一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー 14412字 1182

【レクチャー余録】

 

 ヴォーカルというのは自然発生的に出てきてしまうことがよくあるようです。よいものを聞いて、そこに入り込んで、その気になってやっていたらできてくるものだからです。そういう人はレベルの高いものを聞いていると思います。そこを知るのも感性です。

 

 研究所のなかでやっているということは、一流のものから学ぶ方法です。学べるような感覚にしていくことです。一流のものの紹介というより、それらを部分的に分解して、見本として取りやすいもの、感覚としてみえるところからみていくということから、説いているのです。

 

 プロになることを考えれば、誰もがわかるようなことを知っているだけではしょうがない。誰もができるところまでやってもしかたないのです。そこでもう1つ自分がどこにこだわって、そのちょっとしたこだわりをどのくらい拡大して他の人に示せるかということからです。それがいい、悪いというのは、そのあとの判断です。

 

 

 研究所では、冒険すればいいし、実験すればいいし、失敗すればいい。そのことでは、通用しないと思い知って、何かが入ってくる。そして、何か新しいものが生み出せればよい。要は、毎日をそういう創造活動として送っているのか、ただ与えられた歌にそっくりそのまま合せていくような変なくせのつけ方をしているのか、ということです。それは大違いです。

 第一に、自分のものでなければおもしろくないからやるのでしょう。人のものでよければ、自分が歌う必要はないのです。

 

 今度は歌ということで聞いて下さい。求めている歌というのはこのくらいのレベルです。このくらいから歌われているといいます。

 彼らは「つめたい」のところで、そのまま出しても表現力は失われません。それらは彼らがもっている条件で、日本人が放してしまっていることです。

 

日本人はことばの感覚が主に動いている。それは日本人が劣っているのではなく、もともと違うのです。そこを踏まえて、自分にない感覚を入れていくのです。その感覚がないと体がそう動かないのです。

 

 

 自分のなかで「つめたい」とイメージしたら「つめたい」と出てくるはずです。歌というのはイメージした通り出てくるものです。だから、ないところを拡大して、あるいはもっとイメージを大きく膨らませていれていく時期は必要です。できるだけ感覚から体を正していくのです。

 

 そうでないとこういうトレーニングの本当の必要性がわからないと思います。メロディー処理も同じようなことです。役者とかがきて「つめたいことばきいても」と歌ったら、私は短く切ってまとめさせます。これがメロディー処理までのことです。

 

 「つめたい○ことば○きいても」で、間というのは最大のメリハリです。

 こういうふうにやると少しは聞こえてくる。ところがクラシックっぽく歌いあげたりすると、全てがまるまるみえてしまうのです。それは創造的でないからです。

 トレーニングがみえるような歌はよくないです。歌をヴォイストレーニングで間違えて覚えていかないほうがいいのです。

 

 

 試合をやっていたら強い人は勝つのですが、そのときに本当によい試合ならこういうトレーニングをやっているから勝ったんだな、というのはみえないと思います。そういうことがみえる人というのは、トレーニングから出られないのです。歌の場合は切り替えが必要です。

 

 次に何に大切かというと、オリジナルのフレーズです。これはマイクでいくらでもごまかせるのですが、ごまかさずに、どう音を動かすかということです。

 

 「つ」のところでにぎっていたら「つーめたい」とか「つめーたい」とか、自分の息でそれを自在に動かせるのです。ここに音楽が入っていたら、音楽になるように動かせるのです。

 

 

 トランペットを考えてみれば「プッ」と音を出すことも大切ですが「プップップッ」と出していても音楽にはならなくて、そこに「プーワッ」と、何かを入れて、その感覚がそのまま跳ね返らないと表現は出てきません。きれいに吹けるだけというだけではよくありません。

 ピアノでもバイオリンでも同じで、ある意味で、音にひずみを与えたりして変えていくのです。

 

 この「美しい」のところは、「美しい」ということを歌うために日本語にしているわけです。昔の人はそういう使い分けをしています。音楽的にフレーズでもたせるところと、言葉としていうところを分けています。「美しい」というところは体が離れますから、「その姿」のところで体を入れ込むわけです。

 

 これは向こうの人の感覚です。メリハリを極端に入れます。そうしないと次のフレーズや声とかが、つくりにくくなるからです。このダイナミズムをキープすることは、歌い手のある種の防御本能なのです。

 そこで「美しい姿」とやってしまうと、客はもつかもしれませんが、次に入ろうとした時に、そのスケールがなくなって、動きにくくなるのです。こういう矛盾はどうしても日本語でやるときは起こりやすくなります。

 

 

 ここの「祭壇」のところを大きく歌ってしまったら、なにかすごい大きな祭壇みたいで、歌のイメージが壊れるというのは、聞き手の解釈です。勉強するのは、この歌い方が好きであろうが嫌いであろうが、関係ありません。

ここから自分が同じ声量でやったのに2秒でしかもたない時に、この人は7秒やっているという事実からです。そしたら体の原理がどう働いているかとか、どう動かしているのかということが学べるのです。

 

 たとえば「アベマリア」の「a、ri」というのは、日本語にはない深い声とひびきです。そこでそれ一音ができないのに、違うことをやり出すから上達しないのです。

 

 私が悪い見本としてみせていくことの大半は、きっとみんながヴォイストレーニングについたら、そうやりなさいといわれることだと思います。

 そのよしあしはあなた方が判断すればいいと思います。どちらがよいか、悪いというよりも、基本の問題です。体についているかどうかなのです。

 

 

 私が今、みせたことは口先だけでごまかしでできることです。これを他の人ができているようなこととして、教えられてはいけません。

 「知っている」のところは、半オクターブあって、これを1年くらいでできれば早いくらいです。「ミファソファード」という半オクターブは向こうの感覚では同じところでいえるのです。そのかわり体を使い、テンションも高くないとできません。

 

 トレーニングですから厳しい方を選ぶ。どちらかでなく、どちらもできた方が、あとで応用が効きます。音楽の勉強をし、熱心に先生についた人は「知ってーいる」とこういうふうに器用なフレーズを教えられているのですが、決してこういうところで勝負できるようになることはないのです。

こういうところは表現として「しっている」というイメージを描いた方がうまく出るから、そういうイメージを持つことが大切です。

 

 今、必要なことというのは、体ができていなくてもそういうイメージから体の使い方とか息の感覚を教わるということです。そういうイメージがなければ、いくら大きく出していても正されません。のどをつかってしまいます。まず、感覚を正さなければいけません。

 

 

 この「わたしは」も「わたしはー」でも「わーたしはー」でもどれでもよいのです。あなたが音でどうしたいのかということです。音の世界を、あなたが支配しなければいけないのです。それがわかり、できるところまでもっと勉強しなさいということです。常にあなたにとって、どうなんだということです。それを他人に一方的に教わるというのは、その人に基準が育たないからだめだということです。

 

 自分がどう歌ったらいいのかがわからない。自分が何を持っているのかがわからないうちは、人前に立つなといっています。お客さんに失礼です。歌を教えないというのはそういうことです。基準があったら自分でわかる。自分にとって、いや相手にとって何が一番よいのかということだからです。

 「どう歌うのですか」と聞いて、「こう歌うのです」といわれたまま歌ってもつわけがない。もしその人が音の世界を作っていこうとするならば、どれが正しいかは、定まってきます。たとえば「あなた」とか「わたし」といったときには、みんなイメージは違う。

 

 だから、基本の練習をするのは大変です。ここにメニューは書いてありますが、自分で全部メニューを作れということです。人の言葉を使っていたら、そういうよりも先にいけない。うまくはまらない、ということです。

他人のものを使うというのは、他人の言葉だから自分が感情移入するのが、難しいのです。自分のなかから取り出した言葉は何か自分のなかに入っているものです。自分の言葉だから、感情移入しやすいのです。

 

 

 子供のころに「ワーワー」と声を出していたときの、感覚を、もう一度呼び戻さなくてはいけないのです。子供の方が楽に声が出ています。

 私がなぜ歌を教えないかということは、歌を教えるほど偉くないと思っているのと、私の才能でその人の可能性を制限してしまうことになってしまいかねないからです。

そうならないためにも集団指導体制をとりました。

 私一人の好みで動かないようにオーディションなども複数でみています。もちろん、独裁の愚よりも、衆愚の方がよいのかという疑問はありますが…。

 

 

 「冷たい言葉きいても」というのは、役者の見本のところまでやりました。大切なことは、この感覚は何を取り、何を捨てているかということです。これをたとえばイヴァザニッキというヴォーカルはどういう感覚で捉えたのかということでみていきます。

 

 この答えというのは、日本人が持っている高低感覚ではなく、強弱の感覚です。それがある人間はこう捉えるということです。日本人に欠けているところです。「レミファミミレレドドシシー」は、「つめたいことばきいてもー」とこうなります。でも彼女はそうはとってはいません。高低の感覚ではないのです。同じ音色のところで、よく聞くと強いところがあるはずです。強い箇所がいくつかあります。「つめたーいー」とはとってはいません。そういう感覚で勉強はしなくてよいということです。

 

 表現というのは、強弱とメリハリで決まっていくわけです。そこのところの感覚が入っていないとそういう歌い方にはならないということです。それを全部いおうとすると「ノンソー、マーイ」となるのです。

 

 

 英語の勉強と同じです。日本人はカタカナで置き換えますから「children」も「チルドレン」となってしまいます。これは聞こえていないわけではないのですが、自分のなかにあるもので置き換えているのです。そのために向こうのもっている要素を捨てているのです。日本語らしくにやってしまうからカタカナ英語になってしまうのです。もっと入り込んで向こうがいうようにいえばいいのです。

 

 たとえば「Pick it up」を、彼らは「ピックイットアップ」でなく、「ピッキャップ」といいます。彼らはそれを「ピッキャップ」と覚えているのではなく、いったらそうなるのです。どんなに練習していても、耳が鍛えられなければいえるようにはならないということです。

 

 音の世界でも、1秒のなかにいろんなことが起きています、外国人がやっていないような感覚をいまさら発声トレーニングやヴォイストレーニングでやる必要はないのです。やらなくてはいけないことは、もっと音を動かすことのできる要素を身につけることです。しかし、そのまえに感覚を養うことです。

 

 

 「ギターよ静かに」これで半オクターブあります。こういうのを聞いてみたら、ちょっと放しているようだとか、ちょっと強くしている程度と思いますが、これで2年間すぎてもいえないくらい難しいのです。

 

 日本人の歌い方だと、「ギターよあの人に伝えておくれー」と上に響かせています。「おくれー」(ドミソー)、そんなに複雑なことをやっていたら、心は動いてこないし、歌い手の方も却って大変です。

 まず、グルーヴ感をもたないとしょうがないのです。

 

「ギターよー」ではなく「ギターよ」でよいのです。他に何もすることはないのです。これをいったときに、声が裏返ってしまったり使えなくなったりしないことが大切です。基本はそこまでです。それを次にどう動かすのかはそれはその人の感性でいいのです。

 

 

 ここは私が歌うようにみんな歌えというところではありません。基本のところを身につけましょうというところです。誰がみても納得するもの、どこにいっても通用するのが基本です。私のはシンプル、あなたのは複雑でしょう。それだけ基本からはずれているのです。

 

応用の場合は、ある人にはよくても、ある人には、やらないほうがいいのにと、いわれるものです。ロックも、日本人はマネしているから楽ですが、出た当時というのはどこでもひんしゅく買っていました。そんなもの音楽ではないといわれて出てきたのものです。そういうもの時代を勉強するのもよいと思います。

 

 

 次に役者さんのを聞きます。これは何を伝えたいのかというと、表現は声ではなくて息だということです。「俺の姿だ」と全てを声にしていません。全部を声にすると2流の人のような感じがします。

 そこで息で「俺は」といったほうが伝わる。歌でもそういうところが大きいです。それを声にしてしまうがために表現力をなくしています。表現としては伝わるなら息でもよいわけです。

 

 外国人の歌を聞いて、どれだけ息が使われているか聞いてください。そこでは、逆に息が使えないような声に変えてしまうことの方がダメなのです。

 ベテランのプロは、たとえばこういう曲をやるときにどのくらい時間がかかると思いますか。大体3回くらい聞いたら、完全にコピーします。

 こういうものを勉強するときにはその歌い手の個性は抜かなければいけません。

 

 情感とか、その人の個性、雰囲気、この曲だったらわびしさ、切なさを出すというのは全部抜かなければいけません。

 基本の勉強というのは、音楽として成り立たせるところまでつなぐことです。情感だけでは歌での勝負はできません。

 

 

 「長い間1人で1人きりでいたから」と読んでみて、音をつけるだけでよいのです。このなかで「ミミミミソファファ」「レレレレファミミ」というものは全然働いていません。余計なものをつけないことです。

 

 要は、声と歌との間のところでとっていくのです。音の世界に早く持っていくということです。これが難しいのです。楽器をやっていたらわかると思いますが、こういうピアノの弾き方をしたら、プロでないことはすぐにわかります。

 

 これをどう捉えるかというと「ミミミミソファファ」ではなく「タータータ」だけなのです。これをどう置きたいかということが、この世界のデッサンなのです。それにプラス歌詞がついています。歌い手の場合はメッセージとして具体的に伝わるのです。しかし、その前のイメージがつくれないとか、これをどう捉えるのかがわからないならば、まだ、よくないのです。昔の歌い手はそういうことが問われていました。

 

 

 「けれどー」というところに発声がみえてしまうのです。だから発声の勉強でそういうものを勉強しない方がいいです。そういうのをやってしまうから、歌えなくなるというより、気持ち悪くなってしまう。

 「私のステージすてきでしょ。私のこういうところはこんなにきれい」というのはあなたの勝手だということです。歌というのは客の側にどれだけ届いてくるかという世界です。そこの方向を最初に間違えてしまうと本当にアイドル以下の歌にしかできなくなります。そこを間違えてはいけません。

 

 自分がどんなに気持ちよかったり、きれいに着飾っていても、それはお客さんには何にも関係ないということなのです。まともなお客さんはその人から何が飛んでくるかしか聞きません。だから歌にのせて、メッセージをおくる。声も歌もつき放すことです。

 

 まず、インパクトとかパワーとかがないと聞かない。その人のなかでは、きちんとその歌ができていなければいけませんから、その人のなかの感覚と体が整って、それが客席まで飛んでいるかをみるとよい。

 あなたのところだけできれいにしていてもしかたない、学校にいくとそういう歌い方になってしまうのは、それをよしとしているからです。

 

 

 ここでは、自分のイメージでどう音をデッサンするかというところから入るのです。その線を音楽として持つようにしなさいということです。そのなかでいろんな線がひけることを知り、それをやるなかで自分で選んでいくのです。

 先生はこうしなさいでなく、こういうタッチもあることをみせる、そのタッチをまねるのではありません。そこはまねられないのです。それは、あなた方の感性が自分で選んでいくのです。そこはまねられないのです。

 

 今、いっていることは、歌詞とか音程の世界ではない。音が動く音楽の世界です。筆でしっかりと描いて、それがどのように絵になるかが大切だということです。ヴォイストレーニングというのは、その筆にきちんと墨をつける役割としてあるのです。かすれたらよくみえません。

 

だからといって、かすれているからデッサンがダメなのではないのです。

 ただ、自分がどうなるかわからないのは困ります。そこで音楽の基本的な要素を曲からストレートに勉強していく必要があるのです。

 

 

 音程やリズムが悪いというのは、ほとんどの場合は入っていないからです。他の人の10倍くらいやれば2倍くらいは身につきます。少し器用な人の半分くらいしかやらないから身につかないだけです。

 

 歌というのはみんなが口ずさんでも全部楽譜に書けるのです。書けるということは一オクターブの12音を全部使っているわけではなくて、7つか5つのスケールにシャープかフラットを1つ、2つ付けたもので書けるのです。それに書けないような曲というのは、名曲でなく、ひどい曲です。人間の心を乗せていく音楽、リズムやメロディにはルールがある。

 

 それは感覚の問題です。それを磨いたら音やリズムが外れたら気持ち悪いとわかる。それをとことん磨いて、こういうルールに乗っていくのです。そしてこのルールを使い切るところに創造が生まれるのです。

 

 

 だから基本的教育やヴォイストレーニングなんて、特別にいらないし、こういうところも来なくても感覚を磨けばよいわけです。その感覚を高度に何年も磨くために、こういうところを利用する価値があるのです。具体的な材料があり、いろいろな見本があり、いろいろなステップがあった方がわかりやすいからです。

 

 最終的には、スキャットだろうが、アドリブだろうが、何でもよいから、こういうふうに線を描いていたら、それが音楽になるということです。

 

 ここでは作曲とか作詞は特別に教えていませんが、同じことをやっているみたいなものです。ある曲を使って、その歌い手が1つ成り立っているところの感覚を自分のところまでおとしてみて、すぐれたものを聞きつつ、そこから自分のとれるところを全部とってみて、自分の感覚でも、取り入れてみようかと思って、実際にやってみるのです。それで自分の作品が出た時に自分で気づいていけばよいのです。そこに作詞も作曲も含まれてきます。こういう感覚は1人でやっていると、なかなかわからないのです。

 

 

 何がいいのか悪いのか何がオリジナリティかというのは他人を知らないとわかりません。自分でこれがオリジナリティだといっても誰にも問わなかったら、本当にわからないのです。他の人のを聞いたときにも、まわりの人はよくは思わなかったが、自分はここの部分は好きだなというところは、自分の感性を刺激する何かがあるわけです。そういうものからも勉強できるのです。

 

 ここでやっていることは、音楽にしても、普通の人ならほとんど接しないようなものばかりです。よく有名な曲のCDをコピーしたいという人がいます。そういうものは今では自分で借りれるのだから借りて、自分でやればいよいのです。同じ時間を使うなら、もっと大きく学べるものにしたいと思っています。

 

 レッスンは全部ライヴの形式、といっても歌うのではなく、1フレーズ、そして1コマで完結しています。それは理想というより、現実に合わせているためです。どうしても遠方から1、2回しか来れない人もいます。今も京都は3回です。だからといって、東京のように毎日やっているところと比べて人が伸びていないかといったら、そういうわけでもないのです。全ては、その人の意識の問題だと思います。

 

 

 メルセデスソーサとアマリアロドリゲス、トムウェイツ、サラヴォーン、ルイアームストロング。いろんな発声があってもよい。発声法はこうだと決めつけ、正しい発声方法を身につけるようなことにムダな力を入れないことです。

 

 問うているのは、いつもその声をどのくらいていねいに繊細に扱って、自分が感じている世界を表現できるかということなのです。当然、プロデューサーも、そこでみているのです。

だから、声が大きく出るためにヴォイストレーニングするのでもないし、音域をかせぐためにやるのでもない。大切なことは自分が伝えたいこと、感じていることを伝えること、それもないなら、じゃあ何をやるんですかということになるのです。

 

 今の研究所はそういう問題があるという指摘から始まって、それがわかってもらえることから始めています。最初は、なかなか体には入ってこないのですが、それをプロセスとして問うています。

 私が何ができるというよりは、ここにいた人達が何ができているかということが、大切だと思のです。よくいろんなところにいくと、先生や主宰者はどこでもそれなりにすぐれているのです。ここでは私が最低ラインの目標です。

 どこでも先生は自分が最高で、それを育てるという形にしていますから、まわりが全て伸びないのです。

 

 

 これは体の強さとか、ヴォイストレーニングの条件というのがわかりやすいものです。こういうのは加工していません。普通の録音でも同じです。昔の外国のものでもそうですが、音響がよくなったらよくなるのではありません。本当にいいものというのは別に生だろうが、安物のカセットだろうが、聞けばわかるのです。

 

 人生で好きなことにおいてまで、自分が感動しないような時間は過ごしたくありませんから、ここで私はわがままにやっています。そのために、我慢も必要です。年に3000~4000曲聞いていて、本当に感動するものというのは10曲もありません。1%もないのです。

 

その半分はその人が一所懸命やっているから、情が伝わるというので、音楽性とか世界の評価とは関係ないものです。それを抜いて本当に取り出してみたら年に1曲か2曲聞けるかどうか、しかし、そのために、ここを維持しているようなものです。でもそれが聞ければ全て報われるのです。

 

 

 だいたいプロの世界はそういうものでしょう。仕事は9割嫌なことで、たった1割のためにがんばるのです。それが年に1回でもあるということは幸せだと思います。他のライヴハウスにいっても、他の学校いってみてもそういうことはありません。それは深く問わないからです。

 しかし、外国に行くとそこら中にあるのです。それはあたり前のことで歌い手をいうのは声で人を感動させるのが商売なのです。それをプロでやっている人というのはすごいのです。

 

 姿勢について。細かい問題もあるのですが、ひざを曲げるか曲げないかとか、首の位置がどうだとかいうのは、大したことではありません。本当のことでいうと感覚から直さなければいけないのです。

 こちらは、その人が気づくようにいろんな材料は与えますが、そういうことをしてはいけないとは、できる限りいいません。本人がわからないと変わらないからです。

 

 教えたがる先生は気をつけた方がよい。たとえば、同じフレーズを何回もやらせると、普通の人でも考え何か直すようになるでしょう。そこで初めて自分の音のチェックをするし、どこがおかしいのかと思うでしょう。それを始めから先生が、君の声はこうだからとやっていくと表向きはレッスンが進んでいくいるようにみえますが、全然声や歌はよくならないのです。主体性をもたせること、それを奪っているようなレッスンが不毛なのは、あたりまえです。

 

 

 この世界は結果がすべてです。努力しようがしまいが、結果が出せればいい。でも結果を出す人というのは必ず努力しています。あなたがプロと比べて、どちらがうまいかではなく、自分とどちらがやったかということを考えればいいのです。

 よく才能があればとか、2年経ったらどうにかなりますか、という人がいますが、それはこの人達がやってきたことと同じだけの時間をやってみて、比べて、いえることであって、こっちは100やっていて自分は1しかやっていないのに、同じことができるわけないでしょう。そういう人はいないのです。

 

 ヴォーカルというのは、いろんな伝わる要素があるのです。どれだけ日々そういうことを練り込んでいろんな勉強をしたというのも伝わってしまいます。その人の顔を見なくても伝わります。

 ヴォーカルというのはわかりにくいものだと思うのですが、ここの場合はプロの感覚を中心に体を磨いていくから、基準がとれるのです。音程とかリズムとかを直すのではなくて、自分のなかに入っている感覚をきちんと捉え直していくというところから正します。

 

たとえば低い音が下がっていないと、その音をその場で練習しても、その音や声は自分に入っていないから間違うのですから、根っこのところで絶たなければ、何度も同じ問題が起きてくるということです。根っこの部分で絶つということです。そこの体と感覚が、正しくできない限り、いつまでも先生にいわれないとわからない。つまり、正されていないということです。そこで間違っているのです。

 

 

 

 音がそれるとかリズムが遅れるというのは、そこまで入れていないのです。この曲早いなと感じたらそれは音がそれよりももっと早い曲が入っていないのです。サラヴォーンみたいな曲をきちんと読み込むようなことをしていたら、どんな曲もでもゆっくりに聞こえてみえるはずです。そういうことで感覚を刺激しましょう。歌を何百曲も勉強している人でも、歳をとるにつれて気づく回数が少なくなってきます。

 

 本当に勉強できる人というのはどれだけ気づけるかという人です。常に1曲のなかでも、10個くらい、その気づいたことを練り込んで自分のものとして、どう出せるかということでやるのです。

 

量をやるというのはそういう意味で意味があるのです。ただ量をやるということではよくありません。レッスンのなかでも、たった2年間のなかで、1回でもこれがプロと同じ最高の声だと思ったら、そのことを次の2年であたりまえにして出せるようにしていく方が大切なのです。

 

 

 だから、1ヵ月でここまでできた、半年たったらどこまでできましたという知識の世界ではないのです。そこで差をつけたものなど誰かが2年間やったらすぐに追いつかれてしまう。それでは若い人に負けてしまいます。 ここでもいろいろな人をみてきました。

 その基準が共有できている、これはブレスヴォイストレーニングの基準ではなく、はっきりいって世界に出て、どこの国の人達もそう考えられるものとしてある。

日本のように甘くはない。甘くするからわからなくなるのです。

 

あなたが歌ってみて、本当にいいよ、といわれたら、どうしようもないでしょう。自分がいいとも思っていないのに、誉められても困るだけです。

ここでは、そういうことはないでしょう。

自分ですごくよいと思っても、こういうレベルでは全然だめ、ここがダメ、これでは聞けないということでやっています。何がだめかを知らないと、何も正されていきません。

 

 歌というのはここまでいかなくてはいけないとか、そういう基準があるわけではない。自分が必要なところまでいけばよいのです。だからカラオケで楽しんでいる人はそれでよいのです。だからこそ、習うのであれば目標をどこにとり、自分の人生のなかで歌をどう位置づけ、それで何をどう表現したいのかを同時に決めていくようにしないといけません。

 

 

 今、研究所はそれが決まった人が入ってきているというより、それを決めようとして入ってきている人が多い。いろいろなものを学ぶために初心者でも受け入れています。音楽の世界はとてもわかりにくくなってきています。それならば、ここが、そして私が世の中と思ってください。要は人に対して伝えるというのはどういう意味なのか、それを音楽で伝えるというのはどういうことなのかということを、ここは、少しでもわかりやすくしているのです。

 

 世界ではいろいろなことが起きていますが、ここがその窓口にでもなれば、みなさんが1人でやるよりずっとよいと思います。

 ですが、内容本位でいかないとつまらない。私も自分が飽きることをしたくありません。ここは自分が他の人達に出せるものを作っていくためにあればよいと思います。

 

 今は声だけをやってもしかたない。要は自分の存在感をどう示し、まわりにどう与えているかということをライヴの感覚でつかまなければいけません。だからレッスンも発表も必要で、そういう中で捉えていくべきだと思います。世界中のよいもの、歴史的にも残ってきたよいものを自分のなかに組み込みながら、自分のオリジナリティは何なんだということを知り、決めていきます。そのあたりが歌の世界というのはあいまいです。

 

 

 わからない感覚で歌っているというというのは、何かしらその人がその感覚でやってきたわけです。その試行錯誤というのは、みなさんがより高いレベルまで勉強しようと思ったら、役に立つと思うのですが、いい加減に練習をやっているなら、何の意味もないのです。だから場で正されるべきです。それはあなた方の受け止め方次第です。

 

 無責任なようですが、養成所では全員を育てる場にはなりません。毎日をそのことにかけて生きていきたいという人は、こういうところに、その情感をぶつけてください。

 人の可能性というものは当人の考え方次第でどうにでもなるのです。初心者の人の大きな問題というのは基本がきちんと入らないということと、評価を他者に求めるということです。その評価基準を自分がとっていかないとよくありません。

 

 

 24時間一緒にいるのは自分ですから、自分で自分を評価していかないといけません。レッスンがいつも本番だと思えばよいのです。いつやったのかというと、仕事がまだそんなに忙しくないうちに、いつ、そういう話がきてもよいように精一杯やってそなえているのです。人に頼っていたらよくないです。

 

 日本のライヴは身内だけで何をやっても誉められるでしょう。それでプロデューサーが、何かいったらとても気にすることになるのです。そんなに大してみていないものです。

 

 ここはそういう面では基準だけははっきりさせています。すぐれているものとすぐれていないものでは徹底して大きな差があるということです。体も、感覚も全てです。そういうものをなるだけ材料としてレッスンのなかにおいていきます。自分の実感があるような練習をしていって欲しいものです。

 

 

 

 

 

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【レッスン】オリエンテーション

 

 たくさんの授業に出るのはよいことですが、それはレッスンとして何か気づきを得てトレーニングするためでなければいけません。トレーニングは皆と一緒ではできないので自分一人でやります。それを100回やって、こういうところにくるのは、自分がどう応用できるのかということと他の人たちを聞いて判断してみるためです。

 

もっと声の出る人がいるとか、あの人は勘違いしているとか、自分で判断して判断力を正していくのです。自分のものを録音で聞くことだけでは判断力がつくようにはなりません。

 

 皆さんはことばや音程、それに声は聞こえてきますが、音楽や歌が聞こえてこない。自分で100回やってみたら、もう少し近く音楽が聞こえてきたり、歌が全部ではなくても「ア」なら「ア」の一部分で、歌や気持ちが聞こえそうなところがあるはずです。そうしたら今度はそのベストの音で100回やることです。

 

 

 私はヴォイストレーニングはそんなに難しいものだとは思っていません。100回やってよいものがあったら、次にそのなかの一番よいものをやればよい。そして、そのなかの一番よいものをまたやる。これを3回くらいやってみたら最高のものが出る。ただ、その100回のなかのどれが一番よいのかがわからない。次にそれがわかっても、それを100回は、出せない。それができないのに1000回、1万回とやってもそれは質として上がってこないのです。

 

 普通の人はそれが出せません。100回どころか2回もやったら違ってしまいます。違うということがわかるだけでも、それは大きな進歩です。だから早く歌の感覚の方に入って、歌のなかに何かを起こす感覚をもってください。

 

 自分で何か起こさなければ、お客さんには聞こえません。楽に何も考えないで歌ったらお客さんは感動するというのは、何も歌ってないか、その人が全てのノウハウをもって出せているということです。巨人の長嶋監督のような天性のカンのある人は別ですが、やっぱり意図しない限り入らないものです。それから自分にその実感がない限り、お客さんに伝わりません。日本人は声が弱いので、私は半オクターブで短歌や俳句くらいで2つくらいをやるとよいと思っています。

 

 

 2年くらい経って、4フレーズだけ一番歌えるところを歌えといったら、それなりに感動させるようにもたせるなら、1ステップアップです。

 でも一曲歌えといったら、その部分が歌のなかにどこにも出てこないものです。本当はそれを一曲で構成できるのが歌い手ですが、皆さんの場合も今の判断基準としてはこのくらいのフレーズで徹底してみてください。

 

ここのところでコントロールしたり自分のイメージと体を結びつけられなくて、なぜ3分間や1オクターブのなかでできるのかということです。だから基準をより厳しくつくる方を先にやっておけばよいのです。そうしたらその基準ができたところまでは、体ができることで上達します。

 

 難しいのは、それ以上になったとき、その基準が何が何だかわからない世界になってきます。素人と比べて満足し、よりすぐれたプロから学べなくなる。だから、プロになって、その後、まったく伸びない人が多いのです。

 

 

 プロは感覚だけでやっていますから、体は従ってきてしまう。歌をイメージしたらそのときに顔や手が動く。それが表情です。そこまでの結びつけをやってください。あとはイメージや感性の世界になってしまいます。量のところは体で追いつけますから、何度も繰り返して動かしていたら身についています。それが演奏するという感覚がなく動くようになって、初めて自分の心のものが音に置き換わります。

 

 それはずっと先のことではありません。1、2言くらいであれば、できて欲しい。半オクターブ8フレーズくらいできるようになれば、3年目からは基準が厳しければ、一人でできるようになる。そういうふうにめざしてください。

 

 レッスンも、そういうものの参考として、しっかり取り組んでいってください。レッスンにたくさん出て、それをしっかりと消化しなければいけません。最初はどういうトレーニングをするか、そこで何をチェックするのかというのを勉強すればよいと思います。