課題曲レッスン2
【アドロ】
学べる環境ができていても、同じものを聞いたときにどう学んでいくかということが肝心です。それをしゃべってしまうとそのことにとらわれてしまうので、本当はよくないのです。だからもう少し細かく曲をおとそうと思います。
歌がうまいとか声がよいとか悪いとかは何の差かというと、まずは耳の差です。耳がよい人はよくなるのです。それは生まれつきの耳というより、同じものが聞こえた中にどう感じられるかです。
音楽に接するということはそういうことなのに関わらず、そういう聞き方を全然しないどころか、多くの人は音楽の世界、特に歌うことに入ったがためにそれに無神経になるのです。特に楽器や作曲の人と話すと、ヴォーカル以外にはそういう人はあまりいない。そういう面ではどこでも同じなのでしょうか。
耳といっても実際には入り口にすぎない、心で聞くわけだから、それがどう本質に関わってくるかというのが見えるかということです。たとえばミルバとドンバッキを比べてみると実力の差があるのですが、そこの差は一体何なのかがわかってこそ、生かせます。ミルバにはなれない、ドンバッキまでの力もないけれど、そこで何を直せばよいかが明確な課題としてわかれば上達していくわけです。
課題として落ちてこないものに答えはない。
結局、全ては、文化の問題ということに、いってしまうのですが、本気で変えようと思えば変えられる。人間のイマジネーションの方が豊かだからです。
その原点をもう一度やったらよいと思います。何年かいるといろいろな曲を知る。日本人は、曲をたくさんやったとか何年もいたからとかいうことで力を判断します。音楽界だけではないと思います。結局、表しか見ていないのです。
耳というのは、体や心という部分です。そこで聞いていかないとよくないです。この当時の歌が学びやすいのは、歌っている横でマイクを立てたのと同じようなシンプルな録音だからです。マイクがあってもそれをはずして生の声を読み込みやすいのです。そういうところで比較してください。
ピントはずれの比較が多いです。これはできている人でさえ、本質的なところを見ているのと全然違うところで動いているのに、愕然とします。まだそんなことがわからないのかと思っても、渦中に入ってしまうと、よほど自分をもっていないかぎり、流されます。そこで踏ん張れない。
1年や2年はよいのです。自分のわからないところに何か理由があるのかもしれない。そう思ったら、ことばでのやりとりを遠慮するのもひとつのマナーでしょう。そのときに結果を見てその違いをきちんと自分のなかで反省しておかなければいけない。そういう作業はあまりできていない。それは引き受けていないからです。
自分のことを全てやらなければいけないとしたら、どこのことまでやるのか。物事の本質を見るのが大切なことであって、音楽はまだ無理といっています。
「カンツォーネ」は4年くらい前、ある研究生が絶唱しました。その年は私はもう1曲しか覚えていない。そこから何曲、聞かせてもらってきたかというと、年に2、3曲です。それを一人から2回聞いたことはないのです。それだけ難しいことだと思います。
ただ当人がそこできちんと判断をしていけば、それは確実に出していけるはずです。たまたま定められたときに出すことが難しいというだけのことです。それが次の課題ではありますが。そういうところの差をきちんと聞いてください。
それから何回も同じ教材を使うのは、レパートリーに使うわけではないでしょう。古い曲です。よほど新しくリニュアルして歌うのならよいのでしょうが、そうでなければ単なるノスタルジーにすぎません。どういうふうに聞こえるかをもう一度確認してください。
とりあえず立つこと、その場に立たないとしかたがない。それから入り込むことと出してくることです。
いろいろなものを比べるにも、全然面白いと思いませんが、技術よりも上に何かを出しているものがあるわけです。他の歌になってしまうと技術しか出していないような歌がわかります。
声や歌で何かできるわけではありません。何かできるものにそれを伴わせなければいけないのですが、そういうところに立っていない。
イヴァ・ザニッキの場合は、ビルラと違うところで勝負しています。自分を知らなければいけないというのはそういうことです。もし、自分にその感覚や声がないとしたら、そこは何でフォローすべきなのか。
格好のよいのを見たいのです。格好悪いのを見せにきて、こびるというのは、その人の感性の低さか甘えです。それもなく一所懸命やっているのなら、それは見えていないのです。
自分を見て何を学ぶかというと、こういう人達が歌を処理するときにどう歌おうと思ったのか、それはどうできているのかということです。この当時のものはひどいものも多い。皆にかけているのは、まともなものです。ひどいものでも声の力で何とかなってしまうものもあるから、紛らわしいのですが、よりすごいものを見たら、中途半端なものはふっとんでしまうのです。
最初はカンツォーネやシャンソンは、わからないし、英語の曲を使っても英語の感覚も伝わらない。それは感覚も悪いのですから、やむをえず使ったのが、外国人が日本語で歌っているものです。これはわかりやすかった。その延長上によいものがなかったので、シャンソンやカンツォーネを取り込んできたのです。
そうなってくるといろいろな比べ方ができる。同じ曲を違うヴォーカリストが歌っているのを比べるのも、同じヴォーカリストが日本語と原語で歌っているものを使うのもよいでしょう。
トップレベルのものをある程度聞いておいた上で、他のヴォーカリストがそれとどう違うものをやっているのかということです。レイ・チャールズのエリー・マイ・ラブも、それを本当に100回も聞いてみる。違いを分析するというより、こういう体があったらこう変化させるということ。
ミルバも日本の曲を歌っていますが、全部イタリア語の感覚で歌っている。比較して彼らの感覚では息がこう働いて、こういうのだというのを勉強していくことです。
それをカンツォーネでやれということではない。自分の聞いている音楽でもできる。しかしあまり加工されているとわかりにくくなる。きれいに整えすぎるからです。
皆の歌でも今の日本のプロデューサーがついたらものすごくうまく聞こえるでしょう。皆より歌えないのにデビューしている人もいます。それでもある程度には聞こえます。技術はもっと進歩してくる。大体、みせられるか否かは、結局その人の声ではない。声をやるのは感覚を磨くためです。
磨くということがわかりにくいとしても、柔道などをやっていたら、ひとつの基準ができてくるでしょう。ただ強いといって街を歩いていてもわからない。そこに同じ仲間がいれば比較は成り立つ。そういう意味で場と時間が必要です。同じ条件下で見なければわかりにくい。
もしミュージシャンということで捉えるのなら、音楽で判断するのが本当のことだから、断定はできない。
ただ耳が磨かれていないのに、こういう世界に入ってしまうから鈍感になる場合が日本では多すぎます。それを避けるのが今の一番の目的になっていると思います。
成長が遅いのは構わないのです。それはその人のスタンスがまだ決まっていないととかいろいろな理由があります。刻々とあるとき大化けする準備がきちんと積まれていたらよいのです。
グラシナ・スザーナです。耳がよいとはどういうことかというと、今「アドロ」と聞こえましたね。回してみると「アドロ」という、これは全然違いますね。これは日本語と外国語が違う以上に違うわけですね。その通りまねしなさいとして、それで全然違う。それは言葉の認識以前が違う。
だから本に書いてあるようなことからやっていく。脳が虫の音を自然音か雑音かに聞こえるくらいの違い、そこから違うのだから、そこから捨てないと、彼らの感覚はわかりやすくても入りません。
ここは日本人ではないというところです。全部踏み込んでいるから、そういう拍のつき方になります。日本人らしく歌えているところは母音のところで「バー」とかうつろに伸ばしているところです。逆にいうと音楽や歌になりにくいところです。
日本人はことばに音をつけて、つなげるのが歌だと思っているわけでしょう。ジャズのヴォーカルを聞くのもわかりやすいでしょう。体のなかに声や響きがすべて入っていて、後はマイクがどこにあろうが、しゃべっているときの感覚の歌い方なのです。研究所で理想とするのはそこです。
いろいろなところを歌い上げようが、響かせようが、抑えを知っていたら全然問題はないわけです。大切なのはそこの前にある感覚です。それは耳では聞こえにくいのでしょう。
日本人の場合「突然」がきちんといえなくて、離した場合に「私」で踏み込めないのです。この見えないところを息が支えているわけです。
「死んでもいいわ あなたの」、こういうところも彼女の呼吸がわかりますね。息や体の強さもわかる。ギリギリまでいくと破裂してしまうから、その前まできちんとおとしている。それをテンポであわせるために早くしているのです。
流れとしてここでどういおうとか感情を入れようではなく、音楽的な観点でそこをどう動かすかということで動いている。こういうところを見れば相当、体が強いことがわかります。これだけでは、聞こえないところがある。これは古い録音だから、マイクを近づけていてもそれだけ聞こえる。日本語以外の言葉は聞こえようが聞こえまいが、そこで息が流れて発されていれば通用しているとされます。
日本語の場合ははっきりと伝わるように全部いってしまう。音としてしかカウントしないので、音が聞こえなければそこでやり直しというようなやり方をとります。彼女の歌っているのは、あくまで日本語ではなくて、向こうの言葉で何回も歌ったところに日本語を当てはめたのです。その分ギャップは少なくなっている。
原語で出すときとギャップがある。声を使うときと使わないときの差があります。
この方が彼女の実力です。こういう歌を比べてみるとわかりますが、結局、声の感覚の違い、拍の踏み込み方の違いが大きくあります。
日本語で歌うときには日本人の方が正しいのですから、それはそれでよいのですが、そのために音楽に逃げてしまうことがあります。そこをきちんと捉えなければいけないから、原語で聞いた方がわかりやすい。
日本語に入る前に向こうの感覚で少しやっておきましょう。
「ビタミーア」
全ての質問に答えて終わりというやり方もなくはありませんが、皆さんとは長いつき合いになると思いますので、たまにはよいでしょう。
音大生の人のオーディションで困るのは、歌も演奏もビートがないことです。正しく弾きなさい、のままにきた。そこで音色とビート、特にリズムに関しては欠けている。伴奏に使えないのは、グルーヴ感がないからです。
しかし、確かな技術のある人は感覚を磨くことによって3年ほどたてばもう少し何とかなるだろうということです。実際、進歩をしています。
最初からそれができていた人もいます。Yuは幼い頃からピアノをやって、横浜の教会で外国人と合わせてきたので、耳も磨かれてきました。それはポップスの普通の基準であればあたりまえですが、その基準で音大生をとれるわけではないのです。
そこに問題があります。
日本で、ということであれば参考にしない方がよいと思います。まだドラムやベースで覚えてきたことならよいでしょうが、ほとんど音の正しさをチェックされているだけのようなコンクールやポップスのピアノを教えているような先生自体、グルーヴがないのです。
ジャズのインストを聞いてもらえばわかりやすいと思います。耳は体のことですから、判断力になってきます。
全部の質問は教科書的に答えることもできますが、きちんとやっていくとなると、全部大きな問題です。自分が何をしてきたかということの上に、できることしかできないわけですから、それをきちんとつかむことです。
そこにギャップがあって、それを埋めようとしているとトレーニングの目的はよくわかる。声を垂れ流しているわけでもないのに、それがわからない、というのは、トレーニングしたりまわりと同じレベルでやってしまうからわからないわけです。そのこと自体が通用しないというレベルで見たら、はっきりとわかるのです。
その基準を持たなければいけないというのが、立つことだと思います。イメージとトレーニングのことも要は感覚のつかみ方、深さのことです。
勘違いが怖いというのも、立つしかない。人間であるところの体とか息を信じるしかないです。
役者もオカルトは怖いから演じないかというと、そのなかに入って演じるしかない。自信をもってやるしかないのです。
たとえばここで3年間のうちにやれていることの90パーセントは間違い以前の問題です。何も結果が出てこないのは、大きな間違いです。ただ、他のところのように100%が間違いで、しかもそれを知らず正解としているよりよほどましだと思うのです。そのことがわかっていけばよいということです。
音色などは日本人が考えているものから比べたら、相当ずれています。日本人の音色の明るいのは、浅くて薄っぺらいということです。実際にきちんと歌えているヴォーカリストは音色は、日本人の耳で聞くと暗いものです。トーンということでいうと、それを暗いとはしません。
漫才やっている一流の人達が難しい顔してやっているのと同じです。そのこと自体がどうこうではない。そこにギャップがあるので、それだけ表現の幅が広がる。
耳で聞いた音色が暗いことがよくないのではなく、そこに気が入っていないとか、前に出そうとする責任や意欲のないことを暗いというのです。明るいというのは、別に明るい音色を出しているのではない。ただ、それを音や声として出したときに、伝わるものがあれば明るいものではなくとも暗いとは聞こえない。この場合に使われている暗いは、マイナスの意味での言葉です。
ミルバやビルラを聞いてみても、声だけで明るいとは絶対に思わないはずです。クラシックでもテノールでは、暗く聞こえます。体がついていればよいのかというと、それが音になって出ていなければいけないから、イメージとトレーニングの問題です。
ほとんどの場合は、自分の声の働きが客観視されていない場合が多い。自然にやっていかなければいけない世界ですが、まず自分のなかでわけておかなければよくないです。その辺のことは今回の学び方の本にも書いています。自然に無意識にいろいろなことができるために、いろいろなことを体のなかに入れておかなければいけません。
そういうことを取り出すことが、歌のなかでチェックされ、歌のなかでできていないということは、そのトレーニングができていないという見方をするのです。声も同じです。声をひとつ出して、それがうまくできていなければ息や体ができていない。そんなことを2年や3年単位で、ここは問うているわけではない。そのできていないことに関して、早く自分で気づきなさいということです。
できるというのはどこの段階かというと、それはその人の必要に応じたところまでです。本当にできていることはないと思えばよいのです。できることはないのだけど、できることを目ざす。そういう世界です。
完成は絶対にありえないのですが、たえまなく完成に近づけていく。だから、完成してしまったというのも、また困る。皆、声や歌や音楽をわけてしまうのですが、基本的には声が一番応用性があるのです。基本となるからです。
ということは、完成度も声が完成したら歌が歌えるということもない。はっきりとわけてしまうのは日本くらいです。結局、表現されているかどうかということになれば、表現されていることを見るしかない。キーも同じです。
どこからどこまでが声域ということは、発声練習で声が出るかどうかというのはあるけれど、歌によってまったく違ってきます。たとえば同じドからミまでのところでも、ここが歌の3分の1を占めているのと、この音が1音しか出てこないのとでは、ほぼ3度くらい違ってきます。一ヶ所、高い音を踏ん張ればよい歌と、そこで何回もフレーズやテーマが繰り返される歌だと置き方として、感覚からいっても違えなければいけない。
もっと簡単にいうと、声の完成度としてうまく出ない人でも、歌のなかでは1音だけであれば、その上の音でも使えるということです。それは全体の音域でも違ってきます。
全体に2オクターブある歌では、どうするか。歌ではおよそ1オクターブ半です。コード上のメロディなら、特に低いところの半オクターブや1オクターブは1音でまとめてコードでとってしまえば問題がない。
そういうことでいうと、歌の構成やイメージが入った時点で、サビのところであわせるのが原則です
そこから後は言葉のところを加減していきます。だからあまり自分の発声を、気にしないことです。ここからここまで声が出るからと、日本人の場合は太い声が出ないから、どうしてもそういう教え方をされてしまいます。それは大きな間違いです。
それは手がここまでのびるから、ここまで弾いてよいというのと同じです。だからといってこんな端っこまでは使えない。使おうと思ったら、体をこちら側に移さなければいけない。だからピアノも人間の手の長さしかない。つまり、その人によって寸法の違う声を、基本の方から考えることです。それに応じて自分の使えるように歌を動かすことです。
だから外国のヴォーカリストは自由に変えています。日本のようにバンドが弾きやすいからといって、そのとおりにしかやらない人にはどこも聞くところがない。
日本の場合はヴォーカルの力だけではもたないから、総合的に仕上げます。その辺はアレンジのまえに、自分の感覚のなかでやっていけばよいと思います。
いろいろなものを後半にやっていくのですが、立つこと、そのイメージは必要です。どの感覚で捉えられているかということです。できないのはよいのです。オーディションで、ああいわれてしまうのは、もっとできるのに何でやらないのかということだからです。
準備でも、本当に精一杯の準備をしてきたかと問われたときに、これ以上絶対にやれないところまでやったと、その最後の歌だといえますか。来年生きていないと思って、最後のステージだと思ったときに、そういう構えで練習したのかといったら1割いるかどうかでしょうか。
9割は立っていないのです。ひとつのことができないのに次にチャンスがくるはずがない。用意も、その日の状態のなかで、我々審査員8人が怖く見えてしまうのは、ここのなかでちょこっとうまくなればよいのが最終目標ということですか。それなら3年や5年たったら、あがらないでできるかも知れません。
本当はどんどんと怖くなっていく世界です。自分がすぐれていくに従って、まわりにすぐれた人しかいなくなってくる。だからこういう中で楽しむことができないのは、練習不足よりも、構え方だと思います。
昔と違っていろいろなところに逃げられるから、逃げ道をつくったまま入ってくるので、なかなか宿らない。それをここは最低のものとして与えるのですが、その最低のものが最高のものになってしまっていないかというのが、現状です。会報でも、昔300刷っていたときは300人持っていったのに、今は持っていっていない。残りの人はそれすらも読んでいないということです。読めということではありませんが、自ら学ぶチャンスを放棄していては、うまくならない。
レッスンも、たくさん出なければいけないのではなく、自分の事情のなかで出ていれば月に何回出ていても、それはよいのです。他のことで忙しく歌のことに1時間と30分しかとれないのに、1時間30分来る人と、まったくやらない人とは、違ってきます。とりくみで差が出てきます。
この人はこれが足りない、これがついたら何がでてくるとか、この人はあとこれとこれの要素が感覚的にまだ違っているというようなことがみえてくるとようやくレッスンは土台に乗ってくる。それはその当人がそう感じているから、こちらにも伝わってくる。できないことに関しては免除し、仕込みを待つのです。
表現講座でも同じ力であればよく見えた方がよい、同じ力なのによく見えるということを考えているのかどうかの方が、力です。あくまで芸事ですから、自分のできないことで失敗しろといっているわけではない。ただ、本当にそれが考え抜いた末、やり抜いた末の結果として出しているプロセスなのか。そういうことさえ単に曲を覚えて、歌詞を忘れずに最後まで歌えているかということで違うのです。
アイドルやタレントでも次の日に5曲やってこいといったら、確実に5曲覚えてくるのです。合宿でも似たようなことをやっていますが、そこにタレントがきたら、器用ということもありますが意気込みが違う。それはなぜかというと、そのことを人に与えて生きていくということが、できるかどうかというまえに、やるということが決まっているからです。その人が、それを引き受けているからです。
研究所の大半は、そこまでの段階にもいっていない。果たしてやれるのだろうか。やると決まっている人に対してやれるのだろうかという人はいつまでたってもかなわない。
やるということが決まってスタートです。
そういう意味では大きな誤解があります。歌を選んでしまったら、社会でやっていけなくなるとか。同じ能力を使ったときに収入の上がる仕事と上がらない仕事はあるのですが、そんなものではないと思います。どの仕事でも、その感覚が磨かれ人を動かす力があって成り立つ。その能力がでてくれば、実際に歌を使うかは別にしてみて、人は動いてくれるし集まってくれる。そういう感覚のなかで物事を捉えるかどうかです。
やっていけないのは、歌が自分を離れたつくりものの世界になっているからです。歌がうまいので、自分でキラキラの世界をつくってしまった、後はこれもステキあれもステキとなるでしょう。
でも客から見れば、それはお前の世界だろう、私には関係ないからお前が楽しんでいろという世界でしょう。それは現実ではない。
確かに芸はリアリティがあって現実ではないものですが、そういう意味を把握しながら勉強していかないとまわりから見て何をやっているのとなる。ここの場合はそれもいわないようにしています。その人が気づかないと、先生にいわれて「ハイ、ハイ」と直していたら、ロクなものになりません。
それは日本の悪いところで全部だめになったでしょう。歌舞伎くらいが新しい試みをして、まだ何となく保っている。落語は悲惨なものです。踊りでもパントマイムでも同じ。歌の世界はどうなのかよくわかりませんが、もともと低かったから別にあらためて低くなったとはいいません。たぶんそういう問題が大きいと思います。
イメージとトレーニングが合わないのはしかたないのです。ただイメージが間違っている、イメージがつかめていないことをつかまなければいけないという部分でのこと。それは先生でなくてもわかると思います。
友達に私のやっていることは歌につながりそうか、歌と違うところではないか、そのときにその友達が正しいのかはわからないけれど、少なくとも自分は鏡のように、自分を見ることはできないわけだから、全員が間違いだといったら少しは疑ってみないといけない。もちろん、それでも自分の実感のなかで正しいというものがあれば、やっていけばよいと思います。
本当に正しい実感というのは、そんなに迷わないものです。それがわかるのには時間がかかるのですが、迷うものは大体いい加減だからです。勉強したから迷う。それをプラスに使えばよいのですが、マイナスに使ってしまう。だからといって自分の思い込みが全部正しいわけではない。フェイクでもビブラ-トでも、言葉はあくまで活字に限られたひとつの解釈にすぎません。
時代や人が変わったら変わる。フェイクやスキャットの定義はありません。何となくああいう世界でああいう人達がこういうことをいっているということは、その世界にいったときは合わせます。でも結局、歌は全部フェイクじゃないか、フェイクしたときによい音楽といわれる感覚は一体なんなのか。それを求めていくべきでしょう。
それはたぶん日常のなかにもあるだろうし、ポロッと声に出してしまった。もしその感覚が音に結びついていたら、毎日フェイクしている感覚になるはずです。☆
逆に考えてみればよい。黒人なんて歩いていてもリズムをとっているというより、まわりからみてリズムがとれている。そうしたら出すところまでもうできているのです。
その前に入っているし、その前に立っているのです。それは理想です。しかし、物事を考えていくのなら最終的な形を考えた方がわかりやすい。そこでラップという形式を使ってやっているのではなく、そこで吐き出したものがラップというものになってしまう。そこでやるから間違いはあまり起きない。それにはある意味で厳しい判断基準があるわけです。その無理なことを若干早めてやるのがトレーニングにしかすぎない。
感覚も勉強していくしかないわけです。勉強なのか楽しんでやるのかわかりませんが、つかみ方というのはこのレッスンのなかで、場が成り立っているとしたら、それは全て感覚のレッスンだと思います。そのつかみ方は自分で気づいていくしかないのです。そうでなければ会報でも読みなさい。昔は私も、感覚で書いていたのです。何に気づいたということを書いていたのです。研究生の文章もこんな文章は、絶対に書けないと思うものが多かったようです。
今は皆、先生がいったことをそのまま書いて、それにちょっとつけ加えて書いているだけでしょう。たいしたものではない。自分のことを書いたものしか説得力がない。バックナンバーもあるので比べてみればよい。とりあえず書き尽くせばよいでしょう。
すると、同じものは書きたくなくなってくるから、そうすればもっと何かが働くでしょう。頭や手で書いて満足してしまっている。そうでなくて、もっと中から感じたものを書こうとする。すると言葉にならないから、それを歌い手は歌えばよいのです。そんなに簡単にできないから、その間にイメージとして取り出してみる。
イメージも難しいものです。どんなに味覚のある人でもおいしいといっていても、その人の感性は認められないし、その人の世界などはないのです。何かのボキャブラリーにたとえられることや表現手段を持たなければいけない。感じることは大切ですが、それが何らかの論理や形がとらなければ伝わるものになりません。
感じられるだけの人はいくらでもいます。ジャズの愛好家でも他の人が感じられないところまで判断してしまう。しかし自分を介さずして向こうがすぐれていると思っているから、そこでとどまるのです。
それをすぐに全部とるのは無理ですが、自分の分野のなかで、自分が歌に使う中では誰よりも感じていなければいけない。そのことに関して人からあれこれいわれてしまうのが問題です。
練習で勘違いはつきものというより、全部が勘違いです。ただその勘違いというのは、自分がやっていること自体を疑っている中で何らかの正解に近づけていくわけです。正解があるわけではなく、そのなかで、よりこの方が基本だとか応用が効くとかいうことで判断力が養成されるのです。
歌い手であれば声は歌うために必要なのでしょう。それは落語家とは、深さなども同じようはものでも違ってくると思います。でもそこで判断しているところでは似ている気がします。
ただ武器が違う。音楽の感性が同じだとしても、ピアニストが歌えるわけではない。そこのときに働きかけられるようにしておくのがトレーニングだと思います。
だからライブなどで、立ったときにその人から音楽が出るかは、パッと見てください。誰でも大体わかります。出てくるときでわかります。自分の世界を伝えようとしているのか、昨日までやっていたことをここで繰り返すために出てきたのか、表情ひとつ、目の力でわかります。
それはレッスンでも同じだと思います。レッスンのなかでとっていくわけです。こここを世の中だと考えろというのは、甘いけれどもよい着眼です。レッスンで頭角は表れてくるからです。ステージで覚えるからです。ステージも、アテンダンスも勝負です。たくさん書いている人は、すごい量です。アテンダンスにおいては誰かの時代だと思います。
別に偉いわけではない。要は内容が伴えばよいのです。
中にはたった2枚しか出さないけれど、パシッと本質をおさえて書いている人もいる。
間違ってはいけないのは、それは誰かのためでなく、自分のためにやる、つまり研究所を出てやり続けているかどうかの方が問題なのです。いたところには深い足跡を残していくことです。
そこで大したことはできていないで、どこでやれますか。少なくともこの人は何かを絶対にやるだろうとか、世の中で動けるだろうということは置いていくのです。そうでないとこんなところで好き勝手にやってもつまらないでしょう。それは何かのコンクールや賞ではない。それは別にそういう場で問われるものではない。では、なぜ、やるのでしょうか。
合宿でも、会報を刷っていますが、そのなかでも他の人から名前が並ぶ人は決まっています。50人、参加したが、誰の合宿だったのだろう。皆、その人の何に打たれたか、そういうものだと思います。そこで次の日も見たいと思わせない人が、何かをやっていけるはずはないでしょう。それはレッスンでも同じです。
次にプレBVに出てきたり、ここでステージできる人達の予感がしない。そこで、どうするかということです。期待しないでこの1年間誰も上に上がっていない。まだ、もっているのは、後の人がやめなくなったからです。毎年、優秀な人を4人くらいずつ研究所から出していた代わりに、4人くらいまた上がってきていた。その流れがここのところ途絶えています。
これがレッスンそのものの前に、レッスンの受け方のようなことをいわなければならなくなってきた理由です。研究所もあなた方も伸びて、そのなかにいる人の力がきちんとついてお互いにメリットがあるわけです。
原因は練習量、取り組みのスタンス、さらに今の教育制度が変わってきていることもあるかもしれない。大学生でも学力レベルが落ちているといいますね。それは勉強をしない方が得だという考え方になってきたのかと思います。動けなくなってきていると思います。他のところに行くともっと、こういう話を聞きます。
合宿でも、昔なら新しく入った人や若い人がパッパッと動いていたのに、今は4、5年目に合宿にきているメンバーの方が動いています。宅急便がきても、そういう人はパッと手伝う。新しくきた人は見ているだけ。そういうのはおかしいと思うのです。
先輩も後輩もありませんが、新しく入った人が先に動いていて、要領悪くして邪魔だからと先輩が出てきたら、どく。そこで頭で考えて、私がやってよいのか悪いのか、様子を見ておこう、宅急便に対して、なぜそんな頭が働くのだろうというと、生き方、経験、行動力に自信がないからだと思うのです。そういうことを感じます。
作品をつくるプロセスにおいては、1年目は遠慮しがちなのはわかる。どうなるかわからないし、意見をいってよいのかわからないのは、位置づけがわからないからです。それはわかる。ただ、日常のことは生活のなかで入ってきていることです。そういう教育や学校生活を送ってきていない、あるいは家庭生活やそういう中で、人間が人間とやっていくという基本のものをもっていない。これは歌のレベルの前のことです。
そういうことは、基本的なことです。だから頭でなくて体が動いてしまう。そうでない人がトレーニングをやってみて、どうなるのでしょう。やってみて、難しいことより、自分できちんと正しく判断することの方が難しい。成りきることでしょう。
バスが走ったら、一緒に手を振りながら走っている、その状況と一体になれ、楽しめることが必要です。音楽でもかかったら踊りたくなってきて、かからなくてもそうであって、そこまで身近なところに音楽や気持ちがないから、無理に引き寄せてやっているのがトレーニングです。
それを感じる瞬間は皆にもあったはずですが、研究所に来るくらいで曇ってきたらもったいないことです。あなた方のやっていることが間違いというのではありません。しかし、結局は人に伝え、人を動かしていくことなのです。
ここで声や歌がよくなった人も、少なくとも人に働きかけることや伝えることで動いている人よりは、そのことについてはやれていないです。自己満足で声を追求しているならヴォイストレーナーになればよい。それで世の中にいっても全然やっていけない。どうやって人を動かしていくかがわからない。そんな人が歌ってみたら多くの人が動くかというと無理でしょう。優秀なマネージャーがいないと無理という時代ではないと思います。
ステージは、MCで動かす、そこにいるだけで人を動かしていくような人でないと、これからは、やっていけない。タレントでさえもっている。昔から、タレントは歌えないし、歌っても下手です。しかし今タレントさえもっている仕事感や義務感、体を使わなければいけないことさえ、もたなくなってきている。そういう問題の方が大きいと思います。
それも出ていけば直されていくのですが、勝田先生のセミナーで募集しましたが、新しい人は集まらない。全ては必要最小限のことと思っておいているのですが、歌はそういうことではないと思っているのを感じます。そうなってきたら成り立っていかない。
人は放っておいて、その人が自分でやっていったらある程度は育つものだから、それに対してこちらはよい刺激を与えていく関係が理想的です。今は皆自体が何を飲みたいのか、出したいのかがわからないから本当の意味で指導ができない。ここは自主意志できているし、皆の目的も歌いたいとか声が出るようになりたいとか、明確なように見えますが、そこまでなのです。
歌いたいまで。本当はそうではないと思います。歌いたいというのなら、世の中の人が多くはそう思っている。一体その先の答は、少なくとも目標としてあるのか。そんなもののヒットを研究所のなかに組み込んでいます。
学べる環境をこちらも考えていかなければいけないのでしょう。しかし、それをマニュアル化してもだめでしょうし、研究所でも歌がうまいからやれているわけではないと思います。
それとはまったく違う意味の、もっとトータルな意味の判断力が不足していると思うので、それはつけさせようと思っています。やれていかないとしかたないです。
声だけよいとか息だけよいとかいうだけでは何もならない。それはあくまでも媒体です。それに対する技術を覚えても、しれている。もっと根本的な目的があって、それに対してやっていく。
皆にとっては歌や声は外国語を覚えるようなものです。それをひとつ覚えてみようということが目的になら、それは使えないと思います。逆に使うことが目的にあれば、かなり足りなくてもできる。
ステージや歌い手の舞台はそんなに難しく遠くにあるものではない。誰でも一生に一度できるくらいです。その辺が皆のなかでわかりにくくなっていると思います。
5万人集めても、CDを売らなければ商売は成立しない、と聞いたことがあります。
昔はもっと身近なところから入ってきました。その環境が今はなくなってきている。プロの人達が素人に「ちょっと歌ってみたらどう」、というようなところが今はありません。昔は銀座でも新宿でもいっぱいあった。そういうところで立つというところからスタートしています。バンドをやっていたら、そういうことはわかる。
でもトレーニングをやり出し、そのときの感覚が死んでしまうとしたら、おかしいですね。2年というのは、その後に何をやれるのだということをつかめばよいのです。2年でつかめれば早い方だと思います。昔より10年くらい成長が遅れていますから。
昔は、社会に発言力を持っていた人達が多かった。
世の中がわかりにくくなったからしかたないのでしょうが。
トレーニングやレッスンというのも、今のように「ァド-ロ」を「アドーロー」、こう歌ってしまうのです。客であれば違うのはわかる。ところが自分で歌うとそうなってしまうのは、それを許してしまう感覚があるわけです。アフタービートでも、強拍で捉えているのでもよいですが、そのところでそういう感覚がないことに気づくことです。
日本人ですから、「アドーロー」と歌う、でもそれを聞いたときに違うと気づかなければいけない。向こうを正解とする必要はないですが、そういう感覚を宿すためにいろいろな練習方法があるのです。
自分の問いを持たない人が、一番教えにくいのです。その問い1000個のうちの999はくだらない問いですが、それだけ出すと、1つくらいはしっかりとしたものが出てきます。そういうものを研究していったら、理屈で知らなくてもよいのですが、やれます。私は人を納得させるために理屈が必要だから、そういう研究になってくるのです。
ヴォーカルですぐれた人はすぐれた研究家であり、すぐれた批評家です。これはどの世界も同じです。そうでないと4年目くらいのレベルまではいけるけれど、それを重ねて10年20年にはならない。落語家でも、すぐれた人は歴代の名人を全部コピーしているから、物まねができる。まねないで盗む。
そういうプロセスは一段アップするときにそぐうのですが、レッスンの段階ではその前のところ、聞いてみて自分も出してみた、自分はこういう感覚になっている、プロはこういう感覚だ、そこで足りないところを埋めればよい。そうでないまま歌っていく。そうすると結局立っていないということになってしまう。
彼らは少なくとも聞かせることをどこか念頭においてやっている。それは神様に聞かせるのかもしれないし、神の声を多くの人にということがあるかもしれない。少なくとも退屈するものは出さないようにしている。そこから学べるものはまだまだたくさんあるということです。
それを全部が全部、このフレーズはこうでと、どんなに解説しても、いえない。そのことの受け止め方がひとりずつ違うわけです。そういうことでレッスンにきても、それぞれ感覚が違う、でもすぐれているものいないものに関しては同じ、そこを知る。やはり誰かがよいと思ったものは、並んでいます。
その感覚のところから面白いという評価ではバラバラになってしまいます。それをきちんと受け止めてください。
何かのためにトレーニングがあるわけではない。今日1日であっても生きているのだから、そこで何が出せるかということに全てがある。うまくないとか、そういうものは全部自分の固定観念の思い込みでしょう。そこでやるべきことをやらないかぎり、その先はないわけです。そういうことでここを利用してもらえばよいと思うのです。確かに全てはプロセスなのです。
だからといって、あなたの完成はデビューすることか、CD出すことか、ライブすることでしょうか、そんなことは全部やってきた人もいるから、それは力がつくと後でおちていくプロセスにしかすぎない。
私もできたからといって、テキストをそのまま使ったりすることはないでしょう。その時期におとしていったものにしかすぎない。そんなものが一冊あるからといって、偉いわけでもない。その日その日に何をつくり出せるかということでしょう。それが昔に比べて、どれだけ質のよいものになっているかというのを見るだけです。
難しいのは、自分のなかにいくら理想があっても、現実に持ってきたときに、コンサートやライブと同じように相手が理解できるところに下ろしてこないといけないこと、でも完全に理解できるところに下ろすと、今度は相手をも殺すことになってしまう。
わかりやすいものはあまりよくない、だからわかりにくいくらいのものでよいのです。後はあなた方がどう気づくかということです。そういうものをもとにきていけばよいと思う。
プロとして教えることはできないかもしれないけれど、そういうことを一回でもやってきた人には、そのときにそういう感覚が働き、そういう感覚が働くための毎日を生きてきた、それからそのなかで得たものを皆に語っている、もちろん、それはあなた方がそのままとれるものではない。
そこの錯覚は起こさせないようにしようとしています。最近は、褒めて伸ばすということをいっています。もちろん、結果がわかりやすいところならよいのです。結果がわからないところだと却ってその人を間違った方にやってしまう。ほめて甘えさせた責任は、本当の自信を得ることを待てなかったところで大きい。
そんなステージでよいの、と思わせるのは、成り立っていない。力がないのではなく、力を出していないのです。それをできるようにならないとよくないです。
力がないことより、今、ある力を惜しまないことをやらなければいけない。そこが一番違ってきたと思います。
昔は、レッスン場にゴミが落ちていたら、誰でも拾って捨てていた。その方が自分が気持がよい。今、誰か捨ててくれないか、誰かが掃除するだろうと。そこで動くのが損のような感覚があるのです。
人がやらないことを自分がやるというのは、損だというようなことなら、逆だと思います。人がやらないのに自分がやったから、そこで力がつく。それだけ体を動かせば、柔軟にもなるし体力づくりにもなる。その辺が根本的に崩れてきているから難しくなっている。アーティストは率先して動く人のことでしょう。
ともかく今いっておきたいのは、感覚が入っていないとか、出せなくてだめというのでなく、立つこと。これ以上できないというところでやっている姿勢やプロセスが見えないから、それではもったいないとか人生そんなんでよいの、というようなことでいっているだけです。
できないからここにいてよいのです。できていると思っている人もできていないからレッスンに出ている。それはそれでよいのです。私もレッスンで、いろいろな勉強をしている。それは皆が経てくる道、しかし、調子が悪いときは悪いなりに、レッスンに出たときは精一杯のものを出すことです。それが立つことだと思うのです。
トレーニングは明日のためにやるわけですが、明日があると思ってはよくないです。その日はその日、その日に人を納得させられなければもう負けなのです。全部の世界がそうだと思います。
完成度やうまいことは相手は期待しません。
この人は後でやっていく人かどうかを見ている。この人はどうせだめになるとしたら、相手にしない。今の力はどうでもよい。人間はいくらでも伸びていきます。その可能性を感じさせるようなことが立つということだと思います。そんなことを考えながら勉強してみてください。お疲れさまでした。
一回目の合宿でテーマとしてやって、それきりだったのですが、このまま眠っていくと、10年くらい取り出すことがないと思うので、やりましょう。上田正樹さんは随分くせをつけていますが、それにかかわらずに、なめてから入りたいと思います。できるところまで回しましょう。
「振り向けば、歌うことだけが生きる俺を支えてきた」
オーディションの結果を受けて、その修正のレッスンをやりました。上のクラスもいいたいことはありますが、下のクラスでいっていることは3つです。
まず立つこと、あのコメントはほとんど立つことに対していわれています。次に入ることです。それから、それを出すこと。この3つがなくて、よい作品ができることは望めません。
2年たったときによいものが出たことが、本当はそれが最低ラインとなっていろいろなものがオンしていくようにして結局トレーニングは成り立つのです。それは多くのことが欠けているというより、あるものを使い切れていない。
研究所に上田正樹さんのようなタイプの人が少なくなってきたのだと思います。それは世代のせいもあると思います。練習やトレーニングは、自分でやるものであって、どこかにいくというのは、技術を勉強しに行くのではなく、そこに立つこと、精神を正すとまではいいませんが、問うて気づくためにありました。レッスンとは、道場破りなのです。
合宿でもややもすると、技術をつけるとか呼吸をあわせるとか、正しくやるとかいうだけ、それはそれで間違いではありませんが、一番根本的なことが欠けている。精神的なことばかりではできませんが、技術には支えるものが必要で、ここでもきちんと声をつくっていった人はたくさんいましたが、それが歌えているかというと、あるいは歌として聞こえたかというと、その人が技術を上位にもってきてしまうと、やはり歌にならない。
逆にこういうものに、技術を使っているかというと、発声で見たらどうしようもないところがたくさんあります。英語も全然聞こえない。
でも、もつかもたないかというところで、もうちょっと聞いてみたいとか、もうよいとか、そういう人間の心の違いなのです。格、ひとつの精神的なものが訴えかけてくるかです。
10の体があっても5しか使っていない。そういう人達が10を20や30にしてもしかたない。まず、10しかないけれど、12や15が出ないかぎり、先にいっても意味がない。15を出そうと思ったときに体が10では安定しないとなって体が15になってくるのです。
伸びない人を見ていると、トレーニングや息を吐くことが目的になっている。声や歌を歌うことが目的になっている。だからいつまでたっても同じことを書かれてしまう。それを意図していないからです。B1でも同じことは起きていると思います。
技術を磨きあったり習得しなくても、人ひとりの歌くらい誰でも聞くし、その人と1時間くらい楽しく過ごせるわけです。しかし、その根本のところを学ばないところに技術にいってしまうと当人がわからなくなってしまう。技術で勝負したら、きりがない。完璧になってもだめで、そうしたらもっとこういうものが何で時代を越えて、伝わったりその場をとってしまうものがあるというような部分を勉強しなければいけません。