一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レッスン感想・おすすめ・投稿 21166字 117:118

レッスン感想 1177

 

 

リズムにことばをのせるのでなく、リズムがことばを生み出す。何を歌っても“自分の歌”になる。リズムで取る―“引っ張っといて出す”のか。 “出してから引っ張る”のか。その二方向しかない。強さ(EX.ピアノ→打つ力でなく打健の)スピード。

 

フレーズ―息を吐きすぎちゃったり、いきなり入れすぎて後でもたなくなったり、全体をみて歌う。フレーズに入り込むほど、やはり無惨にあごが上がっている。悪癖。キィあわないときの対処の仕方。トランスポーズするのかよりことばに近づけるのか。考えて、はっきりさせないといけない。歌の“動き”やその“元(素)になっている感覚”を、人は聞いている。

 

ぜんぜん気を使わない状態でしゃべっている声(地声、呼吸のリズムetc.)。そこのところじゃないと、息がのっていかない。気を使わない状態から離れていたら、そこでもうNG。自分がしぜんに声を出して(しゃべって)いるときの状態を分析して把握しておく必要がある。気を使わない状態でしゃべっている声。(フレーズ)ことばでのふくらみ、流れなどをつかむ、感じる。雰囲気に流されて読んではいけない。あくまでしぜんに。

 

しぜんに聞こえるようなフレージング(=少しでもふしぜんだったらNG→何だかわからないやりにくさ、嫌な感じの原因を追求する。それが消えたときに、完全に自分のことばになる。まず、“何をどう伝えるのか”より、“完全に素の自分をどう取り出してくるか”に集中する。)(=字面(じづら)にとらわれない、余計な抑揚をつけない。“どう読むか。そのねらい自体をはずす)声、ことばのタッチ-“文字を伝える”。

 

歌のイメージの強さは、歌詞をことばに置き換えて読むことで測ることができる。(EX.「小さい頃は神様がいて、不思議に夢を叶えてくれた」、「でも今は違う」のか。 or 「今でもそれは変わらない」のか。裏側(言外)によって、ことばの表現が全然、変わってくる。曲中の登場人物の違いによる歌い方の違いがOKな場合と、NGの場合。リアリティの追求が判断基準+その表現をする完全な必然性→歌い手のセンス。 

 

聞こえるところだけを聞こうとすると、“聞こえないところ(見えないもの)”が聞えなくなってしまう。=中のモノ(=heart)。これが動いてないとつまらないモノになってしまう。「少しは 私に 愛をください」どういう感情(heart)を伝えるのか。 それにはどうすればいいのか。(キィ、フレージング、息、テンション)どこで心と体をぶつけるのか。 

 

最初(フレーズに入る手前)で息をきっちり入れて体で支えてやれば、体はキツいけれど、そこから上は逆、自由になれる。プロ、鈍い感覚をみせることを徹底して拒否する。実現できるか否かは別として、演ろうとしたことに対して、自分が演れていることを感覚として知っておく必要がある。ああトランスポーズ。どうすればマシになるのか。

 

すべてここに気をとられてしまっている。“入れる”ベクトル(=フレーズのディレクション)「もいちー(まっすぐはない、先をよまれてしつう)ど わたしに」「もいち(出しておいて引っ張る)どわたしに」 or 「もいち(引っ張っておいて出す)どわたしに」 歌の出だし、何も演っていないような感じ(=ニュートラル)になっているのが一番―最初からいろいろ演ったり動いたりしない。 そのあとの音楽的な部分で、ほんのちょっと動いただけでも効果がある。 

 

アクセントが大切だということ、アクセントの一番強い部分をしっかり発音すると、他の部分が少しあいまいだとしても、大丈夫だったりするということ。「r」などの特徴のある発音に意識がいきすぎて、アクセントを無視している場合が多いこと。

 

英語には英語の流れ、日本語には日本語の流れというものがある。その英語の流れというものに敏感になるということ。流れを聞いてみること。英語の歌は、単語のアクセントのところで、リズムのアクセントもきているということが多い。そういう意味では歌いやすいということ。そういうこともきちんと感じられるアクセントの一番強い部分で、ゴムをグッと下に引っ張るような感じで発音するときれいに発音できる。

 

ストーリー性ある歌詞の曲、ストーリー性のある解釈・表現の一つの基本的な方法。

(1)登場人物についての「履歴書」をできるだけ詳細に、推測、想像して書き記す。曲のなかの世界と人間にリアリティを持って接近していくこと。

(2)詩を読み、曲を聞く中でストーリーテラーのような客観的立場から伝える部分と、自分の思いを重ねる。いわば主観的な部分を自分のなかで、明白に区別してみる。(もちろん自分で歌ってみて、感じながら決める。)それ以前の要素として重要な点。

(3)自分の歌うメロディ・フレーズが曲の「自然な流れ」と重なるか、マッチするかをさまざまな視点から確かめること。つくり過ぎていないか、壊してしまっていないか、流れているか、乗っている(グルーヴが出ているか。)

 

1.まず声を見る。自然の声か。2.keyは合っているか。3.フレーズとフレーズの間の「つながりの音」があるか。4.フレーズのなかで、ポイント、点をとっていくのは前提。そのなかでの集中力、特にフレーズの入りと末尾のていねいなタッチを心掛ける。切らさないこと。

 

今回のレッスンでは、主に、歌う上でのマクロ的な側面が強調されていた。「フレーズの集中力が後半切れている」という指摘はまったくその通りであった。ただ主に後半の部分のメロディが、まだ頭に入っていなかったため、その場で不安になってしまったことが直接の原因だった。しかしこのことを逆に返せば自分はなぜ、後半を聞いていなかったのか、おぼえられなかったのか、という問題があろう。結局、聞けるところしかレッスンでも聞かないし、聞こうとしていないことが露呈された。できることをやりにきたわけではないはず。

 

トレーナーの先生に質問をしたときの、自分の救いようのなさ。「曲のなかで、自分が一番勝負したいところ、見せたいところで、特に盛り上るところで、何を意識すればよいのでしょうか。声の力。イメージの力、体全体のエネルギー、思い、それとも無心、あるいは本当の意味で、これらすべてを意識する瞬間としての“全力”ですか」答え「はっきりいって、たとえば歌っているポール・マッカートニーが考えていることなど、わかりようもないし、わかる必要もないのではないか。そういうことはわからないもの」結局、自分のなかで何が本当の問題なのか、その周辺の問題はどれで何が目的かをはっきり区別してからでないと、自分で何を尋ねているのかがはっきりしない。

要は決定的な練習不足で、考えているようで何も自分で考えていなかったということ。「自分」がやることにまったく自覚が持てないのは、準備段階に特に自信がないから。気持ちだけでは、話にならないということ。ショックだった。 

 

声についてもう一度。声について。1.仰向けに寝て、まったく全身の力を抜くところから起こしていく。2.のどを開いて発声すること。3.しばしば考え過ぎてわからなくなる。舌の位置と使い方について。姿勢について1.壁に背をつけて整える。2.脱力しながら、2、3回飛び跳ねてみる。3.ダラーッと立ったところから前屈して、そこからリラックスしたまま体をゆっくり起こして整える。

 

フムフムと聞いている我々。メモを取る人もいる。新しい知識のような、何度も体で読んでいたことのような。しかし、一体、この場で他の誰か、いや、私がピアノの前に立って、誰かに対して、どれほど声の構造について語れるだろうか。どれだけのトレーニングメニューを提示できるのか。何か確かなものを声について少しでも獲得しているのだろうか。あまりに違いすぎた。結局、トレーナーは私の何倍、何十倍もの難問や問題意識、関心を声についてもってきたのだろうし、考えてきたのだろう。この、いわゆる先生方と私との間の、「キャリアの差」という問題については、ことあるごとに痛感させられてきたが、それを発見してから、一体どれだけの時間になるだろう。「ああ、確実なところから、もう本当に最初の最初から積み上げていかねば」そう思ってから、一体自分はどれだけ確かなことができただろう。S先生から「とりあえずリズムをいうものを」と指摘されてからも久しい。それでもまだ、バットに見立てた竹竿を振り回すような練習ばかり。一体何をやっているのか。

 

トレーナーの先生にレッスン終了後、質問をしに行く。「自然な呼吸をしようとすればするほど、手足の方にしびれがくるような、頭の方にもしびれのような、それでいて、どこか心地よいようなことになるのですが、この発声は本当に自然なものなのでしょうか。あるいはこうした感覚が、先生にもおありですか。」(少しわかりにくい質問)「軽い酸欠じゃないかな。声を聞いてみないとわかならないな」「ああそうですか」(何じゃあそりゃあ、思い切って先生の前で出してみろよ)「声を出すときの意識のポイントは、胸のあたりですか、体の中心のあたりにおくべきですか」「目的によるよ。結局、人によるんだよ」この対話のなかで、何か一つの「答え」のようなものを探ろうとする私と、何を歌いたいのか、どうなっていきたいのかが明確じゃないと、そうしたものは決まるものじゃないし、決めるものでもないという先生。結局のところ先程の「確かなトレーニング」というものは、何も「答え」を探すこととは限らないし、わかりっこないものであり、そのままではやはり「確実なもの」にはならないだろう。その意味の「確かさ」とは区別したところで、自分がどうなりたいのか、もっと具体的に、どこをどうすればよいと思っているのか、そのトレーニングの目的は一体何なのか、ということを徹底的に詰めておかないと、いままでの延長になってしまう。あたりまえのことが見えなくなっている。何がしたいのか、客観的に見てわからないものになってしまっている。「研究所」にきているのに、その「研究」の姿勢を殆ど失いかけている。

 

歌詞の「感情表現」日本人は“引いて捉える”演技をしやすいが、歌のなかでの詞の表現は、思い切りイメージを「前に出していく」こと。私も普段“静かな表現のなかの感情表現”に頼ってしまいがちだが、やっぱり“前に感情を出す”という感覚になじみが今までなかったからかもしれない、と思った。また、曲のイメージを感じて出すときも、そのイメージ自体があいまいなために、全てがグラついてしまうと思った。「しっかりした1本のイメージ」をポンと出せるようになっていきたい。

 

「曲の輪郭」を捉えていくこと。全体像をしっかり捉えて、その全体のなかで、どんな構成になっていて、どんな展開が繰り広げられていくのか。「音の流れ」「1音の変化」にもっともっと敏感に反応していかなければならない、と思った。 

 

ノリを出すというのは、どこを強くするとか、そういうことではなくて、自分のなかに音楽を通して体がそれを刻んでいて、そのなかで歌うという感じ。うまく言葉にはできないけど声はただ踏みこんでメロディを歌えばいいのではなく、その後ろの伴奏をイメージで流し、そこに入りこんで歌うということ。裏拍を感じるのは大事。でもさらに細かい裏の拍を感じ取った気がした。そうすると勢いが勝手についてきて、それに任せてしまう。

 

トレーナーさんは「はねる」といっていた。裏のノリを感じるとはねる感じになるのだという。実際やってて、そんな感じになれたときもあった。リズムはわけのわからないことだらけだと思ったたら、今回のレッスンでこの迷路から何歩か先に進めた。かなり疲れることだ。今までこういうものだとはさっぱり気がつかなかった。これからわからないことをわかるようにすることと、今回発見したことをより確実なものにしていきたい。リズムは奥が深い。踏み込んだ後、体はそのままで息やヴォリュームを変えていくこと。体の力を抜いたりしないこと。踏み込むと形ができるが、そこだけ強くしてバランスをおかしくしないように。リズムはゆっくりやるほうがいい。ゆっくりやりながら、フレーズの形を大きく創る。今回いろいろな発見ができたのは、いっぺんにたくさんのことをやろうとせず的を絞ったからだ。狙ってやったらそのことに関してはできがよくなるということ。ただ一つのことしかできないと困るので、狙う一つのことを変えながら、リズムや表現をやっていきたい。 

 

口を開けるということで、あごを下に下げたり力が入ってしまうのは全部間違い。本当によい開き方は笑ったときの状態らしい。そうすると上に開くことができる。あと私は方が上がりやすいのと、胸を張るという点に注意しよう。足も肩幅より広くとらないこと。体を使うと硬くなりがちなので、そのへんも少しずつ直していきたい。口を上に開くと、喉にかかったような声が出る。体の負担はあるのに。これが頭声なのだろうか。とりあえず口を開けてたくさん声を出して、それがどういうものなのか、理解していきたい。 

 

アルファベット。全部丸くとって、一つ一つ全部吐ききる。PHONICS a(Iに近い。口のなかに長方形が入るように)。f(Iくちびるをかむ)←フレーズのなかでも強く意識する。h(息のみ)。i(Iに近い、胸を入れる)。k(胸に入れる。でも上のバクハツも必要)。p(ハレツ音のみ)。ng(鼻にかける)。Going to=gonna

 

最初のコーラスのフレーズは同じ一つの言葉でずっと続いていくので、音で変化をつけないとまったく単調に聞こえてしまう。もっとも言葉がついた場合でも音で表現しなくてはいけないのは同じだから、単にバレやすいというだけのことだけで、だから、こういう練習はときには有効なのだ。最初にやったときは何か声を出しているだけという感じでのべっとなってしまった。あっさりと歌われているように聞えるコーラスだが、あっさりと歌ってはいけない。やはりそこのなかに構成、展開、イメージなどが含まれているのだ。ただのおまけではない。次にそういうところを考えて歌ったら、少し表情が出てきた。ただポイントを強調するのではなく、そこで急に強くするのではなく、そこにいくまで音量だけでいくイメージも膨らませておかなければならない。自分の場合、そこのイメージの部分が足りない。表面だけでなく、自分の内面の高揚も伴わなければいけない。 

 

トレーナーの先生のレッスンで一番印象に残ったのは何も知らないと動きやすいということ。そして、だんだんと切替えるのが難しくなっていく、切替えがイメージのポイントだと思った。歌だと切替えをしっかり行わないと、出だしの終ってしまう。私が一番つっかかっていたのはこの切替えだと思った。何が変だと思っていたのはこれが原因だと思う。あと言葉だけで人に好奇心を与えるにはこれには体験したことが一番だと思った。

 

G・ムスタキ、大した音楽家のよさは、最初に観たときはぬるめだな、自分がやったらぼそぼそになってしまうな、ぐらいにしか思わなかったが、上達のためのヒントがある予感がしたのでCDを買って何回か聞いてみると、芯があるじゃないか。これがないと歌っているだけになってしまう。ここ数ヵ月は芯のないまま声を浮かしてヴォリュームを出すことだけに執着し、フレーズによってはコントロールもできてしまうので、ちょっとしたパバロちゃん気分になっていた。

レッスンで仲代達男、美輪明広、ロバータ・フラッタやアダモを聞き流しているだけの状態。叩きつける歌では聞き流すことさえできないだろうなどと、考えているうちにフレーズ回し、何をしていいのか、まったくわからなくなってしまった。

 

選曲できる感覚は重要だ。日本(語)でいいじゃないかと思ってた。PreBV座で英語以外の洋楽も原語で歌う人、意味があるのだろうか、本人はおもしろいのだろうかと思った記憶があるが、ああでもしないと何も動かなくなってしまいそうな危機感があったのではないかと推測できる。

せめて入力する情報ぐらいはシンプル、ナチュナルな方向に整理したいものだ。結局、情報(通用する勝ちパターン)の不足が問題になってくる。がっかりしたが驚きはしない。日本代表はブラジルに1-0で敗れたが、南アも敗れたため、トーナメントに進出した実力があるからこそ、たなぼた式に勝ち上がることもできる。的外れなパワーゲームが無駄だとは思わないが、なるべく控えめにして、聞いてもらえる条件を探していきたい。勝ちたい。

 

自分が以前に似たタイプの曲、もしくは曲から伝わってくるイメージが似た曲をやったことがある場合は、確かに入りやすい。そういう引出の多さが対応力の一つの要因となるだろう。そういう意味では今日は入りやすかった。フレーズに込める感情の種類が以前にやったことがあったものだったので、割合やりやすかった。そういう作業を積んでおけば後で役に立つ。だが、もっと高いテンションでできたはず。といっても、ただテンションを上げるだけでは駄目で、イメージの世界のなかで誰にどんな感情を伝えるかを明確にしないと、テンションも漠然としてしまって集約されてこない。現実世界においてはイメージの世界で起こっていることを客に伝えようというのが歌。ではイメージの世界のなかでは一体、誰に伝えようとしているのか。ということは現実の世界とイメージの世界では伝える相手が違うということだ。もちろんイメージの世界のなかで、自分が実際に何かをしているという場合と、その世界を第三者的に見ている場合では違うだろう。だが、前者の場合はイメージの世界のなかで、伝えたものが客に共感を呼び起こして伝わるという、2段階による「伝わる」だが、後者の場合は割合、そのイメージ自体を直接客に伝えると感じだ。ずいぶんややこしいことになってしまったが、要はそのときどきで「伝える」のスタンスをはっきりさせていかないと、自分の気持ちの向きどころがわからなくなってしまって迷ってしまうということだ。

 

必要のない筋肉を使っているから声帯をコントロールできない。不必要な筋肉は関わらせない。意識することで、のど仏が上がらないようにする。(ポルタメントの練習がよい)←適当な音から下がったり、上がったりする。

 

4小節歌ってみたら、集中も密度も薄くなってしまった。長いフレーズをうたうほど、どんどん音程だけに逃れてしまう自分がいた。1つの言葉に全力をつくすことに今は行っていこうと思う。

 

体をもっと鍛えよう。いつも思う。多分私は体がまだまだ弱いことを本当に実感はしてないだろう。体を鍛える必然性を今10%感じているかどうかくらいかな。高音を出すのも、音を真っ直ぐ伸ばしたりするのも、すべて体が必要なのだから、今のままの考えじゃだめだ。喉が痛いとか痛くならないではなく、表現するための体をイメージして鍛えていこう

 

読むと発音できるのに、歌うと発音できないということが多いような気がする。音程やリズムに意識がいきすぎているのかな。私は「d」と「r」の発音が苦手。「d」は強い音なので前歯を舌ではじくようにして発音しなければならないのだけれど、(そしてあまり口は開けない)。私は口を少し開けすぎているので「d」の発音が聞きとりづらいらしい。“words”の発音では“W”のところにアクセントがあるのに“r”のほうに意識がいきすぎて“r”のところにアクセントがあるようになってしまう。“wisper”の“er”のとき舌を巻いたと思ったらすぐに“words”の“w”で口をすぼめなくてはいけなくて、しかもWにアクセントがあるので、とても入りづらく、“words”がリズムのアクセントから少し遅れてしまっている。“P”をしっかり発音するも難しい。強い音なので、きちんと発音しなければいけない。だけど、どうしても弱くなってしまう。唇を使って、強く前に息を出す感じで発音できるようにしなければならない。これらのことは全て毎日毎日発音してみて、聞いてみての繰り返しをやらないと身につかないと思うので、しっかり練習したいと思う。 

 

「ソロイ」のような曲はきれいに歌うよりもパワフルな勢いやキレが出せるかがポイントになるだろう。なめらかにつなげるよりは、リズムを強調してインパクトをつけていく方がよい。自分では割合うまくできたと思う。最後の曲を通して聞いてみると、同じメロディで同じ歌詞の部分でも歌い手はずいぶん違う歌い方をしていることがわかる。全体的に見ると1番はやはり静かめに歌っているし、2番以降に徐々に盛り上がっていることがわかる。自分達はどうしても同じように歌いがちだ。出だしから張り上げてしまったり、(必ずしもいけないというわけではないが)、一曲を通して、一番を通して、一ブロックを通して、一フレーズを通して同じようにのっぺりと歌ってしまったりする。頭で考えてばかりではなく、体で感じてみなければいけないのだろうが、まずは構成を聞き取り、理解しなければならないだろう。構成とはすなわち、メリハリの付け方。見本を参考にしながらも自分で試してみていけば、曲が生かされる方向に向っていくことだろう。

 

いろんなこと、いろんな大切なこといっぱい先生はおっしゃってくれる。それなのに、まだぴんとわからないこともいっぱい。せっかく先生がいってくださるのに、わからない自分が悲しい。でも一所懸命先生のおっしゃることを吸収しようと思っている。最終的に、心を大切にしたいですね。私自身の心をみがいて、そして、人の心に残る暖かい感動を与えられるようになりたい。 

 

のど仏がわからない。毎日、ガチガチになって生きているかもしれない。もっと力を抜いて生きていこう。

 

 

 

 

 

 

 

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投稿 1178

 

現在、バンドの自主制作CDの歌入れをやっているのだが、完全に壁にブチ当たっている。歌詞は“歌うほど”自分から遠ざかっていくし、バックからどんどん浮いてきてしまう。過去2枚つくったアルバムでも、その“変な感じ”はずっと感じていたけど、今回はそのメカニズムがいくらかわかるぶん、余計リリースがサキオ繰りになってきている。とてもタイムリーなレッスン内容だったけれど、この問題をクリアするには、まだまだ時間がかかりそう。 

 

ありがとうございます。先生にめぐりあえて、先生のレッスンを受けることができて、本当によかったです。神様ありがとうございます。また、一歩一歩努力していきたいと思います。勉強しなければいけにことは、次から次へ山ほどありますが、あきらめず、少しずつでもいいからやってきたいと思います。

 

特別レッスンで、先生に「歌っているときに体が固まっている」と指摘されました。鏡の中で歌う自分を見て、「本当だ」思ったし、そんな誰が見ても明らかなことでも、息はどうだ、のどはどうだ。なんてやっているだけでは気づかないものだと知り、背筋の伸びる思いでした。そして、「何か体を使って表現するもの、劇とかダンスとかやってみるといいよ」というアドバイスをいただき、今日はこれからエアロビクスやジャズダンスがやれる文化センターに行こうと思っています。

 

一人で寂しくトレーニングしてときは、大声を出したいけど場所がない、時間がない、と思っていました。なのに特別レッスンに出て、刺激を受け、先生やトレーナーのアドバイスを受けたことで「YAMAHAの練習室を借りて大声出せるようにしよう」とか、「ダンスやろう」と決心。実行できている自分がいて、不思議です。こうなるとお金や時間はどうにかなってくるものだ、ということもわかりました。

 

ここで思ったのは、「何か大きなことをやり遂げる人というのは、根本的に“創る”とか“生み出す”ことができる人だ」ということです。何か一つのことを最優先にできれば、それを実現させるための手段は、次々とアイディアとして浮かんでくるものなのでしょう。歌のためにはトレーニング、トレーニングのためには場所、時間、スケジュール管理しなきゃならない。一人じゃできないから、助けてもらう。それには自分が魅力ある人間でなければだめだなぁ、がんばろうとなるんじゃないでしょうか。私も、思いつくことは何でもやって、いろんなところから“気づく”チャンスをもとうと思います。

 

この日はサッカー日本VSブラジルで盛り上ってた日だった。トルシエ監督の「がっかりしたが驚きはしない」(ブラジルが南アフリカに敗れたため、決勝トーナメント進出が先送りになったことについて)というコメントが、妙に印象に残っていた。研究所にオーディションの結果が出ていた。がっかりしたが、驚きはしない。脇道を強引に走っている感じはしていた。効率よく出しきることで声のぶれを修正しようとしていたが、あの人達未満の出力しかでいないとなると、行き詰まりということになる。出しているつもりでも、届いていないというべきか。声を叩きつけることによって聞いてもらえる状態を自ら壊してしまっているのか。

 

ライオンは王様だ。しかしエサを食べないと死んでしまう。だから王様であってもシマウマの群れの行動におつきあいすることになるという、ある映画監督の話を思い出した。相手がいなければステージも生活もあったもんじゃない。声の使い方が違うという話があった。一人ではできないこと、コーラス、エコー、他の楽器が出す効果まで全て、声に込めようとしていたのではないか。

 

「投手、野手、全てをしきろうとする監督は失敗する」(ある野球解説者)「チームバッティングを心掛けることによって個人成績も上がるのに、なぜブンブン振り回す」(ある野球監督)ONE FOR ALLの精神。会場、というチームのなかでのヴォーカルの役割をもっと考える。アカペラであれば声などを、バックがつけば、各パートとそのコラボレーションなどを聞こうとするだろう。それをキヨハラ的にしばきあげてしまってはALL FOR ONEの前に試合終了になってしまう。声で勝負していない、声にしなくても成立する歌、とはどういうことだ。

 

 

【女性の聴き方、男性の聴き方】小泉恭子

「女性は男生徒同じように音を聴いているのだろうか」このような疑問を抱いたのは、私自身のポピュラー音楽体験がきっかけだった。ビートルズを聴くときも、男性ファンのように《サージェント・ペパーズ》の音作りにうんちくを傾けたり、未発表録音が聴けるからとアンソロジーを買い求めたりすることはない。それよりも、ジョンとヨーコの物語や4人の姿が楽しめる映画などのように、正直なところずっと関心がある。女性のビートルズファンは昔から男性とは違っていた。60年代当時の記録も、ビートルズ旋風の象徴として、嬌声をあげたり、失神したりする女の子たちを映し出すのがお決まりだ。

だが、硬派な音楽専門誌にいわせると、バンドは男性に認められてはじめて一人前、ということになる。男性ファンの「正しい」ロックの聴き方に比べると、女の子たちがキャーキャー騒ぐようなポピュラー音楽の聴き方は「邪道」だというとらえ方だ。そもそも女性の聴き方が色物扱いされるとき、それは男性の聴き方を標準としたうえでの「特異性」なのである。サウンド崇拝男性よりも、アーティストのグッズに群がる女性がロックファンの階層において低く位置づけられてしまう。音楽外的ないっさいの意味を排除し、音そのものに没頭する構築的な聴取を「正しい音楽の聴き方」としてきたクラシック音楽鑑賞の伝統が、ポピュラー音楽聴取の美学にまで尾を引いているのだ。

男性ファンを典型とする「集中的な聴取」が基準であれば、歌手の私生活やメッセージ性を重視する女性の聴き方は、音全体を聴かない「周辺的な聴取」ということになる。では、女性ファンはいったい何を聴いているのだろう。ビートルズ現象をふりかえるなら、少女たちはサウンド以上に「ビートルズを取り巻く世界」を聴いていた。つまり、歌という鳴り響くテクストばかりでなく、その周辺的な意味をも産出しながら彼らの歌を聴いていたのだ。「音の周辺を聴く」という女性的な聴取は少女にとどまらない。彼女たちは大人になっても女性ならではの聴き方をする。それが、「ながら聴取」だ。「ながら聴取」は主婦に典型的な聴き方である。家事をしながら知らず知らずの間にCMソングを覚えるというのが彼女たちだ。広告業界も「ながら聴取」を利用している。主婦が落ち着いてテレビを視聴できる昼メロやワイドショーの時間帯には、洗剤がどれだけ効果的かとか、電話ショッピングのお買得情報とかいった類の説得的なナレーションを使う。そして夫や子どもが帰宅して家事で忙しくなるプライムタイムには、キャッチーなCMソングを「ながら聴取」するだけで無意識のうちに商品名が覚えられるようなコマーシャルを放映するという戦略をとっている。

一方、ロックコンサートにおいてもクラシックの音楽会においても、意識的に「クライマックス」を求めるのが男性の聴き方だ。欧米のフェミニストたちは、男性が論理的に音楽を追い、直線的な時間の流れの最後に「頂点」を期待する理由づけに精神分析学を援用した。すなわち、男性は性的欲望を「放出」で締めくくるのと同様に、音楽の物語にも緊張と弛緩のメタファー(隠喩)を聴く、と。男性的な聴取ばかりでは世界を取り巻く音の本当の意味が「聞こえない」ことに音楽学者たちもようやく気づきはじめた。性的欲望に衝き動かされて音を聴く男性的な聴き方では、人間が秩序立てた音楽の構造が理解できるに過ぎない。音楽の「行間」を聴き取ったり、自然界が構成する環境音に耳を開いたりするためには、性的快楽に身をゆだねて音と一体化する女性的な聴き方が必要となる。女性の聴き方/男性の聴き方の背景には、「セクュアリティ」(性的欲望や快楽)や「ジェンダー」(女らしさ・男らしさといった社会的な性差)問題が複雑に絡み合っている。「音楽とジェンダー」研究は日本では緒についたばかりであるが、少女や主婦に聴き方は(新しい聴取」を発見するするヒントを与えてくれそうだ。

 

 

【朝日グラフより-山口小夜子アンダーグラウンドの力】

山口小夜子さんは、今からもう25年も前に世界のトップモデル6人の中に選ばれていた人だ。眉の上まっすぐ直線に切りそろえた前髪、真っ黒な市松人形のようなオカッパ頭、歌舞伎を彷彿させるような色白肌に、きつね目メークは妙に神秘的、オリエンタル、個性的で他のどのモデルとも相容れない、ファッションモデルと一口でくくれない、誰とも一線を画していて、「山口小夜子」という作品であった。パリに渡った当初は、自分のスタイルブックを持ってエージェントを巡って、営業したといってた気がする。ここ10年位は、勅使河原三郎のダンスパフォーマンス(その昔なんじゃと思った。難解だった。今ならわかるかナァ。)のワールドツアーに参加したり、オペラの衣裳を手がけたり、12月には東京で朗読をするという。ケンゾーさんも「アーティストとしてのモデル」と全幅の信頼を寄せている。生き方、人生、存在が表現者そのもの。おいくつなのか、出生地の役所のみが知るだが、今日なお、被写体としてすごくオーラを放っていて、存在感やモデルとしての商品価値も衰えていない。じたばたもしてない。藤原紀香に代表されるような現代美人、何を食べて、どんなエクササイズをして、こんなメークで美顔法でってガラス張りに情報が伝わってというのもいいことではあるけれど、やはりスターたるものコレ位ベールに包まれてもいいような。そして、努力とか、こねこね製造過程ってやはり、水面下でしてこそカッコイイというのはある気がするし、何でもかんでも公表するのもどうかと思うし、するならちびりちびり、出し惜しみしながら。雑誌の特集の記事を通して、「山口小夜子なる作品はいかにして作られたか」を追ってみたい気がしました。 

~私にとっては、今まで自分がかかわったものや、生きてきたこと、そこで出会ったことなどが全部ひとつになっていくという感じなので、いろいろという風には思ってないんです。たとえば私はウォーキングはほとんど練習したことがなくて、舞台や美術を見たり、ロックや他のジャンルのコンサートに行ったり、活字からの刺激や触発があって、実際に寺山修司さんの「天井桟敷」に参加して訓練を受けたことなどの刺激が、私のファッションショーの表現になっていたような。 

~中学時代、いつも寺山修司の少女詩集を教科書の下に隠して読んでいた。彼に代表されるアンダーグラウンドのでなくてロマンティックの。寺山さんの本の中で、フランスのパリのことや、コクトーアルトージャン・ジュネのことや、ヨーロッパの実験的映画や、表現のこと、詩人のことなどを知っていった。小学生の頃、テレビの「名画座」で、フランスの古い映画をいつも見てたから、寺山さんのいう、美しさや素晴らしさを理解できたんだと思う。子供が回りにあまりいなかったから一人で遊びを見つけていった。母親はヴォーグ紙や少女雑誌などを見て洋服を縫ってくれた。 

~アジアの女性たちのパーマをかかっていない黒髪を見たときとても美しいと思ったの。そしてベトナムの女性たちの着る真っ白いアオザイに真っ直ぐの黒髪。何て美しいバランスとコントラストなんだろうと。黒い肌の美しさ、日本人や中国人の美しさ、そして白人の美しさがある。 

~以前は、何かに対して、みんながひとつのものに向かう時代だったと思うんです。いまはデザイナーも個人、個人、向かう矛先が違っている。服からはみだしてアートになっていく人、服をモチーフに作品を作る人、パリコレをめざす人、ショーにこだわらず新たなメディアを利用する人。 

~以前は着る側の顔、女性の顔、個々の顔が重要だったが、ヨーロッパも含め、服を着る上において「顔」がそれほど重要でなくなっている。時代を象徴するような「顔」というのも生まれない。 

~私のかかわるファッションショーは、歩くことだけでなくて、体を使って表現することを要求されるんです。だから「体」について考えるようになりました。たくさんの方からの出会いの中から、空手、太極拳、能のハコビ、ダンスなどを習ったり、寺山さんの舞台のための訓練を受けたり。動きのことがライフワークのようになっているんですね。 

~ゼロに戻るのが好きなのと、大切に思っているから。楽しいと思えば楽しくなれることが分かってきたんです。それぞれみんな役割があって生まれてきてると思うのね。その役割は何だろう、何だろうってずっと思いつづけてる。いままでのことは今までのこととして、それもひとつの役割だったと思うけど、これからはその経験を土台にした役割を果たしてまっとうするのだと思うので、いま眼の前にあることひとつひとつを。ひとりひとりを、大切にしていきたいと思っているのです。

「小夜子は体を着つづけている」けだし名言。しかしベビーブーマーくらいの人たちはみんな「寺山修司」の影響を受けたとみんながみんないっているなあ、ふーん、そうか。そして昔の二十歳や一七や一八っていうのは今の三十歳くらいに大人で自立している。思春期の頃から自分は何者か問いつづけ、活字から自分を読み込んだりしてる。一概にはいえないが、高度成長以降の世代というのは、渇きを覚えるより前に親から与えられたり、比較的生活がラクになった親が自分の夢を子供に委ねてみたりとかして、互いの持たれあいというか、いわゆる過保護。個を知覚するのが遅れている。与えられ過ぎて、自分の欲しいものがわからないから、区別がつかないから、社会に出てからハッとする。自分探しが二十後半からというわけ、そりゃ晩婚なワケね。子孫が途絶えるワケねっ。いろいろ理想がまわりにころがり過ぎてるせいもあるけど。10代の多感な時期を孤独と向き合わないで、べたべたの横つながりで紛らわせてる。私が子供だった頃の27、8の人より、会社の女の子なんかずっと若く見える。生活感もそんなにしない、肌もキレイな気がする。悪いことではないと思う。んーただ自分もまだその渦中にいるもんで結論めいたことはよういわん。ただあれも欲しい、コレも欲しいといった、お金があれば果たせるような、いっこいっこの“欲望”と“人生の大目的”みたいな幹とをごっちゃにしてはもったいないか。欲望といった、温泉が湧き上がるみたいに絶えず起こってくるものが叶えられないからって、不機嫌になったり、あばれてちゃ違うよな。つきつめるのに言葉は便利だけど、その後は、頭を忘れて行動する。言葉が脳みその回路を巡る前に空気中に音を並べる。タイトに“ぎゅっ”と押し出す。

 

 

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語録 

 

【もてなし】角野 幸博

もてなしの基本は、自分が相手の身になって、して欲しいと思うことや、快適と思うことを考え、行動することだろうか。それを通じて、喜びを共有できれば、もてなしは成功である。そのために、ちょっと見えを張って背伸びすることがある。新しい芸事や食事のメニューづくりに取り組んだり、家具調度に凝る。相手の趣味や嗜好を調べ、自分はあまり得意ではないジャンルであっても、相手との会話に合わせられるよう、事前に勉強もする。見えっ張りはほめられないが、適度な背伸びと緊張感をもってもてなすことは、必ずしも悪い印象を与えない。媚びることもまた、もてなしのひとつの方法である。相手との間合いをとり、時には近づき、時には突き放すふりをしながら、相手の気をひく。お世辞だって言う。媚びの美意識が、ふるまいや芸能やファッションに与えた影響は、無視できない。無理をせず、肩の力を抜いて、普段の態度で率直にもてなすのを良しとする意見も多い。親しい友人を自宅に招いた時のもてなしである。だが、お互いに気心が知れた相手なら喜んでもらえるが、文化や価値観がまったく違う相手だと誤解を生むかもしれない。露骨な媚びは、相手に不快な印象を与える。率直なもてなしにしても、その裏には、相手のみになったきめこまかい配慮が必要である。背伸びと媚と素直さとは、常に絡み合っている。どれかひとつのやり方だけですむというわけではない。都市のもてなしの装置にも、この三つのスタイルを見つけることができる。近代化の過程で、家庭の中にあった多くの機能が都市に出ていったように、人をもてなすという機能も、家庭から飛び出し、都市のなかのさまざまなサービス施設のなかに取り込まれていった。もてなしのプロというような職業もたくさん生まれた。一流ホテルでのレセプションや結婚披露宴は、ちょっと背伸びをした、緊張感を伴うもてなしである。料亭やクラブは、媚びのもてなしが色濃い。率直なもてなしといえば、下町の商店街などでの気さくな会話やサービスを、まず思い出す。建築デザインにも、三つのスタイルを見つけることができる。その町の顔にもなる市民ホールや劇場。様式を忠実に守って作られた伝統的で本格的なデザインか、まったく正反対の前衛的デザイン。どちらも少し背伸びした気分になる。お客の気持ちを見透かしたかのような、テーマパークのような建物。これは大衆に媚びたデザインである。一方で、何気ないすごくありふれた率直なデザインに、気持ちが安らぐこともある。もてなしは、サービスが、外部化し、プロ集団化する過程で、芸術文化の域にまで高められる。高級料亭やお茶屋の世界は、建築、インテリア、料理、衣服、ふるまい、音楽、舞踏など、すべての環境要素を駆使した、もてなしの文化の結実点ともいえるだろう。だが、こうした施設が、本来の文化的魅力を離れ、商談や政談の場としての色彩ばかりを強めたために、さまざまな問題を生んだのだった。背伸びと媚びは、もてなし文化の必要条件だと思う。普段着の率直さばかりが強調されると、もてなし文化は衰退する。芸能や建築空間を貧しくする。もてない方ばかりか、もてなされ方も貧困化し、そのことが、人と人とのコミュニケーション全体を貧しくする。ところが最近は、率直さだけが評価され、背伸びをする緊張感や、媚びの美意識が軽んじられている。これらの再評価を含めた、もてなし文化全体の見直しが必要なのではないだろうか。もちろん、それを誰もが楽しめるしくみが必要なことは、いうまでもない。

 

 

【これからの日本を生きぬくために】

時代の動向に関する情報のアンテナを鋭敏にし、情報の受信だけでなく、それらを整理分析し、つねに情報の発信を行い得るような体制と能力を持つ必要があるでしょう。また、そうしてインプットしたものをアウトプットする訓練を怠らないこと。どんなに知識や情報を吸収しても、それらを的確に表現し、他者に伝えられないのでは意味が半減してしまう。まさに受け身の体制から能動的な活動が求められているから。「グラデュアル・デス」=人間一秒一秒死に近づいているという意味。(日本大学国際関係学部教授 青木一能)

 

人間、最後にモノをいうのは「体力」。(作家 井沢元彦

 

1970年代から90年代までの若者は社会が安定していただけに、経済的に安定した職、地位を得るということに、強迫的なまでに取り憑かれて、そのため、何か人と違った人生を歩むことに極めて臆病であった。アメリカや西ヨーロッパなど、失業率の高い国々では、安定した職を得ることも、それを守ることも、所詮、自分の努力だけでは不可能だという達観があって若者たちは、かえってそうした束縛から解放されていたというのが、私の印象です。失業率が上がり、就職が難しいばかりでなく、大会社に就職しても明日にでも倒産するかも知れないという現在、むしろ自分の好きな、あるいは自分の可能性を伸ばせることで目指すことができる状況が整ったと考えてはどうだろうか。(京都大学大学院法学研究科教授 大嶽秀夫

 

豊かな時代になったがゆえに、働くことへの意識が乏しく、自分の生活の糧は自分で得なければならないということに気づくのが就職直前になってしまう。その意味で、幼さを残したまま成長する。 学校を卒業したら、勉強しよう!学生時代にさぼった人ほど、卒業してから勉強したくなる。卒業後の勉強は、よく身につく。いま徐々に転職が容易になり何度でもやり直しがきく社会になってきつつある。いくつになっても、気長に勉強を続けよう。「出る杭は、出過ぎると打たれない」。(政策研究大学員大学助教授 大田弘子

 

所属する部や課だけで通用すればよいという考え方を捨てよ。在籍する会社組織でだけ通用すればよいという考え方を捨てよ。日本でだけ通用すればよいという考え方を捨てよ。世界のどこに出ていっても通用する国際水準を満たした人間であることを心がけよ。米国のちょっとましな高校の生徒が身につけている論文作法、プレゼンテーション能力、スピーチ能力を備えているか。(軍事アナリスト 小川和久)/

仕事がら、コトバにケチな若い人が増えている。言葉で自己表現できる人とできない人に、極端に分化されていくかもしれない。その場合、言葉をケチる人に溜るのはお金ではなくストレス。別に本を読めとはいわない。Eメールも結構。しかし、時には生身の人間と互いの息がかかる距離で、言葉のオモチャにジャレあってみることも必要。ジャレているつもりで相手を傷つけてしまう、あるいは相手の不用意な言葉で傷を受ける。一見、マイナスの体験ととられがちだが、言葉の怖さを知らずして、絶対安全防水加工済のマニュアル言語とごく狭い仲間しか通用しないタメ口以外、街中で耳にすることができなくなるのでは。人生という大きな疑問符に有効な解答のあるはずもなく、早急に答えを求める心には、思わぬ落とし穴が待っている。人間は、自分として生まれてくるのではなく、一生をかけて自分になる、自分を作っていく。(作家・慶応義塾大学文学部助教授 萩野アンナ)

 

市民であることを自覚し、努力する人々がいなくなったらこの社会はよくならない。政治的社会的発言や行動が当然というような態度が若い人たちの間に育っていないのが、一番気になる。政治的発言も運動も、きっと若い人が見るとダサくてうっとうしいんでしょう。もっと身ぎれいでかっこよく生きたい。でも、そのダサくてかっこ悪い連中にあなたの現在と未来の大半が握られているんです。(東京家政大学教授・女性と仕事の未来館館長 樋口恵子)

 

日本の社会の不幸のひとつは、法律や制度を変えることで社会を変えうると、多くの人が確信できないことにある。台湾や韓国などは、いま20代、30代の人たちが、法律(たとえば、司法改革や家庭内暴力禁止法など)を作り、政治にも進出し、国民の意志決定の場でも頑張っている。(弁護士・参議院議員 福島瑞穂

 

現在の自分をよく見てほしい。あなたに一体何ができるという自信がありますか。あなたの代行をする人がいない現状ならいいんですが、あなたが病欠した場合でも、職場はたいした混乱もなく進行していくとなれば、これは困りものです。(作家 藤本義一)/

チベットでは「自分の過去を知りたかったら、いまの自分を知れ。自分の未来を知りたかったら、いまの自分の行いを見ればよい」と言われている。これまで日本という国を繁栄に導いてきた先人たちの業績をなぜ無差別に破壊しようとしているのか。それに代わって、提供するものは何か。いまの日本の知識人、経済人、政治家の魂は、「破壊」の神に支配されているようにも思えてならない。(チベット文化研究所所長ペマギャルポ)

 

これからの日本は、プロしか生きていけなくなる。会社が倒産あるいはリストラされて、職を求めてさまようのはノンプロ、ほかの会社から引き抜かれるのがプロ。(拓殖大学国際開発学部教授 森本 敏)

 

日本語は現在以上に乱れ、その美しさが消えてゆくおそれもある。世界中の情報を瞬時に出没させることのできる時代では、読書をする人の数は減少するだろう。新聞も、読まない。なにごとも手軽にエッセンスだけ、上澄みだけ。

 

自分の人生の筋書きは、魂のどこか深い所で自分が書いているのではないか、という実感がある。一見、不都合に見えた展開でも後になってみると、自分の魂の成長のために自分が選んだ道ではなかったのか、と思われることが、多々ある。

個人社会で生きるということは、自分と直面し、自分の価値観、人生観、宗教観、哲学、を作り上げてゆく、ということ。(コラムニスト ロバートソン黎子)

 

「精一杯やる」という意欲さえあれば、待遇や環境が悪い社会であればあるほど、自ずとチャンスは訪れると思います。誰か人材がいないかと探している人がいたとしたら、きっと、才能があって我慢強い人に目が向くはず。人は必ずどこか見ている。 人間って、どうしても楽な方に流れがち。いまは癒しの時代だし、特に、心の優しい人ほど、つい落ち込んでしまって、同じような仲間たちだけで集まったりしてしまいがち。それではダメ。つねにパワーの溢れる場所に自分を置く努力をする。元気のある人たちと付き合うってつらいこと。でも、ちょっと無理して、活気のある場所に出かけていく。そうすると、自分の生きる力の無さを痛感して、きっと、発奮する。よし、自分もがんばろうって。それが自己啓発につながるはず。(司会・インタビュアー・パーソナリティ)

 

 

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音信 

 

 

5年をもちまして、当研究所を退会させていただきたく、ご連絡させて頂きました。声が通らないというコンプレックスを解消するために通い始めたレッスンでしたが、体づくり以上に、実りある経験をしたと思っています。どうもありがとうございました。これからの研究所の発展、お祈り申し上げます。 

 

特別集中レッスンではお世話になりました。通信生ということで少なからず劣等感めいたものに押しつぶされそうになっていた私でしたが、皆さんのおかげで充実した二日間を過ごせました。ありがとうございました。特に、合宿二日目に時間を割いて下さったことには大変感謝しております。

私は、自分がどこまで通用するのかと、それは胃に穴の開くような思いで参加しましたが、それほど方向性はズレていないと実感できましたし、何よりここを選んでよかった、出会えて幸せだと思いました。

一人一人公平に指導しているところだと思いましたし、その内容は、本当に信頼するに足る、いえ、それ以上のものでした。でも、そう思うにつけ、通信生であることがみじめというか、毎日のようにここでとレーニングできている人たちがうらやましくてなりません。今、心の支えになっているのは、「次に会ったら驚かせたい」という思いです。せっかくいただいたアドバイスを無駄にしないように、意識を働かせてトレーニングしていきたいと思います。

今回のレッスンでの一番の思い出は、先生にみていただいたことです。姿勢もチェックしていただいて、いろんなアドバイスもいただきました。「ハイ」をいう度に帰ってくる評価があまりに的確で、しかも瞬時に行われるので、うれしくてたまりませんでした。通信だけでは、こういうやり取りは望み得ないわけですから、それで少しは成長度が増すのではないかと思います。遅くまでご指導くださり、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

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おすすめ

 

シャルル・トレネ

初めの第一印象は、なんて優しい声なんだろうと思ったことです。彼は、歌うことをごく自然に、彼の一部に取り入れていた。歌うことの楽しさ、人を幸せにする力をとてもよく知っていると思った。発声も、声を張り上げることは決してせず、体を充分に使い、まろやかで温かい声になっていた。歌の中で語る部分があったのですが、そのときも歌と変わらず、一つの芸術になっていて、まるで映画を見ているような感じで、表情も動きもすべてがつながっていた、彼は、成功しようとかは思っていなく、自分の好きなことを生活の一部として普通にあたりまえにしているというのが、歌い方に現われていた。だから、彼の歌はすごいという印象より、幸せで温かく、また楽しく、でもときに切なく、日常の生活を感じさせる。今まで私は発声をとても大事に思っていたけれど、発声なんていうのは普通にできて、もっと音楽に大切な感性を磨きたいと思った。

 

ニューオリンズ・ライブ】

彼らの演奏は、体全体を使っていて、本当に魂から歌っている気がした。インタビューで、8ビートを刻めなくてはいけないことや教会では、私からみたらかなり上手に歌う人が、ごく普通にあたりまえにいた。でも彼らは別に歌手でもなんでもなく、ただ神に祈っている普通の人である。日本人とはまったく違う環境で、幼いころからずっとこういった音楽を聞いていると、特に練習せずとも、ある程度のレベルで歌えることに感激した。発声は、一日10分、20分すればよい、というものではなくて、日々の生活に自然と取り込んでなくてはいけないと思った。そして、できるだけ本物の音楽をあびるほど聞き、感性を磨かなくてはいけないと思った。ゴスペルは、そのメロディを聞くだけで、自然とみんなでリズムを取り、歌い、踊ることのできる、個人的なものではなく、みんなの音楽だと思う。神に祈る方法も文化によって本当に違うなと思った。あと歌手というのは、ただ声がよく、音楽性があるのではなく、もっと精神的に豊かに、詩を書いたり、哲学的なことを考えたりすることをして、人間性がよくならなくては、つまらなくなってしまうと思った。

 

【LATIN MUSIC AWARD】

近年、ラテンブームの波に火がついたことで、2年ぐらい前から聞くようになったけど、ものすごく、歴史の深さを感じ、そして歌への情熱が本当にどの歌手もすごかった。今年76才になったセリア・クレースという女性も年齢を感じさせない迫力と、歌声。日本では歌手はやっぱり若者にスポットが当たりがちだけど、外国では本当に実力重視なのだと思った。歌や音楽に、国境も人種も年齢もまったく関係ないのだと改めて実感できた。