一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー感想・レッスン感想ほか 25296字 1917~9

レクチャー感想 1190

 

理論的に説明して下さり、わかりやすく学ぶところが多かったです。ただ日本人と外国人の、音楽的な捉え方の差は(すぐにわかるものではないですが)とても難しかったので、これからもっと考えてみようと思います。福島先生のお話は、とても厳しいと感想に書いてありましたが、プロになるため、一生歌に携わっていくならば、あたりまえのことなのだなと思いました。しかしながら、あたりまえのことをきちんとやるのが一番難しいのだと思いました。

また、すごく歌に、先生の愛情が感じられました。そして真剣でいらっしゃるとおもいました。だからこそ、私はすごく甘かったんだなとボーッとしてしまいました。楽しむ前には、がんばって真剣にやる必要があるのだと心底実感しました。道のりは長いですががんばろうと思います。今日は本当に有難うございました。

 

音楽で歌を売り出すプロの感覚、プロの体が必要であるらしいことがわかった。とても勉強になった。

 

先生の考え方や教え方は興味深かった。レクチャー中、あれだけ早口でしゃべって、のどがかれないのはすごかった。レッスンを受けるだけでは無駄というのがわかって勉強になった。

 

たくさんのお話、とても参考になりました。内容が多くて、貴重で、頭が一杯。

 

レベルの高い話を詰め込んで話されたので1/10ぐらいしか理解できてない気がする。

 

音通りに歌えるからうまいのではなく、基盤ができた上で、自分のオリジナリティが大切というのがわかった。自分の体で自分の声に合った練習というのがわかった。

 

とても奥深さを感じました。小さな声でも、体全部の力が必要というところが勉強になった。(今日聞いた音楽をそういう風に聞いた)

 

外国語と日本語の違いの話がおもしろかったです。音程ではなく強弱、感覚であるということに、目が覚めた気がします。基本があってこそ、応用が成り立つ。これも、どうやったらこんなときに対応できるか説明できるのでなく、基本があってこそ、その大切さを知りました。

 

こわいくらいいスクール、いい先生に習っても、最終的には自分のヤル気が一番大事だってことを改めて思い知らされた。

 

先生の声がときどき、マイクを通しているような錯覚をおこさせるほどよかった。そして、自分の声は全然だめだと思った。多少、歌には自信があったが、表面だけのものだとわかった。

 

日本語の歌にこだわっていたので、「自分のいいものが狭く感じた」と思えたことがよかったです。最近、運動不足なので、いろんな面から自分をきたえたくなりました。食わず嫌いはやめて、いろんなものを見たり、聞いたりしたいです。

 

息について、呼吸法の大切さ、呼吸、息だけで、どれだけのことができるのか、ということが聞けて、とてもよかったです。「何も教えない」ことで扉が大きく開き、可能性が広がることに過程の困難さを感じるものの、大変共感しました。

 

話にどんどん引き込まれていくようだった。お話は大変おもしろく、内容についても、納得のいくもの、また、気づかされることが多かった。

 

自然に言葉をメロディに乗せるという話がおもしろかったです。今まで考えたこともなかったので、この話は印象的でした。「息で体を支える」というのも、今日、実際に先生を見てわかった気がします。習得するのは時間がかかると思いますが、本当に奥が深いと実感しました。

 

普段の声の使い方から気をつけていることが、福島先生の声を聞いてわかりました。とてもきれいな声でびっくりしました。自分が思っていたヴォーカルスクールと、まったく違った形で勉強していくことに、少しとまどいを感じましたが、自分で考えて見つけ出す方法で、早く成長でいると感じました。

 

話が早くて、理解するのに大変でしたが、だんだん、歌は創るものだということだけはわかりました。本当にいいものは、聞いていて一体感がもて、感動できることだと思いました。いろいろよい曲を聞かせていただき、有難うございました。

 

印象的なお話が多いので、のみこむのに時間がかかるところもありました。歌うことに対するイメージが一変しました。

 

一つ一つていねいに答えられているのに驚きました。声のことについても、おもしろかったですが、やりたいことに対する姿勢(人によって違う)をどう自覚して、勉強していくのか、というようなことが、なるほど、と思いました。一番おもしろかったのは、先生が話しているのを見ていることです。リズミカルなので、噺家さんの話を聞いているようでした。

 

理解が、どの程度できたかは自分でも疑問符がつくところがあったが、頭を白紙の状態にして、新鮮な気持ちで聞けたと思う。「やれているか」ということが印象に残りました。自分にとっては未だ、レベルが高いのかもしれません。

 

自分の感覚を自分自身でわかるための基礎を身につけるには、大変よく感じました。また、自分の(自分なりの)感情を表現できるようになる体をつくる大切さも改めて感じました。自分が音楽に対して思う、よい悪い(単なる好み)に関係なく、先生の話を聞いて、音の捉え方にこうでなければいけない、等の決められたところはない、という現実(これはものすごく大変で難しいことですが)を改めて感じさせる話に、心が引き締まる思いがしました。今日はありがとうございました。

 

福島さんは最初、もっと固い方かと思っていたが、論理的にわかりやすくお話をされるわりに、フランクでくだけた感じで、聞き手として終始、リラックスして聞かせていただいた。

来る前にアンケートで読んでいた通り、声がとても聞きやすくて、しっかり聞けた。ベイビーフェイスみたいな声で、(特に低い声の響きとか)実際に、日本人でも出せるようになるのだと印象的だった。

内容も的確で、ときに正直な批判も交えられ、おもしろかった。実際に大音量で聞かせてもらい、説明していただき、わかりやすかった。この時間でこの内容は本当に満足でした。もっとやってほしかったことは、思い浮かんでも、含める余地がない感じです。福島さん、ありがとうございました。

 

今まで歌を歌うときには、音程をまず気にしていた。だけど、今日のレクチャーを経験して、歌というのは本来は音色で感じること、もっと自由に歌えるものであるように感じた。うまい人の歌をいくらまねても、結局、その人の半分の実力も身につけることができない。自分自身の歌い方を確立させないと、いつまでたってもうだつが上がらないと思った。音楽は線であり、一つ一つの音符を歌えば、いいというわけではない。

 

 

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レッスン感想 1197

 

はじめに、MCと歌いだしまでを前に出てやる。間合いのよい人、悪い人。やたらと説明が長いとダレてくる。それを自分で感じること、その後の切り替え。自分を出す可能性をみつける。余計なことをいうより、いわない方が難しいということ。

 

歌い出し1フレーズをやり、すぐに自分で確認してみる。<1回目>前に出るタイミング、歌い出し、客との空気。ギリギリに出すヴォルテージ。前に出して伝えること→力むのではない。間のび、間はもっと大げさにとってよい。間のギャップ、やる側と客の受け取り方は違う。どうやって出すのか、もっと時間を感じてみる。声の状態みる、気分や気持ちで大きく変わらないように、ステージでのスタンスをつくる。

 

バランスはとれているか、インパクト、しぼり方、うそはないか。強さがほしい、自分のスタイル、歌の選曲、人柄、歌に結びつけたいところ。思い切りはよい、もっと余裕がほしい。伝わっているかのフィードバック、歌はあくまで手段しかない、それでは表現にはならない、それを知ること。

 

自分のなかで回っているのはダメ、自分と歌との接点をつける。理由、人前でやることへの意味をもつ、自分がしたいことを単に投げかけても、表現にはならない。まわりをみる、音をみる、まわりの人をみて自分を知る。入っていないということを、自分が外側からみていたらダメ、まず入ること。取り出してあたるところあり、もっと思い切ってやる、逆にいい加減にやってみる。

 

働きかけの問題、客がいて自分がある、自己満足。発声ではなく→使い方、声の扱い方。音色の違いが出てくる、今の声がベストなんだと思わなくてもよい。表面的ないじりではない、内からのもの、その違い。他との差異、声=ツール、表現のためのもの、自己プロデュース力。

 

間のとり方、もっと場を想定する力が足りない、イマジネーション不足・つめ方、感覚が自分と一致するところをもつ。ものすごく大きく回しておいてよい、力は一致してくれば抜けてくる。1曲のピークをつくること、波が出るはず、構成力。出だしの間で薄まってしまう、歌でも薄まってしまう、歌ではもっとつめ方を考える。10秒の間を感じてみること、それだけでも違ってくる。しよう、やろうとしているときはできないものである、それは待つこと、

 

意識⇔無意識。徹底的に切り捨てること、まず数をこなす。方向、チャレンジ、はったりもよい、強いものをもつ。自分が認識していること(声のこと、音域のこと)を一度外してみる、問題は違うところかもしれない、思い込みを外す。差異をどれだけ拡大できるか→その人の個性。自分のわからないところがよいところかもしれない、人の評価眼。

 

今日の出席者は、合宿などでも参加したことのある人が多く、それぞれがそれぞれなりの問題を的確に自分で把握して、それをまわりの人はどう感じているかということを、トレーナーの意見も含め、他の人の反応からも知ることができたと思う。自分の確認としては、自分の間合いがもてればそのなかに入っていけるし、前にも出せるということ、とにかく10秒くらいはじっと我慢して待ってみること、そうすることによって落ちつくことができる、自分の心臓がいくらバクバクとなっていても「そんなふうにはみえないよ」といわれたら、(えーっそうですか)と思いながらも、とにかく落ちつくことである。

 

プロの体の感覚を読み込む。読み込んで取り入れたものを出す。どんなフレーズのなかでも、絶対に揺らぐことのない「芯」となる体のポイント。声の取出し方、息の流れ。これらをイメージして、自分もそのプロの感覚にすっぽり入りこむようにする。実際にイメージしていっていみても、体は動かないし、声も息も、音楽の捉え方も、全然できていなかった。

 

強くヴォリュームあるフレーズを出そうとしたら、今の自分は思いっき腰に固く力が入ってしまったり、口のなかが思いっきり力が入っていた。無意識に自分の今までの感覚でそうなってしまうんだなあと感じたことと、まだまだ全然「イメージ」というものが明確に捉えられていないのだろうと思った。音程を取るだけになってしまうのも、ものすごく“浅い”感じで、自分で聞いても思わず引いてしまった。

 

今日のレッスンの帰り、とっても下あごに負担を感じた。ずいぶん無意識にリキんでいたんだなあと思ったのと同時に、自分のクセとか、ついやってしまうこと、そういうものに気づかされた。その“クセ”をしっかり認めて、繰り返してしまう度に意識して、少しずつなくせるようにしたい。(11/26.入①.F)

 

まず、鍛えないといけないと思ったのは最低限レベル、音程を取れるようになることだ。先生が何回もリピーしてくれたのに、いつも同じ間違った音しかとれない自分が情けなく思った。ほぼ同じフレーズの繰りかえし、音もそれほど変わらないのにとれない。もっとたくさん曲を聞きなれていく必要がある。先生が古い軍歌をあえて選んでくるというのは、そこに意味があるわけだし、初心者にも当然わかりやすい、つかみやすいものを使っているはずである。それが何かをもう一度、よく考えてみたい。

 

勉強にならない曲なんてないし、どんな曲からも学ぶことが必できる。今日の曲は多分、同じようなフレーズ、音程があまりないフレーズで、どうやってその差をつけられるかであったと思う。しっかりその差をつけれるかであったと思う。しっかりつかんでいないと浮いた声になってヴォリュームをつけることができない。また、フランス語の曲をあえて日本語に変えているのも、もちろんわけがあると思う。それは曲のイメージが湧きやすいということである。

 

「悲しい」っていうところがあるならば、それをどんな音色+表情で歌っているかを見るためであるだろう。「ああ、この人はこういう音で表現しているんだ」ってことがよくわかって自分にも取りいれやすい。今まで接したことのない曲であるからこそ新鮮で今の新しい感覚で聞くことができていいと思う。また、音楽の世界を広げるのにも役立つ。どんな曲、どんな小さなことでも積極的に学んでいきたいと思っています。

 

今までいい加減に聞いてきた発音やリズムがまったく歌になっていなかったことがよくわかった。外国の音楽でやっているのだから、まず自分の感覚をそこに近づけるようにしないと、その深さを理解できない。しかも一流の人達がやっていることとなると、音の一つ一つ大切にされている。それを今の自分の感覚や技術で適当にやるものだから表現にはとうていおぼつかない。ただ単にぶつけてしまったり、とんでもなくちぐはぐに強弱をつけてしまっている。

 

こんなにビートルズの歌(ポールの歌)が深いのかと驚いた。気づかなかった自分の耳や感覚に幻滅した。しかし、少しではあるが、深く聞くことを学んだので、その意識でさらに深くつきつめていきたいです。一旦深く聞き出すとさまざまな音の世界に出会えることができる感じがします。もうきりがないくらいのめりこんでいくようで、まさに宇宙をさまよっているようです。

 

自分がアカペラで歌うとそこにリズムや世界が出てこない。それは音がぶつ切れであったり、音色が単色であったりするからであろう。しかし、先生がおっしゃっていたようにそういうものを感じさせない、超越するものが自分のなかや表現に表れるといいだろう思いますが。私はジェームズ・ブラウンからそういったものを感じてます。

 

何をするにも集中してやらなければいけない。神経を音に傾けていなければいけない。1つの音が発せられた瞬間に細胞が活発に働き出すように敏感になるよう訓練が必要である。いわれてからやっと腰を持ち上げてようでは、その時点で負けているし、感じたり、想像したり、その世界に入ることなどできない。リズムにもいえることで、ただ漠然と裏のビートを手拍子でとっているだけではまったく意味がない。メトロノームだけでも裏のビート、三連、16ビート等を自分で柔軟に感じられるよう、取り入れていかなければいけない。聞いている人もやっている自分も、気持ちよく感じられるリズムを表現していきたい。

 

まず、自分のなかにしっかりとした感覚を備えるようにしたい。全力で息吐きや、声を出しても乱れないビートを刻めるようCD等を使い、トレーニングに取り入れていく。息吐きもまだまだ不充分で、まだまだ吐けるような気がします。もっと全力で、最大の力でやり、今の上限のレベルを広げていくように、毎日取り組むようにします。

 

曲のフレーズもやったが、いまいち表現がうまくいかない。ある程度のイメージはあるのだが、それが少しも表現できない。確かに表現は難しいが、こんなにもうまくいかないものかと思った。グループのレッスンはとても勉強になっていると思う。まったく同じものを聞いているのに、こんなにも違う感じ方をしているのか、と不思議に思います。しかし、できてないところや感覚の鈍さは同じところであるのもわかりました。こういった鈍さは過去のものを全て捨て、新しいここで教えてもらった捉え方を、自分のものとして変えていくことによって直せるものと思います。もっと深いところや、誰にもわからない音や感覚の世界を体験してみたいですね。

 

基本、ベース、土台/自分ではもっと、呼吸からと思って出していたのだが、体の方はついてこなかった。かなり上半身に力が入っている。これはよくない。声を出すことが逆効果になるときは、声は出さないで、息だけの方が確実。「もっと太く出してみる」と先生にいわれて、より呼吸を感じてみようと、素直にそこにのせてみようとおもったけれど、体からは離れていた。

 

すべてがタイミングよく一致したときには、自分でも予想がつかないくらい深い声が出ることがある。そこではかなり自由だ。コントロールもできる。残念ながら、その状態は常ではない。自分の意識していないところに、音が入りこんできて、それに委ねているときには、そういう状態になる、それはやろうとしてやれるのではなく、かなり反射的に出てくる感じである。だからもっと聞けるようになること、読み込めるようになること。

 

聞く。聴く。今日のレッスンの半分以上は「聞く」ことだったが、かなりのところで自分に感じる部分があった。それはある一瞬の入り方だったり、声の線の描き方だったり、フレーズの落し方であったり、さまざまだったけれど、ものすごく内では感じるものが大きくても、それが同じに体が自由になるとは限らず、自分のやったフレーズはつんのめったように出てしまった。

 

聞えてきたものが、自分を消化して通り過ぎずに外からつかもうとするとそういう感じになる。その方向じゃないとわかったときは、すぐに修正をかけられるようにすること。これは最初の発声練習でも同じで、あまり声を意識するより、小さくてもいいから息を吐くこと。体で吐ききることを意識したいと思う。声だけがてんぱって出てしまったときは修正がかかりにくい。最近はなぜかジョルジアの声、歌に感じるものがある。

 

自分のなかにあるイメージと声を結びつける。今日のトレーニングは「さよなら」という言葉を使って自分のなかでイメージをふくらませ、それを声としてとりだしていくということを行った。今日のトレーニングで一番感じたことは、みんな声と自分がこうです、とみんなの前に発表してくれたイメージとが全然結びついていなかったということだった。いろいろみんな回してみて、聞いてみたが、「おいおいその場面でそうはいわないだろう」というのがほぼ全部だった。自分に対してもそれはいえることで自分のなかで、そのイメージする場面の映像はぼんやりと浮かんでいたが、声まではイメージできていなかった。

 

イメージしようとしても自分の場面ごとの声が浮かばなかった。(普段からこういうことに対して、鈍かったということがまざまざとわかった)だから、声に音がついても音はとれるのに、声が死んでいる状態になってしまうんだと、感じた。本当に自分としてはこれからのトレーニングで常に、何度も何度も自分のなかで「本当に自分はこういう場面でこういう声を出すのか」ということは常に自分に投げかけていきたい。

 

歌い方の引き出しをつくることによって、今までに見えなかったことや音の世界が見えてきそうである。今まで「これ」と思ったら「これ」という風にガンコにやってきたことをもっと柔軟に他のことも試していきたい。そうすることによって、本当に正しいことや間違いにもはっきりと答えが出てきそうな気はします。引き出しをうまく作れないのは1つにリズム感のなさが原因になっていると思う。うまくリズムに乗せて、はずして歌えないといったことであろうか。

 

歌で必ずはずしてはいけないところがある。その部分をもう少し意識してフレーズを組み立てなければいけない。そのポイントをつかめるように、さまざまな角度から見ていくのが必要な気がします。歌の雰囲気をつかみ、それを音色や音声として表現できるように体で感じ、うまく取出す。いち早く、その曲の世界に入る。その切り替え、集中力等もっと神経を「音」に向けるように日々トレーニングをしていきたい。

 

音の置き方、ヴォーカリストがフレーズに込めた思い。それらを本気で理解し、自分の持っている力を全て使い切って初めて、歌やフレーズが動き出そうとする。息を吹き込むのは「心」である部分がとても大きい気がします。伝えたい。という強い気持ち、それが声となって表れる。歌の裏に隠された部分まで読み取れないとアーティストとしての世界をつくり出すことは決してできない。まず、気持ち伝えようという強いもの。それを常に持っていたい。あとは微妙な音に対する自分の感覚を磨くこと。誰も気づかない世界まで、体験できるように集中して取り組みます。

 

息を吐ききること。準備してから吐くこと。吐いたら元の状態に戻すこと。吐ききれていれば自然と戻る。リズムに合わせて息を吐くときは、きちんと決まったリズムのところにピシッと当てて鋭く吐くこと。全力で息を吐いているときに、リズムがズレてきたりするのはよくない。リズムをしっかり感じてズレずに息を吐ききること。

 

ただ手を叩くのと、リズムをとって叩くのはまったく違うということ。リズムを叩いているんだと見ている人がわかるようでないといけない。リズムをきちんと叩けること。リズムを叩くときには、まず自分の体のなかでそのリズムを回して、遅くても速くても、自分は変わってはいけない。あせってはいけない(速)。遅くても速くても、いかに安定してリズムを聞けるか、叩けるかが大切。

 

リズムを聞くとき、あまり頭で考えないこと。毎日リズムを取ること。毎日やっていると、体が覚えてくれる。表だけを感じて叩いているのと、裏を感じて叩いているのでは全然違う。常に裏を感じて叩けるようにすること。いろいろな音のなかでリズムを取っていてわからなくなってしまったら、どこか1つに集中すること、あせらないこと。どんなリズムでも気持ちよく感じなければいけない。何が苦手なのか自分で把握すること。出てくる音に対して、頭でなく体で反応すること。一音に気を入れること、全身で反応して初めて体が楽器となる。たった一音で出せないものは、フレーズでなんか絶対に出せない。どんなことでも勉強していれておくこと。

 

息吐くことに集中すると、リズムが聞えなくなる。取れなくなる。リズムに集中すると全身で息が吐けなくなる。最初のうちはよくても、だんだんリズムがずれていってしまう。まだ息が吐ききれてない。

リズム、表だけ感じて叩くことは何とかできるが裏を感じて叩くとすぐズレてしまうし、あせってしまう。先生がいったように、体のなかで、叩く前にリズムを回すとリズムを取りやすかった。少し安定して打てたような気がした。できているかどうかはわからないが、体のなかでリズムを感じるのはとても気持ちがいいことだと思った。

 

ただの4分音符のリズムでも、リズムを取っていると感じると楽しく思えた。でもこれが8分音符になって、裏も感じるとなると気持ちいいというより、取らなきゃ、取らなきゃとあせって精一杯。もっとどんなリズムでも安定して打てるようになりたい。音楽のなかでリズムを取るのは本当に難しい。確かに混乱してしまう、バックの音が頭のなかでゴチャゴチャに聞えてどれがリズムなのかわからなくなってしまう。そうなったとき、とっさに1つのリズムに集中するのも難しい。リズムに自信を持てたら恐いものなどないなと思った。リズムに自信が持てたら、全てが前に出ていけるような気がした。毎日毎日メトロノームを聞きながら寝ることにしよう。

 

歌うときには声や体の調子などはあまり関係なく、その一瞬で自分が舞台にいる状態をつくりだせなくては意味がない。一発勝負だという気持ちで常にいること。曲のなかに、どれだけ入れるかが重要。聞き手に伝えようとすること。聞き手が、歌い手が歌っている、表現していると思うようでなくてはいけない。たとえ歌っていて声が裏返ってしまったりしても、聞き手がそれを気にしないぐらい、何かが出てい出ていなくてはいけない。パッと聞いたときの印象というのはとても大事。何も考えずに歌ってみて、何がひっかるのかをチェックするのが大切。

 

いわれたことをゴチャゴチャ考えながら考えながらやると、うまくていねいに歌えるかもしれないが、伝わってくるものがない。さらっと歌えてしまっている自分を壊すこと。声が乱れてしまっても気にしないで出せるものを取り出すこと。パッと聞いてパッと歌えるということには障害もある。パッと歌えない人は歌えるようになるまで何回も何回も聞くから。何回も聞いて、自分と比べてみること。そして徹底的にまねして、フレーズを解体していくこと。

 

自分を知るためには他のものを知ること。他のもの(人)があって、自分があるということ。聞いていてアキてしまうものとアキないものでは何が違うかを聞き分けられるようになること。サビに行く前に、聞き手に“この後サビにいくな”という、助走からだんだん盛り上っていくというのを感じさせなければいけない。そうしないと、つまらなく聞えてしまう。そしてサビの最高潮の部分で離さずに持っていけるようにすることが大事。キーの問題は今は考えなくてもよい。

 

もっと私たちに表現してほしい。気持ちを入れてほしいという思い1つ1つの言葉に含まれていた。それにすごく刺激されて、いつもより入りやすく感じた。しかし、こういう「伝えたい」という気持ちをもっと自分から出せるようにならないと何の意味もない。プロとしての自覚(まだプロではないが)の高さを持って1つ1つの課題を捉えていく必要がある。そういったレベルの高い基準を自分の設けていきたい。

 

妥協しがちなのが人間である。少しでも甘えという気持ちを捨て、より厳しい判断を持っていたいです。いつでも自分の最大の力を出す。感じたことをより大きく表現する。音のなかに入れる。その積み重ねが自分の壁を壊す唯一の方法なのだろう。いつも自分の甘さに嫌になるが、そんな自分に早く別れを告げるようにしたい。

 

グループレッスンにおいて、どんなメンバーでも、私はいつも絶対に自分の表現で圧倒させてやろうという意識で臨んでいる。他の人と比べることではないが、それが自分の気持ちを高めるのにもつながっている。もっと上へ、しかし、今を大事に。気持ちはどんな音にも入る。 

 

音に気持ちは敏感に鋭く入る。怒っていたら怒っているように、楽しければ楽しそうに。声は嘘をつかない。つけない。 他の何よりも明らかに心のなかを映し出す。だから、気持ち(感情)や感受性の豊かな人ほど、その数だけ声の音色を持つことになる。音の(声の)大小で気持ちは伝わらない。伝える人がどれだけ音に込められるかがカギになる。

 

今日は歌を通していろんなものを経験し、感じられた。なんか歌うことが小さく思えるようなたくさんの福島先生の言葉を聞いた。全てのものや事柄が小さく感じられた。もちろん自分も。生きるって、歌うって一体自分にとってどういう意味があるのだろう。なんて考えも浮かんできた。

 

自分のなかにパワー(知識、愛情、勇気等)やエネルギーがないと人に何も伝えることはできない。歌や声にはこれらの全てが無意識に詰め込まれている。一流と呼ばれる人達は他の人が気づかない、いくつもの要素を入れているのだろう。だから歌にはその人の「生き方」が表れてくるのだろう。

 

これから私はいったい世界にある物事の、どれくらいを自分のなかに取り込むことができるのか。そう考えると、まったく時間が足りない。また、自分の意識の低さに気づかされる。このレッスンの一瞬を、トレーニングの一瞬を高いテンションでやらないと、先に何が生れるのだろうか。何も生れないだろう。そうやって多くの人は無駄に妥協して生きていくのだろう。たかが80年くらい毎日毎日全力で生きていこうと思った。もっと自分を出せばよいと思う。何を一体恐れているのか。

 

よく考えてみて本当に情けなかった。「無」になる。体で感じ体でやる。これはスポーツでもいえる。調子によいときは頭では考えていない。これは経験済みだ。大きくかつ繊細に感じ、それをそのまま取出す。そうしながら方向性を決めていくことが必要だろう。

ときどき福島先生の背中が声を出すと、震動するように聞こえる。このときはやはり、私たちに何か伝えたいという気持ちの表れからくるのだろう。背中全体がひびくように聞こえる。1つ1つが見本であり、勉強になる。全て盗めるものは盗んでしまいたい。それくらい集中してこれからも臨んでいきたい。

 

フレーズを聞いて何かを感じて、それをひとつに捉えて出す。「聞く」ということにどのくらいのレベルでやれたのかというと、「あーあーあー」だったら、「あーあー」っていってるなぁ、と思うだけしかわからない。もしかして私は相当な見当違いをしていて、「出す」とき以外、つまり感じるという段階では、トレーナーの言葉を借りていうと「自分を放棄」していたのではないか。いや、「出す」ときも同じだったということだろう。感じるべき何かって何だろう。イメージや感情。そこから生れるものは少なくても生きている人間が感じられなくてはウソだろう。それをやれた人達は、人と違う何をやったのか。

 

「今 船出が 近づく この時に」音と音との連なり、一音の変化による曲の展開、構想、予感。総合的で柔軟な視野から自分の感覚を出し切る。書くのは簡単だが、全然「できない」何も動かせない。表現にならない。今、ものすごく自分のなかに“邪魔物”がいる。自分の偏った感覚と努力不足が、そして感覚の鈍さが露骨に出てしまっていた。先生のレッスンに出れば出るほど、とてつもない“距離”を感じる。どんどん壁が分厚くなる。自分の次元の低さを思い知らされる。距離を縮めたい。壁を越えたい。

 

音楽が“聞ける”とは。耳で聞いて、体で感じ、心で感じた音の世界を素直に出せること。本能的反射。テンション、リズムを崩さない。音程だけを追いかけない。頭で確認しない。難しい。まさに自分は音をとっているだけだし、ただ何となく雰囲気をとっているみたいな感じだった。“ただ何となく○○風”みたいなほど、無意味なものはないだろう。誰でもできちゃうことというのもまったく価値がないだろう。今の自分はまさにこんな状態だと感じてしまった。“耳を開く”“表現する”を理解じゃなく、本能で捉えたい。

 

曲の背景を思い浮かべる。自分のなかにある音楽を切る。勝手に結び付けない。感覚の大きさを知る。できなかったところの感覚や体を鍛える。呼吸を場に対して持つ。ひっかかったところをそのままにしない。曲を入れる。言葉で行った以上をフレーズで出す。

 

言葉、アクセントの感覚を離さない。「Kind of」はKindの方にアクセントがあり、逆にメロディの方につられてしまうとおかしくなってしまう。きっちりアクセントの感覚をキープして、そこに音程をつけるだけ。歌わないで言葉をきっちりシャウトする。「late at night」。流さないこと。決してフレーズのなかの主役ではないが、脇役は脇役できっちりしなくてはいけない。

ヤマが終ったからって決して気を抜かず、最後に後片づけをすること。ここでも言葉の感覚が役に立つ。言葉でていねいにおく感覚でやれば決してダラッとした感じにはならないはず。まず出だしで握り、そこを離さず展開していく。込める音の前で浅くなったら間に合わなくなる。前の音ですでに掘りはじめておく。何事も、準備なしにはうまくいかない。前の音からすでに深くしておく。これが流れをつくる、ということ。

 

ピークのところばかりに頭がいって、その前の部分が知らず知らずのうちに省略したような歌い方になってしまう。急ぎ過ぎている。踏むべき過程をきちんと通っていくこと。伸ばすべき音が短くなっていたり、アクセントを外して平らにしてしまったりしている。焦らずていねいに言葉を言い切っていく。そこがピークに対する準備だったりすると、きちんと準備しなければピークの方もうまくいかないことになる。はしょってしまわないこと。

ピークに関しては強くするという意識と深くするという意識の両方が必要だ。強くするだけだと、がなったり、ぶつけてしまうだけの体が離れた状態になってしまう。そこにフレージングの流れのなかで、息と体を込めて、深く掘っていく感覚が必要になる。それでフレーズ全体のメリハリができてくるが、それだけだとキレイにが流れすぎるので、アクセントによってインパクトをつけていく必要もある。両方が一致するとコクとキレ、深みと勢いが出てくる。

 

「Don't go changing」まずDon'tの発音ドンゴーになってしまうのはなぜか。ドンゴーといっているからなんだけど、そうなるのは、そうしか聞こえていない結果の表れで、だから「Try and」も同じで、読んでしまっていたから、流れのなかでつっかえてしまった。ここは特に「ハイ」と同じということ。1つでとらえれば、おくれることもつっかえることもない。今日の一番学んだことだった。ただ、そのことをわかるために何回も、何千回も聞いたトレーナーの結論を、こんな楽をして、自分は今日ここで20回くらい聞いただけで「あっそうか」と思ってはいけないとも思う。私はわからないところをきっと百回も聞いてない。今だに、そういう自分の甘さを捨てきれずにいる。回数の問題ではなく、わからないのに、通りすぎてしまうなということだ。そしてわかったときの喜びは、生きててよかった。まで通じるのだろう。だから、そういう勉強の仕方を(でもこれは、どのレッスンでも毎回いわれることだし、今更気づいているようでは全然だめなのだが、)改めて気づいた。そして、以前よりも、その重要性、必要性を感じたし、また、だから音楽って、歌っておもしろくて奥が深いと思った。

 

家でできていることが、この場にきてできないことがあって、身にまだまだついていないことが実感できた。いつでもどんな状況においても、ベストの状態をとりだせる力をつけることが必用だと感じた。集中する。1つの音、音色、音声に対して集中する。それを1曲で保たなければいけない。どういう音をどういった場におけば、どういう風に伝わるのか。それにもっと敏感になる必要がある。音に対して責任をもつ。そのためには集中するしかない。そうしたら気の抜けた音色や声を使うことができなくなる。しかし、自分のイメージを取出せる力が、今は、イコールではないから、伝える力を一流の作品から難しいことではある。イメージと取出す力、それによって伝える力を一流の作品からもっと学びたい。

 

音の密度やフレーズをどうとらえて、そのなかで息がどう流れているのか。そのあたりを取り込んでいく。練習のなかでも自分の1声1声に対して厳しい判断をもち、音楽になる“声”とはどんな気持ちで、どんな体の使い方をすると、生れてくるのか、それをもっと意識することが大事。自分がどんな状態で声を出せば、どういった声になるのか、そのなかで音楽的に表現できる声を探していきたい。適当に出して、人に伝わるほど自分にはまだ何もない。1つ1つに気持ちを込めて。1つ1つ敏感に感じるようになる。自分が何も感じていないのに人に伝えることは不可能である。自分が涙するほど感動した曲で、初めて人に何かしら伝えることができるのだろう。気持ちと歌声をうまく共存させるような感覚を身につけたい。

 

トレーナーがearthで、思いきり踏み込んでいくと強調していたが、CDを聞いていると、踏み込んではいるが、そこまで思い切りやっているようには聞こえない。しかし、普段先生がいっている、プロは軽くやっても我々は思い切りやらないとできないということを思い出し、さらに福島先生がよくいう、接点をつける、ということ思い出した。earthがポイントだと感じたら、フルパワーでそれを出して、過剰なくらいやらないと、まったく形としてみえてこないし、まったく接点がつかないで終ってしまう。このクラスが終ってから、もっとこうすりゃよかった、などと思うが、遅い。一つのポイントに即座に絞り込む力をつけないといけないと思う。つい、あれもこれもとまとめようという方向に気がいってしまう。

 

フレーズの切れ目、語尾を3回とも吐ききっていた。しかも回数を重ねるごとに、強く、吐ききった後の言葉までのスピード、反応が速い。この息を吐ききる感覚は私以外に気づいて(試みている)人はいなかった。しかし、私も頭でわかっていても力が入り過ぎ、大きく崩れる。先生あきれてか、発声、声のことへ課題を移行。個人的にはもう一度、フレーズをやってみたかった。上に書いた息の吐ききりは、サビ前とか、大きい山の前によく来る。しっかり聞けば自分でも聞けること。一回聞こえると、ものすごく前面に出て聞こえる。何で今までこんな単純なものに気づかなかったかということ。しかし、この1つが先生のいっていた100とか100の要素の1つかと思うと気が遠くなるが、1つ見えた。1つずつみつけていくしかない。

 

詞からイマジネーションを働かせるほうが自分にとってはわかりやすい。英語も独語も詞を語り口のまま歌になっているように聞こえ、構成、メリハリがみえやすかった。その上で、自分が出すときには迷わず日本語でうたいたいと思った。3回まわしたうち。1回目は言葉を語る感覚に集中でき、音の高低や発音にとらわれたいつもの感覚が抜けたような感じがした。

 

 

 

投稿

 

姿勢を正すことが、身体的な意味だけでなく、感受性の面でも、人間を研ぎ澄ますことにつながります。その状態を作り出すのが、ちょっとした座り方の工夫や、姿勢、呼吸法にあります。

人の身体は、筋肉が硬直してる時には内面に向かわないんです。筋肉を無理に動かそうとすると、感覚というのは鋭くなってきます。外界の刺激を遮断してしまう状態です。逆に筋肉がリラックスしていて、深く穏やかな腹式呼吸をしていると、自ずと周囲の環境に敏感に気づくようになります。

 日本の伝統文化の系譜を辿っていくと、その中心に禅の思想が深く根付いていることに気づきます。日本人は本来、胸を張って、いかにも背骨を伸ばしているといった感じの西洋的な直立姿勢ではなく、「座」を中心とする文化を発達させ、身体を通して、人を内面へ向かわせるという独特の身体技法を生み出してきました。その基本になっているのが、座の姿勢によって、身体と心と呼吸、この3つを整えていく、身体と心を調和させていく作業。その整った感覚を崩さずにいかに動くか、あるいは崩した時にいつでも自然に立ち戻ってこられるか、そういう意味での基礎になるのが姿勢なんです。おへその下まで大きくしっかりと息を入れることで、内分泌の働きが活発になり、丹田といわれる身体の中心感覚ができます。

 江戸や明治初期の女性の着物姿が美しいのは、本来の体型が違うからというよりは、身体の軸がありながら、肩の力の抜けた流れるような体の線、つまり“佇まいの美しさ”が感じられるからなのだ。

佇まいの美しさはあくまでも自分らしい、自然な状態にあります。たとえ物理的なゆがみや、欠点があったとしても、誰から見ても心地よく、決して不快な印象にならないんです。

身体の美しさを引き出すには、足の長さや太さを云々するのではなく、自分が持っている素材をていねいに、きれいに使いこなす、という意識をもつことです。美しいかどうかを特別意識しなくても、とにかく自分の体をていねいに扱ってあげると、その結果として“きれい”に見える。

足の裏の感覚を整えるのが一番の近道です。足の裏のバランスがよくなってくると、とくに肩の力を抜くとか意識しなくても、自然に背筋は伸びてきます。

 胴体にまっすぐに巻いた帯は、背骨を自然に立たせ、大事な母体や内臓をいつも暖かく守ってくれますし、息が上がらず、上半身に力が集まりようがありません。(武蔵野身体研究所所長・矢田部英正fromフラウ)

 

 

 

音信

 

ここで過ごした日々は、人生で最も輝いていました。忘れないでいたいです。歌への情熱を失ってしまったので、また心から歌いたくなったら始めようと思っています。この3年間、家業の美容院を手伝っていましたが、跡を継ぐのはやめて、この2月から日本語教師の学校へ通おうと思っています。やりたい仕事なので、挑戦してみようと思います。福島先生には、いろいろなことを教わりました。内面性などお手本としたいことは多く、これからもお身体を大切に、がんばってください。ありがとうございました。

 

ここに入る前にやっていたことを続けつつ、ここで知ることを混ぜたり、試行錯誤しているうちに、自分なりのトレーニング法を見つけられました。自分の体は自分がよく知ってて、歌いたい歌は外にはなく、私のなかにあります。誰の歌でもすばらしさがあり、理論的に比べたり聞いたりするのは退屈で、少し音楽を、歌を、嫌いにもさせます。偽りのないその人の心の声ならば「何でもありだ。」少なくとも私は、そこを音楽の(歌の)発生源だと確信しています。これからは、まず家族や大切にしたい人たちとたくさん会話をし、歌にしていきたいです。今まで少し閉じこもっていたから。長々と書きましたが、私の歌は私がつくっていくというのが理由です。自分にしかつくれないです、しょーじき、と思ってしまった。少しの間でしたが、たくさん学べました。ここで得たことは、生涯つれていく、私の細胞の一部です。本当にすばらしいお話&本をありがとうございました。

 

 

 

 

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おすすめ

 

 

【演劇「智恵子飛ぶ」】

(新橋演技舞台場)を観て/この劇は高村光太郎と智恵子の出会いから別れを三幕に分け、演じられた。光太郎役に平幹二郎。智恵子役は片岡京子。彼女は三田佳子の降板で急きょ決まったらしい。一時間近い休憩を入れて、四時間近くの公演だったが、そのなかで、心を動かされ、眠気を覚まさせるものは2回ほどあった。平幹二郎の終盤での演技は、熱さが込み上げた。彼の特徴なのか、今回の役としてそうやっているのかわからないが、全体的に強く大きな演技だ。真っ直ぐで覆い被さってくるようなタイプ。ほとんど感じさせなかったが(厳しい客はどう思うかわからないが)、悪くいえば、いかにも芝居ちっくな感じ。よくいえば、パワフル。そして、光太郎が妻の精神が狂っていった原因が、初めて自分にあると知ったときの苦しみ、申しわけないという気持ちをいうシーン、許してくれというような台詞で10~15秒くらいだと思うが、とても生きた音がとんできたと思う。ここでも、セリフの流れ中で自分なら、こうするというのを裏切って彼は上の道へ行った。上というのは熱い、たたみかける、大きくする方向という意味。わたしだったら弱くするか、気持ちとして遠くを見るような感じにしたと思う。ああ、それもありか、という感じだった。同じく終盤に、光太郎が一人で舞台に立ち、智恵子へ思いをいうシーンは、ステージ実習に置き換えてみやすいシーンだったが、ケタ違いのものだった。前後の文脈なしに、そこだけを朗読としてステージ実習でやったとしても、自分とはまったく離れた実力の差を示していた。もちろん、普通にプロの舞台として見れば、なかなかよいというくらいで、涙が出る、とかではなかったが。その他、全体としては、他の役者も含め、プロの実力というのは感じた。少なくとも、どの役者も、言葉はしっかりととんできたし、ミスを感じさせるようなことはなかった。最後のあいさつの礼も、スキのない、プロを感じさせるものだった。智恵子役の片岡京子はよかったが、これを年も大分違う三田佳子がやったらどうなっていたのかと思う。

 

【お坊さんのボイスライフ】

お坊さんの唱えるお経にビックリした。日常のなかで、特に歌や声を意識せずとも、毎日の厳しい修行に励み、繰り返し、お経を唱えていく中で、自然と身につく声のパワーはすごかった。以前に映像で「比叡山延暦寺、酒井ゆうさいの干日解放業」というのを見た。「干日解放業」とは、とても厳しい修行で、そのため過去に幾人もの死人を出しているらしい。一度火事か何かでその記録が燃えてしまったらしいが、その後の400年のなかで「干日解放業」を終了できた人は50人以下ということらしい。また、その「解放業」を終えて、初めて「阿じゃり様」になれるという。ちなみに酒井さんは、その「解放業」を2回も成功させたらしい。そのとき周囲の人達は、必死に止めたらしいが、酒井さんは自分の強い意志を貫き、そして帰ってきた。自分もそうありたい、と強く思った。話が脱線してしまったが、いいお坊さんの声の持つ厳しさ、優しさ、あったかさ、そういうものはまさしく、その人の生き方が作ったのではないだろうか。とても刺激を受けるようなレッスンでよかった。

 

ホリー・コール

デビュー直前に、交通事故にあい、アゴの骨が砕けて再起不能といわれながらギプスをはめて見事カムバックを果たした。オリジナルよりスタンダードを自分流に味付け(アレンジ)をすることに本領を発揮するみたいだ。今回めずらしくバブリーにワインなんか飲んで、オナカイッパイでクラブ(ブルーノート)に出かけた。最後列の席は初めてだが、やはりアーティストたるもの、腹はすかせ気味に、カップルとカップルの間にはさまれ、孤独を噛み締め学ぶべしと反省する。ビリー・ホリディや、「I can see cleary」を自分の味でメッセージしていた。声量のあるなしや、うまい下手ではないんだなあ。私もビッグアップル(New York)の回転ずし屋で回っているサーモンすしや、ソーセージすしのように、また夫婦漫才、初の女流漫才師のミス・ワカナのように大人のミーハー音楽を探して行きたい。時代の断片や世相のパンの耳や気持ちのかけらをひょいと救い上げ、共有して、沢山の人と楽しみたい。誰でもない、私という個からのメッセージとして。客席は分かって聞いてたんだろか。続けること。客の前に出て磨かれること。今は両方猶予期間として許されている。オリジナリティ&メッセージ性。でも押し付けがましくも、うるさくもない。自分に集中している、内面世界もしっとりしている。選挙演説みたいなおしゃべりでなくて、存在してにじみ出てること。

 

ジュリエット・グレコ

絞首刑にされようとする女の人の歌がすごい迫力で客席も入りこんでいるのが分かった。それと“行かないで”。黒のシンプルなワンピース。20分の休憩のあともお衣裳がえなし。バックのセットもなし。ず-とスタンドマイク。ピアノにアコーディオンに超シンプル。バンドの人の名前を紹介したとき、歌っているかのフレーズで歌詞かと思ったら、ドラムの人の名前を呼んだんだと判明。♪ああ憧れのパリだ、この言語の差は何だ。70過ぎても声って出るよなあ。それもかさかさしてなくて潤っている。う、うらやましい。歌詞のなかに“人はすぐに忘れるんじゃなくて、すぐに慣れてしまうのさ”ってドキッ。シャンソンはけっこう思想的というか、哲学的というか。最後はすごい底まで(ずーん)と入りこんでいるのが分かった。客席の50代の人たちはたぶん1970年前後によく聞いていた人たちだ。昔はよく来日してたのかもね。フェステバルホールとかでアイドルだったかもね。越路吹雪さんとかとの違いって何だろう。グレコは昔サルトルたち実存主義者の思想家、詩人、文化人の溜り場であったパリの地下酒場「タブー」のマスコット的存在だったらしい(昔、加賀まりこは東京の何とかいうレストランで知識人に愛されてたらしい)。70過ぎた今も、所作や雰囲気に可愛らしさは残っている。ひとくちに洋楽だの、ジャズだの、シャンソンだの、西洋人だのいうけれど、アメリカとは全然違うやん。それにシャンソンってなんか哲学やん。すごい、わび、さび利いてるやん。和製シャンソンって、あまりに年月同じことやってて、歌舞伎が古典化したみたいなことなっているのかもしれないけど、ケーキがまだ珍しかった時代の、不二家のイチゴショートみたいやん。コンサートのちらしなんかもキワモノでけっこうこわい。いいねんけど。

 

セザリア・エヴォラ

クラブ・クワトロに聞きに行く幸運に恵まれてすごくラッキーだった。告知が地味だったせいか、入りがもうひとつなのが残念だった。西アフリカ島のカボ・ヴェルデ共和国という小さな国の「モルナ」という音楽ジャンルの歌い手さんで、60歳くらいで、フランスで火がついて、世界の市場にデビューしてからはまだ10年余だそうだ。プエンナ・ビスタのキューバの「ソン」のイブライムやコンパイもそうだが、植民地の頃は、夜の街も賑やかで仕事も多かったが、共和国になったり、革命後とか、独立後に生活に苦労したケースはよくあるみたいだ。セザリアは裸足ですっくと立っていた。彼女の国の歌はとても哀愁の感を起こさせる。彼女の何がすごいかっていうと、とにかく(何にもしていない)ことがすごい。歌らしいことは何もしない。左手にハンドマイクをにぎったら、にぎったまま、反対の手を上げることもしなければ、悲しそうな、うれしそうな、日本にはびこっている(○○そうなオバケ)みたいな、借り物の、形骸の、演劇じみた表情一切作らない。(ようこそおいで下さいました、サンキューべリマッチ)ふうの愛想も一切なし。そして曲の最初から最後まで全部自然な地声。ファルセットだの声楽のコラなんとかいう技巧も、或いは逃げも一切なし。彼女にとって高そうなキィも、低そうな音も一切なし。すべて同じ状態で引き受けている。音声ですべての情感を表現している。予備知識全然なかったに関わらず不思議な感動が湧き上がった。繰り返しのとき、音楽のリフレィンって何て気持ちいいんだろうと思った。声ひとつ引っさげて諸国漫遊できる人だ。両手を合わせて(心のなかで)拝んできた。まんなか、小休止のバンド演奏のとき、テーブルに腰掛けて、水をコップに注いで(ひょっとすると酒かもしれん)、タバコを一服した。そのふるまいがあんまり自然体なんで笑えた。アメリカや日本のショービジネスだと、そうすること自体演出であったりするが、そうでなしにホントそれが習慣、生理的な欲求なのだ、おもしろい。ボサノバみたいに、表面さらっとしてて、水面下に支えるテンションを要する音楽。あとでアルバムを聞いたら、ライブの感動を再現するのはちょっとムツカシかった。今回はプエンナ・ビスタのヒットにかんがみ、キューバ色を取り入れて、これでも特別明るい曲が入っているのだそうだ。体の動く音楽で間奏では、外人のお客さんが前に出てカップルで踊ってて、セザリアはタバコをくゆらしながら満足げに眺めていた。東京はもうちょっと人が入るでしょう。前日に見たジュリエツト・グレコとはすごい色のコントラスト。こっちの方が今っぽくはある。アレくらい何もせず表現できるようになるのが目標だ。こんど生まれてくるときは、南の国で、10人くらい子供を産んで、大きいお尻をして、家族そろったときには五枚重ねのパンケーキをうれしそうに食べて、いつも口ずさんで、ゆれててというのもいいなあと思った。去っていくうしろ姿は何者も恐れていないふうの迫力満点のおか-ちゃんだった。

 

上田正樹

客観的な評価はできなかった。好きも嫌いもなかった。出のとき、一瞬立ち止まって拍手のタイミングをつくったのがプロだった。かぶりつきで、テンションや表情を観察することができた。ある種フツーの50のおじさんだったのがうれしかった。60歳になってやっと夢にリーチかかったって言葉カッコイイ。R&Bや英語を完全に(消化)していた。インドやアジアでヒットチャートだそうだ。自分の胃袋でもってきちんと消化してはいるが、本場の人が見たらどういうのだろう。以外と優等生に見えやしないだろうか。大阪の商売人の発想だけど、むこうではもっと笑われて、眉ひそめられてもいいかなという気がちらっとした。立ち居振舞い、音楽と同化していてプロ。殆ど英詞のためか、客席が大人しいって気にしていた。“音色”や“声のパワー”のインパクトがさらにあればもったのか。まあそれも疑問。Eメール会員の形式でファンクラブを募集していたがなるほど、切手貼って、会報送ってという既存の形式より安上がりで、会費無料でいけるワケね。きちんとやって行けている人が雲間に隠れているよう見える、日本ってへンな国。今日は通りがかりにライブを聞けておもしろかった。ただ見る、聞くようなことも、まとまった数を入れると、ふと(結晶作用)が起こるのは知っている。同じ環境のなかでも観察力や、感性や、心して落としてないと入らないけど。そのつもりで今は意地で行っている。やりたいより(知りたい)が先行しているのもある。結晶しなければただの遊び。まじめにレッスンしている方がまだマシだったりする。何かを期待する分だけ酒、ばくちよりたち悪い。自分はいろいろ器用に目先を変えてするタイプでない。高名先生もアレコレするタイプでない。気がつくと先生に昔教わった同じことばかりしていたりする。ヴァリエーションを器用にやるのでなくて、イメージトレーニングでないとできないところもある、映像見たりとか。ただそれでは時間かかるかナ。これもタイプ。

 

林英哲

「あしたの太鼓打ちへ」。色自体に、いい色、悪い色というのはなく、どんな彩度や明度の色でも、配色や形や分量、質感で、印象はずいぶん変わって見えます。色自体に、いい、悪いの責任はない。美術を多少やっていたので、そんなことを思うのかもしれませんが、大胆にいえば、音もそうで、音楽に「雑音」というものはない。あるとすれば、好きか嫌いかでしょう。どんな音にも、色感や表情があって、注意深く聞けばそれが見えてくる。同じはずのレコードが、聞く場所や雰囲気で、えっ、と思うような違う感じになるのは、よくあることです。われわれが相手にしているものは、そういう、不確かで移ろいやすい、だからこそおもしろい表現なのです。がむしゃらに打つ太鼓にも、十人十色があります。骨格が異なり、体重が違えば、同じ力量でも太鼓の音は変わるのですから、意識が変わればもっと違った音になり、音のトーンも変化する。色彩が変わるのです。そういうことが、実際に理解できる経験は、なかなか少ないのですが、あるイメージがあれば、ではそれを音にするとどうなるのか、やってみる価値は充分にあります。

 

フジ子・ヘミング

「奇蹟のカンパネラ」。この人の指のもとでは、たんに主旋律のみでなく、対旋律、和声、リズム音型、要するにあらゆるフレーズ、あらゆる音符が、絶えず何事かを<語って>いるのである。しかもそのことは、一般にはまずはきらきらと技巧が表立って聞こえるような曲において、いっそう明らかなのである。決して、技巧がおろそかにされているのではない。すべての音符は、果たすべき役割をしっかりと果たしている。聞いていると、私には、古いSPレコードで耳になじんでいる、幾人かの名人たちの演奏が連想された。けっして、フジ子・ヘミングの演奏ぶりが古色蒼然として聞こえたという意味ではない。ただ、往来のピアニストたちが大切に保っていた、鍵盤を通して<心を語り出でる>気質と流儀を、この人が現代に生きながらお円かに堪えていることに、驚きと喜びとを覚えたのである。だから私は本心をいえば、いたずらな賛辞と受け取られるおそれのある文章など、1行も書きたくはない。ただ、ひとつのことははっきりといえる―音楽において最も大切なのは、心から出て心へと向かう調べだ。そして、このピアニストはそれを生み出す人だ。

 

【「音楽」武満徹×小澤征爾

武満「それはだから、日本人の音のいつくしみみたいなもんだな、愛の問題だと思うよ、おれ。やはりさ、どうやって自分の音をつくるか。ピアノみたいな楽器の演奏でも、こうやって指をふるわせてもビブラートかかんないかもしれないけど、それでも、一人ひとり、打鍵の方法を工夫するじゃない。ピアノみたいに精巧につくられたメカニズムでも、(中略)ぜんぜん音色がちがうじゃない。だから僕は、音楽はそういう謎の部分が大切なんだと思うな。結局、僕は小澤さんを見ていて、あなたの音楽を素晴らしいと感ずるのは、その愛し方だよね。音のいつくしみ方のちがいだよ。音を自分が掴んでみよう、触ってみようとするわけでしょ。指揮は単にメトリック、数字じゃないのだから。」 

小澤「まあ、僕の場合、幸いしているのは、ほんとうにいい音を聴くチャンスが多かったことだよ。カラヤン先生のところで習っているときなんてさ、もうしょっちゅう練習聴いていてね。それからニューヨーク・フィルでのバーンスタイン、タングルウッド、ボストンでのミュンシュでもそうだし、ヨーロッパでも、ほんとうにいい音を聴くチャンスが多かった。すごくラッキーだったよ。」

 

【星の王子様の幸福論】

不幸になる原因は「自己没頭の病気」である。自分の殻に」閉じこもってしまうために不幸な人は、いったいどうすればいいのか。彼は、自分の不幸の原因を考え続ける限り、依然として自己中心的であり、ために、この悪循環からのがれることはできない。外界に対する真の興味はみじんも、なくてあるのはただ、外界がどうにかして自分を傷つけやしないか、自分の自我をはぐくむのをやめはしないかという気遣いのみだ。

 私たちを自己の殻にとじこめる情念(自分マニアのことだ)は、最悪の牢獄の一つとなる。そういう情念(狂おしい感情)のうち、最もありふれたものをいくつか挙げるなら、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。これらすべてにおいて、私たちの欲望は自分自身に集中している。 

 心配ごとに次いで、不幸の最も強力な原因の一つは、おそらくねたみである。こういう事態に対する適切な治療法は、精神を訓練すること。つまり、無益なことは考えない習慣をつけることである。

 もしもあなたが栄光を望むなら、あなたはナポレオンをうらやむかもしれない。ナポレオンはシーザーをねたみ、アレクサンダーはたぶん実在しなかったヘラクレスをねたんだことだろう。したがってあなたは、成功によるだけで、ねたみから逃れることはできない。歴史や小説のなかにはあなたより、いつももっと成功した人がいるからである。手に入る楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと(もしかするとテンで誤って)思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたはねたみから逃れることができる。あなたが自己没頭の病気(自分マニア)に打ち勝ったあかつきに、心のなかにどんな客観的な興味が湧いてくるかは、あなたの性質と、外部の事情の自然な働きにまかせるしかない。本当にあなたの興味をかきたてるもののみが、あなたの役にたつのである。しかし、あなたが自己に没頭することをやめたならば、たちまち、本物の客観的な興味が芽生えてくると、まず確信してよい。幸福な人生は、不思議なまでによい人生と同じである(ラッセル「幸福論」)。

 王子様は、もっと遠くへ旅を続けながら、こう考えました。-あの男(点燈夫)は、王様からも、うぬぼれ男からも、呑み助からも、実業家からも、けいべつされそうだ。でもぼくにこっけいに見えない人といったら、あのひときりだ。それもあのひとが、じぶんのことでなく、ほかのことを考えているからだろう。

 王子様は砂漠の花に人間は何処にいるか聞いた、すると「どこで会えるか分かりませんねえ。風に吹かれて歩き回るのです。根がないんだから、たいそう不自由していますよ。」 『根っこ』-心のよりどころ、気持ちの安らぐところ、自分が力を発揮する揚所、自分を支えてくれる居堤所。根っこをなくすと苦しいのだ。

 王子様は列車を見ながら再び聞いた。「自分たちのいるところが、気に入らなかったってわけかい。」「人間ってやつぁ、いるところが気にいることなんて、ありやしないよ」とスイッチマンが言いました。 幸せになるために大切なこと―『人生の大目的』と『宇宙との一体感』を持ちなさい。これさえ十分にできれば、死んでも思い残すことはないと言えるようなものを何かひとつ見つけて、その一つのことに精を出し、納得いくまでやってこそ、より幸福に近づける。例えばそれをマザー・テレサは『人を救うこと』に決めた。カール・ルイスは『速く走ること』に決めた。エジソンは『発明』、ディズニーは『人に夢の世界を見せること』みんな、一つのことしかしていない。人間生きていれば毎日イヤなことはある。そういうときは、その毎日の悩みと『人生の大目的』とを比べてみればいいのだ。たったひとつのものが幸せを運んでくれる。

 1 心の奥の願望本来の自分。2 日々の行動、毎日の願い現在の自分。3 人生の大目的将来の自分。1、2、3矛盾なく統一する。心のなかを分裂させないこと。負ける原因は、内部の分裂に余計なエネルギーを消耗してしまうからだ。

 ある「しぐさ」をすれば、自動的にその「しぐさ」に合った気分に誘導される。

 人間には、自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵は常に自分自身である。判断を誤ったり、むだな心配をしたり、絶望したり、意気消沈するような言葉を自分に聞かせたりすることによって最大の敵になるのだ。

 エゴイストは、自分の幸福のために自分の周囲の人たちは生きているのだと考えるように思いたがる。それはあまりにも単純な見方だ。ものごとはそうはいかないのだ。エゴイストは憂鬱な人間なのだ。なぜなら彼は幸福を待っているからだ。

 憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くを御覧なさい」。憂鬱な人はみな殆どが読みすぎなのだ。人間の眼はそんな近距離を長く見ていられるようにはできていないのだ。

 人間の眼ははるかな水平線を眺めるとき、やすらぎを得るようにできている。そのことはわれわれに大いなる真理を教えているのだ。

 ほんとうの楽しみとはいつも忘れられている。なぜなら、ほんとうの楽しみとは、まず第一に「労苦」であるから。労苦(限界へのチャレンジ)のなかには、まぎれもない幸福がある。「生きがい」とは労苦を克服する喜びのことをいうのだ。労苦のなかでは絶対的な幸福と相対的な幸福(成績、名誉etc.)が両方味わえる。