一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン1 33174字 1153

課題曲レッスン1 1153

 

【「田舎の母」「アヴェ・マリア」③】

【「愛の流れのなかに」】

【「ギターよ静かに」①】

【「取り組み」】

【「アモーレ スクーザミ」】

【「マンマ」③】

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【「田舎の母」「アヴェ・マリア」③】

 

 6月のライブの評価を、信頼のおける3人にも書いてもらいました。私はほとんど手を入れてません。お客さんとして聞いているだけでは、この曲好きだとか、このアレンジ好きだとか、評価の基準はどうでもよいのです。ただ自分が歌い手になって学ぶのであれば、すぐれている、すぐれていないというのをみていかないとよくないです。入門・①のクラスの人が書いてきたものをみれば、だいたい有名な曲から並んでいます。 

 

 その曲を自分が作っているのであれば、その曲や詩がよかったという評価でもよいのですが、それもひとつの才能ですから。しかし、基準を持ってみるというのは、誰が作った歌だろうが、詞だろうが、いったん歌い手のなかに入れてしまって、そこから何が出てくるかということを問うことです。音楽のなかで何が作れているかということでみたら、4人が相談して決めたのではなくても、似た評価になるのです。 

一番困るのは、全体でここで動いている人たちとその評価が一致しないことです。それは好みの問題で、別にここの価値観を与えるつもりはないのですが、もし、伸びたいのであれば、音楽のなかで何をなしているか、音で何を創造しているのかということでみなければ当然伸びません。それはみんなが100のうち、10か20しかみていないだけで、より一流のものがきたら、中途半端なものは吹っ飛んでしまうということです。そういう基準しか実際にないのです。 

 

 

このファドでも、聞いて、声もすごいし、これで感動して涙をする人もいるでしょう。それは間違いではないのです。でもそれがファドということで、民族の人々が受け継いでいたところの本質的なものかどうかとなると、別です。歌は時代でもその国によっても変わりますから、基本的にそれはそれでよいと思います。しかし、自分の体の原理に忠実にやっていかないと、結局声もできてこないし、それが歌い出すということもないのです。 

 

一番困っていることは、日本における今の歌が、昔は、まだ実際の体の原理・声と音楽が結びついたところにあったのに、そこからはみ出たところに成り立ってきたことです。音声で成立していないものが、ステージで成立しているのです。 

声も、歌声みたいなものを作ってしまった。音感教育やリズム教育も、全然創造的ではなくて、いかに当てるかというだけです。

 

 日本のピアノとかバイオリニストみたいに、幼少期に徹底的に正しくできるようにする、でもそこから伸びないのです。もちろんそれは必要なことではあるのです。楽器の場合はそれが絶対的に正しいですから。ただ人間の体の場合は、自分の感覚でそれを正しくしないと、音色や使い方そのものが楽器と同じように決まっているわけではなく自分でなんとでもなるだけにそらしてしまうと、難しいと思います。 

 

 

日本のなかで欠けていることでは、最低2つは補うことが必要だと思います。自分の呼吸、体のことをきちんと聞くということ、もし音楽というのが1、2オクターブで3分間あって、それに対応できないのであれば、日本人の場合では8フレーズでも集中力が持ちませんが、それに対してテンションを高め、時間の感覚を入れておくということです。 

 

時間に対しても厳しいスポーツの世界で3分の試合といわれたものを、準備に6分かかっていたらしかたがないのです。自分の土俵のなかでテンポも、音域も、キーも決め、というところで定められないのは、まだきちんと自分がみれてないということとです。自分だけがいいようにやっている。思い込みのなかでやっていると、外に対して伝わりません。

 

 そして他人と比べることです。他人と比べるときに、できたら自分が見本とする人がさらに見本にしたような、原盤、ルーツにあるものを勉強した方がよいということです。一流のものは、そのもので勉強できますが、ルーツから離れて、いろいろな亜流をまねていくと、わからなくなってしまいます。本当の一流の人たちや、本物といわれているような人たちは、ルーツに素直です。その力を必ず組み入れて、その力に委ねて歌っています。そのルーツがその人の力をむしろ決めていくようになるのではないかと思います。 

 

 

そういうことが、2年目、3年目と、みえなくなってくるなら、もとに戻ってみて、たったひとつの音を処理するということ、そこにどれだけのものを感じられるか、そこに何を作れるかということから、その辺をもう一度、自分の評価の基準とともに確認してください。 

歌がよいというのなら、それはそれでよい。ただオリジナルの歌い手がきたときに、どちらをとるかということです。そのときにオリジナルの歌い手よりも、こっちがみたいというものが出ていないということは、やはりそれは、オリジナルの他人の作品で、自分の作品にはなってないわけです。

 

 ここでは、ヴォーカルの音声の世界でそれを価値づけています。しかし、一般の人にとってはヴォーカルというのは総合力ですから、踊りがうまければそれでみせてもよいし、ギターとピアノがうまければ、ヴォーカルが半分の力でも引き立つでしょう。勝負の仕方はいろいろあるのです。でもそれを全部入れてOKにしてしまうと、ここの基準が成り立たなくなります。だから基本のことしかいえなくなってしまいます。きっと基本ができていないから応用ができないのだろうということです。 

 

日本の場合、音楽のなかで何をつくるかということはあまり問われていません。それは不思議なことに楽器の世界とは全然レベルが違います。外国の場合は、声も楽器とまったく同じような扱いをします。そのなかで何を作っているのかということをやります。音色もフレージングも含めて全てにおいてです。 

その楽器のもつ力が働くことにいかに忠実かということが大切です。 

日本の場合も楽器の人はそうみています。楽器の場合は誰も正しく弾けたからそれで演奏できたとは思わないのです。まして有名な曲をその人がレパートリーでもっているから、その人が一流だという見方はしないわけです。 

 

 

どんな曲がきても聞かせられるようにしていくことです。そういう対応力をつけていくことです。落語でも100くらいの題目を与えられて、覚えるのは、それをものにしていくというよりも、そういうことのベースを用いて今のものに応じる、つまり応用できるようにしていくのです。☆ 

そういう応用できるかどうかをみて判断していかないと、ロックみたいに、自分の好きなように歌ってしまうと、音声のなかで何ができているのかというのが、わかりにくいのです。 

そういうことをライブやステージ実習、ライブ実習などでみていってください。それは活動の場としての評価ではなくて、それをやるところのベースのなかでの基準としてみていってください。

 

実際、アマリア・ロドリゲスのなかに何があるのか、というようなことをみていくには、どこを捨てて、どこを生かすためにその歌をとったのか、なんでララララーにしたのか、なんでテンポを速めたのかとわかってくるはずです。 

そういう工夫もなく、自分もわかってなく、そのままオリジナルを歌っても、それはオリジナルの人の力で歌っているにしか過ぎません。それでごまかされるほど甘くはないのです。 

 

そういうのは経験をしてくると、うまいけれど、なんか本人の声ではないし、本人の顔ではないということがわかります。そういうプロセスを省いてしまうと、美空ひばりそっくりのカラオケのおばさんみたいに、なんとなく聞かせる要素とか、間の取り方とか、明らかに不自然になるのです。音のなかで作られているのも、呼吸が合っていない、だから気持ち悪いし、その人のものではないというのがみえます。それは評価できないのです。そういうところを除いてみて評価したいと思います。

 

 

アヴェ・マリア、ただひとつのよろこび」

「ドドシシシ、ラシドレミレドレミミミ」 

 

いろんな原因があるのですが、ほとんど音が外れています。先のことはこのレッスンでは考える必要はないのですが、自分の声がきちんと扱えないところでいくらやってみても成り立ちません。そのことをしっかりとわからなければいけません。みえていないから練習にならないわけです。

 なぜ1オクターブや1オクターブ半で、1曲全部やらないのかというと、無駄だからです。「アヴェ・マリア」のところで声がきちんと扱えて、そのことが「ただひとつの」と、自分の感覚と同時に、声のコントロールを促し、勉強となるのです。   

 

高いところが出るとか、長く伸ばせるというようなことよりも、未だにキーがわからない、自分の寸法がわからないのが問題です。すると1年、2年経っても、3年経っても半オクターブもできないです。 

それは方向の間違いなのです。方向が合っていて、体がついていかない不足はよいのです。音程に関しては、慣れていくしかありません。音程、リズム、音のもっていき方全て、そこにどういうことを感覚しているかということ、感覚が正しくないのに、声を乗せてみても何にもなりません。それは出したものからみていくしかないです。そのフィードバックをどれくらいしているかということです。

 

 

アヴェ・マリア」だけを言葉でいってみて、そのあと音をつけてみましょう。

レーニングのプロセスにおいては、体を使わないと音が処理できない、半音であっても言葉で「アヴェ・マリア」というよりは、体も集中力も必要です。それで若干、大きくなったり、張り上げてしまったりするのはしかたないこともあります。でもそれは正しいのではなく、あくまでしかたなくそうなっているということを知っていてください。 

 

みんなの感覚では、「アヴェー・マリアー」と出せば歌になると思っているのです。それは歌ではありません。絶対に歌ではこんな感覚では出さないです。

 今やっていることは歌の練習ではなく、歌になるための基本です。歌になるための基本というのは、それだけ自由にその声を、大きくも小さくもできるし、急に強くも弱くもできることからです。 

自分の息のなかで一番、ストレートに声がとれるようにするのです。みんなそれを浮かして飛ばしてしまうわけです。歌は音域をとらなくてはいけないからといって、すぐに上にあげて加工して歌ってしまうのです。

 

 これはこれで、加工すれば歌にはなるのですが、そこでやっていたら音域も声量もすぐに限界がきます。どんなに大きな音を出しても、どんなにがんばっていても表現が伝わらない人というのは、結局、自分の体のなかに声になるきっかけ、そこに戻れるところがないのです。その枠からはみ出して、いくら加工してみても、それで何か表現ができているかといったら、それはそれているだけです。 

そのことをずっとやっていたらのどが変になるでしょう。それからこの辺がびりびりしてきて、声が出なくなってしまいます。

 

 大切なことは、「アヴェ・マリア」と自分のなかでナチュラルな状態で取り出すこと、歌だって同じです。確かに作らなければいけないところはありますが、余計なことをしてはなりません。 

歌の出だしだからということではないのですが、できるだけ半オクターブから1オクターブに関しては、自分のなかの感覚で引き受けなさいということです。本当は高いところでも全部そうなのです。しかし、高いところはいろいろな変化が許されます。また、リズム的な要素とか、音自体のフレーズの要素とかが加わってきます。必ずしも声だけで、そこまでみなくてもよいです。ただ、言葉に関しては、こんなどうしようもないところで、発声練習をしてもしかたないです。

 

 

アヴェ・マリア、ただ」まで、やってみましょう。 

基本の勉強というのは、そこで正しい動きに乗っかり、よりよく作れるかどうかということです。「アヴェ・マリア」とただ出していては、無神経さとどうでもよさが出てきてしまうだけです。

 そのことをわかって、動かせるところにもっている人は放り投げているだけです。 

ピッチャーでいうと、ただ投げればよいと思って投げているのと、きちんと構えて自分の体の力が働くようにしているのとは違ってきます。プロは腕先でどう投げるかなどと考えていないでしょう。体の大きなひとつの動きのなかで最終的にスナップをかけたりして、そういうことができていくのです。 

 

そういうものをきちんとやらなくてはいけないのに、そのまえに安易な方向にいっています。「ア」と「べ」のなかでも、100でも200でもいろんな感覚があって、そのなかから選んでこなければいけないのに、ひとつで決めつけています。全部のプロセスを、こう感じろということはいえません。しかし何もないから「アヴェーマリアー」としか出ないのです。

 それがだめだというのは、それで完結してしまっているからです。

完結したものとして聞いてみたら、全然そういう要素が入っていないということです。 

 

言葉でも「アヴェ・マリア」といってみて、そこに小さくもできるし、大きくもできるし、そこに動きが入るから展開していくのです。その動きのなかでたまたま音が高くなっていくのです。もっとリズムが変わっていったり、音色が動いたり、いろいろな展開をしていくのです。それをずっとずらしたままいってもしかたがないと思います。その人が気づくまで、自分で感じなければ変わらないのです。

 

 

 一番わかりやすいのは、自己評価を書くことです。自分のことをわかってなければ厳しく書いてもしかたないのですが、評価に取り上げられた人というのは、自分に対して厳しい評価をしています。逆にその評価があるから、あそこまでの演奏ができるのです。

 

 今までで一番よいできだったという人もいますが、それはその人のなかでは一番よかったかもしれませんが、何もみえていません。こういうレッスンのなかでも、どう聞いているかわかりませんが、今のフレーズだと7割はずれています。それを自分でみていかないとしかたないのです。 

自分がずれているのではなく、他の人がずれていると思っている人が多いのです。入門科のレベルでいうと、「ただひとつの」といっているだけで何かやった、伝わったと思っているのです。 

 

自分が好きな曲を本当に聞きこんだら、いろいろとわかります。しかし、それを本当に歌えないと、わかるといえません。そういうときは、より表現できている人をみればよいわけです。あるいは、その言葉に命が吹き込まれ、生まれる瞬間に気づくことです。

 一流の人は全部やっています。そのときに何かが起こるのです。どれが正解かというのは、その人によって違ってきますから、自分でチェックすることです。 

 

 

少なくとも、「親子の」に対して「上に」というのを自分でイメージしてみて、しっかりと「上に」ということが聞こえないと、単に「うえにー」といっているだけです。声が出ていたり、音が合っていたらよいのではないのです。だからといって、「上に」という言葉が伝わったらよいということではなく、そのニュアンスです。日本語として「上に」と聞こえなくても、なにか温かみのある音色で出てきたというのがわかればよいのです。

 そうしたら「うえに」というのを自分でコントロールできるところでもっておかないといけません。コントロールできないところでやってしまうと、それ以上、何もできないのです。あとは伸ばすくらいです。 

 

そこに音色をこめてみたり、その人の世界をこめてみたりすることはできなくなります。ピアノを聞いて感性を働かせるというのは難しいとは思いますが、ピアニストでき、ものすごくよい感じに弾くと、また違ってくるのでしょう。そうすると揺らいでしまって、気持ちだけ出そうと思って、音の根本とか、声をしっかりとるということをしなくなるのです。きちんと前には取り出さなければいけないのです。取り出したものを今度は感覚でどう出すかです。かなり自由度をみていてよいと思うのです。この作品を上げようとするよりも、こういうことで動かせたり、そこで何かを醸し出せるところをやっていくのです。

 

 

アヴェ・マリア ただひとつの喜び 恵みを 私たち 親子の上に」

 この手の歌は難しいタイプの歌です。クラシックで発声的にもっていくとか、コーラスできれいに歌い上げるというのにはよいのかもしれませんが、ポップスでこういう歌をきちんと相手に伝えるというのは難しいのです。しかし、それがなぜ伝わらないのか、どこが伝わるのかチェックしていけば、それなりに感覚と体から出てくる声のなかでわかってきます。 

 

体に合わないものは捨てていくのです。それで残っていくものをきちんと細かくも、全体でもみていくのです。細かくみると、この「親子」は使えるのだけど、全体でみると使えないとか、そういうプロセスのなかで取捨選択して歌を作ってきているのかということです。 

 

最終的には動かしやすいところです。一発勝負みたいに、バーンと出せるところで歌えるものもありますが、最初から最後まで突っ走ればよいというのは、声がついてくると楽です。しかし、声のコントロールと気持ちのコントロールがいりますから、どこを伸ばす、どこを切るということで、センスがいります。

 

 

 これが歌える、歌えないということはこのクラスで問いません。どうしてそこまで歌えないのかということを自分で考えないとよくないです。声がなくても、リズム感がなくてもできてしまう人もいますから、そういうことで1オクターブ、半オクターブを感じながら歌っていくことです。 

そのうち、その入れ込み方や、感じてから歌うのでは間に合わなくなります。練習だからこそ感じながら、チェックしながらやるのです。自分のなかで自動に選択されて、出てきたのが一番よいということです。 

 

練習はそれを繰り返すしかないのです。だからこういう歌は、とてもていねいに歌わないといけない、そのためには声がきちんと整えられていて、テンションも高くて、呼吸ひとつミスしないようにやっていかなくてはいけません。

 そういう面でいうと、クラシックと同じように、ひとつひとつていねいに音や音の変化を扱っていくような練習を入れていくべきだと思います。「ハイ」とか「ララ」とかも、ややもすると勢いだけで1オクターブくらいもっていけるのです。でも問題なのはそこからが勝負なのです。 

 

その勢いを全部抜いたときに、どういう音の骨格が残っているか、どういうものを自分が作ったのかということをみていかなければ、ポップスはいくら勢いをつけてみても、ミキサーで全部落とされてしまうのです。そのときに何も心に残ってこないのです。それは何も表現されていないのですから、言葉の読みと同じように、ひとつずつ分析してみて「ア」と「べ」にどういくのか、この歌がどうこうというより、そういう練習を通じて、敏感になることです。

 

 

 ひとつの音から次の音に移動する0.1秒がどう動いていくのかを感じて、そういうものを聞いたときに対応できるようにすることです。ただ、そこでやっていかないと声も雑になるし、歌い方も雑になります。なるべくシンプルにやっていて、ていねいになるというのが一番よいです。 

自分の思いこみだけでそこを伸ばそうとしたときに、うまくいくときといかないときがあります。それは自分で瞬時に判断するのです。うまくいったのはなぜか、うまくいかないのかはどうしてかというのも、ある程度、原則はあります。

 

 自分の思いこみのところでフレーズを回していても、なかなか外には伝わらないのです。外にバーンと出してみたときに、自分の原理が正しくできているかということです。結果論ですから、何百回もやってみるしかないです。 

 

あとは気持ちの問題です。こういう気持ちに入れるときは、うまく歌えるし、入れないときはこういう歌はものすごく難しいです。そういうコントロールをできるものを自分のなかに宿しておけば自信になります。大切なのは切り替えの力です。そういうものをていねいに練習してみてください。

 

 

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【「愛の流れのなかに」】

 

 ブレスの場所は、イメージ的には入れておいてよいですが、あまりどこで吸うのかというのは、こだわらないほうがよいと思います。歌うときには、できたら自分でその状態になりきります。しゃべるときと同じで、構えてその瞬間に出すという用意が必要です。歌にもその前までの構えが必要です。 

レーニングというのは、歌以上にそれを意識して結びつきをつけるので、そこでいろいろな人のいろいろなやり方があります。それはいろいろと覚えていってもよいですが、最終的に自分が納得するやり方や言葉を選び、納得しなければ自分でつくり変えればよいのです。 

 

レーニングメニューに関しても、どれが正しい、間違いというよりも使い方です。最初は自分がフィットしてやりやすいところから始めればよいと思います。 

一人ひとり、体つきも違いますし、いろいろな人がいますから、一概にいえないのです。実際にそう動いていなくても、自分の感覚のなかでその動きを感じ、自分ではこうなっているということで言葉にしているものです。私の言葉でも、すべて正しいかどうかというのは検証できません。なんとなく感覚的にそうとしかいえないときに、そういっているわけです。ですから、すぐにまったく逆のことをいうこともあります。 

 

頭で考えたことを修正していかないとしかたありません。何も考えないでやりだしたらできるというふうにはいかないので難しいのですが、あまり頭でとらわれず、そこの意識を抱いておくことです。 

これは歌の勉強というよりは、「シィー」というひとつの音での働きかけです。どういう意味でも構いません。日本語で使われている場合は効果音にしか過ぎません。

 

 

 たとえば、「ティー」というひとつのものが働きかけて、それに「ティティティティティティー」とついてきます。 

「なんて不思議な町なの」と、そういうふうに体が動いたときに、「まちーなの」となるか、「まちなーの」となるかは、誰かが決めることではありません。自分のなかでどういう目的で、どちらの方向に行きたいかを示していかないといけません。歌い手が迷っていたら客はついていけなくなってしまいます。 

 

ある種こなすということも必要なのですが、こなしている中で作っていかなくてはいけません。この空間のなかがキャンパスみたいなものです。自分の声がどう働きかけているかを、徹底的に聞いていくことです。

 わからないときはシンプルにしていくのです。だらだらさせていかないことです。

 

「のー」の入れ方も、どうやったら相手の心がどう動くかという効果を狙うわけではないですが、自分の体として納得のいく完成させたものとして、抽出して出していかなければいけません。楽器をやっている人ならあたりまえの音のイメージができない、そしてイメージできたことに対して体がうまく動かないのです。大きなミスはその二つしかありません。

 

 

 「シーディーテーナーノー」と、言語の世界を止めてしまって同じ音にするとこうなります。メロディーをはずれてしまってもよいです。「ふ・し・ぎ・なー」とやるわけではないのです。「ふしぎなー」という形です。 

こういうものはだんだんと慣れてくると、ポイントというのがあります。そのポイントが定まらないと、音楽はだらしなくなります。ここでこうやったら、ここではこうやらなければいけないという、ある種の決まりのようなものをふんでいくのです。

 

 この「なの」のところも、「なーのー」とか、そこで余計なことをやってはいけないのです。頭で考えて部分的にやったことというのは、ほとんど間違いになってしまいます。こういう動かし方を自然にするために、きちんとヴォイストレーニングをするのです。 

とても単純に「ターターターター」のなかで音を作っていくのです。メリハリのつけ方でいちばん簡単なものは、半分はいわなければよいということです。するとだらだらすることはありません。空間を保つというのは大切です。そのいっていないところを歌わなければいけないのです。 

 

歌い手でも、演奏家でも、その間のなかにいろんなものがあって、ここをどうやるのかというのをイメージでもっておかなければいけません。

 ポップスの場合というのは、ここで「ふしぎなー」ときちんと歌う必要はなくて、「ふーなー」とこんな感じでもよいわけです。 こういうものを聞いても、ぜんぜん聞こえてこないでしょう。欧米の言語というのは、強アクセント以外はいい加減なのです。歌いにくい人はそのままでよいですが、歌っていないところも歌わなければいけないという感覚です。 

 

 

「シー、パリは」の、「シー」と「パリは」の間に何かいいたいことがあり、そこで楽をして、つぎに「パリは」と入っているのです。言葉もメロディーも同じです。

 決まりがあるわけではなく、要はイメージとして単純に捉えていきなさいということなのです。日本の朗読の勉強とか、歌の勉強で、なかなかきちんと構成ができないというのは、「シー、パリは、なんて、ふしぎな、まちなの、みるもの、すべてが、むかしを、かたってる」と、こういう形で入ってしまうからです。ひらがなは全部、均等化し、日本語は棒読みで勉強してしまいます。 

 

でも、実際に役者が読むときは「シー、パリはなんて不思議な町なの」と動かしていくわけです。歌い手はその動かし方でなくてメロディーに乗せていく、というものではありません。イメージのなかで動かしていくのです。ただ、それをリズムとか、メロディーとか、いろいろなものが規定しているから、どうしても先にその形に走ってしまうのです。受け身になるのです。

 

 本当は自分で構成していかなくてはいけません。結果的に「シー、パリは」といったら「ミ、ミレド」に合ってしまうということが正しいのです。そういうひとつの秩序があります。なるだけ単純に捉えながら、長さを縮めたり、長くしたり、フレーズも大きく動かしてみたり、決めるところでは決めてみましょうということです。 

強調すると自然に動いてきます。「たとえばあの日あなたと」の「あのー日」や、「あなーたと」というようにです。よく声を出さずに練習できないという人がいますが、こういうことをイメージでやっていればよいわけです。 

そして、息で緩急をつけてみるのです。英語だったらことばのところで強弱アクセントや、シンコペーションがいくらでもつくわけです。そのイメージが走っていないところに、いくら声をつけてみても何にもならないということです。

 

 

 「たとえばあの日、あなーたとー」とか、「たとえばあーの日、あーなたと」とか、どこかで入れるとその分跳ね返ってきます。人間の体はそんなに強くはありませんから、当然のことながら、どこかによりスピードを入れると、どこかで落ちてきます。そういう緩急を知っておくことです。  

歌い手でなくても役者でも同じです。逆にその緩急のリズムとか動かし方からはずれたときに、自分でストップをかけなければいないし、そのままでは何かを変えないと退屈してしまうのです。そのかけあいをすぐれた歌い手はみんなすぐれたレベルでやっています。ジャズほど極端ではなくても、何かそこでメリハリを入れています。

 

 だから動かすということは、何かを起こすことなのです。 

結局、一流と一流でないものの違いというのは、なんでも、どれだけ強く身近に引きつけて、どれだけ遠くにつき離せるかということです。求心する力をほんとに絞り込んで、それから離していくということです。それは中途半端にひきつけて投げるのとは違ってきます。歌の世界でも同じで、だからこそ、声のコントロール力がいるのです。そうするとひとつの説得性が出てきます。 

ここは本当にひきつけまくっているところです。がんばりすぎているところですが、トレーニングの参考にはよいと思います。

 

 「まぼろしをみて」のところだけやってみましょう。同じ音でもよいし変えてもよいです。音を「タタタタタタ」ととらないようにしてください。 

好きに動かしてよいということです。「まぼろしーをみて」でも、「まぼろしを、みて」でもよいのです。それを上のほうで「みて」とやるのと、「みて」とぱっと出すのと、いろいろとあります。私の好みでは教えられませんから、自分の呼吸と合わせて、あるいは全体の流れのなかでみて、そこはより入れた方がよいのか、はずした方がよいのかというのを決めていってください。 

 

 

「進みゆく兵士たちの幻を見て」、「たとえばあの日あなたと幻を見て」、「凱旋門の石段で幻を見て」のどこでもよいです。ですから、きちんと歌っているか、そうでなければ不自然なことをしていないか、歌で許されるのはどちらかです。

 

 何かをプラスにしているか、プラスにならないところはゼロにする、マイナスを作ってはよくないです。「たーとーえーばー」とやって、感覚が鈍かったり、遅れてしまうと、歌がばらばらになってしまいます。始めに「たーとー」と、ここからスタートしてしまうと、いくら声があっても、もっていけない大きな寸法になってしまうのです。 

 

だから一流の人は凝縮していきます。どんどんとシンプルにとって、深く握っていくのです。そうするとまた新しい展開ができていきます。引きつけるとか、落とすとか、展開するためにつかむとか、そういう表現でいってもなかなか伝わらないとは思いますが、それを3回繰り返してひとつ、また3回繰り返してひとつというふうにやるのです。体力がいります。

 

 

 「生きているのを知った」のところをいきましょう。 

自分のなかで自由にやればよいのです。こうやりなさいということはいえません。「このまちに」も、ゆっくりならゆっくりなりに表現しなければいけません。「生きているの」も、「生きているのー」となりがちですが、自分の呼吸で「生きて、いるの」でも、「生きているーの」でもよいのです。どちらがよいとか悪いではないのです。ただ聞き手が「生きているの」と伝わるようにします。

 自分のなかでそういうものを100も200も作って、これだというものを見つけるしかないわけです。そういう勉強をしていたら、そのうちに、そんなにピントがはずれないものをすぐに選べるようになってきます。 

 

「わ・た・し・は・しったー」では歌になりません。「私は、知った」ということをいいたいわけです。「私は知ったんだ」という伝えたい気持ちがあって、そこが動き出すところを捉えるのです。 

そこでイメージを作って、声を出さなくてもフレーズを作っていくということと、実際に出してみたときに、これは違うなとか、これは入れすぎたとか修正をかけていかなくてはいけません。こういう練習をしていくことです。 

 

それは自分のなかの基準です。自分はこうやりたいというものと、そうやったときにそれが音楽的だとか、まわりの伴奏とかこのメロディや歌詞にそぐうかそぐわないかということをいろんな観点から勉強していかなくてはいけません。だらだらとなってしまったらよくないです。

 

 

 「ナポレオンドゴールの心」のところです。「ストリア」で少しかすれています。そこまで体を入れ込んで歌ってもよいということです。実際にこう歌うかどうかというのはまた別のことですが、練習の場合は逆にこういうことをもっとやってください。体と声を結びつけて、ステージで遊びながら歌っていても離れないようにしておくべきだと思います。それをきちんとつかまえていけばよいと思います。

「ナポレオンドゴールの心、私は知った」 

 

その辺からの練習というのは、その人の必要度に応じたものです。「ナポレオンドゴールの心」で投げたあとに、「私は知った」といきなり入っても、それは聞こえません。「ナポレオンドゴールの心」でそれでどうしたとなって、「私は知ったんだ」ということでしょう。そういう要素で音の調整が行われてくるわけです。

 

 そういうものを勉強するには、ヴォーカルよりもトランペットとか、サックスとかのすぐれたものを聞くとよくわかると思います。ヴォーカリストでも、このレベルのヴォーカリストになってくるとわかります。でも歌の場合は、プロのなかでも歌えたら許される、声がでたら許されるというところが多いです。

 こういう人のなかでも、よい作品と悪い作品と差があります。その辺は甘いのだろうと思います。私はそういうものをずっと聞いてきています。プロヴォーカルでも、こういう耳では、作品を20年は聞いていないと思います。そういうものを自分のなかにも取り入れていって、とにかくどう落としていくかということです。 

 

 

次のところからは、そこまで勝負しているから許されるようなフレーズになってきます。フォルテシモからピアニッシモとまではいいませんが、メゾピアノくらいまでやります。音量だけでなくスピード感とか、感覚とか圧力のかけ方、ウェーブのさせ方、全部をあんまり細かくやっていくと収拾がつかなくなってしまいますが、ある種のパターンというのがあります。

 

 この曲だったらこうもっていこうというのが、表現です。プロであれば歌うのはそれぞれまったく違ったものになります。それは自分が落としこめるジャンルのなかでより使えるものを使っていこうということで、変わっていくわけです。あとの半分は自分で修正をかけながら新しく作っていかないと、到底、歌の場合は間に合いません。

 

 練習のなかもそういうことをやるのです。まだ声がしっかりとついていない場合、言葉だけでも、きちんとそれを放り出せることからです。そこをやれないことには、表向きにいろんなことができていても、それは回っているところの表面だけを取っているわけです。ステージで、何かがすごいとか面白いと伝わるときは、この動きが伝わらないといけません。 

 

 

たとえば声があるとかないとかは関係ないとしても、これは去年デビューしたあるジャズ歌手ですが、何か硬いなと思っていたので、あまり聞かせませんでした。しかし、声がなくても、ここまで歌えるというのは、その人間がどう世界をつくりたいかがはっきりしているからです。声があっても伝わらないというのは、結局どうやりたいのかがその人のなかにないからです。それは音楽をやりたいとかではなく、自分がやりたいようにやればよいのです。

 

 そこで音楽を伴わせるために当然、集中力も必要だし、テンションも必要です。でも音でどう作っていくかというのは、自分で明確にわからなければ成り立たないのです。そういうことでいうと、志、目的を定めるということになるのです。  

レーニングが行き詰まってくる人は、音楽をやるとか歌を歌おうというときに余計なことを考え出すからわからなくなってくるのです。やりたいことをやろうといったときに、歌とか音楽とかを使えばよいのです。

 

 この人も歌おうということは考えていないのです。だからこれだけパワーが出るのです。そのときに、基本となる条件があるとか、ないといっていてもしかたがなくて、ましてこれを発声で聞いてみてもしかたないでしょう。伝わるか伝わらないかということだけです。ある人には伝わるし、ある人には伝わらないかもしれません。でも伝わる人には伝わるものがあるのです。ここの人たちがそれ以上のことができているかというと、疑問です。全ては意志の力になってくるのですから、それは誰がどんなに横からいってもよくないのです。

 

 

 この人にはこうやりたいというものがものすごく明確にあって、とにかくそれに対して体も意識もそこに集中して使っているということを毎日やっているから、そうなってくるのです。同じ日本人ですが、でも感覚的に恵まれているところはあると思います。こういうスキャットを出せる人というのは、日本人のなかにはいません。 

 

だからといって外国人と比べて聞いてみても、意味がないと思います。それをさせないという力があると思います。すべての作品がよいとも、レベルが高いとも思いません。かなり硬いところもあるとは思いますが、でも問われていることというのはそんなことではないと思います。

 

 歌とか音楽というところから、かき回されると、やりたいことがわからなくなります。ですから、どうやるかをきちんと決めていくのです。そのうえで音を動かすのです。この二つは大変なことです。 

こういう課題もそういう力をつけるために、私はこうやりたいというものが少しでも早く見えていくように、いろんなものを入れておけばよいわけです。

でも、そういうものに安易に乗っかってしまうとよくないのです。全てとってから、半分以上は自分がつくるということをやりながら、構成していくことです。すると、もっとシンプルになってくるはずです。

 

 

 

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【「ギターよ静かに」①】 

 

音程差をつけないようにすることです。そこで、声を前に出すということです。わからなくなったら、ことばでやってみればよいと思います。ポジションを気にしたり、体から出そうとしているからだと思うのですが、前に出さないものは全部間違いですから、最初からやらないことです。やっても何にもならないです。言語不明瞭になって、音を雑に扱って、音程もリズムもとれなくすることに何の意味もありません。そういうことではなく、感覚の方で変えなければいけないのです。

 

 声をまねて、声のところで変えてみてもしかたありません。感覚で変えるというのは、いつもいっているとおりです。Wなどに出たら、音程や、メロディ処理をしていくと思いますが、できるだけリズムの強弱のところで、たとえばこういうものを聞いたときに、歌というのは構成があるから、ここは自分が覚えにくいところだとか、ここはこういうふうな間違い方をするとか、間違えるパターンというのを10、20くらい思い浮かぶわけです。だからその間違いを繰り返さないのです。

 

 ただ、そういう経験をしたことがない人は、一体どこで間違うのかがわからないから、とりあえず今回はこういうパターンの間違いをしたということをみていけばよいのです。こういう同じパターンのものが、4つ合わさっているということは、この4つの混乱が起こりやすいのです。特にどこが起きやすいかということも、だいたい決まってきます。みんなもそういうものを先々に予知して学んでいってほしいということです。 

 

 

それから構成ですが、「AAABAB」で2つ覚えればよいだけなので簡単です。しかもこのなかではほとんど繰り返しです。こういう感覚は我々にはないので、何回も聞いてつけていってほしいのです。どこに音の中心が集まっているかということです。

 日本語は頭に「ギターよ」の「ギ」、「あのひと」の「あ」にアクセントがきます。音楽は必ずしもそうではないです。 

 

基本的に固めているところは、日本語に置き換えると、「とに」のところと「くれ」のところです。そこはそんなにずらしてはいけないところです。「くれ」のところは音が高くなっていますから、わかりやすいです。「とに」のところは低い音になっていますから、歌い手の場合は表面上張っていません。 

 

音楽で難しいのは、下のベースのところにある音楽的な構成と、ひとつのリズム、どこかで強くなる、どこかで弱くなるという、そのことが必ずしも歌い手の好む表現とすぐには一致しないことです。

 すぐれた歌い手になればなるほど、バンドが音量を出しているからといって、必ずしも歌い手が音量を出すとは限らないです。逆の解釈をする場合もあります。ただ、それを踏まえてやるわけです。 

 

 

拍があるところを全部打っていたら、とてもつまらない曲になってしまいます。そこで打つために、体では打っておくのだけど、音量には出さないではずすとか、すかすとかいうことはよく行われています。内面を勉強しなさいというのはそういうことです。

 

 表に出てきたものは、表に出てきたものを自分で勉強していくしかないのです。人様の表の出し方というのは、あくまで楽譜の応用例みたいなもので、それをまねてもしかたないわけです。その基礎デッサンを読めるようにしていくことです。そのために、楽典とか、楽器とか、いろいろなアプローチの仕方があってよいと思います。 

 

本当は感覚だけの問題です。何も楽器が弾けなくても、ジャズ理論がわからなくても、そんなものはもともとなかったのですから、ただ、学び方としてそうやって自分のなかで体系づけた方が、わかりやすいということで、そういうやり方もあるということです。

 

 

 そのやり方というのは、本当はこういうものを目で見てというよりは、耳で聞いてみてすぐに構成をつかめるようにするためです。これは2つで、最後のAはA’になっているとか、これは4つ前のこのパターンだったとか、そういう音を構成して聞く力がものすごく弱くなってきています。今のあなた方は、ラジオから音をとっていた人たちとは全然違います。そういうものから勉強してもみるのもひとつの手だと思います。 

 

大切なことは、こういうものを聞いてみて、イタリア語でわからなくとも、それを歌詞でもメロディーでも読むこと、そういうものの展開がみえることです。自分のなかに入らないのにそれは出てきません。

 あまりそういう勉強をしていないのです。そのまま表でコピーしてしまうのです。ですから、徹底して分析してみることです。それは歌詞も、曲もです。その曲を勉強するのではなく、その曲で勉強するためです。 

 

 

しばらくの間というのは、一つや二つのフレーズをやることが繰り返されます。それをやるためにどの条件が必要なのかというのが学ぶべきことです。たくさんのフレーズをやらせると、みんな喜ぶのですが、それは何にもならないのです。ひとつのことから深く気づいていかなくてはいけないのです。そのためには、準備と解釈が必要です。それができなければそういうパターンを入れていくことです。そういうリズムを入れていく、そういうメロディーを入れていくことです。 

 

これはコードひとつで進んでいますから、これほど簡単なことはありません。コードから勉強しろとはいいませんが、少なくとも外れたときに、どうしておかしいのかを自分でフィードバックできるようにしておくことです。それをイメージのときに捉えられないのか、イメージはしたのに出したときにおかしくなったのか、どう間違ったのかということをです。

今、音が下がって間違えたのか、上がって間違えたのかわからなかったと思いますが、それもわかってくるようにしていくのです。徐々に自分がやったことをフィードバックする勉強をしていってください。

 

 あとは読みの勉強です。今みんなにやってほしいことは台詞です。役者さんと同じように舞台の上から「ギターよあの人に伝えておくれ」ということが、きちんと言い切れて、前に伝わることです。前に伝わっているものが、メロディーやリズムがついてくることで、音楽に化けてきます。それが伝わらないところの声は、意味がないとはいいませんが、不要です。 

 

 

ほとんど今の日本の歌い手は普通にしゃべる声以下で歌っています。それはトレーニングの目的にはならないのです。それできれいに声が出せて、音響操作で作品にできる人は、そういう環境にある人は、それでよいと思います。そういう人にもたくさん会ってきましたが、トレーニングしてそれではしかたありません。最低限人間の体をきちんと使って、あとで大きくなれるようにしてほしいということです。

 

 自分のなかで何が働いて、音楽がどう聞こえるかをみていってください。とても単純です。その人の体が楽器になっていますから、ギターの楽器と調律して合わせると、アンサンブルをやるだけで歌になります。 

 

それだけシンプルになっていることの要素は一体何なのかということを、今は勉強してみてください。たくさん聞いて、それで自分のを吹き込んで、それがなぜ成立しないのかみてください。そんな難しいことをやっているわけではありません。そこの部分の接点をつけていくことです。そうでないといくらやっても空回りしてしまいます。 

 

 

よくわからないというときは、楽器づくりとして、前半にやったようなことを徹底してやっていくことです。そうしたら体のなかの感覚が変わってきます。それとともに、よい作品をいろんな意味で聞いてください。

 必ず書かせているのは、それを自分のものにするためには、感じているだけではなかなかものにはならないからです。これは勉強の仕方としてそう勧めているだけです。書いている暇があったら、もう10回聞いた方がよいのは確かです。

 

しかし歌い手、お笑いの人、落語家の人、できる人は膨大なノートをつけています。それはどうしてかということを考えればよいのです。やはり基準をつけ覚えておくためです。自分に対しても人に対しても基準をもつのです。そうやって深めていくということです。

 みえるところまでというのは、誰でもいけるのです。ただ、やった人達というのは3年から先に行こうとしているのです。3年くらいの差というのは、どんなに不器用な人でも10年やったら追いついてしまいます。その人に才能があろうがなかろうが、それではその先には行けません。その先に学べるために、習うのです。そして、そこで出せるものは全部出していくのです。

 

 まだ声も出しつくしていませんね。今考えられるだけの表現で全部やって、どれも通用しないということを徹底してわかってくることが前提です。そうしたら、何か結びつくものが自分のなかに残っているはずです。残っていなければ、体が変わるまで待てばよいのです。 

 

それをはっきりさせていかないと、歌えるような、歌えないようなままで2年経ってしまいます。その先、伸び率がゼロになってしまいます。入ったときに歌えたまま、出たときもあまり変わらないということになると、一体何を身につけたのかということになります。問題をきちんと煮詰めることです。

 

 

 

 

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「心遥かに」

 

これで1オクターブです。「ラーミィァーソーリー」です。我々の感覚では、歌を歌うという感覚は、音をとってつなげるように教わってきているのです。でも実際に彼女たちが使っている音感というのは、そうではないのです。 

「ラーミャー」で、2か3くらいの力を使っているとしたら、極端にいえば、「ソーリー」で5か10、それだけ体に入れているのです。その上で響かせているのです。 

 

どうして高音発声を教えないのかというと、高音発声を開いていく前に、中低音のところで、その芯とかポジションをきちんとつかんで動かせるようにしておかないと、そっちにいけないし、いっても間違うからです。 

テンションを抜いて「ラーミャー」と入ると、もう次の音は予感できるのです。普通の人たちは、もっと浮かして歌っています。すると音高で違うギャップができてしまいます。日本人の場合は音域は3つにわかれ、わかれているのをつないだら歌だというような考え方です。

 

 ここのベースの部分を、たとえば「シレ」だったら、まず「ララ」でもよいし、「ハイラー」でもよいのですが、ひとつに揃えなさいということです。その揃えたところで、「ラーミャーソー」と、ここで体をつけるのです。体づくりというのは、そういう部分のところで大切です。これはきっかけがないとだめで、「ラー」のそこで芯をつかんでいなければ、どうやってもいかないのです。

 

 

 根本的に解決するのに一番欠けているのは、息の深さです。それは、2年くらいではつかないのです。とにかくたくさん吐けとはいいませんが、体をそれだけ強くしないといけません。

 すぐにできるのかは、それだけ体が強いからです。それだけの年月とか、時間で鍛えているからです。そこのきっかけの部分を取るためにやるのが、「ハイ」です。 

 

日本ではそこを教えないのです。外国人のトレーナーは、それがすでにできるものとして、その次から教えますから、余計にややこしくなるのです。「セレーナ」とかはわかりやすい例です。見本になるのは、頑ななまでに声の芯を離していないところです。もっと離して、もっと楽に歌えばよいのにと思いますが、トレーニングの場合には、ひとつの見本になるわけです。 

 

こういう人たちは楽々に歌おうと思えば歌えるわけです。普通の人が聞くとわからなくとも、プロにはわかるのです。 

日本人の一番できないところというのは、2、3年経っても、まずそういう感覚が入らないということと、聞いてみるとそうだと思っても自分がやると抜けてしまうのです。日ごろそういうものが必要でないところで生きているわけです。

 

 

 それから、トレーニングの量もかなり問題があります。ただでさえハンディキャップがあり、テンションの問題もあります。いろいろなステージをみて声を全身で受け止めるというようなことを、前提としてください。それは全身で表現しなければ伝わらないという状況に、少なくとも、イメージのなかで置かなければいけません。それがないと、口先で足りてしまうわけです。日本のせまい家のなかで、全身で表現していたら、まわりの人の迷惑になります。 

 

その音に対する、あたりまえのことをあたりまえに受け止めるという、そこの感覚の欠如が一番大きいと問題だと思います。それは2年くらい経たないとわかりませんから、本当にトレーニングになるのは2年経ってからです。そこからどう体が変わってきたことが、出てくるのかということです。

 

 「ラミャー」でも、「ハイラー」でもよいです。太い声とか、深い声とかを意識するのであれば、本当は前に出なければよくないのです。役者さんは、一時期そういう声を体のほうに入れるやり方をとる場合もあります。女優さんでもそういう人もいます。 

これを「ハイ、ハイ」でもよいから、なるべく同じポジションでとってください。「ハイ」でも「ライ」でも、キィは自分の一番出やすいところでよいですし、それを前に投げるような感じで、やってみてください。

 

 

「ハイ、ハイ」 

全然、前に飛んでこないです。自分のことが自分でわかっていないのです。そんな感じでは、飛んでくるわけではないのです。大きな誤解というのは、やったものを身につけないで、やれたと思って先にいくことです。 

体が先生みたいになったらとか、誰々さんみたいになったらそうなるということではないのです。

 まず、自分のことを知って、自分のなかの一番よいところを選んでそれを出さなければいけません。仮に声がついてきても、それでは使えないわけです。 

大切なことは、アティチュード、そこが舞台で、そこで全てを瞬時に出すという心構えとか、テンションとかが必要なのです。そういったものがなければ声の世界も扱えないからです。その必要性がないからです。まず「ハイ」だけでよいから、しっかりと出してみてください。

 

「ハイ」 

いろいろな「ハイ」があります。これは私が浅い息で、首から上でできることです。ということは、それだけみんなの体が伴っていないのです。もちろん、最初はそれでよいのです。

 そういうことが自分でわかってきたり、実感できて、その差がわかれば、そこはギャップがみえてきます。最初というのは、その差があることさえもわからないのです。ギャップがどのくらい大きいのかということもわからないのです。だから、練習できるようにしていくのです。まず第一の原因というのは、体の状態、きちんとした息が用意できていないことです。もう一度「ハイ」をやってみましょう。

 

「ハイ」 

声というのは正直なものです。この空間に「ハイ」といったら、ひびくわけです。だから、自分で「ハイ」と出してみて、どうでもよいというわけにはいかないのです。ヴォーカリストは、息の最後まで責任をもって持たなければいけないのです。そういうところで鈍感なことをやっていたらよくないのです。

 

 

 自分で何が出たのかとみることです。その出たことが何であるかということをきちんと知ることと、それをどう変えるかということを常に考えないといけません。レッスンというのは、気づかなければ、不毛です。常に発見し発明しなければだめといっています。

それは誰かがいうとおりにやっていても何も出てこないからです。その最大のヒントというのは、自分の頭とか、考え方ではなくて、自分の出したものをみることです。それが人に伝わるわけですから、自分できちんとフィードバックしなければいけないのです。

 

 そういうことを何回もやっていたら、録音を聞かなくても、自分の声がどう出たのかがわかります。いつも声を前に出すことをいっていますが、ただ声が前に出るのではなく、気持ちが前に出るということと、声が相手にどう伝わっているかということを、自分がきちんと踏まえてコントロールするということです。 

 

外国人の方が声はうるさいのに、海外に行くと日本人の方がうるさいといわれます。それは、自分の声がどれだけ広がっているか、どれだけまわりの人が迷惑しているかがわからないからです。それだけ声に無頓着なのです。

 外国人の方が声自体は大きいのにTPOをわきまえています。ということは、自分の声をどれだけ出したら、相手に届くかということを知っているからです。日本人はそういう感覚や体験がありません。そういう教育も受けていません。 

 

 

今の「ハイ」でも、「ララ」でも、それが投げ出されて何を起こしているかということを知ることです。それが歌や音楽です。絶対必要なことです。歌は自分で勝手に歌っていればよいということではありません。それにつながるところになるように、コントロールしなければいけません。 

 

次は2音です。「ララー」でもよいです。みんなの段階だと、上の音があがってしまいます。上の方に逃れてしまいます。そういうときは、「ラミャ」と言葉でいって、言葉でいうときには離さないことです。しかし、日本人は歌でそれを許してしまっているのです。外国人の歌では基本的に許していません。彼らは子音で切ります。息で切るためには体を離してしまったら、切れなくなります。深い息を吐いて、そして切るわけです。

 

「ラ、ラー」

 こういうレッスンというのは、全ての先生がやっていると思います。そこで先生の見本や、他にもう少しできる生徒を参考に、そこで何が起きているかをみてください。これは、単に「シレー」ではなく、音楽なのです。 

ひとつは楽器の性能ということもありますが、もうひとつは感覚のところです。「シ・レー」と、違うことを起こしたらよくないのです。音楽である以上は、「シー」をきちんと捉えます。「シレー」と、それをコントロールするために体も感覚も必要なのです。 

 

 

ボールがきたからバットを振っているだけでは、おかしくなってしまいます。しっかりとしている人はどうしているのかを、捉えなさいということです。スポーツはある程度、目で見えるからよいのですが、声は音の世界は、いくら見ていてもわかりません。でも感じることはできると思います。 

 

ですから、発声も「ドレミレド」の練習をしているのではなく、「タララララ」がひとつの線で聞こえるための練習をしているのです。「ラララ」というのも、「ラ・ラ・ラ」という練習ではなく、「ラ」と出したときに、そこで音楽があとに生じるための素地をつくっているのです。これは素振りと同じです。

 声が入っていると出しやすいというのがあるのですが、まず、入っていない人は、「ハイ」に戻って、

 

「ハイ、ラー」、「ハイ、ハイ」で、同じことを起こさなくてはいけません。そこで同じことが起きたら、つなぐのです。 

本当に半オクターブというのは難しいことで、そういうことを何年もやって身につけていくのです。やれた人は、長くやったからできただけのことです。 

 

 

その前にそれを離したくないという感覚があるかどうかです。要は、格というか、威厳です。そういう判断基準では、すごいものとか伝わってくるものというのは、そういうところがきちんと整っています。それは、その人間の姿勢というか、音に対してどう向き合うかということです。そこから直していくしかありません。 

 

キィは変えても構いません。声を太くしたい、あるいは離したくないという人は、とにかくひとつの音にけじめをつけてください。正しくできることをより正しくしていくということです。

 それに対しては、音の高いところでも、少し長いのでも、リズムをつけることも全部応用です。応用をやったときに、この基本を厳守するということです。 

 

歌はこういうふうに歌うというのはないのですが、練習のときには、それがあとで土台に乗るようにしていかなければいけません。胸の声とか、太い声とかを土台に乗せたいのであれば、練習のプロセスとして、役者のセリフのようなことを経た方が、確実にその準備ができるということです。強化するわけですから、不自然なのはしかたありません。不自然なのは、よりパワフルに自然のところにいくために、必要なことなのです。

 

 

 

 

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【「アモーレ スクーザミ」】

 

「覚えているかしら あの夜のことを」 

大きな曲なのですが、そのわりにきちんと言葉でまとめていく必要性があります。甘さを加えたり、音色を出したり、いろんな要素が入っています。 

高音のところよりも、今は、言葉できちんと握っておいて、そこに「覚えているかしら」という世界をつくり出していくことです。自分のなかでダラダラとしてきたら、どこかで引き締めなければいけません。そのために音楽はリズムとか拍とかがあるわけです。それを切ったり伸ばしたりするのは、その人の必要度にもよります。

 

 「覚えているかしら」が中間音で、「あの夜のことを」が低音になりますが、それよりも、そのときに「暗い」がどこに準備されるかということです。いろいろな発声があって、ロックの場合は、シャウトから抜くこと、ファルセットとまであります。それが出てくる集約点を作っておくことです。 

高い音ということよりは、むしろテンションの高さ、集約度です。そこで煮詰まって、一点にやっていくところとして、そこの気持ちを負うまでのことをきちんとやっていかなければいけません。 

 

今日は構成をやっているわけではありませんので、そこのなかで「覚えているかしら あの夜のことを」を、自分の発声とか、音域とか、リズムで苦労しないところで、声を動かしたり、その音色を変えてみましょう。気持ちで音色のおき方、息とのミックス、そういうものを工夫して、そこにまず表現を出していくことです。それを高音でやるのは難しいですから、低音でも、中間音でもやりやすいところでやります。

 

 

 「覚えているかしら」は、中間音くらいですから、そこでバタバタなるということはまずありません。最後のところは「あの夜のことを」と上がっていますが、そのところは「おぼ」で押さえていたら、「おー」と、このくらいで押さえられます。 

ところが、そういう音楽の韻を踏んでいくところは、同じことを踏んでいくほど忘れてしまいます。すると全然、違うところの声が出てしまうのです。それは同じ高さだから同じ声を出さなければいけないのではなくて、基本的になるべく同じところの線で持っておいた方がいいのです。 

 

それで、もし感情を入れるとしたら、「暗い」のところとか、「どうしてもいえなかった」とか、絞り込みます。全部のところに感情を入れようとして、全部に同じだけのテンションを使っていくと、全部が聞こえてきても、何をいっているのか、どこで切れるのか、わからなくなってくるということになってしまいます。

 

 一所懸命に1フレーズをやっていくのですが、次に作っていく流れのなかから、そこにどのくらいのものを置いていいのか、入れすぎてしまうがために表現がぐちゃぐちゃになってしまうこともあります。 

簡単にいうと、テーマの部分と言葉の部分の2つだけの歌です。言葉のところを分けたら4つだし、テーマも分けたら大体4つです。あたりまえの構成になっています。そういう中で、つかんでいってほしいということです。 

 

 

 

「暗い夜の海辺 甘い磯の香り」と、こういうところもことばの朗読とともに、メロディをつけたときの、メロディでの朗読について知ることです。こういう読み方もある、こういう音のおき方もある、あるいは「暗い」の持っていき方をどうやっていくかということ、音には長短だけでなく、いろいろなものがあります。「覚えているかしら」ひとつでもいろいろと動かせます。そのつなぎ方のところを練習してほしいのです。

 

 できないところは発声練習をしていればよいのですが、できているところに関しては、むしろそれを自在に動かすことをやってほしいと思います。そうしないと、いつまでたっても動いてこないでしょう。動いて始めて、表現されたところのレベルがどういうことかということがわかってくると思います。 

 

これをなるべく早く、この「ミファソド レミレレレ」ということよりも、「タラーーー」でも、「ビボバボー」でもいいし、音高で左右されない動きのなかで、音色と置いていくものを出していくことです。一人ひとりこの「ミファソド レミレレレ」の弾き方も違ってくると思います。自分はどう弾くかということです。セリフとは違います。だからといって、歌い上げるレッスンでもありません。その間のことをきちんとやることです。

 

 

「覚えているかしら あの夜のことを」

 役者は、「覚えているかしら」というせりふのなかで、何回も何回も練習します。それと同じことをヴォーカルの場合は、メロディー、リズムの要素とそれから構成を加えてやります。曲のなかでの構成、セリフとは違う意味での構成というのがあります。それを自分で繰り返したときに、自分のなかできちんといえたり、声が出たり、届いたりということを確認してください。それでひとつの条件です。

 

 やってほしいことは、この半オクターブ、自分が取れる中で、それを目一杯、表現することです。表現するというのは相手が何かを啓発される、イマジネーションが刺激されるということです。自分のなかでいえただけでは相手には伝わらないし、よくても声が飛んできたというくらいです。 

どちらを取っていくかというのでなく、メロディと言葉のギリギリのところでつないでいくことです。セリフの場合は言葉ですが、メロディー、「覚えてーいるーかしらー」となると、そこに、さらに呼吸が必要になってくるのです。

 

自分のなかでもそこで伝えたなという感覚があってこそ、それで伝わらないから、何回も何回も練習しなければいけないのです。伝えたなという感覚のなかで、相手にも伝わったなというものをとる、そこにひとつのイマジネーションが必要です。 

 

 

自分のイメージがあり、相手のイメージもあって、相手とは全然違うことを考えていてもよいのですが、引き込むことでしょう。

 何かそこで思い出させてもらったり、何か自分の心に、風景が思い浮かぶ、何かその言葉とか、メロディとか、音の刺激をきっかけにその人の何かが伝わればよいのです。 

 

トランペットの音を聞いていても、感受性の豊かな人はいろいろと感じるわけです。その部分は持ちつつ、そのところで「覚えているかしら」ということばを投げかけることによって、よりそういうものを導きやすくするというところが、楽器よりも、歌のすぐれているところです。その辺の勉強を何回もしてください。 

 

セリフから離れなければいけないのですが、セリフのなかに内在しなければいけません。特に歌の場合は呼吸が必要です。セリフも呼吸はいりますが、歌の場合はリズムも音域も取らなければいけません。どうしても呼吸の乱れが自分の表現を裏切ってしまうということがあります。だから、トレーニングするのです。

 

 

 

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【「マンマ」③】

 

「また会うよき日の やさしい声で」

 まず、そこに立つということと、その次に入れるということ、そして出すということが大切です。できるだけここで今勝負するということです。こういう勉強というのは、ただ曲を歌うためにやっているのではなく、そこに立つということは、入れてきたものを出すことがわかっていれば、それを自分で捉えるということです。 

 

だから、入門科と④クラスと同じレッスンを続けてやるととても面白いのですが、結局、入ってないものは自分が補って出すしかないわけです。たとえば2回くらい聞いても、できないとわかるわけです。できないときに出てくるものというのは、自分のなかに入っているものです。その音の狂いかた、あるいは音程にしても同じです。作曲してごらんというと、10曲のうち、大体6曲くらいは同じような曲ができると思います。それはあなた方が親しんでいる、リズムであったり、音であったりするのです。 

 

それを嫌って、今度はボサノヴァふうにとか、形から入っていかないと、なかなかその人のなかに中途半端に入っているものというのは変えられないわけです。今のでも、その人のなかに、ある種の精神性とか音楽性があれば、それなりに歌えてしまうのです。ただ、そのレベルがぜんぜん違うということです。

 

 

 自分の勝負できるところがわかっていればよいわけです。それを音楽にするということを日ごろ勉強しているかどうかです。出てきたものを即時に変えるというのはとても難しいのですが、どういうふうに自分の歌が出ていくかというのを、そろそろわかってこなければいけません。 

この場合は、ここで間違ってくるだろうとか、そういう場合にはどういうふうによけなければいけないかということを、あるレベル以上の人はその場で瞬時に修正しています。だから出したものに対して修正をかけていくというのが、練習のなかで一番大切なことなのです。 

 

もっと短い時間でぱっと聞いてみて、ぱっと出してみたときに、出てくるものは自分のなかに入ってくるものです。これを何回も聞いて覚えていくと出てきます。でも、そこでのずれというのも、結局、足らないときに何が補っているのかというと、その人のなかに入っているものです。それが音楽性を伴っていたり、きちんと基本に基づいていたら、それはそれなりに表現できるものになります。

 

 今出してみても、相互にそれぞれの表現を出していますが、それが全然わかっていない人と、きちんとそれがわかっていて、しかも配分している人や、次のまとめ方まで考えているという人とは、ぱっと聞いてもわかります。それはキャリアの問題というよりも、日々の練習のなかで、どれだけそういうことの課題に対してやってきているかということです。 

 

 

歌い手というのは、声も音楽も歌も使いますが、そこの感覚の部分に早く鋭くなって、出していかなければいけません。自分に入っているものは何かということを、1回出してみて勉強してみればよいと思います。そうすると何が足らないかというのがわかると思います。

 

 今みんなの回したものを聞いても、課題のとり方のレベルが全然違います。それ以上のことでやっている人と、まったく自分のキィもテンポもわからず、呼吸もわからないで、とにかく出せばよいと思っている人もいます。これは初心者とプロほど違うわけです。 

 

その結果として、音楽が聞こえてきたり、ああこの人はこう歌いたいというのが見えてきたり、この人は単に声を垂れ流しているだけだとか、もっと集中したらどうかといいたくなる人もいます。それは自分のことを知らないということです。そのまま2年も3年も経っては困ります。それは自分でやって、録音で聞いて、足らないところを補うのです。

 

 

 お母さんをたたえる歌です。これはママでなくても、パパを思い浮かべていても何でもよいのです。とにかくそこに立つということが、第一条件です。それで半分以上は立っていません。 

これがきちんと入っているかは、このコードや、音が入っているかということではなく、音楽としてここから盛り上がるとか、ここで落ち着くというものでよいのです。 

 

正確に歌えということはいっておりません。それを支えるのが、今まであなたのなかにある音楽性とか、ステージ度胸とか、あるいは表現力です。それから、そういうものがあるにも関わらず、声のところで失敗してしまったとか、息が足らなかったとかいうのは出すところでの間違いです。これは大したことではないのです。 

 

本当はトレーニングというのも、そこの創作のところでやりたいのですが、今の問題というのは、入っていないことでの問題になってきます。音楽をかけながらやるのは、まずこの歌い手が立って入れて出しているところを、きちんと受けとめなさいということから必要だからです。そして次に自分に置き換えてみなさいということです。

 

 いきなりイタリア語で聞いてみて、それを日本語でやると、初心者はバラバラになってしまいます。キィは変えなければいけないし、テンポも変えなければいけないし、メロディーもとらなければいけないと、パニックになってしまうのです。そうすると何が出てくるのかというと、その人にもともとあるものです。それをきちんと見ることです。それで足らないものを補っていけばよいのです。

 

 

「マンマ 歌ってください」 

まず、ここまでの気持ちに入っていません。トレーニングというのは、オーバーにやらなければいけません。歌い手がどういうふうに歌っていたとしても、皆さんの場合は、トレーニングをするわけです。より体と息と精神状態が高まったほうがよいわけです。 

歌をもっと引き受けなければいけません。そうすると体とか心が動いてきます。これで起承転結をつけてやっているわけです。そこまでまず入り込むことです。それが立つということです。

 

 プロがここまで入っているのですから、皆さんはもっと入らなければいけません。しかし、そうしたら出れなくなってしまいますから、日ごろのトレーニングが必要なのです。他人事で歌ったらよくないです。このことを歌わなくてもよいし、自分のスタンスがあれば、そのスタンスに変えてしまってよいのです。 

ここのところで若干感じが変わります。それが精神性みたいなものです。技術でやったり、理屈で考えて音をとろうとか、この世界を歌おうなどを考えるからおかしくなるわけです。その根本になるものは何なのかということです。それは感じることであり、その感じを出すことです。 

 

それが壊れてしまうのならば、メロディーもつけないほうがよいし、言葉なんてつけなくてもよいのです。泣き喚いていたほうがよいわけです。あるいは笑い転がっていればよいのです。そこの部分を殺してはいけません。それが相手にきちんと伝わるために、メロディーがついて、ひとつの構成があるわけです。その理はとらなければいけないのです。だからといって、わがままに好きなようにやっていても歌にはなりません。

 

 

「バラ色の顔に 微笑をたたえ」 

1フレーズずつやっているのを、キィについては変えてもよいわけです。上がっていくからといってどんどん声の出ないところでやるよりも、とにかくきちんと声をとらえ、そこに自分のものを汲みこんで、それを出していく経験をつむことです。その動かし方を自分で修正していくという勉強に入らなければいけません。

 

 1曲全部をやらずに部分的にとらえてやっているのですが、部分的な中にもそれぞれの役割があります。だから大切なことは、早くそのなかに入っていってほしいのです。たとえば言葉でも、「バラ」と、「バラ色」は違うのです。「バラ色の」というのでも、「バラ色の顔」というのでも違ってきます。それに対して「微笑み」というのもまた違います。 

 

たとえば、「バラいろーのかおにーほほえみーをーたたえー」と歌っていたら、小学生と変わらないわけです。気持ちを入れるといっても、これを数字にすると、「バラ色」が1、「顔に」が2、「ほほえみ」が1で、「たたえ」が2、でもプロというのは、その1から2にいく中で、そこに100から200くらいいろいろなものを読み込むのです。「バラ」が100で、「色」が134で、「の」が134だったとしたら、次の「顔」が92とか、それだけいろいろなものが入ってきて、展開していくのです。 

それが声のなかで現れるには、あなた方のなかにまず入っているか、それを出そうとしているか、感じているかということです。それが全然足らないということは、何回レッスンしていてもよくないです。

 

 

 まず、たった1行でもよいから、そのなかで200くらいの展開をやってみればよいのです。たぶん6つくらいしか出ないと思います。その6つでは全部は無理だということです。1曲をやるのにも無理なのです。

表情ひとつでも、こういうものを聞いてみたら、だいたい歌い手の表情が思い浮かぶでしょう。それだけ入ってきて、そこで多彩な表情なり、体の動きが自分で作れていますか。 

 

オーディションの結果を深刻に受け止めているのですが、少なくとも昔は、誰かがきちんと歌って持たされていたことが、なくなってきています。それは後輩のためにもよくありません。何が違うのかというと、そこに立つということの覚悟です。

 この曲を歌うとか、この曲で争うわけではないのです。しかし、こういう曲を振られたときに、それを受け止めるだけの、それを自分で提示するというところに音楽が結びついていないのです。音が取れるのは、よいのですが、そこになぜ気持ちが入らないのでしょうか。その気持ちの展開がこういうふうな、いわゆるこぶしみたいなまわしになるのです。それを抜かしてとってみてもよくないのです。 

 

だからといって、無頓着にそんなものがあったのかと、わからないのも困るのですが、わからなくても本当ではよいのです。それはその人のやりたいようにやればよいのです。大切なことは、それが気持ちの上で展開されているということです。メロディーとかリズムのことよりも、そのほうが気になります。

 それをきちんとやろうとしたときには、メロディーとかリズムが伴わなければいけません。それは別にレッスンをすればよいわけです。仮にやれないなら、こういう5分間のなかでやれることではありません。 

 

 

立つということはとても大切なことです。こういうところをコピーしたら、なんて声を張り上げて、おかしなことしているんだというふうになると思うのは、説得力がないからです。そこで声だけを張り上げていたら、ひどい声を張り上げやがって、ということになります。よい声でやれても同じです。 

逆にプロだからといって必ずしもきちんと出しているわけでないのに、そこで説得させてしまうというのは、そこまでの気持ちの高まりを用意して作っているからです。 

構成まではレッスンのなかではあまり問うてはいません。ただ、それは何回も聞いていく中で、どこが中心だなとか、どこになったら落ちてくるんだなというくらいは、捉えていると思います。

 

 特に、その半オクターブから1オクターブでの間での展開、4フレーズから8フレーズをみることです。基本的に4フレーズ×4で歌は組み合わされています。 

ここの「美しく」のところも、日本語でやると、「うーーつーくーしーくー」みたいになって、どう考えても置き換えはできないのです。でも彼らが間違いにならないというのは、自分がそこに立っているからです。自分がどうやってもそれが正解だというところで歌っているからです。 

 

皆さんがやるとおかしくなるというのは、それはまだ誰かのを歌っているからです。それに対してうまくいかないところは、減点になってしまいます。確かにメロディーとかリズムの狂いでの減点はあるかもしれませんが、それに比べたら、そんなに大きなものではないのです。 

それを引き受けていたら、曲はどうでもよくて、その人が歌ったように聞くのです。でも、そこはおかしいんじゃないかとか、ここは外れたなといわれてしまうというのは、それをきちんともっていないのです。 

だから、音程とかリズムの問題よりも、そのスタンスの問題をもう少し考えなければいけないのです。本当に初心に返って、ことばを思いっきりいって、きちんと今の自分の体と、声のことで、どこまでの表現が出せるのかということを、音楽ということよりも表現で問うてみればよいと思います。 

 

 

自分の呼吸を持っているということはこういうことです。するとそこのなかでいろいろなことが起きてきます。それを変えて、メロディーを作ってみたり、そこでファルセットを使ってみたり、シャウトしてみたり、ミックスヴォイスにしてみたりしてもよいのです。それは、単にまねしてもよくないです。たとえばこういう中でいろいろと音色が変わってきています。そこで自由にしてやるということです。そういう理由があるものは絶対にミスにはならないわけです。 

 

ところが皆さんの場合はどちらかというと理由がなくて、そう聞こえたからそうなっているだけ、この音がついているからとか、高いところだからとか、それがみえみえになってしまうのです。一体になっていないのです。

 「マンマ」ということによって、自然に次のところに入っていけるということは、そこに気持ちを置いていかなければいけないということです。すぐれた歌い手というのは、歌をバーッと歌っているのではなくて、それをきちんと置いていっています。きちんとおくから次に自由ができ、その空間が使え、時間が動かせるのです。 

 

これでも楽譜からいうと、相当、違っています。でも歌い方のミスにはみえません。ある程度、失敗しているのも中には入っています。ただ、フレーズが持たなかったとか、そこで切って、「マンマ」の前にああいう音を入れたのはなぜかということを、その気になって聞いていくと、やはりその理由があります。それは、自分の見せ方をきちんと知っているということです。それとともに自分の限界も知っているのです。 

だからそういう呼吸の配分をするし、フレーズを続けるのです。 

ビルラが続けたから続けるのではなく、次のところで「マンマ」ときちんと置かなくてはいけないから、そのためにはここまでの盛り上げしか、できないというところのぎりぎりのところの折衝で出しているのです。

 

 

 歌というのは、何も声量があって、音域がある人がうまく歌えるのではなくて、その自分のぎりぎりをきちんと知っていて、そこで勝負できる人が使えるのです。ぎりぎりで歌わないと、だいたい流れてしまいます。ただ、ぎりぎりを確実に出すということは、余裕がないといけないわけです。そういうわけでいろいろな条件を整えていくということは必要だと思います。 

 

いろいろな勉強がありますが、まず自分に何が入っているものを知るということと、自分の武器をきちんと見据えることです。そして、その使い方をいろいろな応用パターンでやってみることです。こういう曲を歌うことはないと思いますが、でも、こういうものをやると、そういうものが拡大されて出てきます。そこでできていなければ、そこに課題があるということです。 

 

食わず嫌いをしないで、いろいろな曲をやって、そのときに働かない感覚、そのときに自分が苦手だと感じたリズム、音程、フレーズ、そういったものが、自分が今まで見ないできたものです。基本なのです。 そこで入りにくいというのは、自分に欠けているところです。そういうものを補強をしていったら、どんどん応用ができるようになってくると思います。

 

 

 ③のクラスも、ほとんど④のクラスと差はないのです。声量でいったら、③でも出せる人はもっと出せるのです。ただ、その使い方を知らないことと、それをどう見せるかというところに神経がいっていません。もったいないことをしています。正直すぎるわけです。そこを知らないといけません。 

 

オーディションでああいうふうに評されてしまうのは、悪いところに自分で気づかないでそれをどんどん出していくからです。それがマイナスにされて評価されなくなってしまうのです。うまい人は、他人にみえるようなマイナスは絶対に出さないのです。

 

ポイントを稼げるところだけを0、1、0、3、と、こんなものでコンクールはよいのです。そうすると合計が何点かになるのです。それを正直に出しても、2、マイナス3、3、マイナス5、では、聞けたものではない。楽譜ばかりで勉強してしまうとそうなってしまうのです。 

 

 

「マンマ歌ってくださいー、あーの子守唄をー」と、こういう馬鹿みたいなことをやる人はいないでしょうが、似たようなことを歌になると平気でやってしまうのです。それを切っていくものというのは、その人のスタンス、精神性だと思います。 

 

自分はこのパターンに持っていったら勝負できるが、このパターンでは苦手だからごまかしてしまおうというのもテクニックです。外国人の歌い手にはそういうのが多いのです。ほとんど聞こえないところや、適当にスキャットしているところも多いわけです。 

 

日本の歌い手はきちんと最初から最後まで歌うからつまらなくなってしまうのです。自分が歌えるところは勝負して、他のところはマイクから外れていたり、音がそれていたりしても、あまり気にせずに、クリエイティブにある方に正したいものです。はずしても次のところで挽回しているから1曲として持ってしまう力を身につけてください。