一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン 17978字 1173

レッスン 1623

 

【学び方☆】

 

「ハイ アオイ」

 いろいろな問題を指摘しようと思います。私も5人くらいなら声を聞き分けられます。オーケストラでバイオリンを聞き分けるようなレベルからいえば簡単なことです。大勢のなかから自分の聞きたい声だけを聞くような能力、人間のなかには注意集中力があります。これをカクテルパーティ効果といいます。

 

 私が見ていることは、その人が何を出せているかということと、その人がどう修正をかけているかということです。この辺は作品と違うところです。どうごまかしているかというところは見なくてもよい。だから5、6年いる人で個人レッスンに来る人には、私は一言もいわないでレッスンが終わります。

 

 レッスンというのは先生が細かくアドバイスするみたいに思われていますが、違います。どうやって本人にそのことを気づかせるかということです。先生がいくら気づいてもあなたのものにはなりません。できるだけいわないで、できるだけ本人が気づくような材料をどうメニューに設定するかが難しいのです。

 

 

 気づかないことには自分が変わりません。自分が変わらなくてよいというのならそのままです。今の業界では、こういう人は難しくなってきています。ヴォーカルや役者の力というのがあります。これは声、体の部分をうまく声に出せていれば、それが機材で拡大できます。昔は音響技術では吸い上げられませんでした。今は細かいところのちょっとした感覚が出せるように技術が発展しています。しかし、そのために早く小さなところでの勝負に入ってしまいます。ここからどうやっていくのかが大きな問題です。

 

 もうひとつはステージ面なりビジュアル面なり、見せ場のところがあります。ここが複雑になっています。だから求められる感覚も表向きわかりやすく舞台らしくみえるものとなりつつあります。

 ライブで歌えている人が、レコーディングに入ったらほとんどダメで、慣れるのにプロでも時間がかかります。感覚が違っているからです。

 

声がないのにうまいと評価されていた人の方が、音響をうまく使っています。ここ5年くらいでやり方が見せ方から違ってきました。見せになってくるとビジュアルから照明から全部入って、トータルコーディネート力になってきます。一人でできない。出し方より見せ方が問われるのは、本当は不幸なことです。

 

 

 カラオケがうまくなるためにこういうところにきているわけではないでしょう。表現というのは働きかけるものであるかぎり、人の心を捉えたり動かしたり、逆に嫌われてもよい。ことを起こす、そういう意味で何かしらその人の個性なりオリジナリティを出す。焦点はそこに置いておかないと、たえずまわりに左右されて、わけがわからなくなる。だから基本があるのです。

 

 結局ノウハウやマニュアル、どこで習ったというのは、一個人のつきつめたパワーにはかなわない。個人が身につけるところの熱意やテンションがよほど高くなければ、それがどうであれ、そういう形をとってしまいます。

 ヴォイストレーニングをやろうとか歌をやろうという人は、部分的にしか見ていない場合が多い。そういう時期があってもよい。でも声をみるほど、そこで深くなってしまうから、そこから出ていけなくなってしまいます。

 歌を見れば見るほど、歌のなかで完結してくるし、舞台にならなくなってしまう。これはおかしな話です。対象をしっかりとおくべきです。必要なのは外に働きかけるための内なる基準です。ここを間違えてはいけません。

 

 歌も長年やっている人はいくらでもいます。長くやったら人よりやれるのはあたりまえです。それだけではやっていけない。何が違うのかというと、ある意味でやっていけるのは、プロが見てどうだという部分でしょう。プロが見て、プロはああでなければと思えるものが出ていないと難しいです。

 そういう分野からでないと基準をつけるのに難しい。だから基本は自分のところで深めていって、応用できるような準備としておきます。

 作品は当然、自分の個性やオリジナリティを出していくものです。応用し、反れていくのです。だからこのレベルを常に問うていきながら上げていくというのが難しいのです。

 

 

 いろいろな人が録音を送ってきたり活動報告してくれます。伸びていないどころか、悪くなっていく。日本の場合はステージを考えると、これから外れてしまう。基本がくずれていく場合が多いです。

 だから、もっとここの判断のレベルで問題をしっかりと直して欲しい。気づくところのレベルです。同じステージ、同じ歌を見て、自分なりに感想はあり、わかったと思っても、それができるまでのギャップというのはあります。

 だから感じること、感じるままに歌っているのは10代の歌い手です。それはそれで役割としてよいのですが、そこに気づきが入って練り上げていかないと本当に自分の表現の基準はできてきません。 まわりにいわれて左右されてしまいます。それは判断を他人に委ねているからです。判断するのが他だから難しい。その「他」をどうみるか、これは私が研究所でつくってきた大きなシステムです。

 

 

 たとえば、クリスマスライブに対してコメントを8人のトレーナーが書いています。これは8名の基準、毎日見ることをやってきている人の判断の例です。

 皆さんのキャリアというのは知りません。3年以上いる人は、ここで過去のもののピークのときやよかったときの作品を私は見ています。それから比べることはできます。

 これも自分でできそうでできないことです。歌の場合、難しいのは思い入れが入っている分、一人よがりになりがちです。自分で思いきり気持ちよく歌って、これは絶対に最高だと思う。

 

「どうして悪いんですか」といわれても、これは基準が違う。当人がその感覚のまま出てくるのが声なのだから、よくなれば、その感覚のところで狂っている。よほど厳しくなければ、たったひとつの音の扱い方や音程でもよくシャープしたりフラットしたりする。そうなっても何か気持ちよいと思ってしまうようないい加減なものがその人のなかにあり、それが正せていないのです。

 それは外に働きかけない。あるいは一回で終ってしまう。一曲聞いたらもうよいと思ってしまう。だから表現は、結果として論理的につけたり、計算してつけたものではなくとも、本当に磨かれていたら、それが何かしら力強く美しい形をとってきます。

 

 どんなに難しい曲でも楽譜で書ける。本当は書けないのですが、ある程度記号化できてしまう。そういうところから見るのも基本に戻る方法の一つです。

 歌というのはいつも、こうなったところにこうもってきたいか、ああもっていきたいかという選択を迫るものです☆。そこに法則を汲んで、次の何番目にこういきたいというところ、そんなことはお客さんは計算しませんが、どこかで期待している。だから、その期待以上のことをしたら感動する。そういうかけひきのなかで成り立っていくものです☆。だから、そこを勉強しなければいけないのです。それをやるために、感覚の安定性と声がしっかりと磨かれているところの安定性が必要です。

 

 

 今、いろいろなスクールができてきます。一見個人レッスンは理想的なようですが、これらの要素をわかっているトレーナーでないと可能性は閉じてしまいます。だいたい声にマニアックな人がやる。もちろん、どこもマニアックにならないと全部が中途半端でいってしまいますから、それは悪いことではない。

 たとえば、世界の基準があります。それから歴史的な部分からの基準、世界のいろいろな音楽の基準がある。教え方があって、プログラムがあって、そこでいろいろなタイプの人がいます。それを日本のなかで考えてもしかたない、実績をほとんど出せなかったのですから。世界で養成されてやっている人、やれた人ばかりがやっているところの芸事から見ます。

 

 客の動員はエンターテイメントの方から見られています。その上で、舞台としての評価、音楽性の評価がいく。それはポップスや大衆芸能の場合はあまり問われない。日本の場合は何人集まったかで問います。

 テーマパークなどもそうでしょう。商店街や学校でチケットを配って、ツアーなどにも組み、無理やりただでも動員させて、何万人達成と喜ぶような人の多い国です。皆が買い出すと、いきなりベストセラーとなる。実際、他の国からみて、一人ひとりの人間の歌唱力が、どの程度低いのかとか演技力がどの程度低いのか、わかっていない。反面、舞台衣裳や美術セットはすごい、見せ方については日本も見せられるようになってきた。というようなことなどはとてもシビアに外から見られている。

 

 日本のなかではそういう批判は本当にタブーです。ポピュラーの分野に比べたら演劇などはまだいろいろといえる人がいます。やれている人がよい。しかしやろうとする人はそれをしっかりと考えなければいけません。そこの地点にベースを置いておかないと出口がなくなってしまいます。

 海外に出ろとはいいません。そういうところの情報は深く役立つので、そういう窓を何とか開けておくことは、ここの役割だと思っています。

 

 そこから一つの基準を落としてくる。ひとつを磨くのに1200時間が基礎教育、それでプロになるには10000時間、根拠のない目安ですが、漠然としてそういう感覚があります。1200時間というのは、2年間、一日2時間は必要です。ここの1時間のことをしっかりとものにするのに、残りの4時間や8時間をかけているかということです。 

ここだけでやろうとすると、4年かかってもしっかりとフィードバックしていくとよい。一人では10年かかってもできません。 

 

 

ここでいろいろな講座を置いていますが、全て、本当に大切なことです。プラスαになるどころか、本来補わなければいけないものが、まだたくさん落ちています。 音楽基礎も強化しようと思っています。音痴矯正的なプログラムまで考えています。こうやって幅を広げていくと、専門学校のようになっていきます。より特化する部分が必要です。それ以外の部分は会報などで補いたいと思います。

 読譜力はやればできるようになります。受験用みたいなもので、気づき方の一つです。

 

自分で歌ってまわりの人が10個音を外したのがわかるのに、本人は全然わからない。としたら、そこを直さなくてはだめです。録音を聞いてみる。自分で聞いてみて直そうと努めないと直らない。先生が出して、まねていけばいくほど頭を使い、体が死んでしまいます。 

 

それは自分のなかで、直していくことです。つまり直すということは、正しく感覚を入れ、それが正すのを待つ。ここまでしっかりとやったときに結びつく瞬間があって、そのなかで捉えていかないといけません。嫌だなとかびりびりしている感覚のなかで、人の心が動くことはないです。もっと原理に忠実なものです。

 

 

 今歌っているような人たちはカラオケに近づけて歌っていく。カラオケ採点機のようなものもひとつの基準です。それを使えるとするなら、総合点で80点ということではなく、どこでこれは100点から減点されたのか、どこの部分で5点と評価が得られたのかというところです。これは、時間、テンポと音の高さできまるそうです。ミスタッチをしないようなことが求められます。 

 

楽器の場合は全てMIDIに演奏した瞬間に変換できます☆。声の場合はできません。マイクの距離をずらしたり角度を変えたりするだけでも、音の高さやリズムはとれるのですが、打点がどこかといっても打楽器ではないからです。一番計りやすいのは、打楽器です。打ち込みをしたらドラムと同じように聞こえます。 

あとは音色という問題があります。これが声の場合は複雑です。楽器が完成していないからでしょう。人間という楽器が完成することはあり得ないからです。ピアノは完成しています。もちろん、もっとよいピアノも出てくるかもしれません。

 

 寸法何センチの幅の鍵盤、たとえば指の太さによってもう2ミリ広いものをと、オーダーメイドはできない。指の強さがこのくらいなら、このくらいの大きさでというのでなく、決まった規格での勝負です。バイオリンは、幼児用のバイオリンがあります。

 歌の場合は計測不能、だからおもしろい。それを何とかしていきたいのです。

 

 

 皆さんは基準を勉強していくことです。それをたくさん見て欲しい。ここのなかの伸びた人を見ればよい。そういう人はとても厳しいです。まわりにも厳しいのですが、自分の作品にはもっと厳しい。ちょっとの差がどれくらいの大きな差かというのがわからないと、それをつめていくことができません。

どんな人の歌もレッスンを1時間すれば歌えるようになる。そんなことを何年もやっているより、遠回りのようでも、そこで同じにできる条件は何なのかを知ることです。

 

 同じになってもしかたない。完全にできるのなら、そのコピー能力はすごい、でもそれを何に使うかということです。その辺が知識の勉強と違ってきます。そういう見方をしっかりとしていくのです。

 

 テキストでも、その人がそのときに書いたもので、1年たつと違ってきます。しかし、私の本を読んでもらうと、そのなかで変わっていないこともある。私のなかでかわっていかないのと同様に、他の人間のなかでも変わっていかないこともある。もちろん、他の人が書いたらまったく変わってしまうこともあります。

 

 

 書いていること自体も見せや演出だからです。今、私は歌BONとギグスとバッジという雑誌に書いています。編集部はいろいろな情報をよく知っています。私よりずっと、今の歌に詳しい。注文のレベルは、私が書かなくても通じる。

むしろそういうことを自分で今、勉強している人が書いた方がよい。ここの研究生以下のレベルの人が見るのですから、そういう人が書いた方がわかりやすくて親切でしょう。何をやればよいのかきっかけがつかめる、ということで書かせています。その連載は編集部と成り立っていればよい。

 

 どんどんと見えなくなってきているものを明らかにしてやらなければいけません。何でもできますが、何でもできる世の中ほどやりにくいことはないのです。そこにつくる才能が問われるわけです。

 だから声や体のことがまだまだといっても、そんなのは永遠にまだなのだから、その都度感じ、気づいたことを、どう練り上げるかという方向性とひとつの対極を見る力をしっかりとつけることです。

 

声がどんなによくなっても出られない人はたくさんいます。それをどう使うかがないからです。

 うまく歌えない人でもヒットを出している人はいる。しかし、体や声は、鍛えたら伸びる要素だからやっておくべきだということです。

 

 

 音楽や歌からいうと10分の1の要素にしかすぎない。だから他のコンピュータなどを勉強するのではなく、そこの感覚判断を勉強するのです。雑誌や音楽を聞いて物知り博士になるくらいなら、自分の体にきいた方がよい。声が正しい正しくないというのも全部そうです。

一流でやれている人ほど基本を徹底してやります。それはあなたが思っているよりもさらに深いところでやります。自分の思い込みを離してしまうと自分の体が生きているというのは偽りではないのですから、そこから出てきます。それをうまく吸い上げればよい。 

 

レーニングや理論をやっているときは一時狭くなってしまいます。そのままで10年たってしまってはだめです。実践して、声がものすごくよくなった人もいます。でも世の中にとってはあまり意味がありません。自己満足にはなるでしょうが、それなら最初からカラオケをやっていた方がまだ生きがいがあるかもしれません。 

 

そこの問題は遠いことではない。今、今日、ここで問われていることなのです。バーッと弾いている中で、どれだけ音を感受できるか、その音に対してどういう着想が得られるか、それが基本です。そのことができていなければ、鈍くなってきます。

 

 

 緊張はテンションとして大切なのです。それが慣れてくると鈍くなる。創造活動の感覚が死んでしまったら、レッスンしている意味がありません。

 少なくとも一人、人間がいれば場というのは違ってきます。そこでさらに何かをやるというのはもっと違う。自分勝手にはできないし、自分のこだわりだけでもできません。他の人が受け止めるものを投げかけなければ伝わらない。それをこのくらいの空間や音のなかで感じたり気づいて、集約する。

 

 ようやく秋の合宿の評価がまとまりました。何人かの一人舞台だったようなものですが、その人が何を感じ、何を学んだのかを復習してください。

 こういうところにきて学ぶのは、トレーナーからではなくあらゆる人から学ぶのです。よりできていない人からも学ぶ。最終的にやっていくのは人のなかでやっていく。そこを切って自分のことを深めようにも、それは人に与える方向にいっていないから、もうワンステップ必要となります。それを出しても、この人のなかだけでわかっていることとなってしまうと有効性がありません。

 

 何でよい企画なのに通らないのだろうという企画マンもいます。企画というのは立てるのでなく、企画を通すのが仕事です。社会はそうやって動いています。表向きは順番があって、企画書が通るような形になっていますが、企画は後から上がってくる。それはアイディアで通るのではなく、誰のかによる。私が出したらOKというけれど、他の人がその3倍よいものを出してもだめといわれてしまう。それが人間の社会です。

 

 

 もちろん、権威やお金で支えられている場合もある。でも、それも含めて、その人一人の信用です。その信用は、その人間の判断の基準と行動です。演出家でも映画監督でも、長年のスタッフやお金のある人がやってみてつくっても売れない。ところが、たけしさんが初めて映画を撮ったらそれなりにできてしまうというのは、日ごろから物事をどう捉え、どこをカットしてどこをつないでいけばよいということを練っているからです。

 

 歌も自分の出した声で何を選ぶか、そのなかから何をつないでいくか、そのときにあるレベル以上の要素が上がってくる。ものにならないものはその場で捨てていきます。

 ところが、今の日本の社会で勉強してくると自分の意見を主張するのが大切に思ってしまう。しかし、実力社会は実力のある人が全部やって、あとはその人の能力を活かすことを手伝う方がよい。どの社会でも、会社でもそうです。それを均等に割り振ったりするからおかしくなります。

 

 まして芸で問われるなら尚さらです。同じようにステージもそうです。本当に歌える人が全部やって、歌えない人は出さない方がよい。

 それを日本の教育はどちらかというと、20人いるのなら20分の1ずつ時間を分けましょう、それで一人5分ずつやってよかったとやる、それは幼稚園の発表会と同じです。 

そこで才能を問えない人は問えないことをつきつき問えるようにしていくか、他の分野で才能を出せばよい。ピアニストもバイオリニストも本当にだめなら自分の楽器をつくればよい。そうすればそこの第一人者でしょう。

 

 

 ただ、他の人たちが深まって、それだけ競争相手がいる、野球でもサッカーでもあれだけ能力のある人が集まっている分野で鍛えられることに対して、一人で新しくやるというのは逆に難しいのです。

 ポップスはこういう全部の問題を抱えている。何をやっても自由、でもどうなるかわからない。昔はカメラマンでもカメラ1台もつのも大変だった、師匠について使わせてもらって20年たつと、師匠の地位にとって変わることはできた。

 

それは才能ではなく長くいた信用です。いろいろな才能がある。 

ところが今は私でもカメラを買える。撮ったものがピンボケすることもない。皆さんの歳でも世の中に出れる。そのかわり10年20年たっても才能がなければ安定しないで、いつでも若い人にとって変わられる。安く使える人にチャンスがある。 

 

人間は歳をとるにつれ安定したいと思うし、自分のやってきた業績をキープしたいと思うのに、そこで求められる基準自体がなくなって滅びてしまう。

 

 

 インターネットの時代で、音楽配信に変わってくると、ネットの力をもっている人とコンテンツをもてる人が出てきます。音楽業界はもともとソフトだから、実力本位ですぐれた人であればいくら若くても出ていける。そういう意味でいうと厳しいのです。正当にやっているものであれば変わらないでしょう。

 

漫才なども長い目で見ていくとよい。1年前の新聞や雑誌を読むとよくわかるでしょう。どれだけいい加減なことがいわれていて、それを鵜呑みにしていたのか。結局やっていく人は、そこの感覚を超えて、ものをみています。

 

 長くやれている人はそういう判断ができる人やそういう人がまわりにいるかということです。漫才でも才能もあると思いますが、寄りかかって生きている人も、一人でやれている人もいます。その人が判断の基準をもっていて、それがどの範囲に及ぶかということです。歌や声をやり続けて欲しいのは、人間の日常から関わっているものだからです。

 今見ていって欲しいのはそういうことです。何のために日々を過ごしているのかというところから見ないと、本当に流れていく。ここで2年間、誰よりも時間を費やす。どう費やしたのかを見ていって欲しい。

 

 

 舞台で映えない人は、コンプレックスがそのまま出てきてしまう人です。それをもうひとつ落とし込んで、再生すべきなのに、それから逃げようとしてしまう。

 どちらかというとこういう分野に向いていないような人だからこそ、努力でやれている。普通に会ったら、オーラが出ているのでも姿勢がよいのでもない。しかし、その一瞬にパッと輝いて、この人がこう変わるからすごいと思わせるから、説得力がある。それがいかにも二枚目では説得力がない。

 

 その問題が自分に当たってきたときに、ひとつ深く入っていくということです。そうするとその人がやる理由が出てくる。5年も10年も、人生の大切な時間をそれに費やしていると、出てくるのです。 

話し方でもお笑いでももっとうまい人はたくさん、会社員にでもいます。でもそういう人はそれで食べようとは思わない。歌でも同じです。それ以外の能力を生かしているということもありますが、アマチュアとしての楽しみとしてとっておきたいという人もいる。

 

 プロは人を楽しませるのであって、自分が楽しむわけではない。嫌なことを9割くらい引き受けないとやりたいこともやっていけない。選ぶとか選ばないというような世の中ではない。声や歌のことはどこでもできた方がよいのです。これからの社会でもビジネスマンはプレゼンテーション力が問われます。その人がどう表現して説得できるかです。

 それが日本はよくよく問われなかった。やってきた人はその力をしっかりと使っていたということです。

 

 

 舞台での判断はとても厳しいものがあります。お客さんを巻き込んで、1時間半拘束していく。本人のモチベートだけではなくて、場で成り立っているところもあります。何事にも出ていくエネルギーに満ちていないと、やらなければいけないというのが、損得感情と義務感になってしまう。受け止め方で素直にならないと上達できません。自分の判断が自分に対して甘くなります。

 場をもっていると伸びない人も、他人に対しては厳しい判断をできてくる。こう見ればよいという見方ができてくる。でもそれが自分に適応できるには時間がかかる。

 

 特に歌の場合は難しいです。何かを競争するわけではない。自分の好きな歌を好きなように歌っていくということで、ひとりよがりの世界を作ってしまう。そこで注意しないのは、だからといってだめとは限らないからです。音響の利用やバンドをつけてみたら、ファンを得られる可能性もないわけではない。

 以前は声だけでやっていけなければ、音をつけても中途半端にしかやっていけないと見ていたのです。声は徹底すれば強みになる。一番磨いて欲しいのは、声です。

 

 しかしレッスンでは表現に気づき、感ずることのヒントを得てもらいたい。そのヒントを1回でも一瞬、本当のプロの歌い手はこんな感じで声が出ているのだということに気づいたら、そこだけをめざして練習するべきです。その他のものは全部捨ててしまってよい。そういうものが入っていないと出たときに気づかない。

 だから今のスクールなどは半年くらいで伸ばしますとかいっていますが、伸ばしてもカラオケ初心者レベル、それが成り立たないのは、その先のマップをもっていないからです。

 

 すると、それが出たからといって固定できない。調子のよいときに、それいいよといっても本番でいつも失敗します。その声がたまたま出ると惹かれる。でもそれが本人が取り出せずに流れてしまいます。

 本人がわかっていなければ成立しません。声がよいというのは生まれつきの要素かもしれませんし、表現ということになれば偶然に出ることもあります。しかし、それを必然にしていかなくてはいけないのです。

 

 

 大切なのは、一つひとつのレッスンをできるだけそういう開放された状態でつめていくことです。レッスンでも感覚を切り換えていく。

 普通の人から見ると、この世界は多重人格者入門のようなものです。さっき笑っていたらいきなり泣き出し、怒り出すということができてあたりまえ、自分でコントロールしなければいけないのです。そこで他の人よりできる幅をもたないとできない。

 

 なぜ切り換えなければいけないかというのは愚問です☆。歌のなかでは、感情も体も切り換えなければ声も変わらない。運動神経も反射神経もいる。それを意図的に表現として見せていく。人生をひとつ圧縮して、そこで人生のエッセンスだけを集めて、最高の組み合わせを創造しなければいけない。 そういうものがあると歌の勉強をしなくても歌えてしまう。

 

歌い分けができる。名俳優の歌などを聞いていると、じーんとくる。これは私のこういうときの歌だと伝わります。ほとんど歌い手がやらなければいけないようなことをそういう人たちの方がやっています。音楽の基本なんてやっていないのによい歌になる。

 そうやってみると歌は難しいとか面倒なことより、楽しいことだらけです。自分のなかにあるものをしっかりと出してくる。

 

 

 「この合宿にこなければ何をやっていましたか」という質問もよいでしょう。そうやって自分に接していきます。本人がこんな見方もあると実感して気づくために、カウンセリングもあるのです。それを自分自身でやっていくと、セルフカウンセリングです。

 その曲はこうとしか聞こえないと思っているでしょう。でも、他の人のこういう聞き方もあるということを気づいて欲しい。なかなか見えない。そういう時期があってもよいのですが、そういう見方もあるというのをレッスンで気づいてください。それをすべてのレッスンに応用してください。

 

 まわりがすごいテンションでやれていればよいのですが、まだまだそうではない一般レベルの場合は、まわりに流されそうだと思ったら自分で切り換えなければいけません。ダラダラと流れていたら、他の人がだめというのでなく自分が変えようという力をもつこと、その体験が一番よい経験になる。この程度で通じてしまうというところで人と合わせてしまうと、自分のまだ見えない力を制限することになってしまいます。

 

 日本は出すぎたら乱れるし叩かれるから、ちょうどよい中間をはかる。ここで、その必要はない。自分で精一杯出してみて、断然のトップをめざせばよい。トップに出てももっと上の人から見たら、最低限なのだということがわかれば、出し惜しみなど絶対にしません。

 一所懸命、声や体を使っても、それは単に自己満足、疲れたから何かをやった気になっていませんか。スポーツでも結果なしでは許されない。へとへとになるくらい練習しましたといってもしかたありません。それを一生、自分だけでやるのだということであればやればよい。

 

 声が枯れる人もいます。自分で気づいてやめないと変わりません。いわれたからやめるというよりは自分で思いきり出してみればよい。こりたらやらなくなります。そういうところでつかまなければいけません。何でも禁止していくのは絶対によいことではない。リスクをとらず安全ばかり考えて、どうして他人を感動させられますか。

 まわりと同じようにやるのが正しいと思うのがだめです。成り立っているとしたら、おかしいと思って自分が新しいやり方を考えてやっていきます。そういうふうに臨んでいってください。使える人はもっとうまく使うのです。

 

 

 研究所では、先生方や他のスクールとの違いなどではなく、あなた方のなかにある惰性、今までの偏った考え方との戦いからです。それはあなた方自身がやるしかないです。

 あなたのなかに伸びていく要素があるのに、それをだめにしてしまう要素もある。伸びていく方をみるべきなのに、そうしない。人間はどうしても楽な方が気持ちよくなります。だから、声も歌もトレーニングも楽にしなくてはいけません。誰でもそうです。だから人前に出なければいけないし、与えることを考えなければいけません。すると楽でも流れず、しまる方にいく☆。 

 

自分だけでできるのであれば、ここに来ないでしょう。自分でやっていればその反応に責任感が伴います。そういう場を自分でもっていればよい。その場がもてなければ、この場をその時期、応用すればよい。人を集めたところで自分で問う、その他の人の歌も聞き、そういう立場に立つわけです。

 

 何をやらせるかと迷った末、あのときはああやればよかったとか、思うことはあります。でもそうやらなかったのはどういう理由なのかというのは、後でわかってきいます。人を商売にしているのは奧が深いものです。

 トレーナーの人を見る目はリアルタイムに的確です。こいつはこういう状態にいる、前の方がよかった、こういうところで行き詰っているなど、ほとんど一致します。人に同じように見えるというところがあるからです。しかし、私はその上で違うところも見ています。

 

 

 たとえば30秒で何でもしゃべれというときに才能を発揮する人、よい歌を歌うのにことばではあまりうまくいかない人とかいろいろといます。自分で自分のことがわかるようになって、はじめて力がつきます。そのことを自分で克服しようと思って勉強するのもひとつですし、やって、そういう分野の勝負はしないとわかってもよい。ここでは思いきって試せる、そういう意味でここを広く使ってください。 

 

2年でしっかりと助走して、10年でマラソンの折り返し地点くらいにして欲しい。今、どこまで行っているのかわからないでは困る。早いペースで2年で折り返しという感じになる人は迷わない。もう1年もいるからここの半分くらいのことは終ったと、いうのなら、ここにいる期間と力とは全然関係のない。 

自分のなかで組み立てて場というものを生かしてください。そういうことに対しては環境を整え、常に必要に応じて変えていきます。

 

 

 会ったときに時間をかけないですむことには、できるだけあなたのなかでやってもらいたい。テキストやコンピュータでできるものならそこでやる。そうでないとトレーナーもあなたの時間ももったいない。しかし、多くの人は相手の才能を自分の力のところまでにしか使えません。自分がいっぱしにできていると思って、思い上がっているからです。素直に相手がもっとも自分に多くを与えてくれるところで接したり、盗んだりすることができないのです☆。 

 

どうせなら自分が10時間やったことを問うためにきた方がよい。ただ問うこと自体が目的ではありません。 私はよく100時間のプログラムを立てなさいといいます。歌を100覚えるのならともかく、声のことでのメニューというのはなかなかできないでしょう。でも、トレーナーは多面的にやっている。こういう欠点のためにこういうメニューをやると、そういうふうに組み立てていく。体にも入っていることをできるだけ具体的に取り出してプログラミングしていくと、そこからまた選んで練習できます。 

 

自分のメニューを勉強しなさいということです。1時間のレッスンを受けて8時間どうやって勉強すればよいかわからない人は8時間レッスンに来ればよい。それは年齢やキャリアによっても違いがある。でも一回のレッスンでひとつ気づけるようになれば、その解決に何十時間のトレーニングができる。気づける。

 そういう場を与えようと思っています。感受性を磨いてください。これしかやっていなくとも、このことだけでもすごいと思わせる力をつけることです。これだけを毎回やってもよい。

 

 同じことをやっていると慣れてしまいがちです。そこで、より深まる人もいるのですが、他のことをやることで気づく人もいる。だからさまざまです。レッスンは自分で気づくために与えている。今日のレッスンでも皆さんにとっては、「わかっている」という人よりも「あっ、そうか」と思う人の方が伸びます。なのに、生じ頭の働く人は自分はできて、まわりはできていないと思っているから伸びません。できていないのがわからない。だから何度も出ることが必要です。お疲れさまでした。

 

 

 誰を使おうかというときに、こいつはこうやるだろうというのがこちら側である。たとえば、アーティストの○○さんというと、皆さんのなかでイメージがありますね。それにはたくさん聞かなければいけないのではなく、一回聞いたらこいつはこういう音楽性をもっていて、これを売り物にしている、だから、このケースには合うとか合わないとかが決められる。その判断の材料は、あなたが出すのです。 ドラマにつける音楽を決めるつもりでやってください。

 

 一通り聞いて、これだけのフレーズをやってみます。最後に今日のレッスンのなかで自分がよいというところを歌ってください、というまとめ方をします。

 一番よく歌えていたところは一応そこまで曲が入る。ということは、その人のなかにいろいろな曲が入っている。それを応用しないと間に合わない状況にする。自分でやると全然違うものになってしまいます。

 

 最初の15分にどこまでできるかというレベルの違いをみる。レッスンは、自己判断能力をつけていくのが目的です☆。他の人に対し、いろいろな見方ができるようになってきます。 

ただ、歌というのは、基本をふまえながらも少し飛び出したところでやっていく。自分だけでやっていたら、まったく関係のない自分勝手な世界ができてしまい、他の人が受け入れられない。だから耐えず、外の眼に対し、行ったりきたりのなかで創らなければいけない。

 

 

レッスンのなかで感覚を外にさらします☆。 要は、自分の歌のなかで歌いたいことをもっと伝えられるために、ていねいに扱ったり、いろいろな動かし方がある。基本をとって、より高いレベルで応用している人のところから受けた感覚をつくり変えて出すという、高度なレッスンです☆。

 

 ここのレッスンは、世界の一流のプロがきても、私のちっぽけな能力に限定されない場としておいている。それをめざす人が、そうなるためにレッスンの場として、どうすればよいかを考えてきました☆。そこを妥協してしまったらそのレベルの歌い手は生まれません。 

彼らのなかでも一流と認めているものをやり、そこから何かを得て、何ができるかというプロセスをしっかりと見ていくことです。

 

 自分のなかだけで自分の好きな曲だけをやっていたら、レッスンのプロセスは必要ありません。自分の世界をもつのとひきかえに止まってしまいます。それでもやれているならよい。

 仮に井上陽水さんがここにきたら、違う感覚で歌おうとしなくても、全て彼の世界にもち込むでしょう。自分で勝負する形が決まっているからです。そこに到るのに、すでにいろいろな勉強をしている。発声や呼吸を正す必要は、彼が感じない限りない。

 

 自分の核があるからです。そこに到るのに自分が出したときに何かしら今の時代に受けるような歌、それは時代をしっかりと生きていたら、核があればできる。その核の強さが、品格となります。

 難しいのはそこまでに至らないとき、自分を無にしながら、ものをつくっていかなければいけないことです。自分に固まってしまったら、もっと大きなものを使えません。そこでだめになってしまいます。

 

 

 大切なのは感じることです。感じて出すだけなら10代でもそれなりのことをできる人はいます。でもそれで終わってしまいます。これは誰かが、そう感じていることを気づかなければ、誰かがつくってくれないとだめです。他人の力がいる。それを自分で動かそうとしたら、自分で気づいて自分で練り上げてくる。 

 

よく感性のままに歌えばよいといいますが、感性には仕込みが必要です。それで本当に入っている人は少ない。そうでないうちは気づいて練り上げて、誰かが納得できるレベルにして出していく。

 たまにこういうものを聞いて、そのなかで何がすぐれていて何がすぐれていないのかをみましょう。同じ歌のなかでもその人のどこがよいか悪いかという見方をしっかりとたてていきます。

 たとえばこれを聞いてみると唖然とする。前の曲でもっている技術や声量、その人のオリジナリティのよさを、ほとんどこの曲では出していません。

 

 リバイバル版でも彼女のよさを生かさないようなものになっている。こういうすぐれた歌い手から何を取り入れるか、その歌に対して必要な要素を選び、それ以外のものを取り入れられない場合は捨てていきます。

 できるだけ多くを取り入れる努力をしていきます。レッスンですから冒険してもよい。むしろ自分の今までなかったものを出そうとして失敗を重ね、本質を知っていくことです。

 

 

 入れたときの感覚が変わることが大切です。本当は声を出す前にほぼ、あるレベル以上の作品を出す場合を自分のなかで想定しなければいけません。それで出してみてだめなら修正を加えていくわけです。これがわかっていない人は修正の加え方より、その必要性がわからないのです。

 音やリズムがとれたというだけでは、創造活動としてはゼロです。それで満点にしている人は、一生かかってもその満点にさえいかない。レッスンがその100点をめざして行なわれていることが少なくありません。 

 

最終的には自分に生かせるだけのものを取り入れて、自分の世界をつくっていけばよい。その方が馬力がいる。入れるときには自分に合わないものも気持ちよく聞こえるまでやってみます。

 

 これが売れたというのであれば、よくないと思っても、一体何が人の心を動かしたり、まわりの人にどこがよいと思われたのか、ある程度知っていくことも大切です。全部を知る時間はありません。同じ時間であればよりすぐれたものを優先して見ていくことです。ただ、逆にいうと、すぐれているからアラは見せず隠すし、できないところは見せてくれません。だからこういう実験の場に身を置いた方がわかりやすいです。

 

 

 ここをとったがためにそこはできなかったとか、後半にピークをもっといくはずなのに前半にピークをつくったためにばたばたしてしまったとか、必ずうまくいかない原因がある。それに気づけないと自分のも直せません。かなり高いレベルのアーティストに修正をかけられたら、自分に対しても客観視して修正できる能力がつく☆。それをトレーナーに任せないことです。というか、多くのヴォーカルアドバイザーは、そんなことをわかってはいません☆。

 

 ただ大切なのはその準備です。あまりに音楽やフレーズが入っていなかったり、歌がわかっていないという人にやれといっても無理です。

 たとえばジャズで適当にアドリブでスキャットしてみてといわれても、入っていないのだからできるわけがありません。好きにやって芸にならない。応用するための基本要素がないからです。ポップスの場合は何でもよいのですが、それでも最低限、他の人よりはたくさん聞いていく。聞き方としても細かいところに気づいていく力をつけます。

 

 こういう歌詞でも流れていなければ、どう歌うのかわかったものではない。次に「愛」が出て大きく変わる。そして「風の中で波に向かって」と出てくる。そういう構成が曲をパッと聞いているときに、入ることです。好きなところを歌ってみなさいといっても、えっという感じになってしまうのでは困る。

 

 

 歌詞を覚えるのは難しい。メロディも黒板に書いていたときもあったのですが、そうするとそちらに目がいってしまいます。メロディや歌詞は変えてもよい。覚えられないなら、自分でつくってしまう。最初からイメージをことばにするのに慣れましょう。

 これを聞いたときに、これは何を歌っていて何を伝えようとしているか、何がポイントで、詞はどう構成しているか、わからないところもあります。日本人に「ツバメの悲しみ」といっても、わかりません。それが何を意味しているのか、調べる勉強もよいでしょう。最初から基準を高くもって、そのなかでの選択もしっかりとしていくことです。

 

 難しい箇所はたくさんあります。難しくしているところも技術を見せているところもあります。その難しいところを全部切り捨て、できると思ったところをやっていき、できていないところをしっかりと知ることです。そこがある程度できてくれば、フレーズになります。

 たとえば「頬を涙がつたうとき」ができたときに「ふるえながら」、ここがしっかりとできれば「ふるえながら」のどこかまではでき、どこかからもたなくなる。50でできていたものが40、30となって、次の声が出ないと、そういうふうにイメージが走っているかどうかです。 

 

音やリズムがとれているかというより、声がそこに調整できているか。声量も音域もいらない。それをよりこの人がもっている感覚の方向や動かし方に忠実にやったときに自分はどう出るか、次にはこんな歌い方をしない。人間の感覚として、ズレてないかぎりこういう表現はとらない。聞いている人もびっくりするだけで効果がないのに、日本の歌い手は、よく、こういうことをやります。

 

 

 感性が論理的に取り出せるというのは、それをただして出せるかということです。1番のあるところがピークになっていたら2番のそこもピークになっている。それを同じに歌えている上で変えるなら、効果的に聞こえる場合もある。けれど基本的に同じところは同じように歌えることが、技術としてなければいけない。より伝えようとして変わってしまうのが、よいだけです。

 

 こうなったときに自分で呼吸や線を描いてみて、何回も聞く。その作業が1回でどこまでできるか、1回でできなかったら10回でも100回でもやる、そのときに、しっかりと歌えている人たちがやっている作業、何でも1時間くらいでつくり上げてしまうことのできる人の作業にどこまで近づけているかを見なければいけません。

そのうち、やらなくてもわからなくてはいけません。ただ、新しい感覚のものはやってみないとわかりません。ロックなどよりファドなどをやるほうが課題が明瞭になります。なんでこんなものできないのかと思うものほど勉強になるものはないのです。それは基準がつけられなかったからうまくいかないのです。少しやれば誰でもできるものばかりやっているレッスンのレベルの低さがわかりませんか☆。

 

聞けないところを聞いていく。普通の人が聞くと「涙がつたうときー」、それは感覚が違っています。よく聞いてみたら「きー」のなかでも浮かしていて、もう少し体から離れるようにつっぱっている方にいきながら、そのあとにしっかりと息のところに戻していくから次にもってこれる。こういうのは専門家だから見れるのではなくて、集中力の訓練で可能となります。ディレクターなどもそういう耳で聞いています。

 どこからどこまでのフレーズでもよいというのも、その人の呼吸や歌い方によって変わる。長くだけやるのは意味がありません。それをつくれるようになるためにその前からどう入ったほうがよいとかどこで切ったほうがよいとか、その判断は自分ですべきです。歌を生じさせなければいけません。