一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想 16682字 1167

レッスン感想 1167

 

 

印象に残ったのは、先生のいった「どんな人でも、bestを取り出せれば、1音ならプロ並みのものを出せる」という言葉。本当かなー、と一瞬疑ってしまった。一緒に声を出しているときに、発声のつっかかりを感じた。のどがきゅっと締まってしまう感じがした。また、音の密度を濃くしようとすると、のど、肩、胸などに力が入ってしまう。やはり、そこに何かを込めて伝えようという気持ちが引いてしまっている感じがする。だから、歌い終わっても、体から何か出たという感触がない。 

 

同じ曲を歌う、外国人歌手と日本人歌手のとらえ方、感覚、表現の違い。ていねいに歌詞を歌い、声を響かせている日本人歌手はなぜ、聞く側に直接伝わってこないのか。まったく同じ曲を聞いている気がしなかった。聞き比べると、ものすごく日本語のほうが音を伸ばしていて響かせてばかりで、演技臭さも入っていて。(このようなことをいえる身分ではないけど)ピアフの歌はなぜ、こんなにも感情がストレートに伝わるのだろう。そしてとても「音」としても魅力的でひきつけられっぱなしだった。「日本語」をフレーズにのせる音声の表現の難しさをすごく感じた。しかし先生がさらりと歌った「日本語」はストレートに伝わってきた。 

 

同じ曲を使って、日本人歌手(岸洋子美輪明宏など)や外国人歌手(エディット・ピアフなど)の音楽に対する感覚、表現の違いを感じる。

同じ課題なので、より“音も持っていき方”の差や人に伝えようとする“魅せ方”の違いを感じる。時代や文の違いは大きい。しかし外国では時代が変わっても、基本となるベースはまったく変わらない。日本は時代の流れにずいぶん影響される。

 

先生がとてもとらえやすいように、日本人歌手の歌い方をやってくださった。セリフをいうときなんか(歌のなかで)日本語だととてもわざとらしい。音のなかに入れようとしてすごく不自然な感じ。しかし外国は、話し声からスッと音になるから、今までの音楽をとらえる感覚の日本と外国の差、文化の差を本当に改めて感じる。もっといろいろなものたくさん観たり、聞いたりして「感覚」を捉えられるようにしたい。

 

「楽器の音色を自分の“声”で表現する」いつもはプロの歌声を聞くのだが、人の声だと、その人の“クセ”をまねるだけの“ものまねの超縮小版”になってしまう分、楽器の音色は素直に聞けるはずだと思っていたが、全然“音の波”“波”が自分の声にはなかった。やはり“音程”に頭が入ってしまう“拍のリズム”も、その音楽の世界に中に自分の声が入ってしまったら、ぶち壊してしまう。 

 

トレーナーがおっしゃった“演奏側”になって音をとらえなくては、音に対して鋭くとれないし、聞けていないという言葉は、すごく自分に伝わるのだが、“頭でわかっても体が反応できない”同じ曲でも演奏の異なる作品をもっと聞いていこうと思う。奏者ごとの音の出し方、使い方、世界観の違い、それと全ての奏者の共通点は何なのか、そういうことを本当に大切に感じていかなくてはいけない。先生と私は“同じ曲”の同じ音色が聞こえてくるはずなのに、自分にはとらえられないもの、気づけないものが沢山ある。先生の耳や瞳や体には何が映るのだろう、といつも思う。 

 

圧力(凝縮)とは、一体どういうものか。今の自分において考えられる、感じる点といえば、タンポポの綿毛が散っているようになってしまっているのが、拡散してしまっている状態で、圧力はその反対にホースのなかを水がゴムを膨張させながら進んでいくような状態のような感じがします。さらに、もしかしたら、声をつかんた後、次の踏みこみが行くまでの間、もしくは、離すまでの間の、息の筒の長さ(その言葉をおくスペース)を短く意識し、そこにグワッとひとつに詰め込む感じかもしれない。でもそれだと声が詰まってしまっているというか、何となく不自然というか、何かしらしっくりこない。だから、とりあえず今のところは、前者で、しばらく気づくまでは試してみようと思います。とにかく、息を抜いたり、拡散しちゃったり、押しつけたり、もたれたり、ズリ上がったりするのは方向違いと感じるので、直したいし、気をつけたいです。私は息を抜くクセが強いような気がします。 

 

「音楽をする状態」に入る。(これは本来なら、音楽や歌を将来やっていきたいと思う人間なら、あたりまえのことなのに、そんなことをトレーナーに指摘されてしまうほどの反応の鈍さ、反射力、集中力の欠如なのだと思った)前奏の第一音から世界に入りきる。音にもっと敏感でなければ。「聞こえたものを出す」歌詞の先入観を取る。1フレーズを鋭く取る。途中でぬいたり、出だしの入りがぐにょぐにょと入らない。(そう聞こえてしまうのは、表面の雰囲気に流されていて、歌手の声そのもののフレーズのとらえや、強弱に、よほど鈍感かということだ) 今持っているもの、そして感じたものを最大限出そうとしなければ、自分の欠如や課題すら見えない。 

 

今回、いつもより少なかったので、自分の声、そして1人ひとりの声がよく聞こえてきました。同じ場でありながら個人のときとは違いがあります。同じメニューであっても大きく出そうという思いが強いように感じました。それはしっかりと自分の声を聞きたいという思いが強いがために、必要以上に力で持っていこうとしているからだと思います。ただ、今回の場合は少なかったためか、その感覚は少なかった。結局、こういうことが“力み”をつくってしまい、フレーズ感のなさにつながっている。最近感じることは声は少しづつ出るようになってきているのに、同じだけ音楽になっていかないということ。他の人のを聞いたときの判断はそんなに間違っていないと思うのに、自分のこととなると、別のことをしてしまう。だから、少しは深くなった声、息が、今一つ活かされてきません。1フレーズぐらいのときはまだましだが、2つ、3つと続けていくと、それらを余計に感じてしまいます。

 

最近のレッスンでよく耳にするのは「線を描く」「息を流す」「力で歌わない」「イメージする」などである。力一杯で歌っていたレベルから、体は使われているが、そのレベルでなく、少ない息で効率よく音に変えていく、というレベルをめざしていかないといけないと思いました。今日の課題のフレーズも力でもっていかないで、大きさを出していくということを少しでも出せればよいと思い、取り組みました。前述のように「たとえこの愛が」「いつか終るとも」「この命消えるまで」「あなただけ」など、ひとつのフレーズを回していくときは、まだ素直さが感じられるが、いくつかのフレーズをつなげたときはつながっていきません。それぞれのフレーズが独立してしまう。

 

声を出そうとするんじゃなく、線を描くことをイメージしながらやったので、いくつか、そのイメージに近いものが出せたと思います。やはり、出そうとすると体は声が出ているように感じるが、押さえつけているようになり、流れていかないなと思いました。比較的うまくいったときは、何か少し足りないなという感じを受けるが、どこにもひっかかっていないので気持ちはいい。少しづつではあるが、曲を聞くときに、以前よりは声量とか、声のよさなどの表面的なところでなく、1つひとつのフレーズをどう動かし、どう反応しているか、声の使い方はどうか、などというようなとこどが気になりだしてきました。

 

聞き手は素直で心地よいもの、ストレートなものは聞くし、その人にも興味を持つようになる。好き嫌いの前に、共通して受け入れるものがあるということをきちんと認識していかないといけない。ステージでなくても、通常レッスンのなかでも、比較的素直にいったときは、まわりの反応も微妙なものだが、違いを感じます。素直にというのは、決して声の大小とか、きれいだとかではなく、ひっかかりなくストレートに出せたときのように思います。

素直であれば前述のように、正直なものでまわりの人は声を発した人のほうに反応する。自分に置き換えてみても、まったく同じことをしています。いいものはいい。そうでないものには反応しない。「素直」というものがいろいろな形、意味で使われ、そしてその大切さを一つ違うレベルで気づけたようです。 

 

この場でできなかったこと、できないということがわかったことパバロッティの「YEWYORK」のNEWは、上から下へ、右回りにぐるっと円を描いていると思った。だから、「ニュー」→とやってしまうのは違うのはわかる。私はいつも、たった一つわかったことでも、それをできずにいるのは、意志でもって変えていかないからだとわかった。先生にいわれて気づいていること自体、情けない話である。

 

「YORK」は「NEW」でつかんだところから、広げて、ほかる感じにきこえた。ここではやはり、息が必要だ。それもはなして、とばすだけの息。なのに、私は、ものすごく力が入ってしまった。NEWで、つかめていないから、そこから動かせないのはわかった。NEWがYORKにかぶさる感じになってしまった。硬くて窮屈なNEW YORKになってしまった。もっと上半身をリラックスさせようとしたが、気持ちの上でも、そこまでもっていくことができずに終ってしまった。

 

今日、やろうとしたことを細分化して、詰めていけばいいのだと思った。途中、トレーナー先生の話がわからなくなりかけたが、「あー」で、やったらなんとなく飲み込めた。先生の「あー」は、全然違う。そこに自分の詰めの甘さを感じた。先生は、あの「あー」にたどりつくまで。きっと私の想像は、及ばない量と、そしてひとつのことに対する、ものすごい執念で取り組んできたのだと感じた。確実に出せる。先生の体の下の方から、声の芯なのか、何か強い意志を持ったものが、先生の体のまんなかを通って口から出てくるのが見えた気がした。

 

息の層が、クリアな声ではりがある。それは、密度の高い息の芯なのか。でもそのまわりを囲んでいる。息を吐いているけれど、息まじりの声ではない。力強さもある。だけど、硬くないのだ。私と比べるのもおこがましいが、比べていかないと、課題も見えてこない。同じ環境のなかで聞けることは、CDを聞くのとは別のところで、ものすごくわかりやすいし、勉強になった。 

 

この約1年のレッスンの内容を見返してみると、今回のレッスンで1つの大きなテーマがみえてきたように思いました。歌ということに対して1つの捉え方をずっとしてきたようで、野球でいえば、ひたすらストレートを投げ続けていたといえます。それも、しっかりと下半身を使ったものではなく、上半身に頼った腕の振りだけで投げているような感じです。しかし、これだと疲れが出て、それだけならいいが、肩、ひじに必ず障害がくるはず。ヴォーカリストならのどにくる。どんなに速くても(いくら声量や声域があっても)そればかりだとバッターは目が馴れてきて、打たれてしまう。(観客は飽きてしまう)。ところがそこに緩急などの変化が入ったり、絶妙なコントロールがあると、打者は見事にタイミングをはずされてしまう。さほど速くなくとも打ちとれる。だが、これを可能にするには全ての球を同じフォームで投げられないと半減してしまいます。そう、このフォームがとても大事になってきます。

 

大きな声、強い声、弱い声、小さな声、ファルセット、ハーフボイスetc.が全て同じ型になっていないといけないはず。それぞれに出し方を変えていたのでは、息は止まってしまうし、フレーズにならないのでしょう。冷静によく聞いてみると、単純にうまいな、心地よいな、と耳に入ってくる歌は、押してばかりでなく、引きもあり、その中間もあります。ワンフレーズならまだいいが、1曲3分となると、ワンパターンは必ず飽きられてしまう。それが何曲も続いたらさらにです。今一度、世の中歌い上げっぱなし、声量だけでない音楽やヴォーカリストがいることのなぜかを知らないといけない。そういったものが何十年と残ってきているという事実。体を使うということ、出すということはなにも→と出し続けるということだけではないということ。

 

日本のヴォーカリストは、ここでいう深さは確かにない場合も多い、しかし、プロのヴォーカリストとして持っている共通の部分はあるようです。それは一体どういうものだろうか。声をふくらませたり、すぼめたり(<>)、線を描く(~)、柔らかさ(○)、keep力(――)など。そして、声を出すということばかりを考えていたので、やっていけないと思っていた「抜くこと」「響かすこと」「ハーフボイス」など。これらはやってはいけないのではなく、どういう体、息、心の状態であるかで、生きているか死んでいるかということをいっていたのでは、と考え直しました。だから歌は力じゃないというのだろう。

 

ヴォーカリストの条件のひとつとしてpowerが必要であるが、それは=力でということではないんじゃないのかというふうに感じてきました。Powerが生れてくるのは正しい身体の状態、そして精神が集中されているときではないか。いくら大きな声が出るようになっても、声量がついても歌えるものではない、ということの意味を少しづつではあるが、感じとれてきたのではないかと思います。身につけていっている人が行うメニューの一つひとつには裏付けされたものがある。だから伸びてきたのでしょう。

 

まず「量」をやったかという問題があるが、「考え方」(質、内容)がかなりのウエートを占めているようです。「力を抜く」というのも、気を入れてそういう状態をつくりなさいということなのか。自分では力を入れていないつもりだが、レッスンのあと、少し声がかれてしまいます。出していくなかで少しづつ、力が入っていて蓄積された結果なのだろう。今回のメニューのひとつに<または>で出すというものがありましたが、>は比較的やりやすいが<がうまくいかなかった。息の量で調節すべきなのを上の方でやってしまう。だからさらに<>になると難しかった。コントロールは当然のことながら力が抜けていないとできない。

 

今回レッスンのテーマ1無駄な力を抜く。2出しっぱなしではワンパターン。飽きられてしまう。3ハーフボイス・ファルセットなどではだめなのでなく、ひとつの表現方法であるから、使っていけばいいが、問題はその状態がどうであるか、ということ。4どんな声であれ、要求されるのは息である。そしてそれと集中したものがあれば作品になるということ。凝り固まった状態が少し柔らかくなったようです。息が流れているというのがどういう状態をさすのか、ということを前より少しは前進したのではないかと思いました。 

 

ヴォーカル、声の基礎、基準をみつける。やはり、テンションやスタンスの甘さがいけないと実感した。まず最初のモノローグからしてつまづいてしまう。何を書けばいいのか。うそばっかり、みせかけだけの文章しか書けない。いざ本番、カメラの前に立ってみると、何もいえなくなる。心のなかでありったけの言葉かきあつめるしかなかった。でも、今までで一番高いテンションでストレートに声が出たと思う。だからといって、そこから音声表現がなりたっていいるかといえば疑問だ。力が入っているし、そこでやっとスタートラインだと感じた。

 

どうしたら、ひきつけられるのだろう。分れて課題を使いながら声の基準の持ち方、無理に届かせようとしても無意味だ。どこかで入り込みつかむ。メリハリのついた波をつくりだせないと持たない。なにしろ3分間の歌のなかでは特に。前にとばすことは大きく出すことと思っていた。それでのどを痛めてしまったりもする。まず言葉をつかまなければ、でもそれを歌にすることも難しい。日本語は特に一文字一文字の間が長くなると、間延びして薄まってしまう。 

 

ステージというものを考えた。その人が現われて、ぐっと客を引きつけ、刺激するものは、一体何なのか。モノローグでは、最もその辺が見れたように思う。一つ思ったことは、自分のために、舞台に立つ、何かしゃべったり歌ったりするのではなく、目の前にいる人々のために、行うことだということ。自分のためというか、自分の勝手で、自分のことを語ったりするのではなく、人のために自分を語るのだろう。モノローグでは、多くの人が、ステージではなくAスタの壁ぎわに立っている人が何か発表して中央にいる人々は黙って聞くという状況になっていたと思う。ただそう思ってやっても伝わるものではないと感じた。そこに何が必要なのか、を煮詰めていく。

 

言葉の課題は、特に新しい世界がとんできたというのはなかったが、真剣さで差が出たように思う。言葉に真剣さが滲み出ていて、剣のように鋭く耳に入っている人がいた。日頃の生活が現われるのだと思う。改めて、振り返ると、自分のなかに引っ込んでいたなとつくづく思う。常とはいわずとも、人前に立ったときは、上で書いたように意識を、外におくことをやらないといけないのに、普通に自分をやっていた自分が何とも情けなく、いやしく感じる。

 

後半の歌、それへのアドバイスは、だいぶ具体的だったので、特に感じ入るということもなく、直接的に受取ったが、自分ではわからないことも多くあったので、映像や録音などを通じ、理解したい。

先生のコメントと「冷たい」から歌唱までを聞いて思ったのは、音楽のなかでのルールみたいなものをもっと意識し、勉強しなければ、ということ。 

 

いかにして場(ステージ)をなりたたせるか。場(ステージ)に立ったとき、いかにしてその場をつくっていくか。また、すでにつくられた場であるなら、どのようにして自分がそのなかに入っていくのか、そのなかで人をひきつけられるものは何なのか。ただ勢いとテンションだけでは人をひきつけ続けることはできないと感じた。そして、場も含めて、息や声全てにおいて、これくらいはできると感じていたことが実はまったくできていなかったこともよくわかった。 

 

このレッスンは“出たもの勝ち”だなと感じました。そして過去の合宿自分は不参加だったのですが、“出たもの勝ち”だったのだなと思いました。歌のことだけに集中できる。こんな日が毎日だったら、幸せだと思いました。

 

私はマイナス思考が強いので、せっかく集中できるチャンスについつい“だめだから”と思って気が散ってしまいがちなのですが、最初に、思い切り自分を出すようにとか、楽しむようにとか、自分のよいところを見つけるようにいってもらえたので、“出せてた”かどうかは別として、気持ちの上で、自分や歌のことに集中できたので、とても充実感を味わうことができました。最初のモノトークは全然変わっていない自分にガク然としてしまいました。そして、これも先生からコメントがすぐもらえたので、自分がだめだと思っていること自体が勘違いであることにすぐ気づけて幸いでした。

 

せっかく2年間“自己表現講座”をあんなに受けて学んだことが全部とんでしまっているので、ステージに上がることは自己表現なのだと、キモに銘じたいと思います。言葉の練習は本当に勉強になりました。ブレスヴォイスに入った頃、本で読んだりレクチャーなどで聞いたときは何のことだかさっぱりわかっていませんでしたが、この練習で自己表現の楽しさを学べたと思います。日頃“離すな”とか“逃がすな”とかいわれていますが、“ゆっくり歌う”の練習で、こういうことなのか、と思いました。かけ声や笑い声の練習も、とても自分にとっては、ためになり、すぐ声がひっくり返ってしまうことに悩んでいるので、この練習に常に戻るようにしようと思いました。

 

台詞や歌詞を読むのは、とても難しく、読むだけで、こんなにくさくなってしまうのに歌うなんてとんでもないことなのだと、歌うことの難しさを感じました。2日目のメニューでは、最初Gスタでトレーナーにみて頂きましたが、2回やってみて、1回目の注意を全然わかっておらず、2回目をカン違いしてやってしまったことに、その後の先生のレッスンを受けて気づきました。“声の出ない人はこうやって歌うんだ”といわれたことを、とにかくよくイメージして練習してみようと思います。 

 

10cm単位でなく1mm単位で見ていく。レッスンも終りに近づこうとしていたそのとき、体に電流が走った。何てこった。自分で貴重なレッスンをドブに捨ててしまった。何やってたんだもう。普通忘れるか。Fさんがちょっと「コピーで」といったのを、そのままうのみにした。ばかだよ。お前は。どうりで上達しないわけだ。 

 

息がたくさん吐けることより、息が声になることのほうが大事。のどにかからないこと、かんでふるえないこと。浅くならないこと。顔のひびきだけにならないこと。突かないこと。声ができかかってきている人と、浅くなったりふるえたり、どこかでつくっている人ととても差があった。つくっている人は何でそういう出し方をしてしまうのかな、という出し方をしていた。先まで聞かなくても一声で、差が明らかだった。フレーズも、何でそういうふうに歌うのかな、という歌い方をしていた。聞いていて気持ちがよいこと。

 

マヘリア・ジャクソンはサでもっとスッパーンと入っている。マヘリア・ジャクソンが歌っているように伸ばしたり、「si(gh)lent」とウエイトに差をつけようとしたり微妙な声の強弱なんかを全部やろうとすると多分つくっちゃう。自分が一番息を声にできるところで、まずやれるようになること。

 

トレーナーが半音で見せてくれたよいお手本と、つくらない単純な歌い方というのに共通するものを感じました。息が必ず流れていること。声で歌をつくろうとする前に必ず1息で歌えること。その自然な流れと声の間に隔たりがないこと。歌い手の歌い方や大きさや味や声に憧れる前に、自分の息の音楽の流れがあること。息、音楽。2ひびきonlyにならないこと。「芯」にこだわって力まない。変な音がしない。息と声が分離しない。これだ、という変換点がつかめていること。息、音楽、変換点。Colling youのあの音色は、息が声になっていなければ出せない。変換点がつかめていなければ出せない。耳がなまらないように。息歌、息歌。 

 

美輪さんの3分くらいの悟りを二通り、聞く。ほとんど間とか呼吸などの配分は同じだった。もう、あの悟りは作品として、美輪さんのなかで消化されているのだろう。同じものを2回聞く中で、私のなかでこういうグラフのようなものが思い浮かんだ。MAXにいけばいくほど、体や声を使い、MINにいけばいくほど口先だけの、吐息のような声になり、そして「0」のところは普通に出しているところだとすると、体は初めからMAXでのピーク時のところまで準備されていていなければならないし、集中力や鋭さはMINでの細かいところまでなくてはならない。そして何より、最小→最大を出すときのスピードが、0.01秒かはわからないけれども、やはりプロや一流の人は、このスピードを持っている。(グラフでいうと一番大きく振り幅があるところである)だからこの波動は、その人の表現の自由度の幅ともいえるだろう。

 

たとえば、こういうものを作品ごとに透明にシートに出して、違う人のを重ねてみると、「ずいぶんこの人は初めっから体で歌っているんだな」とか「体も使っていると思ったけど、そんなに使っていないんだ」などと、その人の表現と体、声の結びつきのようなものが、視覚的に見れるなと思ったのです。でも絶対に、自分の体に落しこんでいくのには音の世界のほうがよいと思いますので、自分には置きかえられませんが。ただ、世界でよくわからない人、どうやって音を出しているかわからないような天才たちのものが、こういうふうに出ると、それはそれでおもしろいなと思います。そもそも思い浮かんだのは、多分美輪さんの悟りは、2枚重ねてもほとんど同じだろうということからでした。

 

今日のアダモの曲は難解であった。アダモの音の強弱での出し方などは自分には決してないところである。単に音をぶつけるのではなく、音を包み込むくらいのゆとりがほしい。まったくなし。 

 

3回“ハイ”というとき、どの音も同じように身体を使い、同じ強さで音を出せるようにすること。声を出したとき、体のどの部分に力が入っているかを知ること。体の中心で声を出すということを自分で実感できるようになること。腰、骨盤は常にほぐしておき、自由に動かせるようにしておくこと。フレーズをひとつの線と考えられるように、感じられるように、そのように歌えるようにすること。 

 

発想の転換が必要だと思った。メトロノームを拍の頭以外で使ったことがなかった。点と点が合ったからといってリズムがとれているとはいえない。点と点との間をどう感じているかが大切。クリックの音を裏拍に感じながらの演奏だと頭打ちのときと、ノリの感じ方が違うような気がした。特に3拍子の2拍は特に強く感じた。実際にやってみると必ずテンポが遅れてしまう。テンポが保てず、ズレが出てしまう。これは聞いている音に引き摺られているだけで、自分のなかにリズムが回っていない証拠。音楽は自分で引っ張っていかなければならない。基本的なところから修正してしていかなければならない。 

 

曲の解釈は人それぞれ違うところはあると思うのだが、私の場合は言葉から入るというよりも、まず、曲を聞いて映像を思い浮かべる。それをどうやって音で表現するのか。一番いいたいことはどこで、それでいうために全体をどう作っていくのか、という流れが多いような気がする。しかし、ある日ふと思ったのだが、歌詞のなかで「もう少し」というのがあって、「もう少しって、どのくらいだ」と気が止まった。曲の流れから、それは「もう少し」といってはいるが、本当は永遠なんだ、という気持ちが込められている。“永遠”が裏に込められている“もう少し”をどう音で表現しよう、と頭を抱えてしまった。

 

今日も“自由な、自由な”の不自由さを、どうしたらいいのか、正直いってわからなかった。やはり今までのやり方ではつきつめ方が甘いと思う。いろいろな方向から見る。イメージを膨らませる。ただがむしゃらに歌う前にしておくべき作業。そういう作業を踏んだ上で歌いこむ。この作業が小っちゃいことだと思えるくらいに。同じメロディーのところをどう変化をつけて表現するか、詞の流れの面から、曲の流れの面からどうしていくか、体のなかに落しこみ、体で表現できるように。実際にはメロディーを追うことで精一杯で、そこまでできていない。入り込めていないのは問題。

 

リズムの単位を細かくしていく。フレーズの動きを細かく見ていく。その方法として、テンポを落してみるとわかりやすい。ゆっくりだとやりにくいところもあるが、誤魔化してやっていつところが浮き上がってくる。気力が続かないこともわかる。フレーズとフレーズの間、音を伸ばしていることろ、そういうところの間がもてない。そしてそこでリズムを失ってしまいがち。自分が何をやっているかがわからなくなってしまう。音楽は止まらないものなのに、そういったことで全てが壊れてしまうのだ。どう表現していくかがイメージできていないこともこれを引き起こす原因か。

 

“出だし”がもたつく。鋭さに欠ける。(いや、ない)今日のレッスンでも、無意識に音程をとってしまっている。自分でもかなりの重症だと思う。その結果音の高低に走っているし、リズムも勝手に崩している。声を出すとき、一瞬の「迷い」がある。きっと頭でこう出そうとか一瞬考えてしまっている。ポンと反射的に出てない。その上、声がぼやけていて芯がない。この“頭でっかち”の重症状態の感覚を、とにかく変えたい。だからとにかく多くの音楽に触れたい。そこから自分で“何か”を、材料を見つけたい。 

 

「どんぐりの背比べ」の状態から抜け出そうとしなければ。みんなの声を聞いて、足りないものが、そのまま自分に当てはまるのだろうけど、何となく似たりよったりの状態では何も見えてこない。ここのスタジオで今の自分の100%を出しきれないで、一体どこで100%出しきれるというんだろう。もっと今ある小さな殻をこわさなければ何も生れてこない、と思った。

 

下あごに声がひっぱられる。「あ」の発声のとき、下あごを動かさないようにまっすぐに声を出す。高音域が逃げているといわれた。「like me」のmeが上に上がってしまって、音質が変わる。上がらないようにすると、力が入る。歌うときに高い位置に響いて、しゃべるトーンからはずれている。「あ」母音だとできる気がするのに、他の母音だとだめなのは、もともと「あ」母音からしてできていないのか、他の母音だと何か変わってしまうのかがわからない。ブレスを深くする方法。吸うことに注意していたが、限界まで伸ばす練習によってブレスがよくなるといわれた。ブレスが足りないのは呼気のときに力が入っていると指摘された。体のなかを息がうまくまわらない。 

 

やっていて感じたことは、まず場のトレーニング(モノトーク)のときは、自分としてはまったく自分の世界をつくれず、言葉もどの言葉を他人に最も伝えたかったのか、ということもすごくあやふやだし、間もメリハリもつくれず、一本調子でいってしまった。やはり場(ステージ)というところになれてなく、その雰囲気が読み取れていないのがよくわかった。

 

似たような人が多く、ただ一人、すごくよい声で何かわからないが何かを出していた人がいた(前から5、6番目の人だったと思う)その後のレッスンでも自分がまだまだ何もわかっていないにことに気づいた。言葉のフレーズにも、まだ一本の線のようなものも通っていないし、言葉の語尾も離して抜いてしまっている。(ただ気づいたことで感嘆詞を使った言葉は比較的深く、出しやすい。これからの自分のトレーニングに取り入れたい)これらのことをいかにしていくかが、これからのトレーニングのネックになると思う。 

 

トレーナーが前に「完璧にコピーすれば、そのうち外れていく」といっていたのと、今日F先生の「その歌い手がこの曲ではこうやっている。だったら自分はどうすることができるのか。」ということがイコールで結ばれているんだ、と気づいた。この考えが間違っていても、今はいい。進むべきベクトルに進んでいけば(どんな回り道をしようとも)また、そのとき気づくはずだから。 

 

3回”ハイ”というとき、3回目がいいかげんになってしまっている。初めの“ハイ”を意識しすぎていて、3回目になるとだれてしまう。どの音も同じように出そうとすると、息を十分に使えなくなる。音程を意識しすぎている。高い音、低い音にいけばいくほど、のどを使ってしまう。本当にそうなるほどに、息を必要とするはずなのに、それができていない。音程よりも体に意識をもっていけるようにしたいと思う。お腹の下に力を入れることができない。どうしても上の方で息を意識してしまう。毎日毎日イメージして、意識して練習したいと思う。フレーズの練習は難しい。

 

きちんと音、声、雰囲気を聞くことができていない。音の流れ、表面だけをとって間違えないように、と思って歌ってしまうからフレーズの流れ、1本の線になっていることにも気がつけずに歌ってしまう。“アー”で歌ってみていかに自分が1本の線で歌えていないかということがわかった。そして頭で考えすぎてしまって、体が使えていない。息吐きのときや発声練習のときはある程度、使えているのに、歌になると途端に使えなくなってしまう。考えるより行動してみたほうがよいということに気づいた。 

 

リズムを意識すると体がかたくなってしまうように思う。起伏が見えやすいとまだましだが、どう表現していいか、戸惑うときは特にそう。無理矢理つくりだしているようなことが体に出てしまうのだろうか。“夏が過ぎ/風あざみ~”これは正直いって読み込めなくて全然やっていてもしっくりとこなかった。気力もせいぜい前半までで、後半まではもたない。あの無駄のない鋭さをどうやったら出せるのか。セシリア・ノービーのほうは音を伸ばしているところで完全にリズムを見失っていた。「ん」といった感じで、その後はもうボロボロに。一瞬の気のゆるみが大きな事故を引き起こすといったところだろうか。 

 

曲に合わせて読むということ。まず、ワンセンテンス(J-POP、歌謡曲では一行12、3文字というところ)をひとつにつかんで空気中に放つ。ここではまだ単に(声)(音)未確認物体、UFO。感情移入や、形のチェックはしない。それより声を発するとき、少しでも体の動く感覚をつかむこと。 2歌(音楽)には導入部があって、最も感情の盛り上がる個所(サビ)がやってきて(多くは音が上がっていくところ)、エンディングとなる。山形を措いて描いている。その起伏に到るところ、気持ちの盛り上がりに合わせて音がついている。その(歌いたい気持ち)をぐっと内に内包しで“読む”ということ。歌いたい気持ちを溜め込んでまずは“読む”。ここで歌うのを急いではソン。のども痛めるし。ここで(歌いたい)フラストレーションを溜めずに、放ってしまうと薄まってしまう。広がってしまう。

 

生地がしまらない。歯ごたえができない。冷製パスタをつくるときの氷水で“きゅっ”と締める感じ。もちでも手打ちそばでもいいが、粉を水で溶いてこねて、生地を持って延ばして、ごく自然と形になってくる、実を伴ってくるのを待つ。その手間暇にかかる時間をきちんと本番から逆算する。外国語でも曲、音の構成でもって気持ちの高鳴りがつかめるはず。読む=話す高さ=中音域のトレーニング。劇団のメソッドも(何をいわんとしているか)自分のなかで消化する、やってみる。劇団の人にも有用なトレーニングと思う。自習しやすいメニュー。CDって一発選曲、オートリピートだもんね。時間ないので多くは発表の曲と一緒にやっていかなくてはいけない。どういうお客さんに向かって、どういう曲をというイメージができてないが、探りつつ、自身柔軟に変わって行きたい。器を大きくする。 

 

ステージ実習評 Kさん:初めて見たとき、ブランコみたいに体を上下して歌うのと、手をまわすのと(なんじゃ)と思ったが、気がついたら発声で自分も同じことしている。体を使うことを意識するときに生まれる癖なのだ。まわりも眼に入らずトレーニングに(入ってて)エライというか羨まし。いっぺん見たら忘れられない。オモロイなあ。半年くらいですごくうまくなったと思った。アテンダンスとか見ると本質的につかんでる、理解しているのがわかって手助けになる。ある種ここが合ってたかも。まだ若いからか、ステージを見た経験が少ないからか、発表でもトレーニングを引きずってしまう。(立つ)という気迫は正しいが、舞台はそれをちょっと置いといた、違う客観性が求められる。絞り出すものだが、自分自身が照明室の根元になって、自分の姿を眺めていないといけない。地に足着いてないと、技術的には果たせないが、やはりある種舞台はふわふわ浮いている部分があって、よそゆきであると共により純粋に自分であるといえると思う。

先生がよくいう(伝える)ということ。より純化された(自分を出す)。やっている本人がギリギリのところでやっていないと、評さえもらえない。そんなメンバーが大半のなかで、実をとっていくためには、捨て身、前向きに討死にしなければいけないのを切に痛感する。その場を利用して、人のなかで揉まれて、お互いに切磋琢磨するということ。

 Sさん:どんな人か知らない。若そう。素直で伸びやかな文体。そのときどきで求められているものを的確に読み取っている驚き。たぶん初心者じゃないな。そのワクワクが5年、10年続いたらすごい。

 Wさん:言語感覚が繊細なのかな。桑田系のでなくてさだ系の。押さえているって感じ。

 Mさん:気持ちの細やかな人。大阪のTV局で打ち合わせしてそうな作家顔だったので、文章の印象と違った。二十歳前後ってイマジネーションが広がって、いちばん思考回路が形成される年代だ。 

 

ひとつの作品を見ると、自分のなかでよいイメージが体のなかにできてくる気がする。まだ実際に声にすることはできないが、いつかできそうな気がする。1日でも早くそのプロとしての体をつくりたい。

 

 

特別セミナー

 

リズム、Q&A/一番感じたことは、「リズム感が全然ないんだな」ということ。それと、本当に楽しんで音楽に触れている。(Yトレーナーさんが)自分も含めて、レッスン中『お勉強』という感じがぬぐえなかった。日本風って感じ。もっと、happyにレッスンに臨んでいかないと、前へは進まないよ。きっと。英語の歌は母音を伸ばしているのが特徴とか(子音は伸ばせない)一つひとつの言葉をじっくり、ていねいにやっていく。

 

セブンスの音程(そのなかで半音上下したりも)。リズムを体に入れる(メトロノームに合せて、手を叩いたり、ステップしたり)。音楽理論を学ぶ。音に親しむ―この音はどういう感じにするか、とか。とにかく基礎をとことんやっていく。 

 

音をもっと身近に感じる、自分が普段いかに音をいい加減にあつかっていたのかがよくわかった。もっと音の感覚や雰囲気をしっかりととらえられるようにしていく。それができていれば絶対音感がなくても、音がはっきりととらえられる。また、歌を少し見てもらっていろいろなことを指摘された。1つは言葉を一つひとつていねいにとらえていくということだった。今まではやはりそういう部分はかなりいい加減だったと思う。2つめは歌いだしから飛ばし過ぎない、もっと勢いをためるようにしていく。そして曲のおいしいところで全てを解放するようにするようにしていく。

 

ようするに押していく感覚とひく感覚をつかむ。また、歌をコピーするときはもっともっと原曲を聞く。ただ聞いているのではなく、本当によく聞く。息の取り方、言葉、フレーズ、リズム、全ての部分をしっかりととらえ、そのなかから自分に合うものを取り入れていく。

 

もっと口を開ける。(のどを開ける)やはり歌っているときに、まだまだ口が開いていない。鏡で確かめたりしながら、やってみる。最後にこれは気づいたことだけど、自分としては、とにかくレッスンで自分をもっともっと前へ積極的に出していかないとステージでそれをやるのは難しいと思う。今日見ていて自分のなかにこもってしまっている人が多いなと少し思った。その反面、Yu先生は場が沈みかけてくると、そこをうまく盛り上げていくのがうまいと感じた。(これは他の全ての先生にいえるが)やはりプロの感覚が入っている人はそういう場の空気を読むのがうまい。 

 

まず、先生の“存在”にすごく惹かれた。「ひまわり」のような明るさと笑顔、存在感、軽快な話し方、先生のつくる自然な空気のなかのレッスンに、私自身、とても楽しめた。音に対する関心、親しみ、愛着心がすごく伝わってきた。「耳を開いて音を聞く」「音から生れるイメージ」「どんなときでも気持ちをhappyにしてうたう」本当に一番元となる、大切なことを、最近少し忘れていた気がする。先生がおっしゃった言葉の1つひとつが自分の「原点」に気づかせてくれたと思う。

グループをつくって、音と音の「共鳴」をやってみたり、伴奏にコーラスをつけてみたり自分がとても「have fun」な気持ちだった。

 

今まで何となく外国のプロの歌手を聞くことで「日本人」という自分の存在をすごく引いて感じてしまっていたときがあったけど、“日本人”だから、とか“外国人”だからとかはまったく関係ない、「自分は自分」のままでいいんだ。自分の生き方でいいんだ、堂々とどこにいってもしていればいい、そう感じた。それと「世界に通用するプロ」の壁の厚さ、計り知れない距離を感じた。自分も将来的にめざしたいとはもちろん強く思っているが、どこか「甘さ」があった。全然全てにおいて欠陥だらけで、スカスカの中身で、夢だけ大きくても中身がなきゃ、本当に「幻想」で終ってしまう。今のままでは間違いなく幻想のままだと思った。何年かかっても、意地でもねばっていこうと決心した。

 

先生に今日この日会えて、本当によかった。わずか2時間で、とても短く感じたけど、先生の人間的な魅力と奥の深さ、「音楽」に対する一番核心のついたレッスンに得るものは大きかった。ひとつ、自分自身で、もったいないことをしてしまったのはもっと自分をアピールしたかった。遠慮してしまったことが悔しい。もっと、パッと前に出てやっておけば、といまさら思っても、もうしかたないので、もう次からはガンガンアタックしていこうと思う。絶対同じことは繰り返さないぞと誓った。家に帰って先生のCDを聞いた。「気持ちをhappyにして歌う」という先生の言葉が伝わってくる内容だった。