一流になるための真のヴォイストレーニング

福島英とブレスヴォイストレーニング研究所のレッスンアンソロジー

レクチャー1 【京都「とりくみ」☆3996】19403字 1212

 

レクチャー1       1212

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【京都「とりくみ」☆3996】

 息を吐くトレーニングというのは、もっと基礎的なことです。

歌い手の場合、3分間歌いっぱなしということはありませんが、それをもたせる体力は必要だと思ってください。

 

ヴォイストレーニングというのにも、いろいろなやり方があります。

最近は早く見切りすぎるようで、あまりよいことではありません。指導の方法とかやっていることは、そう簡単にわからないでしょう。すぐわかるくらいなら、大して変わらないです。 

 楽器をつくるということは、誰でも、すぐにできるわけではありません。ダンスやスポーツの世界と同じです。よく半年や1年で効果が現れないという人に、こんな息では歌えないといっています。3年経って始めて、他の人間が大半辞めるところからようやく差ができてくる世界だと思ってください。
 そんなに簡単に身体という楽器ができるはずがないのです。続けて、やってください。いろいろな人のいろいろなやり方があってよいと思います。
 

 

 演奏のことですが、これは聞いていくしかありません。やり方は2つしかないのです。

1つは一流の人や本物をきちんとみて、それが深く聞けるようになるということです。

次にその体を読みこんで体現できるようになるということです。これは2、3年では無理です。2、3年でできることというのは、自分と体が同じくらいの人の歌い方とか、カラオケとかでちょっとうまく歌える人くらいのことです。


 それで秀でた人というのは、声については、生まれつき、声帯、喉頭など楽器の部分が、特別なトレーニングをしないで、うまく鍛えられた人です。それをそのままでよしとするので、上達が止まってしまうのです。これに合わせていこうとするのは、調整にしかならないのです。
 

もともとトレーニングもしていない、体の原理にもあっていないところで、できた人を、たとえば高いところが出るとか、「イ」とか「ウ」が簡単に出るとか、そういう場合、それを他の人がまねていっても、同じレベルになれることは、ありません。

それはその人がもともと持っていた体のもつ特殊性です。それが楽器としてすぐれているというならば、生まれつき、多くは育ちのプロセスでの差ということです。

 


 クラシックの場合は、それも優秀な素質ということになりますが、ポップスの場合はそうではありません。ポップであること、今の時代や将来を先どって生きていることが問われるのです。
 それを最初に考えて、そのイメージを声で表現できるようにしていくことです。

それをレッスンで補充していくことなのです。

 ステージをできるだけ見て欲しいということです。借りられるものは、すべて借りて勉強しておくことです。

ここでおすすめしているものは、わかりやすいものを中心にしています。まずは、人間の一人の力が声や歌や音声表現の力がどれだけ大きいかを知ってください。

 

今のあなたの体ではわからないかもしれませんが、でも人間のなかにはそういう声を使える人がいて、それでいろいろなものをつくってきたのです。そういう豊かなイメージを持っていない限り、自分の体みたいに、後でどうなるかわからないものを、予知して直感的に勉強していくということはできないのです。
 

 

レーニングというものは誰でもできるのですが、それですぐれていくということは、自分の基準が厳しくなっていかなければいけないのです。ということは、先がみえていないといけないわけです。スポーツでもそうでしょうが、一流のレベルになると、精神的なものになるにつれ、自分なりの理論づけが必要になってきます。


 ここの理論を勉強するということではないのです。しかし、それなりに理屈をつけているのは、何であれ、誰かの理屈をもとにして、自分の理屈ができるようにするとよいのです。

それがなければ判断の基準というものはないわけです。そういうことがある程度、短い期間で、できた人は、ある意味では、こういう世界で頭がよいということです。

たくさん覚えられるとか、たくさんしゃべれるとかいうことではなく、そのことを体で体現できていかなくてはいけない世界です。
 

初めてピアフとかの歌をみてもおもしろくないと思います。おもしろくなくとも、そういう人が死後、何十年経っても、国民から慕われ、トリビュートが出るくらいの影響を残している、そうしたらそういうものは何なのかということをみておくのです。

 


 今、流行していて聞きたいものは聞いているものでよいのです。それは来年はさらにその10分の1しか残らない。その次の年には10分の1しか残らないし、10年経ったらほとんど1つか2つしか残っていないわけです。

そしたら、20年、30年経っても残っているもの、今の時代にはふさわしくないかもしれないけれど、何らか人間が残そうとしたものを学ぶことです。

人の心に残っていくわけですから、そこに人を動かす一番基本的な要素が入っているわけです。
 

今のものを聞くなとはいいません。今、カンツォーネを紹介しようと思っているわけではありません。ただ、そういうものから基本をきちんと勉強して、今の感覚で生きていたら、確かな力になるということです。

この古い曲、おもしろいなとか、この人の声の出し方おもしろいとか、もし感ずるところがあったならば、それはあなただけの見つけたものだから、そのまま武器になるということです。
 今にみんなが生きていているわけですから、昔のことをやろうというのではありません。昔のことはその時代を生きた人にかないません。同じ時代を同じ空気のなかで生きているわけですから、それだけ豊かに、その曲とか、その言葉の背景に持っているものがあるからです。
 

自分の生まれたころの曲とか、生まれる前の名曲を自分のレパートリーにしようとは思わなくてもよいのです。ただ、そこに心が打たれるものがあったら、それを自分の声とか感覚を通して新たに蘇らせるということはできるのです。学びたいならそういうことをやっていくことです。
 ここにいる期間くらいは、嫌いなものとか、あんまりみてもわからないものに接しておくというのは、もっとも有意義なことです。新たに得ようとするなら、そういうところしか、人と大きな差をつける要因にはならないものだからです。


 合宿に一般の人がきていました。ある歌手にそっくりの歌い方をしていて、それはその人のなかではよいけれど、業界においては何ら価値のあるものとして認められない。そんなそっくりさんは何千人といます。それが目標であれば、自分の活動はできない、自分の表現はできないということです。でも、それが目標なら、とてもわかりやすく、ヴォイストレーニングも短期に効果をあげ、終わるでしょう。


 自由曲を選ぶのは難しいものです。自分の好きな歌を歌ってみても、客にはどうでもよいことなのです。自分が勝負できる曲を見つけてこなければいけません。

歌がよいとか曲がよいということも前提かもしれませんが、好きな曲というのが勉強しにくいというのは、好きだから自分が聞いたときの価値でもっている気になってしまうからです。
 

それは自分の価値ではなくて、聞いていて気持ちよい、そのアーティストがかっこよいというような他人の価値です。それを全部移し変えてどんなに得意にやっても、やれているつもりになっても、それは自分が出しているものではないのです。

そのバックにあるものが出しているのです。そこを間違いないようにした方がよいということです。

聞く人は、そのアーティストのファンでなくてはつまらないし、ファンも本当は聞きたくないでしょう。
 

 

逆にいうと、みんなが聞いたこともないような演歌でも心を打たれたと、それを自分のものとしてとり出せたとしたら、それは演歌をものにしたのではなくて、歌を知ったことになります。

自分が価値をどう取り出して、自分の体でどう表現するかということを、ひとつのパターンとして覚えたということです。その方がよほど大切です。

最終的に自分の世界をどう創っていくかということなのです。

 声が大してないようなヴォーカリストでも自分の世界をもっているのです。それを曲でつくるか、バンドでつくるか、声でつくるか、歌でつくるか、総合してあるわけです。そこで確実に変えていけるところは、体のことと、その体を通じて出すところのなかにある感覚、その二つです。

だから、それを学ぶのです。
 その人がどうやっていってもよいのですが、勉強しようという初心があって、ここにきたのでしょうから、ものごとをしっかりと捉えて、切り拓いていって欲しいと思います。

 レッスンで上達することはないのです。レッスンというのは、何か気づきに来るところです。

もしトレーニングで身につかないということであれば、レッスンで気づくこと。同じことをレッスンでいわれるなら、身につけるトレーニングができていないということです。
 長期に勝負していくものですから、2年間は学び方を勉強しなさいといっています。

ここをやめてから自分が学べるようにしていくということです。
 

 

ここには、少なくとも自分がやってきたよりもできる人たちがいるということです。みんなにとってはちょっとの差にみえるかもしれませんが、そのちょっとの差をつけるのに、彼らは2年も3年もそれに費やしているということです。

うまい人のをみて、2年経ったらそうなれると思うかもしれませんが、10年経ってもほとんどの人がなれないのです。それはそこの差がみえていないからです。みえていない以上なれないわけです。そして、やれない人ほどやれていない人をみて安心してやれないままにおわるのです。

 この前、プレBVで歌ってましたが、彼らのどこはきちんと作品になっていたが、どこはどういうふうに失敗を回避していたとか、そういうことがみえていて、同じ土俵に立てるのです。もっとも、みえても同じことはできないものです。
 最初はみることから始めなければいけません。みえないところをみなくてはいけません。音ですからまさに耳で聞いていかないといけません。そういう勉強の仕方をしていってください。
 最初の2年くらい歌がうまくならなくてもよいのです。あとで上達する器がきちんとできていけばよいのです。
 

楽器というのは、今やった3分のことを30分やっても絶対に疲れないようなものとして、つくられなければいけません。そのことができるということは、それだけ確実なベースができたということです。
 今みんなにやっていて欲しいのは、確実な部分をきちんとつくっておいて欲しいということです。そうでないと器用な人にも負けます。タレントは器用だし、今のヴォーカリストくらいの力はもっています。それに勝負強く何よりその世界で生きていくという覚悟ができていますから、違ってきます。バックグランドが違うということです。


 

みえないところの差をきちんとつくってください。一流、本物のものを聞いてみる、それがわからないなら、1フレーズでも2フレーズでも、自分が見本としやすいような歌い手をそこにおいてみることです。ここでも、ステージ実習、ライブ実習で、自分と違う人と同じ場に立ってみることです。
 違う歌を違う演奏のところで、違うように歌っていたら、どれがすぐれていて、どこがだめなのかとか、どこをどう変えればよいのかというのがわからないのです。

 ステージも感動したとか、つまらないとかいうのですが、気分で左右されるものではないのです。もっと一流のものをみて体験していないから、安易に感動できてしまうのです。

その世界をファンとしてやっていく人はよいのですが、その世界をつくろうとしていく人は、我身をおきかえてみなくてはだめです。

 今度の合宿では、エビータを取り上げます。昔はコーラスラインとかONEをやったことがありますが、踊りとか振り付けとかは、やめました。
 ブロードウェイを中心として、外国のミュージカルは音の力で泣かせます。仮に意味はわからなくても、その声が10秒、20秒続いて、伸びていく、その音の力で泣かされてしまうのです。

悲劇でなくても、声の力で泣かされてしまうのです。本場のミュージカルというのは、踊りやストーリーで見せる部分もありますが、半分は音の世界で成り立っているものです。

 

 先日、ライオンキングを見に行きました。サーカスのように楽しいのです。日本の舞台というのは、音で客の心をひきつけようということを諦めているかのようです。音に時間や予算をかけるくらいなら、舞台美術に時間をかけた方が反応がよいからでしょう。その方が見た目が華やかで評判がよいのです。

日本のお客さんも、それだけ音を聞き取る力がないのです。

 

ある韓国の女優さんは「オペラ座の怪人」を見て、寝てしまったといっていました。それはよい意味で気持ちよくなるのではなく、飽き飽きしてくるわけです。でも同じものを見た家族づれは、とてもよかったと思ったからまた見にくるのです。それはそれでよいのです。
 

声の世界や音の世界でいうと、ある意味ではわかっている人は諦めているのでしょう。聞き比べてみればよいと思います。

向こうのもの(ブロードウェイのは、少しオペラがかっているため、マドンナのエビータを使います)いわゆるロックのところの声と、日本人の声楽の方から出身してきてポップスに落としてきた人のそれらしい歌い方とを比べればよいのです。

 


 それは日本人がこなせていないのです。同じキーで、同じように歌い、あれだけ声の質感、量感が違ってくるというのは、どうしてでしょう。多くの人は日本語だからと思っているのですが、日本語を処理するためには、こういう歌い方しかないと思っていると思います。いわゆる声楽の母音共鳴で日本語を処理しているのです。
 

ライオンキングになったときは、アフリカのリズムですから、オペラっぽい歌い方はできません。ここのように地声で体から出していくしかないのです。

そうしたら、ここと同じか、同じ以下に崩れてしまっているわけです。

なぜ崩れるかというと、鍛えられていないからです。シャウトを避けています。

公演が毎日あって、中3日ぐらいで登板しないと役者がもたなくなるからです。

 日本のミュージカルの発声というのは、ポピュラーに入っても体から声が出せる声楽をやってきた人がスターになったという、ひとつのイメージを利用して、そこのなかでの形を利用してきたのです。
 日本人は何々ふうが好きなのです。お客さんがそれを求めているからです。そこがもう限界なのです。そういうのでやっていける人はやっていけばよいと思うのです。

ただ、今は、もう、そういう時代ではありません。カンツォーネふうにいくら声を朗々と出してみても、あの人、声が出てよいねで終わってしまうのです。演歌でも、民謡でも力がなくなってきているのです。

 

 

日本では、他の国の第一人者に近いことをやれるのをうまいと考えます。人がまねできるものではないこと、人がやることは自分はやらないと、それが自分の表現であることをやっていくべきです。

創始者はよくとも次に受け継いでいく人からおかしくなってしまうのです。その辺を比べて勉強していくのが、一番早いと思います。


 世界を見ていたら日本のトップレベルにいくわけです。世界を見るということは、別にアメリカや、ヨーロッパに行ったりしなくてもなんとかなります。そこで上演されたものを映像とかで見て、誰のどこがよいという判断基準をきちんとつけることです。

 

彼らは一流です。でも、ステージや作品に批判することはできます。ポップスというのは、そういう分野が、日本では形成されていません。向こうは、そういう面では厳しいです。

有名な俳優とかがCDを出しても、売れないから、出せなくなってしまうのです。タレント、お笑い芸人がCDで大ヒットさせる日本とは、違うのです。

 

 

日本はポップスに関して批判というのはないのです。賛辞、推薦の言葉ばかりです。七色の声を司るとか、最高のヴォーカリストとか、そういうのばかりです。聞く前からうさんくさいと思って聞いてがっかりするのです。

 誰も批判しないから、当人も気づかないのです。音の世界ですから、ヴォーカルにしてみれば難しいのです。自分が気持ちよいということと、お客さんがどう思っているかということがみえないのです。
 それをここの場には、おいています。

 

とりあえず人前に出てやっていく仕事ですから、機会があれば積極的にそれをつかんでいくことです。残っていく人は、そういう試みに入っていくのです。

 

 

今年、あの主役をやっている人は、4年くらいいました。合宿には、1日だけのためにきていました。結局やっていける人というのは、歌がうまいとか、表現力があったり、才能があるからということではなく、出て行きたいと思うからやっていけるのです。

まわりの人も、うまくても出て行きたくないと思っている人より、下手でも出て行きたいと思っている人を応援したくなるのです。その年月が重なっていくのです。

 

世に出るとか、有名になるというのはまた別ですが、それを中心にいろいろなことをやっていきたいのであれば、自分のいる場のところにきちんと落としていかなければいけないと思います。
 ここを何か大きなものを与えていった人は、外でもやっていけるでしょう。

ここで何も落とせない人は、どこに行っても何も落とせないのだから、結局どこでもやっていけないと思います。

 ここはどういう場かというと、世の中と思えればよいと思います。こういうワク組みや窓がないと、世の中はとても見えにくいのです。

東京は、特にとても見えにくいです。いろいろなものがごちゃごちゃしています。力があろうと知名度がなければできないところです。

 


 文化ということなら地方のほうが活動しやすいです。長く続けるとキャリアになるからです。

文化というのは、ひとつのところでどれだけ長くやっていくかということです。結局みんなが諦めたところでまだいるから、それほど自分のことをできないと思えるから、それでそのことで生きていけるようになるのです。

 

優秀な人はまわりにたくさんいたのです。しかし、2年も経ったくらいで、自分は秀れていると思い、いなくなってしまうのです。それはどこの世界でもそうです。

結局、必要に応じたところまで身についていくし、それをどう使うかというのは、その人の自由です。
 だから、ここを対して貢献しなさいということではありません。それでも結局ギブしていける人というのは、他のところでもギブしていけるのです。

 

 

その人が一人現れるだけで、レッスンの質が変わったり、まわりの人たちのテンションが変わったりするという人もいます。そういう人にならないとやっていけないと思います。
 仲間よりもお客さんはもっとシビアです。大学のサークルとか、日本のプロダクションとか、タレント事務所とかよりも、こういうところの方が自分の本当の力がはっきりすると思います。

 合宿に来るだけでも普通の人からいったら大変なのかもしれません。そういうことには、お金や時間を都合する条件があります。しかし、どこかで自分が主体的にそういうことを変えていかないと、本当に10年なんてすぐに経ってしまいます。

逆にいうと、20歳くらいできることは、30歳や40歳になったらやりにくくなります。いろいろな予定や事情が入ってきます。

 

私も若いうちは、金がなくとも自分が行きたいところに行けました。そのときに動いておかないと、今ではいろいろなことがあって、他人から予定を入れられてしまう。仕事になると断れないようになってくるのです。
 だから力をつける時期というのは、暇なときしかないのです。そういうときに自分で予定を動かせるようにならなくては一生、動けません。そのときにどれだけ動けたかということだと思います。


 プロの世界は、力をつけるのでなく出すところです。現場に行ったら、全部が整っていて、そこで何をやるかです。あるいは、いわれたことをすぐやらなくてはいけないのです。いろいろなフレーズを、その場で自分の感覚で処理するという力がなければいけません。

研究生でも、なかなか使えないのは、そこにいったときに何が求められて、何が価値なのかということをすぐに判断して、そこだけをきちんと出すということができなければ、通じないからです。


 歌はまさにそういう世界です。何でも歌ってよいですといわれて、何でも歌っていたらどうしようもないのです。楽器が弾けるとか、理論を知っているとかそんなことも大切ですが、感覚がそういうことに対応できるようにやっていかなければいけません。


 今、お笑いの人で、きている人がいます。お笑いの世界のなかにいたら、お笑いのことしか身につかないし、それしかわからなくなってくると、だからそういう人のいない世界で勉強しようと思ったということです。そういう考えこそ、これからやっていく人としてはまっとうだと思います。その世界にいたら、その世界の人と同じ武器でだけ争っていくわけです。
 声優さんでも、声優の学校にいっていたら声優になれるわけではないのです。自分の強みになるところを何か一つ確実に持っていくということが大切です。


 とにかくマラソンみたいなものですから、体から変え、自分の歌が好きなように歌えるようになることでしょう。走り方のペース配分も含め、学び方を勉強するということです。
 学び方とは、本当はみんなが学校でやってこなければいけないことなのです。

第一に習慣をつけるということです。しっかりと予習し、復習するという、あたりまえのことです。それからその場なり、その空間をきちんと保って、優先していくということです。

 今まで逆のことをやっていたでしょう。テストといったら、そのときに一夜づけして、その後は全部忘れてしまうのです。音楽基礎でも同じです。そのときは一所懸命やって、身についているつもりでテストに通っても、その後にここを辞めたり、半年後何もやらなくなったら、全部忘れてしまうのです。

 最低で2年間というのは、少なくともその感覚の残っている期間を保つためです。それは体が覚えているのです。それだけ深いものとして、どれだけ入っているかということです。そういうものを応用していろいろなものに対応しているのです。

それは、力がついてからとか、お金ができてからとか、時間ができてからついたものではないのです。むしろ逆です。お金があって時間があるときというのは、あまり成り立たないものです。


 何かやっていくためには、1分のなかでどれだけ多くのことをやっていけるかというのが勝負です。私も24時間仕事しているわけではありません。でも、1時間で他の人の8時間分の仕事をする、だからやっていけるわけです。

その代わり、5分でご飯も食べますし、寝なくても大丈夫です。それは生まれつき体が強かったわけではなく、自分のことがやりたいために、自ら学んできたことです。表現するために多くの他のものを圧縮しないといけなかったわけです。
 

ヴォイストレーニング中はたくさん寝た方が理想的です。寝ないと体調が悪くなります。本当は8時間から10時間ぐらい寝たいところです。ただ、自分の体調をどうやってうまく戻すかということを、そういうぎりぎりの生活のところで得ていかなければいけないと思います。


 トレーニングというのは、最終的にやるなといわれたことをやっていくしかないのです。それ以上、声出してもだめだといわれても、やらなくてはいけないし、でもやみくもにやっていてはだめです。

それは何が助けるのかというと、自分がこれ以上やったら壊すとか、これ以上やったら絶対だめだという本能的なところです。それが磨かれるためには、ぎりぎりの生活というのは必要です。別に経済的に、時間的にぎりぎりということではなく、精神的にもっていなくてはいけません。


 ここでも2年くらいからが勝負です。1年半から2年くらいが折り返しで、そこからが勝負です。そこまでは早くいける人もいるのですが、折り返しまではゆっくりでもよいから、きちんとその後にどういうふうに学んでいくのか、それを自分でつくっていくことです。そのための参考に会報もつくっています。


 そこによりそういうことができた人が、どういうふうに学んできたのかを落としています。ここを関しては皆さんの優先順位もあるし、経済的、時間的な問題もあると思いますが、どこかで自分が主体的に変えていかないと、変わらないものです。

 

世の中には最初から恵まれている人もいるし、自分の力で変えてきた人もいます。いろいろな要因があるでしょうが、そんなものは誰もみないで、力をみます。そういうことで、ここをあるものは、みんなが利用すればするほど利用できるものです。

 

 

それから、自分をみなければいけないということです。東京に1、2日しかこれない人もいます。でも、だからといって毎月、30日きている人の方がすぐれているかといったら、そういうわけでもありません。どれだけ密度の濃いテンションの高い場で、自分がどれだけ感じて、出していけるかということのつみ重ねです。


 研究所なんていうものは、レッスンなどしなくてもよいから、そこにきたら何か少し高まったとか、何か少し充実する方向に動けるんじゃないかとか、自分のなかのもうちょっとよい自分を感じたり、その心を持つためにくるようなものです。

ノウハウを取りに先生のところに行くのではありません。体も違うと簡単にできてしまうようなことはわかりません。

 

ここは、もう少しわかりやすくしていますから、いろいろな人をおいています。だから、まわりの人から勉強できます。自分よりちょっと上の人、ちょっとだめな人からも勉強できます。

 


 それから自分がやったことをきちんと見なくてはいけません。歌い手は、タレントさんとかお笑いの人たちよりも自分に甘いことが多いのです自分の好きな曲を自分の好きなように歌っていたら、気持ちがよいからです。それからそれをステージで見たり、映像で見てみても、なんとなくそういうふうに見えてしまうからです。
 そういうときは、よりすごいものをそこにぶつけるしかありません。よりすごい人を隣において、比較するしかありません。そのときにちょっとでも曇るようだったら、絶対に通用しないです。洋判のCDでも何でも絶対隙がないし、失敗しているところがないのです。それは職業ですから、あたりまえなのです。
 なるだけ高いレベルのところで考えてみた方がよいです。日本のなかでは、そんなに耳の世界ではすごくないですから、その方がはっきりわかると思います。そうでないと自己満足になってしまいます。


 自分の感覚を磨くというのはどういうことかというと、「つめたい」といったときに、自分の感覚がどう動いているかということを読み取っていくしかないのです。
 もっと単純なことでいうと、「ハイ」を毎日きちんという練習をしていたら、2年経ったときに他の人とは違う「ハイ」がいえるはずです。歌の2オクターブの3分というのは大変なことです。「ハイ」だったら、簡単に、今のはなんか変だったとか、今のはよかったとか、そういうことがすぐにわかります。

 

でも、多くの人が2年たって「ハイ」をやらせてもできないのです。「ハッハッハッハ」と息はきを毎日やっていたら楽にできるようになるはずなのです。楽々とできるのは、やった人しかいません。

もともと体力の差があったりする場合もありますが、それでも伸び率で、どれくらい伸びたかということでみると、何もできていない人のほうが多いわけです。

レクチャーで見本をみせても、たいしたことないと思って、数カ月しかやりません。だから、このちょっとのことができないのです。そしたらそれ以上のことができるはずがありません。


 大切なことは、「ハイ」だけ練習していても2年経ったら変わるのに、それさえ変わらないというのは、どんな練習をしてみても、どんなメニューをもっていても意味はないということです。「つめたい」というのも、基本的に自分のチェックとしてやってみてください。そこできちんと読みこんでいくことです。そこで違いが出せること、それを録音で聞いて、チェックして自分でやることです。


 この前も、誰かがヴォイストレーニングにかける費用と時間をコンピューターに費やしたいといっていました。コンピューターでも一流になるのだったらよいのです。しかし、一流にならなかったら、もう5年もすれば、お金と時間をかけて得たものというのは、普通の人がすぐに使えるようになります。技術やコンピューターに頼ったものというのは、すぐに価値が下がっていくのです。
 

ドラムでもピアノでも腕を動かして勝負しているわけではありません。楽器で勝負しているわけではありません。その人のなかの感覚がすぐれており、それが妨げられないように出るために、鍛えているわけです。ましてや楽器はお金を払ったら買えるわけです。コンピューターのことを全然勉強しなくても、その人よりもよいコンピューターの使える人を使えばよいわけです。


 その人が手に入れようとしている価値というものは、その分野で一流にならない限り何にもならないのです。体とか、心のことをやるのは、その人にしかやれないことですから、みえにくいのです。ここにきていても、今日は一体何になったんだろうと、半年で何になったんだろうと思ってしまうのです。
 

 

だから中途半端にやってもしかたないのです。辞める人にはもうどうこういえないのですが精一杯やることです。一所懸命やれば何かに通じます。別に歌い手にならなくても、音声を扱っていくことは人間一生やっていくことなのです。要は人前で何かできるというときに、ピアニストはピアノを使うし、ヴォーカリストは声を使うということだけです。


 大切なことはやった後にどう上達するかです。それにはいつもいっているとおり、何かを変えるしかないのです。自分が一番よい歌を、1年のなかで一番よい状態で歌ってみて、それで通用しないといわれたら、それは全部否定されたことと同じです。

映像を見たり、自分の曲を何度もカセットで聞いてみても、それはそれなりに自分の感覚で歌ってますから、よく聞こえてきたり、何かとりえがあるようには見えてくるのです。それでも通用しないものは通用しないのです。
 

よりすごいものを並べてやらないと勉強にはなりません。そういうときに場というのはどういう役割を果たすのでしょうか。トレーニングをきちんとやっている人にとってみれば、ひとつの刺激の場、テンションが高い場であって、自分のなかで何か気づくことが起こるのです。ライブをみて、自分がおきかえて、そういう空間や時間を過ごすことによって、自分の内面に気づいてことです。これがとても大切なことです。


 基本のトレーニングをずっとやって、最後は自分のなかの気づきを起こすしかないのです。だから他の人の作品はつまらなくてもみる、よりうまい人はそこに差があるということを知らなくてはいけません。
 同じくらいだなと思う人でも相当に自分よりはうまいわけです。そこまで人間というのは自分に甘いものです。自分がみて相当下手だなと思う人と同じくらいと思っておいてよいわけです。そういう下手な人からはもっと学べるのです。
 

そこで注意されていることを拡大してみたら、自分のことと同じになるわけです。ちょっとは入りが遅いなと思ったら、自分もよりすごい人からみると、そうみえているのです。基準を高くしてみたら、同じことが起きているのです。自分よりもすぐれた人間やすぐれている人の感覚というのはみえないからです。それがみえていたら、そのようにできるのです。

 プロの感覚をつくっていくということと、それからそれに体を対応させるということです。感覚に体が対応していないという時期は、上達できるのです。でも体も限度がありますから、感覚勝負になってきます。そうすると、感覚を変えるということが、一番難しいわけです。


 好きな曲しか聞いていない、好きな歌い方やくせのつけ方しかやらないとしたら、もうそこで限界になってしまいます。その後は何を歌ってみても、同じようになってしまうのです。
  それを1曲、1曲変え、1曲のなかでもとことん変えている人もいるわけです。その人のなかではそのことがいくらでも起きているわけです。その辺が上達していく人と、上達していかない人の違いです。
 

 

プロ野球の選手をみていても一流の人は、先週調子が悪かったのに、今週は調子をよく変えてきている。普通の人だったらそんなことできるはずがないのです。1回調子が悪くなったら1年くらい棒に振ってしまいます。それは彼らが練習のプロセスのなかで、ああ、こうなったらいけないやということで、必ず気づき、それを補う方法をもって越えてくる、それを自分で起こしているわけです。


 誰がみても明らかにおかしいなというものがあっても、プライドがあると自分で直せると思っています。そこの部分を、あのときはしかたがなかったでおわらず、どうすればよかったのかを省みることです。その場でそれをカバーして出せる人がいるということは、そこにものすごい力の差があるということを知らなくてはいけません。

 昔はアイドルとか、タレントとかは歌えないといっていましたが、最近思うのは、そうでない人の力のなのです。普通の人は合宿でも歌を覚えてくるのでやっとですが、彼らは1晩で5曲といったらきちんと5曲覚えてきます。完璧に覚えてきます。だからある意味では選ばれてきているのでしょう。
 しかし、そのことが、できるのは、そこまで覚悟があるかないかの問題で、能力の違いではないと思います。世の中では、歌がうまい人も、声がよい人もたくさんいますが、なかなか出て行けません。そのことと世に出て行くということは違うし、出て行きたい人が出て行くのです。


 誰も時間があってお金があるのではありません。人生は必要性が決めるのです。
 長くやっていると、行かなくてもわかるとか、行かなくても自分でできると思ってしまうのです。人間は人間に会ってしか変わらないし、人間に会って変えていくものですから、場に出るというのはとても大切なことです。ここを来なさいということです。

 皆さんにとって研究所というのは、ひとつの世の中の縮図みたいに思っても挑むことです。ここは特殊な人ばかりがきているわけではありません。いろいろな人がきているわけです。そして入れ替わっていくのです。程度の低いところだと思ったら、そこでさえ、何一つやれていない、認められていない自分の無能を知ることです。自分のことを棚にあげる人が多くなりました。

 声のことを知りたいし、それから息のことを知りたいのはわかるのですが、でもきちんとしたことができなくては無意味です。それができるというのは、自分が何をやっているかがわかってからなのです。
 だから、声でもそれは正しいとか、正しくないというのは簡単にいえるのです。でもその人が、自分の出したものをわかっていないのであれば、次に同じものを出せないのですから、それは意味がないということです。1年2年経ってみて、自分の最高の作品はこれだというものを出してきたら、そこでの限界というのがみえるわけです。最初の時期というのは、そういう勉強をして、自分のなかで実感していくのです。


 「ハイ」のことを毎日2年やっていたら、そのくらい簡単にできると思うのですが、でもそのことに値する練習をやってないから、ほとんどの人ができないのです。息吐きのトレーニングでも、3年から差がつくといっていますが、本当に2年間しっかりやっていたら、そのことでも普通の人に勝てるはずです。でも逆に1年のうちには勝てるのに、2、3年経ってくるとさぼるから体が弱くなって勝てなくなってくるのです。そうしたら基本は、全然身につくはずがないのです。
 

体だけがそういうものを蓄えていくのです。ひとつひとつのレッスンでも、本当に何に身についたのかわからないということでも、その積み重ね以外には何にもないのです。
 大切なことは、まず気づけるようにしていくことです。レッスンというのはそういうもので、気づかなかったら、変わりようがないのです。そうしたら気づかないレッスンって一体なんだろうということです。
 それは多くは自分のイマジネーションが不足していて、それだけ気づこうとする努力を怠っているのです。言葉でも同じですが、そういうものが声とか歌とかに落ちてこなくはしかたないのです。

 言葉の気づきだけで商売をやっている人はいくらでもいるわけです。小説家などはまさにそうでしょう。画家はそれを色でやるわけです。そういう精神的な日常生活を、ベースに流しておいて、こういうところに出てきたときに試みてください。何か自分が高まった状態、何か創造的な状態というものを、常に自分でつくれるという人はもうプロです。最初はいろいろなところにいって、そういう人に接しながら、自分がたくさん気づいていけるようにするのです。
 

 

研究所もそのひとつです。そうでないと絶対にマンネリになります。合宿でもマンネリになるのであれば来ない方がよいし、きてみて何か気づけるのであれば、それは1年間の練習よりも大切なことです。
 気づいたことが身につくのには、かなりの時間がかかります。場と時間をとるしかありません。時間をかけるのは年齢とともに大変になってきます。時間があるうちに、世の中に出ないうちに、自分の作品ができないうちに、どれだけそういったものをきちんと保てるかということです。
 

辞めてしまうのは、どの世界でもいます。それを新しい出発のように考える人もいますが、ここを何も残せない人は、他のところでも何も残せないのです。
 そういう意味で、ここはとてもわかりやすいと思います。同じ条件の場で歌ってみて、それで人を動かせるか動かせないかです。1、2年いるうちに、よい顔になってくるか、その人のパワーが増幅していくかどうか、それはここをよってどうにかなるものではないのです。その人の日常の方が当然大きいのです。
 体力とか、集中力なども必要です。それがなくなったときには何もできなくなってきます。ですから皆さんは、集中力をきちんと保って、より厳しい基準をレッスンの方に課していって欲しいと思います。
 基準が甘くなると、前よりもできなくなります。トレーニングによって狂っていく人の方が、世の中多いのです。そこに確かな実感が伴わなければいけないのです。実感が伴えば何か気づけます。学ぶ態度の形成と、習慣づけ、それを場のことをきちんとやっていくことです。それがなければ、どの先生についても、どこにいってもだめだと思います。
 

 


「虹のように」
 日本の教え方というのは、「に・じ・の・よ・う・に」と全部を平行においていくのです。日本の感覚は全部そうです。距離が全部同じなのです。音の流れでは当然「タタターター」という流れがあって、上を強くしても弱くしてもよく、皆さんの感性に従ってよいのです。

その「虹のように」ということのなかに、動きをつくっていくのです。音程をとらなくてはいけないのですが、まず強弱アクセントで、どこかで握ってどこかで抜いていくということです。
 

言葉のもっていき方というのは、強弱アクセントのほかに、音の長短、クレッシェンド、デクレッシェンド、音色、息との配分、スピードなど、いろいろなものがあります。まず、イマジネーションが必要です。

ただ「にじのように」とそのままいっているだけでは、何を歌っているのかわからなくなってきます。「虹のように消える月日」というのが、今与えている材料です。声がなくなってしまってはしかたないのですが、もっていき方を知っていれば、ある程度線が出てくるはずです。その動きを自分のなかでつくっていくのです。

「虹のように消える月日」
 これを1本の線で捉えて、ひとつのフレーズにしながらも「虹のように消える月日」と、4つくらい感覚の変化を起こさなくてはいけないのです。
「冬は過ぎてもうすぐ春」
 音が上にいって戻ってきていますから、構成やフレーズも大切です。日本の歌い方は全部同じに、何の変化も起こさず、何の感情表現もないわけです。
 4つを1つに捉えて、一つひとつのフレーズを処理してください。1オクターブを越えるものになると、メロディ処理をするのが難しくなってきます。かなり感覚的にもっていかないと言葉として押さえられなくなります。
 

 

「虹のように」のところでこのコードを体に入れておいて、声をきちんとつかんでください。安易に、響きにもっていかないことです。ポップスでは、歌う部分をきちんと締めておくと、歌わない部分はどんなに飛んでいてもよいわけです。全部を声にすると、動きが出てこなくなるのです。

日本語というのは、そういう言葉です。そこにアクセントをなるべく入れてください。「にじーのー」と「にじのー」という捉え方は全然違うわけです。できるだけそれを「虹のように」という言葉のなかでもっていくのです。「ように」を音楽的にもっていっても、言葉でもっていってもよいのですが、その二つの動きが一つのモチーフになっていくということです。

 日本人の感覚だと「ソドミソ」の音の移行を意識します。上の「ソ」を響かせる方向にもっていきます。外国人の感覚だと逆になります。「じーにー」のなかのフレーズにのっているということです。英語が強アクセントの方に弱を巻き込ませるというのは、「にじ」の「じ」といっている中に巻き込むのです。だからできるだけそこの部分をきちんと握るということと、間の部分は別に歌わなくてもよいのです。「じーにー」だけでもよいです。
 

こういう歌の取り方そのものが、日本人らしいところです。彼らなら、日本人が「虹のように」と歌うくらいの負担で「もうすぐ春」のところまでいってしまうのです。大曲を聞いていたらわかると思いますが、4フレーズくらいを1つに捉えます。日本人がひらがなで10個歌うところを、向こうの人はたった2つくらいで捉えているのです。



「あなたの目に星は光り」を言葉でいってみましょう。
 この4つをひとつで捉えるのです。2つでもよいです。体を使います。日本人の場合だと、それをメロディが違うとか、音の高低で判断していくのですが、自分がつくり変えたものが音楽として成り立っていればよいということです。問題なのは「あなた」が「あなた」と聞こえないようだったら、やはりおかしいということです。

「あなたの目に星は光り やさしい手は夢を探る」
 こういうものは全部パターンです。歌い手でも、曲を覚える勉強しかやってきていない人というのは、つくることができないし、動かすことができません。どうしてかというと、曲というのはパターンでできており、前に使ったスケールをくり返し使っていくのです。


 そこにどんどん違う音が出てくるというのは、その人の音楽に記憶がないということです。こういうものをやると、その人のなかの感覚とか、リズムとかがころころ変わっていくということは、全然わかっていないということです。出てきてよい音と、出てきてはいけない音があるのです。だからそれは自分のなかの感覚としてもっていて欲しいところです。

 


 言葉の読みのところからもヒントがあります。「あなたの目に星は光り」と、そこまでイメージするというのは、難しいかもしれませんが、そういうところのイマジネーションがない限り、この歌詞は落ちてきません。最低限やれた人で「あなたの目に星は光り」に対して「やさしい手は夢を探る」を置いた人はいます。
 しかし、それを歌の世界に逃げていかないことです。歌い上げたら何でも成り立っているように思えるのです。でも言葉でいうよりも伝わっていないとしたら、そうしたら使いこなせていないということです。


 メロディのパターンもある、言葉のパターンもある、それからリズムのパターンもある、その3つのことを、瞬時にシェークし今まで自分に入っているものを一番よく取り出して、それで組みたてていかなくてはいけないから、即興というのは難しいわけです。でも、歌手がやっていることは、ある意味では即興です。
 トランペットでも、ピアニストでもそうなのに、歌い手はオウム返しばかりをやっているから、セリフを読む人よりも鈍くなってきます。


 今のところでも、「虹のように消える月日 冬は過ぎてもうすぐ春 あなたの目に星は光り やさしい手は夢を探る」というものが、なんとなくそのまま伝わりません。曲調として、あるいはその人が取り出したいものとして、よりよく加工されているかということです。
 そういうことをいうと、こういう力は、3日経たなければ3ヵ月練習しなければだめというものではないのです。そういうものは3年経っても、30年経ってもだめなのです。要は、そのことを少しでも早く、そこで仕上げられるような方向で練習していかなければ、力というのはついていきません。

 


 だから、音楽基礎検とか、ステージ実習とかいろいろなことをやっています。それらは部分的な強化にしか過ぎませんから、それを統合するまんなかの感覚があって、それが始めてそれが使えるようになってくるのです。
 だから、読みの練習は、読みの練習でやっておくことです。基本のトレーニングは、じっくり時間をかけて、レッスンでは問われることというのは、それが瞬間的な感覚で組み替えられて、一番よいものが出せるかどうかです。何が出てくるかは自分でもわからないものです。そういうことだから、レッスンで気づけるのです。


 即興の勉強でやればよいと思います。全然知らない曲を歌ってみて、録音してみて、それがすごい歌だと聞こえるようにできなければだめだということです。全然関係ないように思うでしょうが、その力が舞台で生かせる力です。


 自分が300回練習した曲を、そのとおり歌えるという力はあたりまえといえば、あたりまえなのです。こういうことで勉強できているということは、昔は300日かかっていたことが、3時間でできるようになるということです。そういうことに日頃から敏感にならなくてはいけません。

 


 時間には厳しくならなくてはいけません。時間の芸術です。わずか1秒のなかに、どれだけのことを認知して、どう変えられるかということをやって、その上で聞かなくてはいけません。そういうことがステージを支えてくれます。
 素人のステージをみると、1回間違えると崩れてしまいますが、プロは10回以上間違えても、間違えるレベルが違うのです。聞く人は気づきません。

 

同じスケールのなかで、同じコードのなかで間違ったものは、曲を知っている人以外はわからないわけです。

その人がきちんとしたステージをしたら、その人はそう変えたとみんな納得します。
 そこで音がそれたくらいで、音が外れたなとか、下手だと思われる人は、何も表現していないのです。まだ成り立っていないということです。


 音楽というのは自由なものですが、自分のものではなく、投げ出したものがお客さんの共感を呼ばなくてはいけないのです。心地よくならなくてはいけないのです。ですから、間違え方にも2通りあるということです。知らない歌をやった方が勉強になると思います。音程を合わせる勉強ではなく、リズムをやること、ひとつの線が引かれていて、楽譜が先にあるのではなく、音の感覚が先にあるのです。その感覚さえない人は、その方の感覚を磨いていって欲しいです。