レッスン課題曲 1203
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【「バラはあこがれ」 38】
【「バラはあこがれ」その2 38】
【「COF DEU」3912】
【「想い出の瞳」391221】
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【「バラはあこがれ」】
歌の一番難しいところというのは、最初の出だしに決まってしまうことです。次にまた似たフレーズが来ますが、そこまでつなげるというのは、出だしにきちんと基本の線を引いておかなければいけません。
3分の1の人は「このまち」の「この」のところでよくありません。半分の人は「このまち」のところでよくありません。「このまちからも」では7割がよくありません。次のフレーズには入れるという人は2人くらいです。
要はつなげるというレベルにおいてです。別にこういうところで表現しなくても、すごいことをしなくてもよいのです。雰囲気でもっていくという方法もありますが、こういう歌というのは雰囲気でもっていっても、最後まで同じですから、聞いている方が飽きてくる。
そこでどう音を捉えて、どう線を出しているかということと、その人の寸法なり、体と一致させていかなくてはいけません。
確かに、ぱっと渡してすぐにできるということは難しいのですが、ただ旋律的なこととか、音の流れのことではそんなに難しい課題ではない。基本的な課題になってくると、雑なところ、アラみたいなところがたくさん出てくる。
ここでどうやろうとしているのが見えてしまうのは、この後も全部それが見えていくだけです。あるいは自分で見えなくなってしまったら、コントロールできなくなってしまったということです。どちらももたない。これだけの人がいると、そういう面では勉強になると思います。
きちんと最後までつなぐということでよいのです。でも、そのつなぐというのが、ここでは2つくらいに捉えておかなければいけません。これくらいなら1つに捉えておかないと、つなげないのです。
最初から「こ・の・ま・ち・か・ら・も」と捉えていたら番外です。ここで「このーまーちからもー」と作っていっても、呼吸でなくて頭が先行していたらよくないのです。このくらいの速度になってくると、逆に難しいのです。
「ひとりさびしく 望みのない身で あてもない旅に出かける」
前半の30分、ずっと曲を聞き込んでいました。何が違うかを考えてみればよいのです。違うのはあたりまえなのでよい。言葉は握らなければいけないし、深くいえなければいけない、でもそれで言葉をいってみても役者がヴォーカルになれないのと同じで、そこに音の動きとか、横の動きが出てこないのです。
日本人の歌い手というのはだいたいそこを握らないまま、横の動きだけで流してしまうのですが、それでは、このくらいの曲になってくるともたなくなってくるのです。握って放すということ、あるいは練りこみ、動き、浮き沈み、簡単にいうとメリハリといわれていることが必要です。
そのことには、まず音色、体からの音色が欲しいのです。音色がなくても、リズムがある、音がある、高低がある、強弱がある、言葉がある、これらを使ってどこかのところで握っておいて放すという動きをとれる人もいます。こういうものがセンスやグルーヴ感といわれたりするのでしょう。
それは楽器をやる人だったら、必ずぶつかってくる問題だと思います。ひとつの音を出して、それを次の音にどうつなげていくかということです。ある意味では単にいっていたらよいのではなく、ひとつひとつに練りこんでいかなければいけない。そこで止まったら、次にいけなくなります。
次にいけなくても、そこで止まってもよいが、少なくとも自分の呼吸とか、体とか、意識の上ではきちんとそのフレーズ感を構成していなければいけません。
自分で決めていかなくてはいけないことがたくさんあるのです。これを受け取ったときに、どういうふうにするかということを、それをやりやすいやり方、やりにくいやり方、どちらでもあると思いますが、やってみて他の人を見ながら、何がまずいのかを考えなくてはいけません。
「だけどー」と伸ばしてしまうより、「だけど」とここは切りたい。フランス語では次に「セラ」と入るのですが、日本語の場合は、そこについてないのです。「ラ」のところで「だ」と入るから、ここは3拍目から入る。他のところは全部3拍目から入っています。
どこかでひとつあまる。そこだけで考えていたらわからなくて、全体をみて考えなくてはいけません。それは誰かがこうやりなさいということではなく、歌い手が自分の体とか、感覚を問うて決めなければいけないのです。私がこうやれというのは、ひとつのモデルとしてです。そろそろ自分でわからなければいけません。
これが3回続いて終わるわけですから、普通に歌っていたら、何もなく終わってしまうのです。だからそのまえに跳ねている。ここでは「だいじなのは」と説得するのですから、そんなに跳ねていません。
「だけど 大事なのは バラの花を ゆめみることさ」
大きく3つです。聞いている人はわかると思いますが、3番4番では半音ずつ上がって、さすがに言葉をいろいろと動かし始めています。それがやり方だとは思いますが、こういう歌はベースから外れて、好き勝手に歌っていたら仕様がありません。
1番というのはオーソドックスに歌って、2番でちょっと変化をさせるという形です。4番5番となってくると、単調に言葉で語る歌ですから、そんなに張り上げて歌う歌でもないので、個性が出てきます。
同じポジションで同じ呼吸で歌おうとすると、ぶつかってくる問題がたくさんでてくる。
「きみは」とか「旅に出かける」のところを今はシャウトしていてもよいでしょう。そのうち声が1オクターブ落ち着いてきたら、いろいろと抜いてみたり、吐き出したりしてみても歌になってくるということです。
そうやって歌になるというのは、その前にセンスとか、その動きがきちんとつかまれていることです。そのポイントをはずしてしまうと、タイミングがずれることになります。
なぜこんなに淡々と語っているのに曲になってしまうのかということです。そこの部分こそが、体の違い、呼吸の違いなのです。それからセンスです。
できる人にとってみたら、楽々と歌えている。それが大きな曲になりすぎ、どうしても声量を出さなければ歌えないことに対して戦っている時期もあればよい。そうでないと、楽々とは歌いこなせなくなってきます。
今から楽々と歌えている人の多くは、その土俵に上がれていない。1オクターブの曲ですから、どこのおじさん、おばさんでも歌える。そこをきちんと踏まえて、どの呼吸でとっているのか、ということをやってください。
もう一度やってみましょう。やって欲しいのは、基本で押さえることから、できたらべコーのように4番5番で動かしているところをやっていく、違う動かし方をして、どういうふうに4番5番をつくるかということです。こういうのが一番勉強できると思います。同じ体を持っていない以上は、のど声に引っかかったり、変にそれっぽくなってしまったり、癖がついたりします。
本当は、シャンソン、ジャズ、ロックという順がベースかもしれません。声の出し方、使い方とか、もっていき方というのは、日本人が考えているように張り上げてみたり、響かせたり、長く伸ばしたりというのは珍しいのです。その辺は基本が違います。
伝えるということを考えたときに、声にだけしか出さないというのは、みんなが耳をふさぐということになります。その分を体のなかに入れていかなければいけません。
日本人の歌というのはもっとていねいに、全部出しているようにみえますが、それは全部歌っているだけで何もいっていない。全部の歌に声を使っていますが、大切なことはトータルとしての感覚と表現です。
ひとつひとつの言葉を自分のところで止めて、その止めた中に入れて、そこに動きを作ってというのを感じながら動かしていくのです。
それにはこれくらいのテンポで練習していた方がよい。今の流行りの歌のテンポなどでやっていたら、外国人が聞いても早すぎる。それが体で歌っている人の、あたりまえの感覚だと思います。
あの感覚でついていこうと思ったら、それこそマラソンをしているような感覚でまわり込まなくてはいけません。相当体ができている人でないと難しい。その分、声が浅くなって、他のサウンド面でカバーしているのです。
どちらがよいとか、悪いではなくて、本格的にやりたいのであればやりたいほど、こういうゆっくりした中で、きちんと叩きこんで、あの速さになったときに体がついてくるようにしておかなければいけないのです。16ビートくらいになってくると、頭で考えていても体が動きません。
このくらいであれば、まだ自分で感じながら作っていける。でもそこでゆっくりと感じていると、そこで止まってしまうので難しいところです。次にもう次の動き、次の動きを作っていかなければいけません。そのためには最初の1行のこういう動きから捉えられていなければいけません。
3番まで歌って転調して、半音上がって最後2回繰り返しています。転調した後はリズムをずらしています。より圧縮できるところは圧縮して、より伸ばせるところは伸ばしています。これはより読みこんで、より放すところは放しているのです。体に読みこめば読みこんだ分、遅らせた分をどこかで短くして、とり戻す。要は、この人が歌いたい歌い方を強調している。
歌の場合というのは、勝手に個性的に歌うわけにはいきません。1番と2番があれば、1番はベーシックに歌ってこそ、2番に変化させるということができます。それはどうやればよいというルールが決まっているのではなく、自分のなかでベースをつくり、変じていかなければいけないのです☆。これは1番のなかだけでもいえます。このメロディをどうつくりたいかということです。
これには正解がない。自分の感性と、それに伴ってどうずらしていくかということです。ある程度全体が見えていなければいけませんが、それはこの曲を知っているということではなく、そこに出てくるものが、結局その人のオリジナルのフレーズなのです。同じものが与えられたときに、どう違えていくかということです。
こうやって弾いていくうちに、これは無理だとか、これは乗りやすいとか、いろいろと変わってくる。これが、リズムにもよるし、言葉にもよるし、歌い手のなかで基本的に持っているテンポ感なり、そのパルスのなかで捉えておかなければいけないものです。
でも実際に音がつくと、日本語の場合は、「だけど」と、リズムを打ったところにどうしても当てていきます。本来は当てていくのではなくて、そこに「だけどー」とか、「だーけどー」とか、自分がそれを一番いえるように、どう伝えればよいのかと変えていかなければいけません。そこまでの条件を持たなくてはいけません。
向こうの場合は「ランポンターン」でひとつですから、やりやすい。日本の場合はどうしても「ら・ら・らー」で、バラバラになってしまうのです。「ラララー」と、これがひとつの単語であれば、「ラララーン」か、「ラーララン」か、「ララーラーン」かで、しかもその3つの音節のどこかに強アクセントがついている。それと大体リズムがあっている。
この辺になってくると、相当ずらしています。それをうまく読みこんで、自分のなかでやってください。
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【「バラはあこがれ」2】
たったひとつの言葉や、音声や歌を与えられたときに、それを使って精一杯、クリエイティブに何かを出していくということです。もっと大きく声を出してくださいといわれ、ようやく1時間たって、なんとなくそれらしい表現が出てきているのでは困ります。
それは誰かに頼まれてやっていることではないはずです。長く続けるのはよいことです。そういう中で個性が出てきたり、可能性が出てくる。続けるというのが最大の才能なのです。
前半に曲をかけて遊んでいるわけではありません。常に今までやってきたことというのは、一言与えられてやったときに、入ってきたばかりの人と比べものにならないとまではいいませんが、自分のデッサンをすることです。
入ってきたばかりの人の方が、よほどしっかりとしていますね。今一所懸命やり始めている。きっと歌わせたらみんなの方がうまいでしょうし、それなりに慣れているはずです。
少なくてもステージ実習とか、ライブ実習でここの舞台を踏んでいる。それでこういう課題がきたときに、自分で線を引いて、とりあえず読んでおこうという時間はありません。
お互いに退屈なことをやるのであれば、辞めましょうということです。特にこういうクリエイティブな場においては、やってはいけないことです。
大切なことは、一声出したら、何かが変わらなければいけない。その一声に全部をこめなければいけません。読めることはあたりまえです。最初は、まともに読めさえしない人もいましたし、緊張したり、間違えてしまったりする人もいました。
そんなことは問題ではない。それでも伝えたいという意志があって、今ある限りの思いっきりのことをやろうとしているのかということです。そしたら、それなりに人間のやることは伝わるのです。
歌の技術とか、音程、リズムまでにはまだ入っていない。これは今から入れていくのです。
日本人の場合、歌にしたときにそれが失われていってしまう。グルーヴ感といっても、音程もリズムも気にかけなければいけばできません。
セリフがこのレベルだと、歌に入る前にもう奪われています。
確かに自分の歌いたい課題ではないでしょう。しかし、ここにきているというのは、それを自分のものにして、自分が構成し変えて常に出さなければいけない。ここは学習塾ではないのです。気を抜いていたら先生に注意されてしまったと笑ってすまされることではないのです。
私も今日のレッスンで、そのままいなくなるかもしれません。いつも最後最後といいながら、長くやってきましたが、人に左右される問題ではない。その意志をきちんと持って、それに対して技術をつけていかないと自立できません。
前々から検定のごとにいっていますが、トレーニングのためのトレーニングになってしまいます。こういうレッスンで息を読みこむのも勉強だし、耳を鍛えるのも勉強なのですが、そういう勉強というのは今でなくてもできる。
役者の世界でも、入ったばかりのときにできること、あるいは半年とか1年経ってできることは、常にできなければいけないということです。そこへの冒険心がなくなってしまったり、前に立とうという意欲がなくなってしまうのであれば、ストレス解消とか、皆勤目当てに来るところは別ですが、人前で歌うとか、人前に立つということは諦めた方がよい。
研究所に限らず、劇団でもどこでも同じだと思います。自分たちのなかであるレベルの線を引いてしまって、それでよいと思ってしまったら、そこまでです。今ので満足しているのであれば、なんでここにいるのかということです。そうしたら世の中の人に問うべきでしょう。出口というのはいろいろとある。
本質的なことが極めたくて、その意志があって、まだここにいる必要性が感じられればよいのですが、そうでなければ歌えばよい。本当はプロというのは、人に出さなくても自分でわかっていなければいけない。それが、まだこのレベルで注意されていたら、みんなにすごいことはすぐに期待しませんが、まだ入ってすぐの人に意欲、表現欲として負ける。これではもう卒業です。
言葉で油断した、歌になったらなんとか表現になるといっても、歌になったら完全に壊れます。言葉でいったことさえできなくなるからここにきている。歌のなかでも同じように線が引かれて、同じような慣れがそこに入ってしまうと、作品にはなってきません。ぎりぎりのところで出さないといけないのです。
確かにこういう歌もたくさんやったらよいのです。それでひとつやり、自分が10個、20個気づけるということでなければやらない方がよい。
そのことを目的にしなければ、トレーニングがオンしていかないのです。誰でもリピートはできます。前よりも体は使いやすくなっているでしょう。でも気持ちがなければ体は動かないのです。
いつも音楽をかけているのは、そこに、聞き手ではなく、歌い手として、その場の空気を感じ、テンションを感じ、指先まで敏感になるようにするためです。その状態で言葉を与えられたときに、それがその辺の人と変わらなければ、やはり何も出てこない。
そこに音楽を入れるということは、もっと難しいことなのです。場というのはそういうことです。少なくとも聞いているときは、みんなはもっと聞けているのです。きょろきょろしていたり、わけがわからない人はいません。
表現といっても本当の表現ではなくて、ひとつの脅しでこのくらい出さなければいけないだろうと、大声を出しているだけになっている。本当の意味だとレッスンになっていないのです。
技術が使わなくても、そのキャリアが出てこなければいけません。ここだからこのくらいで済むのであって、オーディションだと黙って帰ってくださいということになります。
強制されたら声は大きく出ます。でもそこにゆとりがないし、その音を感じる心の余裕がないと、どうせ表現にはなりません。ただの大声で終わるのです。
これは本人の啓発を待たなければいけないのですが、③、④になって、啓発も何もあったものではないのです。
要は、ここで順番が回ってきてドキドキしたりしていても失敗をくり返しそういう経験をすれば、そのうち平常心というのが身についてきます。その平常心にいくまでの段階で止まってしまって、日常をそのまま持ちこまれても困ります。このオクターブのものが、つぎに乗っていかなくなります。
ひとつひとつの言葉に対して、リズムに関してもどのくらい正確にとっているかということです。そのことをやろうとしたら、それだけ体とか呼吸とか、全神経が尖っていなければいけません。読ませてみたときにしゃべるように読んでいるだけに聞こえるかもしれませんが、それはきちんと使い分けているのです。
練りこむという努力をしていくことです。「このまち」の「この」のところにどのくらい練りこむかということ、そこの0.0何秒の世界のなかで、ニュアンスが出たり、つまらなくなってしまったりするのです。少なくても1巡するのに貴重な時間をかけているのです。
それに対して読みを確認するということに時間はとりません。始まる前にニュアンスくらいはとっておいて欲しいのです。
少なくとも言葉のなかでクリエイティブに音として出たものを、音がつくと飛んでしまいます。そのうち3割か5割が飛んでも、また新しい音の感覚やリズムの感覚で、より生かせられるようにやっていくのです。
まず、言葉のところで、特にこういう曲に関しては7割は表現を作っておかなければいけません。1、2割が失われても、それは練りこんだり、体の力や音の感覚とか、リズムの感覚とか、あるいは言葉ではそこまでメリハリをつけないという強弱をつけることによって、8割9割にしていかなければいけません。本当はベースの上にそのまま乗ればよいのです。
オンしなくてはいけない。音楽の世界ですから、役者の世界とは違います。音を使うことの感覚を求めます。特に何度か聞いたことがある人ならば、このなかでも言葉のフレーズを使っておくということです。
「このまちからも」の「ま」「も」、「みはなされてきみは」の「な」「き」、「さむい」の「い」、それが全部アクセントになります。ダウンビートとして取るところだから強くやるのでなく、ある意味で開放させなければいけない。最後のところは、フランス語の方が持っていきやすいと思います。
「だけど」も、「だーけどー」「だけーどー」「だけどー」といろんなやり方があると思います。「ラポターン」で、3拍目から入ればよい。「だけど」の「ど」のところにアクセントがくる。アクセントがくるからといって、強く歌うということではなくて、より練りこむということです。これをどういうふうに変えているかということです。
とりあえず3番まであって、半音上がって、最後が繰り返しという構成になっています。4番だけをしっかり聞いてみてください。1番から3番は、1番を練習するのに音程を取ってみます。2番以降は若干変化を入れます。飽きてこないように、動きを入れていくのです。その歌い手のやりたいことというのがそこでわかるようにです。
あまり動かしすぎたら退屈になります。歌のそのもののよさが失われます。オリジナルなフレーズを勉強する分には、そういうふうに自由になっているところを、これだと3番と4番を聞き比べてみるとよいでしょう。
こういうリズムと強弱のなかで、たとえばピアノでどう違うかを聞き比べればよい。
その音を握っている感覚のところと、どこまでで離すかということを鍵盤楽器でありながら、やっている。へたな人は強弱とリズムでしかできません。
これをどう動かしたいかを出していくのが、みんなの課題です。言葉がいえるとか、音程が取れるとかいう問題ではないのです。そのためには、それをどう放して、どう次のところにいくかというようなことです。音のなかでの練りこみ、踏み込み、メリハリ、グルーヴ感は声量がなくてもできます。
浮き沈み、握る放す、ため、間、音のなかに意味をつけていくのです☆。それをなるだけ体の呼吸から離したところに、音を作らないように、声のなかに練りこんでいくのが、今の目的です。
表面上で動かしているところというのは、言葉、音程、リズムです。そのもうひとつ元のところを動かさなければいけないのです。それは体と心の部分です。
だから、読みでもいえていたら言葉は間違っていないのですが、感覚とそこに生きている呼吸がないのです。
呼吸というのは、一定のテンポでありながら、より強調したら、遅れるし、より深く入ると息が薄くなる、そういう音も含めて、不規則なものなのです。
あくまでコンピューターに近づけたような、正確な歌い方をやっていくわけではない。自分の感覚のなかでの呼吸が中心です。
呼吸が小さいとせかせかとしてしまいます。そこは他人が決めるのではなくて、自分と相談して決めていかなければいけないのです。歌うことの創造的なところは呼吸が決めます。ピアニストでも、しっかりと演奏する人というのは、自分の意志を呼吸で入れていきます。それを入れないと始まらないわけです。それはみんなのなかでも行われなければいけないことです。
それが音楽になったときに、その音の感覚、曲調、そこで音色をつくるのです。リズムをつくるののも、動かさなければいけないことは呼吸です。「こ・の・ま・ち・か・ら・も」ではなく、「タラララーラララー」となったときに、「ラ」とやるのか「ラー」とおくのかは呼吸なのです。
どれをやれということではないのです。悪い例をやるときには簡単です。伝える気、その意志を抜けばよい。それでも音はとれるし、リズムは取れるし、言葉も間違えない。しかし、呼吸がやどっていません。
その逆をやればよい。ポップスの場合は、どこまで伸ばさなくてはいけないとか、切ったらだめというのはありません。しかし、そのことの意志を出したときに、その人に一致しなければいけません。まずはそれを出さなければいけないのです。
最初はうまくいかなくてもよい。ただ、それを1~2ヶ所やるうちに気づいていかなくてはいけません。そうして歌を動かしていくことです。動かしたあとに、また戻すのです。そして4番で、本当はこんなに動かすこともできるということをやればよい。それをやりすぎてしまうと、裏目に出てしまいます。一番だめなのはダラダラと伸びてしまうことです。意味もなく伸びてしまうのであれば、切った方がよいのです。
「一人寂しく 望みもない身で あてもない旅に 出かける」
この辺も全体の構成です。この辺になってくると、くせでよくなくなっているのが目立ちます。これは日本人のくせだからしょうがないのかもしれませんが、「ひーとーり」と、そういうところにあんまりもったいつけないことです。「一人寂しく」といいたいのでしょう。
言葉で読んでいたら、絶対に「ひとーり」にはならない。
そういうときは、一番声を出している状態のときを作って、一番自分が出せる状態を作って、そこに落とし込むのです。
出だしは難しいから、さびの終わりから歌って入るというやり方もあります。ここの「ひとり」と「さびしく」のニュアンスが変わらなければおかしいのです。「ひーとーりーさびーしーくー」と、全部同じ音色というのでは、どう考えても何も伝わりません。「ひとり」ということがまず伝わる、「さびしく」で「さびしくー」とやると、センスがないといわれるのです。
ですから、伸ばすというのは気をつけなくてはいけません。それから「望みのないみーで」となったら、「身」という意味が聞いている人にはわかりません。こういうところは、高いところというのはそれだけで強調できるわけです。自分で締めていかなければいけません。
「あてもないた」ここら辺まで膨らせて「びに」で落として、次の「でかける」にもう入らなければいけません。そこが入れないから「でーかーけーるー」となってしまいます。そうしたら次の「だけど」に落ちてこないのです。
そういうふうに方向性とか、構成を自分のなかで組んでいくことです。自分なりにその音をやったときに、どこを取る、どこを取らないと決めましょう。
取らないところに関しては、外国語の特徴で、日本語にあまり、ないところです。日本語で歌うときには「ひとり」ときちんといわないと、何をいっているかわからなくなります。プロになるほどそこを大切にやる。そのために声にならない☆。
それよりももっと流れの方をつかんでほしいのです。構成というのを、自分のなかでどこかで理解して、締めるところは締めなくてはいけません。思いっきりやれるところはどういうところなのか、やり方というのはこの辺までが限度で、ここまではだめだということを、音色で正しく乗せていくということです。
これは長さだけではなくて、メリハリとか、その重さとか、強さとかでも違います。長さだけで聞くのは簡単ですけど、なかなか聞けないものです。長くすればよいということではありません。
長くするということは、重さも入れている。単に長さだけを取っていったら、浅くなって伝わらなくなってしまいます☆。感覚の問題ですが、4倍くらいの深さを感じてやらなければいけないのです。
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【「COF DEU」】
アマリア・ロドリゲスの追悼と思って、ポルトガルに行って集めたものを聞いています。
なかなか時間がかかっています。1周忌までにできそうです。
ロドリゲスのファドの広まるきっかけとなった1952年の「過去を持つ愛情」という映画は、これで世界的にファドが認知されたというだけのもの、機会があったらみておいてください。
ポルトガル語というのは、街で聞いた感じ、本当に歌のようです。ファドの歌のなかに発声に必要なこと、音の感覚的なことも入っているのです。フランスとかスペイン以上に、街での会話が音楽的なのに驚きました。歌っているのか、話しているのか、街で騒いでいるのが歌のような感じです。ポルトガル語のせいなのか、言い方のせいなのかはわかりません。
さて、きちんと神経が働いていません。たとえば、「誰も」というときに、ことばでしっかりいっても、誰かに話しかけても、もう少し繊細にていねいにやりますね。
繊細にていねいにやると、日本人の場合はどうしても引っ込んでしまいます。そこで一所懸命やったり、大きな声を出すことが前に出すことみたいになってしまうのですが、実際は声量や、メリハリだけで伝わるわけではないのです。
ヴォイストレーニングや発声練習で間違えたらいけないのは、声を出すことが練習ではなくて、その感覚をより繊細に、繊細な感覚に体が働くために、声が働くためにやることだということです。
それに無神経になるのであれば、そこの課題というのは使えないし、あるいは使わないほうがよい。でもレッスンというのはそれに気づくためにやっているものです。
いろんなものを扱います。やれなくてもよいからそういうものに接することで、何かしらいろんな歌い手の声の出し方、音の取り方、リズムの取り方を少しずつ体に入れていくことになるのです。
だいたい皆、自分が気にいったものしか入っていかないのですが、無理にでも入れて、もう一度バラバラにして汲みあげていくことをやってください。
「誰も」というところで、きちんと差が出せなくてはいけません。特に音域があるのでもないし、音程が難しいのでもありません。キィの設定が間違ってしまう場合もあります。それもそろそろわかってこなければいけないことです。
それから後半のところの処理の仕方です。今までそういうことに無神経にやっているから声が痛んだり、つっかかってしまったり、のどにきたりする。
それは、最初ならば練習のやり方がわからないということになるのでしょうが、その期間が済んでしまったら、いかに雑に練習をやっているかということの表われになってしまいます☆。そこをきちんと見つめなければいけません。
いつも基本の1フレーズでやっているというのはそういうことです。まず、その1フレーズをきちんと使うためにどうすればよいかを考えない限り、次のフレーズがきてはいけない。最初の「誰も」をやるときに、「だれもー」とのどにひっかかってしまったらどうしようもない。
そのことをここですぐに解決するのは無理ですが、日頃それを解決する方向に練習をやって初めて練習なのです。単に出したとか、数だけやったとか、音を取れたとか、そういうものは練習ではありません。それは何百回もいっています。オーディションでも同じことをいわれていると思います。
自分でもなぜいつも同じことをいわれるのだろうと思うでしょう。同じことがわかっていない、また自分では変えているつもりでも実際出してみると、同じことになっているのです。そこで線を引いていけばよい。
少なくともオーディションの評に3人のトレーナーから同じことを書かれていたら、よほどそのことが目に余っているということです。ある人からは評価を受けて、ある人からは評価を受けないという場合なら、誰かに評価を受けていればよい。
一言出たときにそこで鈍いと思ったら、次のフレーズにはいけません。次のフレーズでみんな失敗したと思うのですが、そうではないのです。頭の出だしのところでの問題です。
この歌だけを聞いてみると、自分の長所と魅せられる部分を最大に拡大して、短所の部分をうまくクリアしています。他の歌を聞いてしまうと、あまり短所も長所もわからない。自分の持ち歌とか、得意な歌になると、感情移入していきますから、そういうものが自然に直っていくのでしょう。
よい歌だけを集めればよいのですが、歌い手というのは好きな歌を入れたいですから、すぐれなくても好きな歌を入れるために、いろいろな粗がみえてしまいます。
他の歌でそんなに力がみえなくても、一つの歌ではそれなりに持ってしまっている部分というのはどういうことなのかということをみていけばよい。その人は自分のみせ方を、あるいはこの歌のことを知っているというふうに捉えればよいと思います。ジャンルは、あまり考えなくてもよいと思います。
「誰も誰も知らない 悲しみと苦しみの中で」
声に関しては、声の一番出やすいところのキィにもってきて、出やすいところの呼吸を使い、出やすい間合いで入って、まずそれをとるということが原則です。それが目的でもよい。
もう1つは、その強さを生かしたまま、あとはどう引くか、フレーズとして収めるかという、構成とか展開の問題です。特にこういう歌のなかでは声の技術で入ってきます。どちらをメインに勉強してもよいのですが、ただ、自分で自分のことをわかっていかなくてはいけません。
ヴォイストレーニングで、プロの感覚とかプロの体をつくるというのは、結局、何であろうが、何かがぽっと放り込まれたときに、それに感覚がついていけるようにすることです☆。それをまねるということではなく、仕上げることです。
そこに音楽となっている理由というのがある。皆さんが聞いてみたら、変な音楽だと思ったりするかもしれませんが、きちんと理があって、その理をきちんと捉えて、そこに入っていって出せるかが、クリエイティビティです。そこで出したら、音が少々狂っていたり、間合いが狂っていても、そんなにおかしくはならない。
いつも難しいのは、そこに入りきること、それからそれを突き放してきちんと出すことです。両方できなければいけない。どうしても入りきれないときが多いのです。
「涙がつたうとき ふるえながら 風になるの 私の声が」
と、こんなにわかりやすいことばはない。この歌詞でわからないところはないと思うのですが、やるとわかっていないのです。わかっていないから歌えないのです。
歌を歌おうとすると、どうしても音程とか、リズムとかが気になってしまいます。そこに入りきったときに、もし音程とかリズムが取れないならば、そこは入っていないから練習するしかないのです。
でも表現は出てくるはずです。音ははずしたけど、表現としてはできてきているということが伝わるはずです。ですから、自分が歌ったものを録音に入れて、それを聞き返してきちんとチェックすることです。自分の感覚と人が聞いている感覚とは違います。
残念なことながら、自分の感覚がとても鋭い人以外は、普通の人が聞いてみておかしいと思うところは、おかしいと認めなければいけない。それをきちんと踏み込んでいかなくてはいけません。
涙がつたわったり、風になるのというところも、表現的な意味でそれを消化しなくてはいけないのです。そのまま涙を流してみたり、なりきってみても、今度は出れなくなってしまいます。その距離の取り方がいつも問題です。外に出すということを踏まえた上で、入っていくことです。
「もしも歌うなら やさしさとサウダーデとたぶん愛」
音のとり方とか、発声からいうと、急に高く上がって高いところで支えなければいけませんから難しいのです。でもポップスの歌い方からやりようはあります。
発声を練習して歌えるかというと、案外と結びついていません☆。
人のを聞いてみたらおかしいとはわかるのですが、それが自分にフィードバックされないといけません。できないところは気持ちで持っていけばよい。
ポップスというのはマイクの使い方でなんとでもなる。大切なことは、自分がそこで何ができるかです。やってみなければわからないということは、やっていない。ここで失敗するのはよいのです。成功の確率が1割か2割かあっての失敗だったらよい。
最初から完全にそのままやったら失敗するという線をどんどん進めていったら、歌として成り立たないし、うまく歌えないということよりも、そういう観点とか、基準がない人と思われてしまいます。
それは、普通のお客さんがみても思うことでしょう。そこは気をつけなければいけません。
音がわからないからできないということにしないことです。また、音域が高いからとか、高い音だからできないということにしないことです。距離がみえていないから、わからないのです。
これだけ短く切っています。問題なのは、そこに音楽が入ってなかったり、自分のことを知らないから、そこに起きたことに瞬間的に対応できないのです。
ヴォイストレーニングというのはそういうことに対応できるようになるためにするのです。そこで何か回避作業を行われなければいけません。それは何よりも次のフレーズを生かすためにです☆。
歌い手でも、うまい人をみていたら、そこでパッと切ったりします。本当は伸ばすところなのに、自分で伸ばせないとわかっているからです。だから、もっと自分のことを知らなくてはいけません。そのためにヴォイストレーニングをやっているのです。かえって、声に負ってしまっているような気がします。
「波に向かって」
たとえば、こういうのが神経が全然ないということです。プロの歌い方がよいとか、悪いとかではない。最終的に「て」のところにもっていくという計算が働いて、そこに息が送り込まれているでしょう。結果がよいとか悪いではなく、そうやって作っていこうとしていないことが問題なのです。
「なみにむかってー」では歌にならない。それでは何十年間やっても歌にならないということです。この歌い方を形から覚えてしなさいということではなく、こういう1つに出した音をきちんと追っていって、どこに到達するのかという神経をもっていない限り、直ってはいかないということです☆。
人が聞いているのは、マイクを通しての、声量ではありません。そのなかで、その人の感覚がどこまでその表現に対してこだわって、アプローチしているかということをみているのです。
「ツバメの悲しみ 失われた友 ああ」
慣れていないということもありますが、難しい歌です。声の使い方も独特で、日本人からいうと、旋律もリズムも慣れていないものです。
簡単に歌えるような歌で練習しては、課題がわかりません。難しいものを使っても、こなせる人はこなせるということを念頭に置いてください。世の中に完全にこなせる人もいれば、もっとおもしろくこなせる人もいます。6割くらいこの1時間のなかでアプローチできる人もいる。
そのなかで自分はどのくらいできているかということから、そういうものに柔軟に感覚が対応できるように、あるいは柔軟に体が対応できるようにしておくことです。
ロックとか、ポピュラーだというだけでもっていけるタイプもいます。みんながみんなこういうことにこだわりながら、きちんとやっていくのが勉強法とは思いませんが、ていねいに繊細にやっていくことは必要です。
もう1つ必要なのはインパクトと、パワーです。それをより出していくために、ていねいさとか、こだわりというのが必要になってきます。いろんなタイプがいてもよいと思います。他のところは全然よくなくても、これをやってみたらできるとか、どこかの1フレーズくらいだと、そこは表現になっているというところがあれば、そこは自信を持って伸ばしていけばよいと思います。
できたらこういうパターンのなかで、全部は表現できなくてもよいから、たった1フレーズでも9割の完成度を目指してほしいということです。これ以外にも難しい音楽というのはたくさんあります。適当に日本語をつけたり、スキャットで歌ってみて、いろいろとくらべてみればおもしろいと思います。
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【「想い出の瞳」】
シャルルアズナブールというフランスのシャンソン歌手、イヴモンタン、ジルベールべコーと並んで有名な人です。アズナブールはピアフと同じで、少しシャンソンのちりめんビブラートっぽいくせがあるので、あまり使いませんでした。
有名な曲が多く、日本人の歌手もたくさん歌っていますので、そういうことで比べてみたりするのにはよいということで、取り上げています。
アズナブールは20代でこれを歌っています。この日本人は40代ですから、ずいぶん遅れています。というのは、どちらが大人でどちらが子供の歌かということです。その辺は私の価値観を押しつけるのではなく、自分で判断をしていってください。
どれだけ力をつけるかは、どれだけ力をつけるやり方を身につけていくかというようなことです。そういうことでいうとヴォイストレーニングがどうこうといのはどうでもよい。体の原理というか、理というのがありまして、それにそって勉強していくことです。その理を自分でどれだけみつけていくかの方法にすぎないと思います☆。
今日は4、5ヵ月目の人が多いようですので、今までいっていることも含め、足らないことを加えます。それから明後日クリスマスライブがあります。皆さんも望めば4部までみられると思います。
ここに入って、2、3ヵ月経つと、レクチャーでいったこともだんだんと薄れてきます。繰り返し会報やレッスンで触れているのは、最低限、薄まらないようにするためです☆。
どちらにしろ、聞いただけでは何の意味もない。いくらうなずいてみても、それは知識でしかすぎません。自分で確かめたわけでもないでしょう。ちょっと知っている私がいて、その分野を全然知らなかったから感心しただけのことです。
特に初心者の場合は、そこに実例がないですから、わかりにくいでしょう。実例があるということはある意味でいうと、反証例もなくてはいけなくて、この場合は当てはまるけれど、この場合は当てはまらないという場合です。
誰もが自分のいいたいことに、都合のよいデータだけを持ってきているわけです。だから、そのことを自ら確かめていくということがこの2年間なのです。その線にそって、こちらはレッスンをある程度組み立てているのです。
即興でやっていても、あまりに課題がバラバラだとわからなくないでしょう。でも、本当のことでいうと、なるべく散らした方が、みんなが力をつけるためにはよいのです。あまり狭いところで、わかりやすくやっていくよりもよいのです。
最初に見てほしいのは、伸びた人、いや入ってくるなり、こいつうまいなと思った人でもよい。いったい、何を持っているかということです。どんなものを聞いてきたかということも含め、そこは一番参考になると思います。
それはプロでも100人に1人、ここでも、2、3年に1人くらいしかそういう人は入ってきません。
さらに入ったときに勝負が決まるのではなくて、伸びたら、そこにあった要素というのは何だろうかということです。最終的にはステージでみんなが見て、判断したらよいのです。
我々がどう認めたか、ということよりも、みんなの目で見てみて、よいか悪いかです。そのことをどの程度、細かくというより、ある程度、理にもってこれるかということが大切です。
そうでないと自分に落ちてこないのです。すごいと思って、なんかできそうな気がしても、きっとそれは自分がそれに近いようなことをとことんやっていて、そこで何か絞り込んだところでの、きちんとしたテーマをみておかなければいけないのです。
一昨日もジャズのプレーヤーの人の話を聞きました。どうしても4拍子がわからないと、日本でも名前が通っている有名なプレーヤーが、まだ4拍子がわからないといっているのです。こっちはそのことがわからない。私には見えない世界が、彼のなかにはあって、そこで彼は格闘している。その世界がみえなければ、格闘ができないのです。
そういうことが、歌の場合はもっと難しい。よく白人が黒人のビートがみえないといっているようなことに、たとえていました。黒人でも、マイルスデイビスにおいてはみえないというのです。そこでどうするかというと、マイルスデイビスがどうやったかということをやるしかないのです。
彼はいろいろな発言をしている、その記録もあります。それによるとクラシックのことも徹底して勉強している。まわりのジャズのプレーヤーは、なぜそのことをしないのかと、彼は燻しがっている。
彼にとってあたりまえのことが、彼以外、いや彼以下のプレーヤーにはあたりまえになっていない☆。それがトップアーティストとコピーバンドのプレーヤーとの違いです。ということは、そういうことも勉強したらよいです。ジャズだからといって、ジャズだけ、勉強をするのでもない。
どのくらい器が大きくできるかということのために、どのくらい大きなイメージ、大きな考え方ができるかが大切です☆。歌の世界というのは、表現していく世界です。音楽性ということもありますが、基本的には自分のスタンスがわからなければいけません。自分のスタンスがわかるためには、まわりがわからなければわからないのです。
人間なんて大体同じことしか考えていません。だから、同じことしか出てきません。何も勉強しないで詞や曲を書いてみても、もっと他にすぐれていて、練られ、作られたものがあるのです。
そういうものを全て調べてみるということです。それもなるべくトップのものをみるのが、一番の勉強法になります。
作曲とか作詞とかの講座は、外側に組み立てられた世界でしょう。その上辺をいくら写していても、ヴォーカルのなかの感性というか、人間のなかの感性で捉えたところで、どう作品を表現していくのかということが自分でわかっていない以上、それだけをやっていてもしかたがない。しかし、わからなくとも、そういうことをやり続けるのは有益です。
歌い手も同じだと思います。とにかく声を届かせること。このテンポで歌うということが目標にきていると、忙しいだけ、一所懸命歌うだけ、結局、何も伝わらない、何も残らないということになります。結局、あなたが歌のなかで何を読んだのというのがわからないのです。
だから、何回も聞いていると、不快になってきます。音楽になっていないのです。それは、今までそのレベルのことでは体験したことも、聞いたことがない人が多いからです。そこのギャップをきちんと埋めていかなければいけないと思います。
一流のミュージカル、映画、歌い手や役者に接しておいて欲しいのは、自分なりのその基準をもっておくためです。だからといって、評論家みたいにみているだけではしかたありません。
必要最低限のものと、その上に成り立っているものとの違いを知ることです。カラオケのようにストレス発散で歌を使うというのと、それからそれをより大きな興奮とか、衝撃を与えるために使うというのは、目的が違います。
食材でも一流のコックが作って出してそれを味わうというのと、おなかが空いてて何を食べてもおいしいというのと、どちらが価値があるとか、ないとかではない。それは結局その人のスタンスで自分のなかでどう位置づけるかということなのです。そこまでは私も踏み入れません。
ここでいえることは、そこのレベルの差を実感しなければ、きっとそのレベルさえいけないということです。オリンピックをみていたら、日本選手権では優勝できるようになるかもしれませんが、県の大会で優勝しようと思っていたら、日本のなかで勝つどころか、県のなかで優勝することさえも大変なことです。そのくらい人間の感覚とか、意志とか、志というのは、その人の感じ方と、その後の伸び方を左右していきます。
たとえば、日本人の最高レベルの歌い手が歌ってみたときに、外国人の歌い手が歌っているところと、どのくらい差があるのかということです。これは、たとえで極論ですが、日本の音の108しか聞けない耳と、向こうの音2500聞ける耳では、どのくらい普通の状態で違うのかということです。
そこから入ったら、そんなに簡単にうぬぼれたり、自分の課題がなくなったり、自分で歌いきったということは、いえないと思うのです。
喧嘩やスポーツと同じです。より強いものをみて、殴られた経験があると、ちょっとくらい練習しただけで、目標がかすんでしまったり、どれが課題かがわからないとか、これで誰にでも勝てるとは簡単に思わないでしょう。
音の世界というのはなかなかそれが見えないので、そういう意味で、繰り返し、子音と母音のこと、共鳴のことをやっています。
私がいっていることは、会報におよそ書いてあります。なぜレッスンが必要なのかというと、ことばは第三者が感じた、他の人が感じたことの伝達にすぎない。
皆さんがこういう説明を聞くのも、少しで早く音のなかでみつけていったり、感じていったりできるようになるためです。その接点をつけるのがレッスンです。そこで、ことばの時間をとりたくないからです☆。
1つは耳の感覚の接点です。トレーニングには自分をみる基準が必要です。それも感覚です。その感覚に対して、自分という体が伴っていくわけです。
体というのは限界があります。声量でも声域でもあります。あるいは他の人がすぐにできることが、自分にはすぐにはできないこともあります。
それは単に力の差なのか、感覚の差、体の差なのかを知ることです。そういうことを、よりすぐれたものに近づけるのと同様に、人前に出すなら、どこかで限界はみていくことです。
これはできない、これもできない、でもこれは誰よりもできるというようなことを発見するのです。そうやって自分の武器を見つけていかなくてはいけないのです。そういう場というのはなかなかありません。
レッスンでも、あと20回聞かせたらできるから、できるまでやらせろというのは、それはあくまでその曲をレッスンするということなのです。感覚をレッスンするというのは、それでは鈍りかねません。
感覚でこっちが最低限、要望しているある基準がある、それは3回で聞きとらなくてはいけないとしたら、3回でできるところまでで差をみることです。
それでできたかどうかを自分で踏まえてみればよいのです。同じクラスのなかではもってできている人もいるし、全然できない人もいるということをみておけばよいのです。
その基準をあたりまえにしていたら、できていくのはあたりまえです。
たとえば、違うパターンやテンポ、リズムでイタリア語も、フランス語もやって、パッと反応することにも慣れていく。だから感覚をおとしたところで勝負してもしかたない。
要は、最終的には出たもので勝負です。それを出すためにその感覚が必要なのです。歌とか声とかについて、最初はそんなによくならなくてもよいといっているのは、その感覚のところが、普通のところで見えるところのものでしかなければ、声も、それから歌も、それ以上にはいかないからです☆。
体が身につく、あるいは呼吸が身につく、そういったものが身につくことで読みこめて、さらに感覚がアップしていくという相乗効果でレッスンを作っていかなくてはいけないのです。
だから、最低1ヵ月に1回、応用してみて、その応用したところから、自分の足らないことを知っていくということです。レッスンというのは、それを1時間のなかで起こす力をつけるということです。以前より、ずっと足らないのは、聞く力です。
2人の歌い手の違いを挙げなさいといったら、秀れたトレーナーだったら、即座に100項目挙げられると思います☆。
というのは、1秒のなかにどれだけ違うことが起きているのかがわかるからです。自分がもしわからないとか、わかりにくいとかいう場合にも、他の基準をもってこれるからです。これは客観的基準ということです。
すぐれたヴォーカルを、その人の一生のプロセスと作品を徹底して勉強するということも大切なことです。芸事をやっている人は、必ずそれをやっています。外国のヴォーカリストもやっています。
日本のヴォーカリストの場合はなかなかやらないのですが、でもトップクラスの人はやっています。昔は、スタンダードもあり、みんなが歌う曲もありました。そこで何が自分の欠点なのかがわかったのです。
その歌が歌えるとか、歌えないではなく、その歌のどこが自分が歌えているところなのかからスタートです。どこが歌えないところなのかというのを、適応しなくてはいけません。ここのレッスンでは、そういうことをやっているのです。
合宿でも、クリスマスライブでも、それは聞きにいくのではなく、自分の耳ということを確かめにいくのです。中には基準をそらせてしまう先輩もいます。ただ、私は最終的に与えてしまったものから、選ぶのはその人自身だと思っています。世の中でやれることを選ぶのも、自分が好きなようにやるのを選ぶのも、それをどう使うかは自由です☆。
音楽性を高めるために使う人もいれば、そういうものを吹く飛ばすような表現で使う人もいます。それは必ずしも一致することではありません。
いうまでもなく、ポップスの場合は表現の方が大切だと思います。相手がいてポップスだからです。声はツールにすぎません。
プロという場合も、技術があってプロという場合と、人が集まってプロという人と、それからお金をもうけるのがプロと、いろいろな考え方があります。それはその人の定義でよいと思いますが、結果的に何かできないと、それは回っていかないと思います。
それが時代に左右されたり、あるいは時代を利用できたり、その場を利用できたり、あるいは利用できなかったり、それはその人のスタンスで変わっていくものです。しかし、求められたときにできるだけの力はつけておきなさいということです。
それをどう使うかは自分が選べばよい。利用するのであれば、利用すればよいし、利用されるのであれば利用されて、後に自分が利用できるようになればよいのです。
基本的に声をつかんでおくということ、それからどういうふうに展開しているかということ、そして、音楽のなかでどういう展開をしているかということです。
こういうものを聞いて、もし感動しなければ、どうしてこうなってしまうのだろうと考えてみればよいのです。何か嫌だなと思ったら、何が嫌なのか、何かよいなと思ったら、何がよいのかということからです。
頭で考える世界ではありません。本当は感じればよいのですが、それだけでは一人のファンにしかすぎません。自分の体が動くということは、1回脳に入らなければいけないのです。
脳で納得したり、うなずけないと、体というのはそういうふうに動かないのです。どんなにやろうとしても動かないのです。
ですから、1回論理化しなければいけないのです☆。
その理をつくり体に入れなければいけません。いくら私がいっても、みんながすぐにそう動けないのは、そのためです。その人の理ではいけないのです。人間の理です。自分のなかでやらないといけない。そのために聞く時間というのは大切です。
もっと音楽と会話することです。それをみんななりにやっていますが、好きな音楽だけではなく、嫌いな音楽、聞いたことのない音楽からつくる。ここのレッスンのメリット、価値は、そこだと思います。
出版社でCD付テキストが出たから、それで練習するのでレッスンを止めますという人がいたので驚きました。そういうものを使って練習するのはあたりまえの話で、それでは与えられないことがあるからレッスンがある。そういうものでできるのであれば、CDブックだけを作つくっています。
人間のなかで問うていくものですから、人のなかで何ができるか、人のなかで何が聞こえてくるかというのを人とやるのが、一番大切なことです☆。