一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

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ベスト盤アルバムが流行る 売り手側は製作コストを抑えることができ、買い手側はCDを何枚も買わずにすむという割安感がある、というのが一般的。一方でヒット商品をリードする10~20代女性の「こづかい事情」を調べた電通総研は携帯電話の影響を指摘する。「不況で収入は減っているのに、携帯への支出がさかんでCDに使える分が減り、買い得なベスト盤に走るのでは」と分析している。

 

漂流する日本語 漢字かなまじり 今の日本の言葉はこれまで2回、激変期をくぐってきたといわれている。最初は漢字がもたされた時期。万葉仮名の一部を使ったカタカナ、ひらがなができ、9~10世紀に漢字の音訓読みと、3種類の文字を使う表記法が確立した。「古今和歌集」や「源氏物語」はその揺監期の華といえる。2回目は近代日本の草創期。ポルトガル語や英語が伝わるのを受けて漢字の造語が盛んに行なわれ、新地平を開いた。のちに「和製英語」も生んだ。21世紀を目前に控えた変化は、前例のないものかもしれない。インターネットでの英語の優位性は際だち、英語使用は8割以上。日本語表記も縦書きから横書きへと変容しつつある。中国の人民日報も韓国の新聞も横書きに移る中、縦書きは日本と台湾の新聞、国語の教科書、俳句、短歌…数えるほどしかない。日本語はどこへ行くのだろうか。

 

横ばいの市場 ここ数年、CDの売り上げは100万枚を超える大ヒットが続き、音楽業界が潤っているイメージがあるが、実はそうでない。10~50万枚を売る中位のヒットが激減し、7000億円の音楽市場全体は数年来、横ばい状態。1993年に417人を数えた国内デビュー歌手は、97年には219人と半減。一部の音楽家の活躍だけが目立ち、音楽で食べていける人の数は減っているのが現状だ。

 

情報がつくる超ヒット 90年代に入ってから「メガ・ヒット」の時代といわれる。ヒットが「100万単位」で出ることを意味する。都はるみだって、ピンク・レディーだって100万枚を連発してはいない。松任谷由実の音楽的傑作は荒井姓時代といわれていても、100万枚を売りさばいたのは、バブル期である。75年、400万枚を売った「およげ!たいやきくん」は、珍しい例外である。だが、それらの歌は国民のほとんどが知っていたといっても過言ではない。しかし、近年の100万枚は「100万人しか知らない」ということを意味するというヘンなことになっているのだ。記録に残っても記憶に残らない「流行」や「ヒット」ここがまず「メガ時代」の大きな特徴だ。なぜか。大衆音楽録音物が「歌を心に残すために」買われているわけではないからである。たくさんの人の心に残った結果、「流行」といわれ「ヒット」の記録を残したのがバブル前。「メガ時代」に入り、ポップスを買う理由は変わった。

「友人と話を合わせるため」「流行といわれているから」。「流行」という言葉は強迫観念をまきちらす細菌のように人々の体に入り込み、ねずみ講のごとく感染者を増やしていく。疎外されることへの恐怖症。「えっ、知らないの」という疑問符が、流行のたびに「だれか」から発せられ、それにおびえ、つい「知っている」と答える。それが順次繰り返されれば「メガ・ヒット」が生まれる。「メガ・ヒット」をもくろむこの仕掛け人たちは、その最初の「だれか」を選び、耳打ちする「フレーズ」を考え、「タイミング」をはかる。そこに音楽に対する愛情や夢は希薄であり、音楽家が顧みられることは少ない。必要なのは「マスメディアを不安にさせ」「購買者を恐れさせる」情報力だけである。

 

 

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語録 

 

「シンガーとしての表現衝動にこだわりたい。それを突き詰めるとアカペラなんです。それと、音楽表現に対する問題提起。歌手よりスーパープロデューサー、いやカリスマだと、クリエーター願望のまん延に疑義がある」「歌こそが人間の一番根本的な表現。なにより神の領域に近いわけだ。舞踏と共にね。何のために音楽をやっているか、自分に問いかけなきゃ」「今の音楽ブームは総じて“ファッション”でしょう。『産業ロック』『お化粧バンド』『ファッションR&B』どれも素人による『テースト(風味)』でしかない。歴史を黙殺する全体主義化して、他を封じる策を講じるのは長けててね」(山下達郎)

 

「声の良さだけで歌手になれる場合もあります。でも、第一線を維持するのは難しい。間違いを少なくして、成長していかねばならない。最も必要なのは、勉強と練習です。それに、健康、観客の前で上がらないこと、強い精神力。もうひとつ大事なのは、どの役も同じように歌わないことです。つまり、役を歌うときに、その役になりきること。そのためには、役の性格などを自分で考えて、自分だけの役にしなければならない。それができれば、他の歌手との差がでてきます」(ソプラノ カーティア・リッチャレッリ)

 

「音楽は元々、祈りだと思います。祝詞は揺れているでしょう、あの揺れにメロディーがつくと歌、体の動きを合わせると踊りになる。モンゴルへ行って、ホーミーを聴いたり、羊の解体に立ち会ったりしたんですが、あそこは草原があって、空があってという簡単な世界。そこに羊がいてそれが草食って、その羊から毛糸を紡ぎ肉を食って人間が生きている。単純明快なんです。

80年代後半から、気持ちのよくなる部分だけを商業主義で抜き出してパッケージでどんどんばらまいている。結果、どの音楽を聴いてもさして差がない。これって、今の日本人全体の相似形なんですよね。」(坂田明)

 

「今の若い子は『オハヨー』『オツカレサマ』で、さっさと仕事を終えるけど、オレたちは昔からケンカしまくって音を作ってきたし、それだけ深く広いつきあいをしてきた」(村上ポンタ秀一)

「若いコは新作中心で、以前ほど昔の音楽を聴かなくなった。人と同じ音楽を聴いていると安心する」(某大手レコード店店長)

 

「僕は『息でやれ、狙うな』と教えられた。意図して音を出す瞬間を狙うと、音が死んじゃう。呼吸というものを重視するんです。」(仙波清彦)

 

ベンチャーズが『君たちもこれを持ってやれ』とエレキを差し出し、ビートルズが『やればいいじゃないか、自分たちが歌いたいように』と言ってくれた。その彼らも根っこに古いロックンロールがあり、それを徹底的に学んでいた。今はそういう伝統から断絶していて、音がでかいだけの貧しい音楽になっている」(作家 芦原すなお)

 

「強いチームの根幹をなすのは、強い『個』である。『個』が強くならなければ、強い『組織』などつくれるはずがない。強化の基礎となる自立した『個』をつくるところから、私のチャレンジは始まった。それは、自分の頭で考えることができて、しかもそのスピードが速い「知のスピード」をもったプレーヤーを育てることだ。そのプレーヤーは、どのように変化する状況においても壁を破っていくことができる。」(平尾誠二)

 

「むずかしいことを やさしく やさしいことを ふかく 深いことを おもしろく」は自分の作品を書くときの心構え。(井上ひさし)

 

「日本のプレーヤーは、よく走り、整ったフォームでしっかりと打ち返し、練習をよく積んでいるとわかるが、イマジネーションに欠けている」(マレーバ テニスプレーヤー)

 

「私は常に精神と身体の融合を目指して仕事を続けてきました。身体の技術を真に追求することは、真の精神の追究を必要とすることです。このことを、私は日本の武道を通じて学びました。武道は身体とともに精神を駆使するものだからです。近代のダンスは、身体の動きと精神的瞑想を、まさに武道のごとく融合させることができるものと、私は考えています」(振付家 モーリス・ベンジャール)

「現代人は、電機映像に翻弄されて、本物の自然に触れることから遠ざかっている。心に響く日本画に出会うことが少ないのは、そんな現代人の眼に、どう応えるか、ということに画家が汲々としているのかもしれない。藤原定家の歌の心(「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」)は、きわめて視覚的だが、絵になる自然に出会っている。絵にする自然と絵になる自然は、眼と心の置き所は違うのだと思う。」(京都市美術館学芸課長 平野重光)

 

「自宅には人形の姿はまったくない。完成するとすぐに倉庫に移してしまう。置いておきたくないんです。人形というのは、髪の毛を植え、簪をつけ、着物を着せというふうにふけ加えていくものなんです。だから、あるところで区切らないとどんどん装飾過多になっていく。目の前にあると気になって次へ移っていけないんです」(人形師 ホリ・ヒロシ)

 

「それほどのエネルギー(趣味に対して)を、仕事にも注いできた。そのパワーが、僕はひとつの才能だと思うんです。この才能を持った人が人より(何事も)できるようになる。他の人より長い時間努力するから」「これ以上長く音を出したら、息が切れて死ぬかもしれないと思うことも。でも関係ない。死んだって平気だし。そういう極限のことをやっていくと、次に伸びるんです」(日野晧正)

 

「イタリア人は、しゃべっているだけで音楽が流れている。イタリアの伝統を知り尽くした厳しい聴衆にさらされることも勉強になります。声にあわないものを歌うとお客さんが納得しないし、表現に関しても、今の歌い方は違うなどと、楽屋に言いに来る。そういう昔からの歌い方を知っている聴衆の方にも納得してもらったうえで、自分を出せる、いわば職人的な歌手になりたい。そのためには、自分を知ることがいちばん重要でしょう」「コンサートに来てくださったある方から、自殺を踏みとどまりたい気持ちになった、と伺ったとき、自分の底にあるものを受け止めてくださる人がいるのだなと思い、責任を感じます。そうしたものを伝える不思議な力を持っていると思います。」(テノール 佐野成宏)

 

「外からのエネルギーでしか動かない日本の音楽マーケットの底が露呈したかな。テクノロジー音楽のなかで伝統的ローテクが新鮮に感じたのだろう。もちろん、起爆剤としては歓迎。ブームをきっかけに、音楽そのものを見つめる目が出てきてくれればいいんですが」(ちまたのラテンブームに対して)「ラテン音楽はハプニングすることが命。演奏の瞬間に、技術とかコンセプトとかを超えた、考えられないような音楽を創造する。これが、演奏側も聴き手も醍醐味です」(熱帯ジャズ楽団 カルロス菅野)

 

文楽の人形は、首と右手を使う主遣い、左手を使う左遣い、足を使う足遣いの3人で使う。まず足から始めて10年、次に左を10年以上修業して一人前の主遣いになる、と言われる。/芝居の始まる3時間前に楽屋へ行き、人形を鴨居に吊って一人で足を使うけいこをしました。まだだれも楽屋には来てません。廊下に吊ってあるツメ人形(端役の人形)で女形の足のけいこもしました。教えてくれそうな人が通りかかったら、わざと下手に使う。そしたら、「何じゃ、その足は」と言われ、使い方を教えてもらうんです。 舞台をよく見て覚えたのが10代から20代。今はビデオがありますが、僕らの時代は舞台を見ておかなかったら、すべてが消えてしまった。今の人はとにかくビデオに頼りがちですが、それではいけません。ビデオと(生の)舞台は違うからです。若い時はつい、けばけばしい、動きの多い役に目が行き、まねのしやすいのを見習おうとしますが、いつまでもそれではいけません。30代では自分の使う役(立役か女形かなど)の方向を決める。40代でその役を深めるよう勉強していく。僕の場合は、どんな役でも代役ができる心構えでやっていました。50代には、お客様に見てもらえる芸に到達せないけません。それから後は、自分で勉強して役を納めて(作り上げて)行かなければしょうがない。私もまだまだ勉強中です。」(文楽人形遣い 吉田玉男)

 

「テクニックはあるし、情報もいっぱい。でも、何かを忘れてる。演奏を聞いていても、本人の話を聞いていても何かが欠けているんです。何でしょう。人間としての底辺ができてないような。私たちは「富士山に登ったらすそ野が見える」と教えられた。他のことは何もかも捨てて、ただ、一番になったらいいではだめ。バイオリンだけじゃなく、他の勉強でも同じ。バイオリンは心豊かな人間をつくるためのひとつの手段です。バイオリニストにならなくてもいいんです。音楽の勉強でもどれだけ集中して耐えるか、その上で初めてできるものがある。暗中模索なしにポイッといってしまうと枝葉が分からない。人としての成長度と自分がやっていることの成長が一緒になって初めて底辺のようなものができる。そんな中からバイオリニストが出てきたらいいんです。そうでないと世界的な演奏家は生まれませんよ。20、30歳を過ぎたらだめになります。/このごろ、「個性、個性」とよく言われるが、オーソドックスなものをしっかり身につけて初めて「個性」が出てくる。戦後、コンクリートの打ちっ放しの建物がはやったが、音楽もそうでした。「どないなるのかなぁ」と思っていたらカサカサの音楽がはやった。でも、今はそういう時期を越えてまたロマンチックな音楽が戻ってきました。「新しいものを加えながら、大切なものを捨てないで行く」ことが大事です。」(バイオリニスト 辻 久子)

 

 

 

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おすすめ

 

【ドン・モーエン】

クリスチャンの同僚と、ワーシップ(福音)活動が職業の白人のゴスペルコンサートに行った。-般が思っているようなのでなくて、それよりはフォークだった。聖書の出版社の招碑みたいで、日本の司会のおっちゃんが、幕開き一番“ハレルヤ”。同時通訳や手話もあった。音楽的にどうなんかは私には見る力ないし、入れない者にはツラかった。が、“ぶれっしんぐ、なんとか~”とか“せれぶれいと・ごっと”とか礼賛の歌なのに曲想が、“イエイ”とか、ブンブンできそうに色彩があって、ポピュラーと遜色ない。娯楽の音楽も、礼賛歌も生活や民族に自然と身にまとっているものであるということ。  

 

いっこく堂

ホテル・ニューオータニで、ディナーショウをする腹話術師って何者やって思ってたら、「ぴあ」がとてもオシャレにライブの紹介をしていた。63’沖縄生まれで、宇野重吉劇団民芸に籍を置いているのだそうだ。30歳半ばってもう世の中でリーダーシップをとる年代なんだな。“芸人”のひびきが持つしみったれた感じはなくて、慶応ボーイみたいだった。新世代だな。歯一つ見せないで、初めはウソかと思った。ほほ骨のところだけ動いていた。台本は笑える小ネタがたくさんあった。3年くらい必死で修行したそうだ。舌をすごくやわらかく、自由に使えないといけないみたいだ。どんな育ちをしたら、こういう芸に夢中になって、腰据えて練習できるのだろう。いやすごい。何人もの声を使い分ける離れ技。ラスベガスでの演目も披露していた。獲得すべきは自由なからだと無心なココロ。

 

アレサ・フランクリン

和田アキコばりの身長と森久美子の約2分の1ほどの横幅もある体から出る声は、パワーに満ちあふれていた。彼女の名前はよく耳にしていたが、LIVEを見たのは初めてだった。噂通りの声であった。体の底から湧き出てくるような声。彼女のお腹から出て、私の腹に入ってくるように感じた。やはり何事も「元の場所」に帰る習性があるように思えてならなかった。表情も豊かで顔で歌っているといっても決して過言ではなかった。彼女のなかでキーによって表情を使い分けているようでもあった。それは彼女にしてみたら自然であって、そうすることがベストの声を出すようになっているのだろう。ステージにおいて「声だけ」による聞かせどころがいくつかあって、オーディエンスもそれがわかっているようで、拍手や歓声で彼女に応えていた。彼女を見にくる人たちも何かを求めていて、それを彼女もわかっているみたいであった。また、それに対して応える彼女はやはり素晴らしいと思う。このLIVEは少し古めのものと思うが、それでもまだ充分に聞けるのは、それだけの価値があるということだろう。時代に流されず、生き続けていくもの、生命力に満ちあふれているもの、それが「本物の証」なのだろう。あと、MCなども小じゃれたセリフをいってみたり、ユーモラスを加えてみたり、時にはシリアス、またはセクシーに1人でさまざまな役を演じる役者のようだった。どのような感情の表現もうまくこなしていた。ただし、セクシーさ意外は。バックコーラスや楽器の人たちにも彼女の心づかいというか、花をもたす一面もあった。それにしてもバックコーラスの高音はすさまじかった。充分1人の歌手としてやっていけるレベルだった。何曲も続けて歌っても疲れを感じさせない、安定した声で、ポジションも深い位置のまま。私ならとっくに喉にきているだろう。全ては発声、プロとしての体の違いだろう。

 

[アバ]

フロントの2人女性ボーカルはとても美しい声をしている。ライブ前半でのしっとりした曲では、まるでカーペンターズのように聞かせてくれた。ただ少しアップテンポの曲になると、なぜかインパクトが弱く入り込めない。彼女たちの美声には、あまり力というか、踏み込んで体が揺さ振られるようなものがないと感じた。しかし、当時のお客さんたちは、喜んで聞いていた。時代の流れに乗っているせいもあるだろう。それとも私にはまだ耳がなく、アバのよさを聞けていないのだろうか。彼らの代表作である「Dancing Queen」は、ライブでも聞きいってしまった。この曲は、かれらの長所がとてもよく活かされた名曲だ。美声にメロディーがうまくマッチしている。時代の流れの後押しがなくとも、充分にヒットする力があると思う。この曲で会場が盛り上った後、それに拍車をかけるようにノリノリの前奏が始まった。アバの曲をほとんど知らない私は、これでメインヴォーカルの女性2人が歌い始めたら興ざめもよいところだ、と不安になった。しかし歌いはじめたのはバックにいる男性であった。これでほっと一安心。女性2人のヴォーカルはコーラスで美しい声を活かし、盛り上げた。男性ヴォーカルも悪くはない。彼女らは、コーラスでとても力を発揮する。この曲では、彼らも自分達の役割をよく知っているのだと思った。自分自身を知ることは容易ではない。冷静に自分自身を見つめて修正すべきは、すぐさま直せるようにしていきたい。それと同時に、自分の武器になるところは、充分磨いて前面に出していく。これは成功の基本原則だ。先生も常日頃おっしゃっていることだけれども。 

 

 

とんねるず

とんねるずのコントはテレビでの活躍がメインになってしまった昨今、ほとんど観る機会はない。正直いってあまり期待していなかった。その期待は完全に覆された。のっけから舞台に引き込まれた。ダチョウ倶楽部ではないが、“つかみはOK”だった。ライブ会場のどよめきがビンビン伝わってきた。彼らは完全に観客を巻き込んだ。それも最初の1分もたたないうちに。小道具のピストルの発射音をとても効果的に使った技だ。彼らは観客が何に反応するか、よくよく心得ている。ハイジャックのコントだったが、会場のお客さんを乗っ取った飛行機の乗客とみたたてて、進行していった。何ともうまいもっていき方だ。人に働きかけるということが完全にできている。3本目のコントでは、新人漫才コンビに扮して、演技というわけではないけど新人漫才師のそれぞれのキャラクターをかなりデフォルメした形で表現していた。それも「笑い」を考えた上での結果だ。その2人のやり取りのなかで「お前は0.5秒ツッコミが遅いからだめなんだ」とかいうセリフが出てくる。ギャグも含んだものだと思うが、こうした一瞬の間は、コントや漫才でもとても重要なものに思える。歌のフレーズでも鋭く入るとか、少し遅れるとか、よく先生方に指摘されるのと同じだと思う。それがよく見える人にとっては、大きな違いらしい。とんねるずはそうした間や呼吸、その他コントに必要な要素をよくわかっている人達だ。最後のコント「毒コブラ座」は本当によかった。まるで短編映画のように中身がギュッと詰まっていた。まさに笑いあり、涙ありのラブコメだった。「笑い」のほうも、とんねるずのよさがバンバン出ていたし、何よりもストーリーがよかった。観終わった後も余韻が残るコントは始めてだった。30分足らずの短いコントでこれだけ人に伝えられるのは素晴らしいことだ。

 

[ジャニス]

いつも激情を胸に秘めている。歌うときは、その激情を暴発させることなくコントロールし、作品にしている。激しい感情を歌にするヴォーカリストは、ポピュラーの場合、たいていハスキーヴォイスか変わった声質の人が多い気がする。エディット・ピアフしかり、カルメン・マキしかり、そして日本でも殆ど知られていない昔のステージ実習の課題曲「傷心」の大友裕子もそうだ。人間の生の叫びのようなものは、やはり美声では置きかえられないのだろうか。やはり、どうもイメージが結びつかない。ジャニスも声だけ聞くと、しゃがれていて悪声なのだけれど、彼女の作品のなかでは、彼女の声は、人々に伝える強力な武器となる。ジャニスの曲は、あまり知らないので簡単に判断していいのかわからないが、彼女をモデルにした映画「ローズ」のベット・ミドラーの歌のほうが私にとって衝撃であった。しかし、そんな映画まで作らせてしまうジャニスの影響力を知るために、もっと彼女の作品に触れてみようと思う。 

 

 

[スティービー・ワンダー]

CMに出ているが、そのなかで「Yeah」といっている場面があるのだが、これだけでもう歌だな、と思ってしまう。きっと会話の一部分だと思うのだが、すごく引寄せられてしまう音だ。 

 

「World music award 2000」

世界中の一流アーティストの歌を聞いた中で、“ノートル・ドゥ・パリ”のメンバーの一人、「ブルーノ・ペルティエ」が、そのミュージカルの歌を歌っていたが、本当にすごい声量、声域。体全体で歌っているので、聞いている私が彼の声を受け止めるのにすごい圧倒された。直立不動で歌っているのに、声だけで会場をのみこんでいた。