レクチャー 1192
【「感覚での対応」 3910】
いろいろなものを聞くことによって正されていくしかない。真剣に聞くことです。何でも自分の状態のいいときに得意な歌を歌って、それでプロと違うというのなら、そこまでのことは、ここで捉えなければいけない。それで自分なのですから自分を否定しなくてもいい、もっと深い自分にする。
そこを変えない限り上達はしないということです。
こういう課題にパッと取り組んだときに感覚の変化が起きます。起きるというのは苦手だなとか声が出ないとか音がとれないとかいうことで、それがそのまま課題になるのです。
皆のレッスンの判断はどちらかというとうまくこなせたとか無事に終わったということではないでしょうか。それだったらレッスンに出る必要がません。レッスンに来なくてもその力があるのです。
レッスンに来るということは自分がそこで対応できなかったことを知ることです。そして、きちんと煮詰めなければいけない。対応できなかったことは、自分の体のなかに何かの条件が足りない。その根本にある感覚は一体なんだというところから補強していくことです。
音が狂ったといってそこだけ覚えてみても同じ問題はいくらでも出てきます。他の人でとれる人がいるのに自分がとれないということは、どこが欠けているのかということです。
長年かかっていたらだんだん慣れてくるのです。
ただ初期の条件に関してはなるだけ早くクリアしたいのです。つまり、とりくみかたです。
まずは、ベターな声の部分をベースにしていきましょう。
ヴォイストレーニングではh、自分のベターな声以外は出さないでトレーニングした方が本当はいいのです。そんなことは実際にはなかなかできません。
でも悪い発声でがんばってクリアしようと思ってやっているのでは、悪くなっていってしまいます。そういう人も巷にたくさんいます。
トレーニングの一番大切なことは感覚で入れていくことです。その感覚を変えていかないかぎり、そういう面での上達はありません。それを補強するのが体です。
体や声を目的としてもほとんどの場合は、あるところ以上はいかなくなります。
すべてに関して、まずは自分の見えているところまでしかいけません。
伸びた人の共通の特徴というのは、自分にとても厳しいということです。
会報などもそのために出しています。
聴音の勉強をしてみましょう。他のクラスのを聞いて、自分なりに判断をつけてみましょう。それが1、2年後にきっとあなたが、ここの仲間とやっていることです。
いろいろな例があります。まず声をきちんととらなければよくありません。ただそれは声をとることが目的ではありません。
その声を動かす、自分でコントロールしなければいけない。それから、それが音の世界に入っていって表現されなければいけません。
その表現が誰かのものであってはいけません。自分の呼吸で行われていなければいけません。
歌い上げているのでは、ほとんど失敗してしまいます。
要は、そのことを表現するところから最低限の声を最大に動かすのです。うまくできているのではないでしょう。もっと基本的なところで音が狂っているものもあります。
少なくとも、そのために声が使われているのです。そのことの原理にきちんと合っていなければどんなにやっても正しくはならないのです。
皆のなかで正すには、力でやって出せるものからがわかりやすいです。力が働くということは力を働かせてはだめでしょう。そこが肝です。
ピッチャーでも力で投げたら暴投になってしまう。力が働くときというのは力を働かせてはいけない。しかし、力を抜くためにはそれだけ力がなければ力が抜けない。そういう方向で捉えていかなければいきましょう。
1ヵ月目だからできなくて2年たったらできるのではありません。2年たっても5年たってもできない人はできないのです。もっというのなら、それを統御する感覚がつかなくてはできないのです。その感覚が音声に対して宿っていないといけません。
どんなにすぐれたスポーツ選手でも、歌になったら器用に歌えても、歌い手とは違います。普通の人よりはうまいかも知れませんが、プロの世界では到底、通用しない。
そういうことで、わかりにくいところは自分が今まで経験したことから補うと早いと思います。
何かがどんどん進んでいって、どんどんできていくことではないのです。むしろ自分のなかに今まで入っているこのをすべて使わなければいけないということです。
そうでないと20歳を過ぎて取り返しつかないです。5歳くらいからやっている人もいる世界なのです。
ただヴォーカルの場合は、音の世界や言葉の世界は、相当なものが誰にでも入っているのです。だからそれを使わなければいけません。そこからそれたようなことをいくらやってみてもだめだということです。
自分が今までの人生のなかで一番声が楽に出たときとか一番感情を込めて声を伝えたときがあったら、それを取り出しましょう。それを突き詰めないところで、つくっていても、大したものになりません。多くは、おかしくなっていきます。
自分の実感のないところで物事はつくっていけません。それを体で実感する段階も感覚で実感する段階も必要なのです。
皆がこういう曲を歌いたいわけではありません。これに応用できるということは、それだけ柔軟だということです。その応用性が必要です。
声や体の使い方、息がそれだけ強かったり音感が鋭かったり、いろいろなことでカバーできる。そこで、どの力をもっとも使えるかがオリジナリティなのです☆。
そういう見方で、つけていく基本の力というのは、音程やリズムではありません。どんなものがふっかかってきたときにも、パッと対応できる力です。
リズムがとれているかというのは、ボサノバ一つでも歌うとわかります。それでとのれないということはボサノバに慣れていないのではなくて、基本のリズムパターンが入っていないということです。
たかだか8つで刻む応用です。しかし、16で刻めないとできないのです。
楽器をやっている人はわかるでしょう。それを楽器でやれても声でできないならしかたない。そういうふうに考えて、同じところをやってみればいいのです。
早くそのギャップを知って、それをこの場で埋めてほしいのです。
消極的です。もっと自信を持てばいいのにと思っています。やれるところまでしかできないのですから、まずやれるところまでやりましょう。出し切らないと先にいかないです。
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「Time Say Goodbye」
「ひかりのきえたまち みつめあう」
呼吸をチェックします。そういう意味で次のフレーズまでやります。
「タイム」の「タ」というところが出れば、その後は同じなのです。歌は凝縮されています。
「time say goodbye」というのでも「ti~」というのができていれば、そこまでいっているのと同じです。
3つのフレーズを歌わなくても一つのフレーズとその前後の音を歌えば、その呼吸が全部決めていく。同じようにやっていきましょう。
今、わからないものも半分は慣れです。レッスンは足りないところは自分のイマジネーションとか自分に入っているもので補うのです。
歌も同じで、いわれたとおりに歌ってみても完成しないのです。何かの材料を与え、そこから組み立てます。
曲として与えられたら99%歌ができているように思いますが、歌い手のやる仕事はそれが100分の1になるくらいの100分の99をつくらなければいけないのです。
わからなくなったら自分でつくればいいのです。音程やリズムが違っても歌になっていればいいのです。その歌を歌うのではない。レッスンではあくまでも材料です。
ある程度とれたりやれる人が、このなかにもいます。そこに見える少しの差というのは、相当、大きな差なのです。
いつも何でこんなことをやるのだろうと思うような人もいる。それは、その人自身が自分で気づくしかない。いくら指摘してみても、本人がそれでいいと歌っているものを他の人が直せるものではありません。
そこで基準をトレーナーがとってしまうと、そのトレーナーがいうようにしていればいいとなります。そういう教え方は、よくありません。
それは私は待ちます。2年たって気づかなくても3年目に気づいてもいいと思う。自分で気づいたらそれは直るからです。自分で気づかなければ直らないし、もし直ったとしてもそれはトレーナーのいった通りに浅く変じただけで悪い方向にいきます。自分がいったい何をやったのかということをきちんと知っていくことです。
たとえば録音を聞いてみます。それから映像を見ます。
今一番やれないところはどこなのでしょう。
皆にある感覚自体が、クラシックや外国のあるレベル以上のヴォーカリストには、声そのものの深さや音色の豊かさのところで負けてしまう。
たとえば、私が楽々やっていることが、自分でやってみると音程ギャップがあるとか、こんなに上がるのかと、ピッチが正しくとれている人は、そうなったはずです。
そうでない聞き方では聞いていないということです。音程やリズムをそのまま口ずさめるような感覚なのかもしれませんが、向こうのを聞いて、自分でコントロールしてみて同じ感覚で捉えていますか。
まず感覚で同じということができていません。だから自分で出してみたときにこんなに高いのかとかこんなに離れているのかということが起きやすくなります。これは声自体の条件も違うからです。
ここで変えてほしい根本的なことはそこです。日本人として勉強して、気づかないところです。そこを直さないと、日本でもっと勉強している人もたくさんいるのですから、到底かないません。
日本人の感覚を一回切ってしまって、人間のところで共通の感覚を持つことです。そうすると日本人が高低にこだわりすぎてメロディアクセントをとりすぎるものを止められます。
向こうの人はそのようにはとってもいないで強弱で考えているようなことがみえてきます。そこの切り替えができていないということです。
むしろ歌を勉強してきた人ほど、そういう方に全部いってしまうのです。正しく出すことに執着して自分自身の表現から離れてしまうのです。そこの部分では一生、正せない人がたくさんいます。
2年で1オクターブを完全に使いこなせる人はほんとうにわずかです。だから、まずは半オクターブできれば上出来だといっているわけです。
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【入門 学び方☆】
「ヴォーカルの学び方」の本に載っているものからです。いつもいろいろな学び方というのを、考えさせ、姿勢を改めさせて、声を出させています。理屈や学び方に関しては、本や会報にも書いてあるということで、レッスンでは省略です。
会報を読んで、始めから声と体づくりに入っていきます。
この辺で正しく比較することは難しいのです。今年のオーディションで合格が1人も出ないというのは、2年、3年やっている人が歌って、それでトレーナーに認められていないということです。2年、3年やったことの成果があったとは、いえないということです。
それなら、また、やり方を改め、現実の状況に適応させていくことが必要です。
そうでないと、あなた方もまた2年後のオーディションで全員落ちるからです。
その状況というのには、いろいろなことが含まれます。
仮にトレーナーがどんなに優秀であっても、研究所にいろいろなものがあっても、その主体のあなたが使い切らないと学びようがありません。
トレーナーはステージで手伝えることはない。そこまでの環境や、場を整えるくらいのことしかできません。その主体であるあなたのなかに、どのくらい力が働くかということです。
あなたの性格、舞台への覚悟、情熱、やる気、今まで音楽や表現とどう関わってきたかというのもあります。その人のテンションとか、ここにきているときにどう過ごしているのか、あるいは自分で練習しているときに、どうやっているのかという、心構えみたいなものも、全部総合されて結果に現れてきます。
状況が難しいというのは、スタンスのとり方に個人差があるということです。
手取り足取りというのもやれないのではないのですが、そういう状況に合わせて、レッスンのレベルを下げていくと、そのレベルをクリアしてみても、大して上達しないことになるのです。
そのくり返しで、たどりつけるところはしれています。大切なことというのは、あなたを大化けさせ、逆転させなければいけないということです。
そうでなければ、懇切ていねいなトレーナーに徹すればよい。しかし、それは勝てないトレーニングに甘んずることになります。たぶん、トレーナーが生徒に対応した結果です。
これはしかたがないところがあって、音程、リズムが取れない人に、いきなり歌わせても無理なので分けてやっている。
でも、本当は少しも無理なことではないのです。
こういう養成期間が成り立ったのは、来る段階で、本人がそこに立っていたからです。そのことを生涯通していこうと、そういうスタンスでいたからです。
そこまでにライブをやってきたり、音楽もいろいろなものが入っていたので、その上で声の再鍛錬、調整として、このヴォイストレーニングがあったのです。
今度、オリジナルフレーズ特集をやります。そういうものを年に何数回しかやれないくらい、ベース以前のことをしなければいけなくなっているのです。
ここは研究所ですから、必要があれば、こうして何でもやっています。
普通の音楽教室であれば、こんなことをしゃべっている間に、声を出したり、歌を歌っていた方がよいというふうになると思います。しかし、そういうところに行って効果がなかったという人はここにきてもスタンスを入れかえなくては、何にもなっていかないでしょう。ほかのところではなんともならない。ここでは何とかなるということではないのです。
ただ、その基準が違います。ここは、そういうことでいうと、日本では、とても厳しいところだと思います。世界標準で、音声でみているという珍しい場です。
日本の場合、歌い手というのはあまり音声でみられていません。
このまえも、あるギターリストと話したのですが、楽器の人は、歌が歌えないことにコンプレックスをもっているせいか、歌えているだけで、すごいとなるのです。もし、プレーヤーでベースとかドラムがそういう音を出したら許さないようなことでも、ヴォーカルに対しては、とても甘いのです。
音楽で捉えたら、そんなことでは成り立たないのに許容するです。結局、日本には、それだけ音楽的にすぐれたヴォーカリストがいないということです。
アイドルとか売れたい人ほど、売れ線のバンドの方にいきます。そこで一番何が違うかというと、声とかの基本とかがなくても、人を惹きつけるような感覚とか、動かし方を知っているのです。
紅白に出ている人くらいに歌えると思っても、なかなかそうもいかないのです。
最終的には、声量があっても声がよくても、あるいは歌がうまくても、それだけで何かやっていける分野ではないのです。
それぞれの時代、歌や声楽を取り巻く状況があります。そういうことを気にしていない人もいます。レコードデビューなど、ごめんだとか親しい人の前だけで歌いたいとかいう人もいます。
だからといって、価値が下がるのでもない。
それが本当の目的で世の中で理解されなくても、そういうことをやっていくというのであれば、それはそれでよいと思います。
ただ、現実として、誰か問う対象を置いておくほうがよいでしょう。対象があって聞いてもらってこそ、自分の歌も成り立つというものです。
自己中心では、自分のストレス解消にしかなりません。それなら、カラオケにでも専念した方がよいわけです。
要は、仲間内でサッカーを楽しみたいのか、そこで最高のプレーをすることによって観客を興奮させたいのかということでは、まったく目的が反するのです。
たとえば、サークルに入っている人達が、私たちは楽しく音楽をやっています、というのなら、それはそれでよいということです。練習よりもコミュニケーションを大切に、5年も10年も同じ仲間で楽しく過ごすのは、人生でとても価値あることです。
そのことと、1人黙々と深夜までトレーニングをしたり、他のことを全て犠牲にしてまで、そのことで立っていこうとすることは、大きく違うでしょう。
たぶん、ここにきて、ステージに、本当の意味で立つということができれば終わってもよい。歌がうまくなっても出られる時代ではないというのは、立つことを選びつづけなければいけないということです。
それに対してやることは、どこに行ったときでも、通用する確かなものをもつことです。
この研究所内で通用するのも大変ですが、このなかで本当に通用するということは、どこでも認められるということなのです。
誰かに場を与えられないとやっていけない人と、自分からそれを切り開ける人がいます。その辺になってくると、歌のうまさとか声の完璧さというよりも、その人の魅力、カリスマ性、スター性、そして価値観、人生観、音楽観、対人能力になってきます。
あまりに完璧主義すぎて絶対的な条件をもって、ここのステージでも、音響が望み通りでないからやりたくないとなったときに、どう考えるかというのも難しいどうしょう。
その人が音楽をすごく大切にし、歌を大切にするがあまり、全てに対して完璧を求める、その結果、ステージが得られなくなるというなら、ギター一本でもステージに立つ方からチャンスをつかむ方を選ぶべきだと思います。それもその人の生き様からくるものだと思います。聞きたい人が一人でもいれば客です。ギブすればよい。自分のためになります。
ここでいっていることは、やるとかやらないとかではない。やれるのに自分で選んでやらないのはよいのです。でも、やれないのにやりたいといっているのは、あまり格好よいことではない。だからやれるという力はつけておきなさいということです。
それは状況によっても違ってきます。日本と外国でも違います。自分1人で決まることでもないのです。しかし、あなた自身が自分のスタンスを全自分で決めていかなければいけない。
そのことによって、声が変わるというよりも、歌とかステージが変わってきます。
今、レクチャーと同じことをいっています。
レクチャーでやったことは、私がやってきたり、本で書いたりしたことで、これは、まだ皆の外にある。レッスンでは、同じことを繰り返し、音楽を使い、みんなに入れ、出すということ、それはレクチャーではやっていない。
1ヵ月目のモノローグが終わったからといって、そのレベルには達したと思ってしまうのですが、やったこととできたことは違うのです。日本人の場合は、そのイベントを通過したから、そのことは免除されたとか、その資格が得られたと思いがちです。
モノローグでも、みんなが初めてやったときと比べてでなく、誰のあとでやっても、桁外れにすごいことができているようになって、初めて身につけたといえるのです。
1ヵ月でできたことというのは、それまでの蓄積ですから、大したことではない。そこからどう変わるかというのが大切です。それは、新たに身に入れないとどこにもないのです。
学び方がわかったといっても、本当にそこの曲を全部できたのかということです。
聞いてもいないでしょう。仮に聞いても入るか入らないかはわからない。まず聞くところから入るのです。
映画を学ぶときも、映画の評論家のおしゃべりを聞くよりも、その映画を1本見たほうがよい。ところが、1本見たからといって、映画がわかるのではないから評論家のいうのを参考にします。
しかし、それをあなたが同じことばでどんなにしゃべって、友人や家族には通じても、プロには伝わらないのです。
しゃべっているのと、映画を見るのとどちらがよいレッスンでしょうか。
映画を自分で見たいのであれば見た方がよい。しかし、そこでしかみれないもの、そこでしか聞けない話なら、レッスンを活用するとよい。
レッスンが1回しかなければ、それを繰り返すしかありません。何十回もあれば、そのなかで見ることも、実際に立つことを考えることも、それから出すということもできます。
ここで、スクールのやり方をとりたくないというのは、それで伸びる人はよほどスクールに合っている人だけです。本当はその前のことをきちんとやっていかなくては伸びようがないのです。楽器づくりも演奏について学ぶことも大切です。
声は、外国人にとってみれば、日常のなかでかなり身につくものです。一方、日本にいて、日本人で日本語を使っているのは不利なことです。
ここで一所懸命やることというのは、今までここの国が邪魔していたことをとることです。声にとってあたりまえなことを拒み、好き嫌いでの価値判断が動いている。これは民族の血が流れている限り、この風土ではしかたがないことなのです。それをどこかで打ち破らないと根本的には解決しないのです。
ここは、思想を押しつけるところはありませんから、考え方としても、一つを選びなさいということではない。いろいろな選択があるということを知ることです。自分が3つしかないと思っている選択も、実はその後ろに30だって100だってあるということを知る。その上でよく考えてみてください。
一番よいのは、こういう選択ではなくて、こういう選択のワク内にはないものを自ら創造することです。創造したら無限にあるのです。人生もそうでしょう。
自分があたりまえだと思って、あたりまえに判断して、あたりまえにやりたいものをあたりまえにやっていたら、どんな一所懸命やってみても、大して何もならないということです☆。
それは皆さん以上に才能のある人も、ここを利用してきた人においても同じです。
ここにきて、2年経ったら2年分力がついて、4年経ったら4年分力がつくと思っているかもしれませんが、そうではないのです。そういう人とそうでない人がいます。それは何が違うのでしょうか。
本当にすぐれたものの力を自分の身に宿し、その力を借りられるかどうかなのです。そういうことを得るために、レッスンや会報もあるのです。
人間というのは、考え方というのが大切なのです。
毎日、英語の単語をマスターしていたら、確かにある程度までは早く行ける。でも誰よりも単語を知っても、しゃべれない。それはどこかまでかは正しい勉強の仕方でも、勉強のなかのある部分にすぎません。そのこと自体をがんばって、誰よりも苦労していてもよくないのです。
目的がしゃべることならば、人に対して使うことを考え、それに合わせることです。
曲でも、たくさんレパートリーをつくるというのだけでは、よくないのです。皆さんよりも、たくさん努力した人もいるし、今も続けているのに、うまくならない人もいます。
楽器の場合は、ある程度、方法も確立されています。バイオリンならば一番よい弾き方、一番よい聞こえ方というのがあり、これで勝負しましょうという基準が明確です。
しかし、ヴォーカルの場合は、本人である声の楽器も聞く人の好みもそれぞれ違うので、難しいのです。やりたいと思うことを、そのままにやっていても、あるところまではいきますが、あるところからはいかなくなるのです。
曲も皆さんの好みに合わせてやっていくのであれば、J-POPのなかでやっていくと、わかりやすく楽しいレッスンにはなるのです。でも、大して力はつきません。
はっきりいうと、そんなことは誰でもやっていることだからです。
それはやらなくてよいということではなく、一人で家でもできるということです。
それよりも多彩な曲を何百曲もやって、違うパターン、違う歌い方、1曲のなかでのいろいろな違いを勉強してみることが大切です。
たとえば1人のアーティストを10パターンやってみることです。その人の生涯の曲を完璧にマスターしたことと、それで何かできるのかといったことは別です。
私の耳レベルで、たとえば音の狂いなどが判断できないとしたら、その練習をどんなにやっていてもそれだけではよくないでしょう。
こういう人がたくさんいるということをみて、ここで1つのことを気づくことです。
自分に合わなくても、違う10曲から、10個のことが気づけることを優先するということになります。
自分のやりたいこととか、自分がその方がよいと思うことは大切ですが、そこに立つ場合と、入れる場合という条件というのは必ずしもそうではないのです。
そのヴォーカリストがどう感じて、どう出しているかというのを、最初から一流といわれるヴォーカルを中心にしながらも、幅を広くとって欲しいのです。
これはヴォイストレーニングと同じです。できるだけ可能性を広げるということが目的です。
今までも皆さんはいろいろな曲を聞いてきたのかもしれませんが、もっと違う聞き方ができれば可能性は大きく開くかもしれません。もっと違う感じ方もあるかもしれません。
それは今すぐに決めることではありません。他の分野と同じように、皆さんの考え方とか、感じ方が進歩していったら、受け止め方も変わってくるのです。
今聞いたものを来年、再来年聞いてみて、2年前と同じだとか、自分の判断は正しかったというなら、成長していないのです。豊かになっていくというのはそういうことです。
自分の感性のままで捉えたらよいといういい方もよくされますが、感性でもいろいろな感性があります。たとえば女子高生、女子大生の感性が鋭いとかいうのは、お父さん達が知らない世界のなかで選択がなされているからです。
アーティストの世界で必要とされるのは、磨かれた感性です。この磨かれた感性というのは、誰かに与えられるのではなくて、自分のなかできちんと磨いていく必要がある。彼女たちの欲する商品をつくる人の方に必要な感性はあるのです。
こういうレッスンも、本当は皆さんの生活の方に歌があって、ここでは声だけのことをやるのが理想なのですが、今、狭くなってきています。
昔のように、強制されて何かをやらされるということがなくなり、権利ばかりが主張されるようになってきました。
すると早めに自分の狭い範囲内での好き嫌いでの主張になる、好きなことばかりをやるということになってきています。確かに音楽くらいは好きなことをやればよい。ただ、そうやってやってきた人のなかに、今までももっとやってきたのに、できなかった人がいくらでもいるということです。
もし、それ以上のことをやりたいといったときに、その人達が5年、10年やってきたことの2年分をやっても、さらにやってきた人にはかなわない。それにかなうものとは一体何なのかということです。
そこがすぐれた人のもつ1つの共通した感覚をとる部分だと思います。アーティストが持っている共通の部分をきちんとみていくことです。すぐれた活動ができている人は皆、そこをもっています。
ヴォーカルの分野で一番やりにくいところは、一人よがりになってしまうことです。そういう歌い方はしたくない、その曲は聞きたくない、レッスンでも、そういうことはやりたくない、というのは、大体、一人よがりの部分が大きいのです。
たとえばこういう曲を歌っている人は、今はいません。レッスンのときに、なぜ使うのかというと、状況を考えたときに、一番伝わりやすいもの、学びやすいものだからです。
自分が好きで聞いてきたものというのは、当然その人の根っこ近くに入っているのですが、さらに根っこの中心に入れるということはなかなかできないのです☆。
ところがここで聞かされたり、学んできたことから気づいたことというのは、自分レベルで気づけたのだから、自分が好きでないからこそ、そこで気づけたことは他の人達に伝わるということです。
オールデイズ、カンツォーネ、シャンソンを使うのは、そのためです。自分の好きな分野のものとか、ヒップホップとかでもやると、表はとれるのですが、その根本のことというのがなかなか伝わりにくい。すると、どうしても表のみ、さらったような歌になるのです。
本当のことでいうと、もっと高度なレベルで、楽器を使って学ぶ方がよいのです。たとえば、サックスとかトランペットを聞いて、それと同じように声を使ってみるというのは、究極のヴォイストレーニングです。それが、イコール歌です。
そんなことがすぐにできるだろうかというと、ミュージシャンとしての接点はなかなかつきません。難しい問題です。まずトランペットを聞いてみて、おもしろいと思えますか。
いろいろな楽器のアーティストのものをかけたり、あるいは、芸事、落語とかいろいろなものを聞きましょう。
皆さんが聞きたいと思うものは、世の中で流行しているアーティストのものです。またビートルズのように、耳になじんだものは、みていてもおもしろいし、聞きやすいのです。でもそれは自分が楽しむものです。
そういうものを聞いてきても、自分が歌ってみて、そんなに上達していないのであれば、あるいは、もっと上達したいのであれば、どこか変えなければいけないのです。
そういうときに、違う音楽を入れてみるとか、違う聞き方をして感覚を刺激することです。
音楽でなくても、落語などでもよい。この前、昭和日本名人芸対戦という映像を見ました。浪曲をやったり、声帯模写をやったりしていた。そういうことも全部、ビートルズを聞いているよりも、よほど勉強になるのです。
勉強の仕方も、どこまで自分で独創的にできるかということです。毎日のメニューのなかで、どこまでそのことを自分で膨らませて、自分に当てはまるように変えられるかということです。
ヴォーカリストは1つのフレーズをどう感じられるか、そこに何をどう入れて、どういうふうにもっていけば1つの表現として成り立つかということを、知らなくてはなりません。ヴォイストレーニングでつける力と歌とは同じなのです。
よく、ノウハウを知りたい、メニューを知りたいといわれますが、プロのヴォーカリストは、うまい下手に関わらず、プロのトレーニング方法、プロとして通じるテンションを高めるノウハウ、プロとしてやっていけるそういうプログラムを形にはしていないが、もっているのです。
それは他人のものではなく、他人のものを参考にしながらも、自分で作って、自分で調整して使ってきたものです。
いろいろと立つところを迷ったり、何が求められているかわからなくなるかもしれませんが、そのことも含めて、今、求められている役割をつかみ、そこでここで通じるまでのことをやれば、自分を最大限、表現できるということを知っていってください。それ以上目ざすために、人につくのです。
たとえば、オリジナルフレーズでも、下手な人ほど長くフレーズを伸ばすのです。それは自分のことをわかっていないからです。長い時間を歌ったり、長く声を伸ばすことのほうがよいと思うのは、それは歌い手の一人よがりです。
皆さんも2分間でといわれるよりも、20分間でといわれた方がうれしいし、1曲だけといわれるより、3曲といわれる方が得するみたいでしょう。
でもお客さんにとってみたら、よいものを短い時間でたくさん与えてもらった方がよいのです。最少にして最大のものを与えるのがプロです。
そういうことも日々のトレーニングの一つ一つのなかでの判断起きているということです。1つのフレーズを与えられたときに、それを長く伸ばしたからよいのではありません。たくさん歌ったからといって、その人がすぐれているということではないのです。
もし、自分を最大に見せるというときに、うまく切り取れないのであれば、そのやり方から学ぶことです。キィをきちんと定めるところができる、きちんと自分の呼吸でテンポがとれる、そこでどこにピークをもっていくのかがわかる、そこの切り出し方、終わり方がパッと配分できて、最大に自分の持っているものをつかみ出すことができるでしょう。
それができなければ、どんなに声があっても、音域があっても、よい声であっても、何の意味もないということです。トレーニングがなくてもやれている人はたくさんいるのです。慣れによって直るところもあります。
慣れても、10回も20回もステージに出て、同じことを注意されるとしたら、いわれたときにはわかっても、やれていないのです。それをどう直すのかということを、自分で考え、直し方を工夫してやっていかない限り、変わらないものです。ちょっとは変わっているかもしれませんが、大きくみたらまた同じ注意をされるのです。
足りないことは、オーディションでいわれたことです。皆さんはそうでないつもりかもしれないのですが、ここに長くいる人とか伸びた人も、同じ環境を与えられている。そういう人が注意されることは、共通していることが多い。そこに正解があるからです。
あるレベル以上の人がみんなそういうということは、自分が客観的に、舞台として、人前に問うたときに、評価はそうなってしまうということです。
他の人から学びなさいというのは、自分もそれに当てはまる部分がたくさんあるからです。
そういう部分から変えていくということです。歌のどこかを長く伸ばせばどうにかなるとか、音程をしっかりとれれば何とかなるということではないのです。
ほとんどのことが舞台として成り立っていないということです。舞台として成り立っていたら、音がずれていようが、声が少々出ないとしても、そんなことで評価がおちるということはないのです。
そういうところが注意されてしまうのは、感覚的なところで磨かれてないということです。
もしかすると、自分では磨いているつもりでやっていても、こういうところに出たときに、それが出せないのかもしれません。でも、大体、入っているものはみえる。それも可能性として、今はまだ無理ということなら、長くみています。
歌の世界というのは、完成させようと思って完成していくのではないのです。でもどこかで完璧、完成をどこかで求めて、それは誰かのものをまねしていくのではなく、自分自身のなかでの1つの実感として捉えていくことです。
そういう意味でも、できるだけ、よくわからない音楽でも世界で認められている歌手のものを聞いて欲しいのです。
確かに声のことに関して注意していることもノウハウですが、全てのノウハウは、一流のヴォーカリストのなかに入っているのです。その1曲のなかで本当は全てがわかります。
それが5曲でもあれば、最低でも5パターン、そのなかで共通してすごい、そのなかに自分が生涯やってもやれないだけのものが、全部入っているのです。
ただ、その世界を自分は感じられない、入れられない、出せないというところに問題があるのです。それを自分におろしていきましょう。同じ曲をいくらかけてみても、同じようにしか感じられないときには、それは入っていきません。
プロの世界のなかで何が起きているかということを、きちんと判断する耳を磨いていくことが一番大切です。日本のヴォーカリストもすぐれているところがありますが、どちらかというと、作詞作曲や、アレンジから入り、始めから、歌という作品として決めた寸法のなかで歌いこなそうという傾向があります。
海外みたいに、そのヴォーカリストが声やことば、リズムから音の線を出して、その線に対してそれをより引き立たせるために、音をどうつけていくかというような、創造活動があまりなされていないのです。 今は、ハード機器がずいぶん発展していますから、どちらがよいということではないのですが、音だけの世界であれば、結局、観客の求めるレベルの高さの差になってくるのです。
そういうことは生活のなかにもそのまま入ってきているのです。たとえば、5人で発表というと、普通の日本人が考えることというのは、持ち時間を同じにして、それを5つに分割してやろうとなるのですが、本当はそうではないのです。よい作品を作ろうとしたら、誰がたくさんやればよいのか、すぐれた人、一人が全部やって、あとの人はそれをより大きく伝えるためにどう組み立てるかということを考えるべきです。その辺もこの日本人社会というのはやりにくくなっています。
声のことでも、きちんと立つことからです。たとえば、小さい子は、バットを持ったら、振りたいのです。とにかく見本なんてみなくともできるからと、打たせてといって、打てなくなるのです。やるほどに力が入って、がたがたに崩れていくわけです。
一番大切なことは、すぐれたことを本当に体に入れるようにみるということです。それで全体をきちんとつかみ、そこで何が起きているのかというのを、自分でプロと同じレベルで判断できるようになることです。
それでも自分だけでやるのは難しいのです。人に習うのにも我慢をしないで、一人よがりに気持ちよいことだけをやっていたら、崩れていくのです。
大切なことは、根本の感覚のものをきちんとつかむことです。きちんと原理に正しく出すということです。音楽の心をもつ。
他人がどう聞くのかを知る。何でコイツはこうやるんだろうとか、この前でやめておいた方がよいのにとか、ここでもう1つこうやった方がよかったとか、どう考えるのか、が問われます。さらにそれを同じレベルでできるのかをみる。全然わからない、何も感じられない人もいます。
プロが共通にもっている、すぐれているものというのは、ある程度認める必要があります。認められない自分の方で、まだ感じる力がないというのも知っていくことです。もう何度も聞いて、それでもわからないならば、それはお預けにしておいてよい。前はすごくよかったと思ったのに、今聞いたらつまらないと、そうやって耳が変わっていくのです。
ステージとして楽しむ場合と違い、自分が勉強するために、ヴォーカルの歌のアレンジをはずし、声の音域もはずし、本当の心のところからどう出てくるかというところ、実から形をとるところを勉強しなければいけないのです。
普通の勉強というのは、だいたい形をやる。CDを編集して、かけっぱなしというようなことを勧めています。すぐれた曲ばかり比べて、どこを勉強できるのかを知っていきましょう。
今度、1オリジナルフレーズというのをやります。100曲聞いて、そのなかで15曲くらいから、フレーズを選びます。自分だったらここが勉強できるというのがわかります。慣れている人たちであれば、ここをとればよいというのもわかるでしょう。こういう仕事を長くやっているとすぐにわかるようになっていくのです。そういうのも大きなノウハウです。
自分できちんと状況を踏まえ、そこで期待される役割を受け止め、それ以上のものを出していくということです。だから、難しいのです。
みんなわかりやすいこととか、自分が体験したこととか、何か自分がやったという感覚の方を求めるのですが、でも、本当に仕上げていかなくてはいけない作品というのは、何年かかってでも、たった1フレーズでもよいから、そういったもののレベルの高いところ、あるいは感覚の深いところのものから捉えるということが、大切なのです。
その辺のことというのは、なぜか他の世界ではあたりまえに考えられるのですが、歌の世界とか、音楽の世界ではあいまいにされています。
いまやって欲しいことはそういうことです。声を出すことが目的ではないし、声を出すことがヴォイストレーニングではないのです。
日常で声を使って、それでさらにヴォイストレーニングのところで声を出していたら声がつぶれてしまいます。つぶれるのは、目的ではないはずです。つぶれて、そのことはよくないのだなと知ることが目的ならよいのです。でも、またくり返していては、何にもなりません。
トレーニングのなかで、何を覚えていくのかというのを、自分のなかできちんと組み立ててください。最初は広く浅くでもよいです。広くみて、自分がそういうふうに働きそうなときに、待てよ、みんなもこう働くんでないかと思ったら、その逆だと思えばよいのです。それが群れないということです。
みんなが行くようなところには行かなくてもよい。そんなことは自分でもできるのだろうし、みんなが行かないようなところにいって、そこで何か違うことが得るのです。
学ぶことはその気づきの積み重ねをどこまでできるかということです。聞き方でも、みんながみんな程度に気づく音では、何の価値もない。長くやっていたり、才能がある人であれば、みんな知っていることです。ただ、それもワンステップではあります。そういうステップを何回も繰り返すというのは有効です。同じ型のなかで気づき、深められるからです。
ここでいつも「ハイ」から、やらせているのは、課題が変わってしまったら、課題をクリアすることが目的のようになってしまうのです。そうでなくて、同じ課題のなかで、何を感じ、どのくらい完全にコントロールでき、どれくらい繊細にていねいに動かせるかというのを知ること、そして声を確実に扱えるようになるのが目的なのです。
そのことに鈍感になったり、力づくになったりすると、それが歌に表われますから、何なんだとなるのです。やっている本人が一番わからないのです。だから、こういう場にきて、常に問うていく必要があるのです。
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【とりくみ】
きちんと出口をみておくことです。大きな声を出すためにやっているのでもなければ、体とか、息を使いたいがためにやっているのではない。それは、プロセスです。
たとえば空手でも、空手をやりたいのか、世界一強くなりたいのかということは違うのです。英語でも、それをビジネスで使いたいのか、それとも英単語をたくさん覚えたいのかということは違います。その線上で英語を極めたいとなると、どれだけ英単語をたくさん知っているかとかいう争いになってしまいます。
それはそれでいいのです。それがやりたいのか、そうではないのかということです。
そういうものは、全部表現ということからみるしかありません。やっていることは、その人の感覚に順化していった方がよい。感覚が磨かれているのであれば、他のことは何もついていない方がよいのです。
歌でも、最高の歌というのは、なるべく歌わないで伝わるのがいいのでしょう。歌わないけれども歌っているということがどういうことなのかというと、その人の心と声が結びついていることです。だから、シンプルなものと捉えればいいのです。
こういう人達でも、ヴォイストレーニングから考えると、難しいことをしています。ただ、そのことを感覚はして、計算はしていても、もっと深いところになったときでないと、いい歌にはなりません。それを邪魔するのが声であったり、体であったり、気分であったりするのです。そういうものが、根底で一致しないとよいものは出せないのです。
声が邪魔していたり、自分はこう出したいのにかすれて出せないとか、そういう複雑なことが起きます。それをシンプルにするためにトレーニングするのです。
歌が難しいと、聞いてて考えなければいけなくなります。それを統一して前に出そうとするテンションとか、気構え、伝えなくてはいけないという気持ちが、それが全部を統括していくのです。
たとえば、声でも技術で考えていく人というのは、そこで自分がやりたいからといってワーッと伸ばすのです。それを気持ちでやっている人は、そこでかすれたり、フーッと浮いてみたり、全然、違うような裏声になってしまっても、関係ないのです。トレーニングをやっていない人でもそうなるのは、聞けないものではないのです。そういう心の方が本当は大切です。ただ、安定しないから説得力がない。
心を鍛えろとか、心がいいからいい歌が歌えるというのは、全然違う。
だから最終的に、難しく聞こえるのはおかしいよといっています。シンプルにやって、シンプルに聞こえるのが一番いい。どこかで見切り、開き直ることも必要です。そうでないと、舞台はやっていられなくなります。そんなにたくさんのものはもち込めない。最小のもので最大に表現するのがプロです。