レクチャー 1172
【レクチャー余録】
表現するということは、自分がこうしたいという思いがなければ成り立たない。それを見つけるために2年、6年、10年とかかろうがよい。誰かの歌や声がどうだと、いっても仕方がないでしょう。
最近、自分はこれこれなのでうんぬん、言い訳する人もいますが、誰でもいろいろな意味でハンディキャップを負っている。それを超えて何を出せたかが大切でしょう。
自分の世界なり、強い意志なり、持っていきたい部分があれば、それだけである程度成り立っていく。だから10代でもヴォーカルというのはできるのです。そういう意味でここでの曲は、こういう歌い方をしてくださいというのではありません。
みんなが日本人であるということと、日本語を使ってきたということで、どれだけ不利な状況にあるのかということをみつめ、それを克服するとトレーニングの効果が出ます。
音声で表現する舞台というものを、日本人の場合は否定してきた。それを肯定することからスタートです。
音声で表現するということは、たとえばこうやって前に立って皆さんに話しかけることです。いま、私が話しているのは、日本では講演調、つまりパブリックな話し方です。こういう話し方は、日本人では人前に立つことを常としている人しかできません。
皆さんと友達で隣にいるときには、こういう話し方はしません。こういう話し方だと、何か説教しているか、怒っているようにとられます。でもそれはまさに表現です。
欧米人の日頃のコミュニケーションというのは、自分の考えや意志を通えることが前提です。お互い違う考えを持つ人間の間では音声で発して相手に伝えない限り、相手は理解してくれません。ですから、音声に対する責任感が違います。
ことばをきちんと使えない限り、人間として自立していない、つまり大人でないということです。論理で判断の基準をつけていくのです。
彼らの場合は言葉というのは、音声です。日本の場合は読み書き中心で、あまり声で出しません。ずっと抑圧されてきて、そして、いきなり歌になったときに、向こうの人と同じ2オクターブのものを3分間出せるとしたら大天才ではないでしょうか。
そのベースでのギャップを埋めなければいけません。それには日常の音声への意識のギャップを克服からでしょう。
外国へは、よく10代、あるいはデビュー前のヴォーカルを見に行きます。天才だとかいわれている人に早めに会いに行くのです。
向こうでは、高校生くらいであれば、ここに出てきて30分間しゃべってくださいといったら、リラックスした状態でしゃべれます。それは彼らに能力があるのではなく、そういうトレーニングを教育として受けてきたからです。小さいころから、自分の考えたことはきちんと言葉にして、口に出してきた。そうしないと誰も理解してくれないからです。しつけにそれが入っていたのです。
日本の場合は、レクチャーでも質問はあまりあがりません。向こうでは、わからなかったり聞こえにくかったら、すぐに手があがって質問してきます。
なぜかというと、そのためにきているからです。聞いて何もいわなければ、そのことを了承したことになってしまうからです。聞きとれなければ自分に不利なことをもたらす結果になるかもしれないのです。そのままにしておけません。音声でのやりとりでの契約が通常ですから、厳しいのもあたりまえです。
アメリカで留学している間、「フリーズ」といわれて止まらず撃たれた少年がいましたね。音声で忠告したにもかかわらず、止まらなかったというのは、自分に危害を加えにきているとみなされた。攻撃だから防御しなくてはいけない、殺されないために殺すしかないということになるのです。聞き取らなければいけなかったことばを、聞き取れなかった悲劇です。
彼らにとって音声というのは、身を守るものとしてあり、大きな武器です。小さいころからずっと耳で聞いて口でいうということを繰り返しています。
そのレベルの能力をつけるのに、日本人は2年では足らないくらいです。さらに、演出力や表現力なども補完します。
振り付けから入るやり方はしたくないのですが、形から入るのも一つの学び方です。自分の心がそうなればそういう動きになるし、そういう歌が歌えます。
多くの人は声が出れば歌える、高音が出れば歌の問題は解決すると思っています。また、大きな声が出ないのが問題だと思っているのです。しかし、そこの問題というのは、そんなに大きくないのです。
それ以前の問題の方が大変なのです。たとえば高いところが出ない、大きな声が出ない、だからといって、やりようはいくらでもあります。それよりも歌いだしのところ、そんなに声量も音域もないところで聞き比べてください。
向こうのものはプロに聞こえて、あなたのは棒読みでしょう。少なくともその先を聞きたいという表現は出ていない。それが問題なのです。そこが成り立たない人が、なぜ高いところで声を張ってオクターブ展開しなければいけないところで、歌として成り立つのかということです。それは基準が甘いだけなのです。
最初のところでテンションも低く声がコントロールできない人が、そのあとですごい作品にできることはないのです。それに気づかないのは基準が甘いからです。基準が厳しかったら、そんなものは自分で迷わない。
オーディションテープでも何曲も送ってくるというのは基準がないのです。自分の中でわからないからです。自分の中でわからないうちは練習もできない。
上達するにも自分がわかるところまでしかいかない。だから、わかろうとして、見えないところを見ていき、基準を高めていかなくてはいけません。
スポーツなどは勝敗がありますからわかりやすいのですが、歌の場合はそういうのがありませんから尚さらわかりにくいのです。
自分で気持ちよかったと思ったら、それでよかったみたいに思ってしまいます。そのことと伝わるということは違うのです。相手からみた基準を持たなくてはいけません。それが厳しいのです。
そういうことで音声文化の欠如が、日本人の生活全部に反映しています。話し方でもこういう強い口調では話しません。こういった鋭い切り方もタブーです。なるだけあいまいにして、しり上がりアクセント調や「とか」調とか湾曲ばかり、断定をさける話し方、「でもね」「まあね」とか、自分に責任のくるような表現をしない。これは日本の音声文化の根底にあるものです。
そういうものとステージというのは反します。なぜ日本の若者の歌の大半が生声なのに、向こうの人たちはアマチュアもがカラオケとかで歌うと、きれいにひびくのかということでの差を知ってください。日本の政治家や声を使う人がダミ声でのどをやられていくのに、海外の声を使う人は声が必ず磨かれていくのを考えてみてください。
声を相手にどう働かせるかを彼らは日常から考え、そういう耳で聞いています。同じ“hello”といった言葉でも音色で使い分ける。その中に憎しみが入っているのか、好感が入っているのかを聞き分けて過ごしています。
日本では、それが日常にまで浸透していません。
日本人の場合、昔から目でみる力にすぐれています。あの白とこの白と向こうの白との違いは、誰でもわかるでしょう。それが音になるとわからないのです。そういうことの必要がなかったからです。
日本の音というのは、およそ108しかない(およそというのは学説によって違うからです)。韓国でも中国でもこの数倍はあります。欧米になると音の数が1500から2500くらいある。
日本の場合はその代わりに書き言葉がたくさんあります。当用漢字で2000弱向こうはローマ字が26個です。それを彼らはひとつずつ音として聞き分けている。子音もそれが独立してキーボードみたいにひとつひとつ聞き分けられるのです。
日本人の場合は、「ピッキャップ」を「ピック イット アップ」とは聞けません。彼らには瞬時の時間にそれだけのものがつめて発する力と、それを分析して聞く力がある。日本ではひらがなを覚えてしまうと、漢字は象形文字なのでなんとなく見当がつきます。言語を口でいったり、音声で聞いたりして習得するということはそこで終わってしまうのです。
日本人が音声に関して、初めてきちんと耳を開いて開こうとしたというのは、中学1年生の英語の授業のときでしょう。アとエの間の音といわれて、どうやって出すのかと思ったかもしれません。そこまで何もない。
よほど先生に恵まれない限り、国語で詩の朗読などやるにも、そこはもっと気持ちをこめてとか、間をあけてとか、低いトーンでとかいわれることはないでしょう。他の国であれば、国語の中で音声教育が半分以上を占めている。日本の場合は、全部読解と読み書きです。
向こうは強弱アクセント、子音中心です。欧米だけでなく、アジアも大体そうです。日本では母音中心です。そこで私は一度、日本人の言語感覚を切って、人類共通である人間のベースのところまで戻すのです。人間である限り、共通している基盤まで戻ろうということです。その上で日本語に戻すようにしています。
母音というのはノンアタック音です。この辺がクラシックとポップスの違いです。クラシックの場合は、母音をつないで響きの方をとっていく。
それに対し、おなかから息をハッと出して、それを妨げて出していくのが子音です。たとえば、At.At.At.といっていると、「At」のはずなのに「ta」と聞こえてきます。日本語の子音というのは、後ろに母音がついているからです。本もHO-Nです。彼らはh-onです。こういう感覚というのはそう簡単に変えられるものではない。
白人と黒人でも、黒人の方がリズムでは0.何秒か早く入れるといわれています。彼らはこういうことに関してはとても厳しい。
日本で歌がうまくないといわれている人たちのほとんどは、音高や音程での音痴です。フラットしてヒットしていない。これは、高低アクセント、音程アクセント、メロディーアクセントに関して耳が働くからです。
リズムはいくら狂っていても音程がとれたらOKにしているのですから、音楽の捉え方そのものから違っています。多くの人が歌ったときに、それが間延びして聞こえたり、1本調子に聞こえたり、メリハリがないといわれるのは、日本語のところで正しく歌おうとしているからです。日本語は、ぱっと入れないのです。
この日本の音楽がだめで、向こうのがいいというのではありません。今の音楽が向こうのものにそっているために、向こうの感覚でやらなければいけないということです。ましてや向こうの分野の、オペラ、ジャズ、ゴスペルやカンツォーネやシャンソンになったら、向こうの感覚に移ってやった方が習得が容易でしょう。
しかし、もっとも大きな問題は、トレーナーやスクールがこういうことをまったく踏まえずにまったく不要どころか邪魔な声楽もどき(声楽でもない)を教え、鈍感な耳や声をつくっていることです。
もう一つ大きな理由はどちらでもできた方がいいということです。できた後、感覚を切り替えればよいのです。
日本人は欧米人のようにできませんが、向こうの人は日本人に近いことはできます。日本人の場合は点にあてて響かせようとします。ぶつ切れになって、音になったところしかカウントしません。ひとつひとつの音は保たれて、それ以外のところはカウントされないから、リズムの感覚もことばにリズムを入れなくてはいけないような、おかしな感覚になってしまいます。
何事も感覚とは根底に入っていなければ、入れなくては出てこないのです。リズムがとれないとか、音程がとれないというのは、大体の場合は入っていないだけです。それだけ入れていけばいい。
日本語の場合は長さの等時性といって、長さを同じに揃えていくというのがあります。今の音楽からはそういうものは抜けてきています。
欧米の言語の場合はリズムが等時です。息をハーッと吐いて、そこに少し強い集まりができて、そこが拍になる。そこに音が集まっていく。
日本人が英語で歌ったときに、私はすぐに日本人だとわかってしまいます。それは、強のところに弱が巻き込まれないからです。高低をつけて平坦にならしてしまう、歌にするときにも通じることです。
本来は無理にどこかを強くしていかなくても、強が大きくなったら、そこに全部が巻き込まれていくのです。ですから欧米人の弱のところは発音もはっきりとは聞きづらいでしょう。
日本人は息のない発声で、発音を一つひとつきちんという。その感覚でカタカナ英語になるのです。口先になってしまうときもあります。強のところをアタックしない限り、通用しないのです。
日本人があたりまえに思っていることで感覚してきたのに、足らない部分を入れるのです。
歌の中でできないのであれば、ことばや発声のトレーニングの中でそういう感覚を入れていく。そうしないと、それはいつまでも使えない。入っているものに関して強化するよりも、入っていないものを入れていくことです。
私が発している日本語は、自然な日本語ではありません。外国語と同じポジションです。だから、声が深い、声がよい、日本人と違うといわれます☆。ドイツ人とかイタリア人とかが使っているポジションで声にしているからです。これを自分の本の中では、芯のある声、音楽的日本語といっています。日本では、役者の声、三船敏郎さんや仲代達矢さんを想像してもらうとよいでしょう。
この日本語は歌では、死滅してきています。尾崎紀代彦さんや布施明さんまでの歌い手では「い」とか「う」が響きます。閉口母音だからひびく。
逆に下手な人というのは「い」とか「う」でのどがつまってしまうのです。それは発声ポジションが悪いのです。
私の声を小さくしても、一番後ろまでこの声は聞こえるでしょう。この声をコントロールするために体を使っています。弱い声を表現として持たせようとすると、それだけ強い体と呼気コントロールが必要になってきます。
プロの歌の出だしなども、小さく歌っても、表現力は保つため、より大きく表現しなければいけないのです。自分の体で支えなければ、それだけの説得性は持てなくなってきます。だから音程が狂ったり、リズムが狂ったりするわけです。
ここでやっていると全然うまくないのに、カラオケではうまく聞こえてしまう、まさにそこのところを煮詰めていかなければいけません。つまり、練習しなければいけないのは、カラオケでごまかされてしまわないところです。そうでないと誰とでも同じレベルになってしまいます。そこを基本として知っておいてください。
表現するときには全てをひとつにする、そして、全部が統一されると考えてください。コントロールするというのは統一することです。「ことば」というときも、「こーとーばー」と分けずそれをひとつに捉えます。ステージでも歌でも同じです。その感覚が宿らなければ、間違いが生じます。
トレーニングでは、「ハイ」を同じように100回やることからやりましょう。やれたら歌がうまいというのではなく、うまくなれるベースができる。とりあえず、10回やって1回でもしくじるレベルをめざす、そうして変わったところが自分で認識できないかとしたら、演奏は成り立たない。高度なことをやれている人が、基本をやったときにできないということはないのです。トレーニングで基準をつけていくというのはそういうことです。
素振りをいくらやったからといって打てるわけではない。でも打てるようにするためには素振りをやるしかない。素振りをやっていたらよいのではなく、そのことで自分の体を正していくのです。そして自分の体の理想的に働く原理を引き出し、そこに正しく合わせていくのです。
外国人の曲に合わせて歌うと、声が細くなりませんか。そこで、トレーナーにのどに引っかかったら上に響かせなさいといわれたりするでしょう。そういう教え方は即効的ですが、長い眼でみると必ずしもよくありません。それは、まだまだ体の状態、条件ができていないからです。まず体をうまく使えるようにすることです。
体が彼らと同じ条件になるまで、音高から声を決めつけてはいけない。なのにまったく逆のことをしているのが、日本のJ-POPやニューミュージックです。とにかく高いところを取りにいくことを優先します。日本の声楽から、指導者がきたことも原因の一つです。 それでうまく取れる人はよい。それで通用すればよいからです。ただ、そうでない人はそういう人をまねて追いかけても無理なのです。
声は他人に似させるほど壊します。うまくいっても物まねがうまいねで終わってしまう。人を説得する力はそこに出てこないのです。今のJ-POPも受けている人には、説得する力もあるのでしょう。ただ、同じことが自分にできたとして、果たして出ていける場があるかと考えてみてください。
音色に関しても、今の声で決めるなということです。まだ体の条件も強くなるし、息も吐けるようになる、声ももっと出るようになるのです。そのまえにそれを決めてしまったら、その音しか出なくなる。なぜ決めてしまうかというと、高く出したいからです。ピッチを正確にあてたいからです。でも「ドレミレド」のところで表現できないのに、高いところがいくら出てもしかたないのです。
ポップスにおいては、音域や音量はどうでもよいのです。人間ですから限界はあります。それは、一人ひとり違います。大切なのは、自分にあるものをどれだけ使えるようにするかでしょう。完全にコントロールして、音の世界として作品にできるかということが大切なのです。
音量とか声域とかは、ごまかしてまで、今となれば無理して作る必要はないのです。だからといって、狭くて出ないよりは、広くて出る方がよいのです。だからこそ、それはどこまで必要かをみるためにトレーニングするのです。
自分が持っている体の原理に促して、一番正しく使えるところでよい、つまりおのずと決まってくるのです。
早目に歌をまとめるのもよいし、それで勝負するのもよいでしょう。しかし、それでは基本は身につきません。それで今受けていなければ、5年やっても10年やってもさほど変わらないということです。基本というのは、時間をかければかけるほど有利になるためにやるのです。あとで大きな結果をもたらすためにやるのです。
メロディ処理に入ります。「冷たい」といって、それに「レミファミ」とつけてください。歌のレッスンをやってきた人ほど「つーめーたーいー」と、音に当てていきます。しかし、表現がそこで壊れたことを知らなければいけません。それで表現の持つ大切な要素を失ってしまっているのです。「冷たい」と感じるように聞こえないのです。
この辺から日本人はトレーニングより感覚をこしらえなければいけないところです。歌に逃げるのでなく、歌で伝えることを忘れてはなりません。
外国人は、後ろにアクセントがきますから、「つ・め・た・い」とはなりません。“tume tai”となる。点でとって伸ばすようにはしない。音楽の世界は、点ではなく線です。線にして動かしていくということです。
昔の日本の歌というのは歌い出しが1拍めにきました。そこから、メロディをつけたことばをていねいにひびかせます。
今はリズム重視の考え方になってます。すると「レミファミ」は「ファミ」の方に強さがくるのです。「つ・め・た・い」は“tai”が強拍となります。 日本人は全部を同じところでいえる体の条件がないのですが、私は全部同じところでいえます。それは、常にどこかを強くいうことでやれるようになってきます。
母音というのは、発したときに音が決まるから深い声があれば口先を動かさずにできます。しかし、そういう力がない人には、「あいうえお」と口先で作ってしまいます。
新人アナウンサーやナレーターをみてください。それは声がない場合の発音です。
本当は発音練習の前に発声練習をしなくてはいけないのです。そうしたら同じにいえるようになってきます。まず感覚的にそういう感覚を持たなければいけません。
英語でやった方が歌いやすいというのは、英語は、強拍のところで巻き込まれてフレーズができますから、そこにリズムをつけるとメリハリのついた感覚になってくるのです。それが私のいうメロディ処理です。
半オクターブで声がそろうのに、2年はかかる。半オクターブできると、大体1オクターブから1オクターブ半くらい歌えます。日本人の場合、表に響かせているところだけしか歌として捉えていないことが多いのです。
役者がこれをいうときに、のんべんだらりとはいわないと思います。
「つーめたーいことーばーきいーてもー」というふうにはなりません。「つー」の出だしのところで大半の人はもっていません。それは感覚も違うし、伝わらないのに、日本で許されてきたことです。
聞こえたことしか体現できません。子音が聞こえない、強弱アクセントが聞こえない、声の中の動きが聞こえない、なのに出せるわけがないのです。
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EX.「ノンソマーイ」(イヴァザニッキ)
プロ(イヴァ・ザニッキ)が果たして「ノンソマーイ」というときに「レミファーミ」という音程をとっていたかということです。音程も、メロディも高低アクセントもとってない、ただ強弱で感覚を得て、音色をきちんと使うことに意識を置いています。でも音程もリズムもとれている。
音程をとろうとしては歌にならない。歌うときにメロディにことばを入れるような練習が必要ない。ましてやそこで声を当てているだけになってしまうからいけないのです。音色とリズムでとり出していくのです。感覚のところでの認識の仕方が違うものを、まったく違う感覚で勉強してもしかたがないということです。
何回も聞いてみると、強弱アクセントで捉えるということの違いがわかってくると思います。これは強い弱いで動かしていて、高い低いで動かしているのではないということです。音色も同じです。
日本人が勉強するときのように点でとっていくようなとり方をとっていたら、いつまでも、そういう部分は出てこないということです。彼らは、それを凝縮して表現を出すということを知っています。
それは言語そのものの成立からきた差です。日本人が劣っているわけではありません。ただ、そこから音に対する感覚とか、それに対応する体ということになると大きな差があります。
入っていなかったり、見えなかったり足らないものは、自分からも出てこない。そこから見ていくこと、聞いていくこと、体に入れていくこと、必要性を与えることをやっていかないと、根本的には変わっていきません。
今、自分のもっている感覚で歌ってみて、お客さんに通用しないとしたら、その感覚を変えるしかない。
ポピュラーで教えることは、個性を壊すとか、押し付けるとか思われるらしい。それは表面的に直そうとするからです。精一杯のことをやって通用しないのであれば、教わって変えるしかない。しかし、どうやって変えていくかということは、きちんと基本から学んでいく。そこでは足らないものを入れていくしかないのです。
アーティストに向いている人というのは、こういうものを100、200回聞いてみて、自分の中でそれを見分け、作ることに楽しみを得られる人です。ミュージシャンは一つの音をきちんと聞くということに執着する、その音から次の音にどうつなぐかというところで感覚を多彩に感じとれることが条件です。
天才は、この2音を2時間練習しても飽きない。なぜかというと、一つの音から一つの音にいくときにも、いろんなイマジネーションがあって、タッチが浮かぶからです。今まで感動してきたいろんなパターンが入っていて、そこで掛け合いをするからです。そうやって基本というのを深め、演奏技術を磨いていくわけです。
何もこの1曲が弾けたからといって、上達はしないのです。一つのポイント、一つのフレーズのところで、プロの演奏ができない限り、プロということはありません。そういった上で全体の構成力など、いろいろなことが問われるのです。
楽器をやることも、楽典を勉強することもすべて補助です。プロの感覚がなければいけない。プロの感覚があって、そこでやっていたら、バックが狂ったときにすぐにおかしいと気づいたり、リズムに敏感になって乗れないところがわかったりします。そういうことにどれだけ鋭くなれるかということです。
楽典などの勉強はやればやった分、知識として身につく。
私がこうして文章にしているのは、日本人の場合はいくら音の世界で説明してもわからないからです。本でも読んでから音楽を聞き続けたら少しはわかるだろうということからです。
そういうことに気づくためにレッスンとそのきっかけのことばがある。ですからレッスンを受けていたら伸びるということではない。レッスンを受けて気づいたことを、精一杯、トレーニングでやって、自分を変えて、よい方に正していくのです。
それは誰かにいわれるままにやるのではありません。自分の体の原理にそって、自分の中の感覚に忠実にやっていくのです。そうでなければ通用しません。
「自分の声の中でどれがいいですか」ではなく、自分でもっともよいものを意識して確実に取り出せないといけません。人からいくらいろいろといわれてもその人の中でわかっていなければ、何にもなりません。
「何か作ってください」といって、「作ってみました」というだけでは、ただ作っただけです。あなたが精魂込めて作ったものでなければこちらも評価できないのです。
それはその人の中で基準も態度もできていないからです。どこができてどこができていないということもわかっていない。そういう状態では、ヴォイストレーニングというのは成り立たないのですが、巷のレッスンはだいたい、そこで声が出たの届いたので一喜一憂しているのです。
フレーズのことというのは、徹底してやるべきことです。役者さんや外国人の感覚から入り、自分の中のオリジナルな声でそこまでのことはやりましょう。ただ、ヴォーカリストに限っていうなら、その声をそのまま歌に使えばいいということではありません。
私の今話す声は私の一番いい声ではありません。日本人のこのくらいの客数に対して、もっとも伝えやすいところで選んだ声です。そういうものをオリジナルのフレーズ、いわゆる節回しといいます。
日本のヴォーカルでも、プロの活動をしている人は自分の節をもっています。ただ、そこで足らないのは、体に密接しているところで原理の働くための、楽器としての完成度の強さです。パワーとかインパクトです。
外国の人というのはしゃべっている声でもすぐにわかります。要は声一つでも自分の個性が出せているということです。日本人の場合は、歌い手でも大体しゃべったら普通の人になってしまいます。
そういうものの基本というのは、声を出して動かすことです。
つかめる声で表現する「冷たい」も「つめたーい」でも、「つーめたい」でもよいのですが、共通することは、「つーめーたーいー」と音にあてて均等にしないということです。そのうえでどう動かしてもよい。それは曲が決める、それに従って柔軟に動かせるようなコントロール力が必要だということです。
線として、どうやって動かしていくのかがフレージングです。それを簡単にしていくために、ポジションを深い方へもっておく。それを上に響かせようが、ミックスヴォイスにしようが、シャウトしようが好きに選べばよいということです。
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「ラ・ノビア」(村上進)
歌のよし悪しも、こういう歌い方がよいとか悪いとかいうことではない。これからどう勉強するかということです。「アベ・マリア」の「ア」や「リ」は、深いところで、日本語にはないところです。歌にしたときにはそういう深いポジションを利用した方が声が楽になります。ですから、一流の歌い手の中から、このように共通する要素としてきちんとみていけばよいと思います。
正しいことはシンプルです。作曲家が作った曲を踏まえて、どこをどう伸ばすかとか、どう歌うかというのは、歌い手に委ねられています。今は単にどこを伸ばすかということだけでみせていますが、クレッシェンドをかけてみたり、ミックスヴォイスにしてみたり、いくらでもできるわけです。声はピアノなどよりもよほど応用性があるのです。
その中で何パターンかをもって、これだというのをつかんでください。100回やってみたうちの99回は失敗です。そういうものを捨てていかなければいけません。ところが、歌うのに1つのパターンしか試してなくて、2通りくらいでしか歌っていないから、歌の中で音楽ができてこないのです。
練習でも、「わたしは」というのを100パターンくらいやってみましょう。はじめは大して何もできないと思います。しかし、その中で見つけたものしか財産にならないのです。デッサンの勉強でも同じです。
カメラマンでも、撮りっぱなしで上達するのなら、誰でもカメラマンになれるでしょう。必ず撮ったものを見て、それはどういう意図でやったのか、そして、これはどうしなければいけない、ということの修正をやらないとうまくはなりません。
プロの要素というのは、感覚、基準の厳しさです。それを身につけることが大切です。なるだけいろんな音楽に触れて欲しいので、説明しながらいくつか聞いていきます。ここの教材を歌うとか歌わないとかではないのです。ここにおいてあるものは全て、基本を勉強するためにあるのです。この曲をレパートリーにしなさいということではありません。
「タミア」
これをそのまままねてやってみてもしょうがない。マライヤキャリー張りに歌ってみてもしかたありません。きっとそうは聞こえないでしょう。体で読みこまないといけないということです。
それはどういうことかいうことを、野球にたとえると、バッターが空振りしたとして、私たちはただ空振りしたか、それさえも見えないのですが、プロの人が見ると、それは肘がどうなったと、自分にきちんと置きかえられ、ことばで話せるのです。
だから聞いてみたときに、自分の中で、今のところは自分の声でどこがどうなったか、それでどうやろうとしてこうなったということが、自分の体の中で置きかえられない限り、同じレベルのことはやれないということです。
だからここでは、他の人の体を読みこませることをしています。他人のことはわかりやすく、自分のことはわかりにくい。たとえば、弱いところとか、小さいところとか、響かせているところをまねして歌ったりしますが、プロはきちんと体で支えて歌っている。それを起こしているのでなく、それが起こっているのです。
歌というのは、ヴォイストレーニングの可能性を広げた上で、その声量や声域を全て見せるのではありません。自分がその作品に対して使いたいところだけをピックアップして、それで集約して出すのです。大音量を出して歌う歌が流行るわけではないでしょう。
もっと繊細なものを出すために声量を得ておくのです。だからといって声量が出ない、体が使えないのがよいのではありません。そこを忘れてはいけません。
その歌い手がステージをやっているところの裏を見なければいけません。その人が表に出している音の中の感覚を勉強しなければいけないのです。そうでなければ同じこと、同じレベル以上のことはできないということです。
「セレーナ」
この「セレーナ」をひとついうのに、2年以上、かかると思ってください。そのことで確かな表現できたとしたら、そこからいろんなきっかけがでて上達します。たった1点でも一流のヴォーカリストとの接点がつけば、そうなっていく可能性が大きく広がる。
10年歌って、この「セレーナ」ひとつもいえない、いえないどころかいえたかどうかさえもわからないというレベルで練習している人が大半です。だから一流の人のものを聞きなさいということです。いろいろな意味で正されていくからです。
トレーニングでやることと、舞台でやることとは、まったく違うのです。基本は基本がわかりやすいもので勉強した方がよいからこういうものを聞かせています。人に対して働きかける要素が何かということをきちんと知っていかなければいけないということです。
「ギターよ静かに」
一流の人ほどシンプルに歌っています。日本人は「ギターよ、あの人に」は「ドドドドーレミドド」にことばの音を当てていく方向にいきます。すぐれた人の感覚をそのままにとれず、自分たちの感覚でおかしくしているのです。こういうものは聞いてそのままやっているつもりでも、自分に入っているものに置き換わっていきます。自分でなく、日本人、日本語の感覚でやって間違えるのですから気づかないのです。
だから、もっと正しいものを入れるということです。そして、自分の中で置き換えのときに用心しなければいけません。日本語でもいいのですが、それを今までの先入観とか固定観念でやってしまうとおかしくなるということです。
本物というのはもっとシンプルなものです。複雑ではありません。それを宿すと、その人が遊んでいるときも歌として口先から出てくるようなものです。ポップスを発声法で歌おうとしたら気が遠くなります。
もっと息の力をきちんと信じることです。ポップスの場合は、声ではなくて息が命です。
「仲代達也」
「あれはさしずめ、俺の姿だ」のせりふのところも、全部を声にせずに、息を混ぜた方が伝わります。それは人間の生理的なものです。ポップスをなぜ日常を離れたところでやらなくてはいけないかというと、体の力がないからでしょう。それはごまかしにしか過ぎないのです。
昔の役者というのは観客に声が届かないから、いちいち体を使って声とくっつけていたのです。今は、技術のおかげで、声は伝わるので動きの方が優先で、そちらの方に体をつけなければいけなくなりました。そこで安易にのどをそらすがために上のほうで声を作るようになって、どんどんおかしくなっています。J-POPでも同じことが起きています。
それでも、ビジュアルで見せられる人や、バックとの演奏スタイルで見せられる人はよいのです。 それさえ、できない人は、声の力を失って、何のとりえもなくなってしまいます。それぞれに関して、本質的なものとか正しいものがあって、それをどういうふうにとり入れて自分の舞台にするかということは、その人の価値観で選んでいくものです。
ここでできるのは、アカペラでお客さん50名くらいを感動させられるための声の場づくりです。それがトレーニングの基本だと思います。
「私の孤独」
カラオケやスクールで勉強すると、音をとって、それを全部覚えようとする。「ミミミミミソファファ」に「ながいあいだひとりで」をあてていきます。ここではそういうことはやっていません。複雑な曲と思えるものも、シンプルな構成で覚えていきます。
この曲であれば最初の5分くらいで覚えられます。1年目では難しくても、3年かかればできてきます。どうして覚えられるのかというと、音楽の流れで覚えるからです。音楽というのは線の動きです。はじめてこれを聞いたときに音がどう行きたいかというところを聞くのです。一つの言葉に一つの音をつけていくのではないのです。
ところが鍵盤も、楽譜も単音で示され、さらに日本語の場合、全部点でとる。だから「ミミミミミソファファ」としか聞こえません。しかし、「ミミミミミソファファ」のところで「ながいあいだひとりで」は、「ミーソーファ」の中に入れていけばいい。「な・が・い・あ・い・だ・ひ・と・り・で」というとり方ではないのです。これでは音楽を邪魔してしまうのです。
情感を移入するのは、基本でやることではありません。ステージでやればいいのです。自分でイメージを作らなくてはいけません。ポップスの場合は、声楽などと違って、大きな自由度がある。それをどのくらい自由に活かすかが勝負です☆☆。 そこで自分の音色、自分の表現は一体なんだということ、他の人ができない絶対的なものは何なのかということを最初から見つめていく。そういうことをまったくしていないから、誰かが歌ったようにしか歌えない。そうしたらその人が歌う意味がないのです。
音階でも、リズムでも難しいと感じたら、大体はそのことが入っていないからです。それに反応する体と感覚が入っていないのです。ここにきたら、ロックの人でも、サンバも、ボサノヴァも、ビギンもタンゴも全部やります。
もし、それでそのリズムに反応できないとしたら、差し障りがあるとしたら、それはロックもリズムがとれていないということです。たかだか8ビートの中で変形しているリズムがとれなかったらおかしいでしょう。もっと世界には複雑なリズムがたくさんあるのです。そうしたらロックのリズムがわかっていないということなのです。
プロなら、自分で好きに歌っていればよい。しかし、そこで、何か足らないからレッスンにきているのであれば、それは変えなければいけません。それは誰かが教えるように変えるのではありません。もっと人間の奥深くにあったり、体の中で働いているものをきちんと思い出すことです。リズム、音程もいろんなものがある、それを白紙にして、そういうものを取り入れられるプロの体と、プロの感覚を柔軟にもっていけるようにするということです。
求める条件は簡単です。一声聞いただけで違いがわかるように、という単純なことです。日本のプロの中には、それが明確に出せるという人がなかなかいない。ジャンルは何でも構いません。ここでやることは、基本を勉強するということです。声の素振りをやり、音の感覚を厳しく、自分で基準をつけていく。楽器と調律のことと演奏のことを勉強するのです。それを何に使おうがそれはあなたの勝手です。だから歌は教えないのです。
歌には遊んでいる部分があってもよい。しかし、必ず根のところできちんと握って、その上で放り出すことです。どんな分野でも引きつけるだけ引きつけて、それで放たなければいけないということが基本です。
日本の場合は声が握れないから、上のほうでちょこちょこ握っては放している歌が多い。その価値観の違いはさておき、体を声のためにきちんと使っていこうとするのであれば、外国人のように考えた方がいいと思います。
この1フレーズを聞いてみて、その続きを聞きたいかどうかです。