「レッスンに出る心」1191
レッスンに出る心のあるとき、それはたとえうまくできなくとも、何かが支えてくれている。
レッスンに出る心のなくなったとき、それは一人でやらねばならぬ。
一人ではやれたつもりでも、人前ではやれていない。
人前とは、一人ではない。だから、レッスンが必要なのである。
レッスンに出る心をなくしたとき、人前に出る技も、すたる。
それは、しばらくは過去のレッスンに出ていた心によって支えられているだけ。
だから、レッスンに出る心、それを失わないことが、可能性を広げる。
レッスンで何かを得るのは、簡単そうで難しい。
そう簡単に得られるものではない。得ているつもりのものなど、大して役立ちはしない。
何かが人前で本当に花開くものとするならば、それを咲かせるのは、レッスンに出る心でしかない。
レッスンで何とかなるものではない。
レッスンに出る心、それが何とかする。
レッスンをやめてよいのは、その心が宿ったとき。
やめても、レッスンは毎日、行なわれるから。
多くの人は、宿っていないのに宿ったと勘違いする。
だから、やれなくなる。
やらせてもらっているのを、やれていると勘違いする。
うまくいかないのは、やれていないから。
やれていないことがわかり、レッスンに出る。
この心がなくなったとき、その人の成長も止まり、
芸の進歩は、かなわなくなる。
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「一念三千」
腰を据えてとりくむこと
1.森を見て木を見よ
2.神は、細部に宿る
3.初心、原点に帰れ
声楽をとり入れたのは、声を強くしたり、声域、声量を増やすためではない。
いかに声を細部にわたって、ていねいに扱うかの感覚を身につけて欲しいからである。
ここに入った多くの人の原点は、私のレクチャーから始まったはずだ。
ここで“声”をみて、それを手に入れたいときたのではなかったのだろうか。
それが数ヵ月も断たないうちに、自分たちで自分たちを伸びないようにしているのは、なぜだろう。
感覚的に学ぶというのは、情緒的になるのとは、まったく違う。
創造に至る耐性がなければ、キャンパスライフ、カルチャーセンターとなる。
つまり、同じレベルのくり返しとなる。
きっと、ここの場は、皆からみて、けっこうしんどいものなのだろう。
でも、こうして世の中の大きな流れと自分の足元の細かい動きを結びつけなくては、何ら、生じまい。
声楽、ヴォイストレーニング、歌、トレーナー、レッスン、教材は、材料にすぎない。
なのに、その“木”しかみていないで、つべこべ言う人が増えた。
遊びでも勉強でも、ライブでもトレーニングでも何でもよいが、中途半端は何にもならない。
それを自ら選んでいる人が多いように思う。
そこですごいなと思わせる努力なくして、何かが成し得ることはない。
本質、核をみること。どうしてそんなに周辺や外野の声、
しかも何ら大したことをやったことのない人たちの声に動かされるのか、
私は知りたい。
そういう世間によい顔をしている間に、
ひたすらやっている人は、力をつけている。
自立するというのは、
孤独に耐え、創作していくことである。