ステージ実習コメント 1174
新入①②③
最初の1年にどうしても自らが表現するための何かのきっかけを得て欲しい。本当は皆さんの舞台です。観客になって、自分の舞台に全員の分、返すというような場にしたい。レッスンはひとつの形態ではありますが、私は最初から、比較的舞台に近い場として置いています。やがてライブ実習という形でマイクが入ったりピアニストがついたりします。その方が形にとらわれてしまいかねません。実の部分が見えなくなるので、同じ条件でステージ実習もやっています。トレーニングの応用上の舞台ですから、それを映像で見て一体何ができていて何が足りないのだろうかということを見てほしい。
今日の舞台もそれなりに考えてきたと思うし、接してきたと思う。退屈はしませんでした。それはあくまで入って一ヵ月目だということで見せられたからです。それがわかってほしかった点で失格です。もしお客さんにお金をとって見てもらって舞台であれば、もちません。しかし、そこで逃げをつくらないことです。
ステージももしかすると明日死んでしまうかもしれない人間たちが、出会っているひとつの場です。他人の場と思わないで、自分のいるところは自分の場だと考えてほしい。場というのはひとつの状況ですから、自らのイメージで打破できるのです。
そうやって自ら、場をつくっていかないと、どこにいっても人様の場です。人様の場の場合は、役に立つときは利用できても続きません。そこにいったら自分の場にしてしまう力が必要です。特にロックはそういう世界です。どう壊すか。一番よいやり方はつくり出すことです。
厳しい目で自分の映像を何十回も見てください。1ヵ月と2ヵ月目はほとんど変わっていない。そこで徹底的にやれば、本当は変われるのです。それは大したレベルのことではない。自分で見て、それではいけないと思えば変われる。でもそこまで見ない。だから同じことが起きてしまう。この伸び率では、一生でも間に合わない。そこのことをよく知ってください。
いつかということはありえません。いつも100%のことをやらないと、自分で限界をすぐにつくってしまう。
今日は、私は具合が悪い。台湾に行ってきて風邪をひき熱が出てしまい、珍しく吐いてきました。吐くと楽になる。でも吐くときが苦しい。ただ吐いたものは他人は見たくないでしょう。
健全な体で消費をして、それを筋肉や容姿、笑顔として見せるとか、あるいは涙のような結晶にしてしまうとか、そういう形で消化してください。
消化というのはいつも2ついっています。胃腸で消化する消化と、昇華です。そこからお客さんに見せる。
私も弱いところや弱音とかを見せておかないと、これで元気な顔をしてここに出てしまうと気づかない。先生はいつも先生だという感じで終わってしまいます。以前なら絶対に弱さは見せなかった。しかし、それで学べないようなら見せた方がよい。人間ですからどんな人も倒れます。そのときにどう考えるかです。
ここに来れたというのは電車に乗れたし歩けたからです。人間の力や生命力は自分が思っているほど弱いものではありません。そのために志や使命感を持つのが一番よいのではないかと思います。
声や歌の感覚はありますが、最終的に必要なのは人間の感覚で、それには一体になることでしょう。それは自分の中のものをきちんと見て、自分を突き抜けることです。
原理は同じです。自分の体というのはありますが、それを突き破って人間として、生物としてもっと大きな流れに委ねてしまうことです。
だから他の人の動きもわかるし、全体も動ける。感じられる。それが一番基本でしょう。
自分で歌っているような歌は、所詮その人の歌ですから、大して通用しない。それを早く知ってください。半年は吐き続けてもらえばいい。それは体のいることで、自分も苦しいのでそれなりに身につく。ただ、それから作品が出るのかといったら、大きな間違いです。
声と自分ということの関係も、自分というのも、いろいろな人間の中でやっていくとわかりやすい。一人でやるより、研究所を持っていると勉強になります。よりすぐれたものも勉強できます。すぐれていないものからすぐれているとはどういうことかもわかる。
皆も映像を見てわからなかったら、他の人のを思い出してみればいい。徹底して他人を判断していくということで力をつけていくのが一歩目です。
人を動かす力や働きかける力がないと、声があっても何もならない。これからの時代は、ますますそうなるでしょう。声のことの中から、人間をきちんと読み込んで、その声をきちんと聞いていく。それはその人のよい声やよりベストの声ということではない。そこの中でどう動くか、どう仕切るかということで決まってくる。
会社ではそれがマネジメントになります。皆は歌をマネジメントする。それもある意味では人間をマネジメントすることでしょう。政治家も宗教家も、歌い手も同じことをやっている。そういうところをどこか念頭に持っていないと、自分だけの自助作用で終わってしまう。それはカウンセリングのようなもので、要は普通でない人が普通になるところまででおわります。
歌い手の場合は普通になってからどこかにいくというより、マイナスにマイナスを背負っていって逆転する。吐き続けてみたら歌えているというようなところもあります。社会的なバランスや常識が必要とは思いませんが、今の業界に関してはそういうものがない人は使いにくいということで嫌われています。
特にこの日本の社会では何においても能力の平均化が強いられます。外国はその辺ははっきりしていて、個人の差、つまり独創性を求め、認めます。
もちろん、あまり芸術至上主義になっていくのも考えものです。声だけやっていた人達を私もいろいろ見ていますが、そういう人は文化は食えないという。でも人に与えていないから食えない。それがあまりに創造性が高すぎたり新しすぎて皆を食えないのならわかります。でも何もつくっていなくて、声だけ磨いていて食えないのはあたりまえです。自分のパンツを何度も洗っているだけです。誰にも貸さずに、古くなっていく。その辺を間違えてはいけないと思います。
どの世界でもアーティストは9割は人を動かしていて、1割、本当にその人にまたきてもらうために、声や歌や宝物をそこに示す。その9割の手順を省いたら、歌がうまくなったらといって、誰かがステージをもってきてくれるのではないのです。その辺がわからなくなっているから、活動が続かない。どこかにパトロンがいてユートピアがあるように思う。まず足元からだということです。
声を扱う感覚は勉強して欲しい。でも、その根本にあるのは、人間が人間にどう働き掛けるかということから正されるべきです。音楽性も独立してあるものではなく、人間の遺伝子の中に組み込まれている。いい音楽を聞けば植物でも伸びます。
ロックの場合は若干違って、興奮状態をつくりあげる。その歴史的評価は後世にゆだねるとしても、声を扱う感覚を声の中にだけ押し込めていくと使えなくなります。皆は声をやりたいのか、声で伝えることをやりたいのか、はっきりさせてください。
今日の新入ステージ実習でも、このくらいでいいと思っている自分が限定しているのであって、研究所や私やトレーナーは限定していない。ここの場合は本当に自由です。あなた方の歌に対して、私が茶々入れることはない。だから全部責任はあなた方にある。その限定をどこまで自分で開放できるかという戦いのようなものです。
皆の中では悪くはありませんでしたが、3パターンくらいしか読んでいないでしょう。たとえば起承転結くらいで読んでいて、起のところはこのくらいで最後はこう締めようというようにしています。そんな甘いものではない。それはあなた方が甘いだけで、あなた方に能力がないわけではない。粘りが足りないだけです。
今日の歌でも心だけではやれない。あなた方がそのことをどんなに詞を読み込み、頭の中で世界をつくっても、それはあなた方の世界です。客と共有するのは、客に飛んでくる世界です。そこまでの声は自分の世界に持っていてもらわないと困る。自分の世界に客も入れておいてください。
プロの仕事はそれに対してどこまでやるのか限度を知らない。それをここで知っていってほしい。さだまさしさんが紅白歌合戦用のスティービー・ワンダーの訳詞をつくるのに、13日にもらって15日には渡さなければいけない。自分のコンサートも入っていたので結局最後の一晩でつくった。そのとき9時間テープを聞き込んだそうです。そして、その後2時間でつくった。それがプロのやり方です。
9時間、1曲を聞き込んだり、自分の歌詞をずっと見つめて今日きたわけではないでしょう。準備の段階でもうこんなに差がついてしまうのです。才能がないから準備できない。現にそれが見えてそういわれてしまうところでもう終わっているのです。
それは作品以前のところでの勝負です。一でひとつの発表の場があるというのを、あなた方は精一杯やったつもりかもしれませんが、本当に死ぬ気でやったのかというところです。そうでなくて大きなものがいつか手に入るわけではないのを最初にいいたいのです。
むしろ、今時間がなくお金もない。仕事も大変、そういう状況の中で状況を変えられない人は、年をいくとともにダメになるだけです。それを変えにここにきたのではありませんか。プロは吐いたくらいでは死なないし、熱が40度くらいになっても人前に出たら何とかできることを知っています。人前に出るから何とかできる。今日仕事が何もなければ家で苦しんでいるでしょう。つまり、自分の限界を体で知っています。
そこまでのことを鍛えていない素人ややったことのない人にはリスクが大きい。それは違う国に行って、現地の人と同じように横断歩道のないところを渡ったらバイクに跳ねられてしまうのと同じです。
ではどうしてそうなっていくのかというと、そこへの愛着心でしょう。自分のやっていることに愛着がなくなったら、そんなにつまらないことはない。
スティービー・ワンダーの曲だからというのもあるでしょう。聞き込むより、自分の曲をつくった方が早いといっていました。でも他人の曲だからこそそれだけ尊敬して、それに成り切るのに9時間かかる。それを知っているから、やれるのです。彼の能力があって、あれだけ詞をたくさんつくってきた才能のある人でも、それを読み込んでいって、自分のものとして歌詞をつける。当日の紅白は点滴を受けながらやったという、風邪をひいてダメだったそうで、高い声はひどかった。でも、だからといってその価値がなくなることではない。
ここもひとつひとつの材料やレッスンを皆がどう受け止めるかで全然違ってくる。レッスンがよいとか悪いというのではない。ノウハウは一人の人間の熱意で簡単に超えられてしまう。だからノウハウの中でやっている人はそれ以上のことはできません。
前に立つと後ろから後光がさすように見えてしまうから皆、感動するのです。それは演出の仕方としてある。
悲しいことを伝えるからといって、泣いて出てきたら何をやったのという感じになってしまう。それは舞台をわかっていない。出たときにどう振る舞えばよいのか、そこから自分の世界に持ち込むのにどうすればよいのかです。
それから言葉が本当の意味で消化されていない。たとえば「あなたに会えてよかった」、その「あなた」には全然思い入れがない。いくらでも言い方があります。それをいおうとしたら、その前後も呼吸から働いてきて、その中でもいろいろなことが読み込めるはずでしょう。
確かに心を込めていっているのかも知れませんが、その込め方が段落ごとのような込め方であれば、そういうふうにしか聞こえません。「あなた」ということの中にどれだけのものを感じられるのか、それで感じたものを出せるのか。舞台慣れしていないから、出せないのはよいのです。それは割り引いて見ます。しかし、今は入れてきたのかが問題で、入れてきていないものは出てこない。
頭で解釈し、自分でイメージして読むことは高校生の国語の授業でもやれることです。それは他人の作品です。表現することがそこに全然消化されていない。あなた方の世界になっていないから他人事になってしまう。伝わるわけがない。
そこにメロディやピアニストがついたら、もっとわからなくなります。歌は別にメロディがつかなくても伝わるわけです。ただそれはとても微妙なバランスの中で成り立っています。
こうやってコメントをいいますね。そういったものは相手はこう聞くだろうな、でもこう思う人もいる、こう思う人にはこうふさいでおかなければいけないし、こっちまで考える人もいるだろうから、こういう言葉も用意してやっておかなければいけない。そうしてきちんと自分の世界に戻し、重ねて伝えるために詰めていかないとダメなのです。
私は即興でやっていますが、皆の場合、台本があるわけですから、その中で観客までシチュエーションしてこなければいけない。それがステージ実習に来る客だからとか、自分の仲間うちだからと考えるのではなく、それを破ってほしい。仮にそうでない人がきていたとしても、あいつは面白そうだとか、言葉だけではわからないから歌わせてやれとか、その気にさせるものをおとしていくのが、勝負です。それが可能性といわれるのです。
あなた方の器はもっと広いはずです。その器はめいいっぱい伸ばしてみても壊れないのだからもっと伸ばしてみればいい。歌でも同じです。ここでもいろいろな曲をやりますが、それを精一杯大きくイメージで捉えて、全力でそのことをやってみたり、息だけでやってみたり、家の中で飛び回ってみたりして、体と一致させてきて欲しい。それでここにきたときにはそういう戦いが終わって、私は一曲ものにしてきたからこのように使いますというスタンスできてほしい。
作品はプロなら誰の作品を聞いてみても、それは作品として成り立っているものです。そこの前にある感覚を捉えてほしい。皆は、自分が思っているより大きく読み込んで、このくらい悲しいんだというのを、すごい悲しいところで読み込んで、このくらい出せば伝わるかなというのを、このくらい出さなければ伝わらないというところで練習してきてください。後はここに立ったときに自ずと正されるし、まとまってくるのを待つのです。
練習ではまとめろとはいいません。歌はまとめてはいけない。それを自分で計算して限定する必要はないのです。もう一度、そこのところで問題を見つけないと、一ヵ月たっても同じになってしまう。上達しようと思ったら、やったことの足りない部分に気づいて、それを補う努力をしなければいけない。
必要なのは復習です。予習はやり方がわからないとできない。それからイメージがないとできない。本番も全力でできないときもある。でも復習はできるでしょう。9割の人は復習をやっていないと思います。映像まで渡しているのに、そこに表れている自分が他の人の時間を奪っているわけです。あるいは、他の人の時間に何かを与えたわけです。そういう面で見てもらうと、もう少し声や歌での舞台の世界に入っていけると思います。
あなたがたがやって、通用すると思っているレベルでやると、高校の文化祭のようなレベルになってしまう。それでよければよいのですが、もったいない。それをやりつくしたあとでないと、本当の自分のものは入ってこない。
他の人に代われないものは、自分がどう感じたか、ひとつの詩をいくら他の人がこう感じたといっても、自分はこう感じた、そこは絶対にゆずれないところがあるでしょう。それをどこまで大きくできるかということと、次にどう出すかというのは、ここで若干勉強して補う必要はあります。
できなくても、常にその挑戦を繰り返してほしい。入れるだけ入れても、出るのは時間がかかります。でも出す努力をしていかないと出てこない。ただ出すのは、自分が楽になるというような感情などではない。
吐くことは、苦しいというか、かなり全身を使います。そうやって歌っている人達もいる。自分は苦しいけれど、お客はそれで元気づけられたり、そのことで何かを得られるというところで成り立つ。だからきちんと消化していかなければいけない。
それは皆の苦労話がお客さんを惹き付けないのと同じです。今日は熱を出したけれどきたから偉いんだといっても、誰も感心しない。
自分を知らなければダメです。いつもそういう条件に追い込まれます。その時間で表現していかなければいけない仕事です。そういうときに自分を知るにはどうするかということです。
毎回のレッスンでそれだけの心構えでやっていないと、いざ本番がきたときにチャンスを逃してしまいます。
どんな理由をつけても、そこで出たものしか評価されない。だから場に出続けることと、そこで何ができるかというのを、研究所の場と考えないでまず自分の足元の場としてやってください。
人間は考え方、意識ひとつです。せっかく入ったのですから、そのときの高い意識を高めていかなければいけないのです。これが20歳を過ぎるといろいろな言い訳をつけて制限していく。それはもったいないことだと思うのです。その辺から自己流というのが間違ってしまう。それは自分にとらわれてしまうからです。 心だけではやれないけれど、心だけでやれることはもっとあるはずです。心だけではやれないから、ここにきて感覚や声を磨いていけばいい。とにかく入ってまだ柔軟なうちに、自分の器をどんどん広げてください。どのくらい自分が伸びるかが一番大切です。
何を表現するのか、何が舞台なのか。そこで音楽や歌は何なのかを考えてみれば面白いはずです。そうすると何でも勉強になります。
落語の名人は、雨がザーッと降っている様子を本当にリアルにやります。皆は芸人ではないというかもしれませんが、そこに入ってしまった方が楽しいでしょう。伝わるときは、そんな楽して楽しいことはない。その戦いを経てがんばってください。
今の人達には第一に出続けなさいといっています。死ぬわけではないし、できなくても気にし過ぎることはない。印象に残らないので気にもならない。それを、あいつが失敗してしまったら、ここが成り立たないのに、といわれるくらいになってください。そういう人達がたくさん出てくると、皆のためになります。
それには、自分の準備としてやることをやる。それから映像を見てください。1年目も2年目も全然変わらない人もいますが、それに気づかなければダメと思います。そこに映った自分がお客さんに対する自分であり客観像です。昔は映像がなかったので感覚でやらなければいけなかったのですが、今は勉強できるのですから、昔よりは早くうまくなるはずです。
その準備にかける執念や生きざまがフラフラしてはいけない。迷うと苦しいでしょう。だから迷わないようにする。熱が平熱になったら出て、そうでなければ休もうなんて考えていたら、ずっと苦しい。行かなかったことで罪悪感も出てくる。
さだまさしさんが9時間聞くというのは、プロとしての意識と誠意です。相手の曲に対する尊敬、あるいは紅白で他の人の曲を自分が分け与えることの責任感です。それを早くもってほしい。入っていないものは出ませんので、入れることと出すこと、それからスタンスをしっかり決めていくことは大切です。
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<ステージ実習(1)>
選曲はこちらの責任もありますが、このようにバタバタ倒れていくようでは、半ばいじめているような選曲だったような気がします。他人のものほど自分のものにすれば、得なことはない。
1クラスはまだキラキラしているので、それが結晶化していくのが楽しみです。まあ、ほとんどそのまま磨かれなかったり鈍くなっていくものです。でも歌い手なら、たとえばこういう曲を与えられても、何とかしてやれる力がプロの人にはあります。こんな曲で練習しておけば、外国に行ったときにあなた方がバンドでやっている練習や勉強よりも、ある意味で、普遍性、共通する要素がたくさんあります。
日本のバンドは向こうに行ってもなかなかやれない。しかし、美空ひばりさんを聞かせると向こうの人達には何か通じてしまうというのはよく聞きます☆。
皆の中ではいろいろなタイプが出ているので、お互いに勉強になると思います。今日も自分中心にやり自滅してしまう人と他の人の歌をそのまま移し変えたような人が多く、それ以外のことができた人は少なかったと思います。声と音をどうデッサンするかを、ステージ実習では一番問うてほしい。
昔の検定は「ハイ」といって、その声が通用するかどうかとか、言葉が声や息を伴って、どう生きてくるかを自分で感じ、聞いている人がどう感じるかのところに特化していました。どうせ歌に使うのだからということで、今は歌で入れています。
今日もこの歌をひとつに捉えようとするととても難しい。その難しさがわかったかというのが、まず一点。声と呼吸を一致させるのはとても難しい。でもここが課題です。
日本人はほとんど体や息をつくることをやっていません。皆の今の限界のところは、みえてもよいのです。体や息がもう少しあれば持っていけたところやうまく出せたところがあります。こういう歌の場合は感情移入していきますから、もっと伝えたいと欲ばると声は出なくなる。声が不一致になります。
クラシックはそれを開放して離しているのですが、ポップスの場合はギリギリのところで出していく。だからシャウトになったり、感情が声を抑えてしまったりする。でもそこからギリギリ音楽としてゆずれない一つの線があって、それを自分でどう見つけていくかということです。今日は感情で埋まってしまった感じですね。この時期の勉強としてはよいと思います。
それから構成があります。このギリギリのところで出して、ピークをつくる。これが、クラシックの勉強や発声に偏ると、ギリギリもピークもつくれずに終わってしまったという、ことになりかねない。これは客にとっては何も起きていないのと同じです。だからこの歌の中でひとつのドラマをつくって終わらせるというのは、難しいものです。
何かやってくれるだろうというところで見ています。特に前半の人は詰めが甘い。そういう人は信頼を残せないから歌がうまい下手というより、見るのをやめようかという気になってしまいます。
誰よりも本気で取り組んできたということが、ひとつめの信用性です。勉強するのであれば、そこから入った方がよい。
悲しいというのは表現しやすい。歌は悲しいか楽しいか、愛の歌かくらいしかないでしょう。楽しさを出すとか本当の愛を伝えるというのは難しい。これは役者同じです。
それに比べたら怒りや悲しみの歌は、まだ入りやすい。当人が内部で昇華しないということは、歌ったことがカタルシスにならないかということです。それをそのまま投げ掛けられても、こちらの具合ももっと悪くなってしまう。きちんとドラマをつくって、開放させてあげなければいけない。歌の中でそれが起きているのです。そこで伝わるかを問うのです。
だから誰も聞きたくないものや物まねのようなものを排除したときに何が残るかをやってきてください。
感覚の変化を見ています。それを課題曲の中で勉強してほしい。ただ歌っているだけでしたら、駅前で歌っている方がよい。ここにきて歌う必要はない。独りよがりになっていると本人はわからない。
足もつかない人がいますが、仲間うちで認められればよいのでしたら、仲間を集めて歌っていればよい。それではしかたがないから、一番ダメです。そこに本人の思い上がりが出てしまうからです。それは白々して、声がうるさいだけです。それをどこで外すかは、研究所に来るひとつの目的だと思います。心がこもっていなければ声の暴力にしかすぎない。
だからといって思いきり歌ってはダメということではない。ここは実験の場です。曲の中にきちんと入ってください。他人の歌を他人らしく歌ってもしかたがない。
こういう歌の場合も問われるのは、日頃の勉強です。このとてつもない、救いのない歌をどう解釈して独自性を自分でつかむか、それが創造力です。それは音楽能力や声の力によって出される。
ただイメージの部分が使えていたら、可能性で聞けるのです。ありったけの力だけで歌うと、限界が見えてしまう。こいつは何を歌ってもワンパターンだとなり、2番からも聞く気にならない。それだけいろいろなものをたくさん持っていなければいけないということで創造していかなければいけない。
ステージ実習で一番感じてほしいのは、声と音のデッサンとその呼吸です。だからフェイクしてもメロディを変えてみてもよいのですが、すでにその音楽には成り立っているメロディやコード進行がありますから、それを見ないで変えてしまうのはよくないことです。
スタンダードで一流の歌といわれているものは、そこから引き出せる何かがある。それを目隠しして見ないのなら、自分が歌っている歌と同じです。その中に呼吸や声がどう入っていて伝えたかということをやっていかなければいけない。
マイナスが多すぎるのも、馬鹿正直な時期があっていいと思います。トップのクラスは隠そうとしたものをこちらが見破っていかなければいけない。
皆の場合は映像を見たときに、あまりにも正直すぎて誰でもわかる。そこをまずはマイナス点から省いていけばよいと思います。それは見せる必要はなくカットして、プラスのところだけ重ねていけばいい。
楽譜をもう一度きちんと読んで解釈をしてください。なぜそこはそういう音符が使われているのか。歌詞もアレンジも古いですが、棒読みのような歌い方はどうしようもない。ベタッとならないことです。
言葉でいったのを歌にすると表現力がまったく欠けてしまっている。それなら言葉でいった方がいい。皆のレベルでは言葉でいった方がいろいろ学べることが多いと思います。1、2ヵ月が過ぎたからといって、歌に入らずに徹底して読みをやってほしい。それが音や声に変化するところをきちんとつかんでいってほしい。
自己満足、自分のクセだけで歌い上げてしまう。これはオリジナルの声やフレーズではない。自己満足でないものは、伝える力があるし、自然な声の出す力でもっと取り出そうとすることです。
それから音楽も誰かがつくったもので、そう動こうとする力があって、そういう曲になったのですから、そこの部分を考えていくことです。
ひとつひとつの歌詞にこだわってほしい。構成や展開から、もっと解釈してください。どう歌うのかを徹底的に書き込んでほしい。
アテンダンスも書いたからどうということはないのですが、書くことによって来年同じレベルのことを書かなくなる。自分の中に漠然とあるものをはっきりつかまないとそこから抜けられない。行動しようと思ったら、頭できちんとまとまらないとできないでしょう。そういうことでいうと、言葉にするというのは基準づくりです。判断はそういうところでなされる。
すぐれた芸術家は別に文章が勉強しなくてもすごい言葉を書くし、すごい文章を書きます。そういう判断力はつけてください。
声で伝えるというのが成立したかどうか、この曲を題材に見ていってください。第一に感覚の処理、たとえば「we are the world」を見たと思いますが、その中でパートを与えられたら、自分の感覚で出すでしょう。そのときこんな歌い方をするのかとか、デュオになったらこんな外し方があるのか、という感覚がおもしろいでしょう。
感覚のところのイメージがなければ声があっても使えないし、その声が出てくることがない。必要なのは、感覚の処理とアイディアです。原版があり、たたき台になるのですから、スタンダードをきちんと使ってほしい。伝えようとしたら限界が出てくるから、体力や技術、精神力が必要になったりします。
声はひとつの要素にすぎません。そこを間違えないことです。よく聞かないでつくってしまう。これが最大のミスです。
さだまさしさんはスティービー・ワンダーの「奇跡」を9時間聞き込んだという。歌詞つくるのに、自分に消化されるまでにそれだけかかった。そして2時間でつくれた。消化されれば出てくるわけです。それは準備や経験も必要だと思いますが方法論がある。下手な人ほど最初からつくろうとして、10時間どころか、1時間でつくって全然ダメという繰り返しをしてしまう。自分の中のものがまだわかっていないのです。
課題曲は大切にしてほしい。同じ曲をやっている人がこれだけ出たら、その中で他人の感覚を読み込めるでしょう。自分で練習してきて初めて、他の人の感覚が気づけます。それをやらずに自分のバンドのオリジナルだけをやっていたりしたのではなかなか気づけない。
いつも自由曲の方が選曲ミスが多い。課題曲の中で出てくる自分の味が、生かされるために自由曲を選ぶのが本来なのにできないからです。自由曲の選曲は大体好き嫌いであったり自分に入っているものとかです。それは才能のいかせる曲、自分の歌える曲ではない。
昔は自由曲で道場やぶりのようなことをやっていた人が多かったのですが、道場とはどういうものかがわからないと成り立ちません。道場、その道、その場です。それから自分の歌にきちんと負けないと勝つことができない。それが通じていないとかでないということから、突っ張ってやっていけるわけです。
今日の中でもいくつかの言葉は聞こえてきたし、メロディに聞こえてきた。認められるということを自分達の中できちんと回していってください。研究所は他と違って、外国人にも共通している部分で、息、音色、その支えがあるかというのを見ています。
声の響いているのが歌ではなく、息が通っているのが歌だという見方です。心が動いていなければいけないというのは、前提です。それが声や歌が動くことにつながる。全体が捉えられていて、その人の中でひとつに捉えられていないと、歌はバラバラになってしまうのです。曲をひとつに捉えるのは難しいことです。それはイメージの中でやるべきです。とにかく自分でひとつにまとめてみて、それからもう一度構成の最高の形で生かしてやる。
外国語でやっていくのもよい勉強になると思います。デタラメなイタリア語でも、見よう見まねで聞き、それで発してみると、日本語で発するのと、感覚が全然違ってくる。その感覚、違う感覚をぶつけていって、自分の中の感覚を磨いていくのが一番大きなことです。それをやらないで、何年もその辺で流行っている曲をまねしてみてもダメになる。
宇多田ヒカルさんの曲を台湾の人が歌っているのは、とてもうまいのです。なぜかというと、彼らは息がある。韓国や中国の言葉も息を吐きます。その息で子音中心で動かしていく。音を聞き分ける力もある。
研究ということでスタンダードナンバーを徹底してある時期、やってほしい。あなたを判断するのは、外国に行って彼らを判断する力の5%くらいでわかってしまう。力をつけるにはトップレベルのものをしっかり判断することです。どこがよくてどこが悪いかも含めてです。場も曲も与えられているのは基本の設定状況ですから、それを打破するためにどうするかです。
MCがきちんとできていないと歌にならないといいます。歌だけが成り立つということはない。コンサートでも人間を観に行くのです。そういう状況の把握力は、ここはかなり限定されているから、明らかに差が表れます。
スタンダードなナンバーの場合、メロディ、歌詞は変えてもかまいませんが、なぜ伝わるのかを見てほしい。ある歌い手の場合よく伝わる。その歌い手のどこかの部分は、もっとよく伝わるし、逆に伝わらないところにも基準をもってみるのです。
きちんと結晶化させることが見えていないから、無駄が多い。映像を見てやってください。こういうところでも他の人を見ているのですから、その中で伸びる力は何かを、いろいろなことが勉強できると思います。
「下のクラスから、上のクラスと比べてクリスマスライブで差がありますか」と聞かれました。結局そういう質問は自分をわかっていないのです。差があるかないかは点数でつくわけではない。それがわからないから、あなたはまだそのくらいということなのです。MCひとつで雲泥の違いでしょう。
上のクラスの人達の評価を、彼らが自己反省するくらいのレベルで評価できているかを見れば、自分に対して修正をきかせられるのです。伝わる人なら、声や歌はその何十分の一、感覚を伝えるために最小限あればいいものです。それがわからないうちは声や体だけを鍛え、テンションを高くすることが大切です。
ここで古く暗い歌を与えられたときほどチャンスだと思ってください。決して悪い歌を与えているのではない。とてもよい歌です。ただ、あなたがやってみて蘇らないことがダメなのです。
腹話術のいっこく堂さん同じで、その人が最新の時代を呼吸をしていたら、芸は蘇るのです。何を取り入れてもあなたが今を生きていて、それを人に伝えることに焦点を当てていたら、そんなに間違わない。
トレーニングの時期は部分的なことをやるので、中心より部分が中心になってしまいがちです。それを戻すことを考えなければいけません。自分だけに通用するといわれるもので勝負しなければダメです。
皆にとってみれば、研究所の中でも勝負できる。そのレベルの方を巷より、ずっと高くしてはじめて、ここの意味があると思います。
早くやりたいのであれば、なるだけ根本のことだけを見ること、そして人のやっていないことは決してステージでやらないことをやった方がいい。
古い曲に対して新鮮に思われるにはどうすればよいのか。雑なのはよくない、でも思いきりやると雑になる。それはここでは長期的に見ています。でも心はていねいに入れて、どうやって次につなぐかを見ていくことです。
次につなげたら勝負は勝ちです。大体の場合はそこで見切られてしまう。この前フェイシャルアドバイザーという人に会いました。相手をパッと見たら、口元の表情や言葉の使い方をどう直せばよいのか、細かく注意してくれます。
その人がなぜ女優さんはきれいに見えるかについて「人から見られているからでなく、それはどう見えるかを瞬間瞬間に全部知り尽くしているから、そういうふうに演じられる」といっていました。少なくとも舞台に立ったときはそういう状況の把握力、演出が自分でできる。これが大切なことだと思います。
歌い手でも誰かに使われて終わってしまう人とそこで仕切れるようになる人がいます。歌を仕切れるようになることと同じことに思います。だからスタンダードのナンバーからもっと勉強してほしいのです。月に一度勝負をかけるということで、体の管理からテンションの高め方まで、24回勝負ができる。レッスンも勝負と思えばもっとできます。そうやって知っていくことです。知らないと直らないからです。
さだまさしさんは1曲の訳詞に9時間聞いた。さだまさしさんの曲より自分の方が大切だというなら、自分の映像も9時間くらい見てください。徹底して見てそうでなくしたいと思ったら、人間は変わっていく。それを見ないから変わらないのです。
あなた方の中で起きたことは客も見ていない。飛んできたものしか伝わらない。そこをあなた方が見ないで誰が見るかということです。
トレーナーに頼るのもひとつの方法ですが、私はあなたを写し出す役割に終始しますから、そこから気づいてほしい。その気づき方を教えられたら伸びなくなってしまう。それは他人のノウハウです。私も気づいたことはなるだけいっていますが、それは歌のフレーズと同じでひとつのタッチにすぎません。
上のクラスになると私のコメントは、ただのぼやきです。本当はもっと細かいところでコメントしたいのですが、その方が広がりがあってよい。今はステージということ音声ということ、音の中で何が起きているか、その人の体の中で何が起きているか、そういうふうに見ていってください。
そのちょっとした違いで伝わる伝わらないが決まる。それはわからない人にはわからない。司会者でもそうです。わからない人が司会してしまうと、最後に「ありがとうございました」と言い切れば終わるのに、それが出てこないから、モタモタしてしまう。お客さんがいい加減に席をどこで立てばよいのかわからず後味が悪くなってしまう。いつも見ているはずなのに、それほど人というのは自分のことを気づかない。
だから皆の仲間を、それほど体の差がないうちに今から見ていってもらえばいい。いろいろは比較で見方が入ってきます。仲間から、人生も歌も生き方も学ぶのです。
場に出て、少しの役割しかないのは退屈かもしれませんが、劇団や映画では、一言しかせりふはもらえません。そこで輝いてこそチャンスがくるのです。
そこで自分が学ぶ気になればたくさんの場に出た方が学べます。すぐれた歌い手はそういうことがわかっているのでしょう。
私の場合あまりすぐれていないので、他の人をわからないというより、他の人から学ぶよりしかたない。こういう研究所で何百人も十年も見ていたら、わかるようなところは出てきます。皆にも同じような環境を与えていますので、どう使うかは自分次第です。
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<ステージ実習2>
今あなたのやっていることは大切なことです。たとえば「ワイングラス」を音の世界でどう表現するのかというのを徹底して凝りなさいといったのです。2クラスは私の位置づけでいうと、やりたいことをやって、元気を飛ばせたらよいと思います。
ただ歌はひとつの世界としてある、そういう面から半年先に向けていいたいことをいってしまいます。
今あなたのやっていることは、たとえばピッチャーであればとりあえず外角の上の方に投げようとかカーブで外から入って左下に落ちるようにしようというようなことをきちんとやっているところです。しかし、欠けているのは決め球です。どうしても不完全燃焼に見えてしまうところがあって、これはしかたない。部分をやっているのがトレーニングですから。
あなた方が受けている私のレッスンは、ひとつのフレーズを完結させて、それを完成させろということで、全体を構成する時間はほとんど与えていない。ただ、覚えておいてほしいのは部分の完成は結果的には次の部分につながっていかなければいけないということです。
役者であれば今日のステージで、もっと深く練り込めばよいと思います。そこから深くいくのかオリジナルのフレーズの流れにいくのか、これば難しい。
1のクラスで正さなければいけないのは、クセ声で歌っているところです。それは自分の思い込みのフレーズだからです。あなた方の場合は声をつかまえていっているから、そこで次のオリジナルのフレーズに入っていくのか、よりつかまえることをしっかりつかまえるのかということでいうと、今の段階でよい。
もちろん歌としてはベタになってしまうのです。もっと動くべきところが動かなければいけない。次の流れを出すがために部分を犠牲にしなければいけないというのが歌です。
一流の人は部分をきちんと完結させながら次に進んでいく。次に進み、おとしていったら部分が完結していくのですが、部分を練習しようとした場合、全体の流れがいい加減になってしまう。だから、それは表現の意欲によって引っぱられるべきです。
3クラスはていねいに扱って、ただ実際には、失敗しているのです。それはどうしてかというと、次の流れを予期していないところでそこで止まってしまうからです。だから全部切れ切れになってしまっている。形で抜いていないのはよいのですが、流れで抜いていかなければいけないということです。
たとえば、私がバッティングセンターでいくらうまく打てたり、筋肉番付で確実にとれたとしても、プロのピッチャーに対しては、絶対に勝負できる関係が成立しない。それは心理戦での勘だからです。
組み立てということです。勝負は心理的な駆け引きです。そこで相手が思っているコースとどれだけずれをつくって、決め球に追い込んでいくかという勝負をつくっていくわけです。バッターもピッチャーの感覚、あるいは投球の組み立てやくせなどから球を予想して、自分のフォームに巻き込んでいくわけです。
歌でそういうことを今の時点で問うても、いい加減になってしまうだけだからしかたがない。ただ、ゆくゆくはそういうふうにしていきたい。
決めつけが決めつけたままで終わってしまっています。一回ひっくり返すことを本当はやっていかなければいけない。積み重ねの計算のところが成り立っていないので、バランスで入れて、呼吸や声から本来は発生してくるものが、解釈をしたり思い込みの中で決めつけ、自分がとらわれてしまっている。そのため、どうしてもぶつ切れになってしまう。
いろいろな歌い方があって、たまたまこの曲は力でねじ伏せたり外してみたりする歌い方ができない。そういう方向にいく場合の人であれば、これでもっと馬力をつけて押せる場合もある。ただ、今日の場合はそれを考えていったらアウトになるから、こういう曲は選曲しないということになります。
今のようにミートしていかなければいけないという場合には、よい。ピッチャーで理想的にいったら、わからないけれど球が走ってしまった、バッターでいうとそれをキャッチしてのせて運ぶのが、あてるとかミートするというより、次元の高い状態だと思います。それが自分の思い込みではないところで成されていることを、どこかで感じられるようにしていくのです。
場に出てやってください。たとえば、課題曲はどちらも展開があります。あなた方のサビは、ここでただ弾けているだけ、不発花火みたいなものです。サビというのはそこから大砲のように飛んでこなければいけない。そこで方向性が前の方に出てこないということは、その前からそういう前提で組み立てていない。
よく声が出る人で、自分で歌がうまいと思っていて、自分だけで歌っている人がいますが、嫌味に見えます。あなた方はそれだけのテクニックがないので嫌味に聞こえないのはよいのですが、あなた方の中での弾き方で終わってしまっている。それを2度やってしまうと次もそうかとなり、そっちで好きに弾けているものは私達には関係ないというようになってしまうのです。
その原因は前後の組み立てもあるし、歌の集約度もあります。一言でいうと、全部歌おうとするがためにどこも伝わっていないようになってしまうのです。これは歌の秘訣みたいなもので、歌はひとつのことを伝えればいい。一ヶ所を伝えればよいのであって、そのために前後の組み立てがあるのです。ドラマと同じです。
一番ポイントになる芯があいまいになってしまうのがよくない。最初から感情移入する、ベタで歌っていく、握ることは大切なことなのですが、それに足をとらわれてしまうと歌自体が大きく動かせなくなってしまう。
その辺をいろいろな人がいろいろなやり方でクリアしています。すぐれた人は適当に楽しんで歌っている。それでいながらも部分的にも完結しているわけです。完結させようと歌っているのではなく、ただ音楽性が豊かだったり声のテクニックがすぐれているから、放り出していったらしぜんと完結して最高のものになっている。
それを今求めているわけではない。ただ、感情移入と感情移入のクセは違うわけです。感情移入のクセが歌を決めつけてしまうと、とてもつまらないものになってしまう。
音というのは独立して成立しているわけです。ピアノで一音弾くと、この音が響いて重なっていくわけです。これば一つの音よりも三つ重なるともっときれいだとなっていく。繰り返しでさらに効果が高まる。
歌も同じです。そういうところが雑になってしまう。
一番の原因はリズムの問題、これが大きいです。もっと早く踏み込まなければいけないし、もっと早く離さなければいけない。だから、根本は呼吸のことなのです。一つのグルーヴ感の中でバッと入って離すような感覚の中でやらなければいけないのに、あなた方のリズムはまだカウントのリズムです。呼吸の上のリズムではない。もっとより体で感じなければいけない部分が出てくると思います。
その結果、歌の中で遊べる余裕がない。悲しい歌だからといって全部が悲しいわけではなく、歌の中では遊んでいるわけです。そこで何かしら余裕や余韻をみせたりするためがよいものが出てこなくなってしまう。これだけ深くうねり込むというのは、次にバウンドしてキャッチするまでの間、ポップスの場合はキャッチしなくても、跳ね上がって下りてくれば、歌の大きさが、聞く人には見えます。
ベタで馴らしていくと、結局どこで展開したのかわからない。起承転結は考えているようですが、それが杓子定規になっている気がします。それが声のクセやフレージングのとり方のクセから出ている人もいます。
声の動かし方を試みているというようにとると、1クラスのステージ実習にしては充分だと思います。ただ、練り込みや動かし方の実験を見せるのがステージではありません。それは家でやってくるもので、厳しい目でみたら作品として、本当の意味で歌が聞こえるということではない。
歌が聞こえるというのは、それが自然だし無心に見えるときです。開かれていないとダメで、ものすごく難しい。決めつけたものを全部否定してきて、その場のところでやってくるのが大切だと思います。
冗談でも、頭の中ですごく面白いと考えて、MCでやろうと思っても、この場に出てやれる雰囲気ではないとなったら、パッと切りますね。それと同じで歌も判断し修正できればよい。すべてはここにきてみないとわからない。受けるべきところが受けなくて、受けなくていいところが受けるということは起こる。それをその場で修正していく。
その基本となる、音やフレーズというのはそれなりに力を持って独立して成立している。ひとつの有機的な働きとして歌があるわけです。表情をつけてもらうのもよいのですが、似てきているのはよくありません。
表情の裏側ではいろいろなことが起きているのですが、それを伝えようとしたときに、その表情が一瞬に変わるような動きがないと、聞いている方にはわからない。
今、いっている注意は顔のことではありません。あくまで音の表情です。より早いリズムとはどういうことなのかをやってほしい。リズムをカウントして狂っていけないのは、楽譜的に見ても当り前で、その中心は当たっているのですが、そこを当てるために前後のところに1拍とってしまう人と、その中心だけを頭の中で完全に把握していて、その上でずらしたりする人がいます。
たとえばビブラートはそうでしょう。美空ひばりさんのビブラートは半音下と半音上が揺れ、両方の音を巻き込んでいるが、その中心はその音から全然動かないといいます。だから狂ったとは誰も聞かないし、音感がいいと聞く。そのまんなかのところだけ出したら、ビーッという機械音です。それは動いてこないし働きかけない。
リズムも似たようなものがあって、ミーナはそういう部分では鋭い人です。歌詞がどうであってもこういう展開の中でどういうふうに見せていくのかの手本です。ミーナが遊んでいる部分はたくさんあります。しかし、決める部分ですごく集中しています。
同時にできるのかわかりませんが、あなた方が今やっているところで深い声や体の中でリズムが生み出せるところまで徹底的にやるのも方法だと思います。ライブなどでは皆も展開してやっていると思います。それとは全然反することではない。
ここでやっていることとライブは心構えが違っているかもしれないし、ここはここなりに評価される歌い方を考えているのかもしれませんが、ベタになってはダメです。それは生きていなければいけない。いつもオリジナルの声とオリジナルのフレーズの格闘みたいなものです。両方が一体になればよいのですが、なかなか難しいことです。
舞台の中で気づいて、構成をもう一度考えてください。配分の問題もあると思います。もっと集中して練り込んだり、サビのところを大きくつくってくれば他のところはその大きさの下のところでおちてくるわけです。それが強弱リズム、あるいは向こうの言語の感覚です。
サビでそこまで大きくしてしまったら出だしの息は小さくしか始まれないだろうというくらい大きくイメージする。そうしないと歌一曲をひとつに捉えるのは難しいと思います。
勝負は相手を三振させなくても打ちとればいいわけで、その組み立てをどうするかです。タイミングをずらしたり駆け引きをする。歌でも同じだと思います。野球はチームプレイですから、一人でやっていると三振をとることしか考えなくなってしまう。そういう面でも歌もいろいろなやり方や要因があります。
完成させるのにどこが足りないのかは、一番ベースでいうとリズムが甘いことです。こういう曲は特にゆっくりやりますので、逆に鋭いリズム感を持っていないとリズムでごまかせない。一回早くやって曲をつかんで、それで遅くするとか、より遅くやってこのくらいのテンポが早いと思えるようなテンションのところでやるなど、自分の感覚をいろいろ化かしてみて、そういう中で一本通るものをつかんだ方がいいと思います。
本番がうまくいくかどうかは別です。こういう歌は変化してきます。来年歌ってみるとまた違う感覚になるでしょう。それは勝負どころが変わってくるからです。一通りこういう歌を踏んでいくとよい勉強になると思います。ここに立って自分がそういう気持ちになれば、そのまま歌が出るのが理想です。
皆も勝負の寸法を自ら実験して捉えてください。2つの方法があります。無理なものにチャレンジしてみてどのくらい足りないか知る、もう一つは自分の寸法に合わせて3番まで持たないから1番で勝負するということ。いろいろな声の表情は出ていたのでそれは大切にしてください。あとはすぐれた歌をたくさん聞くごとにいろいろなことがわかってくると思います。