一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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レッスン感想

 

 

ハミングをきちんととる、ひびき。○ン・マー(まあーってひびきやすいのかしらん) ○ン・マーメー ○マーアーア ○ゲーゲーゲー/体をきちんと通って前、というか上、眉間にひびかす。前に息。唇とじるけど、口とじない、歌っていると同じ。ハミングをきちんととれるところ(音程)が、声でひびかすことができるところ。神経集中してチェックする。母音も同じひびきでとれるようにする。今までラクにでれーと無防備にハミングしてしまっていた。オバカ。「決定版」のON BOOKSの内容にも、何にも乗っかっていないことがわかって、こないだからがっかりすると同時にこれでもかって深いのでなんか笑けてきた。下にばっかり入れないで同時に上もひびかす。ここにきて芯をとることに気をとられて、しばらくの間損をしていた気がする(いちいちいわれなくてもできるカンないんかい)。ラードくらいを中心に一音ずつ開発する。確実性を高める(全然音域のびないのでキレる)。やっと整理できてというか、ぼちぼちわかって、つながってきた気がする。先生方はいろんな個性があるけど、アウトプットを考えて行かないといけない時期に今回貴重な切り口だったと思う。ある程度積み上げてから、ここに来れるとよかったけど、ここで1からやっている身なので、他の方法ないし、ひいてみたり、他の方法とったりの余裕ない。

 

よくいわれるここでの「2年間」だけど、自分は(退会しなかった)だけの2年で、今年はある種自分のなかのタイムリミットであせっている。他の子が曲に飽きて悪くなる頃にやっと調子出てきたりするので、それはそれで自分なりパターンをつかんどかないといけない。家でばたばたしているうちに出かける時間になって、しっかりと逆算して動けるからだにしておけないのは素人じみている。愛想わるくできないでつい惰性でしゃべったりしてしまうことがある(でも球筋の見えないT君は面白い)。

自意識過剰、ステージ実習の順番も一番でなくて二番目だったり、気持ちの弱さを見抜かれている気がする。体で表現する欲求。

息・声・からだの一致というのもまだ、自分のなかで確信が持てていない。そ~ゆ~ときってもひとつ空しい。“ハイ”とかもすぐわからなかったから、ふと(これが正しい)と思える瞬間がくるのだろうか。

 

福島先生が(ハイ)で2年かかってもいいです”というのを、受けねらいで話を面白くするためにオーバーにいっているんだと思って本気にしてなかったが、ほんとうにかかったのでびびった。

トレーナーの話し声はすごく聞き覚えがあったので考えてたら、プロスポーツ選手だった友達の声にそっくりだった。共通の原理があるらしい。生身の体を業とする人の男前の声だった。自分にはない類の大人さだった。

 

五秒(十秒)吸う→止め→吐く ○ろうそくを吹き消すイメージ、ひょっとこみたいな口で吐く(ふう~) ○ウ~、ウ~ぁー、ウ~ぁーウ~ ○(ふう~)ふぅ~ンー/吸ったり、止めたりするとき、思いっきりやらないと、止めるときの体の不自由さがよくわからない。今までだるいことやってたんだなぁートホ。ふぅーンーの見本をするときの先生は、一歩前に出る感じで、お腹まわりがふくらんでいる感じがした。

ヴォイストレーニングは<のどを解放する>という一言に集約される。音色というのはその人の骨格に委ねられるので実は決まっている。

 

声量というのは、息の強さとひびき(共鳴)で決定される。全身で共鳴している声はだみ声でも耳に心地よい。ひびきやすい→リラックス、体の解放。本来のひびきを邪魔しない、余分な体の力がはいったところに吸収されてしまわないようにするのがトレーニング。

 

“声が前にとぶ”。一本にもいろいろ書いてあって、いろんなレッスンを受けて、息はきして、ぐだぐだアテンダンス書いて、眉間にシワ寄せながら会報読むけど、何年の訓練を経て、何万語の言葉の介入を受けようと、すーごい単純明解なことではないか、単純なこと、ざるには無数の穴があいているけど、ざるはざる。ラーメンスーブはしょうがもねぎも入れるけど、スープだし(あんまり接点ないなー)、でも秘伝のだしをつくるのに苦節10年だったりする、ざるやスープにもクオリティがある。ステージ実習映像の自分の声聞くと(つまんねー声)とか思ってしまう。特徴がない。退屈しない美味しい声になりたい。

 

歌詞から感じてイメージして、それを読んで伝わるようにする。とにかく強く感じて強く出してみる。まず最初に自分でやったときは悪くはないのだが、メリハリに欠けていたような気がした。言葉が詰まったり、不自然になったというのはなかったのだが、一定に流れていってしまった感じだ。ここでメリハリをつけようと安易にやってしまうと、みえすいた計算になってしまうので、イメージが自然に展開を生むようになることが大切だ。2回目にやったときはうまくイメージのなかに溶け込んで、それを音に変えて出せた気がした。自然に展開も生れてメリハリもつけられた。こういった感覚をいつも出せるようにしなくてはならない。

 

ここのチ行に限定したイメージならよいが、歌詞全体から考えると、少しつながらないイメージだったかもしれない。とにかくバッとイメージしてバッと出してみる。そこでうまくいった場合はその感覚をキープしておくこと。うまくいかない場合はその原因を追求して1コ1コ外していくようにする。言葉で表現できないものは歌ではなおさら表現できない。歌の流れに乗ることでごまかしがきいて形でもってしまったりするので、気をつけること。いくらみてくれがよくても、表現できていなかったらしかたない。

 

イマジネーション。アイデアを盛り込み、イメージを伝える。歌詞にしても歌詞を伝えるのではなく、そこから感じるものを伝える。だからまず感じていなければ、伝えようがない。まずそこが必須条件となる。そうしたらそれをどうやって伝えるかを考えなくてはいけない。ただ気持ちこめればいいというものでななく、実際にそれが伝わっているかを客観的にみなくてはいけない。自分では伝えているつもりでも、音がそれを表していなくては意味がない。

 

音色、フレーズの動かし方、間などで自分のイメージを表しきる。相手がいるということを、明確に意識すること。そうしないと声がひっこんで前にでていかないし、ひとりよがりな思い込みで自分自身を固めてしまうことになってしまう。感じてそれがどうしたらうまく伝わるのか、どういう音ならイメージを表せるのか考えてやってみる。かといって計算してやらないこと。計算をすると感情が死に絶えてしまう。感情と意図のバランスを取ってもっとも効果的に伝わるようにする。もっと相手がいるということを意識しなくてはいけない。どうしても声を出そうとか、歌おうとしてしまうところがある。話して伝えようとするとこと同じ感覚にする。歌という形でごまかさない。イメージを持っていても声を出そうとした時点で、ふと、消えてしまうことがある。しっかりイメージをキープして、音に練り込んでいくこと。伝わる音色、イメージを表す音色にすること。もう少し大きくイメージを出していくつもりでやれば、違うはず。

 

1~8までリズムを先にみて、意識を最後までコントロールする。頭で考えないで、体で数える、ということが、はじめはわからなかったが、だんだん息をはいて、体を使って数えていくうちに、意識することは少しわかった。息を深く長く吐ききるということができない。最後の最後まで、意識するということが大切だということが、今までは頭でわかっていたが、体で少しわかった気がした。レイニディといったあと曲を聞きながらやると、呼吸も合うのだけれど、曲がなくなったとたん、その空間の間が音楽が体に入っていないので間が合わなくなる。それにリズムだけ聞いてやると、余計に数えてしまい、とても不自然。曲が流れないで、できなくなる。

 

今日のレッスン内容はとても効果的だったと思う。(今までもわかりやすくして下さっていたのに、気づいていなかったんだとおもいます)わかりやすかった。リズムを先に息だけで(体だけで)意識してから、曲をかけてやったので、なんとなく先生のおっしゃっていることがわかった。それに今までアーティストは音楽が体に入っていないとだめというか、音楽を奏でるには、何十倍何百倍も感じてないとだめだとよくおっしゃっていた意味が、そうか、“すごすぎる”どこまでプロが感じているのかが、少し見えた気がした。“ばけもの、きちがい、人間とは思えない”。見えない世界が少しでも見えるようになるとうれしく、何度も才能はないんじゃないかと思ったりもするけど、やっぱりやめられない。

 

進行がやっぱり早い。3回くらい聞いたら、もうやらなきゃならないのでつらい。ただそれぐらいの方がいいときもある。この場合よほど集中しないとフレーズができる状態になれないのでそこがいい点。反省しなきゃならない点は、自分より前の人のフレーズがほとんど聞けなかったという事実。もっと早くフレーズを覚える必要性を強く感じた。がんばるのが聞き手に聞こえてしまうのはダメ。客はそんなの聞きたいはずがない。表現を伝えることは誰にでもできる。みんなはそれをやろうとしないだけらしい。言葉とか、そういうものをいろいろやってきたけど、結局、心のこもった声は音色も変わる、ということだ。音色も変えるためにはイメージを最大にしなきゃならない。それにはメロディやリズムにとらわれないことが大切。だから、言葉でやる。

 

なんかいろんな謎が解けてきた。そして言葉の練習の大切さも少しはわかってきた。もしかしたら、この考えが間違いかもしれない。そうじゃなくても他の人なら私より早く、とっくに気づいてたかもしれない。そう考えるとちょっとつらいけど、気にせず進もう。言葉を一つにするという時点ですでにひっかかっている。一音一音バラついてしまわないようにすること。イメージを豊かにする練習も必要。というよりこれがむしろメインとするべきではないか。一番できないものがこれなので、これをできるようにすることが一番早い上達の道だと思う。当然毎日息吐きをすること。音楽も聞くこと。やらなきゃいけないことはたくさんある。

 

まわしたのは2度。もう一度回してと思いつつ、レッスンは終了したのだが、反応の鈍さが悔しい。レッスンの最後に先生が一言「それと即座に反応できるようにね」偶然だと思うが、自分にとっては絶妙のタイミングだった。先生は沢山のことをおっしゃっていたが、そのなかで今の自分にひっかかったものは、呼吸について、自分が自分の呼吸、感覚を知っているとフレーズは決まってくる。というもの。今までにない「こうかな」というものを感じた。今回はのどが少しヒリヒリしている状態でのレッスンだったのだが。まあそれは関係ないかもしれないけれど、1フレーズ歌って、それが自分のイメージと違い、声がスカスカしている感じがした。音程もこういきたいのに、実際はのぺーっと平たくなってしまう。もっと今の自分に合ったフレーズがあるのではと思い、レッスン後に「ああ。ああやればよかった」などと道を歩きながら手をたたいてしまう反応の鈍さにもつながる。

 

「ミルバなら、レイ・チャールズなら、どうするか。で、それをやってみる」との先生の言葉。これは今まで自分は、まねはいかんと思って、まねにならないように、という意識があった。そうやってフレーズに対して接していた。まったく頭だけで固くなっていることだと思った。実際、自分でやっていて、集中ができて「オッ」と思うときは、そんなことはまったく考えず声を出しているし。

 

今回のクラスは声や歌のことではなく、それに対する意識や心構えといった精神的なことを話すというものだった。まず、4人いて、一人ずつ歌うということになり、一人ずつ好きな曲を歌った。ここで客4人で好きなことやっていいよという場をもらったわけだが、その大切さは後になって感じてきた。このレッスンは根本的な思想みたいなことを扱っていたので、後々じわじわくるということがほとんどなのだが、このときも、その場、時間をどうとらえただろう。

 

トレーナーが最初に「皆さん、一人ずつなんでもいいから歌って下さい」といった時『えーっ』と躊躇する気持ちが出た。『何でもいいからっていわれても、何やろう』と困った。やるからには、ここにいる人達の心に何か起こしてやるという気持ちはあったのだが、全然ぬるい位置から思っていた。あとからだんだんとあんな絶好の場をもらい、何だかサラッと時間を過ごしてしまってもったいないことをしたと思ってきた。ヴォーカリストとしてありたいなら、何がなんでも、何か起こさねば、ここで何もできなかったら殺される、というくらいの気持ちで、あの場にくらいついていかないといけない。そして、その手段に、なぜ歌を選んでいるのか、常に問い続けていきたい。

 

感覚―体―声―呼吸―歌―ステージという組み立ての順番に、本当はできてあたりまえのことなのだが、自分は感覚、体、呼吸、声、全てできてないのに歌おうとしていた。とても無謀であると思った。先生の話を聞いて集中力の大切さについて、あらためて考えさせられた。1球しかなく、後がないと考えるのと、まだ4球残っていると考えるのでは、1球の持つ重みがまったく変わってくる。歌、ステージだけではなく、このことは毎日の日常生活でも同様で、考え方1つで集中力、結果までも変わってきてしまうことを学んだ。

 

すぐれたアーティストの歌を聞いても、ばくぜんとしか歌、声のすごさを感じられない。そのなかで1つでもそれが何かを見極め、自分との接点をみつけることの大切さを感じた。感覚というものがなんであるかわからないが、よい曲を沢山聞いて、そのなかから感じ取れたところを1つでもみつけ、自分と結び付けることで、磨かれるのではないかと思った。

 

最終的には、体を自由にすることが目標。にぎっている限り絶対崩れない部分をもつこと、自分の声の届く範囲を明確にイメージする。天地、左右、前後、それぞれに意識をおけるように。(体を動かしながら声を出したりすると視界が開けることもある)いい声が出るかではなく、どれだけ集中しているかどうか。集中しながら毎日声を出すこと。単調な音階練習だからこそ、集中し、どう出そうか、声として感じられるかどうか意識を配る。下がってくるのに安心して声のテンションが下がるのはだめ。動きを用いて、流れずにポイントポイントでしっかり踏み込めなきゃだめ。流していると、ただ忙しそうに見える。歌もこれと同じことがいえる。しっかり踏み込めないと忙しく見えたり、流れてしまうという感覚はよくわかる。早口言葉もそうだろう。

 

声の場合、踏み込むというのは深く捉えるということだろう。以前うまくいえず流れてしまった早口言葉の歌もいえるようになっていることにあるとき気づき、深くなってきたのかなと思った。もっと集中できると思う。最近集中力が弱まっているように思う。自分を切り替えるスイッチが半押しぐらいの状態だ。最近フレーズの感覚が少しつかめてきた。

 

先生のいつも書く“・”この線が見えてきた。自分の歌を聞いて、「あ、ぶつきれだ」とあるとき目の前でバッ見えた瞬間があった。「息が足りない」と体が感じた。―フレーズをつなごうと意識しても言葉がうやむやになる―ああ、浅いんだ、と知ることではなく、感じることができてきた。私にとっては大きな進歩。必要度が高まってきた。がんばろう。

 

フレーズ・構成 曲の構成をしっかりと聞く。聴衆レベルに聞いて、感じて、出してはだめ。微妙な差だが全然違う。という感覚を持つ。それが音楽のなかでやるということ。また、自分で巻いていくリズム感覚。音程によって離れてしまう、バラついてしまうところはどこか。「声が聞こえる」というイメージを音程に乗せる。頭の二行で曲を始めなくてはならない。小さな起承転結をこのなかに流れとしてつくりたい。どこで強まってどこで落ちているのか。見失ってはいけないところ、音程が難しくても外さないように。フレーズの流れ、つながりを感じる、次のコードを感じで、予測して、準備すること。しかしあせらないように。客の感じたい、入りたいところ、期待通りに展開していく。高い強いところこそ、もっと大きく、そっとおく。

 

場面をはっきりと変えたい。自分がイメージしても、はっきり伝えるためには訓練が必要。盛り上らない。なぜか。発声、イメージ、フレーズのくせ。何かの欠如。しかし、もっと大きなイメージ出すべき。どういう風に呼吸をとってもいいが、もっと体と息を入れる。形を整えるために軽くしないこと。それではもたない。フレーズの持つ人。なぜかを自分置き換える。例えば展開のときに体がどうなっているか、準備、余韻を感じてみる。声を出すのが大変なのではなく。何かを込めるため、キツくなる。一番よくないのは何も起こらないこと。歌と体が持っていこう、いこうとしていると、少しキツそうに見える。でもそこに人は引付けられる。声が変わるのではなく、内側が変わっている。型にはめるのではなく、本当は自分が感じたように作っていく。フレーズの展開、フレーズのつなぎ、構成には徹底した解釈と読み込みが必要。

 

どう出るか、何一つ定まらないまま当日がきた。あとはその場の感覚に委ねるしかなかった。家で素でやるよりよくなかったらおかしい。映像観てみないとわからないのもあるのだが取りあえず。ステージの私は全然歌っている人の心境じゃなかった。考えながらしているみたいで、勢いがなかった。また眼がパチパチしてたかも。落ち着きのなさから我慢できず、単にせわしく悪い意味で前に(先に)走りたくなったのでは。2曲目の頭しっかり準備できたか。与えるにはほど遠い心身のフォームではなかったか。いつもよりライトが素で客席が怖かった。

 

課題曲は「りんご~」の音色に臨めそうになかったので、初めから0点の気がしていた。器がない。今回感じたのはもし自分が(ヴォーカルでない)ことがイヤなのだったら、もうここで刀を振り下ろすしかないのではないかということ。声の地力がない。不自由そうなのも、苦しそうなのも、一所懸命さをアピールするのも、わざとらしいのも、固いのも、聞くに耐えない。

 

音が伸びないといってから、いったいどれだけ経つのか。原因の4割くらいに、致命的な運動神経のにぶさがあるのではないかと感じた。身体的欠陥を面と向かって当人に指摘するような人は、よほどでないといない。運動神経は集中力にも起因するが。できないと思ったらできないので気持ちの強さや覚悟や怒りがいる。がしかし、歌にはいろんな要素があるので、自分でも目をそらし、認めず、誤摩化してきたのではないか。入門とか10代とかの人にはこんな無粋なこといっても当てはまらないけれど。

 

子供の頃は、父親、母親、学校の先生などの大人は自分に与えられた肩書きに何の疑問もはさまず、役目をまっとうしているのだとばかり思っていた。作家の遠藤周作さんが、自分が作家になれたのではなくて役者になれなかったみたいなことをいっていて(アホちゃう)とか思っていた。人間の中身や精神など、大人も子供も変わりなくて、そんな人間が大半なんだろうか。そんなに焦点合わないものだろうか。叔父も未だ自分が何やりたいかわからないみたいなことをいっていた。50を過ぎても、60になっても探しているのか。

 

続ける意義とか、ひとつのことを極めることの道の深さ、先達の人間的な深さに触れられる幸せ。が、しかしである。このまま4年、5年経ってしまうことなんて有り得ない、不毛過ぎる。その場その場を、そのときどきの器で、ひとつひとつクリアしてこそ出続ける意味がある。初心に帰らないといけない、レクチャーでの興奮とか、自分のなかの電流とか、10代の世の中にぶつける怒りみたいなのでもいい。それを一生持ち続けるということ。さすがにこの齢になると、もうこのあと(何か)を見つけることなどないとわかっている。好まなくても、生活が降りかかってそれだけでも充分すぎるくらいだ。(最後)を思い浮かべる。やたらと処分癖、整理癖のある自分でもなぜか怖い、慎重にならざるおえない。見据えた上で今一度よく音楽と向き合ってみる。

福島先生の全体評はいつになく大人だったが、本当は失望で体が重かったのではないかと思う。

 

 

7月の合宿映像を見た。Kさんは、1番目のソロパートだけはC班のレベルだったのではないかと思った。声がややそれるのは集中力のような気がした。自分は立ち姿もポーズもウソくさくて、姿勢もよくなかった気がした。勘違い。Sさんの「エリー」はちょっぴり錦織さんみたいだったかも。それは我々にも責がある。Uさんのフレーズは個性がある。短く切るのはいいとか、悪いとかはないのかもしれない。Nさんは間違うときも豪快にハァ〜と間違ってて気持ちよかった。

4月のときも、課題のシャンソンカンツォーネを合宿のあるなしに関わらず叩き込んで、入ってて、差を思い知らされた。ハーモニーがキレイでなかった。先生の簡潔なコメントがあったが、いかんせん自分に要(かなめ)になれる自信など心のなかを探してもなかった。

 

9月に集中があるという。MCやら、ステージということを念頭において1からという趣旨はわかる気がした。三日目にオーディションをおくのだそうだ。場の切迫感の助けを借りて、カンのいい人なら化けて出てくるかもしれない。或いは歌唱力とは少し違った魅力を取出すことに成功するかもしれない。NNNN。合宿映像を見て、ステージ実習もだけど、先生以上の野心を持ったメンバーがいないのが奇妙な感じがした。

関西ライブ実習が始まったころ、個人的には盛り下がってたけど、KYOTO的には今よりもっと盛り上がってたと思う。主要メンバーとおぼしき人が尊敬や羨望を集め、あるいはコンプレックスを抱かせもしてたと思う。あれは理想を追いかけての切磋琢磨なんじゃなくて祭りの興奮、(ダンス甲子園)のノリだったの、(なんや)って、少し拍子抜け。人間ってじっくり見ないとわからない、いかんせん長期戦なのかも。考えようによったら死ぬ迄答え出ないもんね、そんなのまっぴらだけど。

 

今ライブに集まってくれるよな若い女の子って、3、4年もすれば大半、彼氏のひじつついて結婚しちゃって見向きもしなくなるし、CDなんかにオカネ使わないし、トウがたって可愛くなくなるし。今を代表する携帯や、Eメールの文字メッセージって、“手紙”じゃなくて、“マンガ”とか“キャッチコピー”に近い。本音をデフォルメして軽みを演出する。親友ってできにくいかも。大人の親戚付き合いじゃなくて、思春期にその労をとるのはなんかもったいない気がする。インターネットもキーワード入れて検索しても、結局は大した情報入ってなかったりする。昔「お酒」が目当てで通ってたバーで、ときどきライブをしてた。大阪が拠点の男性だったけど、客をくったMCとか、なめたステージとか不愉快だった。追っかけのコに(しっかりせえよ)とか思ってた。音楽で生活してても、ちんぴらな感じがして、あんな奴いややと思ってた。マスターも同じだったみたいだ。

 

今まで振り返ると、朝から晩まで仕事していたときは、気持ちの切り替えとかがうまくできなくて、そればかりでないが、最低限物理的な時間が必要なのもうなずける。気持ちに余裕があり、歌うこと(声を出すこと)に積極的ではなかったが、(赤字も省みず)ひたすら映像を見て、しばらくたってからのときが、何か落ちてきてくれたみたいで(ステージングのイメージトレーニングとか)、イケイケ気分のときより、今までのなかではましだった気がする。そういうものなのかも。あんなん一時のことで、そういつでもはできひんと思ってたけど、いつでもせなあかんのかもしれない。それプラスアルファ技術を積み上げて、だから今までの2倍、3倍の時間やら何やらとらないとONできないのかもしれない。専念するためには、生活をクリアする智恵がいる。悪智恵を巡らすのは、やぶさかではない。ころころ、ぐだぐだ言葉を転がしているうちに、ちょっとは考えがまとまってきた(ワープロはとっても便利でカンドーだけど、語句をいじくり倒し過ぎてわけがわからんようになる)。

 

1.Tさん―きっと体も弱くないし、センスも悪くないのかもしれない。もっと緻密にやればいいのに。課題曲はあいまいなところもあった。

 3.Aさん―出だしの音は外したけど、音程前よりよくなったと思う。リズムはちょっとベタッと置いていた。伴奏がつくときもピアノ同時だと遅れているみたいに写るので、たぶん自分でも課題に思っているかもしれない。

 4.Kさん―会ったときからけっこう歌えてた。ひびいてた。アラを見逃してしまいがち。淡白に聞こえるかも。言葉がとんできた方がいいかナ。

 5.Tさん―音程とかリズムとかの周波数。録音で確認した方がいい気がする。

 7.Kさん―今まで私のまわりにこ~ゆ~声の人いなかった。すぐ声出たんだろうか。なぞ。課題曲ムツカシかったのでいつもよりは飾りがあったかもしれないけど、こなしてた。笑顔がスッと出るところ。ライトが当たらなくなるまで持続しているところ。

~でもホントはよくわからなかった。無理から書いてみた。ひねり出すと何か出てきたりする。1今の自分にできること、2あるいは他の人のためにできること、3将来の声のために今やること―太い息を流せるようにする。音域は意識しすぎると固まってしまうので歌の習作のなかで自然と広げられるのが理想。巨人の星ミレニアム。関西ステージ実習。

 

ステージ実習のあとでちょっと(ぽぉ~)としていた。息を吐くことで声に(厚み)を出す。ハミングはひびきというより、ポジション離さず息吐く、支えってことでトレーナーとニュアンス違って聞こえた。最近、目の下とか顔だるい。現代は更年期障害も年齢関係なくなってきているらしいし。トレーナーはお風呂でマッサージするといっていた。筋肉痛みたいなもんっていってた。

“あ~”を真っ直ぐ出すのと、クレッシェンドにして出すのを回したけど、今もよくできない。まわすとき初めの人につられて、高くなっている。(音がとれない)というのは、ソルフェージュをやってないということでなくて、“ハイ”でとっているところの声をきちんと体でつかめていないということ。なめらかな線を描く。息を吐いている実感。息の支えを感じ、一点を太くしていけること。声立て→息と体と声が集約。

 

「ラノヴィア」の(ア~ベマリィーア)も回した。このフレーズレッスンでいってたやつだとかって頭回るようにならな。練習のネタ見つけな。集中力足りなかった。よくわからなかった。帰り、S先生と行き違いに帰ろうとしたT君を呼び止めたとき、「Tくん」って大きな声が出た。目的を持った、意志のある声だ。伝えているやん。

 

最近、自分のフレーズの構成の弱さが気になっていたので勉強になった。また、グレードの低い人も多く、フレーズの持つ人、持たない人の差などをはっきり感じることができた、なぜ持たないのか、というところをもっと詰めていきたい。

 

いろんなこと、いろんな大切なこといっぱい先生はおっしゃってくれる。それなのに、まだピンとわからないこともいっぱい。せっかく先生がいってくださっているのに、わからない自分が悲しい。でも一所懸命一所懸命、先生のおっしゃることを吸収しようと思っている。でも最終的に、心を大切にしたいですね。私自身の心を磨いて、そして人の心に残る。暖かい感動を与えられるようになりたい。