一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 17880字 1183

レッスン2

 

ーー

 

 

【フレーズレッスン】

 

 「いくら 隠しても 君を」(ドシラ ソラソファミ ラララ)

 ヴォリュ-ムとフレーズが小ぢんまりしてしまいましたが、日本語の歌ではこのように「君を」のようなところにアクセントをおくことはないでしょう。しかし、このフレーズでおくとしたら、「君を」でもう少し入れないと難しくなります。「君を誰よりも いくら隠しても」を浮かないように、どこかにアクセントを置いてください。「も」の方が、「よ」にアクセントをおくより難しいです。

 

 「君をだれより」(ラララ ララソラ)

 こちらは音色とフレーズを中心にしましょう。“中心”というのは、たとえばこのフレーズでは、「君をだ」まではよくとも、そこから「れーよりー」までが濁っているのは気になります。マイクをつけたら、そこが拡大されます。

 「だれより」で濁るのは、何かよくないことが起きているのです。最初の方で息やテンションを使ってしまうから、集中度が最後までもたないのです。

 

 1、2フレーズをもたせるのなら、5フレーズくらいをもたせる覚悟でいわないとなりません。10秒伸ばすつもりで5秒をやらないと、5秒伸ばすつもりで5秒をやるのでは、欠けてしまいます。人間、そんなものです。

 

 

 「り」でひびかせる場合は別ですが、「君を」の方が難しいような気がします。「君を」と「だれより」で切ってみましょう。「きみを」「だれより」、「だれーよりー」、「だれよーりー」。いろいろなフレーズがあります。

 

 「だれ」ということばが、いけないのでしょうか。「ラリルレロ」の問題かもしれません。「だれ」の代わりに「きみ」にしてください。発音の問題なので、意味は気にしないでください。たぶん、最初の「君」で使い切ってしまうせいで、「れ」で引っかかるというのではないと思います。そうでなければ、もっと短く切ってしまっても構わないです。音からいっても高くなることはなく、同じか低くなります。配分の問題です。

 

 

 次に「君を だれより 愛しているから」(ラララ ララソラ ドシラソラソファミ)です。

 この辺になってくると、その人のクセによってもっていき方がいろいろとあります。どこから「あ」に入ってくるのか、どこから「い」に入ってくるのかを先に線でつけておいて、あとは息でもっていってください。

 

そうでなければ、「君を」「だれより」「愛して」「いるから」と同じようにとってもかまいません。それぞれ自分の好きなようにつくってください。どこから入ってもよいでしょう。課題は「愛しているから」の部分です。3つをどう寄せていくかという解釈になると思います。

 

 外国人が歌うと「きみを」「だれより」と全部、拍が早くなります。「あいし」あるいは「あ」で少し遅くします。本当は3つで考えない方がよいです。「君をだれより」「愛しているから」か、「君を」「だれより愛しているから」か2つくらい、あるいは1つと捉えてやることです。

それから、そのことによってフレーズの結びつき方をもう少し細かく読み込んでいくのなら、「君をだれより」に対して「愛して」が早く入る場合と若干遅れる場合、最後の「いるから」のところもどこで終わるかを最初に計算しておいた方がよいです。

 

 

 いつも早くやる練習をしているから遅くしましょう。「君をだれより」は早くしても遅くしてもよいです。要は「き」の入るところがいくつか選択することができます。「愛しているから」に入ってもよいです。

 

 確かに、自分の出した表現に乗って歌える人は楽です。乗って歌える人はそれでよいのですが、「君をだれより愛しているから(平坦)」と回っていると、それだけで終わってしまいます。だから音やことばを自分なりに発見してみることです。そのフレーズを決めるためにはその前に何をやったかという、「いくら隠しても」の部分でどこを伸ばしたかなどをどこかに置いておかないと、決まらないのです。

 

 発音の問題ではなく、「だれよりー」、こういう「だれより」だけでなく、いろんな「だれより」がある。そうしたらそのニュアンスを出そうとしたときに、フレーズでもっていくのかメロディでもっていくのか、ことばの力でもっていくのか。「君を」といって、その「君を」に対して、いろんな「だれ」というのがあります。その「だれ」ということばが活きないといけません。

 

 

 その人が「だれ」を全然意識していない、伝えようとしていないのが悪いのです。それはいろいろなやり方があるから、どうやりなさいということはいえないのです。ただ「君を」に対する「だれ」の表現が、「だれよりー(平坦)」にはならないはずです。その次点でそこが流れてしまいます。

 

 「愛してる」のところも同じです。もっとへたなものを聞いたら、わかりやすいと思いますが、このなかのレベルでいうのであれば自分に対して、それしかできないのか、それが選び抜いた表現の一つなのかを判断しましょう。

 

 レッスンですぐにできなくとも、少ない時間で感覚的に何かを捨て何かを選んで、もってこなければいけません。だからパターンをいくつも入れておけばよいのです。それがどうしてもよくないなら、何でも構いませんから何かを起こせばよいのです。それが起きなくて流れてしまうとよくないです。

 

 

 「わかっているよ いくら隠しても」に対して、まったく同じようにおくというやり方とそれを踏まえて大きくしたり小さくしたり、スピードのなかで動かすとか、そこに関してはその人の呼吸と声のスタイルと、そこまでのもっていき方などによります。

 

こういう歌い手は完成度が高いので、ボソボソいっているように歌って投げかけてきますが、皆さんの場合はもっと集約させた表現を、どこかにポイントをおいて、もっていった方がよいと思います。では、つないでみましょう。

 

 

 「わかっているよ いくら隠しても」「君をだれより 愛しているから」。

 途中までは案外うまくいっているのですが、これだけつけると難しいのでしょうか。自分のなかの呼吸とかいうことよりも、もっと大きな呼吸を感じるのとともに、自分のなかでつくるのではなくて、それを前にいる人たちに放り出すことです。

 

あるいはここぐらいのスペースでしたら、そのもっと向こうに放り出すくらいでやりましょう。それがもう少し立体的に動いてこないと、平面のなかで「君を だれーよりー」、という感覚になりかねません。これは全部ひいている感覚です。レッスンなどでも、一人ひとりにことばを前に出させることをやっていましたね。

 

 結局、基本的に「君を だれより」という前に出る表現があって、それがメロディにのったときにひいてしまって「君を~」となってしまったら、そのときより鈍くなってしまいます。提示するところで「君を」「だれより」に何かを入れなければよくありません。

 

 

動かすのはこちらの方「君を だれーよりー」です。条件はまったく同じで、そこで起こすことは、要は目的とイメージで違ってきます。だからメロディや音楽を歌うとはあまり考えないことです。声を聞かせるとか歌を考えることもしないでよいのです。

ともかく「君を だれより」のところで「きみをー」「きーみを」で、おかしいと判断していかないと、皆さんのレベルから上のステージというのは成り立たないのです。

 

 この歌でたまたまだめでも、皆さんのやっているステージではもっと伝わる箇所もあるでしょう。しかし、それを本人が自分でわかって修正してやることができなければ高まりません。いつもシンプルにといっているのはそういうことです。それを歌の世界にもち込んだら、声や音感がよい悪いとか、もっと難しくなってしまいます。

 

そういうのを固めたい人は、材料が研究所にたくさんあるはずです。クラシックは、逆に声を完成させていったら、前に投げ掛けなくても前に出ていくのです。最終的にポップスより声の力だけでずっと前に出ます。

 

 

 もう一度そこだけやっておきましょう。ともかく一つ前に投げる、そこで「君を」をつかんで、それを次にどう動かすかということです。「き」をつかんで「き」を動かす、「君を」と動かす、あるいは「君を」をつかんで「だれより」を動かす。

 

「君をだれより」をつかんで「愛しているから」、あるいは全部つかんでも構いませんが、それをこちらにもってこないことです。シンプルにするために体が必要なのです。自分のところで動かすのではなく、自分のさらに前で動かします。そのままやりましょう。

「君を」を前に出しておいて、このなかに「きみを」と音をそのまま入れていきます。いろいろなものがあってよいと思います。

 

 

 声を出すというのは、のどで働くのではなく、呼吸の方で働きます。結果として頭部にひびいてたり動いたりしますが、ただあてることをやってしまうと声が大きいだけになってしまうので、ポップスの場合は厳しくなってしまいます。

 

 「きみを」というところの前に一つ、つかんでおくことです。体や息でつかむとか、感覚、あるいはポジションという言い方もあります。声のひびきはいろいろ変わりますからどれでも構わないです。のどにかからなければよいのです。しかしそれがないうちに外に出してしまうのは、よくありません。それは思い切り全部引きつけておいて出すという形だけです。引きつけられないと結局出せなくなるからです。体でキープする必要があると思います。

 

 「きみ」というのはことばとしては難しいことばです。「ハイ」になると皆さんのも、もっとストレートに飛んでいると思います。それを皮膚感覚よりは中の内部感覚でやります。

 

 

 「ラララ」、これは口内音です。「ラララララ」「アエイオウ」これも同じようなものです。これは全部感覚や心から離れてしまっているので、その分、楽にできてしまいます。楽にできないのを求めろというのではないのですが、もう少し引きつけて体のなかに入れていくのです。

 

皆さんのなかでも、いろいろなところが出ていたので、それをチェックしてください。歌い上げないように落とし込んでいく、そういうものではないかと思います。

 

 ピアノなどでも弾いていて、イメージしているところを確実に押さえて、鍵盤を押さえている意識はないと思います。ただ、その微妙な調整は体ができていないと当然できません。それはドラムでもギターでも同じことだと思います。そのタイミングでそこを弾いたときに、一番楽に相手にビーンとひびくところがあります。体もそういう感覚に戻してやってみてください。

 

 

 最後に自分の好きな用意してきたフレーズがあればやってみてください。特に何もいいませんが、こういう練習をしたあとにどういうふうに実感できるかということが大切です。

 8フレーズくらいになると、全部が60から70、におろされての勝負になってしまいます。声量だけではなく音のテンポ感やスピード感とかも、楽譜に書かれている情報だけでつくっています。

 

 皆さんのもち歌の場合は、もう少し動き出すのでしょう。「わかっているよ」も自分より歌えない人を見ればよくわかると思います。そこだと何も起きてこないでしょう。その距離が同じだからです。それをもっと密にすることです。

 

 たとえば「つめたい」に全部の80の力を使っても、結局それは80には聞こえてこなくなってきます。最初に80が聞こえたあとは、もう全部同じで、何のチェンジもない形になっていきます。マイクがあったらなおさらそうです。そうしたらそこで何を起こすかです。

 

 

 「つめたい」とやってしまうと今度は音楽にならないというのであれば、今度は「つめたーい」で、そのなかに何かを起こさなければいけないのです。そこは体の違いではなく感覚の違いです。そのあとに支える部分というのは、もう少しイメージが必要になります。

 

常に変化させながら、前にあった変化の伏線に落とし込んでいくのです。距離の詰め方を、歌い手は音の世界でやらなければいけないわけです。役者の場合は実際、動けます。歌い手も舞台で動きますが、それはあくまでも声で足りないから、さらに動くとか、動いた上に声でたたみかけるということです。

 

 だから、いつも距離を同じにとるなということです。一つのことばでも、それを全部生かしていくというのは、それが相手に接近するときもあれば離すときもあります。ずっと接近して歌っていたらうるさいだけです。それを音のなかでどう起こしていくかということが、8フレーズあたりのトレーニングの基本になってきます。

 

 

 部分部分のことはできるのに、集中力や一つの核心ということになると全部のものをならして拡散してしまいがちです。それは日本語の感覚、日本の表現の一つの感覚だと思います。崩さなければよくありません。いつも壊して前に投げるということです。これは、それだけ基本ができていないと戻せません。単にどなっただけになってしまいます。

 

 その辺になってくると、ぎりぎりのバランスの調整や修正が必要です。それをトレーニングでやるべきです。そうでなければ声だけしか聞こえなくなってきてしまいます。

 かなり高度なレッスンについてきているのに、それが8フレーズになったときに一ヶ所も出てこないというのはよくありません。だから、いつも歌のなかでもこうしておこなわれてしまっているわけです。

 

 確かにトレーニングで声もよくなり、息も変わってきますが、3、4年経ってきたら、それはより確実になるだけで、そこで集約して出すことなくして、本当の技術にはならないのです。

そしたら、本当の意味で音域や声量になってくることはありません。その確実性のなかで集約した使い方という方にいかなければいけません。それは頭からすぐに声にするのではなく、やはり腹で歌うことです。だから投げかけなればいけないし、それはしっかりと握っていないと、そのあとに変化を起こせません。

 

 

 「セレ-ナ」のようなスピードのあるものでも同じです。「セレ-ナ」、こうではないですね。皆さんは1フレーズだと、いろんなものを出せるのですが、8フレーズになるとこうやっているのと同じになってします。8フレーズが4つくらいでワンコーラスになりますから、もっとそこではいろいろな冒険をしなければいけないと思います。

 

 それを声量だけでやってしまうと声量がひいてしまうのです。今度は「わかって」とこんな歌い方になってしまいます。感覚でやるのとともに、歌っていないところをもっと重視することです。音やひびきになっているところしか考えていないような気がします。それ以外のところが大切です。このなかでも少し音楽らしくできる人は、そこを考えているでしょう。イメージを歌っています。

 

 映像を観た人もいると思いますが、声や音で伝わるというところの前の部分で、イメージというのをその声で伝えているから、あれだけ押さえ、変わった動かし方になります。それが一致する場合もあります。ほとんどぐちゃぐちゃになっていても高いところのテンションになったときに何らかのテンションをもっている。そこから入っていくのも一つのやり方でしょう。

 

 

 それに近い感覚は皆さんが使っている歌のなかで、今までいろいろとあったと思います。歌っていないところの集中度の問題ではないかと思います。これができたら相当できるのです。

 私の今の条件と変わらないとしたら皆さんも当然一瞬だけなら取り出せば出ます。その体の違いではなくて感覚の違いと、そこの読み込みの違いと、あと自分が材料にできるパターンの在庫の違いです。そこは年の功みたいなところもあります。それをストックし、幅広いなかから選んで決めていくということがキャリアです。これは4クラスでやっていることとほとんど同じです。

 

 たとえばこの原曲のところに音をとろうとしたら、その音の世界、本当の意味で感覚やリズムが入っていないと、出てこないのです。だから音程もリズムもわからないという形になります。ハイレベルなことをやってみてできていないということより、そう捉えている人たちはどうかを聞いて差をみることです。

 イヴァザニッキの「non so mai」「冷たい言葉」のところを聞いて、日本語で「レミファミ」というのと「non so mai」と捕まえるのは違うとわかったでしょう。しかし実際にどこまで見えているかです。そこの部分が最終的な完成点だと思います。

 

 結局、難しく考えないで、これを一体になって捉えるという感覚であればよいということです。要は音感やリズム練習は含まれてはいますが、それを全てとっていこうと思ったらできません。それがやれる状態に自分でおいてみるまで、しかたないのです。そのために自分のトレーニングがあり、他のレッスンでいろんなものを詰めておいて自分のなかが変わっていきます。それであるときパッとやってみたら、パッとできたという状態を確認していく。総合的につながるようにレッスンもそういう形をとっています。

 

 

 

〈黒い鷲〉 

 

とりあえずフランス語でやってみましょう。聞いた通りにやればよいのです。次に日本語の感覚がまた頭を出しているので日本語でやってみます。

 フランス語になると、何かが違いますね。これはどちらがすぐれているというより、文化の問題です。ただ、どちらが大変かというと日本人の方が大変なのです。岸洋子さんほどの声量と基本があってはじめて、この2オクターブの歌をもっていけますが、普通の人がやったら途中で大曲になって、上の方までもっていけなくなってしまいます。

 

 ところがバルバラの場合はコンスタントに最後まで歌っています。それは体や声の違いより、実際感覚の差だと思います。この辺が一番日本人に見えにくいところだと思います。そのレベルのことでこなそうとするのであれば、外国人から学んだ方がわかりやすいでしょう。違いをよく聞いてみてください。

 

 私がよく歌の注意として、同じところに平行線で歌っていても何も起きない、もっと引きつけたり出したりして、この距離をとらなければいけないということをいいますが、これを単純にいうと高低アクセントと強弱アクセントの違いです。こんなことでは説明はつかないのですが、少しでも何が根本的に違うのかを気づいてください。

 何で最後にこんな変な切り方をするのかというのが最初の感想だと思います。動かすとか変化させるということは考えなくてよいのですが、とりあえず、その中立におくことです。ヴォイストレーニングで一番大切なことはそこで邪魔しないことです。

 

 

 「いつかー」、どこかで邪魔していますね。そういうふうに頭の感覚で先に邪魔をしてしまいます。「いつかー」「ミレドー」、これをいわなければいけないのではない。

聞いているときには「ター」、「ンボジュー」と聞こえてしまう。そうしたらそのまま「いつかー」とした方が正しいわけです。

ただ、正確に歌おうとすると「ミ・レ・ドー」がくる。それから「いつかー忘れた-けどー」。その方が音楽に近づいているように見えますが、実際には大変になってくるだけなのです。

 

 こんな半オクターブのところであたふた、やっていたら、この2オクターブの歌をどうやってもっていこうかとなっていきづまります。普通の人がこれを歌うと、いきなり上の方にいってからまた下に下がったとか、聞いている方はそういうふうに見えてしまうでしょう。

 

 

 バルバラの場合はそういうのは見えないはずです。ただどこが強くてどこが弱いかです。それは感覚的に最初のところにあるものだと思います。階名でいうと「レド♭シー レミファファードドー」、5つのスケールのなかでおこっていますが、それを意識しないでとってみてください。それをぼやけないようにします。

 

「い・つ・かー」と区切るのではなくて、そこで何が起きているのかです。カウントするわけでもない。「タタター」に対して自分で「タタタータ タタ」とか「タタタタータター」とか、それは自分でつくって構いません。その感覚のものがコントロールできているかできていないかという前に、まずそのイメージをもたないとよくありません。

 

 息がなくて頭だけで考えてしまうと、すぐに「いつかー 忘れた-けど」、こうなってしまうと計算が働いていて頭から口にいっているだけですから、呼吸をそこに読み込んでこなければいけません。だからいろんな意味で難しいのです。

 一番よいのは伴奏を入れて、そこを心地よく感じたまま、自分が心地よく出そうとしたときにどうなるかということです。あとはそれを打ち破ってみたり引いてみたりということになると思います。

 

 

「ある日 目が覚めると」

 なるべくシンプルにまとめていく。それはていねいに歌うということよりも、むしろ入れるところにより入れ込むということです。歌の距離ということで、「いつか 忘れたけど」というところは「いつかー」、ここなのか、「いつかー」、こっちなのか。「忘れたー」はどういくのか、それを自分のなかで起こしていかなければ、当然、聞いている人にとっては伝わりません。強弱アクセントの方がそうことがやりやすいのです。

 

 要はどこかで密度がぐっと高まる、どこかに対して加速度が上がってくる。物が落ちるときと同じです。こういうしぜんな動きが出てくるのを、日本語はていねいに歌えば歌うほど、階名もですが、それを切ってしまいます。

 ですから日本語で歌うときというのは、気をつけなくてはなりません。トレーニングのときも「いつか」を3つで考えないで、「いつか」や「いっか」とする。

 

「わすれたけど」か「わすれたけど」とか、そうやると日本語でも否応なしに一回まとまってくるでしょう。このまとまってきたものをもう一度配分します。その配分する数の音節の数と音符の数が、日本語の場合は同じですから、そこに固定されてしまうわけです。

 

 

 ところが外国語というのは、そこのなかにいろいろな音がもっと複雑についていますから、とても柔軟になります。「アンボージュー」というところを、それを3つに分けると考えなくてもよいわけです。「いつか」の場合は3つに分けないとどうしようもないでしょう。だから日本語で勉強するのであれば、一回まとめておいて、逆に音を線にしてしまうしかないのです。

 

 「タタター」ではなく「ター」、このなかでどこに密度があるのか。本当は密度があるところは息が吐けるところです。拍になるところですから。何も考えなければ1拍目と3拍目、それをしっかりと維持させるのが2拍目と4拍目です。これは日本人の感覚にはほとんどないので、アフタービートが難しくなります。これでいうと「いつかー」の「いつ」というところがダウンビートで、ここで声には出さないのですが「かー」のあとに粘っておくのがアフタービートです。

 

それから「忘れた」のところも3拍目の裏なので「た」のところまで強く出られないのですけれど、でも次に「たけど」が降りられるところまで上がっておくということです。その感覚は我々にはないのです。

 4拍目に指揮者が上まで棒を上げます。これがアフタービート、息を吸って次に降りるためです。これが、距離をとらなければいけないということです。

 

 

 基本的にバルバラの歌い方はそれに忠実に歌っています。それは呼吸と拍とを合わせています。日本語になっていろいろなものがついてくると複雑になってきます。だからなるべくそれを「タタタ- タタタタータター」ではなくて、「タタタータタタタータター(強弱)」とする。

 

 一番違うのは、日本人は強くやることを長く伸ばします。これは歌を聞いていたらそうなってしまうのです。それが一番表現を強く出すときの方法として使われています。ところが外国人の場合はそうではありません。短くてもそれに息がこもっていたら、拍が強くなります。

 

それが実際に声に反映されていてもいなくても感じられてきます。子音など、声にならないところの声も随分多いです。それを全て伸ばしていくとどんどん大変になってくるということです。伸ばしたということは、次のところでどこかを短くしなければいけません。日本の歌は大体それでいってしまいます。

 

 

 もっとも簡単なやり方といえば、どこかを強くしてどこかを短く切ってしまえば、その間、保てるということです。これは一つのインパクトなりパワーですが、日本のなかでは、こういうものを歌ってどこかを強くどこかを弱くというのはないのです。

 

せいぜいリズムの1拍目、3拍目を長く打つことです。そうするとガタガタした歌になってきます。だからそこにもっと音を流しておかなければいけません。トランペッターでもバイオリニストでも必ず、どこかに強さや粘りのようなものを入れています。その辺を少し聞いてみてください。

 

 一つひとつが完成しているから、次につながっています。次の4つを見ていて、1つ目があって、この4つ目は次の4つ4つを見ているからあるのです。そういう構成を向こうの人たちは形式としてはっきりさせています。

 たとえば日本人の歌い方は、伸ばせるところや伴奏が盛り上がっているところは全部ビブラートをかけて伸ばしています。それは部分的な解釈です。

 

 

楽器の演奏の人はやらないことなのに、歌い手の場合は、ビブラートをつけた方が盛り上がってくるのです。それは音量感で勝負する世界です。クラシックから入るとそうなってきます。

 ポップスの場合は歌い方を比べたら、必ずしもそうではないでしょう。むしろ強さというテンションをどう配分していくかということになってきます。

 

 向こうの人はハーモニーという考え方が基本です。「ド」「ミ」「ソ」と押したら、聞く人がハーモニーを感じるだろうという考え方です。別に伸ばして揺らさなくてもよいのです。

 この辺からでいうと、トランペットやバイオリンを聞いていた方がわかりやすいです。伴奏の人たちもプロですから、一つの音の世界をつくりメッセージを与えているわけです。

 

それを一つの凝縮した方向をヴォ-カルがひっぱるわけです。そこにどう練っていったりセッションしているかを、音楽はトータルとして聞くわけです。当然ヴォーカルもそれを理解していなければいけない。

 どちらが先ということはないのですが、そういう音の入れ方をしているか、いかに伴奏と合っているか、一致していて狂っていないのか、ということで、それは同じところを歌うということではないのです。

 

 

向こうが開けているところに入れ込んでみたり、一緒に合わせてみたりします。それが音の世界の意味を与えたりつくり出すということで、ことばや発音、音程がどうこうというより、大前提として必要な部分です。

 

 2番になってくると、いろんなところを開けてきます。岸洋子さんの場合も原曲を聞いて、開けているところを開けていますから、全部そこからまた最初で入らなければいけないでしょう。バルバラの場合はそこを開けたということは、歌っていないけれど完全につないでいますから、次の入り方は前のところをしっかりと踏んでいます。

 

それは音楽的な完成度の違いになってきます。録音の状態が必ずしもよいわけではなく、とてもわかりにくいところもあるかもしれませんが、音で完成した作品というのは一つとして意味のないものが入っていないものです。歌詞でもそうです。そういうことを入れながら、音の世界、音に意味を与えるとはどういうことかをしっかりと1曲のなかでおさめることです。

 

 

 これを全部の曲でやるというのは難しいですから「ミレド- ミファソソーレレー」これだけでもよいです。このなかに「いつか 忘れたけど」が100でも200パターンでもある。そのなかの一番よいのはどれなのか、声からみてよいのはどれなのか、それから音楽の世界から見てよいのはどれなのかと、これを常に意識してください。

 

 最初は反します。声がよいといったら、体を使ってゆっくりと用意してやればよいでしょう。でも音楽は次につながらなければいけない。そうするとセンスのよい人は声のことは顧みないで、とりあえずその流れにのってリズム感よくやってしまいます。

 

でも体が伴っていなければ、それ以上の速さになった場合ついていけません。バルバラも速いところはすごく速いのです。皆もテンポ的にはとれるのですが、その速さは体が完成していないと、あるいは音の感覚が完成していないとついていけないのです。その辺の差というのは全部出だしで象徴されて出てきます。

 

 

 この1曲を今どうこうというより、いずれこの歌1曲を一時間でやれるようになります。今はその1、2フレーズをコピーして、自分の音をしっかりと捉えていくことです。その音が楽譜にのったとかいうことより音楽になることです。

 それはことばでも同じです。「いつか忘れたけど」と何回もいっていても、そのなかで何かフレーズが出てきたり、音や音楽になってきたりする。それををじっくり待ってください。ここで伸ばしたくなったとか上がりたくなったとかいう動きがあって、それがメロディになってくるのです。

 

 人の歌をどんどん崩してやってみて構わないのですが、でも音楽は音楽のルールがあります。こういうのを見てそれにのせることを勉強してもよいと思います。自分のイメージしたものに対して、パッとそれに対応できる体をつくっていくということと、イメージ力です。これは聞き込めば聞き込むほどついてきます。

 

 全然慣れていないと「なんだこの歌は」と思うのです。最初に1回、聞いたときは「なんでこんなものがその国ではすごいといわれているのだろう」と思うものです。でもあとになって考えてみると、それは、こちらに聞こえていなかったということです。時代に合うかどうかありますが、人間の体の原理で読み込めば、やはりすぐれたものはそれを正しく引き出してきています。

 

 

 少々無理かもしれないことは承知の上で、若干わかりにくい課題から入ったところです。次は「いつか 忘れたけど」、この5つの音です。

 間を読まれてしまったら次からそこから抜けられなくなってしまいます。だからなるべくそれを読まれないようにするのです。「ララー」と出していたら、より入れることもあるし、より小さく入れる場合もある。当然相手に期待させなければいけません。

 

 音の世界は自分の放り投げた音をどう効果をあげていくかです。バルバラはそういうところをしっかりと読んでいます。だから一見おかしな切り方になっています。こういう切り方は普通はしません。しかし、音を投げていったりぶつけていったり、割っていったりひびかせていったり、それはとても楽器的な使い方なのです。

 

ことばとしてメロディとして、のせていこうという感覚そのものがないというよりも、向こうのことばそのものが日本語と違うので、そういう中でパァ-ッと発せられてひびいてみたりシャウトに入ってみたりしているのです。

 

 

声で問題のなかった人は、「いつか」「ラララー」、でののんびりさをとらなければいけません。「ラ」と入っていけることとそこでしっかりと切れることで、同じ一秒のなかでそれだけ余裕が生まれ、余白が生まれます。いろんな可能性が出てきます。

 

 体力と集中力がないと、「ラララーララララー」となってしまいます。「ララー」でよいわけです。どこにそれを使うかです。だからもっと凝縮して、その使ったところをしっかりとつなげて、あとは休んでいればよいわけです。

 

水泳の場合でも、全部力で掻いていたら疲れてしまいます。かくところだけ掻いて、あとは全部リラックスさせるわけです。人間の力の働くのは同じです。それが拍、つまりリズムになっていたり、あるいはことばがついて動かせるところになっています。その辺は日本語とはまったく違います。次のところにいきましょう。

 

 

 「大きな空が」も同じです。「おーきなーそらがー」、こういう歌い方を最初から、そこの距離でとってしまったら、最後までそれに反することは起きないのです。起きる可能性をその人が閉ざしてしまいます。アイドルなら、そういう歌い方で通用するのかもしれません。同じ平行線で似ているようにする。それはそれでやり方というのがあります。しかし、こうなるとことばをずらすしかないわけです。

 

 今、皆さんにやってもらいたいことは、それを呼吸としっかりと一致させることで、口先と頭の計算でやることではありません。だからイメージがはっきりしないというのが一番困るわけです。その人はどういきたいのかというのはイマジネーションの問題です。

 

 今日やっていることは声量もなければ、体もなくてもよい。イメージと感覚だけがあればよい。それに声が伴えばそちらにいく。声が伴わない舞台でもポップスの場合はもちます。結局、自分がどうつかんで、どうもっていこうというのがなくて、全部均等においているのですから、日本語と日本語の歌い方から生ずる問題です。

 

 

 ですからこういうもので、よりとりたいところをしっかりとつかんで、あとのところに関しては、それが出ない限りあまりこだわらない方がよいということです。英語に限らず強弱アクセントのある多くの言語での考え方です。強が弱を全て巻き込んでいく。その動きが出ていれば通用します。ところが弱を生かすがために強も弱まってしまったら、何も伝わらなくなってきます。

 

 ましてここはリズムと音感でもっていかなければいけないところです。それを呼吸まで引き受けてやらなければよくありません。うまくできている人もいます。よりうまい人と同じ場でやるときは、すぐに音をとるのではなくて、そこに「いつか」というのをどう出すがということを考えていくことから、学びましょう。

 それで伴わなければ、声の勉強やいろいろなことをやらなければいけないです。やはりまだ大きな課題がそこにあると思います。

 

 

 「ミレドーミファソソーレレー」、これでもピアノで弾くとこうなります。これは間違いではないのですが、これ以上何もできない。歌でも同じ、「タタタータタタタータター」これは間違いではないのですが、それ以上の何物でもないわけです。結局何にもなっていないのです。

 

 ことばでやっていく方法やメロディから流れをつかんでいく方法など、いろいろありますが、皆さんが思っているよりも早く「いつか」と入らなければいけないし、早く離すかあるいは保っておいて離すかして、その点というものを合わせなければいけません。その点の合わせるところが1・2・3~に合っていればよいというのではないですね。スピードが必要です。

 

 この一曲のなかでもいろいろな部分があります。リズムがこうなっていたら、うまい人はここに合わせるのか、弾いたところに合わせるのか、よくわかりません。しかし、その瞬間的なものを体で感じていなければいけないのです。

 裏でなければ全部表だということではありません。その間にいろいろなものがあります。そこに合う合わないというのは、8ビートだから8つとるわけでもない。それをとった上で外していかなければいけないということです。

 

 

 声ということで「いつか」だけをことばでいって、それで自分が好きに音で変えてください。「いつか」といってみて、それを「いつかー」とこうならないようにします。「いつか」というときには体が働く。そうすると「いつか」でも「いつか」でもよいのですが、それが「いつか」と聞こえるように、音楽をつけたら「いつか」といったよりも長く伸びます。長く伸びるのは構わないのです。ただ、全部均等に「いーつーかー」と伸ばすと表現はとんでしまいます。

 

 「いっかー」の方がまだましです。「つ」が聞こえていなくても何かが起きたということで、聞く人は次を聞きます。大体歌はことばで聞いていません。要は自分がどうやりたいのかを凝縮させなければいけないのですから。拡散してしまわないことです。そうすれば音楽がそこで生まれる筋ができます。

 

 やりにくい人は「ある日」でも「忘れた」でもよいです。「いつか」は少し難しいことばです。

 セリフでいうところとまったく同じように「たけど」といって、そのときには計算する必要はないのです。そこで出したら、自分の呼吸が教えてくれます。

 

 

 ただそこで自分で体にまかせてしまうと体は統御できません。そこでは感覚の方が体をコントロールしているという必要はあるわけです。聞き手が聞くのは、そこでどのくらい敏感に歌い手がコントロールしているかということが結果的には心地よさになってくる。やって欲しいことは「たけどー」、なんかおかしい、「たーけどー」、もっとおかしいというふうに修正していきます。

 

 「た」を言い切れるようにすること。それが言い切れたらあとは「たーけどー」「たけどー」でもよいですし、全部流れていきます。ところがそれが言い切れないで「たー」となってしまったら「たーけーどー」と自分でつくらなければいけない。自分では意図的にはつくらないのです。必ずどこかを引き締める点は必要であって、そこで起きたことをしっかりと受け止めることです。

 

 バルバラの歌い方がそうです。どこかで「タ」といったら「タ~」や「ター」などいろいろなことが起きる。そこの前のところがしっかりと押せていたら、それは構わない。そうでなければ理解不能な歌い方となります。それはノイズではなくて、歌い手の個性になってきます。それが言い切れないで、「たー」と出してしまったら、「けー」「どー」のように基本からそれてしまいます。

 

 

 基本からそれていくということは、クセが全部出てきてしまうのです。そのクセを全部消すところの中心にあるものが基本です。基本はそこを押さえることによって、次にいろいろなところにいけるという可能性をつかむ音です。歌のクセを完成させていくことは不要です。

 

 フレーズのなかでのデッサンが必要です。いろんな線が描けます。でもこの線を描いておけば一番可能性がある。上にもいけるし大きくも小さくもできる。それをみつけることです。「たー」と出してしまったら次に何もできなくなる。次に音をとるしかできなくなる。

 

そういうのは出してはいけないと自分の感覚で判断してやっていくのです。それをのどで押しつけたり自分のひびきだけでクセをつけて音をとっていくとやりやすいのですが、全体のなかで無理がどこかに出てしまいます。

 

 

 今、皆さんにやってほしい練習は、とても端的にいうと「たけど」、それだけです。「た」とお腹から瞬間に出れること。それが出たときに「た・け・ど」では、センスも何もないですね。出れるのに、音楽を考えていないのです。次に何かを自分でおこうとする感覚まで出しておくことです。そこから出てくる声を導きだしていけばよいわけです。音楽はその繰り返しです。

 

 「いつか」といってみて、次に何かをいいたいとなったときに「忘れ」となる。いろんな「忘れ」があります。ただ、それは結果として「いつか忘れたけど ある日」ということをことばやメロディでいわなければいけない。そういう意味をもって使われるものであって、鈍く「いつか忘れた」と、どこか歌おうと思って、雑においてくればよいということではないのです。

 

「た」に「けど」が歌わなくてもついてしまうことです。何も歌わない。そこの核心を握っていたら音楽が生じてくるという空間をつくってやることです。

 

 

 バルバラは後半、どんどんと歌詞を抜かしています。その前に歌っているので、結局そこの歌詞やメロディはいらないからです。伴奏を弾いていたら、聞き手の方がそれを知っているから、イメージしてもっとよく解釈してくれるというので捨てていきます。

 

そういう歌はたくさんあります。だから、それまでにそのことを植えつけなければいけません。だから間を抜かしてみて音楽としてもつか考えればよいのです。もっと究極の練習になると「か」「た」「あ」「め」ということです。「め」がうまくいきませんでした。

 

なぜ今「め」に届かなかったかというと呼吸をしなかったからです。体に戻さなかったから、集中できないで疲れが出て届かなかったのです。失敗しても自分でわかればよいのです。こういうことを1フレーズのなかでどんどんとやって、壊し、生じさせなければいけないのです。音楽的なことがわかっていたら、音感やリズム感が伴っていなければおさえられなくなるからよくないのです。

 

 

 「いつか」といっても、そのあとが押さえられたら、どんな歌い方でもよいわけです。だから何も起きないよりは何かを起こさなければいけません。起こし方はすぐれた歌い手はいろいろなことをやっています。唱歌を歌うわけではないので、きれいな声で歌ってみてももちません。

 

 そういうことを考えながら、部分的なところを勉強してください。こういう練習はイタリア語やフランス語でやった方が日本語よりはやりやすいはずです。やらなければよくありません。レッスン中だけやってみて、わかっても身についていません。来年やってみても同じでしょう。

 

自分で発してみて、そのとき体で何が起きたかをつかんでなければよくありません。ギターでもピアノでもそうだと思います。自分で集中していたら何かが伝わるということではないのです。最終的に伝えることが目的だったら、どう伝わっているのかから考えて、伝わるように弾いてみようというところから入ってみることです。

 

 

 特に音声のなかで勝負していけない人は、音のなかで何が起きているかということで敏感になってください。ことばが聞こえなくたって、バルバラのものは歌が聞こえてくるわけです。そこが音楽的な使い方ということです。どこかで急に切ったり、急にバーンと入れたりしても、音楽としておさえる力があるからそれがおかしくは聞こえてこない。

 

こんなやり方もありかな、自分ではそう歌いたくないけれど、これはこれで認めるしかないという何かをもっているわけです。それに関しては、ある意味ではていねいさや繊細さもあるのです。

 

 「た」から「けど」の間に何が起きているかをみるような力が必要です。とても細かいのですが、結局そこが一番練習になります。バルバラに限らず、バーバラ・ストライザンドあたりもそういう意味では表面だけのまねはしないようにしましょう。だいだい皆さんがとっていくと、同じテンポで歌っていながら怠慢になるのです。これは、全部を歌っているからです。

 

 

 彼女のように引き締めたところだけしっかりととって、かなりのスピードで入ってかなりのスピードで離さないと、あれだけの歌詞を同じテンポのなかに入れられません。同じテンポのなかでもそれを早い感覚で入れることも、ゆっくりな感覚で入れることもできる。

 

この歌でも、その感覚がなければ「いつかーわすれたーけどー」とこのくらいのテンポです。これを聞いて、皆さんがやるときに日本語使うことで既に遅れてしまっている。その辺はいろいろな人の演奏から学んでみてください。

 

 日本人の場合は原曲をやると、大体全てに関して遅れます。でもテンポは合っている、ということは一つひとつが全部間延びしているということです。だからほとんど全部を歌わなければいけなくなってしまうのです。

 

 

 向こうの人たちは半分以上、パッと発するわけです。「た」と「たー」といっているのとは違いますね。「た」といっているのを、こちらが「たー」とカウントしていまうのですが、向こうは「た」としかいっていないわけです。それで吐き切ってしまうので、次に入って充分に用意ができるのです。

 

その辺を読み取れば、いろいろな練習になると思います。原語で聞いて、ぐちゃぐちゃでもよいから聞いたとおりにいってみるというのもトレーニングになります。そうしたら何がいえて何がいえないか、自分が思っている以上に強く鋭く出しているということに、気づけると思います。

 

どんな歌でも欧米の歌は大体そうです。先ほどのハワイアンや沖縄になってくると、違う意味で難しいです。しっかりとそれをつないていかなければいけないのです。