レッスン感想 1207
のどのなかがカラーで覗ける。やっぱりイメージつかむには便利。ソプラノの発声のときは、声帯口の唇の触れ合っている部分だけが細かく動いて、低音時は声帯全体が大きく動く。/声に関する器官はおおよそ次の3つ、3段階をへて生まれる。Iガソリン―呼吸器官(肺とか、横隔膜とか)IIエンジン―発声器官(声帯まわり)III運転・操作―共鳴器官(鼻に響く道がふたつと頭に響く道と)
物まねがうまいひとは操作がうまい。共鳴=空洞に当たって空気と競合し音が増幅される。
「声」についてプロとの差はおおよそ次の3つ。1.体のフォームと使い方の差 2.腹筋の力の差 3.上半身、のど、あご、舌のリラックスした状態がつくれないため。
胸式呼吸―肋骨の引き上げによる呼気と引き下げによる呼気。腹式呼吸―横隔膜の働きを主とする。ノドを安定させ、酷使しないため、息を沢山入れて、長く強くとコントロールするためには、腹筋背筋を使った横隔膜呼吸が必須。(呼気の支え)というのは横隔膜の動き。ウエストのあたり。上がり下がりのなめらかさ。
肺のまわりにはいくつもの筋肉が付随している。体を動かすというのは、肺のまわりの筋肉を一時的でも、やわらかく、大きく、うまく広げるため。呼吸の幅をひろくできるため。
“ノドをあける”ということ。喉頭蓋(のどのふた)が開いていて、広く空気を通せる状態にあること。声門にかぶさってないこと。お腹から十分息が流せないと、うまい角度にあかない。ノドがあがるのは息をおナカに保持していない。
自分はお腹の力でピストンを押すポンプだと思ってください。空気の通り道である上半身がシリンダーというわけですから、変化しては(動いては)いけません。押し出した分だけ、口からまっすぐそのままでればよいのです―依然、東京の人が体をブランコのように揺らして歌っているのとか、手をお腹の下のところから丸い円を描きながら歌っている癖を(ヘンなの)と思っていたが、今自分も同じことしている。腰のところから体のまんなかにマンホールが通っている感じ。下からポンプ↑↑、息の力で押し出す感覚。でもステージは、トレーニング引きずらないように。
声が出ないのは①お腹の使い方が悪いか、②使える力がお腹についていないかどちらかです。腹筋(体あるいは大砲)に重い物(声あるいは砲丸、弾)を載せて遠くへ飛ばす練習。奥まで、しっかりと詰め込まれた砲丸は、一発打ち込むごとに、その反動を体全体で受けます。強い球を打ち出そうとするなら、その反動の大きさを最初のトレーニングから大きくするようめざすべきです。
声に体がついているということは息を吐くだけで声になるということです。―“息の線”よくわからない、見えないし、聞こえないけど、自分の映像見たときの耳障りの心地悪さと、欧米の一流アーティストの心地よさを見比べて、息が混じっているか否かの違いという推測はたつ。先のポンプ、大砲もそうだが、(息・声・体)のタイミングが一致して、力がある一定方向に集約されて初めて打ち上げることができる。
お腹の力を息の流れを媒介にして声に伝え、響かせている。
声のしん→息を体からラクに吐いたとき、それを全て声にできるポイント。
体が使えるということは、体を使わなくてはいけないだけの負荷がどこかにかかっているということです。
声量、声域は、からだのひっぱる力と比例して大きく広くとれる。
声楽家の人から~ノドを休めるというのは声帯まわりの筋肉を休めるということ。睡眠をとると筋肉の疲れをとる。朝起きたらまず、ストレッチをして、呼吸のことをする。朝食をとってしばらくしたら、ハミングの軽い発声練習からヴォーカリーズなどの重いのに移る。体が楽器なので、筋肉まず腹筋を鍛える。先生についてその他の筋肉も鍛える。練習を通して忍耐力も養う。気分がふさがないように。物語にそのキィがどうしても必要だという場合、歌の主人公の気持ちに入ると、自分には出ないはずの音が出たりする。
音色は本人が生まれ持つ共鳴腔と声帯の形態(骨格)と、使い方。冷房が効いている部屋に入って鼻から冷気を急に吸い込むと一時的に声がでなくなったりするのでハンカチなどで防ぐ。
由紀さおりさんは、3日に一回咽頭科の先生にのどの診断を受けているそうだ。米山先生は地声のことを胸声区と呼んでいた。仕事でしゃべり続けたり、自分はノドが丈夫だと根拠のない自信だったが、カン違いな力の入った使い方をして疲れさせてしまっているときもある。お風呂は体がふにゅーと疲れてしまう気もして、運動が有用な気もする。体がほぐれている(&あたたまっている)と余計なところに力が入らず声が自由になるのは実感。肺のまわりにくっついている筋肉をやわらかくする、すると肺で実用化できる空気の量も一時的に増える、ナルホド。そろそろ体の実感を深めることを急いでいきたい。
新曲視唱→譜面もらったらすぐ曲作っていけるように、曲想つかむ。音楽たるゆえんの共通の認識ふまえる。ここでは4小節1フレーズの構成。テンポ初めに定める。きちんと拍取る。音に集中。デクレッシェンドの歌い方。レッスンとして成立するレベルの集中力を発揮する。他の人の音楽的な長所を見つける。/リズム→鋭さ。メトロノームつけて。アクセント、シンコペーションの表現。一小節、一拍ごときちんと消化する。
音型を見て曲想、イメージを出す、ブレスの場所、コンコーネをやる意味とかの理解につながった。ファとファ♯とかの単純な半音練習をやろうっと。関西Wが始まって約一年。ここに至までのなんて遠い道のり9レベル低いね、トホ)。根気。継続。馴れ×3。ほんと今って、あるレベルに達する迄の猶予期間。レッスンがなくなっても検定は定期的に受けた方がいいなと思う。クラシックの人らしく、白いレースと甘いものが好きな小澤先生、あやしい私達を見捨てないでねって感じ。
時間を割ける環境をつくるのも自分の器。何がしかメシの種、生活手段にも行き当たらねばならない。追い込みをかける。抜き差しならなくなったときどう展開するか。自分ならどう出るか。追い込みをどうやってかけるかはカンだけが頼り。
今15才だったらなぁ~なんてながいながい間分らなかったの。今だって探している。あんな闇にもう二度と戻りたくない。作品もだけど、己の歴史も自負できるものであるかってこと。
毎回、一回×一回のレッスンごと目的をクリアして行くこと。次までに消化しておくこと。360°どこからこられても平気になること。
得意な母音、不得意な母音をしっかりと自分でチェックできること。ヴォリュームダウンする音については、共鳴が悪くなっている。どこか局所的に力が入ったり、固くなっている、何らかの要因でノドが解放されてない。得意の音とからませて、交互に巻き込んで練習、改善していく。
ノドに負担のかからない弱い声から(mp)から、だんだん息を増やしてフォルテにしていく。一音目をふわっと。(軽く)。
「la,a」舌を平らに。
発声をクリアできても、実際の歌でヴォリュームダウンしてしまうことがままある。曲を得意な母音にして練習してみる。「オオオォ~」とか。
体を使おう、おナカに息を入れようとすると、ブランコのように体が揺れてしまう(おそらく体の機能が未発達なため)、実際高率が上がるというのではなく、こー使うんだヨという気分的な問題のようです。が、しかしもう、オーソドックスなキレイな立ち姿勢で持って、息の出入り、おナカの下部から体を使う感じ、その他も感覚できねばと思いました。
とにかくあらゆる方法(メソッド)を試し、磨きこむことで不安をなくす。日々器を大きくしていく。そして息からも、腹式からも、発声からも、歌詞からも、フレーズからも、誰の眼からも自由になり、表現すること、観客と向き合うことに専念する。
未だ声がノドにかかってしまうのが情けなくて悲しかった。異常だと思った。ダイブ直前、崖っぷち。ひとつは集約して出すという集中力のような気がした。空中ブランコや大道芸みたいな集中力。“気”なくして実現なしということ。吹き矢の息。力ばかりで押しでも、音楽性に欠ける。弱・強弱の対比、コントラストであって、何ホーンでるか大きさを競っているのではない。
「lalala~」大きく伸ばしてだんだんフェイド・アウト、ファルセットの中間、MIXボイスの練習。逆に小さく入って大きくなどなど、ははーん(沢山で思い出しきれないよ、でも一個でももうけもん)。先生の体はすごかった。訓練の賜物か。文字どおり“得た”ものだ。ちゃらちゃらしてなくて、地に足ついていて、奥が深かった。そーいえば私フレーズ回ししたの久しぶり。
ハモリー探らない、太く入る。曲想、音楽になっているか。リズム―ぴたっと他の人とそろえる。集中力&鋭さ、キレ。メロディ(コンコーネ)―フレーズ切らない。プレスの位置、スタッカートのノリ。すぐ息が足りなくなって困った。うまい人は、いったい何ができているのか、なかなかわかることはムツカシイけれど、新しい人を見ると、自分がどんな途(みち)を通ってきたのか確認になる。その人に何が足りないか、どうトレーニングするべきか考えることは、即ち自分に落ちてくる。
リズムトレーニングとかはレベルがそろっている方がやりやすいが、声については、いろいろ渡り歩くのが勉強になる。他のスクールから移ってきて、譜読みとかのできる人と、中堅BV生との違いで感じるのは“声の厚み”だ。焼肉とステーキ肉の厚みの違いだ。始めの頃は、声に“厚さ”があることさえ、よくわからないし、腹式呼吸や発声練習の成果、それらのトレーニングが何たるか、まる2年過ぎるまでまったく実感できなかった。やみくもに(できない×2)ってじたばたしても1年くらいはブラックホール、どうしようもない。
体力つくりだ何だいって、エアロビクスを楽しむにも、3日に一度毎週通って約一年かかる。腹筋をして、オナカの筋肉が3つに割れてくるのも3月、半年かかると思う。物事にはステップが潜んでいて、ひとつひとつ片づけていくと前に進めるというのもおもしろい。なるほど道は“歩く”とか“進む”という表現を使うわけだ。今というときはどうしようもないくらいいつだって、こんなにこんがらがっているのに、過去の道は、振り返るといつも一本道のように感じるのはなぜだろう。 声の厚みというか、深さはやはりまず、胸に発声のポイントをとることだと思う。自分がラムネの瓶になったつもりで、胸のところにあるビー玉をころころ転がしているつもりでハミング。
今思うと、わかって試みていたかもしれない。息のヴォリュームもてんでわからなかった。このイメージを入れていきたいと思う。イメージトレーニング。映像を“知る”ためでなく、レッスンとして“入れる”ために見れるようになったのは若干の進歩と呼ぶべきか、否か。
はじめの第1声、1フレーズ、出だしの声が、体についてて(入ってて)、それてないこと声を前に集める、集約されていること。とにかくスタートの4小節でやらないことには。あと多少の難点があっても、はじめにやればなんとか“かます”ことが可能になる。一曲が無理でも1フレーズ。とにかく体についた声、ぶれてない定まった声をつくる、安定させる、育てていく。いわゆる(プレスボイストレニング)。着実に。
姿勢とかテンションとか覇気とかっていわれるけど、フォームうんぬんというよりも、舞台にすっと立ったときの立ち姿に“貫禄”のふぜいがないといけない、醸し出されていること。それが正しいフォーム。胸張った方が安定感。上に集めようとして目がパチパチするのは力がいらないところに入っているか、集約されず分散されている。気持ちの集約。体が発散するところの“迫力”。
眼をつぶったりとか、ふとした表情とか、すんなり受け止められるときと、どうしょうもなく“さぶい”とき。本当に“入っているとき”と、“それらしげにしているとき”。心身ひとつの流れに身を任せているときと、心が裏切っているとき。または自意識過剰で、ヨロイをつけている、カッコつけている、自信のなさを読み取られまいとするほどに、それは露呈してしまうということ。
レッスンでやったこと、本に書いてあることをトレーニングしたらいいのではない。自分のステージから課題をあぶり出すのだ。このなかに何ら必要性を感じることができないのなら、それはもう勘違いだ。刀を振り下ろして、現実の生活に根をおろすことだ。少しでも、可能性のかけらを見つけようとしたが、むつかしかった。“クリスマスオーディション”と銘打たれたワリに、何だこのテンション。覚悟も危機感も何もない。まわりの硬い空気など、はじけ飛ばす。音楽の体現。クオリティだけが音楽の体現ではない。フレーズの高揚感を感じることや、気持ちよさをリアルタイムで感じていることや、楽しんでいることや、視線を集めることや、前に出ることのうれしさを味わうことや、それら子供じみた人間らしい感情を場を共にしている人に伝えること。
伴奏が有利に働いていたと思えない。サビで音ずれている、あまりに初歩的な外し方がにぶすぎ。いちばん上のキーが出ない。選曲甘い。サビの眼が裏切っている。あるか、“心地よさのかけら”〔おそれてシャットダウンしている。だから音に体が乗っているように見えない。不安そうにピアノをちらと見たのがばればれ。本当は音声はクリアして、映像では、自分はマイクのどのあたりを持ったらカッコイイかとかをチェックするくらいまで行きたいのに。
原曲の「アルベデェルチ・ローマ」は、本当にひとつにまとまっていて、本人の気持ちのなかでの動きとか、体の使い方のクライマックス等あると思うが、“ほらサビですよ”とか、“行きますヨ”とかいった(いやらしさ)がない。聞き手に余計な気を使わせない。のど越しよく、すんなり聞ける。体があって、声をひとつに扱えるという条件の違いはあるが。英語はなにぶん聞きとばすというか、全部を発音していたら、“日本人英語の歌”になって、“英語の歌”にならない。だからつい、かっこうでもってクリアしようとするので、よほど自分で課題の主旨をつかまえていないと勉強にならない。その点イタリア語は、ローマ字どおりというか、聞こえたまま、きっちり発音すればよいので、初心者にはむつかしくも、わかりやすいのかもしれない。なんで音がフラットするの。 発声が悪いわけ。
はちゃめちゃでも回数を踏むことで慣れて来たとか、始めと終わりくらいはひきつりつつも笑えるようになって来たとかはあるかもしれない。まだひとまず声が体に入ってきたとこなんで、息も流し切れてないし、声も、所作も固い。川でせきとめられて、海に出ていけてない。“トレ←ニング過程”ばればれなんで、体つくりつ、声つくりつ、破んなきゃいけない。こんなのタイクツでなんか申しわけない。“おべんきょうのじかん”なんて、“だせー”よ。
声なんか、フレーズなんかいいから、「泉谷しげる」のり移ってみるとか。あの世から「たこ八郎」呼んでくるとか。 “やっさん”が来たら、賭け事はまりそうでこわいしな。けど普段のレッスンでも、横山やすしと野球拳やっているつもりの真剣さは必要だ。その破るきっかけは、お天道様にもわからない。何が誰が味方で、何が敵かもわからない。おべんきょうはひとさまに見せるものではない。
今回ホントにひどくてショックだった。そのなかでとにもかくにも、それてない(中心の声)作っていこうと思った。出だしの1フレーズの声を集められなくてはいけない。1にも2にも“体に入れていく”こと。気を散らさず声つくりを優先させる。討ち死にとはいっても、やみくもに何でも出ればいい時期はこれ迄で、これからはある程度、確信を持って(計画的に)登場しなければならない。裏づけるべく準備する。足りないものきちんとわかって。音を描くということのデッサンの線もそろそろ見えてこないといけない。“音楽になる”ということを肌で理解しないと。昔のビッグバンドでソロをとっているトランペットみたいに、ハリよく、遊びゴコロいっぱい元気よく、空気中に絵を描く。
1.長く(息を)吐く・・・“スゥ~” 2.息を動かし、バウンドさせながら吐く 3.(ハァ~)おなかで吐き、その息の上(シタでもヨコでもマエでもない、あくまでウエ)に載せて“ハァァ~” 4.“ハァ~ハァ~ハァ~” 5.アァ~ 6.アァ~アァ~アァーのども、顔の側面もみんなみんな開く 7.アーエーイーオーウー 8.ハッハッハッースタッカート 9.ハッハッハァ~ 10.ハァ~ハァ~ハァ~ 11.ハァ~ア~ア~ 12.音階ア~ア~ア~ 「アメイジング・グレース」何をやったかというと、主線に対してアドリブで自由にハモる、アンサンブルする、セッションする。ホントに音楽が宿っていたら、ひらめく、体が動く、声が出るはず。わぁホント、こんなのあたり前にひとりでに遊ぶように、やってなきゃいけなかった。
J-POPでも何でも試みる。さりげなくハモるには、感覚のみならず、コードの知識が有用だ。ゆったりしたリズムと、ゴスペルふうのリズムをやった。ソロをとるには、100人従えるくらいの迫力がいる。あたりまえのことをあたりまえにやっている人たちがそんじょそこらに、うじゃうじゃいる。“発声”ってがちがちにならずに、曲を感じて、体のなかでリズムをとって、そうしているうちに声が自然と出て、歌っている中で声が身について、とりたてトレーニングや勉強をせずにすんだらそれが理想。楽しいこと、気持ちいいことしているんだゼってこと。
5度、ドミソミド(アアアアア~)ソミドで下がるとき、音を探してしゃくってしまう。最初の音を基準にポジションをキープして、ひとつと思って出す。音程はピッチをコントロールするだけで、他のもの動かさない。声のしん、ポジションをつかむことの意義。先生は、声にするのがしんどいような低いところまで下がってピアノを弾かれるのには意味がある、低いところは“声にする”というよりは、“体の感覚をつかみ”その感覚のまま上がっていく。
(スースースースースー)って5回輪っかがつながっているように息を吐いたとき、自分のは薄くて途切れがちだったのに対し、先生のは息の量やら厚みがまるで違った。息がブンブン新体操の輪っかのように回ってた。要するにこの差なんだ、これがギャップなんだ、これを埋めなきゃなんないんだと思った。
体に声を入れるとか、声を出したり、歌うのに、(からだ×3)ってこの人たちは何をいっているんだろうと思ってたが、ようやく実感が持ててきた。1年前の映像を見ると(上達うんぬんする前に、画像の自分がきっちり1年分齢取っててワシャその方が悲しい)声は体からまったくそれているのに、本人にまったくその自覚がなかった。
最近マヘリア・ジャクソンの映像のイメージを反芻(はんすう)している。体全部から、毛穴全部から出ている声、かつ彼女のようにいつも神様に向かって歌っている人は強いだろな。同じ“できてない”“未完成”、水面下は溜まっていても、溜まってなくても人の目に映る現在は一緒。場に出ていること、時間を過ごしたことで安心してたらコワイ×2。自分はどちらか。酒は醸造されているか。形ができてたらうまいと思ってしまうのは浅い、そこで完成してしまっていることに安心してしまう、より大きな天地、存在、聴衆に向かって出すことをイメージする野心を持ちつづけなければ。質を厳しく問う。自分への挑戦と、1番目の客として己の可能性を見届けてやること。がかたやきちんと形にして人前に出すのもマナー。
演出の平田オリザさんは、初期をすぎると上達は、メソッド(訓練方法)の思想や精神をどれだけ深く理解しているかにかかっているといっていた。
たとえばミルバの1フレーズに食らいつこうにも、ミルバが見えてないと食らいつけない。見えたら埋めればいいだけだもん。食っちゃえばいいんだもん。やればいいんだもん。自分には音がときどき(色で見える)が、それはキャンバスに絵筆で、油絵の具をベチャッとおくような局所的な見え方。F先生やS先生は、絵の具をおく前の、空中のキャンバスにクレヨンで描くフレーズのデッサンの線が見えるみたいで、なかなかその域に達する兆しが見えそうになくてため息。
レッスンへのモチベーションのことは、あんまり口にするとカッコ悪いし、なんか照れくさいけど、いっつも同じ後悔繰り返してしまう自分にいい聞かすため書きます。一音楽業界とかで活躍している人たちはある種、若い頃の歳相応の楽しみを我慢して、そのことに専念した人たちだと思いますが、自分はある程度そのようなことは満喫して、ウダウダの楽しさも、そのあとの空しさもちょっと位は知ってて、まだ遊び足りんのかい。とばかしに、ここに入ってクレイジーな試みをしています。中途半端だけど年齢や残された時間も17、8歳の人とは違う。自分に必要なもの見極めて、そのため捨てること省くことも宣言、実行していかないと間に合いません。要は“ひとりの時間”が必要です。持たれ合いや甘えが許されない。1人でいるともう辞めなくてはっていう気持ちと背中合わせだから、まだ下に落ちて来ていない頭上のギロチンの刃をちらちら見上げたりしながらやっている。全力投球できないと効率が悪い。だから習得のほかに“気持ちのお手入れ”(やん、エステみたい。ピカピカになるかナ)の意味もあって、月に2~3回行ク。
これからは、レッスンで6割ピンと来たとしたら、次の日もそのまた次の日も、一ヵ月先もその6割を逃がしてしまわないように、心してずっと守り続けて、抱きつづけて、ふにゃふにゃの6割を固い6割にしないといけない。半年先の7割、未来の11割のために。落とさないよう、こぼれないよう、火が消えないようにするのは、ホント繊細な神経と精進がいる。どれだけ油断大敵なことか。そうでなくてもわかったつもりでも家帰ったらってなっていることも多い。せっかくイベントで得た熱気や鋭くなったカンは、そのままだと3日くらいしか持たない。もったいなさ過ぎる。それをずっとずっと火をおこし続けて毎日×2を過ごす。「赤い靴」を一度履いたら一生踊りつづけなきゃいけないのだ。プロってそんな人たちだ。覚悟を決めた人たちだ。いったんトーンダウンしたり、調子が落ちると取り戻すのに半年、1年かかってやってらんない。だから(入れる=見たり、聞いたり)こともずっと続けないといけない。音楽への好奇心もレッスンへの熱意もずっとずっと抱きつづけてられる人たちがこの世にはいる。机の勉強と違って声出さないといけないからなおさら時間との闘い。エンジンが常にあったまっている状態。定職とか、家庭とかの義務って(ギム)だけど、強いモチベーション持っているつもりでも、よほどでない限り、フリーターとかってだいたい1年で飽き飽きしてしまうと思うし、気持ちを支えていられなくて、案外教務って、心の衛生を保つのに役立っていると思うんですネ。(ねばならない)があることで、救われているんです。だから持ちつ持たれつ、それらをできなかった言い訳にはしたくないなあと思います。書くことは確認件業。言葉に現して認識(現状確認)したら、そこからが出発。書いたことで安心しない。
1.2回ジャンプ→しゃがむ数回 2.これでもかと目一杯吸う→脱力 3.両手をひろげ、片足あげながら、グリコの人形のようなポーズで吸う→おろしながら吐く 4.一杯吸う→細く×2吐く→脱力 5.一杯吐く→細く×2吸う→脱力 6.子音に母音をくっつける、無声の(K)(T)(F)-(スッ)(カッ)(トゥ)(フ)にアエイオウをくっつける。半音ずつ上昇。(スゥア)(フゥア)など。させしすの練習でなくてに“ア”をくっつける感じ。子音+母音の練習は英語の本に載っていたそうだ。一音に対してしっかり息を流す。西洋の旋律と日本語とのギャップを埋める、日本人英語の歌にならないようにする、息を流す、ポジションをつかまえる等等、“音楽的日本語”の獲得のためには有用なハズ。
響くからだはやわらかい。息の入るスペースが一杯ある。目一杯吸うトレーニングで、体の伸びているのを実感する。声量は息の流れる強さと同時に、楽器が響く空間、箇所を持っているということ。体格とはまたべつ。
ファルセットって何をトレーニングするのか全然頭に入ってなかった、浮かばなかった。声の柔軟さを保つ(ノドを固くしない)のに有用だし、自分はセザリア・デヴォラじゃないので、地声だけだと音域がまるで足りない。眉間に響きを集められるように、かつポジション必要なのかナ。ま、息は流してなきゃね。
トレーナーのグループレッスンは、一回のレッスンでのパターンがとても多く、ヴァリエーションに日々食らいついていたら、音楽的な感覚のことよりも、“声・からだ”の原始的なことなので身につきやすい、体についた声、声量を育てるのに役立つと思う。「歌」のことやりつつ、それ以前の、パイの“生地”、そばの“生地”、“声”育てる。しっかり育成しないと美味くない。言葉に踊らされてこんがらがるなら、何にもわからずに楽しんで歌っていた方がいいが、航海途中は、地図、教則、道しるべ、理論武装も必要、とことん行きなはれ。こんがらがっている間はまだ青いということ。そんなんバァと脱ぎ捨てて楽しめる場所まで行かなソン。“初心”に到達、行き着くための世界一周旅行。
息吐き、発声→上体が動いてしまっていると、反動がつくのでよくない。均等に息を吐けるようにすること。線をキープして吐くこと。1、2、3、で息を吐くときに1で思い切り出し過ぎないように、2、3、と均等に吐くようにすること。3に行くにつれて、腰まわりが広がっていくイメージ。前にまっすぐ息を吐くようにすること。3の終わりで吐ききって4拍子の頭できちんと脱力すること。3で吐ききれていれば4で脱力したときに自然と腰のあたりに空気が入ってくるはず。発声練習で音程をつけるときに、高くなった、低くなったと音を感じるよりは、音が太くなったというイメージを持って発声すること、その音域に行っても体は同じ状態であることが大切。
楽器のコピーでも歌のコピーでも、プロの感覚というのは同じ。常にものすごいテンションで演奏している。特にそのテンションが高くなっている一瞬というのがある。そこを聞き取れるようにしないといけない。プロが何気なくやっているところでも、私たちは何気なくやってはいけない。プロの何気なさ×100くらいのテンションでやって、やっと追いつけるくらい。だから普通のテンションでトレーニングしていても何ら意味がない。誰も近寄れないくらいのオーラを出して、初めて何かが生れる。練習だから、という枠のなかから抜け出さないといけない。音をとってしまう感覚を外すこと。その音のなかにある表現、テンションを見えるようにすること。必死でそれを取りに行くようにすること。感覚を聞いていくこと。
声は息で動かす。ということを発見、というより思い出した。声と息と体を結びつけるということや、音程を追わないということの意味もわかってきた。歌うときは声を出すということよりも、息を出す意識を強く持とう。生きた息を出すには体の支えが必要。3回目にフレーズを回した後、息を動かすことに気がついた。息が音色をつくるということは知っていたので、息によってどう音色が変わっていくのかを聞いていきたい。他にも動かし方を、息を見えるようにしていきたい。
今まで声を聞こうとしてきて、それもそれでいいとは思うが、息という、少し今までと違う、見る点がみつかったのでよかった。そういえば、1年くらい前にもF先生は「外国人は息の動きを聞いている」といっていた。最近ようやくわかってきた。歌に本来必要なのはそこなのだろう。私に欠けていたものの一つだ。音を動かすのが感覚でできるようになるには、やっぱり慣れなのだろうか。
頭のなかでいくらやっても、声にするとわからなくなってしまう。同じフレーズを百回くらい同じじゃないように歌ってみよう。1回1回変えたい。曲に対するこだわりや想いをもっと強くしよう。音を変えて、リズムを変えて、コードや伴奏も変えて。そのこだわりや想いが歌をうまくしていくんだろうなぁ。次のステージ実習ではそうしよう。自分の歌を歌おう。
ブレス 1.8拍吐く×10回(全ての息を吐ききる)2.4拍吐く×10回(8拍のときと同じ息を4拍でも吐ききる)長さが変わっても、とにかく息を吐ききるということ。歌のなかでもブレスの位置やテンポによって長さが変化するので、その都度吐ききるようにしていこうと思った。吐ききると、たくさんの空気が入ってくる。
歌うときに、楽譜通りの位置だけでブレスすると息が足りなくなるときは、ブレスをどこかで入れてもよいので、しっかり息を流した声を出していくことにより体を鍛えていく。
他の人への個別アドバイスを聞いていると、声はイメージで本当に変わるんだとわかった。先生はジェスチャーやたとえを使って、イメージを伝えている。または、本人のまねや、その癖をとったらどうなるか、という声の違いを示してくれる。その違いを感覚でわかった人は、すぐにその場で変わる。すぐに変わらないところは、今は気にしないで、続けていくことによって変わるのを待つ、というスタンス。人により課題はまちまちだ。できないことは課題には違いないのだが、できないことを、すぐにできるようにしようとするのでなく、感覚で変えられるところを意識して、自分の声を伸ばしていくことが大事なのだと思った。
体をリラックスさせて静かな呼吸をうなり声にする。
「体を動かすので動きやすい格好で」に対する解釈の度合いに、自分のふだんからの体への意識の持ち方がプロではない、というのが表れているのだなと思った。形や頭から入るのではなく、自分の体と向き合うということ。そこがまずトレーナーさんと意識の持ち方が違うのだと思った。足の裏といっても、指の先、指の付け根、土踏まず、甲、かかと、といろいろで、その触れ方にも、そっと触る、つかむ、包む、などの感覚を細部にまで感じ取るために、あらゆることをやってみる。
自分にとって意味のあることなら、どんなに細かくても、長くやってもいいし、意味のないこと、感覚できないこと、変化を感じられないことなら続ける必要はなくて、感覚できることからやればよいということ。「声を出すことの準備」ということを、形だけでやってないかどうか。いろんなことを今日やったけれど、この足の裏を触るというのが自分にとっては一番感覚できたことで変化を感じられた。
リラックスした体で呼吸にのせて“うなり声”を出す、というのは自分ではまったくできなかったが、Nさんの声が「どこから出ているの」という、不思議な声でびっくりした。トレーナーの声だとわかる普段の声とは違うし、胸や頭に響いているわけでもなくて、それは震動が空気を伝わっている現象のようだった。他の背中を丸めたり反ったりするような動きのときも、その動きが軟体動物のように滑らかでびっくりした。可動域よりも、動きをコントロールできるということが大事だと思った。
2人1組で、腕を持って、体を伸ばしたとき、肩が痛いので長くはやらなかったのだが、翌日、背中がすごくだるくなって困った。普段いかにその筋肉を動かしていないかということがわかった。同じようなことが、週一回通っているヨガでも起きる。こういうことはそのときだけやってもまったく意味がないので、続けていきたい。少しの動きでも、体には大きな負担になったり、逆にいい感覚になったりすることは、声にことを力で解釈しようと間違った方向にいきそうになるのを、いさめてくれるし、自分に合った方法をみつけていきたい。
体をさわったりしても別に気持ちいい感覚にはならなかった。確かにさわったあと、ちょっと変化した気はしたが、いろいろ体を動かしても、トレーナーのいう気持ちよさが感じられなかった。あと、気になったのは「あんまりやると自分の内面に向いすぎる」という言葉。外に自分を出すことの大切さをすごく感じる言葉だった。
お坊さんのイメージは真っ直ぐで真剣だった。私が注目したのは修行中の集中力はどこからくるのかということ。座禅を組んでるときとか。読経しているときの集中力。後ろから叩いてくれる人がいるから集中できるのか、環境が生み出しているのか、いろいろある私自身の経験では、自宅と図書館での集中力の違いも気になっていた。まわりに人がいるからだと簡単に考えていたけど、人がいるからだけではないと思ってきた。
みんなそれぞれ何か目的があってきている。何かわからないけど、みんなそれぞれ違うと思う。何かわからないけど集中している。何に集中している「イメージさせる」というのは、こういうことなのかもしれない。理解されなくてもいいから、とにかく集中する。何に集中しているかわからない。それぞれ違うけど、それぞれイメージしている。そういうことに集中しているときがいいときなのかもしれない。
自分自身の呼吸、間、空間。何もない静寂から、呼吸、声によって空間が動き出す。誕生する“世界観”。“坊さんの掛け合い”―まさに空気が揺れ、私の体中に響き渡った。力強く、鋭いけれど、どこか柔らかく、息の乗った声と声との運動―そこには荘厳で、宇宙空間をとりまくような、とてつもない大きなものを感じた。特に楽器の伴奏といったバックサウンドもないのに、互いの呼吸と間によって自然なリズムをつくりだす。人間の本来持つ、根本的なリズムなのだろう。何度聞いても、新鮮な衝撃を受けた。
とても取っつきにくく難しい課題だったが、こういうものに何とか食いついていくことで対応力がついたり、自分の殻を破っていくことができるのだろう。音を動かす感覚。自分たちはどうもきちんと動かそうとしてしまう。どうしても形を作ろうとしてしまう。見本はもっと自由に微妙に動かしている。効果的にずらしている。自分たちのは何か教科書どおりといった具合になってしまう。急ぎ過ぎて、きっちりと決まったコースにはめ込んでしまう。これでは聞いている方が読めてしまう。フリーテンポなのだから、文字どおりフリーにやればいいのだが、決して息が続かないわけではない。まだ使い切らないうちにあせって次に行こうとしてしまう。
スーザン・オズボーンは1つ目と2つ目の間を、これでもか、というくらいに開けている。聞いている方をじらしておいて、我慢ができなくなったところで、解放させるという感じだ。間を使って表現をしている。そして歌っている間もじっくりと時間の経過を楽しんでいる。起承転結と4つの部分から成り立っていたが、自分たちのはどの部分においても、スピード感が同じになっている。だいたいにおいて急ぎ過ぎだ。パッパッと歌ってしまっている。こっこではもっとねっとりと歌っていいはずなのに、もっとゆとりを持って音楽に浸ってじっくりと表現するという感じにする必要がある。
シャンソンについて、どうも、ためるということが苦手だ。もっともっとため込んでおいていいのに、どうしても先を急いでしまう。そこでためておかないと、時間の経過が均等になって印象というものが消えてしまう。その次にあった音を切って時間を止めるという部分もそうだが、そういうところをもっとしっかり強調して、聞き手に示していかないと、何も残せないということになってしまう。もっと時間やスピードの感覚の変化をはっきりとわかるように提示していく必要がある。
曲の全体、先をしっかりと見ながら歌うこと。それはフレーズの構成、展開、フレーズをつなげるのにも大きく関わってくることだ。先が見えているなら、そのためにセーブするのは全然かまわないといわれ、やってみたが難しい。4段くらいの強さのクレッシェンドがあって、といっても、フレーズのなかでクレッシェンドをしているわけではなく、1つ1つのフレーズがmf→f→fffという展開を見せていた。
音量を大きくするだけなら簡単だが、気持ちを伴わないと聞き苦しくなる。気持ちをどんどん大きくしたいが、イメージがなかなかできない。
歌詞を見なくても音楽を聞いてそこから気持ちを込める材料を取り出せないだろうか。多分取り出せるはず。それができないのは取り出そうとしていないか、取り出し方を知らないだけ。音楽にもっと集中すること。最近、その集中力が低下しているように思う。しっかり曲に入りこまないとできないのはあたりまえ。全力になって飛び込む。常に自分がどういう状態にあって、どういう状態にあるべきなのかをわかってなきゃ上達できない。もっと努力が必要。
最近のレッスンは、体に無理な力を入れないこと、本来の自然な呼吸を取り出すことをやってくれて感謝です。トレーニング段階で、体を使って息を吐くことは体ができていくために必要だけど、最終的な方向は体に力を入れるというよりも、もっとリラックスした状態。力のことは考えない。今の段階でも力を入れることが正しく行われていればいいのかもしれないが、私の場合はどうもそうじゃない。変に力が入り、息の流れも止まっているかのよう。一言でいえば反自然的。声出してても、歌ってても、気持ちよくない。どっかにつっかかっている感覚。息を流すのが目的のはずが、力を入れるせいで、体に息を押しつけちゃっている。結局は。
今日は、体のことは何も考えないで、弱い声を出してみることをやった。弱くても前へ前へ。この前へっていう意識もいつもは体に力が入っている。みぞおちらへんの、かなり上の方だから絶対違う。息を前へ届け続ける感覚ならリラックスしてできる。声を少し強くしたいときは、息にスピード(勢い)をつける。直接的じゃなく、いつもの凝縮点に引き込まれる感覚でやったらいいかもしれない。この何の作為もなく弱く声を出しているときの体の感覚は、体の深いところまでしっかりと開けている感じ。出た声も、一見弱いけど、深さとか濃さの可能性が見えた気がした。すべては呼吸を中心に動いているというのも気づいた。
声も体も。それ次第に動く。だいたい呼吸を前に流し続ける中で、ことばやフレーズがいえてしまうのには驚いた。呼吸はひとつに流しておけばよい。ことばごとに息がストップするような感覚が気持ち悪かったわけだ。ブレスとかで途切れるにしても、感覚としては流れ続け、まわり続けている。そして、それと体の動きが一致するとマジックが起きる。マジックというかこれぞ本来、というほどの一致よう。音程の処理も息を流す中でできることに気づき、驚いた。呼吸より音程を取りにいくと、不自然に思えた。リズムも同じ。全ては呼吸が先だし、呼吸のなかでやるイメージ。
曲。フレーズ。構成を考える。なぜ、やさしくソフトに置いたり、強く出したり、音色を変えているのかを考える。すべての音を全力でやるのではない。(集中力は全力だと思うが。)聞かせるところを聞かすには、それなりの構成が必要である。どこでどう見せるか。自分が伝えたいこと、その曲(既存の曲)でも最も伝えたいことは何かをよく考え、そこにピークを持ってくるようにする。しかし、ピーク(自分がイメージする)をつくるには、それに見合うだけの声や体のパワーが必要。だから毎日、それに見合うだけのトレーニングをする。結局、声や表現に関しては、この繰り返しなのではないか。たくさんの音色や声の表情をつくるのは、息の調整が自由になることが大切。それを支えるのは体の力。
決まっているルールのなかでのフレーズの動かし方。どう動かすか。自分は一体どういう感じ、どう伝えたいのか。それをもっと練り込む必要がある。イメージをふくらませて、それに近い声や表現を使う。自分のベストの表現を見つけるのに、いろんなアプローチ、方法を考える。それが創造する、オリジナリティのスタートである。やはり、そのときに必要なのが、いろんな引出で、それが少ないと、同じものばかりできてしまい、単調になってしまう。そのために、たくさんの曲を体に覚え込ませないといけない。まずはイメージを伸ばす。大きくする。ささいなものからも大きく感じる。そういう神経を鍛えていかないといけない、人の聞けない自分だけの「音」にも気づき、表現していきたい。
「感覚の世界はね、死にもの狂いでやらないとわからないよ」とトレーナーがいっていたが、ほんとに音の世界とは、なんっっっってデリケートな世界だろうか。確かに、体のことの方がよほどわかりやすい。動かしてはいけないところは、伴奏と合せてある。聞いてもわからなかった。聞くしかないのだ。わかるまで。
ベースの声について。ある程度、とれているときは、下に押しつけるのではなく、入ったと思ったら離していく。何回も繰り返すと、雑然としていろいろ混ざってしまう。集中して声をひとつにまとめ、のどにひっかからず、口先で操作せず、じゃまなものを省いた統一された声の感覚を覚えていくこと。練習のなかで、言葉や音程を変えると統一できないときは。元に戻してみて、正しい感覚でやり直す。
歌にしたときの設定について。キーの設定や選曲のときに、自分のマイナスの要因が拡大されてしまうような選択をしてしまう傾向が強い。自分のよいところを出し、マイナス面はカットしていく整理能力の違いが④クラスの人との大きな違いとなってしまう。特にキーについては、高音で破綻した声になってしまうことが続いているので、よく考えること。ベースの声を歌にどう使っていくかの結びつけが自分のなかで弱いため、なんとなく、の感覚でいい加減にしてしまうので、ベースの声も生かされず、音程に振り回されてしまう。他の③の人を見て感じることは間違っていないが、そのことを自分にあてはめていくことが、まだできていない。
歌にしたときの音域をどう処理していくか。半オクターブできちんと声を動かせるようになること。→1オクターブもなんとかこなせるようになる。その1オクターブが「歌」の基本となる。その1オクターブを崩さず、低音と高音はそこで勝負するのではなく、マイナスの要素を消すために、どういう処理のしかたがあるかを考える。たとえば、低音は音程をきっちりとろうとするのではなく、語るように処理する方法もあるし、高音は声楽的な処理のしかた(ファルセット)を使うことも考えられる。
低音、高音も地声できっちり音程をとろうとしているので、かなり無理が生じていて、その歪みが、曲全体を駄目にしてしまっているので、その発想の転換が必要。音域が広くない曲でベースの声を生かして1曲ものにすることが当面の目標。そのことで理解が変わるはず。
体の底から息を吐く、流す。余分な力、特にあご等にかからないようにする。今日の課題の曲は比較的息の流れが読みやすいように感じられた。それをどうやって自分のなかで表現できるかが、やはり難しい。息で歌っているとか、支えているのが最近、曲を聞いていると少しずつわかるようになってきた。「声」になるとは「息」が入っているかどうかにかかっているといっても過言ではない。逆に「息」の入っていない「声」は声であっても声ではなく、まして歌として表現するには不足してしまう。「伝えたい」と本気で思ったら、体の底から声や息が出る。それは本気だし、ある意味で無意識になっているからだろう。
私たちは「歌」となると、つい「歌う」ことを考えて、頭が先にきて、体や神経や精神(気持ち)を悪い意味でコントロールしてしまっている。そのため、変なクセがついたり、のどを痛めたりしてしまうのだろう。また、曲の表面の音色だけをまねしてみても悪いクセがつくだけになってしまう。これは今までの自分にも当てはまる。
表面だけでやろうとすると、どうしても顔やあごで音を加工してしまいがちになる。本当の声(その人にとって)を出している人の声を表面でやることは、自分たちにとっては悪い方向に向わせてしまい、自分のベストの声を探せなくなってしまう。また勘違いして、それが自分のベストだと思い込んでしまう可能性がある。人はそれぞれ顔が違うようにベストの声も違う。なんせ全てが違うんだから。だからみんなにプロになる可能性があるんだと思う。
単純な歌詞で間の大きい歌は、歌詞をのばして歌うことで表現してしまいがちである。“sing”の出だしの部分は特にそうである。カレン・カーペンターは言葉をポンと置いているだけなのに、間がきちんと持っている。それはリズムにのれているから。テンションがあるから。でも私達は間を持たせることができないので、どうしても語尾が間延びしてしてしまっている。始めから歌ってしまうと、サビの部分での盛り上りまでもたなくなってしまう。バックの伴奏がアカペラで歌っていても聞こえてくる感じを出すようにする。それにはリズムをきちんととること。ノリを出すということが必要である。
歌詞やメロディばかりを追っていると、それがでてこない。バックの音1つ1つをコピーできるくらい聞きこむこと。曲の構成をきちんと聞き取って、それを歌に出すこと。声量を大きくしたり、小さくしたりして、表現するのが歌ではない。音全体にヴォリュームをつけていくこと。歌の最高潮の部分を聞き手に感じさせなくてはいけない。最高潮を出さないと、次に続かない。最高潮を出すよくなくは助走が大切。踏み込む場所もきちんと聞き取れなくてはいけない。
気持ちは常に前に出ていること。そうすることによって自然と声も前に出てくる。自分が感じたことをパッと出せるようにすること。発音にも注意すること。日本語は母音5つで成り立っているので、その感覚で英語を聞いていると間違った発音になってしまう。Sing a songの「a」とsing outの「o」は同じ「ア」の発音ではない、ということを何回も聞いてわかるようにすること。同じ「ア」で発音してしまうと、歌自体もいい加減に聞こえてしまう。
歌詞をことばでまわした。ことばに感情を入れるみたいなことは、前よりできるようになったと思うが、主によくない原因は、1.はみ出してしまい、音として成り立たない。深さにもっていけない。2.出だしや踏み込む点が遅れている。それが、自分の呼吸でやれていれば、そうは思わないんだろうけど、自分の呼吸とはズレている。いつも少し追いついていない。呼吸が遅れるから、声はさらにズレる感じ。だけど今日一回だけやれてしまったときがあった。(自分ではそう思った)本当に何のムリもムダもなく出た感じ。正しい道はこれ一本なんだ、というくらいの道を通った気がする。体の抵抗は特になく、すんなりと出た感じ。自分の声(ことば)が空間を「つかめた」感じ。録音で聞いたわけじゃないけど、自分の感覚としては疑うところがなかったと思う。
まだ、甘いだけかもしれないけど。後から振り返ると、呼吸は予想以上に早く準備していなければならないこと。体の深いところを意識した。今日は表現に集中できたのもよかった。その分リラックスでき、ムダな力が抜けた分、重心が低く保て、深い声(息)が出たと思う。フレーズを出している最中に今できている、できてないを意識したら、全ておじゃんになったところだろう。
今日体験したのが体の原理に沿った正しい道だったら、いつもいかにそれていたことか。プロはこの原理を自在に呼び出せるのか。きっと本物とはそういうところでやっている。原理に沿えば最小にして最大のことができる。自分はムリな力が入り、可能性を閉ざしてしまっていたと思う。今日体験できた、あの感覚にどんどん出会えるようになるため、数をやるしかない。
ハイ、ラオ、ララ等で、息や声をつかむイメージを明確にする。そのときに状態をよくしていないと、「べた・べた・べた」となってしまう。もう少し、イメージを強く、集中して、息のつかむところを意識する。<深いところから出て、深いところでつかむ。言葉に左右されない。>直線で捉えないで、ローリングしていく感覚。ローリングしているところを息でつかむ。深い息で「ハイ」「ラオ」「ララ」を同じ深いところから出す。息で。つかむところ。ハイ。ラオ。ララ。
まったく体や感覚が動いていない。もっと自分を壊してもいいと思う。自分のなかに蓄積された感覚や動きを捨てて、素直になる必要がある。また、肉体的なことでも、もっと体をほぐしていないと、いくら自分を壊していてもバツ。よく先生がおっしゃるが「歌おうとするな」正にこれが当てはまる。歌おうとして、響きできれいにまとめたり、音程をとることに必死になったり。音楽を体のなかに入れておくこと。まだその音楽が入っている状態と入っていない状態がわからない。
レッスンで音楽、声をステレオで聞いても「おお違うな」「お、プロだな」とか「深くて太い音色だぁ」とか、その程度しか聞けていない。プロのフレーズのなかに音楽を聞けていない。聞けていないということは、1.聞き込みが足らない、耳ができていない、というのと、2.自分に音楽が入っていない、ということがわかる。
グループレッスンのなかで感じたが、やはりどれだけシンプルに、自然に、わかりやすく出せるのか。それに尽きるように思える。声量や音域、武器にはなるけどシンプルでなければ、よりシンプルなものに負けてしまう。声楽なんかあまりにも技巧的に聞こえるものが多いために、なかなか受け入れがたいものがあるのだと思う。もちろん声楽であってもシンプルなものは本物、生で聞くと若者も心を動かされたりするのだと思う。シンプルに出せるようになるためには、今は複雑なものをシンプルにとらえられるようになるまで、やっていくしかない。シンプル イズ ベスト。
母音の扱いで、基本形としてOの口の形をとる。そして、そのままの形でA、U、Iと発声する。のどの開き具合はAが最も大きく、O、Uと続く。Iは口のなかは狭くなるが、響きが鼻腔に抜けやすいので、響きが下がってこもった感じになるときの調整によい。このようにすると日本語のア、ウではなく、オとの中間音的な声になる。息がしっかり伴った声であれば、不自然ではなく音楽的だ。
音程によっても、このことを使ってやる。高い音になればAにしていく、低い音はUにしてやる。これによって無理なく発声でき、たとえば詞がOだとしても、変に聞こえない。これをやってみると、口の奥の方が開いているような感触があった。割に音程や言葉に左右されず常にという感じで。そのまま、口の奥から後の方へ響きが向いてしまうことが特にAで起こる。それは、前の方へ鼻腔へ向いた方がいいのだろう。
『呼吸・イメージを大きく扱う感覚と小さく扱う感覚』呼吸。声をコントロールするということ。大きく扱う感覚と小さく扱う感覚。どちらか一方に偏っても、不安定になる。両者のバランスも測っていくことが重要。今の私にはどちらかというと声を小さく、繊細に扱っていくイメージや体が、感覚が足りない。もっとスケール大きく声をとっていきたい。体と息と声を純粋に結びつけていきたい。
もっと甘く切なくささやけるように、もっとうねるように表現したい。できるようになりたい。響きと言葉のコントロール。トレーニングや基本を身につけていく中では、響きに逃げないこと。とにかく、気を入れていくということ。技術のない私がいうのも甚だしいけれども、あまり技術がありすぎて、それに安住してしまっても駄目だ。あまり感動しない。好みの問題か。そうじゃないような気がする。流行の問題か。
技術や経験でいえば、上はごまん、いやそれ以上いる。彼らの歌が心を動かせるともいい切れない。余程J-POPの10代~20代の女性アーティストのほうが元気を与えてくれる。最近、男性アーティストよりも女性の方が顕著に表に出てきている。何も音楽に限ったことでなく、ビジネスの世界でも、女性の取締役や重役が増えつつある。もっと強くなりたい。1に考えて、9の行動。
テンションも必要。ブレス重要、緊張するとブレスを忘れがち。ブレスがうまくいかなければ、息が伴わないので喉声になってしまう。前に前に、余計なところに触れずに。まだ鼻にかかる。もっとしなやかに、強く、柔らかく。「今の声は“表現”できる声か」常に、そこを基準にしていく。グループレッスンでは、そのことを強く感じさせられる。
トレーナーの声は、ときに胸に心地よく、突き刺さるようなほど鋭いときもある。透明感もあるし、「プロの声かぁ~」とため息が出る。でも、このレッスンでは本気で声を出していないだろうから、ステージに立ったときの先生の声はと期待が湧く。
結局、MCも日常の人間性の延長上である。ただステージの上だけでも、ハイテンションになる。オーラを出すこと。練習メニューは、もらった用紙に確認していく。ジグザグ視線とか重要。今日のような内容、日本のタレントたちで確認しているみる。素人がテレビに出たときとの違い。
今まで自分が歌で表現するために、息、息、息、声、声、声って体づくりとか、感覚を身につけようとか、それだけにしか目を向けていなかったけど、そのこと以前に「私」のこと、「私」という人間の存在を演出して、表現できなかったら、誰も見てくれないんだよな、と感じさせられた。手で話し、目で話し、動きで話し、自分の空間を創り出す。それが自然と行われているだけで、つい目が向いてしまう。そこに言葉とかノリ、豊かな表情が入ると、全然つまらない話だって何か聞き入ってしまう。(徹夜で原稿を考えて、すごいよい内容の文章だって、無表情で直立不動でガーガー演説をがんばっちゃっている選挙の人とかが、ただの騒音になっているのも納得できた)
自分で基本姿勢を踏まえて、やってみたけど、カッチンコッチンでロボットみたいになってしまった。自然な動きとは、ほど遠いぎこちない動きになっていたけど、両手をふっと広げる、相手の目を見る、空間を動いてみる、それだけでも返ってくるまわりの反応が全然違う、ということは体感できた。まずは「人に見られる」とか「自分の存在を見てもらう」というそういう意識を持っていこうと思う。そのために自分の「自己表現」というものを、もっと研究したいと思った。今日の「自己表現」のレッスンは、自分にとってとてもよい「きっかけ」がつくれたと思う。次回の続編があるなら、また参加したい。
リズムの感覚で、円環的な動きをとる。それを仮定してみると、リズムの滑らかさ、音の流れ、体の力みにまで影響があった。力んで、ガツガツと直線的に音をとっていると力任せになって一つのつながりに聞こえないだろう。円をイメージすると、音の強弱、踏み込みも、その上下の動きから自然に出てくる。視覚的に表すと、このような円をイメージする。たとえば、円の下=体の深いところで入ってくる音は、ぐいっと持ち上がってくる動きが自然に出る。この円の回転に言葉が巻き込まれていく感じをイメージする。ステージ実習のコメントで、空間を意識せよ、というような言葉をいただいたが、この円運動(球運動)の空間感覚も関係しているんだろうか。
「ハイ」や「ラオ」のメニューに対して、マンネリ化して、いい加減になっていた。胸にちょっと、響きが確認できれば、それでウォーミングアップOKとしていた。今回のレッスンでは、この一見、単純で地味なメニューの深さ、というより、このシンプルなメニューのなかからどれだけ多くのことを、深い感覚を感じることができるのか。またはどれだけ体を合理的、かつ思い切り使い込んでいけるか。
トレーナーは、これが直接、表現に結びつくとは断定しないけど、と一言添えていらっしゃったが、私は現在歌ったときの、無理や不自然さ、“1フレーズのなかでのイイ加減さ”は、この2音の音声のなかのイイ加減さから原因がある。「伸び悩んだら基本へ立ち返れ」と頭ではインプットしたつもりが、実際、トレーニングをやり始めると忘れてしまっている。これからの永遠の課題でもある。
シンプルなメニューから、どれだけ自分の血や肉とを得ていくか。もっと深く深く、体とコミュニケーションしよう。そして、よい加減(=イイ加減)=バランスをとっていきたい。器用に歌い上げてしまわない。こなすようになってきたら、マンネリを感じたら、新しい刺激もとりくむし、基本をもっと掘り下げていこう。トレーニングのなかでも、常に創造していくこと。創り、出していくこと。商品であり、表現できる者でありたい。道のりは果てしない。「心は熱く、頭は冷静に」、「継続は力なり」。
声楽は、予想以上に気持ち悪かったが、声で表現するというところでは、どの音楽も同じであるはずだから、そこの表現の部分を聞かなくてはならない。今日やったこと。3音程間の上降下降。聞いたまま取り出す。こんな流れのなかにどこが強まって、動いているか。自分のフレーズにもっていこうとするか、どれだけテンションが入っているか。
人間は楽器になれるんだなと思った。3番目くらいに「フィガロー」と歌っていた男性は四角いえんとつみたいで何だか管楽器みたいだった。こんな風に、いろいろな声をまとめて聞くと、声を楽しむことのおもしろさがわかってくる感じがする。
オペラは、ずっと理解できなくて、私にとっては子守り歌でしかなかったけれど、何年か前にミラノでオペラを観たとき、生の声の素晴らしさに圧倒されて、オペラの魅力を初めて知ることができた。それに、あのようなオペラのために作られたような劇場で、いつでも身近に生の声を楽しめる環境があるなんて、なんて羨ましいと思った。日本ではびっくりするような値段なので、なかなか足を運ぶ気になれないけれど、(ヨーロッパでも共産圏では、コーヒー一杯くらいの値段で、感動の舞台とかが観られるらしい)身近に生の音楽があふれていたら感覚も鋭くなるだろうと思った。
映像でも(名前を忘れましたが、白髪の人が)いっていましたが、子供のころから、家庭のなかに音楽があって、歌うことがあたりまえだった。環境はとても大切だということ。私は子供のころ、そのような環境になかったし、自分で目覚めることもなかったので、頭も体に固くなってしまった。こんな年になって、こんなに大変な思いをすることになってしまって、もっと若いうちにBVとかに出会っていたら、たくさんのことを吸収できて、人生観も人生も変わっていたかな~と少し残念に思います。今ここにきている若い方たちには、こんなにたくさんのことを与えてくれる場を無駄にしないで、といいたいデス。(私自身にもですが)
同じ高さの音が、2回以上続く場合は、その1音1音を再び、ていねいにアタックするということ。今までは「ソーソーソー」とそのまま。流されるままに扱っていた。そのため、音が死んでしまった。今日いわれて、その後の方が、声や音が立つというか、はっきりしたと思う。
まず、白板に書かれた2つのこと。『1.息を吐き切る。2.体を使い切る』呼吸。吐き切る。使い切る。「la vita mia」「legat e ate」を各々一つに捉えて息を吐き切る、体を使い切る。わからない。感じない。音楽を呼吸にのせる。わからないからこそ頭で考えてしまう。けれども体を使って、あれこれやってみないとわからない。それが結論。こんなにスケールの大きな歌。フレーズを出していくのはとてもきつかった。
このレッスン後、駅から家まで鼻歌でも歌うようにやってみたら、実はこっちの方があんがい余計な力がなくて、イメージで勝負できたりする。レッスン中、いつ思うのだけれど、体がカタいのだ。緊張しているのか、考え過ぎて、体が動かなくなってしまっているのか。
このように同じ曲を聞いているのに、何通りもの表現が出てくるのは興味がある。同じ曲を聞いているとは思えない。これがグループレッスンの醍醐味であるのだろう。自分一人でやっていたら出会わなかったアプローチや声の使い方やリズムの感じ方をしている。学ぶべきことや盗むべきもの、逆にやってはいけないことなど、たくさんの宝がごろごろと転がっているようだ。
もっとネタ(アプローチの方法)を作らないといけない。1つの正しい答えを出すためにいくつものネタを出し、それを取捨選択し、よりよいものをつくり上げていかなければいけない。声の出し方や扱い方、置き方も幾通りも考えてみたい。しかし、それが音楽として成り立つかが問題である。まず音楽になる。音楽として成り立つとは一体どういうことなのだろう。そこのベースになっているものは何だろうか。必ずどの歌い手にも存在しているのだろう。それをもう少し時間をかけて、見つけていきたい。
偏ったものばかりでなく、好き嫌いにこだわらず、聞いていきたい。かえって嫌いなもの、興味のないものの方が、自分の色眼鏡がとれていいのかもしれない。毎月ごとに課題曲があるが、そこから盗めるもの。気づくためのヒントがたくさんあるに違いない。声だけではなく、感覚やイメージに、もう少し重点を置き、視点を広げ、発明家のようにたくさんの失敗を重ね、1つの正しい答えに辿り着けるように研究を重ねていきたいです。だから、ここは「研究所」なんですね。
どんなフレーズができ上がるかは、入り方で決まってくる。入り方で転ぶとあとが続かない。「心奪われて」の「こ」の入り方で、後ろにどのような波がくるかを予感させる。「て」の反動で次の「妖しくも」に入りこむ。次の「身を投げる」で気を抜かない。「る」まで息を流し続ける。神経をいき届かせる。メリハリを出すためには息の流れに声がのっていないとよくない。息の流れにのっているフレーズは行くべき方向に導かれているように感じる。やわらかな波のなかに力強さをもっているフレーズ。しっかりとした土台がないとなかなか出せないものだ。
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5秒ずつやることの意味がつかめた。息をハイたりスッたりすることに夢中になっていると同じ5秒でもやる度にまったく長さが違って感じる。体のなかに長さの感覚を入れること。
頭が働く。頭で聞く。頭で出す。だから音程とるだけだったり、なんとなく雰囲気の外枠だけとってみてたりする。“それでは表現にならないんだ。体と心で音楽をとらえるんだ”と、また、私の頭が働く。頭では納得したって、体の“感覚”は何一つ変わらない。まさに頭でっかち。邪魔だ、邪魔だ、とまたもや頭が考えている。
声になるところで出すと、ひっかかりがあるのは、筋肉を鍛えてないからだといわれたが、たしかに、お腹にしろ、のどの筋肉にしろ、今まで使っていたところを使っていたのでは、今までと同じ声しか出ない。今までと違う声が欲しいと思うなら、違う筋肉を使って鍛えていかなくては、声は変わらないのだと、実感した。
息吐き、発声→トレーニング不足を感じた。毎日息吐きをしているけど、全然足りないと思った。すぐに全てができるようになるとは思わないけれど、均等に息を吐くこととか、体を使っているとか、そういうことをもっと自分で自覚できるようになっていてもいいのに、まだ、体との運動をあまり自覚できないし、すぐに疲れてしまう。体力も不足している。高い音域に行くと、体よりよりものどを使ってしまう。体に意識がいかなくなってしまう。太くなっていくというイメージが持てない。
テンションを上げられない自分にもどかしさと怒りを感じる。先生のいっていることは頭ではすごくよくわかるのに、体や声で表現できない。なぜだろう。たぶん恥を捨てきれてないことも原因の1つだと思う。演奏している人はきっと楽しくて気持ちよくてしょうがないはずなのに、私は練習していて、ちっとも気持ちいいと感じられなかった。誰も近寄れない雰囲気なんてきっとちょっとも出ていない。人に話しかけられれば、きっとすぐに反応できてしまうくらいのテンションでやっているのだと思う。どこでもすぐに、そのテンションになれるようにしたい。
発声や息吐きをしているときの方がよほど、そういうオーラが出ていると先生はいってたけど、私もまったく同感。歌いたくてしょうがないないはずなのに、その気持ちが前に出ない。何が邪魔しているのだろう。きっといろいろ考えて、ああしなきゃ、こうしなきゃと考えてしまって頭でっかちになっているから、いけないのだろう。何も考えずにパッと自分の感じたままに出せれば、その方がきっとまだマシなんだと思う。私はいろんなものを外していかなければならない。
曲の構成を聞けているつもりでも、いざ歌ってみるとすごく単調になってしまう。すべての語尾が間延びしてしまって退屈に感じられる。そして気持ちが全然前に出ていないと思う。ただメロディを聞いて表面をとっているだけ。希望の歌なのに悲しく聞こえると先生にいわれたけど、そんなこと気にせずにただ歌った。希望の歌でも悲しみの歌でも私の心、体の状態は同じだった。それじゃいけないと思う。希望の歌なんだと聞き手にわかるようになりたい。サビの部分は一番盛り上らなくてはいけないところで盛り上げられないというか、そこまでもたない。息が続かない。変なところでブレスしても、そこでテンションが落っこちてしまうように感じる。
“long”を最高潮にしたいのだけれど、“whole”で使い切ってしまって、“long”を流してしまっているように感じる。“long”を最高潮にするには、そこまでの助走をていねいに、踏み込むところはきちんと踏み込んで歌わなければならないのだけれど、“long”や“whole”に意識を持っていきすぎて、助走の部分がいい加減になってしまう。助走がいい加減になると、きっと最高潮の部分も、きちんと歌えない状態になってしまうのだと思う。1つずつきちんと音、リズム、呼吸、テンションなど、ていねいに何度も何度も繰り返し聞いて、練習しようと思う。
各先生方の、一言一言を大切にしながら、自分を表現するための糧にしていこう。表現を大きくしていくこと。声量を大きくしていくのとはまた別の感覚。どれだけ等身大の自分を大きく取り出して効率よく、人の胸に置いていけるか、歌だけではなく何でもそうだが、自然な自分を自信の持てるものにして、勝負することが最も人を惹きつけられるように思う。
ボディーランゲージ。これもTVから探っていく。江頭2:50というタレントのあの手の動き。説得するというのに有効な手。また、視線を集めるための動作。ただ歌とジェスチャー、ふりを混ぜるときは注意が必要。ふりが表現のじゃまをしかねない。必要以上のふりはつけない。ギリギリの線を見ていくセンスが必要。私のように声にもリズムにもパワーがない人間が、早くステージにたつにはテンションという武器が必要。ただ、こっちに寄りかかっても「タレント歌手」になってしまう。難しい問題だ。バランス感覚が必要。
レッスン後、「音の動きをとるってどーゆーこと」とか考えてしまったが、昔トレーナーに「何でも同じこと」という言葉を思い出して、「結局は、流れてきた音楽をそのままコピーする」というところに行き着いた。「そのときにプロとして、音程やら、歌いまわしやら、リズムやら、発音やら狂っていることが気づかない感覚ではいけない」とゆーこと。
「前よりもよくなっている。耳が使えるようになったネ」といわれた。練習の結果ってこういう形で出てきたっていう、あたりまえのことが、よい自信になった。
もっと息を大切に感じよう。使ってみよう。むやみに響かせたり、声量を意図的に大きくしすぎたりすることは、聞く側にとって不快であることに気づいた。となると、自分の呼吸をしっかり動かしてそのなかでイメージや感覚によって操るしかない。もっと表現のための体や息、声にしていきたい。もっと呼吸や息を大きく感じなければ、小さく繊細な感じも表せない。レッスンではその度に、それまでの自分を破壊してみること。もっと体の感覚やイメージに従順になってもいいくらいに。体力が足りない。強さがない。だから優しくもできない。
おすすめ
「真夏の夜のジャズ」という1958年のモントレージャズフェステバルの記録映画がある。アニタ・オディが「イイイイィ~」って私らの苦しそうな発声練習みたいな歌詞を心地よい共鳴で見事に遊んでいる。とりカゴみたいなスタンド・マイクがおしゃれ。とり急ぎは“母音”だ。母音がうまくいけば、子音はオマケか。そのほかにも貫禄のルイ・アームストロングや、巨体を白のビラビラのレースのワンピースとリボンにおおったビッグ・メイベル・スミスのとびきり笑顔としゃがれ声。アメリカの映像は客席も絵のひとつとしてバンバン写すけどまた客席がオシャレ。
公開当時の日本では、そのファッション性をやたらクローズアップして宣伝してたみたいだ。きっとアメリカがいちばん輝いていた時代だ。音楽センス以前の体からの声として、ここの目的であるところの“声”そのものも随所にちりばめられている。
特筆すべきはトリを勤めたマへリア・ジャクソンで、ふだんクラブなどには絶対出ない、ゴスペルシンガーだったから、派手な場はめったになかっただろう。そんな彼女の姿勢、ポリシー、清廉さは画面からも伝わってきた。けど若者も、家族づれも大いに盛り上がっていた。荘厳な曲ではいたって神妙に聞きほれていた。音楽に対する許容範囲がすごく広い。このマヘリアの“ばーん”って前にたたきつけ放つ感覚、入った頃まるで持ち合わせてなかった感覚。