「事実と真実」1201
アーティストは、己の体内からの溢れるエネルギーの表出に形を与える感性での表現で、素晴らしい作品を創ってきた。そのカオスが、文化やアートと呼ばれる源流となった。
今は、人間本来のもつ、この大きなエネルギーを使わないで、文明の利器に頼っている。
その渦中にいると、そのことさえ、わからなくなる。
第一、歌や発声に正しいやり方とか正しい声といった正解などはない。
声楽は、発表の舞台や内容から、ベルカントという唱法を編み出し、そのための基準をつくった。
これもそれを成し得た人たちに正しいものが宿っているだけである。
それぞれの民族や音楽によって、唱法も発声もすべて異なる。
その人の真実は、その人のなかにおいて磨かれるしかなく、
それに気づかず、それを練り出す努力なくして、他人を納得させるものは出ない。
何事も成し得ず、自己満足で終わるのは、歌のなかで創り上げた幻想に、他人のノウハウで他人の歌らしく歌うことをめざす人たちである。
私のレクチャーの後、アンケートでみる限りにおいては、そこで起こった事実をきちんとみることのできる人は、少なくない。なのに、いざ始めると、他人依存症になるのだろうか、
最低限のこともやらぬところで、頭のなかだけの憶測、推測、妄想、伝聞事で、左右される。
なぜ、腰を据え、地に足をつけて、紙を一枚一枚重ねるようなトレーニングをできなくなるのか、不思議である。
頭で考えて、できなかったことをやりにきたのに、頭ばかりを使ってどうなるのだろう。
この世界は、そんなに簡単にできてしまうほど、ちっぽけなものなのだと思っているのだろうか。
事実は、トレーニングという現場のなかにある。すべては、そこから拾うしかない。
確かなことは目でみて、手で触れるものにしかない。
しかし、声や歌の世界は、それができないので、レッスンの場がある。
自分なりに対策を先行させるのも、反省をするのもよいが、その場で起きた現実の事象に対し、本質を見抜いていくことを怠っていないだろうか。
多くのすぐれた音楽や歌、アーティストを対象として研究し、自分と同じ時代に今、生きている参加者を研究し、そして自分を研究していく。
これは、自分の世界をつくるためには、誰にも課せられた必要条件である。
そこでは、他人や自分の失敗こそが、最高の宝なのである。
その失敗を共有することが、こういうところに来る最大のメリットなのである。
きちんと負けなくては、勝つことはできない。
野性的、原始的、本能的ともいえる大きな力を発揮する必要もなく、今の日本は日常生活も仕事も営まれている。だからといって、トレーニングのプロセスで自分の能力をそういう力を通してフルに発揮すること、無我夢中にとりくむこと、その充実感、爽快感を味合わずにして、どんなステージが生まれるのだろう。
イメージし、実行し、結果を出す。その一仕事を一貫してやり遂げる。
その自己完結に向けての研ぎ澄まされ抜いたところに、詰めに詰めたところにしか、他人に本当に受け止められるものは出てこない。
それゆえ、歌、舞台、表現は、生きることそのものといわれるのである。
いろんなことが起きている。何が起きるかわからない。だからこそ、自分がしっかりし、自分の力をつけ、すべてに対応していかなくてはいけないのである。
何も起きず、予定通りにことが進み、そして声がよくなり、歌がうまくなる。
としても、私はそのような歌を聞きたいとは思うまい。感動することもあるまい。
あなたは、自分の人生でそのようなことをめざしているのだろうか。
何が起きるかわからないところに、常に学べること、気づくことがある。
疑問がわき、課題がもちあがり、それをとりくめる自分ができてくる。
その結果の表現において、とことんストイックかつハングリーな闇から漏れてきた光明をみるのが、アーティストの作品というものであろう。
何が起きるのかをみること、そこからすべてははじまる。
どうしてよくならないのか。
それは、たくさんのことが起きているなかで、何も起きていないと思い込み、
頭のなかだけであれこれと考えているからである。
最近の質問は、頭だけから、まるで他人事のように発されている。
体から、心から、自ら肉声をもって聞えてこない。だから、答えようがない。
私は、頭で考え、口先で答えたくない。
じっくりとあなたの声が出てくるまで、黙って聞くことに耐えている。
あなたこそ、それを行わなくてはいけないというのに。
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【後期ライブ雑感】
ライブの眼
あいかわらず、ライブの眼をした人は3人、きちんとステージを構成できた人は、もう皆の判断にゆだねてよいだろう。
学び方については、ここのところレッスンを通じ、こういうコメントを通じ、述べてきた。
すでに答のすべては、そういうなかにあるのに。
まったくそういうものを読んだり聞いたりして、自分の身につけることができないのは、どうしてだろう。どうすべきなのかは、すべて述べている。
そこで答えをつかまぬ人は、これまでやれなかった一人よがりの判断を、ここでやって、また他のところへでもいくのだろうか。
あなたをすぐに認め、ほめてくれる先生は、巷にたくさんいる。
勇気づけ、才能を発見したように、そして力づけ、具体的目標を与えてくれる。
ライブデビューでも、CDデビューでも、保証してくれるかもしれない。
しかし、それは、いつまでも実現することはなく、己の力のなさ、才能のなさで本人があきらめ、
そこでそれが自分の能力なのだと悟ることになるだろう。
業界で、デビューした人、売れた人、そしてよくなくなった人も、たくさんみてきた。
なぜ、だめなのかは、きちんと磨いていかないからなのである。
ここはそのための時期である。
そうでない人には、そういうことをまったく知らない先生や、声一つ、自分でできなかったのに、それも気づかず、できているつもりでいる先生が、大手を振って待っている。
仮に、声や歌は少々、できても、人に伝えることを知らない先生では、やっていけない見本にしかなるまい。(しかし、今や、そういうトレーナーでも貴重である。声のできていない人が、大半だからである。)
ここは、トレーナーや上のクラスを最低限の基準としている。
基準とそれを満たす材料をとことん供給している。
表現は自分で創る、教わるものではない。
盗るしかないということを本当にわかり、実践した人しかできないからだ。
大海に出てもやっていけないからだ。
初心者のなかのボス、カラオケ自慢をやりに、ここに来たわけではないだろう。
そんなことにあなたにとっての大切な場を使えば、
いろんなことを得られる場を、貶(おとし)めてしまうことになる。
どこでも、そこから何を学ぶか、なのだよ。
なぜ、やり放しだけしてみないのかといいたい。
あなたと同じようにここに出て、人を感動させた人もいる。
なのに、あなたのやったことは何かを、はっきりと知ることからだ。
「表現」と「表出」の違いを知って欲しい。
自分で創れないために、表出している先生に限り、人を育てるなどと思い上がる。
そして、人柄だけがよい先生をたくさんみてきた。
今も、世の中には、そんなサービス業の先生であふれている。
弱者に対しほめるのは、治癒である。
人によっては、まず普通の人のレベルにする必要であろう。
しかし、とことん力をつけていこうという人に対し、最初に示すべきことは、現実の厳しさである。
それが自分の能力だということは、何年もレッスンしなくてはわからないものではなく、1日でわかる。そのためのオーディションなのである。
せっかくのX'masライブの機会、絶好のアピールの日に、
それをきちんとセットしようとして、できなかったのは、結果の世界、勝負の世界、
しかたない。
しかし、ただの思い上がりで、セットさえしないのは、
人生に対して、自分の大きな可能性に対して、もったいないことである。
まずは、本質を観る眼をもつことだ。
出る、続ける、磨く
出てる奴、続けている奴、磨いている奴が偉いんだよ。
誰もが、やらないから、やれなくなる。
本を読む人100万人、レクチャーに出る人1万人、ここに出る人千人、
5年続く人100人、10年磨く人10人、
それだけのことじゃないか。
99パーセントが発展と思って、出なくて続けなくて磨かなくなる。
つまり、ここに入ったときがピークの人9割、
3年のうちのある時期がピークの人残り1割、
そして、去る人は99パーセント。
いや、ここにいようがいまいが、どうでもよい。
あなたのトレーニングが深まっているかだ。
あなたの表現が開花していっているかだ。