「本気になること」1171
ここで私は、歌や声を通じて、世界や歴史、人間の表現が、どのようにそれを変えてきたかまで扱っているつもりである。
プロと一般を分けるべきという声もあるが、それは養成所では自らが決めていくことです。
本気で取り組む人のいる世の中で、そうでない人が何かを成し得ることはない。
そういう基準やそれに足る努力の結果、他人に認められていくのであり、その量や質としても、どのくらいのことが必要なのかをここは示しているつもりです。
しかし、その前提として、目の前のレッスンに必死に臨まなくては何事も難しかろう。
第一に、姿勢である。声を大切にしようとしたら、ロビーや電話での声の無駄遣いなど、できなくなるだろう。そういう人には、せめて、やっていこうとしている人に迷惑をかけないようにお願いしたい。
やれない理由捜しと、やらなくてもよいと思わせる友だちづくりの場ではあるまい。
なぜ、学校にも弟子制にもしないかといわれることもあるが、学校でやれるくらいなら、私は音大や専門学校でやっている。人を出すだけなら、プロダクションのめんどうをみる。
弟子というのは、芸にほれこまなくてはいけないが、声は、芸ではない、その基本である。
歌は応用であるから、基本をわからぬ歌い手は、人に与えられないし、また歌そのものが芸ではないから、そこに何をのせるかを先生がのせてあげたところで、何ともならないだろう
。
そこで、どこでも(というより日本では)、先生の活躍している場や権威を借りたいという下心で近づくことになる。そして、そういう輩の旧態然のネットワークが幅を効かすようになる。
若いときに偉かった人も、それに囲まれバカ殿となる。
そんな例を身近や他でも嫌というほど見てきた。
歌い手が、もっとも“歌”から離れてしまったように、アーティストが、大手によるデビューやテレビでの露出度や有名プロデューサーによる客寄せに頼るところで(もちろん、それも実力であり、それとても力がなければ続かない世界でもあるのだが)、アートたるものから離れている。
まあ、他人のことは他人事、やれている人、やっている人は、それでよいと思う。
あなたは、ここに何を見つけにきたのだろうか。
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「別れのとき」
こういうところで多くの人と接していても、その人がやめるときに、はじめてその人の内面や本音がわかるということが度々ある。その大半は、文面などによることになるのだが、いつも返答に窮してしまう。
ということは、それまでの私のいってきたことを少しでも気にとめていれば、それは私に出すべきことでなく、自分を納得させるための方便にすぎないことだからである。
そして、ときに、その人にというより、その人のようになりそうな他の大勢に対して警告するために、このような文を書くはめとなる。
それを当人に渡すことは、まれである。
せめて、今世の別れのときくらいは、笑顔とまではいかなくとも、自分でその苦味を飲み込んだ方がよいからである。相手のためを思って、厳しいことをいって、恨まれてでも、本人が発起してくれるならよいが、そうでなければ、何もいわない方がよいとなる。
所詮、わからず、気づかずの人、慢心している人、自分が正しいとしか思っていない人は、そこで何をいってもわからないからである。10年たって、どれだけやれたかみたらわかるといっても、10年たった頃には、当人はそんなことさえ忘れているからである。
別れ際というのは、その人の真価の、そして将来性や可能性までみえてしまう瞬間である。
しかし、ここにきたときの心や思いさえも、忘れてしまって、それゆえ出会いもせず別れもせず、というのも、さみしいことである。
そして、また他のところを他の人のまわりを、さすらうこととなる。
一人よがりの一人相撲の正義に酔いしれて。何もできず、何も残さず。
アマチュアのなかではなく、プロに認められるその基準というのは、声や歌だけではない。
謙虚さがなければ、忍耐力も伴わず、いかなる行動力も実を結ばない。