一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

課題曲レッスン 24672字 1193

課題曲レッスン

 

 

【「カンツォーネ」「アドロ」】

 

 今度またクリスマスライブがあります。そこで4、5年前にある人が絶唱した歌です。こうして、年に1人、1曲くらいしか私の頭には残りません。本番でそれがきちんと出ることは少なくて、ここ6、7年のなかで、今いるメンバーで10曲聞いたかどうかくらいです。

世界のレベルの土俵としてみると、そうなります。4年とか5年もいなければ出ないのかというと、案外1年半くらいで出たりする場合もあるわけです。

皆さんの場合はまだ入って間もないので、いろんなレッスンで力をつけながら、その補強みたいなことをやっているのです。

 

 歌い手の知識だけを覚えていってもしかたがないでしょう。私も長くやっているから覚えているので、別に覚えようと思って覚えているわけではないのです。要は、何を勉強するかということなのです。 

 

こういう曲を同じ曲で比べるというのは、よい勉強になります。いろんなレベルで比べられるのです。たとえば、ミルバというのは、カンツォーネの女王、世界中、多くのアーティストが知っています。そういうことで、1つの基準としてとってもよいということです。

 

 

 レクチャーのときに、声・体の条件、いわゆる楽器の条件のこと、歌の条件のことを話したと思います。研究所では、半分がこの辺をメインにしてやっているということです。その上に音楽があるということです。 

 

音楽というのは、総合芸術です。たとえば、歌い手というのはパヴァロッティとしても、音楽の舞台としたらオペラになるのです。

俳優がどんなによいといっても、そこは映画やドラマの世界です。それでやっている人も中にはいます。バンド全てが音楽とは思いませんが、そのなかに音楽ができているのであれば、いろんな出力の仕方があります。

でも本質的なことでいうと、こちらが基本になってきます。

 

 同じ曲で比べるときに、見てほしいのは、誰でもそのことがみえるとは思わないのですが、歌える人は、どこの深さの本質をみるかという力の差になってきます。

音楽になってしまうと、あまりに自由なので、最初はわからないと思います。

しかし、声とか歌になってくると、案外とわかりやすいのです。そのためには、あまり加工されないものが学ぶのには、よいのです。 

 

 

現代のものも扱いたいのですが、加工が多すぎます。

ここで声を伝えようとしたときに、それでは伝わらないから、加工の少ないものを使います。

声の方から感覚を鍛えていかなければいけなくて、その条件を与えるために、どうしても古いものとなるのです。

 

 その場合、同じ曲で比べる、同じステージで比べる、マイクが1本で、このままの距離で歌ってみます。別にマイクがなくても構わないくらいで歌っている人もいます。その距離があった方が本来はわかりやすいのです。 

 

当時のものはヴォーカル中心の録音です。そのあとの処理もあまりなされていません。 

いろいろなやり方があります。すぐれているものを集めて聞いていく、また、その一流といわれるもの、本物といわれていたような1つの評価が定まっているもののなかで、同じ曲で比べてみるということができます。

 

 

 昔のものというのは、音響的な加工をあまり行っていません。だから、初心者が聞いても、ここは、このように歌っているとか、こういう声の使い方をしているということがわかりやすいのです。

ここでのアカペラでのステージ実習のようなものです。

 

 今は、シンプルな歌唱力のやり方では歌えないような歌もあります。日本でも同じです。60年代くらいまでのものを聞いてみたら粗いし、歌い手も思いっきり歌っています。

音響技術が発達していなかった、要は、音響加工して、人々に音楽として聞かせようという考えや技術がなかったのです。そのときのものは、ストレートですから、参考になります。

それが音楽として価値があるとかないというよりも、一人の人がどう声を発し、それを届けるかというところを読んでいくためです。これは、すぐれている人からも、そうでない人たちからも学べるのです。

 

 

 たとえば、これは、ピアニストが歌っているのですが、向こうのピアニストなどのプレーヤーというのは、日本のヴォーカル以上に歌えたりもするのです。声も響くし深いものです。司会者が歌ってみても、うまいというくらい、声の世界ができています。 ただ、それを音楽にしたときに、音楽的に欠けるものがある、あるいは歌として欠けるものがあるのです。そこのプロヴォーカルに対して、足らないのです。

ならば、それが何かということをきちんとみていくことです。

 

どの曲もスタンダードなら、多くのプロが歌っています。まずそのなかで、どうなのかを評価してください。どれもよい、それは当然ですが、声、歌を中心にみます。比較によってのみ基準がわかってくるものです。☆☆

 

一番よいものを聞いた上で、それと同じ歌でやってみることです。

なかには、持ち歌でなかったり、人の曲であったりして、あまりよくないものや失敗しているものもたくさんあるのです。その辺は好みの問題もありますが、基本的に、すぐれているか、すぐれていないかということをきちんとみていけば、そこでのギャップがみえてきます。

 

 

カンツォーネなどには、イタリア語で歌って、そのあと日本語で歌っているものがあります。

かつては、日本人の歌い手が歌詞をつけて向こうのものをどんどん歌っていました。

ところが、英語は日本語をつけて歌いません。日本人の歌手は、英語で歌う場合も多いので、歌詞も洗練されません。イタリア語とか、フランス語とか、あるいはラテン系のものになってくると、日本語にもってくるしかないので、カンツォーネとか、シャンソンの方がよい歌詞が多く、使いやすいのです。

 

日本人の歌い手が外国語と日本語とで歌っているのもよいでしょう。それから、向こうの人たちが日本人向けに日本語で歌ってくれているのもあるからです。そこのところでの明らかな差をみるのです。今の曲も、両方とも2オクターブある曲です。でも声のポジショニングは変わりません。

 

 

 皆さんが最初に感じたことは、そんなに音域のある曲でないとか声量があるとかいうことだと思うのです。しかし、音域も広く、高いところまで出しているのです。 

その辺の考え方は、ずいぶんと変わってきています。業界とこういうところとの違いです。

というのは、彼らの方はどんどん高音域の方にいき、体を無視しています。

 

一昔前は、五木ひろしが上のファが出るから高い方だといわれていました。今ではそこが出ても、それほど高いわけではありません。それは体が変わってきたのかというと、そうではないのです。 

日本人の体格もよくなって、身長も高くなっています。しかし、声は薄められて、伸ばされて使っているのです。

 

 特に日本では昔からそういう傾向はあります。声楽などでも、多くの人は、響きの方にいってしまう。響きというのは母音なのですが、声楽と日本のポピュラーが結びついてしまったのは、日本語がこの母音構造があるという、珍しい言語のためでしょう。 

 

 

それに対して、子音構造の言葉というのは、無理にいうとシャウトということになってくるのですが、基本的には、音色です。 

だから、彼らがやっていることに対して、日本人は反応できないのです。

日本人がやっていることに関しては、彼らの方は反応できるのです。それは英語ができるということではなく、音の世界が、それだけ豊富だということです。この辺は、音の認識力の違いからきています。

 

 自然音は、彼らには、雑音、ノイズです。とり入れ方から脳の認識の仕方が違うのです。 

そのことを変えていくというのは、ネイティブにならない限り無理でしょう。ですから、耳の時点では、それをきちんと認識できるように磨いていくことだと思います。

 

発声法が2つにわかれるわけではないのです。声をのどで出すのか、のどを使わないところで出すかということくらいでしょう。

 体で出すというのは、結果として頭に響かせるためです。クラシックでやっていることです。響き中心でやっていくのは、悪いことではないのですが、きちんとしたところをとらないで、いい加減なところで響かせてやっていくから、おかしなことになるのです。響かせるがために、のどを閉めるということをやってしまうのです。響きにもっていくということは、のどを開けるためにやるわけです。だから踏み込めなくなってくるのです。 

 

 

認識できる音の数の絶対差というのは、どうしても大きいものです。子音というのは、アタック音ですから、息を吐くときに出るのです。息を吐くことが日本人にはできません。

 日本語の場合は、高低を気にする高低アクセント、音程アクセントと、メロディと言葉が中心になるのです。それも認識の仕方の違いです。 

 

今の日本のポップスは、言葉とメロディにのるしかないのですが、そこでリズムと音色を出そうとしている多くの人は、口先とか、のどで音色をつくるしかないのです。それは本当のことでいうと、体を成してないのですが、速いリズムについていこうとすると、どうしてものどを傷めたり、体がそこまで対応できなくなってしまうので、逸らして、音色をつくるのです。

 

これは日本人が英語を勉強しても、どうしてもカタカナにしか聞こえないというのと同じです。そういうことは、耳で変えていくしかないのです。 

「ハイ」でも、「ハ・イ」としか捉えられない日本人と、「Hai」と「H」で「ハッ」と吐いて、そこで「ハイ」と出せる外国人とは違います。その違いから、つめることです。

 

 

 たとえば、言葉から入っていくときに、言葉で強さが必要とされ、思いっきり「ハイ」というと、絶対に「ハ・イ」とはわかれないのです。日本人でも怒ったり、泣いたり、本当に表現したいときには、きちんとこっちの方をとっているのです。

 

ところが勉強になったり、レッスンになると、何かそのまま鈍いままに出てしまうのです。その感覚の切り替えというのを、昔の人はどう克服していたかというと、テンションを向こうのもので本当に聞いて、そこで動かしていくということからです。

 

 曲を聞いてもいろんな勉強の仕方があると思います。日本語と原語での違いをいます。たとえば、ある歌い手の歌をカバーするときに、キィはどう定めているか、テンポはどう定めているかをみます。あるいは構成を変えている場合もあります。いきなり途中から入ることもあるでしょう。

特に終わり方はいろんな終わり方があります。どういうアレンジがあるのかとか、こんな終わり方にしたらどうなるということも勉強にもなります。

 

 

その人の力をより出すために、たとえば途中で3度上げてみたり、あるいは上げないで逆に下げて終わったりしています。それは、曲の効果として、音楽的に上げた方がよいとか、下げた方がよいという判断からくる場合と、その歌い手の実力とか、持ち味からいうと、本来は上げた方が格好よいのに、そこは下げて歌うという場合があります。

 ただ、聞き手は声を聞いていたり、その張れるところをみているのではなく、その人がプロとしての役割にどう応えているかで聞くのです。 

 

いろいろな意味で勉強していくことは、だいたいパターンということで得られます。入っていなければいけないパターンです。聞いていてもなかなかわからないものですから、そういうパターンを勉強して、ひとつのフレーズを何度も弾きかえてみて、これだというものに落ちつくのです。 

 

でも、これだと落ちつくためには、これだいう本質がわかる何かが入っていなくてはいけません。それは誰かと同じものが出たからよいということではなく、自分の表現したい感覚と、自分のできるレベルのなかでの、ぎりぎりのところを選択しなければいけないのです。

 

 

 歌を1つつくる、セリフを1つを読むということでも同じです。まず、その判断が働かなければいけないのです。ヴォイストレーニングでも、声を10回出していて、その10回のどれでも個性があってよいといったら、勉強にはならないわけです。

この場合に限っていえば、どれが一番よいのかを高いレベルで出して、そのなかで選択していかなくてはいけないのです。そういうプロセスの勉強に入っていかないと、上達していかないのです。 

 

フレーズでも同じです。それには曲から学ぶしかないのです。だから、ここでも理屈と音楽鑑賞をやっています。声の練習というのは、それが入らないとできないのです。

 皆さんもバンドとか、いろいろとやってきてわかっていると思うのですが、音の世界、声の世界、歌の世界に入ったときに、何か特殊なものに捉えて、トレーニングをしたら何でもできるように思ってしまうのです。

そうではなく、イメージができて、自分がどこにもっていきたいのかということが明確に決まっていて、はじめて出せるのです。そのために右に行ったり、左に行ったりして、試行錯誤するのです。

 

人間の行動は全部そうなのです。イメージできたものはできるのです。できないときは、そのできないところのまえのできるところで解決すればよいのです。解決できなければ、解決できるところで何回もやってみることです。そうしたら、それができたときにすぐにできたとわかります。 

ただ、ほとんどの人の練習が、一所懸命やっているとしても、何年か経ったからといってすごいものができているかというと、こういうものがみえていないうちは難しいでしょう。

 

 

 これは世の中の歩み方とか仕事でも同じだと思います。そのことが音の世界でも声の世界でもあるということを知るとよいと思います。 

皆さんがスポーツとかで後輩に教えるときに、なんでこんなことができないんだと思うようなこと、あるいは、社会人になって、最初はわからなかったけど、ひとつ上に立ってみたらわかるようなことと同じです。

 

それは知識が入っていないということもあります。しかし、知識が入っていなくても、その場で動けてしまう人もいます。こういうものは、あまり知識はいらないのです。

いらないのですが、そういう本質とか、基準とかそういうものが自分なりに持っていないとできません。その持っていたものを投げ出してみて、それが通用しないとか、外れているとか、そういうことを修正していかないとできません。 

 

皆さんが歌うものというのは、音域とか声のことを除いたら、自分のイメージで出しているものです。それでどこも通用しないとしたら、それは基準のところを修正していかなくてはいけません。あなたがやってきたことがよくないのではなくて、それをもう1つ問うところに深めるのです。

 

 

 ちょっと違うことをやらせたときに、基準が外れるときがあります。ただ、違うことをやる必要はないのです。それは自分が勝負できるところでやっていけばよいのです。だから、いろんな曲を無目的に聞いてもやるのでは難しい。本当はこういうことを何年もやっていたら、自然に身につくことです。それを、レッスンでは、かなり意図的にやらなくてはいけません。そのためのレッスンなのです。

 

 日本語で歌い手が歌ったときと、原語で歌ったときとを比べてみるのです。そのときに比べる観点としては、音楽も伴奏も同じです。それで歌の内容が違ったとしたら、言語に慣れていないということでくることなのか、それとも日本語のところで原因があるのか、言葉のつけ方が難しいから歌が難しくなるのかと、みるのです。 

 

 だいたいの場合は、原語で歌った方がよいのです。日本人でも、外国語の方がよいというのは、音楽に乗りやすいのです。構造を考えてみたら、あたりまえのことです。しかし、そこでどのくらいのギャップが出るのかということです。

 

 

これはわかりやすいものです。日本語で歌ったらものすごく下手なのに、原語で歌うと、それなりにきちんともっていっています。 

外国人が日本語で歌ったものを聞いたら、彼らの感覚では日本語というのはどういうふうに動くのかということがわかります。それは独特な動き方をするのですが、外国人で共通しているのです。イタリア人だから、アメリカ人だからといって違うわけではないのです。

やはり彼らは、拍の感覚に基づいて動くのです。

 

 歌でも、英語と日本語の歌を比べてみると、日本語の方は声に無理がきています。これはどうしてかというと、そこに踏み込める音がないのです。外国語の方は、子音が中心で息でもっていけます。たとえばささやいていても、声にしていなくても、音楽としては保てるのです。それはメリハリになってくるし、要は、息という声がほとんどないものから、大音量のものまで同じ線上で踏み込めるということです。○伸ばさない

 

 日本の場合は、踏み込んだら、そのまま1音で伸ばすしかありません。その伸ばし方のなかに、声のよさとか、ビブラートの節回しとか、そういうことで問うようになります。要は、1音のなかに何かを感じていきます。 

ところが外国人というのは、ハーモニーの感覚でやっていますから、伸ばすことには意味がなくて、前の音に対してどう作っていくかということになります☆。もともと頭にコードが入っているようなものです。こういうものは味噌汁とスープみたいなもので、どちらが好きかということではないのです。

 

 

 皆さんの感覚は新しくなってきていると思います。幼い頃から向こうのものを聞いたり、リズムを聞いたりしてきています。しかし、だからこそ余計にわからなくなってきているのではないかと思います。 

最初のところで抵抗感があると、そこでわかるわけです。みんなの方がすんなり入っていけるために、両方ともあいまいになりかねないと思います。 

 

日本人の歌でいうと、「アドロー」の方が正しいと思うのですが、それで歌いやすいかとか、音域を取ったり、声量を出したりしやすいかというと、先に息の流れとか、体を音の世界に持っていった方が、やりやすいのです。体のところから持っていくと、そこでうまいか下手かという判断もつきません。だから、声のフレーズでみるとよいのです。

 

 

 

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ラ・ボエーム③☆】

 

「モンマルトルのアパルトマンの窓辺に開く リラの花よ」

「リラの花よ 愛の部屋で 僕はいつも 絵を書いていた」

「僕はいつも 絵を書いていた 愛しい人よ 君をモデルに」

「愛し合った君と僕の二十歳のころ」

ラ・ボエーム ラ・ボエーム 幸せの夢よ」

 

 いろいろな勉強な仕方があります。いろいろな音楽を聞くというのも慣れになるのですが、どこを聞くかということです。表面だけとっていてはまねになってしまいます。もちろんまねすることも必要です。ただどうせまねするのであれば、まねできない人のをまねする努力をしてください。

 

逃げ方は、先に覚えない方がよいと思います。これはこれでまとめた作品ですが、この人が本気で歌えばこんなものではないのです。本気でやるのがステージなのですが、この人で半オクターブの体はあるのに、半オクターブを使い切っていないで、その半オクターブのなかで全部まとめていっています。ステージでは、よほど前に出していくやり方をしていないと伝わらないのです。 

 

いろいろな段階でもあるのでしょうが、まず音楽とか、言葉とか、声がきちんと体のなかに用意されて走っていることが前提です。それには音程やリズムがとれないということよりもそれに反応できない、読みこめないということが問題です。

 それは慣れていくしかないと思うのですが、できるだけ体を使ってください。頭のなかで鍵盤を追っていくのではなく、もっと簡単に捉えるわけです。 

 

 

問題なのは、日本語というのはとても表づらだけでやりやすいことです。一つの音に一つがついているから、音の長さを均等にして、言葉の数だけ点の数を取っていけばよい。そういう意味では簡単です。ところがそのために、日本語の場合は、音感に鋭い人ほど、芯で動かせなくなるのです。先に楽譜でとって、それに表現が従属する形になってしまうのです。 

 

日本人の場合どうしても表現が飛び出さないのは、育ちや教育の問題でもあると思うのです。レッスンではなんでも、できた方がよいという考え方をするしかないという気がしています。でも、点の世界を厳密にやるだけで進めたくはないのです。音のマップそのものが見えない人にとっては、音程レッスンというのはよりきっかけになると思います。しかし、きっかけにすぎないということです。 

 

その上級というのも、音大に入ろうとする人なら誰でもできることです。いくら覚えてもそのままではあまり意味がないのです。

音楽に興味を持っている人であればわかります。もちろん歌えている人でわからないことはないと思います。 

 

 

知っていることはよいのですが、そのことで5割くらいの勉強をやれたなどとは考えないことです。1/100くらいです。

 それさえもつかめない人と比べれば、その1/100をつかめることからはじめてもよいということです。イタリア語の単語を100個くらい覚えたら、イタリア語がわかると思っても、全然わからない。たまにわかり、他の単語も少しは推測がついたりする程度です。しかし、意味がないかといったらそういうやり方もあるということです。

 

 本当は耳の感覚から覚えて体で読みこんで、それから体で出すという勝負にならない限り、こういうものの価値、評価もできないと思うのです。どこでどう声を扱っているか、それを自分の体で受け入れていないから、コピーができないのです。イメージが湧いて、それに体が伴っていないのならよいのですが、その音のとり方とか、声の出し方とかでいろいろなミスがあります。

 

そういうレベルでないミスの場合はただのミスです。要は商品として通用しないところのミスとして出てくることを直すべきです。それは映像で見てみたり、テープで録音してみたりして、聞き返してみたらある程度はわかると思うのです。しかし、ほとんどの人がそれがわからないまま習得しているつもりになるのだと思うのです。

 

 

 できている人との差をしっかりと認めていくことです。こういうものを1回聞いて、1回で取っていくレベルになるには、いったい何が必要なのかということです。息が吐けることも、声のポジションが深いこととかも補助的には助けてくれます。でも、できない問題というのも本当はクリアになってくるはずなのです。 

 

自分の曲で歌っていたら、息が吐けないとか、音が届かなかったとは、クリアにならないという問題が一番大きいのです。そして自分が思い込んでいるくせのところで歌っているのです。音も外れているし、リズムも外れているのに、自分ではチェックできないから歌えた気になっている。それでも直っても歌えるというのではありません。 

 

よくなるというのは、よいか悪いかがはっきりすることです。見分けがつけば、よくなる方をやればよいのです。ほとんどの問題がよいか悪いかがわからないままにやっているということです。2年間経った時点でもう一度何が足らなかったのかということを、確認する必要があると思います。

 

 

 音程やリズムが弱かったからできなかったということではありません。Wレッスンをやったらできるということではありませんが、それを徹底するのも一つのアプローチです。100分の1のアプローチですから。それを100通りやってみたら、自分の感覚や、実際に自分が出せるものを正していく方に向かえるということです。誤解されることの多いレッスンですが、まだ表現としては、評価していないのです。

 

 この歌い手がどうこうということではなく、たまによい作品があるという程度です。シャンソンカンツォーネを使っているのは、日本語にもなっていて、日本語の問題を同時に解決できるからです。要は、イタリア語を日本語におきかえるという意味で使った方がオリジナリティを身につけるのによいのです。☆

 

日本人である以上、イタリア語では、ことばの判断がつきませんし、日本語で歌うと音楽的に、言葉を表現します。向こうの客と同じ立場で聞けます。そういう理由にしか過ぎないのです。ですから間違って使われるのであれば、使わない方がよい。

 

 

たとえば、みんながこういう人たちの体に作ろうとするとき、音大の4年生のなかでも、かなり優秀な人たちのレベルでないと、ポピュラーといっても通用しません。そういう人が何を失って、何を得たのか、何を取って、何を捨ててきたのか、日本人の場合はあまりわかってはいないと思うのです。それだけ厳しいステージに立たされたという人も少ないでしょう。

 

日本流でやれた人をみたほうが、わかりやすいでしょう。それはどういう面で通じるかはとても難しいですが、そういうところからみていくのも一つのやり方だと思います。

 

こういうレベルのものを2、3回聞いてみると、半オクターブの声があったり、半オクターブを処理できる感覚があれば、すぐに処理できます。そのようにここのレッスンを生かしてもらうように考えてもらえばよいと思います。 

 

 

外国人も同じですが、本当の意味で声を持っているというのは、こういうものを聞いたとき感覚的な置き換えが物まねのようにできるということです。そこはまだ作品ではないわけです。ですから、その次にどこまでやるかというところの勝負なのです。だからこういう人たちがうまくて、プレBVのレベルが低いと思うよりは、逆に考えればよい。

 

彼らは可能性があってまとまってないからよい。ここも私がまとめさせ口先で、ていねいに歌わせないから歌としては下手に聞こえてしまいます。しかし、自分の表現を試みていけます。きれいに歌おうというふうにまとめてしまったら、日本人の場合は器が伸びないです。

 

外国人の場合はそれをやりながら伸びる場合もあります。それは基本ができてからです。基本ができていたら、試合ばかりやっていても、それなりに筋力とか体力とかが保てます。ところが日本の場合は声がひいてしまします。ステージ自体が声をひくことを求められています。

 

 

 意図的にボサノバやサンバにしてみましょう。これを日本語で歌っている人のは、かなり違和感が生じます。そういうリズムを聞いている人にはよいのですが、普通のお客さんが聞くときに必ずしもそうではないからです。 

ただ、楽器のところでの呼吸なり、その感覚としてのリズムが歌に生かせないというのは、それは日本の歌声や発声のなかでは、切り捨ててきた要素だからです。

 

ここは外国語で歌う人も多いから、かなりそこの部分を音楽的表現として、重視しています。ここ以外でそれを重視しているところというのはほとんどない。外国に行くと、それは徹底して直されるというよりは、言葉でいわされます。その言葉のなかに拍がなければリズムのずらし方ができなくなってしまいます。

 

 楽器を聞いて、それが感覚的に入ってきたときに、歌とどうそれるかということをみていけばよいと思います。サッチモでもトランペットの感覚でそのまま歌を歌う、そのグルーヴ感というのは、歌に全部活かされているのです。彼の歌とトランペットを重ねて聞いてみるというようなことをやってみると、呼吸は一緒です。ちなみに彼はトランペッターで、歌い手としても高い評価を得ています。トップクラスの歌い手です。

 グルーヴ感が感覚的に入っているということの上で、その感覚に対して声をきちんとつかんでなければ、グルーヴで声は動かせないということです。 

 

 

単純なことなのです。上の方に響かせていって、それでつないでいくとグルーヴというのは入っていかないのです。要は体から息が吐けている、その吐けるところで声にしていく、それを次につないでいくということができなければいけないのです。

 だから、ほとんどの日本人には不可能です。もちろん演歌とか民謡の人たちにはその必要性がありません。ロックの人たちには、それをのど声で動かしていることが多いです。だからスケールが小さくなってきます。 

 

グルーヴの捉え方そのものも、レッスンを受けるとはっきりしてくると思います。大切なことは、声を動かしやすいところできちんととるということです。声の出だしのところで、声を出すことを基本的に意識して、負担を感じてやることです。

フレーズで口先になってしまうということは、応用みたいなものですから、この応用の時点で基本をやろうとしてもうまくいかないのです。それは戻ってギャップを自分で見ていくしかありません。

 

 フレーズの練習のときに、あるいは歌にはいったときに、それが口先だけになってしまうのは、最初はしかたありません。それをフィードバックしてやり直すことです。しかし、フレーズをやるときに体のことや声のことばかりを意識しても、それは練習にならない。どちらつかずになってしまいます。 

 自分のできないところでそういうことがおきているのですから、そこに体を使うということもかなり無茶なことです。負担をかけるというより、声の抵抗を感じるというべきでしょうか。それは音に低いところ、音域の狭いところで、自分の一番扱いやすいところでまず扱っていくということです。

 

 

 

 

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【「ヴォラーレ」☆】

 

 できるだけ話さないレッスンが理想です。しかし、皆さんもいろいろなレベルですので、最初はことばで補っていく必要があります。ただ、本当のレッスンは聞いて、フレーズをやって、それでこの場に働く、もっと大きなものでしぜんと直されていくのが一番よい。 

 

その考えは変わりません。レッスンで先生の顔色をみて、それが微笑むように歌うなんてことをやっているからおかしくなっていくのです。あくまで自分できちんと正していかなくてはいけません。ただ、自分のちっぽけな頭で正してもよくありません。もっと全身のなかで正せるようにしなくてはいけないのです。それには若干時間がかかります。 

 

それから、人によっては理屈で入ったり、形で入ったりすることもあります。楽譜で入ったり、楽器で入った方が、結果的に早い場合もあります。ただそれがどれがよいのかは、自分でみつけていくしかない。何よりも第一に、よい歌を入れておくことです。

 

 

要は、自分にとって苦手で、やりたくなくて、でもそれをやれば効果が上がるものは、最優先してそれをやるべきだと思います。それで歌が嫌いになったり、効果がいっとき上がらないのもしかたがないのです。大きな目で見ていきましょう。最終的に努力すればとか、汗を流せば効果が上がるのでもないのです。そこはきちんとどこかの段階では区分けしていかなくてはいけません。その辺が難しいところです。 

だからこちらも教え方がどうこうというよりは、受け方のなかで、その人にあったやりかたがあると思います。自分でみつけていきましょう。

 

 ジプシーキングスのもので、コマーシャルで流れています。もともとはドメニコモドーニョが1958年に全世界的にヒットさせた歌です。1950年代後半から60年代前半のヒットチャートには、イタリアのもの、今はカンツォーネといわれていますが、当時はイタリアンロックと呼ばれていたものが主流で、8ビートも16ビートもそこから生まれている。アメリカよりも早かった。アメリカが、ラテン、フランス、イタリアなどのヒットしたものの歌詞を付け替えて、それで世界的に供給していくようになっていきます。 

 

 

その曲が生まれたところのリズムを勉強するというのは、基本をやるには一番よいと思います。この曲に関しては、2拍3連が、ふんだんに使われております。

 よく聞いてほしいのは、これに日本語をつけていった場合です。 

 

3拍子系の欧米のリズムに対して、日本人というのはもともと2拍子ですから、やりにくいのです。日本人は、「ほんとーにーふーしーぎーなーゆめをーみるー」と歌わざるを得なくなるのです。それを彼らの言語ではどうできるのかということをみるのです。 

 

3連符などは、心持ちゆっくりに置いていくと考えてください。どうしても急いでしまうのです。日本語の等時性を利用すると、子音+母音のセットで1つ1つに分けて音をおけるのです。その代わり強弱をつけようとしたときに、難しくなります。本来、強弱というのは強いと弱いのに、日本人の感覚では、強いを長いととってしまうのです。強くしてというと伸ばしてしまうのです。本来は違うことです。我々にはそういう感覚があるということです。

 

 

 自分で曲を作れる人達が、他の人のをカバーしたり、人の曲を歌ってみるというのは、必ずそこに何かのきっかけがあるでしょう。自分の世界に持ってきたら、おもしろく変わるからです。そうしたら、そこで何を感じたのか、なぜその曲を選んだのか、それから選んだ曲をどう変えたのかということをみることです。そういう人達が自分で作って、勝手に歌っているようなものよりも、勉強する方としてはわかりやすいです。 

 

こういうことでプロの人達の感覚、要は、プロのデッサンというのは、そういう線だということが、何曲か聞いているとみえてきます。

 特に有名な曲に関しては、いろいろな批判がくることを承知で出す。選んで出しているのですから、そういうのも参考にしてみればよい。 

 

いとしのエリー」をレイチャールズが歌っている、そんなに深く考えて歌ってないと思いますが、でもまったく違うものになるということは、どういうことなのかということです。

彼の音楽的な本質、彼の基本的なデッサンの線というのがみえてくる。彼そのもののヒット曲を聞くよりも、わかりやすいのです。もちろん失敗している場合もあります。 

日本のカバーはひどいものも多いです。とにかく違う人が歌ったらそれでCDを出してしまうというようなところがあります。

 

 

 これは「マイウェイ」です。元々のシャンソンでは上のソのところまで、ほとんどポジションを変えないで歌っています。だから高く上がったようには聞こえません。簡単そうにみえますが、やってみると難しいです。 

 

日本人の場合は声が裏返ってしまったり、声が届かなくなったりします。ロックでは、こういう声というのが、スタンダードです。2オクターブを同じところで揃えて歌っているのではないが、歌ったら揃ってしまうのです。日本人にはあまりできない歌い方です。半オクターブくらいだとできますが、自分でやってみないと難しさがなかなかわからないということです。シナトラみたいに歌い上げる方がある意味ではわかりやすいこともあります。 もう1曲は、「ホテルカルフォル二ア」。原曲はイーグルスです。

 

 

ヴォラーレ

 

ヴォラーレ」「カンターレ」というのは「飛べ、歌え」ということです。日本語の歌詞とは違います。 

「ほんとに不思議な夢をみたの」 

「ほんとにふしぎな」と打っていきながら、スタッカートにならないようにしてください。日本の歌の場合はクレッシェンドをかけていきます。 

 

 

レッスンのなかでみてほしいのは、このなかの動きです。なるだけカタカナで考えないことです。 

ヴォラーレ」の場合はどうなっているでしょう。ここでの働きかけというのはどうなっているかということです。まず、手本のようにきちんと読んでいくことです。

 

歌というのは、部分的なところで完結しています。完結しているものがまた次のところの伏線になっているわけです。必ず次への動きをつくり出して、その動きの方向性にそってきちんと重ねているのです。だから、リピートオンしていく。 

 

こういう最初のフレーズのなかでも、きちんと歌っている人達はそういう感覚で、やっています。そうでない歌というのは、ここを歌って、ここを歌ってと、ばらばらで歌っているのです。そうしたら、ここが100回続いても同じなのです。 

 

 

どこで盛り上がって、どこで切らなければいけないかというそういうものが、働いてこなくなってしまいます。そうすると、聞き苦しい歌になってしまいます。

 よく1番と、2番のつなぎ目がわからないとか、どこで終わるのかわからないとか、終わったと思ったのにまだ歌っているとか、そういうふうに聞こえる歌というのは、そうならないように歌い手が考えていないのです。

 

というよりは、歌のことを伝えようと考えれば、おのずとそうなります。音楽的な進行もそういう中で行われています。そこで、微妙に音の調整とか、長さの調整とかも行われていくわけです。

 スキャットとかになると、こういうところのセンスも含め、いろいろと問われるわけです。日本ではそういう勉強の仕方をしないのですが、慣れていってほしいものです。 

 

これを日本語で「あ・お・い・お・そ・ら・は・な・ん・て」といくらアクセントをつけてみても、動かしにくいわけです。ところが向こうの人たちは、日常のなかで「ウナ ムジカ」といっている中に、アクセントをどうおくかとかいうことを原語の線のなかでやっているわけです。音をつかむということと、その音を動かすということが、日常の言語のなかであるわけです。 

 

 

ここもメロディっぽく歌い上げていないところで、特に2拍3連で置いていかなければいけませんから、わかりやすいところなのです。

 「ウナ ムジカ」となっているのを「あおいおそら」と6つにわけてしまったら、それを動かすというのは難しいのです。

 

 1つにまとまっているから、それを3つにしたり、5つにしたり、動かせるわけです。ただ普通は複雑にはせずに、ここでは2つくらいで捉えています。彼らは、日本語でいうと6つになる音のところを、2つくらいに捉えているから、自由に動かせるのです。

 

 「レレレレファミレド」と歌ったときに、自分の声がそのまま楽譜上に出て、ちょっと早めに出すぎたとか、今、半音狂ったとか、そういうソフトがまもなくできるでしょう。そういう問題は自分で解決できるということです。 

 

 

音程は、人にいわれないとわからない場合もあります。たとえば、今やったフレーズのなかでも、音が狂っている人がいる。でも本人がわからないうちは直らない。

 それを瞬時にフィードバックできるようなものがあれば、使えばよいということです。本当は、こういうレッスンのなかでやればよいのかもしれません。音大の受験教育みたいになっては困ります。そのパターンには反応できても、心とか、感覚のようなところが動くかというと、なかなか難しいと思います。

 

その一瞬のなかに何が感知できるか、聞こえるかということが1つの能力です。また、それをどう出せるのかということが、表現していく人にとっては必要な能力です。でも、基準がないところ、あるいは聞こえないところに出てくるということはないのです。

 

それを見ないままに、ジプシーキングスみたいなまねをしても、所詮、感覚のところで捉えられないのです。たとえばプロが1回、聞いて30個わかることを、アマチュアの人というのは、100回聞いてみても、2個しかわからないのです。それが差なのです。

 でも、2個わかったら半年くらいで4個くらいにはなるかもしれません。だから、それを1回で30個とまではいわなくても、10回聞いてみて10個くらいわかるようにしないと、到底勝負にはならないわけです。

 

 

声が出るとか、出ないとかの問題ではありません。音の世界が読みこめているか、一体何が作品で作品ではないかということがわかるかということです。

 それからもう1つは、声をよくすることよりも、その人がそれをきちんと伝える気になっているかということです。ほとんどの問題は、声を出したり、歌がうたいたいから人が聞くのではないのです。 

 

 その人にそれだけの必要性があって、その理由がはっきりとしていることが必要です。表情なり、気持ちなりを表わすのです。子供がそういう真剣な顔をしていたら聞くはずです。 

まずは、それを作らなければいけないのです。その必要に応じて出てくるのは素人であって、その必要を常に作っていくのことこそ、表現していく人間の役割です。だから、ここの部分が合宿でもいつも問題になるのです。

 

 楽譜とか、リズムとか、声とか、それぞれにさまざま勉強があるのです。しかし、そういうニュアンスというのか、プロが自然にやって作品として成り立つところを、不自然にやって壊しているということであれば、やめることです。その自然というのは好きに歌うのではなく計算された上で、おとし込まれた自然です☆。そういうところをまず感じなければいけないのです。

 

 

 さて、こうやって、10回も20回も聞いて感じられることを、1回で感じられるようにするためにはどうすればよいかということです。 

歌うときに、音程をとろうとか、言葉をいわなければとか、イタリア語の発音に気をつけければいけないと、やっていたらバラバラになる。 

 

最初は言葉とリズムを入れてみるなど、順番に追っていけばよい。それは勉強のプロセスとしては許されます。ただ逆にいうと、たった1フレーズでもよいから、そこで完成させて次につないでいく、あるいは言葉1つでもよいから、それで全体が象徴されるような言葉としてきちんと出すことです。そこではもう感覚の勝負なのです。

 

 レッスンというのはそのためにやっているのですから、そこで変わってもらわないと困るのです。「本当に」というのは、誰でもいえる。誰でもいえるものでは価値が何もない。

「本当に」といったところで、全部が気持ちとしてこめられているように、何かわからなくともこういいたいだと、そういうことが訴えられるためにはどういえばよいのかということです。そういう勉強をする。

 

 

 それはレッスンのなかだけでは無理なので、いつもお願いしているのは、こういうレッスンで、1行くらいしか進まなかったときも、徹底して復習することです。できていたら、そんなレッスンはしなくてもよいのです。できていないからそんなレッスンばかりを、やるわけです。 

その1行に対して自分の感覚が変わってくるまで、自分でやらなくてはいけません。それがわからないのに、4行をやってもしかたありません。基本というのは、応用をやってみないとわかりませんから、そのために先をやっているのです。

 

 これで言葉をいってみて、音をつけたらそれで応用なのです。そのときに頭で計算して速度だけあっているとか、リズムだけパッととっているとか、いろいろなことが起きます。どこかの言葉のところではみ出してしまったとか、うまく収まりきれなかったとか。それらが起きるのはよいのですが、起きたことをきちんと認知することと、それを直す、正すことです。それをやらないと、いつまでたっても、音に対する繊細さというのが磨かれません。そして、歌にならないわけです。

 

 我々の時代は、譜面がなくても、ラジオからコピーし、そういうので聞きながらも、聞こえないところは、適当な言葉を当てはめたりしていました。 充分に聞き込んだうえで、自分も歌ってみる。聞くという作業に対して相当やらなくてはいけません。 

なぜこんなに10回も20回も聞かなければいけないのかと、そんなものではないからです。100回、1000回、聞いてもわからないのです。作曲家でも、そのくらい時間をかけてつくっているのです。

 

 

 「ネイブル」でもよいし、「エボラボ ボラボ」でもよいですが、そういうものを何回も何回も繰り返して、自分がどういうふうに音をつかみ動かしているかをみることです。あんまり部分的に入っていくと、動きが出てこなくなってしまって狭くなっていきます。

 

ある意味では突き放して捉えなくてはいけません。きちんと捉えて、それを動かし、それを突き放して前に提示できるというところまでをやってこなければいけません。そのために全体を知っていたり、単語を知っていた方がよい場合もありますが、それが全てではないわけです。デッサンと同じで、線を何本も引いてみて、そのなかでどれがよいのかを決めていかなくてはいけません。あとでみてみたら、間違えている場合もあるのです。

 

結局、感覚を直していくというのは、そこまで戻らなくてはいけないのです。いろいろとよいものを聞くということも、そのよいものを聞いたときに、なんとなくよいというのは誰でもわかることです。それがどうよいのかというのが、頭じゃなくて体でわからないといけません。それに対して自分がやったときに、どうしてよくないのかというのをみていくことです。

 

 

 そのためには、芸事というのはマニアックになっていきます。落語家でも古典を勉強して、名人といわれるような人の1つのシーンを何百回とやる。そうすると、間とか、タイミングとか、パッと聞いても聞こえないようなものが聞こえてくるのです。あるいは、声をこういうふうに使っていたんだとか、ああ、ここにはこういうものがあったとか、そうして出会えるのです。その出会いこそが上達の秘訣なのです。

 

それは我々も同じです。同じ曲を10年以上使っていても、こちらが鋭くなれば、まだ勉強できているということは、何か発見があるのです。それが去年よりもわからなくなっているということでは、かえって感覚が鈍くなっているということです。

 1回身についた感覚がどんどん鋭くなるという保証はありません。皆さんにやってほしいことは、この歌でなくてもよいのですが、自分の声のなかで咀嚼することです。何回も何回も耳のなかで聞くということです。それを何回も何回もいって、おもしろくなるくらいまでいうことです。 

 

適当にやっていると本当につまらない課題です。つまらないことをきちんとやるために、わざわざこういうところに来るのでしょう。それをものにするためにはさらに時間がかかるわけです。

 ここでパッとできれば、課題として必要ないのです。だから、できなくてもよいのですが、ただ、それがどういうことなのかということをきちんと押さえておくことです。

 

 

 今日やったのは、最初の「ほんとに」というところを動かしてみる、次につなげなくてはよくありませんが、それから「ネイブル」「エボラボ ボラボ」のところもそうです。 体の状態が、皆さんの場合は、まだ日々変わったり、発声練習の前と後でもずいぶん変わると思うのです。そういうときには、感覚が違ってくるはずです。

 

 自分が声が出やすくて、楽な感覚になっているときの方がうまくはできます。うまくできないときにも、早くその状態にどうもっていくためにどうするのかを知ることです。また、うまくできたときにそれをより作品としていくためにどうするのかと考えると、課題はどこにでもある。

 声が出ないと歌えないというのは確かです。しかし、ほとんどの人達がそこの問題でひっかかっていることではないのです。その辺がどこまで練習に落とせるのかということです。 

 

一遍にやると大変だと思う人もいますが、きちんと耳で捉えられる練習をしておくことと、それから自分のなかで自然にできるようにしていくしかありません。

 ほとんどの人がまだ聞く力がありません。それから出すときに、それをまねてみるというのも1つの方法です。呼吸を合わせてみるというのもよいでしょう。本来はそこから始まっていくはずなのです。ほとんどの場合は、どちらかしかやらないで、そこを過ぎてしまうのです。

 

 

 基本の勉強というのは、何百曲やろうが、そこを深めるためにやる。そうでないとたくさんやっても何の意味がありません。ましてやこんな部分的なところだけやっていてもよくありません。自分が読んだときに「本当に不思議な夢をみるの」と、どれだけ読めるかということです。それが、言葉のなかの世界であり、心のもちようで、ほぼ決まってしまうのです。 

 

劇団でも入ったつもりでやって、それがもってこれるかということです。あと2割くらい音楽的な要素があれば、日本の歌のレベルくらいにはなるわけです。でも、それもなかなか難しいのです。

 だから、いろいろと書いてみたり、解釈をしてみたり、プロセスをとっていくわけです。

 

 そういうことは、省いてもよいのですが、それをもってこれない人は、1つの形として使い分けて、音の世界でみせていけるようにするのです。レッスンというのは、ちょっと読みこんだことを、大げさにやってみて、そして本番でさりげなくできるようにやるのです。おおがかりにやっておかないといけないと思います。

 

 

 

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【「タンゴイタリアーノ」☆】

 

 

 勉強するというのは、いろいろな勉強の仕方があるのですが、歌の勉強というのはステージから考える。 

自分がアウトプットして、うまくいかないとか、足らないと思うものは、入れていかなければいけません。それから、そのことがわからないならば、わかっていかなくてはいけません。常に応用して、基本の必要性を考えてください。

 

たとえば、1つのフレーズを与えられたときに、どのキィ、どのテンポ、どの呼吸でやるのかということです。最初はコピーの練習と捉えられがちですが、コピーしたものに対して、着色するのでなく、コピーを自分の呼吸、体、声にあわせ、創造するのです☆。 

 

そんなこといわないで、音符から教えるというやり方をとると、何年やっても大して変わらないのです。なぜかというと、そのプロの感覚の部分がおちてこない。そんなところに、プロの体というのはつきません。

 

 

 今みんながやって、楽しいなとか、心地いいなとか、自分がこういうふうに歌いたいなというレベルのレッスンがスタートです。それを発声をやって、呼吸をやって、たくさんの曲を聞かないと歌は歌えないと思っていると、一生かかっても歌えません。確かに、音感やリズムのレッスンでそういうことが補完されることはあります。しかし、根本的に直るということはありません。 

 

根本的に直すには、聞いた曲をきちんと捉えて、それから自分が何を表現したいかというのを、そのなかで絶えず試みることのくり返しが必要です。そこに自分の心、そして表情がいるのです。

 

 1人でやっているときは、やれているように思うのはカラオケで歌っているようなもので、自分に入っているものでやっているのです。 ここで最初に扱う曲がなぜ難しいのかというと、皆さんにあまり入っていないパターンのものが多いからです。同じ条件の体ではないから、歌い手が楽に歌っても、あなた方にその息とか、体とか、声の感覚がないから、こんなに音が高いのかとか太いのかとかいう違和感があります☆。そこから、現実を見つめていくのです☆。

 

 

今、20回くらいかけました。よりレベルの高いものにしていく。上のクラスだと3回しか聞かせません。全曲をやるのに、20回もかけていると間にあいません。そこには、確かな差があるわけです。皆さんのなかの準備がそこまで整っていなければだめだということです。

 

 受身にならないことです。皆さんがやっていかなければいけないことです。そういう勉強というのは、やってきたことがないでしょう。まず、きちんと入りこむことです。そして、自分にあるもの、ないものをみていってください。 

 

こういう歌で、自分がやりにくいなと思ったものは、だいたい入っていないものです。それは入れていけばいいのです。そういう期間をみています。正確に歌詞を写したり、それからきちんと正しく音をとろうとするのも、歌になるようにするためにはどうすればいいのかということを感じることからです。そうしたら、正しくならざるを得ないわけです。 

 

 

こういう曲は、皆さんにとっては外国語の歌であり、音楽であり、向こうの言葉で歌われているという、ギャップがあります。これが日本の歌で、日本語の歌詞なら、少しは入りやすいと思います。でも、ほとんどそこにさえ入っていない。だから、自分でそれを拾っていかなくてはいけません。

 リズムでも、音程でも、全部あなたのなかにないものではないのです。リズム感も、音感も、歌心もあるのです。でも、瞬時に組み合わせられないのです。 

 

「遠い海のかなたは私のふるさと」といってみても、それがあなたの実感と結びつかなければ、ことばさえも読めないのです。 

こういうものは、ある人の感覚からことばとして生み出されて、誰かが作詞した。そこの部分を汲んでいかなくてはいけません。誰かが心を込めて作曲したメロディなのです。

 

 「今宵も」に対して、「光満ちて」は、違う旋律がついています。なぜ違うのかと、それは違うことをいっているからです。そういうものをトータルに受け止めて、それから何が出るのかをきちんとみてください。 

 

 

どうしてこういう複雑な曲を使うのかというと、複雑な方がどこで変化したのかが、わかりやすいからです。一本調子で頭から最後までいってしまうと、最初の1フレーズでいい。どこかで切る必要性もないわけです。30秒であっても、5分間であっても変わりません。

 

 ところが、こういう歌の場合は、3分間の歌だったら必ず3分間のなかで、どうもっていって、どういうふうに落としていくか、というこれ以上長くも短くもできない必要性がある。だから、勉強の教材としては、そういうものを使ったほうがわかりやすいのです。

 

 これが絵であれば、ここはこうなっていますとか、ここには遠近法を使っていますとか、そういうふうな説明ができるのですが、歌の場合は、音のなかの時系列になります。空間的にするのがヴォーカリスト、たとえばこういうふうに歌詞を書いてみるのも、空間に文学化されています。

 でも本当は説明しなくてもわからなければいけないのです。このあとに、テーマとサビみたいなところにいくのだろうなと、初めて聞くときから、感覚的にその論理を得て捉えておいてください。 

 

 

こういう曲を聞いたあとに、これはどういう曲でしたか、この曲のいいたいことはなんですかと聞いても、わからない人が多いのです。もちろん、頭で解釈して勉強するのではありません。その曲のなかに入って、自分がその立場になったら、どうするのかです。いつもそうでないと、間に合わない。いくらやっても覚えられません。

 

確かにコード進行で覚えていく、ベース音をとって覚えていく、そういう曲の進行のつかみ方というのはあります。しかし、この曲を作った人も気持ちでこう行きたかったから上にいったとか、そこで高まったから次の旋律で下がってきたということで演奏しているのです。そこのところの実感がないものに、いくら形を与えていってもしかたありません。

 

 

 10代は、それを楽譜から勉強していくということでもよいでしょう。楽譜は楽譜で勉強してほしいのです。でも20代以上なら、それを感覚的なところからやってほしいのです。 

その感覚さえ入っていない場合は、いろんな感覚を入れていってほしいと思います。そうすると、感覚で正すということができるようになってきます。

 

 たとえば、これをパッと3回で与えて、やらせてみると、力の差が出ます。確かに上のクラスの人でも間違うこともあります。間違うとしても、この曲を知らなくとも、それなりに音楽として成り立つような間違い方をするわけです。

 

 それはどういうことかというと、自分でそこで正しく作っているのです。それは作曲の能力ではありませんが、音楽である限り、ここでそんなそれ方はしないというところは、自分で生理的に正されるのです。

 

 

ピアニストというのは、ミスタッチですぐにわかりますが、歌い手の場合はわかりません。その人間が堂々として歌っていたら、他人の曲でも、そう変えたんだとお客さんは思うのです。自分が間違えたということを、人に伝えてしまうから、成り立っていないといえるのです。

 

歌い手に必要とされているのは、明らかによい作品になるように魅力的に歌うことであって、間違ったところをみんなに教える必要はないのです。そういう間違いを起こしてはいけないのです。プロは間違いを起こしません。間違ったことさえも正解になってしまうのです。 

 

音楽を成り立たせている基本の音で捉えていくという勉強が必要です。日本語を聞いて、日本語で勉強していくと、うわっぱからうわっぱをとるような勉強になってしまいます。だからわざと外国語から翻訳させるということをやらせます。 

問題はそれができるかできないかではなく、そういうプロセスのなかで感覚が磨かれていくかどうかということです。

 

 

「風よ運んでおくれ あの日の夢を」

 

 こういうところから、旋律とか、伴奏のおもしろさとかを捉えましょう。

たとえば「ドルチェ」といっているときに、日本人が考える「甘い」という甘さとは違う、格のある、品のよい甘さ、彼らの「甘い」というのは、どういう甘さなのかというのを欧米人の感覚から参考にしましょう。 

 

声や歌の作り方からいうと、彼ら以上に日本人は向こうのものっぽく作っています。だから、自分で元に戻して、決めていかなければいけないということがまず1つです。

 

 ああなのかな、こうなのかなと、正解をどこかに預けてみても、それは決まりません。今みたいにパッとやらされると、自分にあるものを使うしかないのです。また足らないところは、イマジネーションと、はったりです。なりきることでやってみましょう。

 

 

 大切なのは、やってみた結果から自分に足らないものを気づいていくことです。この作品を歌うのが目的ではないのです。こういうものにたくさん通じながら、できたら楽しんでください。ああこの動かし方をしたらおもしろいとか、私だったらこの方がいいとか、そういう練習を日頃からやってほしいと思います。 

 

どんなものを聞いても、それが自分が歌ってみたときに、たとえ楽譜に正確ではなくことばがいい加減だとしても、それを音楽になさしめるということが大切です。

 その人のなかに音楽が入っていればいいのです。

 

レイチャールズの「いとしのエリー」は、桑田佳佑さんと違う彼独自の世界で歌っているのです。でも、その人のなかに音楽が入っているから、その人の歌として出てくるのです。それをみて、音が違うとか、狂っているとか、おかしいとかそんなことは誰もいわないのです。いわさないし、いえないのです(もちろん、彼にしては少しお粗末なできですが)。それに変わるものを感覚としてもち、それに対応できる体として得るためにトレーニングをやるのです。

 

 

 10のうち9、あるいは100のうち99は、根本から自分のものでやったら失敗します。それでいいのです。その失敗ではないものをちょっとずつ見つけていけばいいのです。上辺だけをどんなにやっていても、どんどんおかしくなっていきます。 

 

そのなかにある感覚とか、音を動かすところ、人間の心を動かすところの根本の部分を少しずつ、最初は10回聞いても100回聞いてもわからない、200回聞いてちょっとわかることを、1回聞いただけでパッと気づいていくことができるようになることです。

 他の人のを真剣に聞いたら、とても勉強になると思います。私もああなるなとか、私も声だけ出したらそうなるのに、それは音ではないとか、そういうことをいつも思って検討しましょう。 

 

グループレッスンで一番いいところは、他の人の欠点をみることができることです。それを拡大してみれば、自分にあてはまっていくのです。自分の歌は完璧に歌えているつもりであるほど、自分では直す点がなかなかわからないものです。そうやって他人に厳しくしながら基準をつけて、それを客観的に自分にあてはめられるようにしてみてください。

 

 

 あなた方がやった感覚というのは、今あなた方にとって気持ちよく入っている感覚ですが、それはそのままでは通用しないのです。それで通用するならば、すでに相当よい歌が歌えているはずです。 

だから、今は自分のなかに入っているものはこうなんだということをみていればいいのです。でも、何か違うなと思うとしたら、その何か違うなということが思いのほか大きいことです。

 

 自分のものだから違うのではなくて、本当の自分がきちんと出ていないから違うのです。自分のなかでこのことばやメロディを読みこんでいって、伝えたいものを出してこなければいけないのです。 

皆さんはまだ歌詞を読んでいるだけ、音をとっているだけです。そんなところか表現からは、深い息も動いてこないし、体も本当の意味では動いてきません。根本にある声や、その動きが必要とされていないからです。

 

「光満ちた」というところに入らなければいけません。このことが、よくわからなければ、この詞について、400字で10枚くらい書いてみればいいと思います。徹底して1回そこに入っていくことです。100回いってみればいいということではなく、その100回のなかで1回でもいいから入れることです。そこまで引きうけなければいけないから、歌1曲を歌うことは大変なことなのです。