一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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【合宿前夜祭 特別レッスン】

 

【「取り組み」】

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【合宿前夜祭 特別レッスン】

 

 特別ということで、さわりの部分だけやっていこうと思います。前回のやったことはあれでよかったと思うのですが、次は小規模に音だけのことでやっていこうかと思っています。あまり日頃、使っていない教材です。研究所で使っていたものは、かなり声や体の力があって、楽器としての完成度が皆さんよりも高いといわれている人たちのものです。逆に同じ歌を歌ったときに、日本人が外国人の歌を歌ったときと同じような言い訳ができてしまうのです。 

「まだ楽器ができてないから、まだ体が強くないから、まだ声が完全にコントロールできてないから」歌にならない、というようなことです。

 

そういうところで勝負していないヴォーカリストというのは、感性が必要です。でも難しいのは基本的な技術のないヴォーカリストになってくると、好き嫌いという価値観が大きく入ってきます。 

そういうのも含めて、好きなファンがついて嫌いなファンもたくさんいるということは、何らかの感性が強く働いているわけです。そういう曲を集めてみようということで、一昨年あたりにポプコンの曲を集めました。それでもかなりしっかりとした基本の力がありました。

 

 取り上げるのはプロですから、それなりにどこかで勝負している題材のあるものが多いです。さだまさしさんの作品はここで取り上げるのはこの曲だけですが、その辺から入ってみましょう。 

 

 

「フレディー」 

「フレディー、あなたと出会ったのは」 

 

スタジオに行くと、もともと声量のない歌い手をみます。皆さんよりも声量のないヴォーカリストが1曲歌うわけです。そこで大きな声を出せといっても出ませんから、マイクの使い方のコントロールと、その人の感覚だけを取り出すしかありません。 

皆さんがそれぞれ聞いた中で、音楽になっている、音楽になっていないところ、どう考えても鈍いところ、そして、いろいろな声が出ます。 

だから純粋にそこの部分をやってみようかということです。そう入っても歌い手はある程度、声量を抜きにしては語れないところがあります。

 

「夏模様」  

「最後のニュース」

「氷の世界」

「青空一人きり」

 

活躍しているアーティストの昔のものを取り上げているのは、ひとつ理由があります。

結局10代から20歳そこそこでデビューする、そのときは日本人ですから、体が完全にできているわけではないのです。さして、皆さんの条件と変わらないのです。

 

 でも音楽になっています。それは音楽のつかみ方、理解度、感性、感覚、出し方のせいです。当然くせをつけたり、いろんな色をつけたりしていますが、それをまねするのでなく参考にしてください。なぜ通じてしまうのかということです。

 

 

「楽しいことならなんでもやりたい」

「何かを大切にしてしたいけど」

「結婚しようよ」「僕を忘れたころに 君を忘れられない」 

 

こういうものは単純で、ある種の鋭さをもっていないといけません。感性のよし悪しというのは、音楽に関しては鋭いかどうかです。要は、われわれの場合は相手のなかを見るために読みこんでいきますけれども、読みこまなくても、それが、その人を離れて、作品として独立したものとして飛び込んでこなくてはいけません。そういう意図でやっていかなくてはいけません。

 

 楽器の完成度というのは確かに支えとなるものですが、ここで半オクターブや1フレーズで可能なところをみつめるためです。やっているということは、その一言さえ扱えないはずはないのです。10代の人でもその条件は持っているわけです。 

歌い手は何も30、40才にならなくては歌えないのではないのです。それは、体だけで問われるものではないのです。 

 

 

直す方法というのはひとつしかありません。まねをしてもよくないです。 

そのイメージをつかむということと、それを音にするということと、それ以外での間違いはないのです。イメージの段階で間違っている人がとても多いと思います。そうしたらヴォイストレーニングをいくらやってみても関係ないのです。声が出てくれば出てくるほど、声が自由に出れば出るほど、歌が不自由になってしまいます。

 それは本末転倒でしょう。当然、表現を出したり歌をやるためにそれをやっているのですから、その辺はシンプルに考えてみればよいのです。 

 

歌と楽器の一番の違いというのは、歌は日常から使っている言葉の延長上にある、あるいは音声の延長上にあることです。子供がぎゃーっと騒いだり、泣いたり、怒ったりしているその延長上に歌があると捉えればよいのです。 

 

そうすると言葉も関係なくなります。そこまでに自分にとって必要な期間はあります。ただ音楽的感性ということで、それが完成度が高いかどうかというのは別の問題です。今日使っているものは、いろんな意味で作品としての完成度は高いと思いますが、音声としては、デビュー当時のものですから、そんなに高くはないと思います。

 

 

「曇りガラスの窓を叩いて 君の時計を止めてみたい」

こういうところは、明らかに伴奏を聞いたら、はみ出して作っています。だからこういうものを勉強するときは、まず1回原曲どおりに戻ってから、自分で変えたいように変えることです。こういうふうにもともと作られたものではないのです。それは楽譜を見なくてもわかることです。それをより変えてしまってはよくないのです。

 

 歌い手の個性とか、その人の嗜好でとり入れていることをそのままやらないことです。本来であれば、よほどのことがない限り、普通に歌っていた方がよりすぐれて聞こえるはずです。もちろん、この人の歌をこの人がどう変えようが構わないわけです。

 

 集団としてどうこういってもしかたないのですが、いくつもある表現のなかで、どうしてそういう一番伝わらない、一番おかしな表現を選ぶのかということです。 

 

 

いろいろなレッスンを受けて、いろいろな勉強をしている、でも、何も勉強していなくて、歌もこなれていないタレントの歌の勢いとか、その伝える意志とかに負けてしまったら、歌は成り立たなくなってしまうのです。本末転倒してはいけません。

 

リズム感でも、音感でも、発声でも、音楽でも、その勢いなり、意志なりがないところに、あるいは自分の心の移入がないところに、なにも乗ってきません。

 聞こえるのは口先にとってつけたようなものか、声が少しある人は、そこに声を入れようという意志だけです。 

断片的にしかやっていませんから、1曲全部をわかれというのは無理でしょう。しかしそれを突き放して聞こえてくるものを、原点のところにおくことのです。 

 

そうしないからおかしくなってしまうのです。できることと、できないことがあって、今やらなくてはいけないことはできることです。できないことは、なるだけ取り上げないようにしています。ただ、こういうものを聞くことでかえってだめになることもあるので、あまり取り上げないようにはしているのです。これを使っている意味を考えてみてください。

 

 

「What a wonderful world」 

皆さんには40才を超えたこの人の集中力や体力もなければ、声の状態も悪いです。同じ5分でも、彼女が歌った5分と、皆さんが1フレーズずつ回す5分のどちらを選ぶのでしょう。音楽的な感性も作品も、意志がなければ、どうやろうというのがみえなければわかりません。

どうやろうというものがあってそれができないのは失敗といえるのですが、それがない、みえないというのは失敗も何もなくて、とりあえず自分で考えなさい、自分でつくりなさいということです。これを繰り返しいわなくてはいけません。

 

 皆さんのレッスン、合宿でもそうですが、テンションが下がっていきます。この前の自己紹介ライブも、質が下がってまわりと仲よくなることを面白がっているというのでは、こんなところにくるのはお金と時間の無駄遣いだと思います。それが慣れになってしまうとよくないです。 

まだ10代の人とか、入って1年目の人にとっては、ここのこと全部が新しい体験ですからよいのですが、それを超えている人の場合は甘えたらいけないと思います。 

 

はっきりいって、15、6歳でできるようなことを25や30才になっても一瞬たりとも出せないというのは、才能とかプロということではなく、単に心構えの問題です。 

研究所にいることも、こういうことに出席することも自ら価値を生まなくては何の価値もないのです。価値がついたときに、そういうものがそういうところで少しは養われたということであればよいと思います。

 それは人の作品だからできないとか、ぱっと聞いたからできないということではないわけです。人の作品を使っていつもテンションを高めながら、やらなければいけないというのは悲しいことなのです。

 

 

「デスぺラード」 

そんなに難しくないものです。いつもレッスンで扱っているものからすると、やりやすいと思うのです。しかし、それを目標にしてしまうと、それよりテンションが下がるか、あるいはそれより悪い作品になるのはあたりまえです。 

その本質的なところを読みこみ、声量でもメリハリでも、数倍に自分のイメージでもっと拡大しておいて、ようやく出たものが同じくらいになるのです。

 

 プロといってもそれほどすごいプロばかりを使っているわけではないのです。それ以上のものを出せてもそんなにうまいといわれないのです。自分のやっていることが、まだフィードバックできていないのです。自分の声で何をそこで起こしたのか、それでは練習になっていないと思います。 

結局みえていない、鏡をみていないということです。そうでなければ、よほどのんびりと考えているかです。 

 

個人的にも注意しているのですが、2年くらい経ったら直ればよいと思っているから、毎月同じことばかりをいわれるのです。仕事ならどんな人でも次の日に直すでしょう。その日にいわれてやっても、すぐに直らないのはしかたないのですが、どうもそんな感じはしません。

 

 

 ステージ実習も1ヵ月単位であります。次の1ヵ月で直ればと思っても直らないものです。年間のを全部みてみたら、たぶんいわれていることは同じでしょう。それは他のトレーナーも思っていることです。

 今度もオーディションがありますが、7名の評価をみてもだいたい同じです。この前の合宿の評価でも同じことをいっています。みんなで示し合わせたわけではなく、ある基準でみれば同じなのです。それは自分で徹底して直さないと直らないと思います。

 

 

「真夜中のギター」

「愛をなくして 何かを求めて」 

 

それぞれの段階がありますから、時間があればもう少し細かくしようかと思いますが、人は指導されても直らないものです。指導されたら指導されたなりに悪くなってしまうのです。そういう例をずっとみてきました。要は自分で気づいていくしかないのです。

 

 目的があなた方のなかで明確になっていないのが第一です。1時間歌ってそれを録音して、自分で聞いてみて面白いと思うか、しんみりして心に染みるかからでしょう。それで退屈させないかというと、そういうことが意図として最初にないのです。最初にないから、自分でいくら歌ってみても伝わらないのです。 

意図したものがうまくいかないから克服しようということで、練習は成り立つのですが、その目的とか意図がないところには、練習というのは成り立ちません。音を扱うということは、歌をそのとおりに歌えたからといってよいのではなく、それはそれだけの話です。それ以上のことを起こせないのです。

 

 

 所詮、歌が歌のレベルで終わっていたり、声が声のレベルで終わっているようではよくないです。声のことを気にかけているから、声のことで大変だとか、歌のことがまだ統一されない、動かせない、完成できないというのはよいのです。ただ、その接点をきちんとどこかでつけていかなくてはいけません。 

 

歌の場合は楽器の場合と違い、ある一定水準の技術がないとこういう曲は歌えないということは絶対にありません。20年生きてきたら誰でも歌えるはずです。ただその瞬間にその気持ちに自分をもっていけないためにできないのです。それをもっていけても、やはり音感、リズム感、歌の基本が疎かであれば歌えません。 

でも、指摘している間違いは、そういう間違いではありません。そこでの意図みたいなものです。自分のをみてみればよいと思うのです。今使っている曲というのも、そういう意味で、そのことを本当に伝えようとしたら、音をもっと大切に使うはずです。

 

 今日のは作品としては、そんなに鋭くないのです。昔聞いたときに向こうの洗練されたものは、鳥肌が立つほどでした。日本でもステージとしては面白いものもありました。これはかなり雑な歌い方です。それよりみんなの方が雑に歌っているのであれば、これをひとつの基準にしてこの基準は超してほしいです。これと同じに歌えてもそんなにうまいといわれないでしょう。日本のサラリーマンでもこれよりうまい人はたくさんいます。

 

 

「あのころ二人のアパートは はだか電球まぶしくて」

 通用するものというのはそんなにありません。スピードが伴わない、完全に言葉がコントロールできないところからみましょう。音程、リズムをとるには、まずはじめに音域という問題ありますから、どうしても日本人が誤りやすい、とにかく音が当たる当たらないという、音域の方を重視しています。 

もうひとつの条件として音色をみてみればよいわけです。お互いの声を聞いて、その人の体がみえてくるというなら、後でなんとかなるでしょう。その人独自の肉声があると、楽器としての特色が出てきます。 

 

反面、よくないのを考えてみると、スピードがない、切りこみが甘い、もたもたしている、単に一本調子だと、歌でいつもいわれているようなことが1フレーズのなかで出ているのです。 

それを自分できちんと煮詰めていかないといけません。自分で疑い、自分のことを知らなくてはいけません。それは後に可能性をつなげていくやり方でなければいけないと思います。

 

 常に可能性を人はみています。自分の音色とかフレーズのなかに、後で面白くなるなとか、後でよくなるなということを感じられるのかということです。まとまってしまっているのであれば、こういう人と同じようにそれですでに勝負していなければいけません。そうしないとそれ自体から1歩も出られなくなってきます。 

 

 

もちろん、歌い分けてもよいと思います。息を強く吐いたり、体をちょっとでも使ったり、より大きな声を出そうとしたら、それで何かが犠牲になるわけです。トレーニングは部分ですから、その部分での目的をもちなさいといっているのです。それは部分的なものなのに、それが中心だと思わないことです。声も、音感も、リズムも同じです。それをまんなかにおいてしまうとおかしくなってしまいます。それなら何も考えずに歌っていた方がよほどよいのです。

 

 ここに入って歌を始めたという人は、何も考えずに歌っていた時期がないと思うので、カラオケでも何でもよいですから、思いっきりいろいろなものを歌って、自分のが面白いか、面白くないかを聞いた人の気分できちんと判断してみてください。そうすると、音を動かしたり、何か作らない限り、1時間どころか1曲さえもたないというのがわかると思います。 

 

実際、レベルとしてはこの程度のものを問うているのです。ぱっと聞いてみて覚えられるくらいのものです。 

やるべきことは、そこでの音楽の読み込みです。歌い手が変える前のベースまで戻ってください。詞が働きかけること、それから音が働きかけること、伴奏が働きかけること、そこにメロディ、アレンジいろんな要素があります。

 

 

 時代というのもありますが、歌というのは意図されて作られていました。そのなかに夢とか、希望とか、願望とかいろんなものが入っていました。それだけが歌だとはいいませんが、少なくとも歌い手の心を動かさないことには聞き手の心は動かないわけです。その部分を丹念に音だけでやっていきます。 

今までここでは歌唱指導はしたことがないのですが、今回、何パターン化にわけてみます。ひとつの指導だけにしてしまうと、どうしてもここはこう歌わなければいけないと固まってしまいます。そのまえにそれをほぐすようなことをしてみると面白いと思います。

 

 歌い方のある種の個性、くせなどを、それをはずしてみたときに、どう生まれ変わらせればよいのかということです。それはその人の呼吸なり声、あるいは声の音の原点の部分です。そこをつかまないでやってしまうと、いかにも発声練習だけしているのが、目的かのようになります。合唱団で歌っていた人が、歌いあげるようなもので代わりがきいてしまいます。 

 

レッスン中にあまりこういう歌を取り上げないのは、短い時間でぱっとやろうとすると、その歌い手のくせをとってしまうからです。日本の歌の場合、特に先生が「この人のように歌え」というようなことをいって、どんどんとパワーダウンさせてきた経緯があります。新しいものを作らなければいけないのに、安易に見本をとってしまうのです。そういうやり方はとりたくありません。

 でも、音楽は音楽として成り立っている基本の部分がありますから、それはきちんと握っていくことです。それからどこかをずらしていかなくてはいけません。音の世界をいろいろ勉強してみればもっとわかると思います。 

 

 

たとえば、サッチモが歌ったのと、吹いたのとをきちんと聞いてみるのです。機械的な分析はしなくてもよいのですが、彼が変えている部分があります。それは彼の声の限界なのか、それともトランペットのときはそういうふうにやりたい気分になるのかというようにみるのです。 

頭で考えても結論は出ないのですが、自分なりに突き詰めて、それでより音楽に近づけるためにどうすればよいのかということを考えればよいと思います。

 シャンソンのスタンダードなナンバーをジャズに取り入れているのはなぜでしょう。ジャズマンが「枯葉」という曲を選んだのは、もちろん、すぐれていたのでしょう。そこで選んだ人につられて選ぶ人がいるわけです。しかし、後でその作品をやった人は、どこをどう変えたのか、テンポを変えていたり、拍子まで変えている場合もあります。 

 

そのことによって最終的によくなったのか、悪くなったのかをみます。確かに同じレベルで違うパターンになったという見方もあります。優劣というものは何度も聞いていればついてくるものです。自分の好みもそこに反映します。やはりジャズを聞いている人は、ジャズっぽいアレンジが好きでしょう。では、ジャズっぽいとは何でしょう。 

そういうものを聞きながら、結局、自分のなかの音って何なのかを知ることです。それを表現するための声であり歌い方なのです。

 

 それを煮詰めていかないとこちらの見方も難しいです。思いが出ていて声が足らないというのが、ヴォイストレーニングでは一番ありがたいことです。そうしたら声ができるまで待てばよいのです。それが相互に補いながらできていきます。やはり体がそうならないと、音を動かすというのはわかりにくいでしょう。でもそうでない人でも音は作っているのです。 

 

 

演歌やフォークの人たちも、のど声だったり、浅いポジションで歌っています。それでも人を惹きつける人と、下手といわれる人がいます。その人のなかでも下手な時期と、うまくなってくる時期があります。 

自分だけで研究をして伸びればよいのですが、必ず頭打ちになります。そうしたら何をするかというと、名人たちの研究です。さらに、身の周りでやれている人の研究です。つまり、クラシックとポピュラーです。☆

 

 そういうことがやりやすいように、合宿にも連れていって相互に研究させています。この前はグループ中心でやりましたが、今度はソロでやろうと思っています。楽しい曲だったらその曲がかかっただけでジャンプするくらい、悲しい曲なら涙を流すくらいまで聞きこむようなことをしてみてください。 

そうならないというのは、結局その歌い手や作った人よりも思いが足らないということですから、彼らのレベルまでいかないということです。 

だからイメージでは先行していて下さい。できるかできないかは後です。でもイメージさえそこでもっていないのなら、決して追いつけませんし読みこめません。そこで質を変えていくことです。 

天の声、地の声というのは、深い呼吸から感情を取り出し解放するのです。言葉がなくても歌は成り立つということです。3年くらい前に合宿でやったもののなかに書いてあります。 

 

あとひとつミュージカルを使おうかと思っています。「エビータ」を使おうと思っていたのですが、レベルに合わせて、あまり盛りだくさんにしてしまうと、またひとつずつきちんと聞けなくなると思いますので考えています。

合宿に行きなさいということではなく、とにかく日頃の練習をそういう構えのもとでやるということです。 

 

 

なかなか音の世界ではみえないと思います。自分の好きなようにアドリブでスキャットやれよといわれても、パターンが入っていないのです。やれよといわれても誰かのまねをするしかないのです。それはやはり時期が必要です。今、そういう勉強をしているかどうかです。

 何もジャズのアドリブの練習をしなさいということではないです。もっと根本的に歌ひとつひとつ自分のものにするというプロセスをしっかり踏むことです。この当時の人はそんなに難しく歌っていませんが、一応歌詞も聞こえてきます。今の方が弱くなってきていると思います。昔の人は、1曲聞いたらこういう曲だとすぐにわかっていたのですが、今は字幕で、そういうものを聞きこまない。 

 

聞いたものを自分のなかで起承転結をつけていないでしょう。起承転結のないような歌や、意味そのものをもたないような言葉の並べ方では、そういう習慣がつかなくなっています。音の世界がどんどんみえなくなっています。向こうの歌や音楽に本質を感じて、歌い手も聞き手もその表面をコピーして、切り貼りのなかで成立させているかのようです。

 

 そういう音だけ聞いてみて、そこに感じを生じさせて、そこに一致した音声ってどんなのだろうとか、音色ってどうなんだという勉強が必要だと思います。感情でやっていくのとはちょっと違い、肉声でやっていくということです。その上にそれを緻密にコントロールするために発声があるわけです。

 

 

 トレーニングしているときは、ややもすると体を使ったり、息を使ったりして、声を扱うのが雑になります。それは自分がわかっていたらよいのです。雑にしていくことがトレーニングと思っていたら、狂います。それを正すためにやるのでしょう。 

 

レーニングですから、中心からどれだけ外れているのかということがわかっていればよいのです。自分に中心の意識があれば、どれだけずれていてもよいのです。むしろ誰もやっていないものをやった方がよいのです。

 

 曲も極端に古いものとか、誰も聞いてないものとかをやった方がよいのです。ただ、今の時代に戻さなくてはいけません。そういう意味でいうと、昔の歌ばかりを歌って、そこを中心にしてしまう人というのはあまりよくはありません。その当時を生きた人にはかなうわけがありません。地方に行くと20代なのにプレスリーだけを歌っているという人もいます。同じファンといっても、同時代一緒に生きた人たちにはかなわないでしょう。 

 

 

いろいろなものを基準に参考にしてみるというのは必要でしょう。効率的にやりたければ、世界の各地に行ってみるとよいでしょう。 

 

昔、高橋竹山マイルス・デイヴィスを掛け合わせて聞かせたことがあります。そうすると、みんながキューンとなるところは一致するのです。みんなが何かばらばらだなと思うところも一致するのです。そういう感覚というのは日本だけでなく、世界に共通してあるのです。

 

ロックが政治とかに関わってくるというのもそういうわけでしょう。とにかく音を聞いたら言葉も何も要らない、もともと世界をグローバルにひとつにしてしまうというのがロックの発生したときの大きな意義です。そういうところから捉えてもらった方がわかりやすいと思います。頭でっかちになってもだめといいますが、頭はでかくして構わないわけです。それ以上に体が動けばよいわけです。頭が動き出すと体がさぼるからよくないのです。

 

 

 

 

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【「取り組み」】

 

 お腹の前を動かしたらいけないということではありません。前は黙っていても、息を吐いているのですからトレーニングになるのです。準備体操とか、部分的な筋肉トレーニングと同じで、お腹の横だけ鍛えたり、後ろだけ鍛えたりするトレーニングでは、若干早くするためにやるのかもしれません。 

 

一番初めは寝転んでやるのです。次に椅子に座ってやります。初心者の場合は、そっちの方が声が出やすいはずです。それは自由度が制限されるからです。寝転んでしまえば、体の半分は固定され、否応なしに腹式になります。座ってやったときも、下半身は支えられているので、上だけを意識すればよくなります。

 

 立ってやるときというのは自由ですから、自分ではわかりにくくなるのです。そういう意味で、固定するのは、感覚を得るための方法です。 

 

 

「マ」や「ム」を深いところで取ろうとしても、だいたい口先にきてしまいます。ハミングにはよいトレーニングですが、声のきっかけを得るには取りにくいのです。「ハ」のほうが取りやすければ、「ハ」でやりましょうということです。 最終的に同じところでできたらよいのです。 

 

きっかけとしては、いろいろな接点のつけ方があって、それもメニューです。理屈というものはないのですが、経験といろいろな人をみて、その方がやりやすかったり、習得しやすいということでノウハウができてきます。 

 

声をまっすぐ取ったときに、胸の位置を上げてキープするということが、日本人の場合、慣れていませんから、あごを引く。そうすると、二重あごのようになる。本当のことでいうと、胸の位置を上げ、首筋をまっすぐと立てて、それからあごを引かないと、のどを圧迫してしまうのです。見た目でも首筋がまっすぐになっていないと、すぐにわかります。それもある時期のトレーニングの注意としておくとよいと思います。

 

 

 自然と慣れていく人もいれば、一時うまくいかなくなる人もいます。日本の歌い手をみたら、向こうの人のように歌いたくてヴォーカルをやり始めて何十年も経っている人たちが、みんな細い声で歌っています。ジャズあたりでも、決して彼女たちは自分たちの、ああいう声で歌いたいと思って入ったわけではなかったはずです。ジャズが好きで、向こうのサラとかエラを聞きながら、結局、声の方から、限定されてきたのです。もっとイメージやいろいろな意味での、表現の可能性はあったのに、声から制限されてしまうのです。

 

 日本人が発声から入っていくと、結局、歌声とか、響きとかの方にしかいかないのです。外国人は基本的に息を吐くことが言葉になっています。しかし、日本語の場合は、子音に母音をつけますから、響かせることで言語にするからです。しかも、それは中途半端なひびきののど声です。アナウンサーでも響きの方に作っていきます。ですから、口をはっきりと開けないとよく見えないし、伝わらないのです。

 

 特に日本の場合、音楽教育というのは、小さいころから女性は裏声で歌わされています。男性と同じキー(の一オクターブ上)ですから、裏声を使わないと届かないのです。ポピュラーは、みんなが使っているところよりもオクターブくらい下で歌っている人もいるのです。日本の場合、しぜんな声で歌うことが許されない。 

 

 

まず、深い声の感覚が入っていないということが第一です。それから社会生活のなかで、音声の表現力が必要とされない。劇団で役でもやらなければ、低い声というのも必要とされません。俳優でも、若い人で太い声の人はなかなかいません。 

オペラからの影響で、ソプラノ、テノール中心に組み立てられています。かたや外国人の女優とか、女性ヴォーカリストは、太いところを固めた上で、高くなっているわけです。そこは、日本の場合は男性よりもギャップが大きくあります。

 

 ここでも、いろいろな声で歌っている人がいます。昔ほど太くしっかり出せる人は少なくなってきて、またそういう声が、もてはやされなくなってきているのかもしれません。 

しかし、体から捉えるということができないと、表現がそこでできないのです。感情表現ができないのです。セリフの練習の部分で使える声のところで、半オクターブから、1オクターブを取りたいというのが、基本の考えでもあるわけです。

 

それは、そういう歌い方をしろということではなく、そこがベースにあれば高いところも狂わないし、響きのところでの裏声への転換というような、あとで起きてくる問題というのが大きくならなくて済むのです。昔は役者さんたちも、強く太い声ということをひとつの目的で作らせていました。

 

 

 今の役者さんはほとんど声はどうでもよくて、動きの方が問われています。早い動きが問われますので、その動きに早くセリフをつけなければいけなくて、上の方でつくっています。それは喉を痛めないひとつの方法です。ただ、音声の力としては観客には伝わりません。観客は聞くのに苦労する分、動きでみれてしまうのです。 

 

昔の役者さんとはだいぶん違ってきています。昔の役者さんたちがどういうトレーニングをやっていたかというと、まず体で声を捉まえる、そこでセリフをことに専念します。仲代達也さんのセリフ「俺は役者だ」というところです。一見喉声に聞こえるのですが、それは喉よりも深いところでやっているから息が深いのです。

 

 男性は、若干そういうところで胸声を使っている分、有利です。妊娠のため、体の上の方で声を出さなければいけないというような必要性もないですから、若干そういう部分を多めに持っているのです。はじめから、声に芯を持っている人もいます。しかし、一般の日本人女性の場合はほとんどそれがありません。 

 

 

だから、強い息とか、深い息を声に変えるという機能が今までなかったわけです。のどに痛い思いをして叫び声をあげるときにそういう声を出したりするのかもしれません。人によっては寝言とかそういうときに出しているかもしれませんが、日本の社会ではあまり使われていません。そこで地の声といって、ものすごく深い、ため息のようなところから、そのきっかけをつかんでいくことをやっています。こういうところを声にする必要性を与えるのです。

 

 ここに入って、ジャズ、シャンソンカンツォーネなどをいろいろと聞いてもわかると思います。みんな太い声を使っているのです。日常のところでしゃべったら、浅くなるということもないのです。 そのための接点をつけているトレーニングが、「ハイ」です。 

 

体から離れない、体につけるということは、そこの感覚をあまり高いところに置かないで、自分の声の低いところくらいで握っておいて、まず、肉声を捉えます。 

そこで息を吐くことです。その息を吐けないとよくないです。そこは体づくりが必要です。すぐにはできません。日々やって、それが何年も積み重なっていくと変わってくるのです。

 

 

 息吐きも2年間くらいでは何もできないといいますが、確かに3年くらい経ってこないと差はつきません。人間が一人で精一杯、努力してみて2年でできることというのは、これだけ人間がたくさんいるわけですから、誰かがやれるし、少しやると追いついて追い越していく人もいるのです。でも3年くらいになると、やっている人は極端に少なくなります。だいたいの人が諦めてしまいます。諦めるひとつの期間が2年という感じです。 

 

だから、そこでできた、できていないなんて、全然問う必要もないのです。大切なのは、そこで続けることなのです。その感覚がわかったとか、そういう接点にアプローチできているということを、自分で実感できなければいけません。