一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー 24845字 1202

レクチャー 1202

 【レクチャー  39121】

【④クラス 39128】

 【②③クラス 391224】

 【③クラス 391225】

 

 

【レクチャー 】

 

歌い手が水泳をよくやっているというのは、体力づくりと筋肉のバランスをとるためです。

肺活量が増えるということではない。

そこは、男性と女性では、1000ccほどの差があります。一般の女性ががんばっても男性を超えられません。

もし肺活量がヴォーカルの要因であれば、女性は男性よりもヴォーカルとして価値が低いはずです。でも歌の世界では、全世界をみても男女の実力は平等です。ショーエンターテイメントとしては女性の方が、有利でしょう。成人後に大きく変えられない以上、肺活量を考えることに意味はありません。

 

声域の問題ですが、高い声というのは、ある意味では技術でもっていける。声帯という一つの楽器を加減することによって、ある程度までは可能です。

逆に低く出すというのは、個人差での限界が早くわかります。

あとは、太さで出していくしかありません。ギターも弦の太さで低いところを出しています。 

 

 

個性があるというのは、声帯という楽器として定められている部分でもあります。それを買ってつくりかえるようなことはできません。 

声量とか声域のこともトレーニングをしても限界というものはあります。

レーニングというのは目的に対してどこまでできるかということです。声量や声域を獲得するということが、教え方のメインになっているようですが、本当は歌うことと、あまり関係ないのです。

 

大体、西欧のものをすべてまねて無理するから声楽もポップスもそんな無意味な努力をすることになるのです。日常生活に1オクターブ使えるから、彼らは2オクターブで歌っている。

なら、日本人は半オクターブでよいのではないですか。 

 

声量も声域もないよりもあったほうがよいというくらいです。それがないから歌い手になれないということではないのです。いつも大切なことは、そのほかに何があるのかということです。

 

 

 今の日本の音楽業界で必要とされている人はタレントです。そういう世界で勝負できる人は、トレーニングをする必要はない。プロとしてやっていくことと、腹式呼吸をやって歌がうまくなること、技術と仕事をやっていくこととは必ずしもすぐに結びつきません。日本という国がそこまでの歌のうまさや声のよさというものを必要としていません。 

だから一人の人間として考え、やっていくつもりがあれば、知名度をあげて、それから好きなことをすればよいのです。その人の生き方、価値観をどうもつかということになってきます。

 

 ここで約束していることは2つです。必要性があれば身につきます。命をかけてもそれをものにするというなら、そのことを本人がわかってないことが多いのです。必要というのが本当にあれば必ず身につきます。 

 

次に大切なことは、そこで学んだ人がどう伸びたかということです。有名な音楽プロデューサーが教えているとか、有名な歌い手がやっているとかいうところもあります。その人は、できているからよいのです。しかし、あなたがそうなるとは限らないのです。

 

 

 私がいなくても、きちんとここがもっていなくてはいけないと思ってきました。

私がセットしたあとは、ここで誰がどう伸びたかということがすべてです。 

ですからここには、人がいるということに意味がある。

それは私がいるということではなく、ここでそういうことができてきた人が、どこよりもいる。

そういう実績の上に成り立っているのです。

 

 有名な人を抱えているというところはたくさんあります。でもその方が簡単なことです。

有名なプロダクションと専属契約をすればよいだけでしょう。

どんなに力のない人もトレーニングで力がつくから、ここのトレーニングの意味があるのです☆。

 

 大切なことは、入っていないものは出てこないということです。どんなに必要性があっても入っていないことは出てきません。しかし、その前の段階では、入っているものを出し切るということです。

自分ではもっと歌えるのにとか、こうやればできるのにと思っている人ほどやってないのです。

本当でいうと100%出し切って、それで全然足らないから勉強するものがわかってくるのです。 

 

 

多くの人は、こういう世界に憧れて入ります。

動機はなんでもよいのです。

ただ、そういうものをみて、そうなりたいと思ったときに、よく考えることです。

特に日本の場合、プロというのが何のプロで成り立っているのかということをみることです。

 

 プロというのは、いろんな力があります。

たとえば、作詞作曲の力があるとか、ビジュアル系のバンドであるとか、あるいは音楽プロデューサーの力がプロだということもあります。

その全部をひっくるめてヴォーカルというものがあります。 

 

ここで大事なのは、どういう要素をもとに、あなた方がやっていきたいのかがはっきりしていないと、トレーニングが成り立たないということです。

 

 

 どういうトレーニングをすればよいのかわからないという人は、まず、自分がどこに立っているのかがわかっていないからです。自分はどれくらい歌えるのか、自分の声はよいのか悪いのか、そういうことがわかっている人というのは、ほとんどいません。 

 

レーニングが正しいかどうかということがよくいわれますが、トレーニングというのはある目的に対して、その目的をとげるためにあるのです。その目的がとげられなかったら、トレーニングではないのです。 

 

ただ、ヴォーカルというのはいろんな要素があって、目的と基準が、とてもみえにくいのです。

 たとえば、ピアノだと、右手は弾けるとか、楽譜は読めるとか、バイエルは弾けるとかで上達の程度がわかります。

ヴォーカルの場合は、誰でも歌を歌ってきています。

最初から声が出る人、うまく歌える人には、そこまでのものが多目に入っています。

そのプロセスを自覚してきていないから、自分の力がどれくらいあるのかがわからないのです。不足しているものもわからないのです。

 

 

そこで多くの人が間違ってしまうのです。

プロになりたいと思うのはよいのですが、プロの歌をまねていくこと、そういうふうに歌えることが上達だと思ってしまうのは、間違いです。

 

 この分野に関しては、オリジナルのヴォーカリストが一人いれば、二番目はいらないのです。

一人くらい、まねから本人よりもうまい人が出てきてもよいと思うのですが、まねであれば必要とされません。10、20年もそのことが好きでやっていても、その人を越せないのです。できるだけまねることをうまいと思って勉強しているからです。

 

そのまねかた、まねてよいところが違うのです。表面をまねてはだめなのです。表面的な加工が格好よいと思うので、それをまねていくのです。その人の動きや、マイクの持ち方などは、勉強にはなりますが、その人の武器にはなりません。

 

 

 私は、それをキャンパスヴォーカルといっています。キャンパスで認められるようなわかりやすい人ほど、ものにならないのです。わかりやすいというのは、今まで同じようにやった人がいるからわかりやすいだけです。 

 

誰かと誰かとを混ぜているというわかりやすいものは、まわりに受けます。

でもやっていることは、まねてはいけません。

 

他人の雰囲気、他人の個性、他人の芸風をとっているだけでは、オリジナルにならないのです。あなた自身のもち味から離れてしまうのです。

 

 

 楽器の世界では、一流の人と同じことができたら、一流とまではいかなくても1.5流くらいはいく。そのレベルでファンもでき、活動もできるかもしれません。

それは、楽器が同じという限定された土俵での勝負だからです。全て音の世界での勝負だからです。その人のルックスとか格好がどうであろうが、飛んでくる音がよければ認められます。 

 

ところがヴォーカルというのは違います。たとえば、バンドが受けるということは、その人のキャラクター、パーソナリティー、芸風、こういったものが全部含まれて魅力となっているのです。

実際にプロになる、ならないというのは、歌がうまい下手だということではなく、人前に出られるということ、その上で歌なり、声なり、音声の世界を扱っているということです。

 

 人前に出れる才能というのは、タレントの才能やアイドルの才能とも共通します。要は人前に出て何かをする力です。その力が、歌とか、声とか、あるいは音楽であるということです。地方などにも歌がうまい人もたくさんいます。でも出れないのは、本当に勝負しているのは歌のうまさではなくて、ステージだからです☆。しかし、これを混同してしまうからトレーニングというのがわかりにくくなるのです。 

 

 

タレントさんというのは、本番に強いです。本番に強くて、つぶしがきく、はったれるから生き残っていけるのです。

紅白などでそういうタレントさんが、歌い手さんと一緒に出ても、そんなに見劣りしません。それで、もってしまうというくらい歌い手のレベルが低いともいえます。まあ、お祭りですからよいのですが。

 

自分が学んだり、トレーニングをして伸びていくというのはどういうことでしょう。

力があっても、一所懸命やっていても、世の中でやれていない大半の人の場合というのは分けて考えていかなくてはいけません。

やれなかった人というのは、学んで、トレーニングで力をつけ、やれる力を得ていくしかありません。そのやり方は別だということです。タレントと一緒に考えていたら、トレーニング自体が成り立たないからです。

 

 10代でやれている人を、20、30代で追いかけてみても無理です。尾崎豊みたいになりたいと20歳過ぎていくらいっても、16才くらいであのくらい格好よくて、あのくらい歌える人で、歌い手になりたいと思っている人はたくさんいるのです。そんな人をライバルにしても無理なのです。 

 

 

そのときにできなかったことは捨てていかなくてはいけないこともあります。ただ、それが歌い手にとしての唯一の道かというと、今の業界の方が特異なのです。その辺が勘違いされているので、こういうことを説明しないといけないくらい、ヴォーカルというものは複雑なところにおかれています。

 

 勉強しなければいけないことは、基準をもつことです。基準がなければ、自分がどれくらい歌えているのか、どれくらい下手なのかがわかりません。それがわかってギャップを埋めるためにレッスンがあるのです。 

そういう意味でいうと、クラシックは、わかりやすいものです。第一人者に近づけていけば、誰も下手になったという人はいません。なので、声楽から入るのは、一つの定石でした。

 

ポップスの世界の場合、メニューの作り方次第で大きく成果が変わってきます。誰にでも共通するメニューはないということです☆。レッスンを全部自分で消化して自分で考えなくてはいけないのです。そこからがスタートです。 

 

 

自分で手間をかけるのを惜しんではいけません。ここではメニューは自分でつくるようにいっています。ここにあるものは全て材料だといっています。本も私も、ここのトレーナーも、ここにいる人たちも全て材料にすぎないのです☆。

 

ここに何年もいる人がいるのは、それだけ基準と材料がはっきりしているからです。基準というのはやれていくほど、厳しくなっていくものです☆。

学べるというのは、常に自分をみること、もう一つ高い位置にいくということ、これが条件です。その人がどこまでうまくなりたいかという必要性に対してしか、伸びていかないからです。 

 

つまり、本人が自分でうまくなりたいと思ったところまでうまくなればよいのです。この基準の取り方とそのための材料というのが難しいのです。もし、勉強してうまくなりたいとか、伸びたいと思うだけでなく、その分野でやっていきたいのならば、世の中どの分野であれ、考え方を知ることです。

特にこういう芸術の分野では、好き嫌いはあっても、すぐれているものとすぐれていないものがあるということは認めなければいけないのです。そうでなかったら好きに歌っていればよい。

 

 

 どんなものに対しても、すぐれているものがあるということで、それを目指してみんな勉強する。誰かを目指すわけではないのです☆。

 ですから、こういうヴォーカルが好きだといってやるのはよいのですが、その人になろうとすることは何の意味もないのです。なれないし、なってもしかたがないのです。そこを分けないとよくありません。

 

 たとえばプロのヴォーカルがここにきたら、どうでしょう。歌ってもらわなくても、ただきて話すだけで、その人の表情と話し方をみるだけで、たぶんこの人はプロだなとわかるはずです。まして、出した声一つを聞いてみたら、明らかにこの人はプロだというのがわかるでしょう。そこには明らかに基準があるのです。 

それはバンドの演奏、アレンジ、音響というのではなく、アカベラで聞いてもわかる。そこに確かな基準があるのです。その力をつけることです。 

 

それが成り立たなければ、ヴォイストレーニングも、ヴォーカルの練習も成り立たないのです。自分勝手にやっていればよい。自分が学ぶ、伸びていくということを考えたら、その方が自然にできるし、楽だということです。

向こうのヴォーカルをまねして、それと同じになろうとしている人も、同じ間違いをしているのです。みんな自分の足元をみていないのです。

 

 

 人間は楽器と違って、声帯、肉、骨、体、その人の気性・性格、訴えたいこと、伝えたいこと全て違います。ヴォーカルは全てそれが自由になります。自由になるということは自分のものを知っていないとだめだということです。 

もし自分の体を楽器として使っていくのであれば、その楽器のことについてきちんと知らなくてはよくありません。頭で知るのではなく、自分の声はどうなっているのか、自分の感情はどうなっているのか、それをどう使ったときに相手によく伝わるのかということをよく知っておくことです。 

 

ここのヴォイストレーニングでは、主に楽器づくり、それで声をコントロールすること、そして演奏することをやっています。ヴォーカルの場合はわかりにくいのは、何を武器に勝負していくかでまったく違うからです。

 ここのトレーニングに関しては、それを区別するためにも、ここでできることを限定しています。ここでの価値、つまり評価は、音声で表現する舞台のための基本でみるということです。音声で表現するということを、舞台でやっていくということに対して、効果をあげていくために絞っています。 

 

ステージというのはビジュアル的なものですから、映像で華やかにするのが一番です。業界からずれているというよりも、業界向きの人はそれでやれても、そうでない人はやれない。トレーニングも全部はやれないということです。踊って派手なステージを想定しているなら、そういう教室に行ったほうがよい。でも、そういうことで勝負しても歌のうまいタレントさんにさえ勝てないのです。

 

 

 今の日本の音楽は、ずっと欧米の音楽の影響を受けています。本当は日本人だからその足元を勉強していけばよいのです。しかし、業界も、聞く人も向こうの影響を受けているのです。それなら向こうの感覚で入った方が早いということです。 

 

しかし、向こうの人たちは、きちんと音声で表現する舞台でステージを作っているということです。たかだかアイドルであっても、タレント出身のヴォーカルであっても、知名度とか、ビジュアル面で勝負しているのではない、音楽のクリエイティビティで勝負しています。 

 

ヴォーカリストもミュージシャンである限り、ピアニストやギターリストと同じように、専門家として音声表現のなかで勝負しているのです。

日本では、「よくそれだけ声にこだわりますね」といわれることもあります。そこにこだわっていないヴォーカルがいるのは日本くらいではないでしょうか。

 

 

 トレーニングというのは伸びるところをやらなくてはいけません。いくらビジュアル面をがんばっても声が伸びるわけではないのです。作詞や作曲も一から教えてもらってどこまでのことができるでしょうか。教室で教えてもらっても、そこから世の中に出て行けるということはないでしょう。 

 

ところが本当にヴォイストレーニングができていくと、体が変わります☆。そこが一番違います。体は相乗効果なので毎日やると変わっていきます。才能とか素質でなく、人間の体をもとにして、どんな人でもトレーニングで伸びる方向づけにします。ただ、それを妨げる唯一の条件があるとすれば、本人が充分にトレーニングしないということです。

 

 はっきりいって20代でヴォーカルを始めるというのは遅いです。でも、ヴォーカルの場合はその人全部の勝負です。キャラクター、パーソナリティー、メッセージも含めて全てです。歌だけうまくてもやっていけません。それとともに、声という楽器は20歳過ぎなければできないのです。

 

 

 そういうことからいうと、歌い手としてきちんと残れるには、生涯通用するようなものを作っていかなければいけません。 

歌い手というのは成長していくものです。他のものと違って、ある意味でいうと、技術に関しては長く続けるだけ有利になります。 

 

表現というのは、特に日本の場合、成り立たないのですが、何かことを起こすのですから、これは普通ではない。何かことを起こしたら、誰かは感動するかもしれませんが、誰かは嫌に思うかもしれないのです。それがあたりまえなのです。ところが日本のヴォーカルというのは、最初から多くの人に受けたいという、優等生が多いのです。 

 

表現というのは自分をも超えて正しいことを恐れずにやるということです。100人のうち、99人から嫌われても、たった一人の理解者、共鳴者のためにやるのです。それがあなたの本当の歌です。

 

 

 

 

【④レッスン】

 

 4年前のオリジナルのフレーズをやろうかと思います。

Q版を20曲くらい使ってやりました。会報には起こしてあると思うのですが、また同じようにやろうと思っています。

 

 皆さんは23日のライブに備えてがんばってください。 

今回は、トレーナーに任せ、見てみようと思います。

 

 

最近は、ライフスペースとか、ここは宗教ではないですが、そういう近いようなものがごちゃごちゃ出てきて、私も発言も気をつけないといけません。

何かいうと注意されたからといって自殺したり、その辺を歩いていたら、歌がうまくならないといって刺されたりしかねません。しかし、レッスンでは、これまで通り、鍛えていこうと思います。

 

しかし、まあそういう宗教とかと同じで、いったんそうやって入りこまないと感覚とかは変わっていきません。うまくは行かないのです。

ただ、閉鎖的にしたり、外の情報を入れたらいけないなどと、そういうことをやってしまうから、人がおかしくなっていくのです。

 

 発言というのは、いろんな面でとられてしまいますから、気をつけないといけません。あの宗教も以前からみんな危ないといっていたのです。

でもやっていることは同じでしょう。

 

 

「最高ですか」といって、「最高です」といって盛り上げるのは、アーティストがやる舞台そのままです。

 ここでは「最高です」とは、いえません。そうなったら、ここはめでたく解散でしょう。目的達成です。

 

正直に「最低ですか」「最低です」というのでは、みんな心が傷ついてしまいます。

 皆さんのほうで盛り上げて、動かない客をちょっとでも動かしてみてください。

 

 感覚というものは、常に新しいものに接しながら鍛えることでしょう。

別に流行を追わなくてもよいのですが、最高のレベルのものに接していないと、去年までは確かだったものも、すぐに甘くなってしまうのです。 

 

 

最近も、◯◯をみて感じたことからして、感覚が少しおかしくなってきているのかもしれません。彼の歌い方も変わってきました。ずいぶん柔らかくするところは柔らかくなってきています。 

今日は、予備練習をします。自分なりにこういうふうに聞こえるということを考えてみてください。全てがうまく聞こえるようだったら、気をつけないとよくないのです☆。

 

このなかのよいものは勉強し、このなかの悪いものは変えて出すというふうに、自分のものに全て置き換えていく。いろいろな面で刺激を受けて、感覚を読みこみながら、お互いの感覚をみてみるというような、オリジナルのフレーズのレッスンにしましょう。歌詞を変えたり、メロディを変えてもらうのはよいのですが、表現をしてください。

 

 

 

「恋は」に対して、「私の恋は」と、言葉からいうと「恋は」が二つ重なるのですから、何か違うだろうということです。「恋は、わたしの、恋は」なのか、「恋は、わたしの恋は」なのか、言葉だけでも違ってきます。 

 

期待したいことというのは、歌とか、声とかではなく、ここの部分の感覚を鋭くすることです。ここのものはきちんと握っておいて、あとは2m、マイクから先のことに神経を使って欲しいということです。

こちらにどう聞こえるかということで価値が決まるのです。だから、声とか歌ということではなくて、それを媒体にしておいて、そこから何が伝わるかというのを最初に考えなければいけません。

 

もう1つは、それをつかんだところからの展開です。今の配分でも、きちんと考えた人はたぶん2、3人しかいません。あとはまだ出たとこ勝負です。そこでつなごうという歌い方です。

 少なくとも、こういうフレーズのなかに、どこがピークなのか、そのピークにどうもっていって、どう落とすのか、そういう方向性をもつことです。他の人のもよく参考にしてください。

 

 

「夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから」  

リズムを変えてもよいでしょう。自分の呼吸でやってください。結果としてシンプルにやった方がよいのですが、試みですから、いろいろなことをやるのもよいと思います。

 

 ここで注意していることは、「夜が明けたら」といって、1、2、3、4と数えて「一番早い」と入るのではなくて、「夜が明けたら」といったそのリバウンドで「一番早い」になるか、「一番早い」がいいたくていっているのか、少なくともつかんで出す。

ということは、そこでつかんでいたら、放り出したくなるのです。

そういう動きにうまく合わせるのです。

 

 それを全部掛け合いのなかでやっていくことです。2行をいうのであれば、その関係を考えなくてはいけません。必ず強弱をつけるということではありませんが、1フレーズのなかでも、そこのピークをもっておかなければいけません。そこからはねかえってきたものにのればよいのです。それが声量とか、声の響きが邪魔してしまう場合があるのです。その動きの方が大切です。

 

 

「あの夏の光と影は どこへ行ってしまったの」

 これも同じです。歌の疑問提示があって、答えを聞いて、次にいくというような感覚です。

「夏」「光」「影」がその人にとって、どういう感覚なのかというのが、音に出てこなければいけないのです。それを狙えということではないのですが、ただいっているだけではないのです。

それから、ピークをつくりたいです。声のピークというよりは、気持ちのピークをこのなかでどう配分するかというようなことです。

 

 

「8時ちょうどのあずさ2号で 私は 私はあなたから」

 構造的には入りやすい歌です。声も出やすいし、切りこみやすいです。外国語的な発音でとるのもよいでしょう。日本語的にすれば、出にくくはなりますが、情感をとっていくべきともいえます。

これは、思ったよりもうまくいっていました。狩人さんと同じテンションが欲しいと思います。切りこみやすいはずですから、もう少し思いっきり入ってください。

 

 

「ヒーロー ヒーローになるとき それは今 ヒーロー 引き裂かれた夜に お前を離しはしない」

 

「Woo 翼の折れたエンジェル あいつも 翼の折れたエンジェル みんな飛べないエンジェル」

 

サビのフレーズは大きいですから、目一杯歌おうとすると一杯一杯になるので、2つ考えなくてはいけません。どこかに1点だけ集中して、あとはなるだけ柔軟にしてやることです。それから1点に集中したところが硬くなると、そこで崩れてしまいます。戻せればよいのですが、そのピークのポイントをきちんと定めてやることです。 

 

それ以外は、できるだけ声の柔軟性というのか、実際、マイクで聞こえてくるところに、焦点を当ててみればよいでしょう。自分の出した力が8割、7割、あるいは限界でみられてしまうと、それで突っ張った形でみえます。

メリハリをつけられない人は、直線的には捉えないほうがよい。線に動きをどうつくるかということです。

 

 声を出したり、体を使うがために、リズムとか音の感覚とか声の柔軟性が失われるというのは、オリジナルフレーズの勉強においては、本意ではありません。

ヴォイストレーニングでも、固めない方がよいです。

必要悪で若干、力でもっていくのを認めているところは、あくまで何かのための目的があってのことです。あとから力が抜けるためにするわけで、より力を入れたら出せるようにするためではないのです。

 

 

「Want you 俺の肩を 抱きしめてくれ」 

こういうのも5、6回繰り返して回していると、寸法があってくるのでしょうそういうものを1回であわせるための感覚を、日頃から勉強しなければいけません。

この辺はうまく入れるかと思いましたが、今日のなかで比較的よかったのは、少し演歌がかっているものの方です。それ以上の大きなフレーズになってしまうと、まだ配分が厳しいようです。

 

「Hold me tight 大阪ベイブルース 俺のこと好きか あんた聞くけど」

 ここでもっていることというのは、外に出てきませんから、感じることでしょう。それはイマジネーションとかいろんなアイデアです。

たぶん歌というのはどんなに大きな声を出していても関係ない。この円が大きいか小さいかということです☆。大きければ伝わるかということでもなくて、その円がみられてしまったら、もう聞き手の方はこの円だということで見切りをつけてしまうから、どんなに大きく出しても小さく出しても、たぶん同じだということです。 

 

そうしたら、ここからでてくるところの呼吸に、外れないできちんと乗っているところにつけていくことです。普通はここでいくのに、あるいはここで終わるのに、ここまでしっかりと出してくれたというところは、こっちに残ります。 

それから何かで思いっきりはねたときに、そのリバウンドからくるところ、それをシャウトというのかどうかわかりませんが、そういうところをつかむのです。

 

 口先だけで歌っているのは、内に入っているだけですから、こっちには働きかけてきません。それを意識的につけると、いわゆる演歌とか、こういう人の形、こうもっていったら何かうまく聞こえるように見えるということになります。それは体がついていたり、テンションが高くないと、自然にでてきません。不自然なものはつけない方がよいのです。 

 

 

勉強だと思って、やってきたところは、演歌でもよくなくなってきていると思います。

だから、こういう教え方はできないのです。 

それが声として響かなくても、半分くらいかすれていたりしても、芯で声を動かしているとそれは届くし、不自然なことではないのです。

 

 歌でも演奏でもどこかでズレを作らなければいけません。声のなかでもそういう柔軟なところが出てくるでしょうから、そういう部分を少し気をつけてください。

 

 気をつけすぎるといやらしくなりますが、自分のなかで起きたところで、上に出たとか、響いたとか、まだ伸びているとか、そういうところを大切にしないと、こっちはまだ聞きたいと思っているのに、すぐに入ってしまうとか、パッと出てしまうとなると、だめだと思います。

 

 

 最後の曲をやって終わりましょう。歌唱力があるかどうかはわかりませんが、とりあえず、声の原理とか、音でもっているのではなくて、心でそこの部分はもっていましょう。

普通はそこでふっと離すところをずっともちつづけているのです。どこかでそれをふっと離す、その微妙なところをプロの人というのは、感覚として、もっています。 

 

あなた方が今もっている声を、もっと使い方をかえたり、もっとピークをずらしてみたり、展開をこういう感覚でやってみたりすると、かなり大きく歌がみえたり、もっと半分の力で歌を2、3倍にするということができるでしょう。

 

声も身につけなければいけませんが、むしろ使い方が大切です。今あるもので、どこまでできるかということに、課題があると思います。

 

「暮らしていこう 遠くで汽笛を聞きながら 何もよいことがなかったこの街で」

 

 

ーー

 

【②③クラス】

 

 昨日のライブは、私はS部と2部は見なかったので、映像で見ますが、トレーナーの3人が見ていてくれました。その評が出てから考えます。

3部と4部の差というのは大きい。4部は、かなり失敗していましたが、もってしまうということです。

B1のメンバーは、3、4曲もったのではないかと思います。3部というのは、よし悪しが大きくあります。 

関西のメンバーは、3部と4部に出て、彼らは3部の方がなぜかよかったのですが、選曲のせいに思います。オーディションのときよりも悪くなったのですが、それでも3部に関してはそれなりに力を出したのではないかと思います。音楽性とか、バックグラウンドがしっかりしていました。

 その反面、スタンダードに戻すということが、そういう勉強方法を向こうでは、なかなか時間が取れませんので、弱い。東京のメンバーに比べたら、聞いている曲にスタンダードが少ないということがあります。関西では、聞き込みが足らないのでしょう。そういうレッスンというのがありません。

 

 日本では、優勝したり、新人賞を取ってしまうのは、②くらいのレベルなのです。ですから、外に出て、ここでやっていたことが身を結んだ人には、ちょっと根性が入っていると、賞をあげてしまうのだろうということです。

 私が信頼できる人は、大したことがないのに、あんなので優勝できてしまったといっていました。

なかには、ここではまったく認められないから、ここの基準は違うというふうに思ってしまうので、困ったことです。そういうヴォーカルでは、3部くらいまで、4部は、任せられません。

 

 

 結局、実力など1曲、1コーラスでわかってしまうのです。この程度の力なんだということがわかるのです。そのなかで、20、30ヶ所直したいところがあって、それは好みとか、こうした方がよいということではない。

音楽的なこととか、歌からいうと過ちなのです。誰が見ても足らないというところなのです。しかし、教えている人とかプロデューサーとか、そういうふうに歌を評価した人がそう認知してきたのだろうということです。トータルの演出を踏まえてのことですから、そこがこういうところで示すのは、難しいのです。 

 

歌を聞いていて一人30ヶ所くらい直したいところはあります。そうやって直したら通用するのは、プロデューサーとしては、有能な人が選んだ歌い手です。

そういう人達が犯す過ちを、そうではない自分がやってしまっていいのかということになります。

 彼らと違って、私は年間3000曲くらいをいつも判断しながら、長期にやってきました。

なかなか普通の人にはできません。しかも外国のレベルの音楽に接しての基準でみてきたのです。

 

 

育ってきた人をみても、そんなに細かいことはいっていないのです。でも、そこの差というのは、大きいと思います。ここでは遊びではやっていないし、引き締めてやっています。

それでも声の力なり、音楽の力なり、歌の力で持たせてしまうところを伝えていく。それが、②③のレッスンの一番の課題だと思います。

 根本的なことは、まず入っている量が違うということと、一つひとつの練習の観点の違いです。そこの訂正の仕方です。MC1つでもまったく違います。 

 

今、4部に出ている人というのは、平均して4年を越しています。それは年月の4年ではなくて、最初の2年は、皆さん以上にレッスンにきていた。ほとんど4年、そういうペースできて確実に習得をしてきたのです。

普通、決められた期間を過ぎるとあまり来なくなってしまうのです。それが、ここの2年制ということでやっていることの限界という気がします。もともと2年であげていこうと考えていたのですが。それは、モチベーションのピークでの作品が出るのが、一年半くらいが多かったからです。

 

 皆さんにとって、一通り踏まえておく勉強というのは、今の歌い手に対する評価です。うまいし、声もあるし、よいところを知りましょう。

でも音楽としてどうしてそんなにぶつぎれになってしまったり、フレーズとしてのつながりがなくなってしまうのかといったら、その人の感覚がそうあって、自分勝手にそういうふうに決めてやっているからです。だからその人のなかでは完結しているのです。

 

 

 日本のプロの名の通っている歌い手でもそういう人は多いのです。それで通じてしまうほど、ある意味では、日本のお客さんはそれ以上のことは要求はしていないのです。よりハイレベルの作品と比べなくては、気づかないということです。

 

 「愛の讃歌」を歌う人は、ピアフを聞いているし、ピアフにはなれないし、ピアフのように歌ってもしかたがないことを知っているでしょう。

いろいろな日本の歌い手も、皆さんよりはたくさんの材料をもっています。日本にいるシャンソン歌手で、「愛の讃歌」を歌ったことがない歌い手なんていません。たくさんのサンプルが集められます。

 

自分のレパートリーにするならば、そのくらいはすべて集めることです。それで自分の歌を聞いたときに、客観的な耳がないのか、よくないのは誰かがそう教えてしまうというところのミスです。

それを正していかなくてはいけないというのが、一番の課題でないかと思います。

 

 

 確かに声の力の差というのもあるのでしょうが、声の力というのは、その先で鋭い感覚がなければ、声だけが聞こえてくるようになります。逆にそれが使いこなせなければ、それが致命傷になります。それは、②とか③ではみています。 

あとは、その時期その時期というのがありますから、ここでいっていることは、10年で気づくことがあるのであれば、できれば2、3年でそれを気づいていけたらよいということです。

 

 たとえば10年かけて何ヶ所を回っている人もいるのですが、それでいかにその名前が、そのまわりの人とか、お客さんに残っていったかというと、ほとんど忘れ去られるだけでしょう。

なかなかひとつのところに何年もいれないのです。

 現在、そういう場がなくなってきているというのが芸事には厳しいことと思います。私が10年以上関わっている場というのは、5つくらいです。

 

 私も一匹狼で好き勝手にやってきましたが、決めたら、どう思っても2年は続けます。3年たってしか、本当のことはわからないからです☆。

 うらやましいのは、剣道や柔道の世界です。2年やったからどうだといっても、対して何にもならない。健康のためによかったとか、体が動かせてよかったというくらいで、実際の試合にはならないのです。 

そんなことを考えてみると、歌でも2年でできるということは、ものすごい思いあがりでしょう。ただ、それを諌める方法がないのです。自分でステージをやって、そこで懲りなければいけないのですが、そういう場はない。ここでも懲りないで卒業したら、外にいってよくなくなってしまいます。 

 

 

研究所が守られているわけではないのですが、少なくとも、ここには私レベルに判断できる人が10人くらいいます。本来だとどこでもそうでなければいけないと思います。

昔の情報だけではいけませんから、最近はライブなど見に行っていますが、よい方向にはいっていないのが現状です。

 

逆にいうと、普通の人より、声があったり、歌えたりしても、それで活動ができるかとなったときに、どうなんだということです。表現できているとは、活動できていることです。

 

そういうことでいうと、そういう力が何もないのに、やれている人の方が立派です。

アイドルとか、タレントのように、その場の使い捨ての勝負みたいな中でも何とか生き残っていることで活動というのです。1万人いて1人くらいでしょうが、その1人は立派だと思います。

武器があったり、才能があっても、それを使わない人、使えない人の方が問題があると思います。

 

 

 「愛の讃歌」は、人によっては接点がつきにくいでしょう。これで30ヶ所直すところを自分でどう受け止めるかということです。曲がわからなければいけない、それは曲を楽譜としてわからなければいけないということではなくて、その歌についてわからなくてはいけないということです。

 

 それから、歌詞というよりイメージが湧かなければいけません。自分の呼吸と歌の呼吸の間合いがわからないといけません。そういう意味で「愛の讃歌」は難しい歌です。

だからこそ簡単な歌よりも、そのギャップがわかりやすいということもあります。

 

 手本にとれないほどズレています。音は合っているし、表現する感覚はきっともっているのでしょう。いろんいろな意味で、乗っていけないようなものに関しては、反面教師にしていけばいい。

ピアニストもひどいし、それ以上にその音を入れていないから、ピアニストも動かしようがないというのもあるのでしょう。だから、その線を読み取ることです。

 

 

 皆さんはすぐれた人を聞いていると思いますから、このなかでどのくらいわかるか疑問はありますが、そこから自分がこれ以下のことしかやっていないことを知ることです。自分のを聞いて正せなければ、こういうものを聞いてください。 

 

何が違うのかというと、音響でうまく線が結びつけるように音楽の加工を入れていないということです。基本的に今、歌っている人たちはもっとひどくても、もちます。

 たまたま悪かったというのではなく、その前に音楽として成り立っていない、歌として成り立っていない、ことばとして成り立っていないというところをきちんとみていかないといけません。それは厳しい基準を要求しているのではなくて、歌である以上はあたりまえのことです。 

 

歌えばいいということではないし、ピアノを弾けば音楽が聞こえてくるわけではないのです。そこのレベルの判断をしていかなければいけないと思います。それを自分に適応するのが難しい。これをみておかしいなと思ったり、何でこうするんだろうということを、私はあなた方に対して同じ基準以下のところでみているのです。

 

 

あなた方がこれに対して疑問をもてるのであれば、もっと自分の表現に対して疑問をもてるはずです。自分を知らなければいけないとともに、たかだか1フレーズ、2フレーズでも、そこに音楽を出したり、歌を歌ったり、いつもそのことを問うていくことです。そうでないものは人は聞きません。

 

 3部と4部の違いというのは、何でしょう。3部のステージでもいいステージがありましたし、何人かは息を吹き返したりしていましたが、舞台としてもつというのと、表現としてもつというのと、音楽としてもつというのは違います。観客とすれば、とにかくどれでももってくれたらよい。次に見たいと思うだけのことをしてくれたらよいのです☆。 

 

口先で歌っていたり、他人のものとして歌っているものは、惹きつけません。4部では、その中心にその人がいるから、そこで歌の歌詞や、ギターを間違えたり、間にブレイクが入ったりしても、そのことでも揺るがないのです。トップの人にはそういう責任があります。

そのミスが3人くらい続いてしまうと、何だということになるかもしれませんが、1人ずつが若干のミスを出したところで揺るぐものではない。ということは、もうその前に成り立っているからです。

 

 

 成り立っているところに、プラスを全部オンしていくのです。すると、間違ったところでゼロになるから、マイナスにはならないわけです。もっとうまい人だったらそれもお愛想になってしまいます。だから、そういう勝負をしてください。 

 

ピッチャーでもこの人は強いと思う人なら、打たれるのも楽しみです。でも下手な人が打たれていたら、おもしろくも何ともないのです。またそれをどう収めるのかというのも一つの芸になってくるのです。

 そのことをきちんと収められるという安心感のもてる人というのは、なかなかいません。ステージの上で、それをもっているのです。

 

 歌だけを引っさげてみて、その歌だけ聞かせているという人は、選曲によってもずいぶんできが違ってくるし、歌もみえません。フレーズのなかから、人間性とか、音楽が自分の中心になっているという影の部分が働いてはきます。

 

 

 今年1年見ていても、いろいろなトレーナーとつまらないところで問題を起こしている人は、歌えません。反省しましょう。 

結局、歌は人に伝えるものでしょう。ということは、人の心がわからなければいけないとまではいいませんが、何事にも通じるものです。

 

その瞬間のところで、私たちの場合は、目で見て判断しないで、耳で聞いて判断しています。目ではなく、音の世界で聞いていかなくてはいけないと思っています。そういう部分が、昔はまた同じことをやっているのかと、誰かに怒られて正されたでしょう。しかし、怒って正すものではないですから、それを自分で気づいていかなくては本当に同じことを起こしてしまいます。

 

 いろいろな問題が私のところにあがってきます。皆さんからトレーナーに対してのいろんな考え、批判もきます。逆にトレーナーたちからもスタッフからもきます。

この程度の考え方、見方しかできないから、またこんな問題を起こしているとか、同じ注意を受けているとか、私はおよそ知っています。

 

 

 よい歌を聞かせてくれたらよいと思っているのです。でも、そういう基本ができない人はよくないのだと思います。

 結局、才能があったり、ちょっとステージができても、通じないから、ここに磨きにきたのでしょう。外に行ったら全然守られないし、ここよりも、他のところでは、もっといわれません。いわないままさようならという世界です。 

 

それでやっていけるかどうかということは、集団のなかに投げ入れられるとわかります。そうでないとわかりにくいものです。

その人が自分の人生を決めるのですから、どうでもよいのですが、人に対して何かを出していく世界でやっていくということであれば、その辺にもっと敏感にならないとよくないのだと思います。 

 

それはあなた方だけではなくて、かなり上のメンバーにもたえずいっていることです。トレーナーにも、スタッフにもいっています。

いって直ることと直らないことがあります。年齢ということでもないのでしょうが、自分の考えというものができてしまう、それを絶えず、こわして勉強していく人でなければ、固まってしまうのです。

 

 

 自由になる世界で、自由にやるべきものなのです。なのに、自分で制限して、自分で思い込んで、結局、自分で損をしていると思います。歌の世界でも起こっています。 

すごく才能もあるし、声もあるし、音程とかリズムもしっかりはしているのに、でも、使えていないということは、結局、使うということが、どういうことかがわかっていないのです。

 

これで拍手をもらえたら、まずは、それでいいのです。そういうことでいうと、皆さんの場合はより身近なところに基準というのがあると思います。このなかでは、楽しくおもしろいステージをしなさいとはいいません。

ただ、自分を楽しまなければいけない。創造というおもしろいことをやっていればよい。

 

 私たちは、それが基本の上に成り立っていることかをみているのです。

応用していったら、それは作品に近づけていくこと、完成品にしていくことです。それはお客さんに問えばいいのです。そこの部分はとやかくいいません。 

 

 

十代で、格好がよくて、ここにきたら歌えなくても、その辺ではみんなにキャーキャーといわれているのであれば、それはそれで立派なのものです。 

しかし、それは客との関係です。

ここでやっていることは基本のことです。基本ということはどういうことかというと、客がどうであれ、成り立っているというものを出せばよい。

 

 本当のことでいうと、成り立つことがどういうことかということになってしまいます。 

今は幸い4部のところでギリギリ成り立つ最低ラインを示してもらっています。3部、2部、1部、それからS部、ステージ実習でも、そろそろ気づいていかなくてはいけません。

 

そのことを今のような1フレーズのなかでわかっていかなければ、1曲のなかではもっと難しいということです。1フレーズのなかできちんと完成はさせながら、きちんと前後につないでいくことです。そういう聞き方というのをいろんな例で伝えているのですが、自分で気づいていくしかありません。

 

 

 音の場合だと、そこで引かなければいけないところで出してみたり、そこで何フレーズか前の音楽の構造があったら、そのところで押さえなければいけないところではみだしてみたり、そういうことがトータルとして演奏をめちゃめちゃにしてしまうのです。

 

 演奏という感覚そのもので聞いていないし、歌っていないのですから、その基準を他の人がいくらいってみても、それは当人にはわからないのです。えらい人とかがいったことを聞いて、そうかなというくらいでは、またそこから離れて一人よがりの世界になってしまうのです。歌は、1人で歌うものではありませんから、その辺をきちんと知ることです。 

 

よいフレーズを聞いて、よいフレーズの感覚のところで回して、体に入れていくのが、ここのレッスンの一番よいところです。それで気づけなければ、反面教師的に違うものを聞いてみるとよい。自分のは、なぜ成り立っていないのかというのをきちんとみていくことです。

 

 

 歌の世界が難しいというのは、ほとんどの歌い手もその世界があるということ自体がわからない、普通の世界であれば、その世界があることは、基準があり、その基準のなかでどうやるかということが最初の問題であり、最後の問題なのです。それをわからせるのに、ここでさえ4年も6年もかかるというような、おかしなことになっているのです。 

 

2年で何ができたということはない。たとえばB1のメンバーも、最初の頃からみて、何かしらわかっている人でも、4年とか6年でできるというのは、早いとも思っています。

 要は、世の中で何か人前でやることが、2年でどこまでのことがみえるのかということです。

 

 歌の場合はみえにくいのですが、歌だけがそんなに早いということはない。他の世界でも、2年くらいで全然わからないし、4年でやった気になっても、やっている人たちのなかでは何もできていなくて、6年経ってみて、少しは格好つけられるというくらいでしょう。

 そういうことからいうと、音とか歌の世界というのはもっと難しい。さらに日本人にはハンディがあるわけで、それにきちんと気づいていってもらえばいいと思います。

 

 

 年を越しても、特別大きく変わることはないと思います。来年はこの体制で、再来年くらいからは大きく変えたいと思います。私には予感があるのです。ほとんどこの形であまり変わらないし、あまり変えてよいことでもないのです。

 

 大きく変革すべきときが近づいています。何かやってほしいとこと、研究所の使い方であれば、こういうこともできるのでは、とか全てが受け入れられるかわかりませんが、皆さんが対価を払って求めるものをとりやすくしていこうと思っています。

 

 

 

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【③クラス】

 

 明日出場する人もいるし、ステージを見る人もいると思います。

なので、今からどうやってみせたらよいかということは話しません。

 

レッスンも、きちんと聞き取ることと、それを自分のところできちんと出すということです。自分がどうもっていきたいかということに対して、基本をやるということです。それをできるだけ応用していく、そのためにどのような体制で受け止めていくかということです。

 

ここでやっているレッスンに関しては、正解というのはありません。かなり違った方向とか、ゆがんでいても、容認しています。ただ、そういうふうに起きてしまう感覚というのは一体何なのかとみることです。

 

 その感覚を誰も否定できるわけではありません。ただ共通の感覚からゆがんでそれているものをみて、人は鈍いというわけです。人はおかしいと思い、オンチとかリズムが取れていないと思う。それがどのレベルでできているかということです。

 

 

 それから、表現とか歌として、ステージで実際にお客さんに働きかけるものに対し、トレーニングは、デッサンや習作ということで若干違います。そこで出たまずい線はお客さんに見せなくてもよいし、冒険したところはステージでやらなくてもよい。

 お客さんには、お客さんに伝わるものをきちんと整理して出してあげるべきです☆。

だから、違うのです。だからこそ今あなた方が意図して出している先に、何があるかということを見ておかなければいけません。

 

 たとえば、楽譜も、こういう歌詞も、そこで自分が、どこが強い、どこが弱いということを読みこんでいかないといけません。そのヒントとしてすぐれた歌い手を聞いているのです。日本語か、外国語かではなく、歌になったときに、メリハリがしっかりつかなければ、ぎこちなく、歌えても不快に聞えてしまうということです。 

 

強く出して、その次により強く出すのか、より弱く出すのかというのは、次の音にどうもっていきたいのかということで、出てくるのです。それを頭のなかで計算してもしかたがありません。頭で考えるよりも、体でわかって、それを呼吸でコントロールしなさいということです。

 

 

 ポジションがとれないときに、どんなにイメージでは置いていても、それがうまくいかないのはわかります。ただ、それは声とか、声域とか、声量の問題ではありません。

 自分が勝負できるところに早くパッとセットできるということを試みることです。そこのなかで早く声を動かせるように、その動かし方を、それを練っていったら作品になるという、きっかけのところまで出すことを優先すべきです。 

 

逆にそれだけパターンが入っていて、イマジネーションが豊かな人というのは、そんなに聞かなくても、ほとんどできてしまうのです。合宿などに一緒に行くとわかると思います。

 

 つまり、頭が邪魔するのです。歌というのは自分で気持ちよいようにイメージして出します。そうやって出しているときは、それが正解だと思ってしまうのです。でも、なんでまわりに認められないのか、いつも個人評で同じことをいわれるのかを、みなくてはいけません。 

そこで何が学べていないのか、何が落ちていないのかは、録音でかけて聞かなくても、皆さんのなかでも本当によく聞けばわかってくるはずです。 

 

 

皆さんは他の人のなかで何が起きているかは、かなり読みこめるようになっていると思います。アテンダンスをみていても、そんな大きな勘違いはしていないと思います。それなのに、なぜ、自分に対して大きな勘違いをするのかということです。

 

 その先には何もないところに線を引いていてもよくないのです。たとえば、歌に対しては、スピードがいるとか、テンションを高くしなければいけないとか、声をダラダラ出してはいけないとか、同じことを何回もいっています。それは頭ではわかっていて、ライブごとに反省はしていても、体でわかっていなければ、同じことが起きてしまいます。

 

 問題なのは、そこのいい加減なところを自分で容認してしまっているところです。それはよいものを聞きなさいとしかいえないのです。そのよいものが自らを正していってくれるプロセスを待ちなさいということです。ただ、それを頭が邪魔しているのです。

 

 

 これだけ技量があって、声も出て、表現もあるし、舞台で生きるという人が、どうしてもっと歌を寄せきれないのでしょう。するとその人にとっては歌というものが、1つおいたところのものであって、そこまではまり込んでないし、だから突き放せないのだろうという部分となるのです。

 

 それが、結局、それを越えていった人たちの生き方、精神とはいいたくはないのですが、そこで何を読みこんだのかというところの、読みの深さが微妙に出てきます☆。

 本当はそこで強く出してはいけないのに、無作法に強く出してしまったり、さらに、その強さがよいと伴奏の人にいわれて、それで成り立ってきたから、こんなにおかしな歌になったのでしょう。 

 

日本では力のある人がいかにおかしく歌ってきたかというのを、皆さんはずいぶん聞いていると思うのです。ある曲に関してはすごく才能を発揮できる人が、なぜ他の曲でそんな歌い方を自分に許してしまうのかということです。

 皆さんに必要なのは、そうやってよいものだけを歌えばよいということより、よいものをつくることです☆

それが1曲でもあれば、それに対して、どうこうといえます。 

 

 

たぶん歌い手だけでやってきた人は、ここのようにはわからないと思います。というのは、才能でやって、それで評価されてきているからです。仮に他の人に対して自分の感想はいえても、自分に対してはいえないし、他人も客観視できないのです。 

 

プロなら自分に対して、もっと違う意味では、ここのような勉強の仕方は取っていなくとも、自分のなかでは正しているのです。そのときにいろいろと起きてくる中で、正しいものを認める力をもっています。自分が頭で伸ばそうと思っているところも、切っている。

 

 合宿でも、こうやろうといって試します。半分の人はそうやってもよくないのじゃないかと思っていても、でも可能性があったらやってみるでしょう。やってみるのはよいのです。そしてやってみたときにだめだという結論を出す、そこで同じレベルの再考をくり返さないことが大切です。

 

 

ちょっと変えてみたら可能性があるとしたら、そこからやります。その判断の基準をどこでとっているかということです。外から見ていると、よくわかると思います。あなた方のところに立っていないと、あなた方よりもよくわかります。量の問題ではなくて、1つの課題に対してどう取っていくかということです。

 

 それが、全て表現できていないのではありません。このなかで表現できている人もいます。しかし、完全な表現が出てくることは、期待していません。それを突き破ってどう伝わるかというところでの勝負です。そこの土俵に乗っていない人は、早くその土俵に乗らないといけません。きちんとそれを描いたら、現実を正さなくてはいけません☆。それがマンネリ化してきたら、どうしようもないのです。 

 

それで本人がよいというなら、もったいないけどそれでよいということになってしまいます。歌い手は歌いたいように歌っていくしかない。そのうちその人に当てはまるような曲がでてくるかもしれません。

 ここで問いたいことは、皆さんのなかで何が起きているのかをきちんと捉えていくことです。相当、自分勝手に作っている人もいます。よい意味で作っている人もいます。つくりすぎて、自分の能力を制限している人もいます。そこをきちんとみていけば、こういうものはよい課題になるはずです。 

 

 

そう捉えたらそうしか出ません。そうではないはずです。ここに音楽的な動きが入っているわけです。それに対して自分の声を動かそうとしたときに、声の芯が取れていないとか、つかめたけれども、その結果力が入ってしまって、自由に開放して動かせなかったとなる。そういう勝負をレッスンではしていってほしいのです。

 

 楽に声が出せてきれいに歌えたらよいとか、音程が取れたらよいとか、そういうことで評価をしていないのは、そのやり方から、あとで崩すというのは大変なことがわかるからです。 

声楽科を出なくても、ポップスの歌い手にはなれる。なれる人はなれる要素をもっているのです。その要素というのを、ない人は学んでいかないといけません。 

 

本当に1フレーズ目、そこで何か起こすだろうと思わせるフレーズなのか、「また退屈なフレーズを出しやがって」となるかはそろそろ敏感にわかってください。それをフィードバックして正していかないと一生変わっていきません。

 

 

 何か聞えてくる人というのは、必ずしも声がよいのでも、うまくきれいに出ているのでもない。そこには、その人のそういう思いとか、ここにはこうやりたいというのが出ている。そこで、まだ未熟だなというのがわかる。 

未熟なのはよいのです。歌というのはそれでももってしまうところがある。一見、完璧で何にも出てこないものよりもよほどよい。しかし、自分が何も出せないことをきちんと見なければいけません。 

 

難しい課題は難しいものです。逆に難しい課題をやらないと、簡単な課題のなかで起きていることもなかなかわかりません。声だけではなくて、だいたいが感覚のことです。そういったものというのは、それだけのパターンが入っていたら、自分の動きを自然に制限してくる力があるのです。

 それを何回も、歌っても直らないとか、どうしても自分がいく方向にやってみたら音楽的にならないというのであれば、そこを徹底して見なければいけない。 

 

 声量や声域があるわりに、歌が出ない人もいます。そういうことを感じさせないで出せる人もいます。 声が握れるということは、特に強弱とか、日本人が苦手とする、つかんでみてそれを展開するとか、放してみて受け止めるというようなことの条件になってきます。それはそのイメージがあって、その条件が伴ってくるのを待てるのです。

 

 

 1音、2音のなかでできないことが、半オクターブや1オクターブでできるはずがありません。1、2音のなかでやることがそんなに難しいのかといったら、ことばを大きくしっかりいえること、「ハイ」をきちんといえる人にとってみたら、そういう感覚もない。 

 

ただ、それはこの歌を歌うためにやるのではなくて、この感覚までもっていたら、この半分とか、1/3で使えるくらいの感覚には、もう少し楽に対応できるということです。どんどんと体が強くなってくるということもありませんから、ある時期からは自分の限界というのもみていかなくてはいけません。 

 

それを知って、どういうふうに魅せられるかということです。それを直すのも大切ですが、本当のことでいうと、音楽的な展開のなかで自分の内なる感覚の正しさみたいなところで創造していくのが一番よいレッスンだと思います。

 だから、発声練習をやっても、こういう文章を読んでもわかるし、伝わる。このなかでその人が何を感じ、気づいてやろうとしているのかというのは相当違います。単に量だけの違いではないのです。 

 

 

基本の練習というのはみんな同じです。すぐれた人というのは何回も量を繰り返してやっているのです。そして乱れてくるから、そこで何か気づき始めたり、イマジネーションを働かせたりするのです。そこのところで鈍くならないようにしてください。

 

 この手のフレーズを今の時期はたくさんやってほしいのです。そこでパターンが取れなければ、他の人達はどうやっているのかをみてください。いろいろなパターンを取っているはずです。 

 そのなかで価値がついているもの、きちんと聞こえるもの、単に頭だけで出していてまったく直らないものをみていきます。体で気づくことというのは、頭で思わなくてもできるということです。

 

スポーツの世界でも同じです。それが自然と意識しないで出てくる、でも意識しないで出てきたものに気づかなければ、また見逃して、コントロールできない。待っているということでは、ことばを使ったり頭で考えるというのも必要なことです。

 

 

 そんなことを考えて、皆さんもがんばり、まわりの人のをきちんとみてもらえばよい。自分よりもできていない人とか、あとから始めた人たちをみて、そのプロセスをみて、自分の至らなさを拡大してみて、それが何なのかということを自分で突き詰めていくとわかりやすいと思います。突き詰める練習をメニューとして組まないといけないと思います。 

 

メニューの組み方というのは、いろんなトレーナーがいろんな出し方をしています。それで対応できないところは、総合的にネックになってくるのです。

 自分でちょっとしたミスだと思って、次には感覚だけでできるのではないかということでも、しっかりと次の日までにきちんとつぶしてくるかどうかなのです。復習しかないのです。

 

 Wはやらないとすぐに落ちていってしまいます。だからこそみんながOKといったところからやるしかない。OKがでてから、きちんとそのことを固めるために3年も5年もそのことを続けていくものです。そうしないとすぐになくなってしまうのです。感覚というのは、そこまでいい加減なものです。 

体もずっといつまでもついているのではなく、それをその感覚でキープしていないと、だんだんなくなってきます。そういうことを気をつけてください。