課題曲レッスン2
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【ナポリは恋人1 361119】
【ナポリは恋人2 361119】
【ナポリは恋人3 入門 361121】
【ナポリは恋人4 361122】
【ミロール1 361028】
【ミロール2 36115】
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【ナポリは恋人1】
「悲しいの」など、感情が移入されていくものをやった方が、確かによいと思います。ただ悲しい曲を悲しくやっていくと、やはり芸にならないです。そこにからっとしたものや突き放したものが必要です。泣くとか、悲しいとかいうのは、そこにはまり込んだら簡単なわけです。そこを明るくとか笑顔でとか、それを顔だけでなくて音の世界のなかに作っていくというのは難しいものです。
それがあるような人というのはいます。生れつき歌ったら、なんともみんなが微笑んでしまうとか、そういう声の感覚とかつかみ方をしているとか、いろいろな要素でそういうことができることもあります。
もちろん、いろんな人がいてもよいと思います。暗い曲だけしか歌わないとか、徹底してはまっていくとか、そういう人がいてもよいと思います。ただ一般的に理解されたければ、一般の人にも働きかけるような部分が必要です。それはその人の持つ雰囲気からだと思います。歌い手そのものの持つ雰囲気とかバンドの雰囲気とかじゃなく、声質とか、その声をどう使っているか、というようなところです。
そうすると余裕がないときついです。そこはトレーニングと矛盾するところです。そこを自分で分けていったほうがいいと思います。すると、皆の力のなかでは、もっと力を抜いたところで、作品として完成するものと思います。
2オクターブでやれ、とか5分、10分続けてやれというから難しいだけで、今やった最後のフレーズみたいに、自分でわかっていないと思います。
リズムで明るさを出せるとか、音の感覚1つでそこに愉快な曲だということが伝わる、ということを自分のなかでセーブしてしまって、発声に基づいたところで声をやろうとするほど、モノトーンになってしまいます。
冒険というのは必要です。バランスとか調整ということも、それははみ出したときに戻すということが必要なわけで、そこで自分で作っていかないとだめでしょう。この当時の人というのは、作曲家も他の人達も耳がよかったという気がします。
向こうのものは絶対日本語に置き換えられないでしょう。それを伝えるためにはどうすればよいか、というのを徹底して1つの作品を読みこんでいっていることを重ねているからです。それが当時の日本人が、フランス映画を見てカフェでデートをしているような、今の世の中と違いますから、そういうところから捉えてしまった違いはあります。
その頃の方が楽です。そういうふうにみんなが動いていって、そういうところに落ちるものを作っていました。今はそういうものではなくなってきています。そこはみんなが考えていかなければいけません。ベースということでいえばそうだと思います。
音のベースのところまで、言葉にしていくことです。今日みんながやった表現を全体的にいうと「フォルテ フォルテ フォルテ」みたいなところの、あの強さを失わないようにして、ステージですから、よりパワーアップしたところで歌わなければいけないわけです。出しすぎているとか、まわりに聞こえすぎた、なんて思う必要はありません。
あれで人前に立つ最低限です。あれを3分間やること、その上で余裕が出てくればよいと考えてれば、そんなに間違いはないと思います。あそこのステージとか、あの感覚とか1つに捉えられないままに引いていったり、感情表現しようとか、ここのところを揺らしたらどうだろうとか考える必要はないのです。ものすごく複雑になります。
向こうのものを歌うのだったら歌うで、そういう世界はあると思いますので、そこはここでは触れません。ですから生き残っていくものと、生き残っていかないものというのは私が決められるわけではないですが、50年経ってもこのCDは残るな、とか、これはダメだなというのは大体わかるような気もします。
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【ナポリは恋人2】
1年くらい前にやった曲です。最近考え方を変えてきまして、というより私が日本人を読み込めるようになってきたのでしょうが、昔は向こうのものを聞いてみて、日本のを聞いたら全然物足りなかったのですが、いろいろと日本人というか、みなさんとも接しているうちに変わってきました。日本でも長くやってきた人も、確かにこういうのは音楽の世界とはいえなくとも、汲むところは汲んでいて、できているところはできているということを明確に、見せていったほうがわかりやすいからです。
イタリア人が歌っているように歌ってから、日本語に降りてこようと思っていたのですが、向こうのものを聞かなくても、日本で20年くらいやっている人は、日本人に対して表現しているわけですから、イタリア人がこう歌い上げたって通用しないけれど、日本人が足らない体で、それでも伝えようと思ってやっているところで作品ができ上がっていくなら、それでよいと思うのです。それができることの方が難しいのです。
声が出るということでは、声量や声域のことを全部はずして、向こうから入る方が簡単だったのです。ただ逆にいうと日本のなかでも間違いさえしなければ、要は日本人のをやってみて、ここは言葉としてはできている。ここは音楽的にはできていないという見分けがついて、そのできているところをきちんと学べばよいということです。体は、すぐには変わらないわけですから、変わらないといっても、今とは違います。
この当時の人達は厳しいオーディションのなかで別の意味で、今とは違って声の才能があって認められた人ですから、リズム感とか音感とかの意味では勉強しやすいと思います。そういうわけで弘田美枝子さんのでやってみましょう。今、こういう人が20才くらいで表れたらどういう評価をするか、ということです。多分日本の音楽界じゃ、こんなに重々しく力いっぱいに歌うとダメでしょう。このくらいの音域があればし、もっと上の方に声を伸ばし、浮かせようとすると思います。
ここでいうと2年くらいにこのベースがあれば3年目はもっと音楽的になっていくと思います。これで入っていないのがビギンのリズムの音楽的な要素くらいで、後の条件は入っています。少なくとも私が2年でやってほしいと思っているところ、息の使い方、声の抵抗、声の芯は、見本にとれます。
これで5年くらい歌っていたら相当体も強くなり、歌に関しても安定してくるでしょう。そういうベースの部分です。本来であればこれはトレーニングのところでやっていて歌うときにはもう少し、この柔らかさとかビギンのリズムを出していかなければいけないのでしょう。これでデビューできているわけですから、ある意味では羨ましいです。このプロセスが見えていくのですから。必要のないところはこのなかから抜いていけばよいのです。その時期が必要だと思います。
まねしなくてもよいです。ただ日本語をどうやって処理するのかというヒントにはなると思います。フレーズの感覚があるの同時に「夢の街、幸せにあふれて」というところをギリギリ出していくということです。これだと声が7割くらいで残り3割くらいがその感情が出ているのですが、みんなのを聞くと、声にいって、それで声ができていたらよいのですが、できてないから、浮いてこないです。
日本語の感覚でいう「幸せにあふれて」というのと「幸せにあふれて」ということを舞台で表現するというところの感覚の違いです。そのときは役者みたいに演技しなくてもきちんと音の流れを出していて、そこに自分の感覚として「幸せ」ということが入っていたら、しっかりと読み取ってくれるわけです。
これ以上、着色する必要もありません。これでも変えています。気持ちの方を読み込んでほしいのであり、がんばって歌っているな、というところではないのです。
そこは歌の原点となるところだから勉強する必要はないと思っていたのです。その頃の人が向こうのものを聞いて、バンドの人達もまったく同じにコピーしようとして、日本語に置き換えていったのです。しかし、日本だったらこうやらなきゃ伝わらないといって工夫したところを踏んでみたら、みんなの場合はもう少し理屈がついて、いろんな材料があるから、この当時の人よりも合理的に学べる気がするのです。
向こうのものと何が違っているかというと、揺れているところもありますが、音楽的なところが聞こえてくるか、それとも言葉の世界でやっているかでしょう。曲のよさ、この曲ってこう意味で作って、こういう構成しているんだな、というのをスムーズにみせている。その構成を見せてやるのが向こうの考え方です。
日本の場合は1つ1つに心を込めて、歌い上げていって、方向は定まらなくても1曲を歌い上げていく、というところがあります。その辺の考え方の違いはありますが、日本語の方がコピーしやすいと思います。
「ナポリ 夢の街 幸せにあふれて」は、こういうリズムの曲ですから、もたつかないことです。ここらへんはビギンのリズムと関係なく入れるところですけど、どう考えても4つの山にしか見えないのはダメです。1つに捉えること、少なくとも2つ「ナポリ夢の街」「幸せにあふれて」までですね。
カウントが歌のなかに見えてしまうようじゃだめです。カウントは入っていないとダメですが、中にはカウントも外れてしまう人もいます。カウントは外してもよいのですが「しあーわせに」とか「あ」でも外すのであれば、その後はどこかで縮めなければいけません。そういう感覚は自分のなかで調整していくことです。それはあまりカウントしても無理ですから、自分の感覚のなかでリズムが流れてて音が入ったらよいわけです。
最初の入り方はそんなに悪くないのですが、「夢の」あたりから、だんだん言葉から離れていっています。言葉から離れるというか、言葉をいっているだけになっています。そこで一番基本の問題です。
あんまりこういう指導はしてないのですが、「夢」のときに夢だと伝えること、「街」のときに街と伝えること、「幸せに」は「幸せに」ということをきちんと伝えるということです。それを音楽の線で出していければいいんです。ちょっとしたものなのです。
ちょっと息がまじるとかちょっと遅れて入るとか、ちょっとそこが伸びているとか、そういうところで聞いている側の印象が違ってきます。ここは1回でバッと回していきますので、そこまで読み込めないでしょうが、それを感覚的になるだけ捉えていって下さい。そのまままねしなくてもよいです。こういうリズムを1回体に入れていて出そうとしているプロセスのようなところです。つかみ方としてはそういうところです。少し殺しているようなところもありますが、体は離れてないですから何とか説得できます。
「星降る夜の サンタルチアよ 街に流れる なつかしの歌」は、この和音の分散なわけです。アルペジオみたいなものです。歌い手は分散和音のところはポルタメントを聞かせないのです。向こうの音楽ではルールです。だから歌い方がレガートや、ポルタメントでなくこうなります。それを汲んでいるわけです。
ビギンのリズムの上に、乗っているところもあります。それをダンダダンダダダンと意識しているところを、それをリズムですから、声楽的に伸ばさず、伸ばすことを強調で捉えていかないといけません。そういうところに踏み込んでいるわけです。音楽というのには稚拙ですが、本当に基本の基本のところです。ビギンをそのまま表したような型です。そこまで入れておいて、出すときに何も考えないで歌うと流れるという、それでいいと思うのです。
レコーディングはこういう段階では普通はしないと思うのです。が、当時のアイドルです。「なつかしの歌」から「ナポリ」にかけていくところまでいきましょう。クレッシェンドかけて、そこからフォルテかフォルテシモで入っていってもよいでしょう。「街に流れるなつかしの歌ナポリ」まででよいです。
クレシェンドをかけていてフォルテで入るところでは自分できちんと計算するというより、コントロールしておかなくてはいけません。
そこでうろうろ浮ついていたらダメです。点と線みたいなものがあって、「なつかしの歌」の「うたー」で入れてもよいし、「ナーポリー」の「ナ」で入っても、「ポ」で入れてもよいのですが、それがダウンビート的に入ってくるところ、感覚でいうと「ナ」の後になるはずです。
だいたいクレッシェンドというのは、次の音楽を際立たせるためにやるわけですから「うたー」でかけて、呼吸からいうと「ナ」の後で一回落とすのです。ただどこに頂点がきてもよいのです。ピークを2つくらい作れたらよいとは思うのですが、それが単に大きくなって「ナポリー」といっていたら、残すものが何もなくなってしまうわけです。線がきちんと見えていないとダメですね。それから、その線の描き方がものすごく遅いとだめでしょう。早くいって待っているくらいの感覚で変わってくると思います。
こういうのも聞き方を覚えていけばよいのですが、本当のことでいうと、ここの「うたー」というところはもう少し押えなくてはいけないのです。押えるというのは分量の問題じゃなくて音色の問題です。「うたー」の「たー」で明るくなっていますが、それだと「ナポリ」の「ナ」での明るさが出なくなってしまいます。
「なつかしの歌」まで粘っておけば次に「ナポリ」でまた頭に戻るわけですが「た」がポジションとるために、上の「ナ」のところにいって音色的にちょっと変わっています。きちんともっているのは、その前のところの「星降る夜の」「サンタルチアよ」「街に流れる」「なつかしの歌」のこの4つをきちんと汲んでいるからです。
みんなのなかでは音程を取るのがやっとですが「街に流れる」で「あ、次に違うことが起こってくるな」と匂わせておいて、「なつかしの歌」のときには、そこまで踏み込んでないですね。次にレガートで歌っていかなくてはいけないというところの間をです。それをリズムの感覚、音の感覚、自分のフレーズ、気持ち、言葉の感覚、全部からトータルして動かしていく。予感させていくのです。
この要素がすぐれているヴォーカルというのは、もう10コ以上の要素が入っていて、使い分けていくわけですが、単調なヴォーカルというと単純に「あ、音が変わった」「リズムが変わった」「音が伸びた」「音が上がっていくからここで変わるんだ」と、せいぜい1つか2つくらいしか出せないのです。
そんなものは頭で考えていてもしかたのないことです。こう読み込んでいくときに本能的にできていくんでしょう。ただ、そういうことに鋭くならなくてはならないから、音程が外れるとかいうことは番外なのです。
聞けてない、というのと同時に自分でいったときに、いえないというのは、そこまで鈍いというわけです。そこの世界まで入れなくなってしまいます。音程練習から入るより、耳で聞いたものを、こうだしたいと思ったときに、こういえている、そしてどこが誤った、ここが外れてたな、というのがわからないとダメです。これは初歩の初歩です。歌というのは、より心地よく聞かせるために、そんなところで勝負するわけではないですから、そんなものは全部下に埋まっていないといけないわけです。歌は、の先のところにあるわけです。トータルから考えるというのはそういうことです。
聞いたときに伴奏も入っていて、コードも、ベースも入っていて、自分の音程が狂うというのはおかしいことです。ベースチューニングを間違えたり、ギターが音を外したりしてもわからないということです。それだったら音楽が成り立たないわけです。
楽器の人というのは、ベースが狂ったとかギターが遅れて入っただろうとか、全部を聞いて弾いているわけですから。なんでヴォーカルだけ自分で歌っていてよいのか、ということなのです。そういうのは、こういう中で学んでいくしかないのです。最初は無理でも、ここだけを歌っているわけではないのです。黒板だけ見て歌っていてもしかたないわけです。少しずつやってみて下さい。
「ナポリ 夢の街 さあ歌おう」ここの「さあ」の入れ方を聞いておけばいいと思います。レッスンのときにこれをできるかどうかより、ステージ実習みたいな課題曲で練りこむことです。レッスンでできないのはよいのです。歌い手というのはパッと歌詞を見て覚えて歌えなくても、歌詞を覚えるのに人の10倍くらいかかっても1回出すときに狂わなければいいわけです。
そういう人はそこまでやればよいのです。しかしレッスンで出せている人もステージ実習になったときに、ここで出せている要素が出せないと、そしてできていない人は同じように崩れていくということで、成り立たないのです。
このレッスンではきっかけでよいのですが、その後に練りこんで完成していかないと意味がないのです。この場ですぐに完成するということは絶対にないのです。
こういう人達も何千回も歌ってこういうふうになってくるわけです。そうではなくてできるということになると、真に天才的な人です。こういうレッスンの後に、自分の課題をふって、やっていかないと3年たっても同じことをいわれるのです。
何年か経ったら、こういうのを聞いたときに、いろんな要素が自分でわかって、自分で体現できるようにならなければいけません。そういうためのヒント、きっかけにすぎないのです。だから違う捉え方であってもよいと思います。
私の場合は全員に伝わるようにやっています。もっと違うやり方を取った方がよいという場合もあります。「先生はああいっているけど、自分はこうやったほうがいい」と思うなら、そうやっていってもよいと思います。
歌が熱いし、これだけのパワーがあると、聞いている人間も説得されてしまいます。こういうことを伝えようという意思が入っていたらよいのです。それが見えなくて音楽に隠れてしまうと、聞きづらいのです。歌というのは畳み掛けるところと、音楽的に聞かせるところと両方あってもよいと思いますし、両方が一致している人もいます。
こういうふうに全部畳み掛けていく人もいるのでどちらかでよいと思います。もっと引いて歌う人もいるでしょう。対照をはっきりさせて歌う人もいるでしょうけれども、若いときというのは、こういう歌い方でいいと思うのです。
畳み掛けていったら、そのうち力が抜けてきますから。それをやらないで、最初に引いてしまったり、きれいに歌おうとしてしまったら、伝わる力というか伝わる熱が伝わらないと一番面白くなくなってきます。がんばって歌っているなど見えるのもいいし、音楽からいうと、がんばって力が入って引いていると邪道になるのです。しかし力をつけるプロセスとなります。
後は感覚の問題です。上でどう違っていくか、ということです。最初の「星降る夜のサンタルチアよ 街に流れるなつかしの歌」を集約させていく方向にするか、「なつかしの歌」で少し浮かせておいて「月の光が静かに二人の船を優しく包む」でこの辺をピークにしてもっていくか、「優しく包む」というのは、そういうことを言葉できれいに伝えるという方向で歌うか、そこのメロディーラインをきちんと出していくのか、とそういうことを変えていけばいいわけです。
1番2番によっても変え、歌詞の内容によっても違ってきます。言葉は繰り返しですから、集約させていくのか、ゆったりさせていくのか、そのくらいは自分のなかでの世界観を持っておかなければ歌に引っ張られてしまいます。出しているのは素材ですから、弘田美枝子さん等のをまねするということではなく、それの材料を与えたときにどうすればよいかです。最終的には音楽、音が聞こえてくればよいです。そうでなければ言葉の世界でそれが伝えられるということでもよいです。ともかく別の世界をそこにつくり出さなければいけないわけです。
それに慣れていくことと、それと外したらいけないものというのが絶対あって、それを外した場合に、それ以上のものを補っていればよいというだけの世界です。表現ということから考えてみればよいわけです。この曲を好きな人からみると、違う歌い方したな、ということでも、本人がこういう理由だということを示していればいいわけです。それは本人が決めておかなくてはいけません。本当は頭で決めるのではなく、体がそうなったようにやっていくのが一番よいのです。
体に入ってないときは頭で決めてやってみる、そして、まず自分で方向性を出すことです。発声練習も、こわごわ出しているのではだめです。とにかく口から出したら、引けないわけです。実際のステージでもそうでしょう。引くクセをつけないことです。自分で出して「あ、高かった」とか「低すぎた」と思っても、自分でやったことなんだから、最後までそれでもっていくしかないのです。
何度も歌いはじめをやり直す人がいますが、そういうのがクセになってしまうのです。歌う前にゴホンと咳払いする人も同じで、ろくなことにならないのです。それは、逃げになってしまいます。発声でも「ラララララ」と出して、「あ、おかしい」と思っても、とにかく「ラ」と出してみてやってから、後で考えるしかないわけです。
そう意味では開き直らないといけないわけです。間違ってもよいのです。間違わないのが困るわけです。間違ったか間違ってないかよくわからないのも困るわけです。バーンと間違ってもらえば、本人もわかりますし、それは直せばいいわけです。それは練習の場ですから、ただ練習だからといってやり直しができると思っているといつまで経っても1つ上に乗らないと思います。
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【ナポリは恋人3 入門】
ミーナとジリオラ、チンクェッティという歌い手です。イタリアを代表する歌い手ですが、日本の歌い手を使います。参考曲としては、あまりよくありません。
「夢みる想い」はザ・ピーナッツです。「ナポリは恋人」は伊東ゆかりです。参考までです。
「砂に消えた涙」もそんなによくありませんので途中までです。昔は原曲しか使えなくて、自分で体に入れていったのも原曲でのリズムです。
体でつかんだことを人に説明するというのは難しくて、逆に原曲なり、今のロックでもポップスでも全部西洋の流れからきていますから、それでつかまえなければいけないところをつかんで、日本語に置き換えてくれればよいのです。
しかし、そこまでの体が必要でなかったり、そこまでの声量や声域がいらないのであれば、日本人が歌ったもの、この当時、歌ったものというのは言葉の世界では、できていますから、今、聞いていて、何が伝わっているかということもわかるし、本当は文字を見るのではなくて、このくらいは覚えてなければいけないのです。逆にいうと、そのなかで音楽的じゃない部分とか、音楽からいうとちょっと違う部分でも、歌としては必要な要素が入っている部分というのがありますので、それから覚えていった方が早いし、使いやすいというふうに妥協すればそうなります。
なかなか原曲だけ聞かせても何ができて何ができてないのかが最初はわからないのです。それを日本語に置き換えます。例えば弘田美枝子という人が30年前に、向こうで流行った曲をそのまま聞いて、アレンジもそのままで、それで日本語に出してみたときに、何がそのなかで宿っていて、何が宿らなくなるのかということです。
今こういう人が20才でここにいて、もしステージ実習で歌ったとしたら、それは聞かせられます。声量も、テクニックもあります。でも音楽にはならないけれど歌になっている、その部分があります。向こうの人達というのは、歌というのは音楽のなかでやっていきます。音楽としての構成をつかんで、こういう型での出し方じゃない。
ただ日本人の場合はそれでもいいし、また、そういうところがないといけないようです。今きついな、と思ったり、あんなに体を使って歌わなくても、と思うところは逆にいうとトレーニングのときにあればいいことです。こういう人達が5年、10年経って楽に歌うところが自然に抜けていくと思っていいわけです。だから、そこの部分と音楽的な世界と少し反するところもあります。スポーツでも力を入れてとか、それをきちんと捉えて、といわれているときには絶対に自然にはできていないわけです。だから2流のプレーで1流のプレー、最高のプレーにはならないのです。
全部の感覚をオープンにしたときに、それができるかというと、そこの基本が入っていなければダメです。これから2年というのは耳、体、言葉、感情の表現、全てに関して、それを入れておく機会なので、よい材料になると思います。
簡単なことでいうと、これは音楽ではないけれど歌になっているということです。歌になっている要素を2年で宿してもらえれば早い方です。声量、声域、とかいうことよりも、歌になっている、ということです。そんな感じで直接入っていった方がいいと思いますのでやっていきましょう。
手本から読みとるよりもまわりの人から読み取っていったほうがいいと思います。「ナポリ 夢の街 幸せにあふれて」4つのフレーズがありますが、これを1つにフレーズを捉えて、4つを使い分けていくということです。リズムはまだ関係ありません。なるだけ字の世界から離れて下さい。
黒板を見ながら音を取るだけならば、やらない方がましです。「ナポリ 夢の街 幸せに あふれて」の半オクターブは厳密にはないわけです。そうなってくると声の問題じゃなく気持の問題です。入門科というのは、それを 取っ払らわなければならないので、合宿の会報でも読んでほしいのです。
今舞台から戻ってきたのですが、何も生れないですよ、これで2年やっていても。顔洗って、もう一度起きてここにやってこないといけません。私がいっているのは、できないことは求めない。2年あります。ただ何を考えているのかよくわからない。声が出ていないとかの問題ではない。出そうとする気力もない。体も起きてない。ボケーッとしている。いつも言葉をかけるというのは歌い手でありうる限り、最低限のパワーって必要で、技術とか、どうこういう前に問題です。
今日のオーディションでも4フレーズ歌わせて200人のなかから5人選べるのです。その基準でいったらB1以外に1人いるかどうかくらいです。それが技術なら待ちますが、そういうものでなく、結局、これを聞いたときにこれを自分のものにしようという心が動いていないし、それを自分なりに変えて伝えようという心が働いていないところに、技術も声も宿ってこないです。
言葉もです。これがいいか悪いかというより、みんなが少しでもビクッとしたら、まだましです。それは声の技術がなければできないのではなく、そこまでのことを出さないと問えないということです。練習とかトレーニングとかでなく、それが間違ったとか、あったとかいう以前の問題です。
以前というより以前よりもひどいと思います。みんながカラオケで友達とかの前で歌うときにこんな気のない形で歌うでしょうか。この状況を引き受けないとだめですよ。何回もいっていますが、そういう歌い手が、その曲を聞いて、そういう風に歌ってみたことと同じことが技術的にできる必要も声域的にできる必要もない。でも伝えようとする態度には、そのプロと同じものが持てなければ、表情が持てなければだめでしょう。顔が暗くて寝ぼけていて、そこで「ナポリー」と聞こえてくるはずがないのです。
だからやる前にだめと見えていることはやるな、ということです。やってだめなのはよい、でもやる前からこっち側が期待できないという表情をして、体の構えをして、そうしたら絶対にでてこないです。ヴォイストレーニングもうまくいきません。それはあたりまえで、そこの部分というのはこっちが直しようがないのです。
ここに私が来る前の間に準備体操やるのも、あたりまえのことで、やったからといって、表現になったときに音の世界に入れなければくもってくるわけです。課題はなんでもよいのです。それを受け止めること、組み替えることと出すことです。
みんな声ができれば歌えるとか、歌えたら通用するとか思っているのです。そうではなく、伝えようとしなければ通用しないのです。逆にそんなものがなくてもその人間の表情とか、話す言葉があったら通用するわけです。歌の技術どうこうということより、プラス歌の技術があればいいのでしょう。そこを間違ってしまうと、ヴォーカルは歌うところの技術だけじゃないですから、技術は支えているものであって、学んでいくことによって歌を台無しにして、つまらなくして、自分の気持も乗らなくしていくことになりかねません。
自分がちょっと慣れている歌とか、聞いた曲だったら、なんとなくカラオケっぽく歌えるというのだったら、ズブの素人から絶対に抜け出せないわけです。
課題は捉えようによっては難しいです。でも課題になるということは、ここで伴奏、言葉、リズム全てを引き受けて、それを自分に取り込まなければいけなければいけません。最初は全部は無理です。言葉だけでしか入ってこない人もいます。それはプロセスとしての自分のなかできちんと設定できることです。
確実に現実の場でどういうことかということを絶えず考えて欲しいのです。そのために会報も、本もあります。本からこの世界に入らなければダメです。「幸せにあふれて」も全然幸せにあふれてないです。これを芝居みたいに「幸せにあふれて」とやったって通用しない。だから難しいわけです。声を音にして表現するのです。それを助けるのが旋律、リズムであって、ただ助けるわけで、それを出せば音になるわけではないのです。
第一に聞き方の問題です。聞いているときに体が全然動いていません。それでは取れっこないです。入れるところまででよいです。「星降る夜の サンタルチアよ 街に流れる 懐かしの歌」も、1オクターブ近くはあるのですが、そんなに音は高くないところでやれます。そのなかで自分のなかで汲み取っていろいろな表現を考えてみることです。
これは難しいでしょうが、シミュレートしてみる。その上でこっちの表現がよくてこっちが悪いのはどうしてかと考えるのです。これはポルタメントをかけたらいけないわのです。音の世界を知っていたら何がダメなのか、ということがわかってきます。楽器を演奏していても、今は基本をやらないから、そういうことをできないのですが、しっかりと歌えている人のを聞いてみると絶対にそういうことはしません。
そういうものは理屈で判断するのではありません。教えるときには理屈でいった方が早いのですが、覚える場合は理屈で覚えてしまうと、また、ダメになってしまいます。どう捉えているかを取ればよいわけです。少なくとも「ほしふるよるーのー」とこんな感じではとっていないと思います。リズムを体で読み込んでいくということです。こういうフレーズがあったとしたら、役者ではないのですから「ナポリ」だとか「夢の街」とか、そういうのをやる必要はないのです。それを音に置き換えたときに、どこにインパクトがつくかということです。
「ナーポリー」なのか「ナポーリー」なのか、間違いではないのですが、ただ音楽のルールからの正解を出すことです。練習にならないのは「ナーポーリー」といっているだけで何も伝わらないからです。それは単に置き換えているだけです。音をそのまま置き換えて、それで歌えていると思っているだけです。イメージで間違っているわけですからその間違ってたところに体が合理的に使えてきたり、表現が出てくるわけがないのです。言葉から考えてみてもいいし、メロディから考えてみてもよいです。イメージをきちんと使うこと、そのために聞かせています。そうでなければヴォイストレーニングだけをやっています。
「ナーポーリー 夢の街 幸せにあふれて」のなかでもいろんなところで膨らませたら、どこかで押えなくてはいけないですが、正解はないわけです。私が、歌ったら最後、みんながまねますから、こういう歌い方をしたら、この人には合うけどこの人には合わない、ポップスの場合は歌い方の押しつけは邪道になってきます。
でも判断のない人の前で歌うことは、歌い方を表面で教えることになります。ということはダメにしてしまうということになります。ポップスの場合はそこが難しいです。
イメージ中で表現することですが、難しければ言葉の世界でもよいですから、できたら音の世界へつなげてみて下さい。音にその分カバーしてもらえますが、そのかわり全部を聞いていないとできないし、単に音程だけ、楽譜だけみてて、そこにひらがながついているだけでは出てくるところに表現が宿るわけがないのです。
一本指のピアノの弾き方が正解になってしまいます。でもそれは全然つまらないことです。だからつまらないことをやったらダメです。人生もそうです。ここのモチーフです。本当にそうです。トレーニングがつまらないわけじゃないのです。一所懸命やっていたら面白くなってくるし、体にも宿ってくるし、ああ表現できたなというのが、どんなに下手なものでも、伝わります。そのレベルが、後で上がってくればいいわけです。とにかく表現するというところまで付けていく。
その上に、今いったような音楽的なものというのが入ってなければ宿していくのです。それは何回も何回も聞かないとしかたないのですが、それはその人の感覚とか体の状態とか心の状態がどのくらい解放されているかです。やはり千回聞いてもダメな人はダメです。1万回歌ってみたらわかるとかいっても、それはわからないのです。
トレーニングばかり一所懸命にやっても、歌えない人は歌えないのです。それは目的が違うからです。声が出ることを人の10倍くらいやったら、2倍くらいはつきますが、それと歌えることというのは結びつかないのです。歌うというのは伝えることですから、そうしたら伝え方を知っていないとダメです。そうすると伝えるようにしているはずです。
「なつかしのうたー ナーポーリー」とここのところも、声量の問題とはまったく違うわけです。例え小さくなっていても、そこのところで自分の音楽の感覚とセンスのところで聞かせる、ということをしていたらわかるはずです。そこは教わらない方がよいところです。
「たー」でクレッシェンドしてもっていって「ナー」ですぐに上がらないで「ナーポリー」とやると、聞かせられるというような覚え方をしていくと、今度はその枠から外れられなくなるのです。伝えるということを本当に考えたら、言葉でも歌でも、その気持ちになったとき自分の体がどう動くかということです。そこで自分の感覚に体がついていかなかったというなら、体を鍛え、矯正していくしかないわけです。その感覚がないところには成り立たないのです。
レクチャーのときに「つめたい」というのを「つめたいー」というフレーズを作ってみてごらんという話をしていて、2年経ってそれができない人ばっかりです。何でできないかというと、詰めないからできないわけです。こういうふうに歌っている人達というのは、そういうことを別のことでやっているわけです。それは聞いてみたらわかるとか、先生のを見てみたらわかるとかじゃなく、自分でやってみたときにその感覚がないわけです。それをやろうともしていないと、2年経って身につくわけないでしょう。
2年経って同じレベルのことをやるというのは、ボケている以外の何ものでもないわけです。それを高めるためにきているのでしょう。そうすると「幸せに」とか「あふれて」とかがどういうフレーズを作っているのかがわかります。「街に流れる」でも「まちにながーれーる」こんなイメージは絶対にないのです。「ノンソマーイ」の「つめたい」のときにも「つーめーたーい」こんなイメージはないわけです。そのくせにその感覚を1年も2年もひきずっているわけです。だからいくら聞いてみても学べないのです。この曲はこの曲、自分は自分。
この曲がみんなのデビュー曲であるわけではないのです。ただ、ここに基本が入っているといったらその基本を学ぶしかないわけですし、それができている、できていないということことを問わなければいけません。
「つきのひかりがー」のところも「つきのひかりが」となってしまうのは、リズムの方を取っているわけです。これを日本語よりも深いところでやってしまうと、単純にリズムの方が外れて分散和音で被さっていきますから、とても聞きごたえが悪くなるわけです。
こんなものは説明するのではなくて、自分の感覚で伴奏を全部とってみたらわかるはずです。伴奏というのはそういう世界です。いくら正解に弾けてみても、自分のフレーズが出ないと、誰も評価してくれません。音だけでやっていかなければいけないので逆に厳しいです。
ピアニストも一流の人々がたくさんいる中で、そこで何かを出さなければいけない。マイケル・ジャクソンが踊りのなかで引き立つみたいな何かがないと本当に表に出てこないわけです。でも、歌というのは、ものすごく曖昧に答えが何通りもあるようにみえますから、でも絶対外したらいけないポイントもある、流れもある、きちんと捉えなければダラダラした歌になってしまいます。自分がやってみたときに、それが伝わっている、伝わっていない、この場が動いた、時間が変わった、それを判断していかなければいけないのです。
そうでなければやめなければいけません。やめなければいけないというのは、その感覚の鈍いままに、やっていてはいけないということです。そこが切り替えが大変です。この始まりの「ナポリー」と入る前は、伴奏が盛り上げていくのです。入りやすくしているわけじゃなくて、そのことも含めた上での効果です。トータルで捉えたらそうなるのです。
そうしたら「ナポリー」と出るときに、そんなふうに出るわけないです。体の状態もそうならないし、緊張感もなにもない。歌によってはどんどん畳み掛けていくものもあれば、そこでリラックスさせるものもある。その動きの方をスポーツと違って体得させるというのは、とても難しいのですが、3分間の作品のなかでそのなかの1秒どころか0.1秒さえ、無駄にしてはいけないわけです。全部がとても厳しい中で組み込まれていると思って下さい。
中には曖昧なものもありますが、ですから、間違えないように日本のより一流のものを使ってほしいのです。そういう感覚が磨かれるからです。そういう感覚が入ると自分の歌う歌でなくて、そういう音楽に浸っていたら、自分に対しての基準ができてくるからです。これでは全然甘いとわかります。
そういう基準が持てなくなると、どうでもよくなってしまいますから、「夢の街 幸せにあふれて」のところで、なぜ「夢の街 幸せにあふれて」まできて「あふれて」でこっちにやるかということなど忘れ去られます。次にレガートに移っていて、盛り上げていけないから、線の取り方を次にあわせて予感させているわけです。
語りも同じで、次に何を語るのかがあって、リズムとか音感、言葉の置き方、音の取り方が違ってきます。「夢の街 幸せにあふれて」とそのまま読んではいけないということです。役者が説得するのと違うのです。
音楽が乗っているから、次に「星降る夜の」と入ってくれば、また変わってくるわけです。基本に正しく歌おうとしたら「なつかしの歌ナポリ」のところも「うたー」で殺してしまうというか、こういうふうには上げていかないのですが、次の「たー、ナーポリー」はこっち側の線にそれてしまっているのです。
より効果を上げようとしたら「たー」で落とし込んでおいて、もっと「ナーポリー」で強調づけられて入っていけるのです。ところが体とか音色とかからいうと「たー」は外れてしまっているのです。開いてしまっています。原曲を聞いてみたら、そんなことはやっぱりしていないのです。そういうことを聞き分けていく耳を持つことです。判断というより、理屈はあとからみんなに説明するためについているわけで、それを感じられないといけません。
自分がやってみればよいわけです。やはり「た」って難しいと、やはり「う」と同じところで維持するのは難しいと思ったら、「うたー」の方が次に行きやすいし、音も狂わないということです。どこでとっていくか、ということを常に感覚のなかで選ばされます。もう一度やってみましょう。「ナポリー 夢の街 幸せにあふれて」
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【ナポリは恋人4】
勘違いしないでほしいのは、昨日の自分よりも練習できていればよいわけで、まわりの人と比べる必要はありません。声が出る人は出る人で、その人が必ずしも育っていくか、というと必ずしもそうではありません。コントロールができることと、伝えるということがわかっているかどうかです。
いつも注意していることがいつまでたっても起きるというのはよくありません。例えばみんなに表現しているときでも、井戸端会議みたいに友達の間でしゃべっているようなことを人前でいって、それで伝わるわけないのです。私もしゃべるときには人前でいうから伝わるわけです。
しゃべるときに手がうごいたりします。顔の表情は恐らくあんまりつくらないようにしていますが、それでもそういうふうな動きがおきてます。それを、どこでコントロールしているかです。より伝えようとしたらもっと体が動き、立ち上がるかもしれません。もっと手が動くかもしれないです。歌だって同じでしょう。それだけです。後でつけるということはできないし、だからそれをやっておくことです。
もし、理屈で覚えるのであれば、日本に住んでいるから、「ナポリー」というこういう入り方なんだ。「ナ」と鋭く入れないんだと思っておけばよいです。入れる人は「ハイ」でいえます。そういう感覚の違いがあるのです。それを向こうの人達は日常でできています。日常でこうやってしゃべっています。だから、あなた方もしゃべりを変えろということではなくて、少なくともこういうところにきたらこれは舞台だから1つアップしたところで「ナ」でパッとつかんでいなくてはいけないんだということです。そうしたらその前に体の準備ができていて、パッと踏み込めるように取れていなくてはいけません。「ハイ」「ラオ」「ララ」をやっているのもそのためです。
それから必ず向こうの人は「ナーポリー」や「町」でもきちんと捉えています。「幸せにあふれてー」語尾も向こうの人達はバンと言い切るわけです。日本語にそんなものはないです。「あのねー」とか「だめかなー」とかですね。言い切っていたらコミュニケーションが成り立たなくなります。それだけ反することをやりたいのですが、あまりに日本の日常のことと、ステージや問われることがこの国は反していますから、みんなの方で固くなったりこわごわやって余計に動けなくなってしまいます。
やっぱり1つステージアップしたところの感覚を常にその場になったら取れるようにしておくことです。それで日常も生きていければよいのでしょうが、それは日本の場合は幸か不幸かわかりません。ただそういう面が全部影響してきます。声なんてあとあとまでできてこなくても歌える、声と歌うということは、また違うのです。
その人のなかでフレーズができていて、そのフレーズを完全にコントトロールできてきます。そういうのに体がついて伝えることが伝われば、マイクをつけてヴォリュームを完全をコントロールできて、そういうのに体がついて伝えることを伝えれば、しっかりとマイクをつけてヴォリュームを上げればそれで伝わるのです。それは感覚の世界、イマジネーションの世界です。
ただ、そんなこといっても声が朗々と出ている人のを聞くと、やはり違うな、ということで体もつけるし、声もつけるわけです。だから声の勉強をするのは表現、音声で伝えることを勉強した上で、体が動いてくる状態を取り出せるようにしておくのです。材料は体が読み込めるものの方がよいと思います。
こういうふうにわざとらしいくらい体を使っている方がトレーニングのプロセスのときにはよいです。上の方で「ナーポリー」と歌っているのもいいかもしれませんが、それはやや別の感覚が必要です。それは体が身についたあとに出てくるのですが、最初からパッとそこにいこうとすると難しいでしょう。いつまでたっても半音狂ってしまうとか、音が定まらないとか、リズムに乗り切れないといことが解決できないのは、1つに捉えていないからです。
「ほしふるよるの」というのを「タラララララーラ」と入って、その上に「ほしふるよるの」と体と一緒に動いている人のようにおいているのかどうか、その違いをまず見ることです。まわりでなんとなく、うまく歌えている人に限って、なんでこいつ音を取れててきちんといえているのに、ちっとも説得力がないのか、何も残らないのか、それはやっぱりうそなのです。それを本当にしていかなくてはいけません。
そういう練習をしていくと共に、耳、体で読み込むことをヴォイストレーニングのなかで気づくことよりも、ヴォイストレーニングをやって、やって、やってそれでたまにパッと歌ってみたときに、ああこんなふうに歌えるのか、とこの感覚の方が気持ちいいなとか、そういうことで気づくことが多いのです。あんまり狭くならないで、いろんなことをやってよいと思います。
ただそういうふうに感覚が出てくるには、日頃から合理的に体を使っていないといけません。いつもいいかげんに使って出てくるわけがないのです。だからそういうことを自分のなかで読み込んでいって下さい。
最近オールディーズも、復刻されています。あの頃はそういう感覚で判断しているので、今のような歌い方だったらデビューさせませんよね。そんなに柔らかく歌わなくちゃダメだよとか、そんな強く歌ったらだめだとか、もっと浮かしてとか、高くしてカン高く細くすればいいよ、と育てられますから。だから作品にはなりますが、あとで伸びるプロセスにはならないのです。
この当時が羨ましいのはプロセスでデビューさせられていますから、こんな雑な形で体を使っているとうにみえていても、キャリアがつめていけます。形よりもなんとか伝えるというところでよいわけです。それをトレーニングのプロセスとしてみてもらえばよいと思います。
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【ミロール1】
「帰りこぬ青春」「アコーディオン弾き」「ミロール」は同じような目的でやっています。原曲から、フランス語を聞いておこせばよいのですが、今の力では、「アコーディオン」でやったときのように、楽譜を日本語でなめていくようなことしかできません。日本人であってもどこまで変えて歌えるか、というのを聞いたほうがよいということで、日本語で入ります。その方が早いし、そのこと自体ができていないのに原語を聞いてもあまり意味がないと思うからです。
原語から入って取りたいのは原語のニュアンスです。ここでやっている原曲の条件というのを学びたいのです。そこからいくつか欠けているかもしれませんが、表現ということを考えたら、こんな楽譜を渡されて、「ファミ、ファミ、ファソ」をどう動かしているかを勉強してみて下さい。
動かすところを同じようにしても構わないですから、ただどのくらい動かせるものなのかというのをやってみて下さい。日本人のでは、かなり歌いやすくなっていますね。
「おませなミロール、ふしぎそうな」から入ってみましょう。なるだけ頭のなかに入れて楽譜を見ないでやってください。同じ流れになりますが、たたみかけていくのです。「何もかも おませなミロール」のところが基本的に一番強く入っていて、その後は四分休符が入っているのでわかる通り、本来であれば切って効果を上げていくところですが、日本語では切れないのでこういう歌い方にしています。考えるよりは表現を出すことです。
どんどん弱めていくと、考えるよりも、最初に強めている流れのなかで「顔見知りさ」の次のフレーズをつくるところまでを処理してしまうのです。「あんたは」まで入っても、「顔見知りさ」までいっても構わないです。本当はそこをいってしまうと、次の「ミロール」のところに入らなければいけないから、本当は「しないでさ」までなのですが、いってみましょう。
「おませなミロール、ふしぎそうな顔しないでさ。 あんたは顔見知りさ ミロール」弱めるという意識は持たなくてもいいです。前に出していってください。「あんたは顔見知りさ」からでもどこからでもよいです。
「あんたは顔見知りさ ミロール。港港 渡歩く私だもの」歌い上げているだけ、まだ、みんながついてきやすいはずです。ピアフは置いていっているだけです。体が相当問題になって、読み込めなくなってきます。このくらいなら、読み込めるはずです。例えば「あんたは顔見知りさ」のあたりのリズムのズレ方をどう置いてくるかです。楽譜で書いたらこういうふうになるでしょう。その前から入ってもよいですが、とにかく「あんたは顔見知りさ」というのが入ればよいです。
今は表現を考えてください。表現するのに必要な踏みこみ、そこから出てくるところのつなぎが音楽的な表現の原動力になります。全部が音楽に乗っているわけですが、なぜ、何度も長くかけているのかというと、そういう感覚を入れるためにかけているのです。
「ふしぎそうな顔しないでさ。あんたは顔身知りさミロール」別にシャンソンに限らないのです。結局、楽譜を離れたところで、どう置いていてどこで引き付けていくか、もっと単純なことでいうと役者の劇でも同じで、これを歌うときにどう伝えるかという問題なのですが、それが音がついたために逸らされてしまうとダメですね。とても単純です。
「ふしぎそうな」のところは遊んでいます。だからといってダラッと「ふしぎそうな顔しないでさ」といってもダメで、きちんとまとめるところはまとめていかなくてはいけません。
まとめた後に、遊びというのはここだと「うな」と「でさ」になりますし、だから「顔しなーいでさ」というところでは踏み込まないわけです。
次のところの「あんたは顔見知りさ」も同じです。「でさ」で終わって、すぐに「あんたは」とは入れないから、そこからゆっくりめに入って少しずつリズムを整えていって、たまった部分で「顔見知りさ」のところに踏み込んでいって、次の「ミロール」のところにまた落としていくのです。
こういうのは楽譜を見ながらやるのではなく、原曲を聞いて、あるいはこの音の流れから、音符が一つから、その意味を自分で解釈していくのです。感覚的に解釈していくのです。本当であれば、始めの「おいでよ」みたいなところを何回も練習すればよいのでしょうが、部分をやるよりも、全体をやらなければいけない必要を最近特に感じています。その人のところに、表現のところの次元で音楽や言葉を捉えなければ、いくらその部分を勉強していても、実際の歌には表れないし、まして3分間になってしまうと、その繰り返しを自分できちんとつかんでいないといけないのです。
最近日本人のを使ってやっているのは、外国人のものよりついていきやすいからです。その代わり歌い上げたりしているのは、このなかでいろいろと問題点というのが向こうの人よりも出てくるのです。それでも人々に伝えて活動してきた人ですから、表現のみせ方のいろいろなクセのつけ方を知っているわけです。
声がない、体がない部分を、そういうことでカバーしています。それは1つの技術でしょう。ただその技術を先につけてしまうがために、声とか体が宿らないとしたら、それをできるだけ待とう、というのがここの考え方です☆。そうはいっても表現とかから、かけ離れたところに深い声とか、息とか体とかがついてくるかというと、そんなこともないし、言葉の世界と歌の世界とがあって、どうとるかは大きな問題です。しかし、本当は同じ表現の世界です。
もっと音楽的にきちんとしていく方向もありますが、ヴォーカリストが人に伝えるにはこのレベルで充分だと思います。そのいい加減さがヴォーカリストのよいところでもあります。
ここまで使いこなそうとすると、音の感覚からリズムから自分で作れないと、言葉が動いてきません。自分で判断して、1つ1つの言葉をチェックしていくべきです。いうだけだったら誰でもできる、歌うだけだったら誰でもできる、そこから生じた価値のある箇所を残し、ない箇所をカットすることを自分のなかで絶え間なくやっていかないと、ダメです。最後にどこでもいいですので1回まわして終わりましょう。
歌も表現の一種ですから、そこを自分でわかっていくしかないです。ステージ実習でもライブ実習でも、今やっているレッスンが表情になったり表現になったりしているのも、ステージの違いというのがあって、ここでやったものは初めて聞くことですから、それを一ヵ月なり、一年なりかかって生きかえらせなければいけません。
息吹を吹き込まなくてはいけません。初めてここでこういう曲を聞くのと、こういう曲を本場で、何百回も聞いて、何千回も歌ってきている人とは違います。しかし、そこにチャレンジしていかないといけないわけです。とにかく伝えようとしないと、自分でやってても何をいっているかわからなくて終わってしまうでしょう。
言葉でわかっていない。あるいは音の進み方でわかっていない。音の方がちょっと難しいのですが、まずは、そこの部分です。自分がやった後に何をやったかというところをきちんと把握することだと思います。
ステージ実習を思い出してください。なぜ、楽譜を見てそれを言葉に置き換えただけで終わってしまうのが、動かそうと思ってできないのは待てますが、本人が動かそうとしていないところに動いてくるわけないわけです。それを今、もう一度勉強し直す必要があると思います。
昔は少なくとも2、3年いれば聞く力がつき、好き嫌いとは別に、何ができて、何ができていないかということもわかったでしょう。
それを自分なりに加工するといういうところまでかまいませんから、まず見本の伝えている部分だけの要素を組み込んでいくことです。それが組み込めないで、音程やリズムの要素をちょっと組み込んだというくらいだと歌にはなってきません。
歌になるということはどういうことかをその世界を自分の体で集約できないとダメです。それが浮いてしまっています。だから時間がかかりますが、1曲でも2曲でも、その経験があれば、こういう曲を与えられたときにそれなりに自分のスタイルに持っていけないとおかしいのです。表現というのは前に出さなくてはいけないし、1つのところをつかんだらそれを絶対に離さないで、それで引付けていくだけで、突っ走っていかなければいけません。
そのところどころで遊んだり、休んだりすることは許されます。それも面白くなってくる。それを音楽的なセンスの上で片づけていかなければいけないのです。そうなると楽譜の解釈であったり、伴奏のこととか、アレンジのこととかも必要です。ただ読んで伝えるという方法と、こういう歌に乗せて伝えると方法とは違います。読んで伝えるというのは、歌にも1つの前提としてあるのでしょう。しかし、それを、こういう歌とか言葉に置き換えたときに、強調することころが違ってきます。そこのところを自分のなかでやっていかないと声の力だけではなんともならないと思います。
よく高音の発声とかひびかせ方とかいろいろといわれますが、それはあくまでこういうものを表現するとき、表現するものを考えたときに、ここで踏み込むこむより、浮かせた方が有効だからです。それよりも、声をしっかり握ることです。
時代も空間も違いますが、こういうものが伝わらないかというと、そんなことはありません。この間、美輪明宏さんのピアフの舞台を見てきました。フランス人でピアフに似ている人がやるのとまったく違って、男で、大柄な人がやったときに出てくるものの方が、かえって本質はわかりやすいのです。
表現というのは若い女の役をやるからといって若い女の子がやるのがよいかというと、必ずしもそうじゃない。1番そこの部分をリアリティを持って取り出せる人がやると1体となってくるわけです。日本人がやって、なぜピアフができるのか、ということよりそれでできてしまうところにあるものがピアフの本質なのです。いや、ピアフのむこうにある人間の本質です。こういう歌もみんなに与えているのもそうです。それはみんなの力がないと、逆にまねるとわからないわけです。表面でなく本質で捉えると自分の力が何であるかと、何が価値かということがわかるのです。
ステージに立つと何もできなくなってしまうのと狭いところで3分間捉えて、3分間絶対離さないのです。これだけは見ててもダメです。これは見てなくて開かれていなければいけないという相反する世界ですから。スポーツで例えると、力を入れなければいけないけど、力は全部抜かなければいけないということと同じで、それを今度は音とか言葉のなかでパッと与えたもので取り出さなければいけません。ただいろんな学び方というのは、あると思うのでいろいろとやってみてください。とにかく自分がそこにはまっていなければ無理です。
自分で伝えたと思っても、伝わっていないときが多いわけです。ましてや、自分が何か違うなと思っているときに伝わるということは絶対にないわけです。それは正直なことです。ボクサーと同じでパンチを振り回していればよいというものでもなく、確実にヒットさせなくてはいけないときに、そのときの時間の感覚とか、そのときの自分の体の動きみたいなものを意識しなくてはいけなせん。
1曲というと、難しいですね。だからここでは4フレーズから5フレーズでやっています。まずそこで感覚をきちんとつかんでみて下さい。よい勉強になると思います。やはりこの当時の人というのは、基本があったと思います。
私は昔、越路吹雪さんとか、今は使っているような日本人のものは、レッスンで絶対に使いようもないと思っていたのですが、確かに歌ははずしてはいません。いい曲、悪い曲はありますが、伊東ゆかりさんにしても、何もビルラみたいに、声や体があれだけ強くないといけないのではないのですから、よいのです。しかし、それはそれなりに自分の音楽の構成と伝え方というのを自分のパターンで持っていて、100%は伝わらないにしろ、他の人間ではやれないような形での伝え方というのを持っています。そういうものを作っていかないとダメなような気がします。
シャンソンみたいなものは場を動かしていきます。ここで使うので1番よいのは自分の呼吸で取れるフレーズということです。自分が待って自分が動かせるです。そういう音楽というのは最近、とても少なくなってきています。こういうベースをやるのはよいと思います。
バンドが入ったときに抜けてしまう、といけないので、4段階も表現を違えていくようなことをやっていこうとしたら、難しいですね。4つに分けたらいけない。1つにとっていなくてはいけないが、その1つを4つにおきかえないといけないということです。そうしたら体の生理とか、感覚というものをかなりシビアにしておかないと対応できなくなります。
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【ミロール2】
「おいでよ、ミロール」音楽的な展開で入ろうと思いますが、自分で与えられたところまできちんと読むことと。そこで体と息を確認すること。それを実践で音がついたときに、ズラさないこと、より強く出して、よりきちんと切って、より離していかないと、表現の密度においてもちません。
いつもいっていますが、言葉でいう以上の表現を出していかなくてはいけませんから、そこで力を出しおしまないことです。
次にいきましょう。「かけなさいよ。足伸ばしてさ」のとろです。「何もかも おませなミロール不思議そうな顔しないでさ」このダッシュを入れたところは、楽譜では四分休符と四分音符と二分音符だけで、ほとんど四分音符だけでできているので、それをどう動かしていくかです。
「不思議そうな」のところで四分休符が入っています。そして「顔しないでさ」ここも四分休符が入っています。これは日本語のことじゃなくて、原語からきているところの条件だと思って下さい。原語でそこを四分休符であけているから日本語でもそうなっているということです。
次の「あんたは顔見知りさ」でもう1つ深く入ります、ここが一番深く入ります。そこで引き締めるとともに、次のところに出していくと。共に1番冒頭に戻るという役割をしています。ですから、構成からいうと、「おいでよ ミロール かけなさいよ 足伸ばしてさ」これが1つの前提のところで「何もかも おませなミロール」ここで作った流れを少なくとも「顔見知りさ」のところまで、持たせないといけません。そこでもう一度入れ直して、更に効果を強めると。その後は「私だもの」で1回終わる形を取ります。
こんな形でだいたい音感もリズムも、歌い手の呼吸に合わせて左右できるのです。だから体なり呼吸から声を捉えていく段階には勉強になると思うのです。普通だとドラムとかベース音が先に走っていますから、それについていかなくてはいけません。そんなときに体なんて使えません。
レッスンが直球勝負だとすると、たまにカーブが入ってきたり、たいして曲がらないですが、チェンジアップで上がったり、100Km/時になったり120km/時になったりします。それを取り入れたときに自分のフォームが乱れないことです。それと共に音の感覚のなかで、当然「あんたは」はどうなっているか。楽譜から少しずつそれていきます。ゆっくりになる「顔見知りさ」のところにどういうふうに踏み込んでいくかです。どこで詰めている。どこで離している。どこで置いている、そういったものは微妙に表現ということ、計算するのではなく伝えるために効果的に使われています。
そこは体で読み込んでいって、その感覚を出していく。それ以上、コピーしたり、マネしたりすると、今度は自分ものじゃなくなってきますから、そこが難しいところです。
いつもステージ実習定とかで構成とかができてないということをいいますが、そういう形でメリハリをつけ、単に読んでいったのでは、とてもつまらない曲になってしまいます。歌い手がみせるための工夫をしているわけです。その部分を体のなかに読み込んでいくことです。ある程度、声のところで揃っていないと、確かに動かせないのですが、なんで声のこと、息のこと、体のことをやっているか、というと、従来の日本人よりも表現できるための体を作っているわけです。
このヴォーカルにしてもこの曲に関してはものすごくきちんとできているわけですから、そこを感じてもらえればいいと思います。自分で動かすことです。自分の動きのなかでより有効に聞かせるためにリズムが入っていたり、音の感覚が入っていたりするわけです。音楽いうよりも、それだけ楽になるわけです。
もっと大きくいいたいとなって、その代わりにドラムが入ってみたりリードギターが入ってみたりするということです。まあヴォーカル本位の考え方ですが。その形を取ったところから入るからいけないわけで、ゼロから入ってみればわかりやすいわけです。
ポイントとしては「何もかも おませなミロール」のフレーズのなかで次の「不思議そうな顔しないでさ」ある意味、遊びです。ここのところで音楽的に展開させる。音に置いていく感じです。もう一度、それで浮き足立ってしまうといけないから、次のところでの引き締め「あんたは顔見知りさ」のところでぴたっと決めるのです。大きくふることです。そして最後のところまでいきます。そういった構成です。「何もかも」から、できる人は「あんたは顔見知りさ ミロール」までいって下さい。
これでこの曲が持つか持たないかが前半に関しては決まりますから、できない人は途中まででもよいです。いっぺんにやると音程が難しいかもしれないですが、とにかく「おませな」から「顔しないでさ」で1回切ります。四分休符はあまり意識しないでよいです。そういう意図だということだけ知っておいて下さい。
3つが同じように聞こえているのでしょう。「おませなミロール」「不思議そうな」「顔しないでさ」3つとも違います。わざと違わなくても、全部前に出していますから、その辺で捉えてもよいのですが、それだけ余力があるのならば1発目のところに全部持っていくべきでしょう。
「おませな」の「な」が強いですから、「ほとんど声量的には変わらないのですけれど、ただインパクトは全然違ってきます。「おませな」はここで放り出していますから。「不思議そうな」になると意味も「不思議そうな顔しないでさ」ということを伝えなくてはいけません。「おませな」のところは「おませな」といってしまえばよいのですから、あまり歌詞にとらわれたくはないのですが、つくりからいってもそうなるのです。次の「あんたは顔見知りさ」というところで戻りますから。
もう一度「おませな」から「顔しないでさ」までやってみましょう。同じところを3つ繰り返してもよいのですが、ただ、その繰り返しのところにスキがあると退屈してしまいます。次にどうくるかが決まってしまうのです。だから力を抜いたらいけないとか、どうこうよりも、例えば強弱強という取り方もあれば、強中弱という取り方もある。いろんな取り方があってそんな単純なものではなく、音の置き方も、言葉の置き方も違えることができる。自分自身のなかで、音楽的に持っていくのであれば徹底して音で持っていけばよいのです。「不思議そうな顔しないでさ」というところを若干変えてみてもよいわけです「顔しないでさ」をどういう言い方にするか、ということです。
いろいろなおもしろい音の取っ付き方をしているわけですから、その音の面白さみたいなものを自分で感じて、それで置き換えて楽しまないと、面白くもなんともないです。単に押していくだけの歌になってしまいます。かといって、体から離れたところで、何か煩わしいことをやってみてもだめだし、次に入れなくなってしまいます。そこが難しいところだと思います。まあ応用です。次に入れるか入れないかです。
「あんたは」くらいのところからテンポが若干変わってきます。「顔見知りさ」のところで踏み込むためにズラしているんですが、考えながらやってみてください。日本語をズラしていってますね。
後半、そのあとに関しては、とても単純にせいぜい「歩く私だもの」あたりです。ただ「あんた」に関しても「あーんーた」みたいな取り方はしてないです。その前の音のイメージ、そして次のイメージにきちんとつないでいます。「みなと みなと」あたりでは、ここまではまってきたら楽に声に出しているのです。そんなにたいして考えながら出しているという感じではないです。
「何もかも おませな」から「あんたは顔見知りさミロール」のところですね。そこをやりましょう。「あんたは顔見知りさ」のところは全然ダメですね。そこでの感覚も、要はそれまでやってきたことがここで台無しになってなってしまいます。それまでがんばってきたことをここできちんとまとめなければいけないです。
「あんたは」のところで練りこまなければいけませんし、「顔見知りさ」のところになると、息が上がってしまって、ほとんど吐けていないです。そのためにバットを合せて遊ばせなければいけないところ、「不思議そうな顔しないでさ」のところです。遊んで息が上がってしまったらいけないのですが、こういう部分のところで言葉なり、感情移入の方に表現の比重を移すことです。全部をメロディと体のラインでとっていこうとしたら、これは最後までいく間にどこかで力尽きます。
ただもっと問題なのは、「おませなミロール」に「な」のところが踏み切れてないです。それがきちんと踏み切れていたら「不思議そうな顔しないでさ」で浮かしてもなんとか通用するわけです。ただ全部浮かしてもいけませんが、「あんたは」というところはとても難しいです。感覚的に1つずれて入らなければいけません。そこでためないといけないのです。そこでためている分「顔見知りさ」のところで踏み込むわけです。速くするわけです。そして「ミロール」からは音符通りという感じですが、よく聞いてみて下さい。
後は「顔見知りさ ミロール」前後を考えながらやって下さい。音程は上がっていかず3度のなかです。音域があるとかないとかより、練り込みです。そのままでは全部そのままいってしまいます。特に後半に練り込めていないです。前半のところでためることもできていないのです。難しいでしょうけれどもよい勉強になると思います。
もう1回やりましょう。「あんたは顔みしりさ ミロール」最低限、音が取れるとか取れないとかというより、動かないことです。「タラタラタラ」と動いてしまうと何もいえなくなってしまいます。それを1つに捉えて、音の感覚のところで処理しなければいけません。ステージの問題なのですが、歌の時点で捉えるよりは、もう1つ上のステージで捉えればよいわけです☆。そこで全部のことを1回集約しておいて、もう一度持ち直さないとダメなところです。
歌というのはどんどん泳いでいきますから、泳いでいったら1回戻さなくてはいけないわけです。バッティングと同じです。もう一度構え直しますよね。それと一緒です。そこでまたフラフラしていたらしかたないわけです。そのフレーズが定まったところにバシッと入らなければいけないわけです。それは一番頭に戻るということです。
「おいでよ ミロール」と同じところに。本当はもっと深いのですが。 もう一度やってみましょう。「あんたは」がついているから流されやすいのでしょうけど、「あんたは」のところは、きちんとためていないとダメです。時間の感覚が他の場所と違うわけです。それを捉えていって下さい。表現の重さも違ってきます。止まらなければいけないところと、走らなければいけないところがあるなら、ここはきちんと止まらなければいけないところです。
「あんたは」で止まっておいて、いきなり加速して「顔見知りさ」で全開していかなければいけないです。その余韻で全部走るみたいなところがありますから、みんな等速と思っていますけど、音楽というのは加速と減速していくことですから、それができないと、見せるところがなくなってしまいます。
もう一度やってみましょう。「あんたは顔見知りさ ミロール」先にいきましょう。「港、港」から入ってみましょう。「港、港、渡り歩く私だもの」音程とかリズムのことは個人的に直してほしいのですが、表現するときにとがっていないのに丸めていったら、それは伝わらないわけです。プロでもここまで鋭角的に表現しているわけで、それが前提です。
パワーということも、まず相手に突きつけなければ、負けているわけです。構成とか音楽的とかいうことより、それだけのモチベートでは、それだけ前に出ていないわけです。その人の頭の世界でこんな程度だという形で丸めてしまっているから、しかたないのですが、それを自分で出したときに気付かなければいけません。
1回目に出したときはよいですけど、1回目にやったときにだらけているなと、こんなのでは客は退屈すると気付かないとおかしい。少なくとも1年くらいここにいるのであれば。そうでなければ鈍くなっているということです。それに気付いたら変えなくてはいけません。とにかく前に出てないと通用しないと思って下さい。「わーたしだーもーのー」こんなの誰が聞きたいかという話です。
声が出せる出せないよりも、その感覚をいっているわけです。それは間違えないで下さい。感覚は当人が直す以外、直らないわけです。人前でもじもじしている。後ろを向いている、私はうまく歌えないのですけど、といっているのと同じです。それで本人がいくらステージとか歌だとかいっていても、まわりの人にとってみれば退屈なだけです。表現というのは難しいのです。それが出ていて、はじめて丸めてみたり、加工してみたりいろいろなことができる。そこが楽しいところです。それがギリギリです。本当にギリギリのなかでやられていなければいけないです。
たとえば、こういう声のある人がある人、歌唱力のある人がそこの部分で手を抜いて、引いているはずがありません。相当前に出しているわけです。表現というのは前に出すものだということを知っているから前に出すわけです。前に出した場合についていかなくなる場合もあるのです。何ヶ所か失敗しているような所もあります。
この曲は比較的パチッとはまっていますけれども、出さない終わっててしまうと、お客さんには見えないわけですから、まだ出した方がいいわけです。その出すという感覚がどういう感覚なのかを何かで学んでほしいのです。そこだけは伝えようがないのでが、そのまま、2年、3年というか多分生涯歌っていく中で、その感覚というのをつかめないまま、終わってしまうと思うのです。どこかでつかまないといけないとしたら、こういう所でつかむほうが一番いいとおもうのです。
声からいっても、最後のところとか、いろんな関係はあります。だからといって声が聞こえているわけでもないし、音程が聞こえているわけでもないのです。いっていることが聞こえて、伝えたいということが聞こえています。そうしたらそれは少なくともこういう部分に関して作品としてなり立っているのです。
それが成り立たないということがどういうことかを、自分がやった作品から考えてみて、それを直す、それがトレーニングです。もちろん基本をやらなくてはいけないところもあります。素振りをやらなくてはいけない。でも今はトスバッティングあたりの部分と、どう打ち分けていくかということです。だからこの曲をやるつもりは全然なくて、この曲を通して自分の反射神経と、筋肉系と耳と感覚を磨いていけば、自分のやる曲になったときにそう働くためです。そうしたらそこのところで基本に反することをやってはいけないです。
基本に反するというのは発声とかベースのトレーニングもそうなっている人が多いから難しいのですが、結局そういうクセとかストレートでないところに自分で頼ってしまうことです。真っ直ぐ出てこないのです。普通に話していても真っ直ぐには出るのです。音楽になったときにそれが引っ込んでいたら、余計にダメなわけです。それを出している中でいろんな加工をするのは構わないのです。「歩く私だもの」「く」から「わ」にかけてのつなげ方とかでもそうです。
でも、その前に流れを作っておかないと、とてもそこでこうやったなと目立ちすぎてしまうのです。それが目立ったら最後、歌から離れてしまうわけです。自分の体が離れた、という意識が持てないとおかしくなるのです。だから、それをそうならないためにどうするのかを学びましょう。
今はテクニックのところよりも、その踏み込み方をきちんとしておくことです。踏み込んだら楽になるはずです。流れができます。流れのないところに流れをつくろうとすることほど難しいものはないのです。その流れをきちんと、止まるところは止まる、踏み込むところは踏み込む、ただ止まるといってもパッと止まっているわけではなく、それを呼吸のなかで感覚的に止めておく、それで次にどう取るかというイメージをもつのです。その修復、修復の繰り返しだと思います。
そういう意味でいうと、欧米系のは、これもフランスのものですが、それより難しいとは思いますが、逆に自分の体とか息とか表現からいうと、素直にやっていけばそれなりに歌になりやすいものなのです。絶対的な技術や、絶対的な声が必要だとか構成、声量がいるものではないのですから。カンツォーネとかモータウンの音楽よりも、やりようがあると思うのです。そこでのやりようを自分から離さないこと、自分のなかで違うクセをつけて、それをオリジナルだと思わないで下さい。そこが一番問題です。ストレートでないところはダメだと思います。その上で何かをやるのはよいと思いますが。
全体像はこんなものです。これで40秒歌っていますが、40秒感じさせないですね。あっという間にいってしまう。歌っている人間にとってみれば、それを4分間くらい歌っている感覚がなければいけないわけで、そこでいろいろなことをやっているわけです。パッと渡してこんな何千回も歌っているような人と比べるのも矛盾がありますが、そのときに全部とらなくてもよいから、1番肝心なところをとって自分に合わせることです。
その勉強は2時間をやらなければいけないということより、多分20時間やっても、200時間やってもわからないでしょう。だから、そのときにパッと直感的につかむ勉強をしていかなくてはダメだと思います。
そういう意味でいうと、1曲を半年かければわかる、とかいいますが、わからない人は10年やってもわからないわけです。そういうことでいうと、わかる曲でわかってわからない曲は捨てていくという考え方もあります。ここはいろんな曲を持ってきていますから、入りやすければこれでやればよい。やっていることは同じなのです。ステージ実習などに出てできないことをやらなくてはいけなくて、それが何か、ということを一流のヴォーカリストというのはみんな持っているわけです。声というのも1つの条件ですが、感覚のところで捉えるようにしていくことです。
もう一度最後のところをやってみましょう。「あんたは顔見知りさ ミロール 港 港 渡り歩く私だもの」ここの「歩く私だもの」も「歩く」のところで相当入れているわけです。その跳ね返りとして遊びのところがもらえるというくらいに思えばよいのです。
それを全部「あるくーわたしだものー」とやってしまったら「くーわー」と聞こえないし、音楽も壊れてしまいます。だから抜いているところではなく、体で入れてやっているところを勉強したらシンプルになると思います。
みんなの方が複雑です。要望したいのはこれくらいを1つに捉えるくらいの感覚です。そのためにまず流れを作らなくてはいけません。流れをつくるということは、それを全部つくろうとしたらムリなので、流れを作ってそれに乗るということです。だから作ってもいない流れに乗ろうとするから、問題が出てくるわけです。
これを4つとか5つとかで捉えていくと逆に難しくなってきます。その流れの捉え方も、きちんと捉えられるために「ハイ」とか「ララ」でやります。「ハイ」というのはきちんと、根っこで太く捉えるための方法であって、それを浅いところで捉えていたらできません。歌で10コも20コも流れをつくり、乗るという時間はないわけです。歌がつくるだけで終わってしまう。そうしたら全部単調になってしまいます。だからなるだけ今はそのこと自体を捉える耳を持つことです。聞いてみて、どこで1番大きな太さの流れをとっているのか、どこで展開しているのかを聞き込んでいくことです。
みんなが流れを同じ大きさで取ろうとしたら多分太さの方が取れなくなるし、太さを取ろうとしたら、それで動かなくなるから、どちらにしろできないわけです。できるということはこのことができるわけですから、それでよいのですが、できないうちはどちらが課題なのかをわけたり、両方やりながら詰めていけばよいわけです。
ある課題についてはかなりアプローチできるでしょう。音域が広くなってしまったり、伸ばす部分が長くなるとまたそれだけ難しくなるということです。基本的に「ハイ」と「ララ」というだけのことです。
「ハイ」「ララ」がここまで拡張できれば、殆ど1曲できたも同じです。だから難しいわけです。できてからまた難しいわけですが、今は明確になるのではないかと思います。耳の方を先に作っていって下さい。最後に一番勉強になるフレーズで選んでやってみて下さい。
波のつくり方と3分の曲なら3分で歌っていけないというのは「おいでよ」の4つの時間に4つを置いているだけなわけです。ですから先にいかないとしかたないわけです。先にいっててその余韻でまた戻ったりする。これを自在に楽譜から離れて自分のなかで展開していかなくてはいけない。
「おいでよミロール」でも言葉でいっても引きつけるという場合もあるのですから、それが音が入って、リズムが入って、そのテンポに合せて、となったらそこで聞いている人間の方が追いついてしまうのです。ですから先にいくことが必要です。それはテンポがアップしているということではないのです。そのことに対して表現が出ていればよいわけです。とても難しいのですが、そういうつもりでやってみて下さい。よい課題になると思います。