課題曲レッスン2
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【「命かけて」】
【「タンゴイタリアーノ」④☆】
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[命かけて]
前の合宿で聞かせたものです。ここでやってほしい歌というのは、この程度の歌でよい。音楽性の前に、その思いがあふれでるだけでこんなにも伝わるのです。
「命かけて」
2、3年前に使っていた曲です。当時は、どのクラスも同じものを使っていました。今やると、誰もレッスンに出られなくなってしまうかもしれません。
やることは2つです。体をつける、体をつけると重くなります。そこで自分の体を総動員しようとしてみます。口先で歌わずにします。「あなたーにー」みたいになってスピードが遅れると、これも困ります。
たとえ口先で歌ったとしても、このスピードに入れていない。だからスローモーションみたいに聞こえるわけです。しかし、今が体をつけるトレーニングであればそれでよい。体を本当につけようと思ったら、それよりも重くなる。そういう声が出ていたら、それはそれで待ちます。
その両方をやっていかなければいけません。体を使うというのは、芯のある声にしていく。この曲を聞いて、コピーして、ほとんどの人が完全に遅れています。あいつはのろくなっている、あいつはつないでるとか、わかりますか。それを今、極端にやってみせましたが、どちらとも間違いです。それを自分のなかで統御していかないといけません。
「あなたになら何でも」ここで張っています。
「私を愛して」をやってみましょう。
これも課題を何にするかですが、このスピードと、この声のヴォリュームのところで勉強したいのであれば、日本語できちんと聞かせようとするのは無理です。とりあえず、スピードなり、インパクトなり、パワーからです。
「わたしを」を、「わ・た・し・を」といっていると、そのときには4フレーズくらい向こうにいってしまいます。みんなにいえるところは「オーテー」くらいでしょう。彼女たちはテンポはとっていますから、実際には、そんなに早くいっていないように聞こえるかもしれません。しかし、それでは、なぜこのなかであんなに伸ばせるのかということです。そこはだいぶん違います。
今のはかなり近かったです。近いところまではいっていますが、いつもは3倍くらい違います。実際のテンポはそんなに違わないのですが、感覚的な問題です。
そう考えてみたら「わたしを」と、なるだけ日本語でいわないようにします。それは、日本語で「わ・た・し・を」と、イメージしないということです。
日本語でも「あたしが」というときには、絶対に「あ・た・し・が」とは意識していないはずです。とにかく気持ちがあって、それが結果として「あたしがー」となって、そういう感覚のところにくるのです。「あ・い・し・て」とひとつずつとる必要はない。結果的にはこういう人はとれています。それはあとで置いていくという感じです。
まず言葉でいった方がよい。言葉でいって、この1オクターブ入れるというのは大変ですが、まったくできないことはない。
それは、きちんとした日本語にはならない。「オーテー」という感じにとっていればよい。「タラララー タラララー」と取るのではなくて、「ター ター」とベース音で取っていってもらうとよい。言葉をいってみたらメロディーがついているというくらいに考えてみてください。
そうやってどこかにインパクトを入れていかないと、遊べる部分がなくなってしまうのです。「わたしをー あいしてー くださるー いじょうにー」と全部歌っていくと、隙間がなくなっていきます。今くらいに「あたしを」といったら、「愛して」というまでに、これだけ自由な空間がある。そこにどうやっていくかというのが本当は問題です。
音を動かす前に、音をつかまえないといけません。そのつかまえる位置をその前のところでつかんでいくのです。日本語でいうと、全部後ろになります。特に訳詞でついているものに関してはそうです。「ウ・ナ・ヴォル・ター」じゃなくて「ヴォルター」という感じです。
「ウナ」はどういう音色をつけるかという課題になるところです。「ヴォルター」を出したときに、ここで吐くわけです。英語とかと同じで、これを吐いたときに声にならないから、日本人の問題が出てしまうのです。
歌のなかの遊びというのは、握っていて大事に歌うのではなく、放り投げてそれをきちんと受けとめればよいのです。そういう意味で感覚を変えないと、なかなか歌のアプローチというものは変わりません。どんどん破っていかなくてはいけないのです。
どう破りたいかというのは、その人の感情ですから、誰かと同じに破りなさいということは教えられません。自分がそういう中で、テンションをあげていって、それを自分が正される何か大きなものを、一流の人達から学んでいくしかありません。
ここでも私はそれを教えるのではなく、紹介する役割で留めるのがよいと思っています。そういう人の声のパワーというものはすごいものですし、そういうものが人を動かしてきたのです。そういう人の何万時間ものトレーニングが、凝縮されているのが歌曲です。そこに全てを詰め込んでいます。
みんなは音楽に接しているようですが、本当に骨身のところに入っていないと、自分が出したときに甘くなります。それを定着させるためにトレーニングをするのです。自分が思っていて、自分の感覚でやっていても、すぐれたものなんて絶対できないのです。そのためにどう乗り移られるかということです。それには自分を開放することです。
音楽でも同じだと思います。倍賞千恵子さんの歌い方も声がよい、音楽がよい、とかではない。その感覚は上から降りてきている。それをきちんと大切にしているから、それなりのものができるのです。
技術の問題ではその人が音楽的にすぐれているわけではないのです。ただ、ある歌のある部分に関しては、そういうものをものすごく受けとめて歌ったから、それが人の心を打つことがあるのです。
そんなことをいったら、芸術家の仕事は、全部、自分の仕事ではないように聞こえます。でも、それをどう編集するか、それを感じたままにではなく、どう増幅して出すかという、スピーカーみたいなものです。そのアンプにあたるところ、本質的に鳴っているところがどこなのかです。それを音楽でいうと、人間のものなのかわかりませんが、自然のもの、神様のものなのでしょう。
それを自分の楽器を使ってやるのですから、そのときに妨げないことです。作っていったり、頭で考えていく歌い方は、全部妨げられてしまうのです。そういうものをもっともっと勉強をしてください。世の中には努力してすぐれた作品を残してきた人がたくさんいます。それに乗りうつられることができるかどうかです。
素直というのは大切なことです。そういうことを考えて、レッスンに接してください。自分で自分を制限しないことです。それがこういう世界で問われることです。自分でこう歌いたいというのが開放することなのに、ほとんどの場合がそれで制限しているのです。楽譜通りに歌うことも、それで制限されてしまうのです。そうではなく、これを突き放してどこまでこのことをいえるかということです。その辺は考え方とか、価値観の問題になってきます。
そういう刺激はいろいろなところにある、それを常時、あたりまえのように設定して、その上にできるか、たまにきてみたらすごいやと感じてしまうのか、それは自分の身に染みさせていくしかない。単特のクラスもいろいろな実験的な試みもやってみようとは思っています。今やっている練習で全てよいということではないのです。
そこの原点なくして、いろいろなものは乗ってこないのです。しかし、たまには他のやり方も取ってみなさいということです。声を荒らすからだめとか、発声で間違ったからだめということではないのです。
自分がひとつになって思いを伝えようとしていないからだめとなるのがほとんどです。もっと生理的に、感覚的に感じられるようにしたら、ほとんどの過ちはなくなると思うのですが、長くいるとなかなかそうもいかなくなってしまいます。いろいろなものができてくると、守っていく方にいってしまいます。だから、突き放して突き放してやってみてください。
曲を本当に使い切って捨てていってくださいといっています。1曲をよくよく噛んで、捨てて、あなた方の栄養にしてください。 たくさんの曲を勉強するのではなく、1曲の1部分がわかるために、たくさんの曲が必要で、たくさんの声が必要で、たくさんの人間が必要だということです。そこは誤解しないようにしてください。
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【「タンゴイタリアーノ」④】
「思い出を揺すぶるよ ノスタルジアを誘うよ 忘れられぬ恋人」
タンゴが調子悪く聞こえます。そこがヴォーカルとしての差だと思うのです。何を取って何を捨てるかということです。音感とか、リズムとか、発声とか、息とか、スピードとか、テンポとか言葉でいってしまうと、全部象徴されたキーワードになってしまいます。
その下に言葉では表せない部分があって、その下に民族とか、リズムとかもカウントできないものが入っていて、そこで生まれ育たなければ得られないものは抜かしてもしかたありません。地元を背負って歌っているわけではない。それぞれ与えられた音色やリズムのなかで、自分のものを照合させてやっているのです。
最初は全然だめで、今もだめなのです。体を使って息を吐くことによって、落としてしまうものというのがたくさんあります。声が自分に身についていたらよいのですが、トレーニングのつもりでやってしまうと、そんなところで音感とか、リズム感とか、音色とかが全部、殺されてしまいます。だから、どれを取ってどれを生かしていくかということを考えなくてはいけません。そのバランスをとることです。
そのときにリズムに対する音のつけ方が一番疎かになってしまう。体は動くまでしかたがないので、こうやって動かしていくしかないのですが、それをバランスよくとっていかないといけません。トレーニングの時期に、体のこととか息のことが気になるのはしかたないと思います。でも、できたらそこである程度リズム、音感、音色みたいなことは意識しておかないとだめでしょう。
それは最終的に歌のなかで、ていねいさ、神経にでてきます。無神経な歌、雑な歌、そこに行き届いている歌なのか、今のフレーズでも、ミルバは世界的な歌い手ですから比べてもしかたないですが、そこをベースに入れたときに、声だけでていればよいとか、体だけ使っていればよいという無神経さは明らかに間違いです。
要は、ていねいに歌い、相手に伝えるがために発声も、音程、リズムもやる。それがいい加減になってしまうくらいなら、息吐きとか、体を鍛えるトレーニングだけをやった方がよい。
フレーズの練習でそれをやってしまうと、ステージのなかでもいい加減さがでてきます。それから自分の頭のなかで考えた形に対し、限定されて音楽的な表現が出てこなくなります。音楽的といわれるものと感性といわれるものは近くにあります。それが入門とか1のクラスをみていても、一時死んでしまうのはよい、でもそれは殺してしまうのではなくて、あとで生かせるために、他のものの条件を整えるために許されるのです。
それをフレーズのなかでやって、声が使えない状態になっています。発声の問題とか、体とか息の使い方の問題とかは何も考えていないことになると、何も伝わらないということになります。ミルバのフレーズをとれということではなく、比較的リズムに対して音色がどう働いていくかというのがわかりやすい。
歌をやったときに、まったくそこが欠けているというのが大きな問題だということです。たとえば言葉でたたみかけていくにしても、そこにリズムが入っている、そこにフレーズ感覚というのは入っています。体を使いたいのかもしれませんが、体が使いたいということは、お客さんには関係のないことです。
「風よ運んでおくれ あの日の夢を」
歌でも文章でも、感覚をもって本質的なものを最小限で最大に表現していくということでは、同じです。それが鈍ってしまったらいけません。自分があって、より深い自分を取り出すのです。深い自分というのは人間に基づいている。いや、生物に基づいているから、そこで何か働きかける力というのは大きなものがあるのです。
でもそれを表向きの自分が頭で制限してしまう。みんなよりも勉強していない人の歌を聞いてみればわかる。同じようなことは同じように起きてくる。研ぎすますために、研ぎすまされたままに出せるために、声のこととか、息のこととかをやる。しかし、邪魔してしまうとしたら、その使い方というのは明らかに間違っているわけです。
だからステージというのも、歌というのも、もしそこに鈍さがでてきたり、鈍感さ、無責任さ、無神経さが出てくるのであれば、それは編集してカットしなくてはいけません。そこに方向性を置いて目的をもっていないと、それは何も起きてこない。起きないどころか、のどの状態を悪くしてしまいます。
そんなに広い音域を、難しくやっているような歌ではありません。自分の体とか、呼吸の働きを忘れてしまわないと乗ってこないのです。
トレーニングに一生懸命になる弊害というのは、トレーニングだけのことを考えてしまうことです。そうでないでしょう。トレーニングを忘れたときでないと、トレーニングというのはできていかない。
調子の悪いときはしかたない。スポーツをやっていた人はわかると思いますが、自分がトレーニングを意識したり、自分の体を意識したり、調子を意識するときというのは、調子が悪いときなのです。よいときというのは意識しないのです。
歌というのはそれほど体力が必要でないし、そのときの瞬発力だけではなく、いろいろなもので総合的に成り立っています。だから大切なことは、もっと煮詰めていかなければいけない。つまり、捨てていかなければいけないということです。声に負ったり、息に負ったり、体に負ったりということも、フレーズをやるときに捨ててみなければいけません。それは他のところで補うべきものです。一緒に全部をやってしまうと無理だと思います。
そこで何か鋭いこととか、こちらが予期しないことを起こすのがステージをやる人です。予期しないこと、鋭いことというのは、そのなかで生じるものをどう取り出すかという、その方法論です。そうしたら取り出せない、動かせないような状態に、体とか、声とか、歌を置いてしまうというのは、最初から間違いです。それで歌ってしまうとカラオケと同じように悪いくせをつけてしまいます。その辺を自分で調整していく。バランスというよりも、絞り込みだと思います。
こういう最初のフレーズも、どれだけ雑になるのかというのが予測がついてしまう。それを他人につけさせたらだめなのです。できないのであればよいのですが、できないのではなくて、自分のなかで基準が甘くなっている。声を出してみたら何とかまとまると思っていても、まとまるわけがありません。自分のなかでイメージがきちんとできていて、絶対にそれをそらすまいというような意識が働かないところで、出してみても何ともなりません。
それがどんどん悪い方へ同調している。そうでなければ聞き手がそうは感じません。こういうフレーズの難しさというのは、いろいろなパターン展開が、リズムでも、フレーズや音階も変わっていくので、声を最も使える状態にしておかなければよくないということです。
ヴォイストレーニングの難しさというのは、自分が一番動かしやすいところの声と、理想的な動きが出てくる声というのが、ずれることです。理想的な声が出てくるためには、それだけ体の条件とか、息も流さなくてはいけないからです。ところが体の条件をそれだけ体を使ったり、息を吐いたりすると、そこの部分で応用性がきかなくなってくるのです。
逆に歌いなさいというとどうしてものどでまとめてしまったり、ひびきでまとめてしまったりして、ずれていく。ずらしてしまうと限界がきて、このレベルの歌に関してはまったく応用が利かなくなってしまいます。前のフレーズでやれてしまったことは、次のフレーズでは細かい音の操作というのに対応できなくなるのです。
ヴォイストレーニングというのは、細かい音の操作をするために、するというより、結果として細かい音の操作ができているという感覚にならなくてはいけない。1フレーズを歌ったときに、次のフレーズにすぐに入れる状態にしなくてはいけない。なのに1フレーズ歌ったときに開いてしまって、体も戻らなくて、声もなくなっている。
それを取り直さなければいけない、そうするとテンポ的にも、リズム的にも遅れてしまうのです。 だからこういうリズム変化が入っていたり、音の変化が入っていると、よほど理想的な状態で使っているか、そうでなければ簡単に動かせるところでやっていかなくてはついていけなくなってきます。それがどっちつかずになってしまう原因です。
ですから一番よいのは、こういう音に関しては、体や息に頼らないやり方を覚えていく。1オクターブくらいしかありません。このミルバの歌い方では、かなり広く聞こえると思います。それはミルバが動かしているからです。その動きにとらわれてしまったら、自分のエネルギーとパワーの方が抜けてしまいます。2オクターブを歌う歌い方もよく注意するのですが、その部分は捨てていかなければいけないのです。
皆さんがこのリズムを生かしたいと思ったときに、声量と息と体を捨てて2分の1くらいでまとめないと落ちついてこないということです。ところが2分の1でまとめてしまったら、息が上がってしまう、声が落ちつかない、そうするとその声が動かせなくなるということになってしまうので、体を待つしかない。つまり、待てばよいのです。
ただ、もう少しなんとかできると、たぶんバランスが悪くなっても、一所懸命にやっているところで、やり続けると失っているものが多くなる。リズムに委ねないと声がつっかかってしまう曲ですから、発声をしていると動かせません。ミルバのなかでもかなり明るい音色を使っています。いつもはもっと練りこんで歌います。
こういうバンドの音を聞いてみて、歌い手もバンドもひとつの本質的なもののところでやっていますから、似てくるわけです。バンドがこう出したい、バイオリンが歌うところ、歌い手が歌うところ、そういう本質の部分をみて、自分の場合はどう出すかということを考えなければいけません。いきなり自分のスタイルにもっていくと、それは合いません。甘さ、軽さ、洒落っけとかです。特に甘さとか、陽気さみたいなものは、感覚が変わらないと、モノトーンで沈み込んだ曲になってしまいます。
ミルバも使いやすいところもありますが、こういう曲の場合は難しいです。こういう曲をミルバはどういうふうに歌っているかというと、タンゴで歌っている。そのかわりミルバではない部分というのがいくつか出てきています。そういうところはきっとタンゴの本質なのでしょう。
伴奏のこの辺の、ための置き方は、ミルバとそっくりです。ただ、声の場合はこんなにたくさん音色が出ませんから、呼吸でとっていくしかありません。
外国の曲でやるときの一番の難しさがこういうところに現れてきます。この細かさをまねしろということではない。動きのなかで出てくるところのこれを意識しないとその動きは出てきません。
男性の場合はそういう歌い方をしていない場合が多いです。女性の場合はそういう部分がないと、単に音域とかパワーだけだと男性の方がありますから、そういう部分が特に必要だと思います。
「遠い海の彼方は私の故郷 寂しい夕暮れ一人さまよう今宵も」
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【関西レッスン】
こういうところで話すことというのは、私でも毎日ネタを考えているのではありません。こういう毎日の生活で人に会っていると、ああ感じた、気づいたということが、ネタになる。
いつしれず、役者らしく、アーティストらしく、先生らしくを超え、私らしくなるのです。それを支える生活や習慣をキープする努力は怠らないようにしています。
ステージになると、出演者は研究生、お客を見て、司会として、盛り上げておいた方がよいのか、ほぐしておいた方がよいのか、コミュニケーションを取らせやすいようにしておいた方がよいのかということなどを考えます。客が硬いので、セッティングくらいは手伝っていました。
そのときに瞬間的に出てきたものをいうこともある。でも、準備し、多くの試行錯誤をしてきました。自分でイメージで受けるはずではなかったのに受けてしまった経験もタイミングも体に入っているわけです。
歌も、練習したとおりにはいかない。ここで起きたことで、それを材料でここで作らない限り、聞いている人にとってみたら、消化試合を見ているようなものです。だから、歌というのは、ある意味だと安易にこなせる。
一方、厳しくみるとすごく遠くにあって、現実離れしています。現実の世界で日本人が「愛している」とか、「あなたに」とか、感情を入れていうことはない。さらにそういう力はなくなってきている。
ただ、少なくとも、舞台のテンションというのは、日常のテンションとは違う。それが集約されている。日常を感じさせてしまうというのは、まだ歌が始まっていないということです。歌は勉強しているのかもしれませんが、では歌とはなんだろうということです。
たとえば、若いタレントを見ると、元気にさせてくれたり、楽しくさせてくれたりする。面白い奴だとは思うこともある。それくらいのことでもあなた方には難しい。もちろん、それをやってみたからといって、すごくはないのです。
しかし、すごいということを知っていくと、それのできない人が、できるようになることもある。面白いこと、楽しいことをやって、そのうちすごくなる人もいます。しかし、そのまま飽きられてしまう人もいる。
自分の力のなかでやっていることというのは、大体、間違いです☆。私も不器用だったから、今考えるとよくわかるのです。自分でわかることしかできないからです。その点、よくわかっているのかわかってないのかわからないですが、やれている人は、発声はよくなくとも、歌で感動させる人もいる。それはそれでよい。
わかって学んでいくということも勉強のひとつのやり方です。では、わかっていないのにできている人というのは、本当にわかってないのかというと、それは言葉にできなかったり、取り出すことに関して、そういう手段を持っていないというだけであって、体はわかっている。だからできる。よほどわかっていなければ、普通の人が感動できるようなことはできっこないのです。
だから、結局同じことなのです。また同時に、わかっていないんだけど、わからないということもわかっているから、できるところだけを出して勝負をしていくのです。それは高いレベルで基準を働かせて勝負しているからです。
この歌はカラオケでは通じるかもしれないけれど、よりレベルの高い人がみたら、こんなことやってもよくないなとか、こんなMCをやったらよくないと思うでしょう。そういうふうなところで、あなた方が基準をもたないと、普通の人は勘違いします。普通の人のなかで、ちょっと面白い人とか、ちょっと気がきいている人とかのレベルのこともやれなければ、舞台で慣れてきたら、ここにきたからと上達することはないのです。
常にそういう試みをしなければいけない。最初は意図的にやらなければよくありません。それをやっている時間というのが、トレーニングなのです。
MCのネタも意図的に作らなければよくありません。日本のステージなんて大体MCがないともちません。しかし、いつもそういうことに3日も5日もかけて用意する時間はないのです。自分のなかに入っているもので、組み立てていくことです。 歌も同じです。入っていないのはしかたない。でもどれだけ入っていないのかということを、自分で徹底して味わないと、入ってもこない☆。
コックになるのと、自分のご飯を食べているのとは違います。「これ食べられる」というレベルで満足していたら、絶対にシェフにはなれないわけです。そうしたら、シェフは何をやっているのかということを考えればよいのです。
状況においてはだめでよいのです。だめだから始まるのです。でも長くだめだめといわれていると、本当にだめになってしまう。だめといわれたということは、本当はだめなときにはだめだとはいわない。本気でやっていないときにいうのです。でも、努力しないとだめだよと、それをもっと楽しまないとだめだよということなのです。創り出すという世界をにおいてのことです。つまり、やれることをやらないためにいわれるだめは、本当は 致命的なのです。
歌のなかで何も創り出していません。それは、歌というものが創り出されせるものだという前提が入っていないのです。彫刻とか、絵であったら、少なくともテーマくらい考え、そこに何かクリエイティブなことを生み出すでしょう。なのになぜ歌だけ他人様の作品を、鈍くした形にして出してしまうのかということです。
鈍く出てしまったのは力がなかったり、コントロールができなかったということです。ただ、そういう試みを徹底してやってきている、自分でもそこができていないことがわかっている。というのが、伝わらないのがよくないのです。
舞台というのは、一所懸命やっていてあたりまえです。一所懸命やっていて伝わらないからだめといわれるのですが、一所懸命にやってきたというのが伝わって、それでよいというのはものかなり甘いレベルです。
まず皆さんに求めたいのはそこです。本当にそこまでしかできないのかということです。
たとえば、明日死ぬとしたら、最後にそんな歌い方するのかということです。あなたの存在を歌で伝えるというような、その大切な時間をこのくらいのテンションで使ってしまってよいのかということです。
死というのはイメージが湧かないかもしれませんが、舞台というのは一つひとつ生み出して、高めて、そして死して終わるわけです。
状況のなかでやるのではなく、状況の打破力をつけなさい。
客が、「あんた下手だけどそのテンションには負けたよとか、あんたのいいたいことはわかるよ、でも芸術品にはなってないし、歌にはなってないけどね」ということが、これからがんばるためのベースです。その信用が結ばれていたら、歌を間違えようが失敗しないし、演奏を失敗しても客がそこで落ちるということはないのです。逆に面白いことやったと思われるくらいです。
その信用が成り立ってなかったら、「ああ間違えた、やっぱりよくないな、なんだコイツ」となります。それは歌の技量そのものというよりも、その人の姿勢です。それはどこの世界でも同じです。
さだまさしさんが、2日間でスティービーワンダーの曲の歌詞をつけてくれといわれ、両日共、仕事もコンサートも入っていたため、夜中から始めて8時間聞いたあと2時間で作ったそうです。あれだけ曲や、詩を作れる人が8時間も聞くということは、どういうことでしょう。誠実です。
いろいろな力がすでにある人が、8時間聞くということは、スティービーワンダーの世界をそれだけ自分の体に取り入れるのに必要だったのです。1時間聞いても、曲くらいはすぐに入るし、すぐにコピーも訳詞もできると思います。
しかし、残りの時間は何をしているかというと、クリエイティブなことを生み出す、よりそのことを伝えるためにベースのものを入れなおしているわけです。自分の歌だったらもっと簡単に作れるのかもしれません。でも他人様の曲だから、その他人様になりきって一番ベースの部分を取るために、そんなにかかるということです。
だから、自分なりに練習をしてきたのかもしれないですが、さだまさしさんの集中力で、まず8時間聞いたかということです。彼が8時間聞くならば、あなた方は80時間聞かなければいけない。そこで80時間の勝負をしようと思わない人が、8時間でも勝負をできるようにはならないでしょう。歌はわずか80秒の世界です。
それをどのレベルで許すのも勝手です。自分で責任をもつのであれば、出だしのところを聞いて、そこですでに何も通じていないということを客観的にみてください。
形だけの歌になるというのは、教えてもらっているとか、こういうコメントをもらいにきているというところから抜け出していないわけです。
少しできるとテンションが鈍るというのか、それぞれの事情はあると思いますが、できるならば常に与えに来なければよくありません。与えに来なければ、与えつづけている人にはいずれ負けます。それは年月ではないのです。その姿勢の問題です。
もとより、あなた方が与えにきてくれなければ困るわけで、こんなコメントをもらって元を取っていてもどうしようもないわけです。
自分が与え尽くしたところに、まだ伝え足らないということくらいでよいのです。できないことはやれないし、やれとはいいません。それがやれなかったからといって、舞台でゴタゴタはいいません。でも、やれることをまず精一杯やるということです。
ひとつのパターンというのを、日常に落としてみればよい。1人で下を向いてブツブツといっているなら、その人がどんなに心をこめて、どんなに思いを入れてみても、それは歌でもなんでもない。舞台の表現にはならない。常識的にみて、気持ちの悪い人ということです。
そういう歌い方は、映像を見て、すぐにやめなければよくありません。表向き内側に入っていくことが芸に近づくことだと思ったら、それは大きな間違いです。
こうやってコメントをいうにも、私はうしろの人に聞こえるくらいに話しています。ボソボソと話すと、伝わりません。評価内容以前の問題です。
それから、もうひとつのパターンは、形にはまっているということです。それはあなた方だけではありません。また体や息を使いなさいといっているので、いかにも練習しましたとか、トレーニングしましたという形がそのまま出ては、同じような歌い方になってしまいます。
ここがよいのは、あんまり質が高くならなくても、バラバラでも、1回毎に自分の足元につけていくということをやっていることです。だから、時間がかかるのです。他人様のものをそのまままねるというのは簡単です。でも後から伸びなくなるのです。2年間で伸び切るより、その間自分がきちんと実感を持てたものをもっと深く探るようにいっています。
前に出ていないとしたら、5メートルから先に与える世界ということを知ってください。その先に何が飛んでいくのかということです。飛んだあとに何が残っているかです。
今、あなた方は誰のステージが思い出せますか、どこのフレーズを思い出しますか。歌というのはそこで決まるのです。今日はたくさんの曲を聞いたと思います。しかし、あまり印象に残っていないでしょう。
そういう評価をしていくことです。自分に対してはわからなくてもよいから、他の人に対してから厳しくやる。そうすると、印象に残る人というのは何かある。そういうものが自分やステージを知るきっかけにもなってきます。
客が不在なのはしかたがない。しかし、本人が不在というのが一番困ります。それは、感受性、創造性、アイデアの問題です。そういう作業をどれだけしているかということです。
みんな自分で感受性があると思っているのでしょう。
しかし、その程度の感受性というの誰でもあります。もっと精神的に追い詰められている人もいます。しかし、大切なのことは、創造できるところのベースに動く感受性です。それは、創造されたものとか、飛んでくる音によってしか伝わらないのです。
顔つきから伝わる人もいますが、音声で問いたいでしょう。「ダーリン」といっても、単に「ダーリン」でしかないのです。カタカナの「ダーリン」でしかなくて、それが「ダーリン」というものの存在とか、そこにある自分の思いとかが何にもないから伝わらないのです。そうしたら、歌というのは成り立たないのです。
声量がない歌い手でも何かこめている。でもこめているだけだったら何も飛んでこない。両方やらなければいけないので難しい。
体として安定していないものを、そういう表現に結びつけるのは難しいのですが、それをいっていたら、3年後でも、10年後でも難しい。
では何で統一していくのかというと、テンションの高さと、伝えたいという気持ちです。いろいろな声もたくさんあるし、声量も出せるようになるし、いろいろな武器はたくさん手に入ってくる、いろいろなこなし方もわかってくる。
そうしたら、今きちんとやっていないと余計にわけがわからなくなる。そのときに、何がそれを引き出してくれるのでしょう。
高音発声をやると、高いところの声がきれいに、一応出るようにはなる。しかし、それは伝わるということとはまったく違うのです。
伝わるということを一言でいうと、伝えるということから引っ張られて出てきた声が働きかけているのです。それは練習で、教えられているままにやっていると、かすれたからだめだということになるのですが、そうではないのです。
伝わっていたら、かすれているなんてどうでもよいことなのです。一流のロック、ジャズシンガーでも、みんなかすれている。
そこからしか決まっていかないのに、その思いとか、テンションの高さがなければ、ヴォイストレーニングをやっていても、混乱のまま埋没していきます。トレーニングですから、埋没するのはある時期しょうがない。そこをきちんとやるかどうかです。さもなければ、巷で歌っている人達にも負けてしまいます。
いつもはもう少しできる人も、あまり調子がよくなかったようです。誰のが聞こえてきたかというのは、その人がすぐれているからではありません。トレーナーを使うのは、その働きかけ方のなかでのひとつの音楽、それが歌としてよりよくなるために、どこに気をつけなければいけないのかということを知るためです。
歌や音楽には、どういうルールとか変則のやり方があるのかというようなことに気づくことです。それが直せるためには、みんながそこまでのことを練って出してくれないとできません。
今は、初めて絵を20枚くらい描いてみて、そのうちの1、2枚を持ってきただけで、どう評価できますか。2000枚描いて、そのうちの1990枚破って、その残りの10枚のなかから9枚を破って、さらに1枚を持ってきたものなら、その1枚に対しては私もいえるのです。
しかし、20枚描いてみて、てきとうに20枚出してみたところで、これはこうした方がよいということはいえないのです。そんないい加減なところで自分の才能を判断されてよいのですか。
あなた方は目をつぶって、その20枚を同じように描けない。そこにアドバイスは成り立たないのです。その時期はしかたないのです。
力や判断力がないのに、あまり細かくいわれたら、トレーナーのいった通りに直してきて、余計におかしくなるのです。それは、何かを意図して作品として成り立つためにいっているからです。そのトレーナーの好みではなく、そのトレーナーも超えた舞台の音楽の力というのはこうなんだという方向をみることです。
それを汲み取れないで、そういう指示に従ってやると間違ってしまう。そうでなければ、すぐれたアーティストの所にいったら、みんなすぐれるということになります。でも、大体はつぶれる。それは大きな危険があります。似たタイプだったら似てしまうし、違うタイプだったらとれない。だから、プロのヴォーカルというのは、なかなか教えられないのです。
そのプロセスが、自分のことを煮詰めていくプロセスだからです。だから、自分のことでなくて、人間として、生物としてどうするのか、あるいは歌だけでなく全ての芸事、スポーツも含めて、そういうところで人間が人間に働きかけるために、必要な部分のものを取り出してくることです。
それが歌の場合はかけ離れて成り立っています。誰でも歌えますから、だからこそ他の分野のプロのいうことを聞いてみたり、そういう人達の生き方、やり方を勉強した方がよい。
その必要性を感じ、この場で勝負してもらいたいです。今日の人生は今日で終わる。何か今日に出会った人に残しなさい。明日はないかもしれないのです。あの世は本当に遠い世界みたいに思っていますが、あっという間に月日は経っていきます。
そのレベルで注意したいのは、たった一人だけでした。呼吸をもっと増さないと平坦になっています。置いていくだけで2曲成り立つかというと、そこに変化がなくなってしまいますし、そこを自分の呼吸でないところでやっているからです。歌を変えてしまってはいけないが、変わっていくのはよい☆。たまに、自分の呼吸でないものとか、ゆっくりした呼吸でやりたいという曲はあっても、そのゆっくりというのに自分の呼吸をあわせていかないとよくありません。
「語りかけたのに」のところは、音楽で置いていっているところと、そこでの感性の表われるところです。「語り」と音楽でおくと、「かけたのに」とそのまま置ける。しかし、そういうところこそ何か作らないと、平坦になってしまいます。次のところの「抱きしめて」のところも同じです。
音楽のルールというのはそういうものです。ここはメロディーを聞かせていると、最初は提示する、言葉として相手にいうと、感情が入ってくるから少し動きが悪くなる、そこに音楽の力を使う☆。
コード、ハーモニーを取って、そういうパターンにのり、あまり続くようなら、そこで何かまったく違う変化を起こしてみます。そういうことで、いろいろな人がいろいろな歌い方をしているのです。
それから、「いく」の「く」のところも、日本のアーティストと向こうのアーティストの底力の差が表われるところです。「ふたり」のところは響かせたら通じるのですが、彼らは「いく」を徹底的に下のところの呼吸まで落としています。見えにくいところですが、彼らは聞く耳があり、息がきちんと読める。その辺をあいまいにしてしまうと、曲が引き締まらなくなるのです。これは、今の日本のプロの見落としている問題です。
今、台湾でもらったCDで、宇多田ヒカルさんの曲をカバーして歌っているのを、本人とどう違うのかを聞いてみます。まず呼吸が違います。リズムについてはどちらもよいです。それをきちんと息に結びつけなければいけない。そこで息に結びつけようと思ったら、止まってしまう。そこが歌の難しいところでしょう。
部分部分は完結していかなければいけないのですが、完成させたらいけないし、そこで終わってしまったらいけないのです。その部分はあいまいであっても、次の動きにつなげなくてはいけないから歌い方としては間違ってはいない。そこに響かせるために、すぐにブレスをしたり、引かなければいけないのです。
世界でレベルの高いことをやっている人は、絶対にそういうところをおろそかにしないのです。ということまで考えたときに、逆にテンポを2割くらい早くした方がごまかせる。ゆっくりの曲というのは本当に難しいです。完全な使い方でないと難しいです。
演歌も下手な人だと、横の世界しかない。ロックは、尚さら立体的に、上下という動き、これは日本人にない感覚ですが、それにのらなくてはいけない。その上で前に出る。日本の歌の表現は前にあてて引くだけです。文化の問題になりますが、ロックの場合は、歌とそういうものを一致させるところがベースにあって、そこから動きが出てきます。そうすると、音楽が大きくなってくる、歌が大きくなってくるのです。
だから、何が価値なのかということを考えないといけません。歌がうまい人はたくさんいます。その前提で、皆さんができるかどうかではなく、考えて欲しいのは、わからなくてもよいし、できなくてもよいのですが、それがわかったら、できたら、どうやろうかということを、イメージの世界では先行しておくことです。
ピアノでもまったく弾けない人にはその世界はわからない。でも、たった1フレーズだけでも、ここは心がこもったとか、何かわからないけど、心が動いたときに音が心とひとつになったとか、そういうものがたったひとつでも実感できれば、それは1曲において、天才はこういうことをやっているのではないかという予測がつけられる。
そこの予測のところから正していかないと、レッスンは成り立たないのです。他の人をたくさんみている人にレッスンにつくのは、その予測についての確信を得るためです☆☆。
自分がやって、力を入れてみたら何か弾いた感じがするとか、汗をかいて指が疲れたから充実感があるとかいうのではただの間違いです。まったく逆のことを起こしていくのです。その辺の判断を歌は持ちにくいですから、楽器のプレーに学び、そこで正されるようにしていくとよい。要は自然に正されるようにしていくことです。
自分が正しても、自分の能力はたかがしれているのです。すぐれた人はそれを知っているので、他人に学ぶ。自分のなかにいるよりすぐれた歌い手とか、自分のなかにいるすぐれた感覚の持ち主のリズムとかけあいをしていくことが大切です。向こうのアーティストはこういうとか、ああいうとか、そうやってみていくのです。この曲は、あのピアニストだったらこう弾くだろうとか、このピアニストだったらこう弾くと、じゃあ自分はどう弾くんだというをやるのです。
レベルということでいうと、いつまでも今の自分であってはいけないのです。歌の場合は、くせをつけているために見極めにくく、特に難しいとは思います。カンツォーネ、シャンソン、オールディーズ、ジャズのスタンダード、何でもよいです。あまり個性とか、好みとかで動かされないで、受け継がれてきた人のものを、好きでなくとも、コイツすごいというものに接してくさだい。そのすごさというのは何なのかというのをみていってください。
自分が好きでうまいと思う人は、自分がファンですから、客観的評価は難しい。そのことと自分がやることとは別です。そういうことを考えながら、とりくみを考えて欲しいです。
自分だけでしか勝負できないところとして、ステージで積み重ねてください。そこに真剣勝負を挑むために何をやらなければいけないかを知るためです。やってみて大失敗して、徹底的に打ちのめされればよいのです。その創造の冒険と多くの失敗やリスクを恐れてはいけません。
伸びる人というのは、他の人がよかったなどといっているところで、いつも一人で徹底して打ちのめされている。そういう感覚を持っているから伸びる。自分でよいと思ったら、それで終わりなのです。
ですから、はっきりいうとここのステージは嫌な場でしょう。できてあたりまえで、できてもいろいろな問題がくる。そこでできるだけのことをやらないと問題が絞られない。あまりにたくさんの問題があったら、本当にやらなければいけない問題がどれかわからなくなります。しかし、その問題というのは、全力でやってみたり、レッスンにきたら案外と片付いてしまうものなのです。
そういうものは本当の問題ではないのです。そういうものは自ら変えられるようにしてください。面白くしろとか、楽しくしろとはいいません。そういうときの体の状態とか、心の状態が、声というのに出てしまいます。基本というものを、形として成り立っているものを徹底して疑うとよいのです。
皆さんにまた改革アンケートを出してもらいます。研究所が大きく変わるのではないのですが、研究所はいろいろなものを貯めこんでいるのに、それを必ずしも皆さんにうまく出すことができていません。誰が何を求めていて、どうしたいかということがあってこそ、加工もできます。3、4年もいれば、もっとここが使えるとか、こういうことをやって欲しいとか、同じ1時間ならば、こんなやり方もあるとか、いろいろな方向から提案してください。その提案力も自分の伸びるための力です。
2年制といっていながら、6年、8年、10年いる人もいます。それだけのものが学べるところは、ほかにないでしょう。東京はできるだけ外へ出そうとしていました。まわりが辞めていく中で、辞めない人がトップレベルになっています。
ここ10年のことをきちんとみて、そのあとの10年というのをみないとだめなのです。ここ2年くらいで悩んでいるようでは困ります。
1つは昔2年といっていた内容が、今は6年くらいの課題になってきているということです。6年で考えることと、2年で考えることが、単に2年が6年に延長されていたのではだめでしょう。 そこに対応するレッスンは、研究所のなかでできるにもかかわらず、うまくいかなくなってきているということです。どう伸ばしていくかということを考えています。
トップグレードに年間2、3人入っては、2、3人辞めていくという、かつての循環が起きていません。何とかもっているのは、5、6年もいる人たちのおかげです。それはよくありません。会報でも、本でも、一般化してくるにつれ、前提の条件が本来、そこはクリアして入ってきてもらわなければいけない問題で時間がかかっています。そこを片づけずに声や歌をやっても、ステージをやっても、何の力もつかないから意味がありません。
この前のオーディションみたいなレベルでみると、B1クラスを抜かすと関西の方がすぐれています。音楽が入っています。でも、ステージとしてみたときに何が足らないかというと、基本的な意味のスタンダードを入れるのを忘れている。
1年から2年くらいは、レッスンで50分近く音楽を聞くとよい。実際にやるのは10分でよい。4年間徹底して出ていたら、その意味もほぼわかると思います。
シャンソン、カンツォーネを使って、ロックを使わないのは、ロックで気づかなかったこと、ロックで全部同じに見えていたことが、早くわかるためです。根本的にその人が語りかけている声の部分のところまで拡大してみるためです。
声の動きで音楽が進んでいるというのは、ドラムやギターがない方が、わかりやすいのです。ある意味で今の人は、トータルとしての音楽的なバックボーンがあって、歌にもっていくやり方というのはもっている。でもそれは、応用のなかでの応用です。ひとつの曲をぱっと与えられたときには弱い。応用ばかりしているために、戻るべき基本がわからず、その結果、他の応用に弱くなるのです。
ひとつの曲を与えられたときに、音楽的な意味での基本がみえます。いろいろなパターンがあってそのなかでの能力を高めるためにもっといろいろなジャンルの曲を入れていった方がよいということです。
たとえば、今20曲を聞いたときに、皆さんのなかでいろいろな反応が起きている。その反応を全部あわせて、1曲とはいいませんが、2、3曲につめていくという作業をやっていくこと、そこでいろいろなことに気づけると思います。
欠けてきている要素は、まずひとつが、場に出続けることです。ベテランのつもりで出ないなら引退です。一人で練習して勉強できることというのは限られてくる。その人が、有能であればあるほど、限られてきます。結局、自分がやったことをそこで叩きつけてみて、何が起こるかということを、みなくてはいけません。
すぐれている人は、年齢も上で、やっているキャリアも長い。曲もたくさん知っている。だから、あたりまえです。高校生とか、10代で初心者の人もたくさんいるところでやって、誉められたり、拍手をもらえても、単に長いというキャリアにしか過ぎません。長く生きているから、それだけ世の中のことを知っているというのと同じです。
彼らがスタンディングオベーションしたいくらいに(日本人のなかでは難しいし、このなかではそういう雰囲気をつくることも難しいのですが)、その上であえて、そういう衝動を起こさない歌というのは、ある時点から止まっているといってよい。本当の力をつけたいのであれば、いろいろなものに頼らないで、場に出たときに、そこで自分一人で何を起こせているかを問う。才能として突出していないといけません。そこには内も外も中もない。
中にそういうすぐれた人ばかりが集まっているのではない。そこのなかで、普通にうまいなと思われる程度では、どこでもやっていけないのです。一般の人達の前に出したときに、たかだか芸能界で人気がある人に、ステージを取られてしまう、それはそのくらいの力しかないということです。
場に出るということは本当が大切なことなのです。どこからでもお呼びがかかって、毎日スケジュールが一杯になっているというのならば、別ですが、そうでなければ、いつも自ら出て、問うてみることです。レッスンもその一つの場として使うことです。
この前、台湾に行ってきました。なぜ、いつもこのように外を回っているかというと、人間というのは動かないと妥協してしまうからです。それが自分でわからないから怖いのです。
研究所を出て、外でいろいろとやりだしても、なぜ上達していかないのか、歌う場がなくなるのかというと、外の客の方が本当は厳しいはずなのに、客に甘えてしまうからです。
客が満足して誉めてくれたら、それでよいと思っているからです。
もっと満足させて、その人が皆にみせたいと、もっと人を連れてくる気持ちにならないと、もっともっと何か人に与えられるのかどうかというところで勝負していなければ、活動も続かない。よくなってしまうのです。歌えたらそれで済んでしまう。そうでなかったような人をきちんと見て欲しいと思います。歌とか、声とかで全て決まるのではないのです。
昔は、私もここでマイルスデイビスと三味線をかけあわせ、聞かせたりしていたのですが、最近は、こういう実験的なことよりは、その前提のことをやらなくてはいけなくなってきました。クリエイティブなものなのに、レッスンがこなされるようなことではいけない。研究所にも、たくさん材料がありますが、あったからといって他人は大して利用しないということが、よくわかってきました。皆さんにはモチベートがあるとは思いますが、それが初心のときよりも低くならないように気をつけないといけません。
常に自分が与えることを考えていれば、間違いはないと思います。与えるということは、自分が伸びるために一番よいことなのです。与えられなくなってきているというのは、自分がそれだけ一人よがりになってきているということです。そういうことは、当然、音のなかでも起きてきます。うまくなったけど、新鮮味やパワーに欠けてしまう。何とそういう歌い手が多いのでしょうか。
とにかく正しいものを入れていってください。
ただ、それで声がよくなったり、歌がうまくなってみても、そのことと人を動かしていくことというのは違うのです。人を動かせる人が、仕事でも何でも、そこにより大きな力を働かせるために、音楽を使ってみたり、バンドをしてみたりする。その根本的な考え方が大切だと思います。
方法論に関しても同じです。自分で自分のことを限定して、決めつけていってしまうのです。それは自分の頭で考えるからです。他人の頭で、もっとすぐれた人の頭で考えればよいのです。それがだんだんできなくなってきました。自分を主張すれば何とかなると思っているのです。それでやってきて、どうだったかを考えること。
別にすぐれてなくてもよい。何かある人の感覚で考えてみればよい。そう考えるのも大切なことです。いろいろな本、特に伝記を読んでください。何かを成し得た人は、すごい技術があったのではなくて、すぐれた方法論をもち、目的への意識の高さが他人と違っていたのです。誰かのようになりたいとかいうことではなく、自分のなかに自分を離れて律するものをもつことです。人を魅きつけるということは、それだけですごいこと、それ以上のことをやろうとしたら大変なことです。
それは、これじゃだめだと思うが、そこまでのことでさえも日本人でできないのだから、そこにあるノウハウもすごいものです。日本にも客を動員できるノウハウも、楽しませて帰すノウハウもある。でも、それでは嫌だ、違う、という人達が、次の時代を切り開いていく。その嫌だというものがあるのかというのも問題です。
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「セシボン」
ここでやることは、本当は自分一人で毎日、100回くらいやってみて欲しい。自分の実感が出るところまでやってほしい。前に声を出すことも、息と体を使うことも大切ですが、もっと大切なのは、このフレーズのなかでの動きです。声で、どこがつかめ、どこが放せ、それはどうやって息使いから声になって、声から音楽になるかということをきちんと見ていくことです。
もっとも結果オーライにしかならないのです。考えているときはできません。このなかに何があるかということを、自分の世界にいきなりもっていくのではなく、もっときちんとそのなかを聞いていくことです。その力をつけることが大切です。
次の音楽にどう入るかということも伏線としてあります。フレーズのどこかで声がかすれているなとか、小さくなっているなと頭で考えて、それで出してみるのも練習なのです。しかし、自分のなかでそういうことが起き、そういう言葉が生きていくのは、表面のまねではないのです。フランスの曲だからわかりにくいのでない。音楽としては共通のものです。ひとつの音のなかに何が起きているかということに、いくつ気づけるかということです。そしていくつ出せるかということです。
「今 ぼくは」「エルマンテノン」「ラ・メール」
この二つの音が、二つにわかれて聞こえたらいけない。このフレーズのひびきのなかでこの言葉をいわなければいけないのです。
音が狂っているのは論外ですが、やりたいことは先ほどいったことです。