一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

ステージ実習コメント 31813字 1204

 

ステージ実習コメント

 

【京都ライブ実習】

 

 皆さんが見て思われたとおりの出来不出来です。ライブ実習はステージ実習と違い、ピアニスト、マイクそしてリハが入るので、条件が違って、バンドとの演奏の形態に近くなってきます。今どきアカペラでステージ実習のように歌うということはなくなってきました。ピアノひとつつけるか打ちこみを入れて歌うのが最低限のステージになってきています。  

 

研究所のなかでは、ステージ実習とライブ実習は若干変えて評価しています。ステージ実習の場合は基本的に自分の呼吸のなかで自分の持っている声で、表現の世界を出していく。呼吸にのせて伝えていくということです。

 

 ライブ実習の場合は、少なくともピアノが入り共演していくので、そのなかでのコミュニケーションをどう生かしていくか、音の世界での声をみます。ピアニストを生かすのは難しいことですが、ひとりよがりに決めたまま進んでいっても、聞いている方は両者の奏じているものをひとつの作品として聞きます。  

 

ヴォーカルの作品はヴォーカルだけがではなく、ピアニストやバンド、アレンジャ-、作詞作曲者に至るまで権限を持っています。そういうものが音楽としてのひとつの世界です。そこに敏感になり、使えるところをうまく使っていってほしいというのがライブ実習の目標であります。それからマイクやリハなどで小道具が多くなってきますが、そういうものを振りまわされないでほしいと思います。

 

 今日目立ったのが、マイクの使い方です。他の人や映像を見て直してください。マイクを使わないかたちで離して歌っていた人がいますが、これはどちらでもかまいません。 

マイクとの距離はその人の音楽の世界のなかでのスタンスになります。あまり離れているとかたく聞こえる場合があります。  

 

レッスンで繊細にきれいにていねいに、ということが問われるといいました。最初に問うている条件はある程度メチャクチャであっても爆発していてもよい。それが将来どうなっていくかの方が問題です。こまめにまとめていくようなことをよしとはしていません。何だかわからないようなものを出してもらえばよいと思っています。  

 

 

あまりうまい下手にこだわらなくてもよい。うまくなりたいとか下手では困るというのは、ステージをやっていく人たちの目標であります。その部分に関しては自分で判断をしていってください。月1回の発表の場を持てるのが理想的です。そういう条件に近づけていこうと思っています。

 

 2つ目はことばの問題です。ことばそのもののイメージ、使い方について無配慮であると思います。声優トレーニングの教科書を渡していると思いますが、朗読やMCを含めて、歌い手の場合は歌以外のことでもことばを使うことが多いのです。その辺を徹底してやれば、間や構成や展開がわかります。  

 

たとえ音楽であっても半分以上は朗読、あるいは芝居や映画の台詞と共通する要素が多いのです。ことばのなかで動かすことの方が簡単でしょう。ことばはことばで専門家になれば難しくはなってきますが。

 それから、ピアノを聞いていない。これは初心者にとってはかなり難しいことです。ピアノを聞きながらチェックするようなことをやっていたら、ピアノの音に合わせていくことになり遅れてしまいます。カラオケはそういう形になっていますが、音に合わせると一瞬遅くなる。  

 

 

プロの場合は同時よりも早く出てきます。特にポップスの場合は早めに出ることがなんとなくうまく聞こえるポイントです。正しいかどうかではなく、気持ちの問題です。要は引っ込んでしまうと遅れますし、先に出るとややもするとはずします。どちらで間違えた方がよいかというと、気持ちが前に出ていて間違っている方がまだよいわけです。  

 

自分の映像を伴奏の世界と目をつぶって耳に入れたときに、どうでしょう。自分の声を聞いたときに、ピアノが聞けていない部分がたくさんあります。それは間違いでなくとも聞いていないということがわかります。

 

 特にサビやリズムが刻まれるところでは、ピアノと協調していたら本来はとても楽になるのです。半分くらいはピアニストに責任をあずけてしまってよいのに、苦しくなっている。それはうまく合わせられていない。ピアノに合わせればよいわけではありませんが、ピアノの世界として、ひとつの成り立っている世界を汲んでいった方が楽です。他のことにもっと神経を使えるはずです。少なくともピアニストと争っていくような形になってしまうとよくありません。  

 

 

ステージに立って生真面目にやっている期間は、まわりの音やお客さんの様子を捉えなさいといっても難しいと思います。最初は頭で捉えてもよいので、自分ひとりでやるのではなく、ピアニストは力強い味方で、我々やお客さんも味方と思うことです。自分の心のなかに敵はたくさんいますが、早く音楽との共演の心を持つことです。誰もあなた方が失敗したり下手になることを望んでいません。

 

好感が持てるところは、真摯で一所懸命なところです。これだけではしかたないのですが、この前提が、今の歌の世界では壊れています。そういうことでいうのなら、歌やステージに対してきちんと頭を下げ、自分の立っている場に素直になり謙虚になっていたら、いろいろなものが助けてくれます。それはこのまま持ちつづけてください。  

 

つまらない場だとか人のを聞いていてもおもしろくないと思う人もいるかもしれません。慣れてくると場をおとしめてしまったり、群れてしまって、自分が何をすべきかというよりも他人の話が多くなってきます。その頃からおかしくなっていきます。

 

 

 ここの場合は映像を見たりして、今の状況を突きつけられるので、そう簡単には楽にできるようにならないと思います。  

やっていることは立派だと思いますし説得力がありますが、なにぶん狭い。生真面目すぎて、半分くらいの人はステージに立つときの線が細い。引っ込んでなといわれたらすぐ避けてしまうくらいの細さです。

 

自分のところを死守するような気持ち、これは何かをしろということではなく、日頃の意欲や練習、経験ということから、ひとつの存在感を持っていくしかありません。今日どうこうしろということではありません。

 

 ただイメージで人間は変えられるものですから、大きく捉えてもっと大きく取り出すことをやってください。大雑把になれということではありません。大胆にして細心ということです。難しいことですが、あまり慎重になってしまうと負けてしまいます。  

 

 

結局、乗り越えていない。ほとんどの人がここが勝負の場になっている。ステージ実習はそれでよいと思います、というのは人前でやるのは1回だからです。ただライブ実習はリハもできるしそれまでにも確実にやっておくことはやっておくことで、そういう勝負を終えてから、ここで楽しむくらいの気持ちできてもらうとありがたい。ここで勝負という気持ちになってしまうと、妙な説得力は出ますが、それが作品として成り立っているかというと難しいです。表情や表現に対しての心が硬くなってしまうのです。

 

 歌は自分のイメージが動いていなければいけない。ドラマであることには変わ りはないのです。そこに盛り上がりや華がなければいけません。戦車のようにどとうのようにまっすぐ行って終わってしまったというのでは、単調すぎます。    

 

聞いている方にとってはどこで終わっても同じだと思うようになります。あなた方の1コーラスはどういう意味なのか、それが出ていないのです。話と同じように起承転結がなければいけない。その辺はタレントもすぐれています。話すことも活き活きしています。

 

 

 歌い出すと裏切ってしまう。そうしたら歌わない方がよい。歌は自分を殺すためのものではありません。もちろん、それが手に追えないがためにバタバタになってしまうことがあります。  

1曲の歌はそんなに簡単に歌えるものではない。逆にいうと歌いこなしてしまう、必要はありません。これは外でやってください。ステージ実習やライブ実習は歌いこなせていると思ったら、要注意です。そこに新たな課題を設定してやってもらわないと、こちらにとってもつまらないものになってしまいます。  

自分のなかの気持ち、それが盛り上がらないと伝わらなくなってしまいます。だからうまく歌えた人はいるけれど伝わらなかった。そうしたら歌っていないのと同じか、あるいは下手なのに伝わった人の方がよかったりするのです。難しいことが、こなせるようになってくるとだんだんそちらの方に逃げてしまうのです。  

 

本人があつくなってそのステージの熱をそのときに感じられなければ、客席が熱くなるはずはない。だからやれてしまったけれどむなしいというものになると思います。そういうステージはできる人ほど反省してほしい。

 

 

 ここのなかに立ってみて、寒々とした感じが続く中で熱くなるというのは難しいことだと思います。でも、その人のひとつのスタンスとして、人前に立つときには持っていなければいけないことは、それを自分一人で変えることです。自分のなかで瞬時に気持ちを盛り上げるから、終わり切れるのです。  

 

地の部分や声の部分など必要ですが、最終的にどこかで華が見えて伝えたということで終わってほしい。そのジャンプの部分の踏みこみが甘いのと少しとんだと思ったら終わってしまう。それでは芸にならないです。高い地点に届かせることとそこをキープすることは大変なことです。 

 

技術や声があってもできないし、心が伴わないといけない。だからビギナーラックや素人が歌って伝わるというように、たまたまそういうものが出る瞬間は誰にでもあるのです。

ただ皆さんの場合は意図的にここで起こせるようになってもらわないと困ります。まわりが盛り上がったから私もできたというのではなく、まわりができていないから私が全てやったという力をつけてもらうためにこういうところはあると思います。

 

 

 取り組みとして月に4曲はやっておいてほしい。他の人が自分と違う歌を歌うときに、自分が練習したことがなければ、どこがうまくこなせてどこが失敗したのかなど、わからない。他の課題曲もやることです。プロなら一晩で何曲も覚えなければいけないこともあります。  

 

自由曲もなるほどと思う選曲をしていましたが、それは私たちもそういうイメージで受けるし、当人もそういうものが合っていると思ってやるのでしょうが、必ずしもそうでない場合があります。あまりに曲に合いすぎている人の場合は、違う曲にも冒険してみてほしいと思います。

そうでないと、その人の本当の味が出てこないのと、いつもそういう形にしてしまうと、いつまでもそこから抜け出せなくなってしまう。固定させてしまうからです。  

 

特にここの場合はいろいろな冒険をしてください。選曲が合わなかったとかもっとこうなるはずだったのに、などと後で見る場です。 

 そういうことをきちんとやっていないと、合宿のようなところに行くとてんでバラバラなおかしい選曲をしてしまうのです。  

 

 

ここはその人の声が語り出すまで待っているところです。歌い出すまで待っているところですから、急ぐ必要はありません。ただ、そのドラマは自分で持ってきてください。単にこなしているだけでは何も伝わってこないでしょう。スタンスをきちんと持ってきた上で、スタンスやストーリーの構成などが作品のレベルに近づけばよいと思います。  

 

つまらないものも多いのですが、自分の足元に残しておくものと突出した出来になって、初めてものがいえるのですから、他のステージならこういうことができるとかいう理由をつけずに、まずひとつの作品をここで聞く人にきちんと伝えることをやってください。

 

 最後まで課題をやるレッスンでなく、瞬時にライブハウスに変わるように、客が評価うんぬんではなく、身を乗り出して聞くようにしていきましょう。そういうことは不可能なことではありません。1、2年に何回か私は体験しています。この関西の場でもあったはずです。それが最低ラインです。

 

 

 3、4年いて、初めての人たちより歌えるのは何の力でもありません。これはあたりまえです。それは年の功です。  

皆を見ていて難しいのは、歌よりも人間のところで判断してしまうことです。妙な説得力があるからよいのかなということからやると、わからなくなります。

 

 作品にしてしまうと、嘘を教えてしまうというか、説得力のでないところの形をつくろうとしてしまいます。いろいろな学校をまわって発表会を見ていると、形だけなのです。どうしてそんなふうに間違ってしまうのかというと、うまく歌いたいと思って形をつけたいと思うから、そういう方向にいってしまうのです。  

 

自分をきちんと考えたときに、その自分がよほどいろいろなものが入っていて、いろいろなものを出す努力をしていない以上は下手なものが出てくるのは真実です。

 

 

 私は、あなた方が持っているものは嫌いではありません。売れているタレントよりもおもしろいと思っています。ただあなた方が思っているほど、あなた方のものというのは、よいものであると同時に全然磨かれていないのです。それで2オクターブ1コーラスを動かすことは大変なことですから、実を結ぶのには時間がかかります。これはどこかで知っておいてください。  

 

これでよいと思うときがあっても、続けないことにはどうしようもありません。自分の歌を歌ってほしいというのが、私の最大の願いですが、自分が高まっていなければ音楽も歌も表現も動かないものとなります。それには期間を見ています。がんばってほしいし、続けるしかない。  

他人のものを使って、ここはこうやるべきだというように他人が与えたものは、どこかの時点からは上にはいけない。これは他人のものだから忘れてしまう。

 

 最初は大変でしょうが、たったひとつでもよいから自分で気づくことです。自分で痛みを感じ手当てをして直していくことです。自分でつくっていったらいくらでものびていけます。  

しかし、その手をどこかで緩めてしまうのです。こうすれば勝つんだ、この声を出せばびっくりするんだ、素人はそれで驚きますが、その上のレベルの人はそんなことでは驚きません。

  

 

技術があるがために伸びない。声量や音域があるがために伸びないというような人はたくさん見ています。そういうものがある人はプラスαくらいに考えておいて、心やそれをどういうふうに表現していくのかをひとつの課題、曲が違えば全部違うのです。

 

 イタリア語も声がとりやすいとか音を動かしやすいからやります。日本人にかけている部分、外国語で歌うとメリハリがきくものが日本語で歌った途端難しくなるというのは、彼らが使っても難しいのです。歌のなかで日本語をつけると誰でも難しい。  

 

オペラや声楽家のようにイタリア語などから入りましょう。でたらめでもよいので挑戦して、違う動かし方ができたとか声をキープできたとかを体験していくのです。日本語で1オクターブキープするよりは早くできると思います。だから英語や原語で歌いたい人は、こういう機会に徹底してやったらよいと思います。そして、復習することです。

 

 

今回の課題でイタリア語で歌ったとしても、1年経ったら全部忘れてしまいます。10曲くらいイタリア語で歌ったら、必要な単語は含まれています。その繰り返しです。声を出すときに有利だと思います。 

 

 まだステ―ジングとしての自立ができていないので、そのことを練り上げていき、自信を持ってください。自信がないというのは、いつまでもです。私もこの歳になってもいろいろな人を見ても、まだまだ自信のもてないことは知っています。ある程度は熱でカバーするしかないと考えてください。

  

声での働きかけは、日常のなかでも、日本人にとって不得手なものです。映画のせりふが一番よいと思います。そういうところで声を読みこんだり音色がどう使われているかなどを勉強していると、自分のなかでもいろいろなことがわかってくると思います。

 

 

 声の使い方も声を使うがために平坦になってしまうというのは、今の段階でしかたないのです。気持ちの高まりを取り出さないと、映画やドラマのようなかたちでは、ドラマにはならない。台詞でもドラマにならない。歌の場合、音は声になります。  

 

ピークのところで不自由なのはしかたないと思いますが、サビのところで自由にならなければいけない。その自由を使い切るのが大変です。  

 

自由ということは何でもできる。何でもできるけれど守らなければいけないことはたくさんあります。それをどういうふうに使い切るのかについては、かなり選んで、また捨てていかなければいけない。それで残ったものをきちんとくみ上げることをやってみてください。 

 

 

 人に教えてもらったことは忘れますが、自分で築いたことは決して忘れません。ただし、復習が必要です。  

こういう中でも人の作品からどんどん気づいていけばよいと思います。出し切るだけ出し切って、もっと悔しい思いや痛い思いをしていかないといけません。

いつまでもステージは誰かが与えてくれればそこで成り立っていると思ってしまいますが、何かやらなければ本当は次の出番はこないのです。だからいつも初心で望んでください。  

 

もう少しピアニストやお客さん、そこで祝福されている気持ちでやりましょう。祝福されるにはそれだけのことをやってこないと自分でも恐縮してしまい成り立ちません。感じる分には自由ですから、そういうものを示して得ていくことです。  

 

最初でも、単に決まりきったようにピアニストに礼をして始まるという形式的なことではなくて、「本当によろしくお願いします」という気持ちを、それはいわなくてもいいのですが、きちんと持っていくことです。そういう部分でないとステージは始まらないし、終わった後もすっと終わってしまう。 

 

 

 何かをやったのですからそれだけの結果を客から受けていかないと、無責任な舞台になります。結果は歌った後に出るのですから、そこまで責任を持たないとよくありません。  

 

ですから最後はゆっくりとおじぎをするでもよい。拍手は、たとえ形式的にしかきていないようでもきちんと受け止めてください。それが自然に導かれることを、その前にどう示すかという世界です。歌えればよいとかことばや音を間違えなければよいという世界ではありません。  

 

まだ情けないステージが多いです。顔がない、あるいは体や気持ちが前に出ていないことが多い。これはしかたない部分もあります。私も20歳くらいのころ、何でこんなつまらない顔をしているのかと思いました。歌っていないときも日常の顔を見て何とかならないかと思いました。最初は顔もないのです。  

しかし、なくても堂々とはしなければいけない。だから威厳を持ってやってください。たまに空回りするときもあるのでしょうが、その人が自信を持っているという風格がステージには必要です。それをやっているうちに裏づけが伴ってきます。 

 

 

 その度にあやまる必要はありません。自分がやったことは自分に対して「すみません」なのであって、私は、仕事として、何があろうがその時間はいるのです。私に対して「すみません」はいりません。堂々をそこを使い切ってください。  

その人が前に立っただけで何かが始まるということで始めてもらいたい。うまくいかないのはしかたないし、うまくいかなかったとしても終わったということはきちんと示して舞台を務めていってほしい。

 

 いつもこれが最初で最後です。人前に立つ意識を強く持って、その場を楽しんでください。気持ちとしてはここを離れるのが嫌だというくらいのものを持ってほしいのです。たかだか研究所の舞台ですが、一人で客を2、30人、何度も集めるというのは、大変なことです。それが既にある場だからといって感覚に慣れてしまってはよくありません。  

 

それぞれが歌うために順番を待って集まっているのですが、考えてみればその一瞬は自分のステージで、自分のために他の人が時間を割いてくれているのです。そういうことには敏感になると、いろいろなことが出し惜しみなく与えることができると思います。そこで楽しんでほしい。

 

 

 大きなステージやレコーディング装置があるような場でやることはあるかもしれません。でもそこで最高のものが出るとは限らない。練習やこういう場で最高のものが出る場合もあります。その瞬間を全力尽くすつもりでやってみてください。

 

 どんなにすぐれたアーティストでも同じ人間ですから、その人が欲や向上心を持って楽しんでやってほしい。そういうことで身を立てていきたいとか仕事にしたいのであれば、尚さら、やったことに責任を持たなければいけない。

 

 一度自分に会った人には、必ず何かを与えるまで帰さないくらい、そうでなければお金を持たせてやるくらいの覚悟が必要でしょう。それがもう一段階、才能に恵まれたり天命のような使命感までになってくれば苦労することはない。迷うことがなくなってくるのです。もっと自分が歌っているところ、こういう場で誰かに見てもらう場に対して幸せを感じてもらえると、いろいろなものが示せると思います。

 

 

 私に歌が教えてくれたことはたくさんあります。歌に感謝していますし、歌に返していきたいと思っています。  

映画で観たものと同じ風景があったら、そこに行ったから感動するということはなく、映画で感動したシーンを見て、それで感動する。テレビで横浜を見て、ここがいいなというのがあってから行く。現実の方が遅れてしまっている。現実が、つまらないときもあります。

 

 コーヒーカップひとつにしろ、歌や映画は1シーンで意味のあるものとして伝えてくれます。そうやって人間のイメージはどんどん膨らんでいくのです。  

 

歌で学べない人は、「光の」とか「見つめあう」といってもピンとこない人は、映画や写真集を見て、「光」ってこういうことだとか「見つめあう」ってこういうことだったのかとかを得てください。

 自分の歌詞やメロディにあるものが、映画に使われるとき、とてもよい使われ方をしています。そこで心を読みこむことを豊かにやって、自分が歌うときに持ちこんでいくとよいと思います。  

 

 

若い人はなかなか大変だと思いますが、そういうときはパワーだけで歌えばよいと思います。豊かにしていこうと思うと、今までの自分のなかにあるたくさんのものを舞台にきちんと結びつけなければいけません。  

 

早く舞台に立った方から見なければいけない。歌い手であれば歌い手の方から見れるようにならなければいけない。映画であれば監督の方から見て、なぜこう撮ったのかというような観点から見なければいけない。

 映画のなかでは同じ歌のテーマが何回も繰り返されます。歌だけ聞いたら泣けないことも、映画のストーリーがついていたら泣けることはいっぱいあります。それを歌だけのなかでヴォーカルはやっていかなければいけない。  

 

 

できるかどうかはともかく、ここのなかでひとつの曲を受け取ったら、徹底して叩いてほしい。こんな歌だと思わないでそれで一冊の小説を書くくらいに。  

プロの人はそういうことを必ずどこかでやってきています。他の人たちが辿りつけなかったところ、他の人たちが、その手前で辞めてしまうところを、もうひとつふたつ乗り越えてやってきた人がものにしていくことができる。

 

 せっかく合宿などで細かいこと深いことを学んでいながら、課題が与えられたときに人並みの取り組みをしていたら、それ以上の作品は期待できないと思います。間に合わないときはあるもので勝負するしかありませんが、学んでいるときであれば学び方をどんどんとつくっていってください。  

 

ライブ実習はやるだけのことをやってスタンスを持って、きたときに、自分がこの場でどうなるかを楽しみにして来ればよいのです。表現を取り出さなければというような強迫観念で勝負する必要はありません。そうでないと聞き手とも心が通いません。

 

 

 今日のはよしも悪しもありませんが、よくなるには時間のかかるものです。その時間をきちんとかけていってください。いろいろな曲を歌う機会はあるとよいと思いますので、増やしていきたいと思います。 

 

もちろん、たくさんあればよいというわけではありません。ひとつ一つに取り組んで、それなりに上げていかないとよくありません。一つでよいから完全なものができ上がらなければ、大体でき上がらない。そこに課題が残されていくので、それを拾うことです。  

 

映像を渡すのもそういう意味です。記念として渡しているわけではありません。ここにたくさんの課題がつまっていて、これを解決しないと次の課題はよくならないということで渡しています。終わってからが大切です。

 

 

 課題曲が終わったといって2度とその歌を歌わない人が多いのですが、月に1回くらいそのことをやってみて成長させることです。そうしたらそこで得たものが他の曲で使えるようになってきます。  

せっかくの機会なのでマスターした曲を、また来年のこの時期に歌ってみると、有効だと思います。そうでないと、ここを出てからまた元に戻ってしまうことが多いのです。

 

 何事もその人間のテンションや目的意識がなくなってしまったら流されるものです。それが許せないというこだわりの基準をもつことです。仕事と同じで中途半端にやったらつまらない、でも徹底してやってみると大変だけど自分のものが出せておもしろいというのでやるのだと思います。それを歌や表現の世界でもつかんでください。  

 

歌で示せない人はアテンダンスシートでも手紙でも、自分のノートでも人に話すことでもよいと思います。自分のことを語ることを歌や表現を通じてやってみてください。 

 

 

ーー

 

【ライブ実習④】

 

 今日、特別のレッスンを設けたのは、4クラスになったら研究所のことも考えてもらおうと思ってのことでしたが、皆さんのステージを見て少し考えが変わってきました。まず自分のことをしっかりとやってください。それが大前提です。我慢強く自分のものを見ても、他人のものを見て、どこをどうすればよいのかを評してください。

 

 前に相互評価というのをやりました。それから2、3年経っても変わらない。できたできていないは、そのときの体調なり不出来になるからよいのですが、それがわかっていないということになると、今日は見る必要がないというステージになります。 

 

そこを自分で捉え直すことができないと直っていかないということです。どこにどうミスが起きているのか。はっきりいうと方向性が違うのです。ミスであればどこで起きているのかを指定したり、カバーの仕方が自分のなかで直感的に気づくものです。でもそういうものではなさそうです。

 ねらいが出せて、それに対して外れたのであればはっきりしていますから直していけばそれで済みます。他の人のものをきちんと評価してください。

 

 

後の人だけ打ちあわせに残ってください。後の人はきちんと自分のものを見る。はっきりいうと2クラスの方がよほどおもしろい。トレーナーのレッスンにも出てほしいのですが、その段階から違うということです。 

第一段階の競争というのは、うまく歌おうと思って歌ってみたり、その歌手をまねて歌うといったカラオケ的なものです。それはそれでよいのです。それは1年から1年半の時期としておいています。

 

 皆さんはその時期を過ぎているのに、今だに草野球のようなことをやっている。力がないのはよいのですが、それをしないということに対しては不快に感じます。普通のお客さんにとっても手抜きに感じます。キャリアや年齢がいっているのにもかかわらず、それさえしないと感じます。

 

受身の歌い方も、歌や表現ということに対して、現実のなかで行われていることの感覚さえ働いていないのが一番の問題です。

 

 

 さっきまで3人連続して違う業界の人に会っていました。それなりにその世界の人達ですが、彼らの方がおもしろい。ライブより外の世界の方がおもしろい。そうしたらライブの人達は何をやっているのということです。歌でもライブでもエネルギーを与えなければいけない。それを念頭に置きなさいといってもしかたないのですが、そのままでよいのですか。 

 

本当に眠かったです。鬼もいなければ、気迫で迫っている人もいない。今日という、最もその人間がステージに立つための基本のものが欠けているわけです。それは選曲ぐらいのことで左右されてはいけないのです。全てのライブは最終作品です。これも練習とはいえ、一つひとつのプロセスです。どこで映像を撮られても文句をいわれないくらいのものがないといけない。

 

 そういう意味で準備ができていないと、落ちていってしまう。せっかくの才能や素質がありながら、それが頭打ちになっているのはよくないことだと思います。こんな仲間内のライブを見たいがために私はきているわけではないし、こんなことが続くのであればいらないです。これは皆さん自身の才能や素質もつぶしてよくなくなってしまいます。もっとうまいはずなのにやれない、やっていないということはよくありません。 

 

 

2クラスはないものを振り絞っています。この場の緊張感が伝わってくる。だから大した作品でなくても緊張感や気迫でもつ。そうするとあなた方はそれ以上できるはずなのに何をやっているのということです。人がどこで動くかということに何もかかわっていないのです。人前に立つには、もっとお金を払って出なければよくありません。

 

 復古調なライブにならないことです。歳が感じられます。がけっぷちに立っていないところの余裕というのは絶対に伝わりません。その表面を移し変えてもよくありません。そのがけっぷちのイマジネーションのなかの余裕や、過剰に力を入れてはいけないという部分で何かおもしろいことが起きてくれればよいのですが、そういう葛藤がない。 

 

この歌は私が好きな歌ですが、それを台無しにされてしまっている。これは聞きたくない。それはプロがうまくて皆がだめという話ではなくて、普通のアマチュアの人が本当にていねいに心を込めて、内にこもらないで歌ったときにきちんと伝わるものに負けていると思います。

 

 

 うまく歌おうとは思っていないのでしょうが、歌のなかにしかイマジネーションが出ていないのです。そうではない。ここで教えてきたことは、そういうイマジネーションのイメージが声や歌を動かしていく。その実が外に出てくる。その形が単に歌なのだとか音楽なのだとか、誰かが名づけるというだけのことです。曲や歌詞がよいのはわかります。そんなものをなでてもらっても困ります。なでるのが心地よいのかなというところで終わってしまっています。 

 

それはマラソンでいうと、私が走っていたとしたら、ただその横を走っているだけのことです。プロなら余裕があるからくるくると駆回ったり、飛び跳ねてみたり、同じ走るでもこれだけ違うのだというところを見せてくれる。できないのはよい、でもねらってもいなければ、そういうことを楽しんできてもいない。

 

 その感情だけでやっているようなものです。どこもアーティックではない。それを許している今日のステージは、怒りを覚えます。こんなのはどこにも通らない。私は一般のお客さんになるべく出していきたいと思っていますがよくありません。 

 

 

先月はステージ実習が5人で、そういうときはよく準備をしてライブ実習に出てくるか、そうでないかどちらかなのです。練習してきたのならよいのですが、やはりだめだなと思います。場に出ないことがだめなのではなくて、たかだかそういったことを避けて通ってきて、次のことになったら準備できる、そんなことで通じるものではない。それは自分で完全にコントロールできる人は自由だと思うのです。その大きな勘違いがひとりよがりの部分として出てきます。

 

 今日のMCもひどい。お金を払って客を集めていたら、やれるものではない。それを許しているこの場は何なのだということです。さっきまで客としゃべっていましたが、その世界よりも緊迫感がない。だからやらない方がよい。こんなものを繰り返していったら、皆よくなくなります。 

 

研究所は、まだ高校野球でよいのです。一所懸命やってみて可能性を広げていけばよい。草野球よりも高校野球の方がおもしろいでしょう。草野球は一概にはいえませんが、そこにきちんと戻していない。

 高校野球のつまらないことは、指図されながらやっていることですが、それでも全力でやっている。全力でやっているのがあたりまえであって、それで足りないからプロの世界がある。

 

 

 とにかく長くやっているとかたくさん知っているとか、ここに出ているからとか、そういうことは年の功だけの理由にしかなりませんから、マイナスの方が目立ってきます。そんなものが見えてしまうといけないし、だらけてしまいます。 

 

日本のお客さんを相手にしたら、バンドが盛り上げて成功してしまいます。そんなところよりもここは厳しい場として置いているのに、そうでなければ日本の普通の客の前でやる方が、まだお金を払ってくるだけましです。音楽がよくなくなるのも、テレビではただの客の前でやっているからです。金を払い、そこまで足を運んでくるという客の前でなければ問えません。

 

 問題なのは今日のステージを見てリピートがきくかどうかということです。我々のレッスンもそうで、そこで集まらないと思ったら終わってしまいます。リピートが来るのはあたりまえで、そこでゼロです。それがよかった悪かったというのはどうでもよいのです。次に来るということがゼロです。そこからプラスして初めて勝負していける。日本のバンドもセッションといいながら、ピアノやギターに依存しています。そうでないものをここで見せてほしい。

 

 

 一番困るのは、どうしてこんなプレーをするのだろうということです。たとえば、攻めなければいけないときに止まっている、入れたというときに自分の守りに戻っていない。そんなことがなぜ起きてしまうのか。 バスケットは相手に入れさせずに自分が入れるゲームですが、ただボールを奪い合うゲームではありません。基本的にボールの出せる陣地を取り、ボールが出せるためにフェイントをかけて相手をおびき寄せたりしながら空いたところにボールを投げたら、味方がその陣地を取っている。そうやってエリアをとっていくゲームです。歌も同じです。

 

 ところが今日は、まわってきたボールをすぐに離してしまったり、離さずにドリブルだけでどんどん進んでいく。それは単に自爆して相手にボールを取られてしまう。何でそんなことをわざわざ歌を使ってやらなければいけないのか。世界のいろいろな紛争や問題をかかえて歌えとはいいませんが、皆の将来でも今の生活でもいろいろな意味で脅かされている。そういう意味の怒りや悲しみ、笑いのようなものは、どうしたのでしょう。 

 

皆が豊かで満ち溢れた生活をしているとは思えない。だから歌う資格があると思います。そういうところで緊張感のない生活の垂れ流しになってしまうのはよくないことです。宗教団体が歌を使うように、洗脳されて浄化されている、そういうものはリアリティが感じられないと思います。

 

 

 才能や素質がせっかくあっても、それを生かさなければいけない。そういうものがなくても生かしている人がアーティストとして日本をまわっています。その接点をつけなければいけない。現実につけなくてもよいのですが、現実の人間の心にはつけていかなければいけない。

 

 だから古いものをそのまま取り出してもしかたがない。そういうことから見ると、どうしてこんなにリスクを背負わないのか、ここで背負っても殺されることもないでしょう。失敗したからといって次の日から生活が変わるわけでもない。そういう部分を見ていかないと、2年で得た基準や感覚も2年経たないうちに消えてしまいます。 

 

この前台湾で買ってきて宇多田ヒカルさんのカバーをしている歌手のものを聞きましたが、いかに向こうの人たちがうまく歌っているのかがわかります。そういうものの方が若い人にはわかりやすいと、考えています。呼吸を聞くだけでも、明白にわかります。 

 

 

本当はこの曲はピアノとのリズムやハーモニーのところのなかに、構成や展開が見たかった。かなりうまくやれた人達でもそこまでは出なかった。出なかったのはしかたないと思います。ただ心が出なかったのは問題だと思う。その構成や展開が100のうち40とか20とか思うのならしかたない。しかもゼロということを自分でわかっていないで歌っている気がします。

 

 イメージの世界で捉えているところで、できたできていないというのは表現の失敗ですからよいのです。そこまで歌を捉えてきたけれどこの場では出せなかったというのは、まだ未熟だなということでその問題を突きつけられます。そのためにステージ実習やライブ実習があります。 

 

本当のことでいうとライブ実習はピアニストに合わせたところのリズムやハーモニーのところに声を効果的に使ってほしかった。ねらいがないと外すこともないわけで、そうするとそのままいってしまいます。だから直し方もわからないし、どこでミスが起きたのかということさえわからない。その前に、方向が前にいって点数をとらなければいけないのにゴールを守っていたら勝てるようなところでやっている。それは誰も聞きません。

 

 

 正直にその感覚で捉えてもらえばよい。オーラを出すというようなことを声や歌で抑えてしまうのならしかたないと思います。なかなかステップ1から2、3といくのは大変なことです。きちんと歌えていたら問題点はものすごくはっきりしているはずです。

 そのことを歌が何であれ、確かにこの歌はそういうところに入りこんでしまうと、内側にきてしまう歌かもしれませんが、まわりの人たちのものを見ていたら、どこかでおかしいと思わなければいけないし切り換えていかなければいけないでしょう。

 

 マイナスばかりをどんなになくそうとしてもプラスにはなりません。プラスとして出てきたところで、同時にマイナスが出てきてもそれは大目に見ます。ただ目的がゼロであったら困ります。 

 

後半の4人がうまく歌えていたわけではありません。ただどこが問題かがはっきりわかります。それは課題で落ちるからよいのですが、そういう構成展開、心がないところだと、歌い終わっても伸びるきっかけがつかめません。

 

 

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「ステージ実習②」

 

 昨日4クラスのライブ実習があり、同じ曲をやりました。今回の課題曲はピアニストをつけると変わってくるかなという部分があります。ピアノのバックを含めて聞くことができフォローできたと思います。昨日はその後に特別4クラスを置いて、いろいろなことを話そうと思ったのですが、あまりにも作品ができていなくて、4人だけ残して、後は映像を見てお互いの評価をしてくださいといいました。

 

 4月からの一部運営を変えました。今年もそれが必要でした。特に初心者に対していろいろとフォローすることをしなければいけない。うちは2年の研究所として設けていますが、実際には5、6年いる人がいて、そこにきちんとメニューが与えられていないことと、もっと1年目の人を軌道に乗せるためのスケージュールを考えなければいけないようです。

 

 昔は放ったらかしでも、足りないところはついていったのですが、今は与えていかないと自分でやらない。実際のやり方を問うていこうと思っています。それにしてもトレーナーの持ち味や特色をうまくレッスンに反映できていないというのは、ここしばらく考えていました。

 

 

 私自身、与えられるものもいろいろな形を経て鑑賞レッスンのようになっています。時間の制限のなかでどれを優先するかということをステージ実習で見ていたらそうなってしまう。決めつけないのがよいような悪いようなところがあって、まったく違う発想を取り入れて、もっと皆さんが利用していただけるような形にしたい。

 ヴォーカルブームになったり習いたい人が多くなり、一般化されてきています。ここが音声で表現する舞台といっても実感がつかめない。 

 

昨日の4クラスの人達にも、トレーナーのレッスンに出た方がよいのではという話をしました。長くいることとキャリアは随分違います。1年半までにピークを極めた人が、その後のびていきにくい。普通の学校は入ってきたときが最大の力で、何も出ない人は出ないまま終わってしまいます。いろいろなOBがいますが、だいたいの場合はステージの甘さから元に戻っていると思います。 

だからといってここで感心できるようなことが行われているのかというといったら、50歩100歩のところはあります。皆さんの方から主体的に接していただかないと困ります。

 

 プレBVは去年の基準から見て、お客さんを取るといったら、1万円の価値を出さないかぎり、次のお客さんが来ないのです。その価値がない人がやっていたら、次も来ようかなという人は半分もいないでしょう。値段と同じ価値のものを与えられても普通の人は来ません。 

 

 

皆さんもライブ実習から上、プレBVあたりは依頼していくことになると思います。プレBVとライブ実習の一番の違いは、お金を取っているということです。ブレスヴォイス座になってきたら出演者にお出演料払おうと考えています。それだけ責任が伴う。

 そういうことはある意味ではやらせたくなかったのですが、10代のとる人でも金を取って歌っているわけです。お金を取らないことが逃げになってはいけない。価値は価値として認めていこうということです。 

 

本当は松本人志さんのように、そのステージで感じた分だけのお金を客が決めてやればよいのでしょうが、日本の場合は出し渋りますから無理でしょう。まず成り立たない。もらったものに心でお金を出そうという気持ちがないので、だいたいよくなくなってきます。

 

 今、私もレクチャーを無料でやろうとか考えるときはあります。そうすると今の5倍の人は集まるでしょうが、その代わり5時間話を聞いていることでの感想で、長すぎるとか休憩を入れてほしいという類のものが多くなってくるでしょう。これは受け手が何を求めているかというレベルが全然違います。

 

 

 レクチャーでやっていることがそのまま学び方の新刊に入っています。私は同じことは絶対にやりたくない。同じことをやるにしてもまったく違うやり方をとりたいので、言葉でしゃべっていることが本になっているのであれば、その部分は本を渡して違うことをやるべきだと思っています。

 そうでないと本を読んできた人が同じことをいっていると思うだけになってしまう。しかし、同じことを感じさせるようにいうのも芸事のひとつだと思います。ただ、なかなか同じことをやりつづけられない性分できています。

 

 話を戻して課題曲や曲名はいうのはかまいませんが、舞台として考えたときにそこがひとつの逃げになってしまうようにならないことです。これは課題として与えられた曲で、こなさなければいけないからこなしてきたのだというのはよい立場ではない。ライブの感覚でつくらないとやりにくくなっていくと思います。 

 

まわりもレッスンのひとつの発表の場と捉えてしまう。私はレッスンも発表も、自分以外の人間が見ていたらそれはただのトレーニングではない。そこで感覚を働かせてアイデアやイマジネーションを豊かにし、創造していくという同じ次元で捉えています。そのプロセスプロセスの段階できちんとたたかっていってほしい。

 

 

 プレスリーやS&Gなどは使いにくいのは、あまりにもそこの世界のなかでひとつの格好よさがついているからです。その格好よさを外見的にまねてしまう人が多くなる。プレスリーのまねごとをしてしまうと、自分のものがまったく出なくなってしまう。ある種独特の個性です。

 

 彼らは基本をある意味では踏まえているとは思いますが、ある意味ではどう動かしてもプレスリーになってしまうという部分で、ミュージシャンと別の位置づけもあるのです。それほど偉大なるシンガーであるゆえに、普通の人がいきなりそこから学ぶのは、危険であるという意味で本にも何名か挙げました。

 

 それは自分の経験でもあり、他の人を見ていてもそういう部分があります。マイクやアクションを使ってしまうと、どこで何が成り立っているのかがわかりにくくなります。その影響もある気がします。その辺のことは他のクラスを見比べてみないとわかりません。

 

 

 あなた方の自分らしさがあまり表現できなかった。歌らしいところ、音楽らしいところ、それも本当の意味では離れてしまったような気がします。私自身もこの曲は思い入れが強い曲でしたので、それを外してもそこの心底で伝えられたもの、歌詞というよりはメロディだと思いますが、それが再現というよりも皆さんの解釈によって新しくよみがえってきたかというと、よくなくなったという方向です。 

 

それは根本的には枠のなかでやってしまっている。表現というのはそこからはみ出したところしか伝わりません。そのなかでやっているものは、結局小さくまとまっていくだけです。

 

 予想外のところ、あるいはその人の心のなかの衝動なりが、声として出て、それがメロディとして出たときに、こういう素敵なメロディや歌詞だったりすると、より倍増された効果を持つのです。 

常に音楽や歌ということよりも、あなたらしさが根本にあって、そのことがこの曲を使うことによってどのくらい増幅するかという、核の部分が見えなくなってしまうと、単に音楽的な整理になってしまいます。 

 

 

MCや人前で話すときに、あたりまえのことをいくらしゃべっていても、それはしゃべり方が独特であったりすれば芸が宿るかもしれないけれど、普通はそこでは芸になっていかない。変え方や落とし込みというのが必ず必要です。

 そういうふうなことが音声で表現されたか、あたりまえを超えたところが表現だと捉えてみると、とても小さくまとまってしまったという感じがあります。 

 

こういう曲を聞きこんでいくと、そういう世界から出れなくなってしまいますから、とても弱々しくなった。ベースとして必要です。素直に大きいところが消えてしまうと、心はよいものを出していても、音声伝達力としてはとても弱くなります。

 

 書初めみたいなもので、力を入れてしまうと震えた字になってしまう。それはいくら心を込めたといっても、素直に大胆に書いたものに比べたら、それは心とはいえない。危惧したのは格好よく終わってしまうことといいましたが、格好よくもありませんでした。それもあまりよくない。 

 

 

何らかひとつになっていたのかということです。マイクをつければ変わるという逃げはあるかもしれませんが、私はマイクも伴奏も加味して聞いていましたが、そこのなかでつくられたよさというのもないような気がします。逆にいうと心地よさをつくってしまった。

 

 しかし、それはあなた方のものであり、お客さんの心地よさではない。伝わるものはまっすぐなものと、それがどう変化したかということです。地の色が出ていなければいけない。それをトレーナーが歌ったらこうなると、代替できてしまうことをやっていたら、目的や方向としてそれているのではないかと思います。それを正す場としてレッスンやステージ実習を置いています。 

 

色がはっきりしない。白黒をはっきりさせなければいけない。その大きな変化があった上に色とりどりにまぜるのはよいのですが、どの色があなた方の歌や心なのかがわからないままに終わってしまった。だからパワーが不足しているということです。

 

 

 歌はうまくなる、でもそれで人前でやれるわけでも人が聞いてくれるわけでもない。逆に歌のなかに逃げていくことになってしまう。この歌をうまく歌おうなどと考えたら根本からおかしくなる。それを使ってみてどれだけ生きた声や感覚、言葉が出てくるのか。ステ-ジングそのものが活き活きしていなければよくありませんし、新鮮さがなければよくありません。

 

 それを誰が壊しているのかというと、あなた方自身が壊している。それはこの曲を聞いたときの捉え方に問題があったのだと思います。心は捉えたのかもしれない、でもファンクラブで歌っているわけではない。まねをしたわけではないでしょうが、これではある意味ではジュークボックスを置いておけばよいなと思います。あなた方が歌う必要がないのではないかという感じです。こういう曲はそこに陥りやすく、4クラスもとても退屈でした。 

 

今日の場合も客としてどうだったのか。そこを自分のなかで詰めていかなければいけない。こういうものをうまく歌える人はいくらでもいるのです。でも逆にいうと、人に何かを与えるには難しい曲です。

 そこの感覚に対して準備ができていれば、もっとはっきりしたはずです。ステージ実習やライブ実習は本当に高いレベルで、高い意識で望んだら、一回破綻するはずです。そこを次の一ヵ月の課題にしてもらえばよいのです。それがこなされてしまい、気持ちよく歌えたなというのであれば、観客が感動していなければおかしいはずでしょう。

 

 

 本当にすぐれた作品が出るか破綻か、どちらかでよいのです。そのリスクや冒険、勇気を前に出していってほしい。守りに入ってそれっぽく歌ってしまったら、誰でもできます。それはアイドルでも17、8歳の人でもできるのですから、あなた方がやる必要はない。あなた方が何が足りなくて何が問題で、次の一ヵ月の練習をどうすればよいのかがわからなくなってしまいます。

 

 逆にいうとどうして瑞々しく感覚が働かないのか、どうして新鮮でないのかを映像で見てください。素直でない。そのところに預けてしまって、この曲のイメージのところで勝負しようとしていなかったか、そういう部分に使うのも、使われている、歌に飲み込まれているのはよいのですが、それをこなすことに目的がいってしまっている気がします。

 

 矢沢永吉さんがプレスリーのナンバーを歌っていました。それは成り切って歌っていましたが、彼の場合は体の動きはまねごとであっても、ベテランで自分の動きでつくっていますから、歌唱力がどうこうというよりもステージとしてきらめくところがある。ものすごく瑞々しいし新鮮です。 

そういう意味でいうと、プレスリーに成り切るという部分でなく、地の色をどれだけきちんと出せるかということです。確かに表現のところから音楽的な表現に入ってしまうと、表現が出せていることを前提にしてハーモニーやリズム、歌の展開構成が生かしきれていないことです。ただ、そちらの問題は後につけるべきであって、歌になったところから音楽的に入った方がよいと思います。

 

 

 音楽的に入ってしまうともっと小さなスケールになってしまいます。今のJポップスになるとそういう形で、声をどんどん出さないようにして感覚でやって、浅い息でたえだえしくやっている。それはよくない。 

ロックは他の人間が走ったらハアハアいっているものを、1キロ走っても、へこたれず、そこの深さでやるからすごいと思わせるところがある。それを普通の人よりもパワーダウンしていかないことです。そういうステージであってほしい。自分でおもしろかったのかというところで考えてもらえば勉強になると思います。

 

 ステージ実習やライブ実習は、曲をレパートリーにするためにこなしていく場ではありません。何をふられてみても、私の色はこれだというもの、でも音楽もメロディも歌もよいから、そのなかの一番よいものを自分なりに取り出してみたらこうなったというようなものを出す実験の場にしてほしい。そういう試みを見せてもらえばおもしろくなっていくと思います。

 

 退屈さを噛みしめた上で、私の出るときはこうやらなければいけないと考えてください。私らも退屈な場をいつも経験していますが、どうしたらいけないのかがわかってきます。そういう意味でいうと他の人にきちんと基準をつけることを勉強してください。

 そうすると自分の歌もわかってくると思います。自分の歌ほどわからないものはありません。自分の気持ちよいように歌っているのですから。そういうことを客観的に客として聞いていける場です。お疲れさまでした。

 

 

 

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「ステージ実習③」

 

 2クラスにいったのは何も起こしていないでこなしているだけだということです。ひとつの枠があったとしたらそのなかで歌をこなしてみても、身内の世界では成り立つとしても、ステージを考えてみると最初から目的が違うということを述べました。そこからはみ出したところしか人は聞かないのです。

 

 話とも同じでしょう。あたりまえのことをいっていても、どこも表現にならないし何も起こらない。ただそれを本当の芸人がやればおもしろおかしくなるのかもしれませんが、音楽や歌は衝動が声として出てきたものがメロディになったという原点の部分を元にします。 

 

本来であれば、皆さん自身の自分らしさが出ていて、その上に表現が働きかけて、それが音楽的な名曲のなかでどういうふうに展開できているかとかリズムやメロディがその人らしさにどういうふうに表れているのかを問いたかったのです。ほとんど中に入れていない。

 

 

 3クラスに関しては、今回は2クラスよりもひどかったと思います。場は皆さんがやるにしろ、お客さんが満足でいるように、ステージというものを構成することと思います。

 演出の講座にこれから出る人も出た人も、いわれたことをきちんと消化しなければいけない。最初の1年目にいわれたことは、身につくのに時間がかかるので、そういうという段階はよいのですが、それを越えて、3年目、4年目同じことをいわれているとしたら、それは逆に学ぶ能力がないということになってしまいます。

 

 学ぶ能力は全ての才能の基本だと思います。それがなぜないのかというところまで落としてこなければいけない。リズムでも、1年くらい曲を聞いていたら正されて慣れてきます。ただ、どうしてもそのことに対して能力が劣っている人がいる。それは歌い手に向いていないということではなく、音楽の世界からいうとハンディキャップがあるから、それに応じたやり方をしなければいけない。その方法のひとつがWであったり、もっと根本的な感覚矯正でしょう。

 

 ひとつのことをきっちりとやってくると、歌で聞いていたらもたないけれどおもしろいやというようになってくるのです。そこの弱さが今日出た人の問題だと思います。声が身についたからといって今の世の中は出ていけるわけではありません。今や、声や歌だけがよくても、誰かが育ててくれるわけではない。 

 

ここでやっていることは感覚をプロにしていくということです。そのために体が必要です。作詞作曲やスタイルというのは、同時にそのなかに飲み込まれているのです。作曲の講座を受けたからといって作曲ができるわけでも本をたくさん読んでいるからといって作詞ができるわけではないでしょう。

 

 ただ、同じだけの努力をするのであれば、そういうことをした方が勉強の仕方もわかって、より効率的になるかもしれない。その量があろうがなかろうが、舞台というものははったりの場で、はったれたらよいのです。その力がなければ自分の個性なり強みをきちんと捉えてどうPRしていくかということです。

 

ビジネスでも同じです。存在感や印象の強い人が徐々に信用を得て、いろいろな仕事をしていきます。それは実績にもよりますが、その人の何らかの熱意や気持ちが動かしていくのです。そこの総合プロデュース力が自分に対して必要だと思います。 

 

 

舞台をひとりで牛耳ってやっていかなければいけない世界です。その辺の問題をきちんと見ていかないと、歌が最高にうまくなったとしても、やっていけないのではないかと思います。そうしたらそのトレーニング自体が、無意味です。 

 

今の10代の人でも何もわからずに歌っていて、それでもっています。それが産まれつきの素質やルックスかというと、いろいろな人がいるのです。

 ミスコンでいつも賞をもらうような人とタレントとは違う。タレントは必ずしもきれいなわけではない。自分の役どころを知っていたり、違う意味での魅力を知っているのです。それはタレントとしての総合力でよいのですが、それを音の世界や声の世界でできていかないというのは、10代のうちは難しいと思うのですが、それ以降になると却って不自然ではないかと思います。

 

 歌い手の場合は歌がこぼれたときから勝負が始まってよいのですが、見ているとそうではない。出てきたときにこいつは何かやりそうかそうではないかがわかります。外れる場合もありますが、その辺のことをいわれてしまうのはよくないことだと思います。表現力、演出力ということは自分の力がなくてもよいから、それが出たときに最低レベルを満たさなければいけない。

 そういうところに神経がいっているかということを見るわけです。その仕事が失敗するのはよいのですが、それに対しての取り組みや役割がわかっていないと、無理な人は出せない。

 

 

プレBV座でさえ上げられないのは、その人にMCをやらせたらそこで舞台が壊れてしまうし、歌以前も問題が多いのです。その場で思いついたことをパッと見せられるのであればプロです。まずは、それに対してどれだけの準備と覚悟をかけているかです。それが失敗してもその人間がそれだけ練りこんできて、最大限の努力をしてきたら人々には失敗とうつらないものなのです。

どんなことでもそうです。精いっぱいやってとちってしまっても、伝わるものがあるのです。それが匂ってこないのが一番の問題だと思うのです。だからコメントのことが音楽や詞の解釈に入っていかないのです。 

 

まず人を捉える瞬間というのは、先に知名度があると会場の雰囲気ができてしまうので、もちろんそれも実績ですが出たところでの勝負となります。有名でない人間の場合は、出たときの印象が大きいです。出たときにこの人に時間を預けよう、何か新鮮なものを見せてもらえそうだというように期待できるかで決まってきます。

 

 街を歩いていても、この10人のうち誰の話は聞いてみたらおもしろそうというのはわかると思います。その予想が裏返るのはよいのですが、一致していることが多いのです。というのは相手を説得させるにはそういう表情や態度が必要です。

歌い手がおどおどしていてお客さんが楽しむことはできないわけでしょう。 

 

 

歌い手が舞台で考えこんでいては、客はなぜ金を払ってまで心配しなければいけないのかということです。自信たっぷりに歌っている人が、間違えてしまうのをお客さんが許せるか許せないかはお客さんの勝手です。それが笑える人と本当に笑われてしまう人がいて、それはそういうところで決まっている場合が多いです。

 

 そういうものはどうでもよく、歌は歌からなのだという人は、歌い出しのところで決まっています。その歌い出しひとつにしても弱いです。これはメロディや楽器だけではなくて、歌詞一つを見ても、要はそこからどれだけのものを感じ、どれだけのものを表現しようか、という欲でしょう。 

 

歌い出しで失敗してもサビでひきつけたという挽回策もなくはないです。でもそれを通じて欠けてはいけないのはテンションの高さとそこの詰めです。お客さんは自分のお金を払っていますので厳しいです。テンションが伝わらないと二度と来なくなってしまうと思います。

 

 

 まず、よくわからないのは、なにが好きなのかということです。自分が好きならそれでよいし、この歌が好きであればそれでよいです。声でも自分の歌い方が好きだとかでもよいのですが、それがまず好きなのかということがあります。その次にそれが伝わってこないのが問題です。 

楽しむ前に修行の場になっていて、研究所はそれでよいのですが、それは誰も見たいものではないのです。ひとりでやるときに出すべきものであって、こういうところで出るというのは甘いです。

 

 もっと単純なことでいうと好きでなくても歌っている人はたくさんいます。おもしろくないというのなら、そのなかの何がおもしろいのか、それを教えてほしい。この歌をもってきたけれど、何を見つけ何を感じたのか、本当はそれを伝えたくてステージに立つのでしょう。 

それがわからない。伝える力がないというより、感じるところで人並みくらいなのだと思います。普通の人でも感じられる人はたくさんいるのです。

 

 次にスタンスが見えてこない。たとえば「暖かい日に別れた」という詞があったときに、別れた悲しさのままいってしまったら、何も伝わらなくなってしまうでしょう。少なくとも「暖かい日」というのは何かを表現しているし、暖かいというのは楽しいことなのです。それと別れを対照している。そうすると「暖かい」というのは悲しいことをいいたくても、暖かみをもっていわなければ、次の「別れ」に落としこめない。別れたことをそのままただ悲しそうに歌っても、それに対して観客は同意したいわけではありません。

 

 

 基本的に歌い手は最後は笑って終わること、「でも生きている」とか「これからがんばる」とか、ある種解放させていく。たとえ現実でなくてもイメージのなかで消化させてきて、それを立てていかないと人との交流というのはとれないわけでしょう。

 私も別れた、皆も別れた、悲しいね、とおちこんでいくコンサートはないわけでしょう。そんなものであれば二度とこないでしょう。 

 

宗教は行でそういう理不尽をとっているのです。宗教は本当はものすごく頭と体も心も使います。徹底的に考え、徹底的に厳しい修行をします。そこにいったら居心地のよい宗教というのは本来はないはずなのです。

 ただそこが厳しいから世の中が少し楽になるというものとして、アーティストもそういう救いをもってもらわないと困るのです。歌、表現、好きな気持ち、それから何をなぜ伝えたいのかということです。好きでもおもしろいもなくてもよい、でも伝えている仕事をやっている以上、それが何なのかを言葉で説明できないのなら、歌でそれをやらなければいけない。 

 

MCで伝えてしまって人がいましたが、その必要はなく歌でやればよい。ただ歌が外国語の場合はMCが親切の場合もあります。

 

 

 歌に理由や必然性がなければいけないということではありませんが、なくても観客は感じないと、その時間を共有する気にはなれないです。本来のところだとアーティックなものですから、この曲や詞を通じて何が出ている、どうつくりたいのかということです。 

 

高い声が出ないとかもっと声量を出したかったという問題よりも、そういう展開や構成のことです。とても緻密につくられています。それを壊して自分で再構成しているが問題ところにエネルギーを使ってきているのか。ほとんどが歌詞をとりメロディをとることで終わってきているのではないかと思います。その段階であればカラオケのおじさんおばさんよりもうまくはならない。彼らの方がもっとやっています。

 

 ここにいるのは、10年でひとつか二つしか気づかないことを、何とか1日に3つも4つも気づいていければ逆転していくだろうというようなことでやっています。そこに問題意識をもってもらわないと困ります。映像を渡しているのも同じです。それでよければ辞めてしまってよいのです。人前で歌っていればよい。 

 

 

でもどこか悪いと思う、どこか困ると思うわけで、より伝わる人もいるわけですから、そこで何が足りないのか。その人のようにならなくてよいのですが、プロといわれている人達は何かを伝えているのです。そのなかでいろいろなものを見ていったら、少なくとも基準ができてくるはずです。

 

 これ以下のものは成り立たないのです。それで何がどう必要なのかが決まってくるのです。トレーニングには意味があって、トレーニングをやって何かが出てくるということはやっていないのです。今の時代がそうなのかもしれませんが、弱さをつっぱって出していったら、誰かが同情してくれますが、それはお友達と家族だけです。

 

 舞台や表現は人の時間を奪います。自分が3分歌ったとして100人の前で歌ったら、300分聞いて、初めて自分の3分がくる。それを逆転させているのは、なにか、100人の人は聞くだけで自分だけが3分歌う権利を持てるのは、強いものであるからです。そこに人が惹かれることなのです。 

 

 

歌であれば強いものの優しさに惹かれるのであって、弱いもののつっぱりなどは誰も聞きたくない。それはどんな時代になっても崩れることはないです。その人が持っている芯の強さやポリシーや、スタイルがないアーティストがどこにいるのかと考えてください。

 

 生活に結びつけてやれるかというのは、また次の問題でもあります。あまりにそのことにこだわるために生活が破綻してしまったり、ある意味だとバランスがそこですぐれてしまうために鬼になれなかったり狂えなかったりします。それが完全に狂う方にいってしまったら、生活どころか精神が破綻してしまいます。そのギリギリのところで勝負している人はたくさんいますが、研究所ではそこまで追いこむことはできないし、追いこんだから必ずしも何かが出てくるのではない。

 

 自分が自分を追いこむものです。それが現実の生活でできるのであれば、魅力的にしていけばよい。 

一歩、間違うと今、流行りの弱さをなめあうヒーリングのような形になりかねない。それだと観客同士のサッカーになります。当然お金は自腹で、楽しんで終わる。それはそれで音楽のひとつの楽しみ方としてよいと思います。変にプロだといってしまうと、いろいろな価値観に合わせなければいけない場合もありますし、やりたくないことが来ます。

 

 

 プロの仕事というのはやりたくない9割の仕事のなかで、どれだけできるかと我慢比べが問われている。映画監督でもそうでしょう。日程も予算もない。そのなかで作品だけボロクソいわれる。その限界のなかでイマジネーションやアイデアでどれだけ補うか、どれだけ本質の勝負をするかということです。カメラマンや音声録りの人とはまた違うのです。 

歌い手は、要するに編集役です。それを魅力にしていかないと、舞台で見ていてもだめだと思います。

 

 窮屈だなという感じがいつもします。心だけは自由になるのですから、それを歌のなかで拘束したらよくありません。だから生活と切ってしまうという考え方もあるのです。でも本当のことであれば、舞台の日も生活だし舞台だけが華美な世界ではない。そのなかでどれだけのイマジネーションが働いているか。MCでも生活のなかで気づいた小さなことにこだわって、どんどん捨てていきながら高いレベルでものを残していく選択をトレーニングの期間中にやっているのです。 

 

そのうち舞台に出る前や本番中に気づかなければいけないとか、だんだん忙しくなるとそれに対応する能力が必要になってきます。それができない人から落ちていくという、それこそプロの世界になっていくのです。

 どこかにうまく歌えないことを容認していると思います。それはあまりよいことではないと思います。歌いたくても歌える環境や生活の人がいる中で、こういうものに時間とお金を使うのであれば、私は必ずものにしてほしいと思っています。そうでないと却って甘えにしかならない。

 

 

日本人に多いタイプです。そのためにおかしくなってしまう。プライドだけが邪魔して何も行動できなくなってしまう。うまく歌えないから人間なんだ、ではなくて、きっと人間は歌えるようにできている。ただ勇気と人前にさらす意欲が必要です。それがステージの場合はさらに鋭さが必要になります。

 

 運動部の選手や役者と同じで、そこのなかで音を扱っていって、体の感覚ひとつで動かすわけです。楽器の人でも腕が動かないといっていては弾けない。そういうものを普通は避けたがる。特に今は芸人も育たないし、基本が身につかないというのは外に支配されてしまうからです。研究所に支配されたりマネージャーやプロデューサーに支配されてしまっている。そこのいいなりのところでやっていればよいだろうということになってしまう。それは本当の意味では楽しめないことです。

 

 余力がないから楽しめない。部活でもOBになると遊びのなかで楽しめる。でも本当の楽しさとは違う。遊びの楽しさとプレーのなかで負けるか勝つかのなかで争い、何かやっていることの充実感とは違う。 

それは感覚が鋭くなったり、筋力がついたり、自分が成長しないと越えられない壁です。それを引いてしまったら、その下ではいくらでも遊べるけれど、その遊びはたまにやるからおもしろいのであって、毎日やったらつまらなくなってしまうと思います。

 

 

 皆さんのなかにいろいろな火をつけなければいけないし、行動していかなければだめだと思います。それは歌とか声の問題ではないし、今の時代は歌っていても声がよくても通じるということではない。皆が認めることはその裏にあることです。それがたまたま、その人が音楽が好きであれば歌という形で出るのです。

 

 だから今の歌い手がドラマに出ることが逃げだとは思いません。歌い手よりもそちらの世界が高く評価されているのであれば、そこでやった方が切磋琢磨されます。慣れていなくてできない部分のことはよいのですが、何か勝負事をするときにテンションの高さしかノウハウもステージもものにしていくことはできない。

 テンションの高い人がぼそっと気を抜いたようにいったり、だらだらしているようでいてステージが成り立っているところのもうひとつ後ろにあるテンションの高さをきちんと見ていかないとよくありません。

 

 そういうものはここのなかにも参考になる場はあり、人もいると思います。それはある意味での鋭さです。それを見るためには鋭くないものも見ていくのは、ひとつの方法です。どこまでそれを握っていながら、どこまで前に出せるかという両方のことをやらなければいけない。握ってばかりでは自分のなかから出てこれなくなってしまう。音楽でもそこから出られなくなってしまいます。

 

 

 ひとりのアーティストが好きなのはよい、でも大切なのは好きだからそれを歌うのでなくて、その好きと思わせる何が自分を反応させるのかを見ていくことです。それが作品の一番大切なモチベートになるところでしょう。それにどう色や言葉、音符をつけるかということです。そうしたら必ず違うものになるはずなのです。それがオリジナリティです。

 

 それはひとりでやっていたら絶対に気づかない。自分のファンのアーティストがいたり、あの人がいたから歌い手になりたいという人がいるのはとてもよいことです。それに反応できた自分の感覚、自分が出して反応できるというより他のものから反応できることの方が多いです。いろいろな課題曲を取り上げてみても、皆の感想は全部違います。全部間違いではない。それがつまらないと思った人はそれが正解だし、おもしろいと思ったらそれが正解です。

 

 ただ感覚のことからいったら、それ以上のことができている人から見たら、学ぶところはたくさんある。それをひとりの歌だけを学んでうまくなろうとしたら、その人の歌い方しかできなくなってしまう。

本来はそこで師匠がこれは私がやっているのだからお前はこんな歌い方をするなといえばよいのですが、日本の場合は私のように歌わないとだめだといってしまうから、どんどんとスケールが小さくなっていく。

 

 

 いろいろな手本はあると思います。それで個性の強い歌い方に対して、自分の場所をどこにきちんとつくれるかということをやらないといけません。それぞれで勝負している人はいます。声の美しさを追求している人、フレーズのよさを追求している人もいる。それを中途半端なところでまねてみて歌ってみても通用するわけがないのです。米良さんのファルセットがよいと追求してみても、それが合うか合わないかは彼以上のことをやらないとわからないわけです。

 

 表向きで捉えないことです。ただ私が認めなくても皆のなかで認められれば、あなた方の感性がそう働いたのだから大切なことです。しかし、もしかすると1、2年たってしまえば消えてしまうことの方が多いかもしれない。それは高まっていかなければいけない。 

 

同じ判断基準レベルというのは、同じ間違いを繰り返しているだけのことです。去年はよいと思ったけれど今年聞いてみたらだめだと思うようになっていて普通です。それは他の人を排斥するのではなくて、自分の基準が高くなるのと共に、いい加減なことをしなくなるから何をしなければいけないということがよりわかるようになってくるのです。それを学ぶために他の人はとても参考になります。

 そのときにそう感じたのは本当のことです。

 

 

 ジャニーズjr.をみてキャーキャーいう。あの年代でそういうことは間違いではありません。また10年も20年もいっている人もいて、それはファンであればよいのです。ただ自分がやろうと思ったときに、そこで2、30年たってもキャーキャーいっていたら、それ以上の歌を歌うことはきっと難しいということです。 

そこから何をプロがもって支えているかという次の問題になります。タレントの場合はともかく、皆さんの場合はここで学ぶのであれば、音の世界のなかに入ってください。いろいろな実験をやってもらうのはよいです。ねらいをしっかり持ってください。

 

 ただ明らかにかけているのはテンションです。皆さんのテンションであると、お客さんは引いてしまいます。それは歌を聞く前に引いてしまいます。皆さんが実績や知名度があって、来ただけで拍手をされる立場にならないかぎり、よくありません。病み上がりで声も出せないといっても何とか許される。普通であれば消えてしまいます。

 

 

 普通の仕事でも、きちんとやっていて、あいついいねといわれるような人はもう少しテンションが高い。歌や声になったときにそのテンションが下がってしまうのではよくない。歌の方に頭がいってしまうからそうなってしまう。ということは歌が全然消化できていないということです。歌を忘れてこなければいけない。

 

 10回くらい完璧に忘れてしまう。完全にできたと思う。今日完璧にできたと思う人が明日忘れてしまう。それを10回くらい繰り返すのです。 

それを3ヵ月や半年からでなければできないというのは甘えです。1週間でも3週間でもその人のなかで起こせるのです。前の日まで歌詞をみていて、当日を迎えるというのは、最初から土俵に乗っていないのです。自分で自分の立場をよくなくしている。10回やって10回歌えなかったというのはよいのです。次のときにはそれが5回になって、1回になっていきます。

 

 そういうふうに変えていかないかぎり、前の日に歌詞をみて歌うというのは、カラオケのおばさんと同じです。10年たっても同じで、そういうにおいがついてしまうのです。のど自慢のうまい人やカラオケのうまい人は、音程やリズムも声もよい、でもつまらない。それはそういう基準のなかで修正していないからです。歌い手は皆、失敗しているのです。

 

 

 プレを見ていても本人はうまく歌えたと書いていない。それはより高い基準で正されているから、いつも成功しない。それが思うとおりにできるという人は基準が低いか、本当に高くて一声いったら歌になる人かです。その基準で見ていけばそう簡単に歌はこなせるものではないと思います。 

 

とにかくステージ態度のことが気になります。歌のなかに入ってしまわない。歌があるから前に立っていても何とかもつというのは、15、6歳のまでです。その時期はよいと思います。武器をつくらなければいけない。自分ひとりではできなくとも、音楽や歌があるからもつというのでなく、それでもたせなければいけない。

 

 そのときの要素は何でしょう。駅前で歌っているのを聞くと、こいつは夜中までやるほど声を出すのが好きだという人もいるし、人に見てもらうことが好きなのだとか、思える人もいる。聞きはしないけれど何かを投げようとは思わない。 

 

 

ただ、本当の意味で音楽で伝えたいものがない。やっていること自体が目的になっているのです。伝えたいからやるのが本当なのに、そこに踏み込んでいないから、駅でプロデューサーがきてみても、声も歌もよいけれど、こいつとはやらないと思ってしまう。それが大切なことと思います。それはJ-POPでも何でもそうだと思います。ただそこに声や歌が充分に使われていないのが、不満なだけです。

 

 それは私の価値観ですが、皆さんもその前提というのは大切です。人前で踊るとき、落語をやるとき、そういう前提は全部共通しています。普通の人が歌ってみたら輝いて見えるというのを一番見たいのですが、輝いていたらそのうち歌は体になじんできます。だからきちんと下りてくるところの器をつくっておくことです。たがやしてくるレッスンをしていってください。 

 

こういう作業は2、3年いると慣れっこになってしまって、頭だけの作業になります。でも自分が変わらない、変えられないのであれば、それをしっかりし、勇気をもって立ち向かってください。

 

 

 歌や音楽は守りに入ってしまうと本当に楽なものです。それが一番つまらないことになるし、自分に対する不安にもなってきます。昔の財産でやらないことです。常に創り出していけばよいのです。イマジネーションの世界です。 

 

そのなかでお金持ちになったりおいしいものを食べたりして、そのほほえみを出せるかという世界です。未来予測と同じで楽観論の世界だということは覚えておいてください。つまり地球が破滅するという人でも、だから皆で避けようというのがあるからそういっているのであって、それを本当にいっていったら誰も聞かないし成り立たないです。

 

 歌い手に求められている役割は少なくとも皆で死んでいきましょうというものではありません。そういう歌詞や世界であっても、カタルシスを自分でまず消化してこなければいけない。それを歌い上げなければいけない。まして今回の歌詞はとてもストレートなものです。だからこそ逆に難しい。それを経ていかないとこういう歌はなかなか歌えないことがあります。