です。その言葉の感覚から次の音の感覚に持っていけば、こういうふうになるというふうに考えていいと思います。どうしてこれだけ間が持てるかというと、それだけ体が支えていて「タララ」でなく「ターララ」とこの間です。この間10秒あっても、その間、ずっと体が支えているわけです。表現の仕方は置いてきますけれども、体で音を捉える勉強をして下さい。

 

 

 基本的にベーシックな歌い方で、音の線だけで、その強弱のつけ方だけで感情移入をしていきます。高度なというよりは音楽のベースです。楽器でやれば、みんなそうなります。そうなったときに「タララー」という音の取り方は絶対にしないわけです。聞いている人の立場になったら、一番みんなが取れないというのは、間です。長い間を取ったら、みんなの場合は終わってしまいます。 

 

そして次に始まるというのではないわけです。この範囲で捉えているのです。その範囲で捉えるために、それをのめるだけの体が必要なのです。その体があったら「まちのおんな」ではなく「ターララー」のなかで片づけていかなくてはいけません。なるだけ単純に捉えたほうがいいわけです。単純に捉えるために1つの音で捉えるのです。後はその音の展開を考えていけばよいのです。

 

 

 

 

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アコーディオン弾き2】

 

 今、楽器をもってこさせます。今日のポイントは、音に置き換えていくことです。音のこと、リズムのこと、言葉を統一させて表現のとしての歌にするということです。 

具体的にいうと「ラ」で「まちの」と捉えて、それ以上のことはやらないことです。まず全部1つに捉えてみて、それを半分にしていくということです。そのときの表現のことから入って下さい。 

それが少し広くなってくると、3度でできることが6度になると、ほとんどの人ができなくなります。高くなると音の感覚が変わってきます。音の部分が大きくなってきます。音域が広くなったり、高くなるということだけでも音に移行する部分が大きくなるわけです。 

 

「街の女の」といえるのであれば、また役者さんであれば、言葉とリズムで音にできます。

 まずジャバのリズムのこういうベースが入ってきますが、その前に一応テンポというものが入っているわけです。当時の音楽では誰かが4ビートのように刻んでいるわけでもないですから、これが言葉によってズレます。間をあけたいときに開け、入れたいときに入れこめるといった感じで、ズレます。 

 

音符を見たらとても簡単ですね。「ミファソ、ミファソ、ミファソ、ミファソ」そのままです。でもだから難しいのです。全体のなかでもズレますが、その場所のなかでもズレます。ズレ方のルールがあって、比較的それに忠実なのがアコーディオンです。そして伴奏があるわけです。ここまでことがベースです。 

この伴奏のベースのところが入っていて、そこに歌詞をぶつけるということをやるわけです。歌詞をぶつけるということは難しいかもしれませんが、要は歌わないことです。

 

 

 「街の女のマリーは」これでももうぶつかっているわけです。そのぶつかっているところと、乗っかっているところと離しているところをきちんと分けてやっていくということです。そういうふうに考えてよいと思います。 

 

「街の女のマリーは美人だった。お得意の客もいて貢いでくれた」3音ですから「ハイ」が3つで「ドレミ」のところです。「ドレミド ミレド」を「ターラ ターラ」これだけです。

これを体でキープしていくということは「ハイ」と「ラ」でそこのところを練りこんでいくわけです。単純な捉え方でいくと、「街の女のマリーは」を1つで「ハイ」で置き換えるのです。

 

本当のことでいうと、ここでは決まらないわけです。次にどう歌うかによって決まってくるのです。ここは言葉でもよいし、強いのだったら強くてもよいし、弱くてもよいです。ただ3番までありますから、このなかで展開を出すのであれば、ちょうどピアフとの間を取るのであれば「街の女マリーは」までは言葉でなんとかもっていきたいですね。「ターララ」ここは離したい人は離せばいでしょうし、入れたい人は入れればいいと思います。

 

 

 次の「お得意の客もいて」これは同じことを繰り返さなければいけませんから、「街の女のマリーは美人だった」までは言葉で「お得意の客もいて貢いでくれた」からは歌おうというわけにはいきません。だから頭の言葉のところ自体は1拍目と捉えて、やっぱり押えて、押えてというのは体のところできちんと「街の女のマリーは」といえなければいけないわけです。「まちのおんなの」とやってしまうと、そこでもう流れが出てこなくなります。「ドレミード ミーレード」ですね。

 

 次のところにいくと、さすがにこの高さで音が6つになってくると、音の世界に入ってきます。高い音が高いということで音の世界に入るか、音域が広いといいうことで音に置き換わるかですが、まあやってみましょう。「客が帰った後は今度はマリーが遊びにいく番さ。彼のところへ」完全に流れていますね。「かーれのところへー」など数えた覚えはないのにそうなってしまいます。これは違います。ピアフは完全に「か」のところは入れています。だから音程が下がっているようにも聞えますが、というよりここは、はっきりいうと強調できないところです。

 

ですから日本語ではとてもややこしいのですが、「遊びに行く番」の「ばん」の「ん」のところをきちんと入れておかないから「さ」のところで離れてしまっているのです。自分の入れるところで。どこで入れたってよいのです。日本語がついているから難しいのかもしれませんが、単純に「かーれの」と伸ばしているものではないのです。

 

 

 「番さ。彼のところへ」のところで、どこか入れたいですね。結局みんながこの6度になってしまうと、できなくなるのは歌以前に声の力を象徴しています。イメージをここにあてはめ、実際の練習は3度、4度くらいで何とかしましょう。「かれの」のところで1つに捉えておいた方がいいでしょう。 

 

自分の好きなようにやってみて下さい。言葉を聞いているわけではないですから、音をなめないようにしてください。構成からいうとインパクトがないとダメな箇所です。言葉もそうだし、音としても最高音に近いところを取っているわけです。

ピアフの歌い方をまねる必要はないのですが、ポジションを変えないところは聞き込んでください。まったく変えないで呼吸だけでコントトールするのです。だから逆に難しいのですが、それを握っておかなければだめです。

 

 だから逆にそのひびきを集め、ポジションを入れる必要はなくて、「まちの」と「ラ」と取ったら、そのままでよいのです。キープしておいて引っ込んでいようが、何であろうが、そこのところでそのままで持っていけばよいわけです。ただ普通は、そこに他の要素も入れなくてはもたないのです。ところが、その他の要素が入らないから、ピアフはすごい歌い手なのです。

 

 

 他の要素を入れるためにそういうふうに統一しているような歌い方だから、また入るのでしょう。そこから動いてくるのが次のフレーズからです。「アコーディオン弾き~」です。音が多いので難しいのです。ダウンビートとアフタービートといったら余計にわかりにくいでしょう。こう握って、こう離しているという繰り返しだというのを、前半のところできちんと取っておかないと、ひびきのところになったときにそれが速い速度になります。

 

ほとんど流れてしまうか、ひびきにあたってそのまま単に音を取って終わってしまうかになってしまいます。その前にしっかりと巻いてますね。「ジャバ~」と入っていくところから「ダンダンダン ダンダンダン」というのを声のなかに置き換えていくのが難しいです。

 オーケストラの指揮者が「こういう風にやれ」とタクトで出しているのを、それを自分の楽器に置き換えて、その感覚を出すところです。呼吸だけでコントロールをやっていかなくてはいけません。ですから、ひびきのところと押えるところをみればわかるわけです。 

 

 

今日やったことというのは、前半が言葉で、低いところです。これは「ハイ」との「ララ」とかいっているところで「街の女マリーは」そのままです。そして中間音のところになってきたら、体の使い方とか、音色が変わってきます。抵抗も変わってきます。抵抗しているところは、それだけ体を使わければいけないから出てくる表現というのは緊張感があるわけです。

 それをどう動かしていくか、いうことが音楽です。動かし方によっては楽になるところもあるし、強く握るところもあるのです。結局、この言葉を、というか、この音の流れを新しく組み替えて伝えないと、この音符通りに歌っても名曲になるはずはありません。 

 

ですから課題としては、言葉を全部空白にしてみて通じるかどうかです、今のだと言葉があたふたしてますから音が少ない方がよい形になってしまうのでしょう。しかしそうではなくて、離していかなくてはいけないのです。 

全部をいう必要はないのです。これは全部いっているからきついのですが、全部いっているんじゃなく、本当のことでいうと、全部のことをいうためにこの一言ですましているのです。次に効果的になることを考えてやっているのです。

 

 後は場面展開のところと音色の取り方の違いです。次に入ってくると楽になってくると思います。もちろんリズムとか、そういうものが入っていないといけません。最後は音だけ置いてくる形になっていますね。これもかれているし、よい状態ではないでしょう。でもそれだけでも、これだけ上に展開できるということは、それは何でなのかということを考えてみればいいと思います。 

 

 

そんなに音域がある曲ではないのです。「アコーディオン弾き」というところも、たったこれだけで1オクターブいっています。この盛り上がりを変えていっているわけです。1オクターブを同じ音で取るということは、そこは盛り上がらなくなるのですが、同じように使って、上の音を同じ音色で出そうと思ったら、そこに体を使うのです。そしたら、そこに表現が入らない方がおかしいわけです。それをそらしていかないことです。

 多分1番難しいのは「彼が弾くジャバ 耳を傾け」の入り方です。これは前のところから取っていかなければいけません。ここがきちんと入れたら次のところから、展開の仕方はいろんな動かし方ができると思います。 

 

「タタタ タタタ」というのを踏まえておいて、それと同じように乗っからないで違うものをぶつけてみることです。ただ入るところは一緒に入る、離すところはズラして離すというようにします。もっと大きく捉えないと、1小節で捉えたら1小節のなかで離したり入れたりしなくてはいけないのです。ほとんど動けないわけです。4小節のなかで1つに捉えたら、もっといろんなことができるわけです。 

そのなかで1つ捉え、1つで離すのです。それを自在に扱うのがこの楽譜を破っていくということです。その枠をです。そうなると自分の体に素直に歌っていくしかないわけです。

 

 音の動かし方でできるのであれば、自分でやるときは言葉をつけない方がよいのかもしれません。日本語でやって欲しいからこれをやったのですが、美輪さんは日本的な歌い方で歌っています。浮かした感じで独特な歌い方です。柔らかくするために、太いところでワッと出してはいませんが、相当太いところは使っています。 

 

 

言葉のつけ方はフランス語的なつけ方でよいと思います。うまくやれば乗りやすいはずです。ただ1音符に1つつけてそれを3つに等分して、という日本的な感覚が捨てられない部分だけひっかかるのです。JAZZや向こうのビートの方が入りやすいと思います。楽器の人だと、こう入れるというところで入れてきます。それ以上の読み込みができないかは別として、最後の「やめてー」がきちんといえるかどうかです。そういうところの感覚まで持ってください。やたらと余計なところで伸ばしたり、必要のないところで力が入っているところがあります。もっと精選して歌うことです。

 

 息というところでは、どこを取っておいてよいです。私たちが聞けないところを聞きます。ひびいているところは聞けるわけです。ひびかせていないところで、子音などで、息の消えないところがあるのです。そこも同じだけ、ひびきよりも体を使っているのです。日本人の場合は、そこは歌っていないという感覚で捉えています。日本人の耳では、聞こえる声が大きいほど体を使っている、☆というふうに聞きます。それが全然違うのです。

 

 その辺を読み込むと、結局、同じリズムのなかできちんと、そのリズムを動かしているだけということが単純に捉えられるのです。なぜひびかせているのに、歌えていないか、というふうにはならないと思います。 

共通のルールがあるのです。コンピュータで分析できるようになるかもしれませんが、そういうもので、ヴォーカルをつくり出すのは難しいと思います。ですからコンピュータでつくり出せるようなヴォーカルになるな、カラオケ採点機で満点取れるような歌い方をするな、ということです。もちろん満点も取れるような歌い方も遊びでやるぶんにはよいでしょう。 

 

 

表現力の問題はまた扱いますが、一所懸命やって体を使うのもズラそうとしているのもわかりますが、景色が消えています。情景描写からいうと単純です。「彼が弾くジャバに耳を傾け、踊り場には目もくれないで」あたりで、もうわかるわけです。

 感情を込めなくては「その目はみつめる。彼が熱演する姿をみて みて」というところで伝わらないわけです。いくら「熱演する姿」といってみても、ことばはそのなかで閉じているわけで「ほら見てごらんよ」という気持ちがなければ、次のところも入れないでしょう。開かれてないわけです。気持ちの上の問題です。 

 

そうでなければ、そんなふうにはならないわけです。体を使うのも、動かそうと思ってやっているのもわかりますが、体を使って声を出したら表現が出てくるわけではありません。表現は声が潰れようが、体が使えなかろうが、出てくるところのフレーズを組んでいかないと動かないのです。

 同じメロディが重なっていますが、いっている内容はどんどん煮詰まっていっているわけです。次もそうでしょう。歌詞だけの問題ではないのですが、歌詞をみても、その通りで、音がついていようがなかろうが歌は進みます。「情をこめーて、その目はみつめる。彼がー、ねーつえん、するすがーた」こんなふうにはいかないはずです。どこで切ろうがよいですが、そんなに全部を全部、歌い上げても無理だと思います。 

 

次のサビのところは歌うのですが、そこを歌うためには、ここで歌い上げてしまったら終わってしまいます。言葉でぶつ切れにしてしまってもダメです。つまりつなぎの部分です。盛り上げのための部分です。

 次はサビの部分です。高いところのひびきがきちんと取れないと難しいのですが、みんながいつも引っかかるのは途中のところです。上にはしごをかけられないから、3番目のところも1番目と同じように歌ってしまうので、構成が成り立たないということです。リズムにも翻弄されています。 

 

 

歌を退屈させないために、どこにフックを入れているかを考えてみればよいわけです。決して流しているわけではないのです。言葉のところはどこが大波であるか、最初に大きな波と平面のところ、上がるところと下がるところを強さということで読みとってください。細かく読んでいったら、小さな波は沢山あるんですが、必ず大きな動きがあって支えているはずです。それが構成にも表れています。

 我々、日本人がこのジャバのリズムに乗せるところの感覚を出すのは無理です。ただこの歌を伝えることはできるはずです。伴奏が入ったらこういう切り方にもなるでしょう。 

 

「別の男がジャバを弾いてる。目を閉じて聴く。彼が帰ってきた」までやってみましょう。この時間で終わりそうもないですし、もう1時間やっても無理でしょう。このリズムに合せて、というのは不可能ですから、そこまでは要求していません。 

ただこの4つを組み合わせて「別の男が」の「が」はどこまで伸ばすのかなど、こんなに論理的に考えなくてもよいのですが、「ジャバを弾いてる」はどう止める。その他のところも「目を閉じて」の「目」はどう入るのか。「閉じて」はどうおくのか。「開く」はどうするのかと読めていきます。

 

 次の「彼が」で全部開けているのは意味があるわけです。「彼が」で開けて「帰ってきた」となっています。全て効果を、歌から考えてやっています。それはここでも練習になるところです。 

「帰ってきた」ということは、どういう意味かわかると思います。それに引き込むように構成していかなくてはいけないのです。そのために音がつき、言葉がついている。だから言葉を徹底的にやって、次に音だけで徹底的にやってみて、そして両方のいいところを取り出すように、一番自分のよい間合いを詰めていくことです。

 

 

アコーディオンについて歌うわけではありません。自分のなかでこれを動かすのです。

 その次の「彼のすてきな」からはテーマになっているところで、決まってしまいます。ピアフでさえ歌うところを違う形でここを表現しているわけです。フランス語の付け方で違いますが、どちらでもよいです。 

そして最後の「やめて」のところできちんと落とせるところまで持っていかなくてはいけません。こういうところは教えられるところではないです。ムンクみたいな顔になってやって下さい。それまでのベースなしに、いきなりやったら崩れてしまいます。

 

音楽の場合、音の基本、言葉の基本、構成の基本は踏んだ上でやっていくことです。それを忘れてしまうと一人よがりの表現になってしまいます。最後のところはふれません。こういうところはやれるものでもないのですから。今やったところ、それから中間音から高音にいくようなところを勉強できるのだったら、フレーズ自体は単純ですから、そのフレーズをどこまで動かせるかやってみて下さい。表現力や歌唱力をつけるには、よい課題だと思います。

 

 

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【「愛に生きる」361112】

 

 歌というのは完成までにいろんなプロセスがあるから難しいのですが、間違ってはいけないのは、声が出るから、歌がうまいからといって伝わるわけではないのです。

カラオケ大会などでも上手な人を聞くと反感を持つものです。それを、きちんと納得させるまでもっていかななければいけません。 

自分の形をつくらなければいけないというのもあります。

 

うますぎると、だいたい聞いている方に邪念がきます。それを打ち消せるくらいのものを出せる人というのは、すごい人だと思います。

カラオケでダメなのは、過去のキャリアに頼って、うぬぼれてしまうからです。昔の最盛期のころのものを、いくらバックアップしてやってみても、もう古びているわけです。

 

 アメリカのショービジネスでは、高齢になっても衰えずに活躍していますが、それだけ向こうは厳しいからです。新しいことを常にやっているからです。

気持ちの問題だけでなく、根本には音と体の一致です。そんなにレベルでやる必要はないと思います。

でもポップスで舞台に立つことを考えると、完成された形で提示されているところより、役者が踏んでいる以上に泥臭いところをトレーニングで踏むか、実際にステージで踏むかして、そこで追い求めていくべきでしょう。 

 

 

言葉が止まっているところを、「誰よりも」といったら、そのことを感じなければいけないし、「命かけて」といったときには、自分の命にビビットに反応するようなことが必要です。

イマジネーションが豊かでも、それだけだと限界もあります。もってなければそれを身につけていかなければいけません。役者よりも、歌の場合はもっと抽象化しなければいけないから大変です。

 

 舞台に出てふっきるということは、客観的に自分を見ながら、自分でもそのなかに入るということを両方やらないといけません。練習のなかでめいっぱい入り込んでいくことしかないのです。そしてパッと舞台に出たときに、何もしなくても動いてくるものがあれば半分でき上がっているようなものです。 

 

皆さんの場合は立ってから0から始めようとしているように思えます。歌詞とか、曲は覚えてきているのでしょうが、何度も練習しているうちに、歌いこめば歌いこむほど、声や何かに頼ってしまって1番大切なものを忘れてしまうような気がします。

 トレーニングをやっているときはどうしても視野が狭くなります。まず声を出さなければいけないし、音をとらなければいけないということもあります。

 

 

プロは、伝えるということに重さを置いてきたのです。ですからカラオケでも歌いあげている人とか自分で悦にいっている人のは勝手にやってくれ、というようになります。下手でも伝えようとしている人のは聞けるものなのです。 

気持ちの出し方というよりも、気持ちのつくり方、それから言葉を自分のなかで何度も読み込んで、解釈したりして世界を作っておかないと1曲は1曲で終わってしまいます。そのなかで何も構築されないです。

 

 みんなの真っ正面のことを聞きたいのに、まわりのことばかりやっているような気がします。1番中心の部分が欠けています。今は、自分の線をしっかりみつけていかないといけません。1曲をものにする、ということを全力をかけて5年でも10年でもかけてやるということをやってみることです。

それをやるときというのは、何かに取り付かれたようにやるしかないと思います。そこまでやっていたらどこでも怖くないというようなことをやるしかないと思うのです。きり込み方と、その後のキレとコクです。

 

 本人が伝えようとする限り、伝わらないというのもわかりますが、お笑いの人でも落語の人でも、みんな努力はしているのです。ただ越えた人と越えていない人というのは言葉一つを聞けばわかるわけです。そういう人は敵を敵とも思っていないわけです。自分中心といえばそうですが、だからそこまでまわしてもよいのですが、まわすためには力がいるわけです。それは気持ちとか思い込みで、自分がこの世界をつくっていく、というものだと思います。その世界観を歌のなかに入れていく必要があると思います。持っている人もいると思いますが、それを固めてしまわない部分で必要な気がします。

 

 

 今日やってみたことを、自分の歌詞でもやっていくとよいと思います。本当に1つの言葉でどれだけ瞬間を読み取るか、ということだと思うのです。まだ、音の世界までいっていないです。全てがテーマです。ただ音でそれが出せる人というのは、そこまでのことをやってきていると思います。自分なりに勉強してみてください。確かに言葉で学ぶのは心地よいのですが、どうも、その人の裏側にあるものとかバックボーンとかまでは見えにくいです。

 

 「うぬぼれ」で止めておいて、そこで体で読み込んでいて「子供のように」で音を聞いて、それで「今ではまるで」なんてやっても絶対間に合わないわけです。日本人のほとんどがそういう感覚で歌ってますから、どんどん遅れていくわけです。ヌメヌメしたものになります。キレがないとか、立体感がないとかいうのは全部そうです。 

 

歌の世界というのはセリフの世界と違って、1つのテンポやベースの動きがあります。それを部分的にここを強くしたり弱くしたりしてやっていくのが、セリフの世界ですが、歌の世界というのはこれに対してどうぶつけていくか、と世界です。これに全部のっかってしまったらダメなわけです。

 

 

 「今ではまるで子供のように」とやってしまうのはのっかったままなわけです。聞いていてもベタベタしていて、ちっとも爽やかじゃないし、 伝わらないのです。そこは自分でパッとまとめてパッと出せるようになっていかないといけません。 

楽譜では「タタタタ」と「今では」のところについていますが、セリフでは「いまでは」とは絶対にいわないわけです。歌になってしまうと体で1つにつかめないから、ここだけが表れて「いまではまるで」と、こういうふうになってしまうのです。

 

こうなってしまうとセリフよりも体は離れているわけです。 

セリフでも「いまではー」「いまーでは」いろんな自分の「いまでは」が作れます。「子供のように」もそのままいっているだけでは何をやったのか全然わからないわけです。 

自分なりの「子供」を出し、何かそれを伝えようとすることを、そこの時間で感じなければいけません。

 

 

 1/10とか、1/20とかからでです。とにかくやってみて「あっできてない」と思ってもらえればよいです。「今ではまるで子供のように」は、いっていたときよりも随分と表現力が落ちましたね。そうなるとダメなのです。 

そうならないためにどうすればよいのでしょうか。今やっていることというのは、みんなの声量がないとか音域がないとか、そんなことではないのです。コントロールする力がないというのよりも、もっと基本の部分です。声量とか声域の前の部分です。そこを正しくしていたら声量や音域も伸びてくる、というよりかは、そこを正さない限りそういったものは伸びてこないわけです。とても大切なものです。 

 

発声法があってそうできているのではなく、表現というものをその人が本当に体からオリジナルに取り出してやっていったら、それはできるようになっていくわけです。ただ、それが自分の耳や、感覚が壊れているとおかしくなってしまいます。

 

 歌の世界は単純です。その単純なことができることが難しいから、こんなに複雑になってしまうわけです。自分で伝えるというものが、発声を勉強したからといって、そういう声でやってしまったら間違いだと思えばよいです。何もやらなければ正解です。

それでは音についていかないから、体を鍛えたり、息を吐いたりしていくのです。スポーツと同じです。全てノウハウを体に入れるしかないのです。そのプロセスをつんでいけばよいのです。そのときは常に伝わっている伝わってない、というものを考えればよいわけです。

 

 

 言葉でやってみましょう。「昼も夜も夢までもあなたを」です。次に「愛する」とくるように整えなくてはいけません。これを日本人が考えてしまうと、単に4つに「昼の、夜も、夢までも、あなたを」と考えてしまいますが、そうではないのです。別に情景描写とかストーリーを考えろということはいいませんが、自分なりに伝えようと思っておいていけばよいのです。

 

 ただし、体をきちんと使うことです。私は役者は好きですが、演劇的なものはキライで、それはなぜかというと、わざとらしさばかりが出るからです。しっかりとできる人というのはこれを1つに捉えるわけです。

朗読や芝居の勉強をしている人もいますから、その人がどうだとはいいませんが。

 

「昼も、夜も、夢までも、あなたを」と読んでいたら、もうこの世界を出しているわけです。それを音楽の世界で時間を実感して、空間も自分で得て、それから出すということはどういうことでしょうか。結局「昼も夜も、夢までもあなたを」これだと2つになります。それを1つにするということは、その前に流れているものを感じて入れてやらなくてはいけません。これは歌の世界でも同じです。歌のなかでもここに集約していかなくてはいけません。

 

 「昼があって、それから夜があって、そしてその夜のなかに夢があって、そこまであなたを愛している」ところまで追い求めていかなくてはいけません。そうしたらリズムの感覚も歌い手が自由に付けられるのです。そうであれば「昼も夜も」にはゆっくりでも「夢までもあなたを」で速くなるでしょう。それから音の感覚だって上がっていくし、そういうメリハリの付け方、クライマックスにもっていくということをやってみればよいのです。

 

 

 いろいろなことをやってよいのです。やってみると言葉が動くというのはこういうことか、ということがわかると思います。でもなんか変だと思ったら、自分なりのものが決まってくると思います。

とにかく自分のオリジナルは1つかないと思えばよいわけです。いろんな応用はできるのですが、世界のレベルからいえば1つくらいしか通用しないのです。

 

本当に歌えている人というのは、1つの形で通用させている人です。他に適用するものなんてそんなにないのです。自分の基準が甘いから、どれも通用すると思ってしまうのです。しかし、絶対に1つはあるわけです。それを取り出せなくちゃいけません。

 

 今の言葉に音をつけていきます。表現力が失われないためにはどうすればいいか、ということです。 音程が狂っても、好きにやってみてください。「昼も夜も夢までもあなたを」。まあ課題でやるとどうしても課題っぽくなってしまうのですが、そこにうまっていったらダメです。それは足をとられているのです。 

 

音楽は表現のことをとことん自分で勉強してやってこないと、やればやるほど音程とメロディを正確にという方にいってしまいます。折角、言葉でやって伝わっているところが全部失われて、かわりに得られているものは何もないのです。単に何も伝わらなくなってしまったというだけです。それはメロディをとっているだけだからです。

 

 それから、こういう歌の影響を受けないことです。「昼も夜も」というのを、どういえばきちんと伝わるかというだけの問題です。イメージの貧困さと、そこに入りきれていないということもありますが、歌い手の要素が入っていないということです。カラを破り、思い切ってやらないとわからないと思うのです。

 

理屈で考えててもしかたなくて、のどの下でやっていてもダラダラと聞えるばかりです。ピアニストでも、楽譜通りに弾く人なんていないわけです。ただ、そこで何を起こすかといったときに体が楽譜通りに弾ける基本の力が必要になるのです。のべーとなってしまって、そこから何かが浮き出してこなければいけないわけです。 

 

 

本物というのは、立体的に前に出てなければいけないわけです。それはヴォイストレーニングでも一緒です。体を使わなければいけないといって体を鍛えるために1時期もこもるというのも、かまいませんが、こもったまま歌えるわけではないのです。

 そんなに難しいものではなく「おかあさん」を1つに捉え「昼も夜も」を1つに捉えて、そこでなるべく自由に動かしておくのです。でも、せっかく「昼も夜も」と自由に動かせたにもかかわらず、音がついてしまうと「ひるもーよるもー」となってしまうのは狂っているからです。伝えるという要素が失われているのです。 

 

もっと単純に入ればいいと思うのですが、その単純さがなかなかできません。「愛してる、苦しくて」こういうのも完全に言葉です。そこまでにもってこなくてはいけない、ということです。 

あんまりこういうのに影響されないようにして「昼も夜も」と言葉でいってみて下さい。そのままそれをそらさずに、こういうのを聞いたときに、この雰囲気の方を取らないようにして、そのまま取ればよいのです。それ以上のことをやらないことです。

 

 「今ではまるで子供のように」言葉というものはコードだけとって、音感とリズムだけとっておけば、いくらでも変えてかまわないのです。それが変えられない方が面白くないわけです。こういう人も相当変えていっているわけです。この息なり、そういったものが体に入っていないと1つに聞えないわけです。これが最小限のルールですね。 

 

 

「タタタタタタター」でたくさんにわかれて聞えてしまいます。要は「タ~ラ」というイメージをどう つくるかということだけなのです。これを自由にやっていけばよいのですが、イメージのない人にはそれが一番難しいわけです。難しいというのは全部の音楽的な経験が問われるわけです。1フレーズくらいならよいのでしょうが、それで全部を構成していくのです。こういった歌い手の人から、雰囲気とか、オリジナリティを盗むのではなく、そこのベースになっているところ、絶対止まっているところがあるわけです。

 

 「あなたの姿追い求めているばかり」ということをいいたくて「追い求める」で切って「ばかり」と置いてくるのであって、それは計算しているのではなく、伝えようとしたときに体がそう動いてしまうところでやるから、あたるわけです。それを先に計算してみて、勉強するしかないのです。 

「今ではまるで」でも同じで「タタタタタタタ」と今までは取っていたけれど、それを「タ~タ」や「タ~タ」と、自分で定めなくてはなりません。 

 

もしかしたらアルトリコーダーなどでやった方がよいのかもしれません。あれも音がわかれています。草笛とか尺八だともっとよいのかもしれません。フレーズの置き方、入り方、それを気持ちよくずらしていく仕事をしていかなければいけないわけです。

 

 

 「今ではまるで」や「ただの一度も」でも、音量の小ささで聞くのではなく、なぜそれが集約できて、口先で歌っているふうでありながらそれがきちんと聞えるのか、伝わるのかということです。それはまず大きめに作っておいて、小さく歌っていると考えた方がいいわけです。イメージのなかでは大きく、そう取っていくから練習のなかではその大きさを取っていってよいわけです。そんなに声を出して歌ったらぶち壊しだ、といわれてもそういう時期も合ってよいのです。

 

 「いまではーまるでー」とスキをつくらずにやっていくと、表現というのがわかってきます。絶対にスキを作らないということがわかってきます。スキだらけで3分歌われたら聞く方はどうしようもないでしょう。そうしたら、大きめの方がよいわけです。それが1つになってくるとシンプルになってきます。体を使っているか、使っていないかということの要素です。 

 

線で捉えるというのが音の世界です。これが難しいのです。私がピアノを弾いてみても、点です。そういうところにリズムがついていくのは、どうイメージするかで全部変わってくるわけです。どこに置いてどこで放すかです。それを呼吸と体のところでやらなくてはいけません。歌ってしまうと、そこの結びつきができていないから全部ウソッぱちになってしまうわけです。

 合宿で歌までいかないで、声を出して、感情表現のところまででギリギリというのは、音を入れられないというのはそこまで体がこなれていないからです。 

 

 

ですから学び方を勉強すればいいと思います。声を出すことや、息を吐くことが目的ではありません。伝えることが目的ですから、さっきみたいなことがメインになってくるわけです。みんなの前でも音がはずれていようが、はっきり言葉がいえてなかろうが、その息が読み込まれていて、次にこういくんだというものが見えている人はそのうち宿ってくるのです。そこのところで体を使い惜しみしないことです。

 

 「もっと強く」のところも、大声で「もっと強く」といっていてもダメです。それはひいているからです。完全に握っておいて、置いてくるのです。「もっと強く抱きしめて」という思いの原理があって、そう動いているわけです。でも音楽になったときには、ノリが悪かったらしかたないです。そうやって一緒に鍛えていかないとインパクトなんてつけようがありません。フワーッといってその音だけアタックして終わってしまうのです。ですからこういう歌からやっていくとよいと思います。

 

 これも日本的になっている方です。わたしはこういう歌い方は大キライですけどこういう歌い方が、日本ではウケるのです。私たちより年齢が上の人たちはこういうのが好きです。でもロックとか向こうのものを聞いたらもっとストレートになっているはずです。

 

バーンと入ってバーンと出しているだけです。ただ日本人がそれをやるときに基準が必要だということです。息吐きなどは誰でも身につきますから、そういうところからも勉強してみてください。トレーナーがやっていることというのは、こういうものを全てフォローするものです。目的がわからないとやってもあまり意味がないでしょう。

 

 歌詞を考えながら、演じながら何度も読んでみることです。そしてわざとらしいなと思ったりしたことは思う存分やってみればよいわけです。段々わかってきます。自分で「これは違う」と思っても何もやらないとわからなくなってきますから、いかにクサイのかというものもつかんでいけばよいのです。そして正した結果がここに出ればよいと思います。力をつけていってください。