レクチャー2 1212
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【とりくみ① No.3 39530】
【とりくみ入門 39916】
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【とりくみ① No.3 39530】
今の時期というのは、音楽に慣れていくようなことをしてみてください。こういうものを1曲聞いて、何が起きて、どうやって音楽が終わったのかというのが、どれくらい自分の耳の名かに入っているのかということです。
それから、この曲が何番まであって、どういう構成だったかということです。全部を論理的に考えてもしかたがないのですが結局、曲を聞き込む能力が高まってくると、どれだけの楽器が使われていたとか、定型をはずした箇所がいくつあったかなどがわかるようになります。
はじめのうちは、ギター、次はドラムなど分けて聞かなければわかりませんが、感覚ができてくると、同時に聞けるようになるのです。一番、顕著な例ですと、オーケストラの指揮者みたいなことです。全部を聞いているわけではないが、統一して入れています。そこでおかしなことが起きたら、すぐ自分の耳が反応するのです。
合宿などでこういう曲を使ったときに、上のクラスの人というのは10分くらいで覚えてしまいます。ですから、残りの3日はその曲をどうつくるかということに集中できるわけです。初心者というのは、3日経ってようやく歌詞を覚え、音を正しくとれるようになるのです。
勉強しなくてはいけないのは何かというと、勉強できるようになるようにすることです。曲を1、2回聞いたときに本質的なことがつかめることです。それは音楽の世界の一つの材料なりルールが入っているからですが。それと同時に自分のなかで勝負できるものをすぐ出せるかということです。
たとえば、自分の体が動くということを自分が感覚しなければ、体は動かないのです。日常のなかでは動いています。でも、舞台になったときにイメージがとり出せないわけです。
小さくて重い箱というのがあるというイメージを与えたときに、頭で考えてやる人というのは自分がそう思ったからやるのでなくて、そういうものだということがあって、それをやるのです。
そうしたら、その人のものは出てこないのです。その人が、自分がどう思っていても、それが突き詰められていないし、まして人間が共通にもつ呼吸とかリズムとか音のなかで心地よいと感じているものに結びついていないなら、出しても通じません。結びついていないところでやっても、通用しないという基準を、はっきりさせなければいけないのです。
1曲のなかでも最初のところをみただけで、その人がどれくらいそこに感覚を働かせ、体を取り出せているかというのはわかるものです。
舞台というのはやっかいなものです。決められたときにそこで出せなければしかたがありません。それは最初、出そうと自分でもっていかなければいけません。
映画でも、最初の5分くらいみれば、よい映画かそうでないかはほとんどわかります。よい映画だったら、最初の5分間にも絶対にムダなことはしません。テンポよくひきつけ、のせるため全部、余計なものを切り捨てていきます。
ヴォイストレーニングも歌も一緒です。そこの切り捨てていく能力、編集能力が必要です。そうやっていかないと勉強になりません。本当に大切なものを残してつないでいかないといけません。
勉強できない人というのは、最初にわかります。素直じゃないし、自分が足らないということがわからないのです。頭で考えて、できたと思ってしまうのです。それが、2年間で変わるかということです。
ここでやる本質的なものというのが、活動レベルで応用されていればよいのです。声だけ出ているだけではしかたないです。それが形をとるところまでのプロセスをきちんとつけていくということが大切です。そのことが基本です。
やれていると思っている人ほど、やれていないのです。今度のライブでも、9割の人が退屈させてしまうと思いますが、残りの1割の人は、なぜ退屈させないかをみていけばよいのです。そこには何らかの原理が働いているわけです。歌1曲というのは、そこだけを集約していかなければいけないのです。他の余分なものは、いらないのです。
イマジネーションの世界というのは、あくまで例にしかすぎません。そこで大切なことは、イメージしたことからリアリティを引き出すことです。
リアリティというのは、感情に頼ったり、情感を出したりすることではなく、大事なのは反応としてストレートに出すことです。そうなってしまうということです。
こういう世界の難しいところは、現実の世界とイメージした世界というのは区別されないところです。イメージした世界をもってこれるかもってこれないかが、勉強なのです。
歌い手は、それを音楽の世界でやるのです。ただ音感が悪いとか、リズムが悪いというのは、あくまで現われたときの型で、歌がこういうスケールのなかでできているからです。絵と同じです。
皆さんは間違っているというよりは、好き嫌いでやっていて、感性を好き嫌いのまま取り出せば、何かものになると思っているのです。なりましたか。文章も同じです。話していることを、きちんと秩序立てていかなければ作品としてみえないわけです。本にもフォームがあるように、すべて制限がかかってくるのです。逆に、それぞれの限界を知っているから、そのなかに自分のなかの何かを絞り込むことで、そこで相手のイマジネーションを喚起させるということをしているのです。
この曲は最初のところで1オクターブありますが、歌ってみないと、オクターブあるときは聞こえないのです。それは、感覚が対応していないからです。そういう部分を1オクターブに対応するように磨いて、そこに1オクターブを読み込めということではないのです。彼らは1オクターブを、たかだかそのくらいの感覚で捉えられているということです。その音の勉強をしていくというより、そこでの感覚の方を勉強していくのです。
「イリア ルシエール レソレイ」
一つは「ハイ」の方向からもっていくことです。伝達を同じ濃度にしておく中で器をつくっていくことです。いろんなことができるということは、うさんくさいということで、一つに決まらないのです。本当に深いものというのは一つとはいいませんが、自分の原理がきちんと働いているものです。ですから、体の原理からやっていく方向です。それをイメージからもっていくのです。これは楽器ができていたらそれでよいわけです。
ヴォーカルの場合は楽器からつくっていかないといけません。もう一つのアプローチは、ことばでやっていく方向です。後者が勝ってしまうと音がついていきません。うそっぽくなります。自分でそれをやった瞬間に把握しなければダメです。「空」が思い浮かべなくてもよいのですが、そういう勉強もやっておくと、もう少し心と体が自由になってきます。
「空と海と」を同じところでやってみましょう。
音の世界のイメージは、出た後にどう伝えるかというのから計算していかなければいけません。自分のなかで何が起きているのかということは、お客さんにはどうでもよいことです。大切なことは自分が放り投げたものが何を起こすかということからが表現なのです。それは、単純に放り投げた方がよいわけです。自分でやったことを、引き受けていくことです。
ことばで「空と海と」といったときには、どういうかというのは自分のなかで決まってきます。歌になったときにいろんなやり方があるので、もっと自分で選ばなくてはいけません。選ぶセンスというのは、やろうとしたままに声には出てきません。
もしそれが自分を裏切っていたとしたら、何か違うことが起きてきます。それで退屈してしまったり、音楽の世界が宿らなかったり、表現の世界が宿らないとしたら、それは自分のことを知らないということです。知っていても、そこで出すことをきちんと突き詰めなかったということです。そこを感じてつくっていかなければ、いけないのです。
それを音楽的なのりのなかに逃げ込まないことです。そういうふうにやっていると、それっぽくなってしまうのです。それを体の原理から外れたところでつくっていったら、あとあといろんな問題が起きてきます。それをくせをつけてクリアしていっても結局、表現としてはパワーアップしていかないということです。
「空と」といってみて、次に音をつけても同じ感覚で出して欲しいのです。その同じ感覚のなかで「そらと」というのが「そーらと」とか「そらーと」とかになったりしてもよいのです。単に「そーらーとー」と声を出していると、表現から遠ざかっていくし、のども痛めるし、体も使えなくなっていくのです。そういう練習をしている人が多いのです。お客に伝わってなんぼかのものとはいいませんが、その人のなかのより深い要素を取り出せてものになるわけです。
皆はそれぞれ呼吸も違うし、感覚も違います。でもそういうものに無感覚になってしまうと全部、伝わる要素がそこで消えてしまいます。
今の皆さんは、それを取り出したり感じたりすることが先決です。実際、ことばでいっている「空と海と」の半分以上が流れてしまっています。
「セシボン」でやってみましょう。
これを「タッタッタッ」ととってしまうと、ただ音をとっているだけになってしまうので、それを結合して動きのなかで出していくのです。それが歌い出していくようにやってみてください。それを口のなかでつくったり、体のなかでつくらないことです。
そのなかで、自分のもっている音を出していくことです。ここでは音域とか声量とかは、必要ないです。その力がある人とない人というのは上のクラスをみたらわかりやすいですが、「タタター」といった中に何か残せる人と、ただ「タタター」といっている人がいます。そういうことは、自分のなかに感じて出していくことです。
まず、音域とか音程とかリズムとかが必要がないところで、声を自分で扱うというのは、難しいことです。わからなくなったら、ことばに戻してみればよいと思います。
それができたら「ラララー」とつけていくのです。
表現というのは、集約してまとめていくことです。拡散させると通用しなくなります。
とても難しいのです。音楽にのせたら、自分が出なくなるし、自分にのせてみたら音楽がどこにも聞こえてこなくなります。だから、基本に戻るのです。
そして自分のものをつくっていくことです。つくったら失敗はありません。そしていろんなパターンをたくさん入れていくことです。今やっていることは簡単そうにみえます。音域とか音程とかが必要ないところです。
音域、音程、リズム、発声の勉強をしたら、1オクターブにわたって今のような練習ができるのです。そこではじめて歌というのは1オクターブありますから、歌の練習に入れるわけです。今はそういうことはできませんから、たった3音でやってみるのです。
たった3音というのは誰でもできそうですが、それができているか、できていないかという判断をどのレベルでつけていくかというのが、その人の力になってきます。
今やっていることは、感覚を取り出して、そしてそれを動かしたりつくり出したりしてみて、これもだめだというのを練習のなかで何回もやっていくことです。
そうやって積んでいかないと、自分の作品はできていかないということです。
中学生が1万回練習してやってみても、プロが1回でやるものは違うということです。全然かないません。
それは練習量とか一所懸命さの問題ではなく、その人のなかに入っているもので何をつかんで何を捨てるかということが、その場で行なわれているからです。その基準というのを勉強するために、楽器も含め、いろんなものを聞いてみることです。音の世界をみて、それをつないで早くそれを出せるようになって欲しいのです。
「セシボン」と出して、声の問題なのか音程なのかリズムなのか、全部なのか、それでも全部をバラバラにはできるけど統合する力が足りないとか、そういうことを煮詰めて、それをレッスンで埋めていくということです。
映像をみて、何が欠けているのかを感じてください。
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【とりくみ入門 39916】
今の最高を出さない限り次の最高は出せないのです。
今の力で精一杯出さない限りその枠は広がりません。逆にいうと、気を抜いたこととか、力を抜いたことは誰でもできることなのです。何十年も歌の勉強をしてきている人たちは、体を変え、音感やリズム感にも鋭くなり、先にいくやり方も得ていると思うのですが、それには条件があります。
誰よりもイマジネーションをもち、自分よりもすぐれた人の世界を理解することが必要です。理解は頭でするのではなく心でするのです。それには、こんな歌だから感情移入できないとか、自分の好きな歌ならできるという言い訳は通用しないのです。それを通用させないようにしているのは、レッスンや合宿の場です。
「笑顔でこたえる」この音をとらないようにしてください。キーはどこでもよいです。
あなたの世界のなかで、言葉の世界も、イメージも貧困です。そこにメロディがついたり、歌になったときにできることは、「え・が・お・で こ・た・え・る」のイメージしかないのです。
カラーで見えているのを、黒一つでしか見ていないというのと同じです。だからだめだということより、きちんとそのことを見て気づきなさいということです。
歌や音楽を扱っている人たちは、そんな音の扱いはしないということです。楽器でもピアニストだったら、そこでは「タラララ タラララ」のそのなかで音楽になって、心に届くものとして聞こえてくるはずです。
皆さんも声の楽器が欲しいと思って2年間きたのでしょう。大切なことは、この楽器ができるためには、そうやって一つ一つの音に心を入れていかなければできないということです。
今まで歌を処理するということは、点に音を叩くように「ミレレド ミレレド」としていて、そこのなかで「ミーレレド ミーレレード」ともできるということさえ、楽譜上にかかれたことしか読みこんできていないわけです。
楽器の場合は8歳くらいからはやらなければ間に合いませんが、なぜ歌の場合は20歳過ぎても間に合うのかというのは、声という楽器の完成が遅れるというのもありますが、イマジネーションがそのまま日常の声のなかに反映してきているからです。だからそんなに練習してきてない人でも、うまい人はたくさんいるわけです。
それはそのことを表すということを知っている人だからです。それに対してあなたは必要性を感じたのだから、彼らよりすぐれるというのはあたりまえのことでしょう。まず、彼らでさえ持っているような心をきちんと宿すことです。
表現する人にとって一番冷酷な批判は、感覚が鈍いとか、心がないといわれることです。あなたのは全然心がないのです。日常生活に心がなかったら生きていけませんが、それを感じ取り出すことをしていないのです。そういう人が音の世界で取り出さなければいけないから音楽は難しくなるのです。
言葉の世界で音声を取り出すようなことは、自分で半年、1年のなかで知っていくことです。そのためには、「えがおでこたえる」と読むことで、「笑顔でこたえる」ということが自分のイメージ、あるいは自分のイメージでそのことが表現できることです。それから「ミレレドミレレド」というのがそのまま聞こえるのではなく、そこに「笑顔でこたえる」と聞こえてくることです。
自分が感じられないものを自分から出そうというのは無理なことです。いろんな問題はありますが、そのことをきちんと扱っていったら、こういうことは解決されていくことです。
心が硬かったらいろんな病気になってしまうでしょう。部分的に力が入っていてもケガしたりします。
プロがそういうふうにならないのは、自分のなかで自分の体のことを感じながら、自分の最終目的に対して、多くの場合はより一流の人たちのイメージをたくさん入れているのです。
だからより一流の人を見たときに、他のものについては、よいとか悪いということがいえるのです。一流とまではいかなくても、劇を見て、誰のどこのせりふは伝わったけれど、誰のは伝わらないとかいえるでしょう。悪いのは悪いなりに勉強になるのです。
うまい人のはちょっとした差がわかりません。それがわかれば、そこまではすぐにいけます。それがわからないから上達しないのです。
下手な人のは見てすぐにおかしいとわかるのです。そのおかしいことを自分もやっていることがわからないのです。自分がそれをやったときに、自分のやったことを許してしまう感覚がそこにあるのです。おかしいのはおかしいのです。
おかしくないというより、本当にこれしかないというものを握っていくしかない世界です。今はそれがわからないと思いますが、瞬間瞬間にそれを求めていたら「ああこれだ」というものが出てきます。
それが2年間でたとえ1回でも2回でもあればよいと思います。
なぜ日頃息吐きやヴォイストレーニングをやらなければいけないのかというと、そういうものは調子がよいときには出てくるのですが、それをキャッチできないからです。今のがどうだったのかがわからない、というものは次の日には消えてしまうのです。
きちんとやっている人は、「ああこれだったのか」ということがわかれば、その瞬間からできてしまうのです。だからものにできるのです。
あなたにも細かく指導をしないのは、そのことを本人が自覚して、マップができていて、今のはこうだったとか、それをこうすればよいということが、本人のなかで調整できることが大切です。
100種類の色を3つくらいの色にしか見えない人に、どの色で塗りなさいといくら説明しても意味がないことです。白だったら、10種類の白があるということがわかってはじめて、今回どの白を使うとなったとき、その色がイメージできるわけです。
音の世界はそういう意味では説明しにくいのですが、実際に空間と場を持っていたら、そこで自分に伝わるものは伝わるし、すぐれたものを聞いたときに、伝わってくるでしょう。そこまで自分が高まらないとよくわからないという世界もありますが、ただ、普通の分野であれば、そのことが聞こえてきて、きちんと感じられるはずです。
表現されているのか、単にその人が一人よがりでやっているのかというのはすぐに見分けがつきます。それはあなたの態度とか、スタンスに負うものです。そのスタンスを変えなければいけないということです。
もし楽器があったとしても、弾く人が単に「ミレドドミレドド」としか弾いてなかったら、そういうふうにしか伝わらないのです。そういうところから自動的に声は正されていくものです。
そのために体はつくっていかなければいけません。やって欲しいことは、自分が何をやったのかを知ることです。家に帰って「笑顔でこたえる」と読んでみて、なぜ伝わらないのかということを考え、「えーがおで こーたえる」「えがーおで こたーえる」と、いろんな表現をやってみます。そういう表現を300、500個も浮かべてやってみるというのは、今は無理なのかもしれませんが、せめて10個くらい浮かべて、的を絞って出してみることです。
そういうことをいうと、そんなものを1時間でできるわけないと思うかもしれませんが、それを1秒でやらなくてはいけない世界なのです。曲のなかで全て変わっていくのです。「あなたは」に対して「いつでも」も変わるし、「えがおで」に対して「こたえる」も変わっていくのです。その人の感覚で変わらない限り、その言葉やイメージも変わらないのです。
そういうことが、こういう一流の歌のなかには組み込まれています。それを感じること、わかること、わからなくてもよいから出せること、そういうレッスンをすることです。そういうレッスンのなかで声の基準はできていきます。そういう基準がなければどんな声でもよいのです。その人の個性といってしまえばそれまでです。でも自分に不快だし、自分で片手間だと思っていたら、お客さんだってそう思っているのです。
エド・サリバンショーと、美空ひばりの映像を研究しているのです。たった一つのフレーズにどのくらい集中し、どのくらいテンションを高めて処理しなければいけないかということが、わかってきます。そうでなければ、合宿の映像でもよいです。B1の一人はじめに出てきて歌いますが、歌う前までに、どれだけの表情をつくっていて、1音目をいったときにどれだけ働きかけてくるかということを勉強してください。
少なくとも「あなたはー」とすぐに入ったり、こういう入り方はしません。「あなた」に入るのには、時間的なものではなく、気持ち的なためとか構えなどが必要です。なぜなら「あなたは」ということを伝えるのではなく、その人の音色なり、感覚を伝えるわけです。そのために声が従っているわけで、声を出すことが目的ではないのです。そういうことを見ていってください。
急ぎませんが、やはり入門科でわかることは、入門科のときに知っておいて欲しいのです。2年たってこういう注意をされるより、今された方がよいと思ってください。自分が合わないなとか、気づかないなとか、嫌だなと思うことが振りかかってきてこそ、上達していきます。そういう場に挑む勇気を持ってください。
たくさんいわれた方がよいです。たくさんだめだといわれた方がよいのです。すぐに、よいとかいわれるといけません。よいものはよいといっています。単純です。
合宿表を渡します。コメントを一人ずつ3人で書きました。ほとんど一致しています。それは研究所として一致しているのではなく、第三者がここにきてみて、その人に耳があればたぶん一致すると思います。
みんなを入れたら一致しないのはみんなが甘いからです。若干ちょっと歌えていたり、声が出たり、その気になっていたらそういうもので感動できてしまうからです。それ以上よいものをたくさん入れ、そのレベルで求めてきていないから、基準がその場で動いてしまうのです。常に最高のものを持ってきたときに、どれくらいかすむのか、いやかすまないでそれが存在しているのか、そういう基準で見ていかなければいけません。今はいろんなものを聞いて勉強していってください。
それ以上のことをやろうとすると、1パターンがみえてきます。それ以上のものをいろいろと含ませなければいけないのが歌の世界で難しいのですが、自分で感性を出しましょう。「あーなたの あーかるい えーがおは ふーたりの」でそこで握っていてもよいのですが、そのままでは表現には当然なりません。そのなかの自分の微妙なずれだったり、ずらし方がその人の個性だったり、個人のフレーズです。
それとともに、どれだけ音楽に可能性があるかということを、こういうものからつかんでいけばよいのです。長く伸ばす、短く切る、強くする、だんだん強くする、だんだん弱くする、次にちょっと引っ掛ける、早く入る、リズムやメロディからややずり上がると、いろいろなものを入れていったら、ここまでのところでも何百通りのパターンができてくるのです。
そういう練習は自分でやるしかないのです。誰でも自分でやっています。
ここでやることはそのときに何が取り出されたかといこととよしあしを見ていくのです。
よく1時間ではこんなにたくさんできないという人がいますが、冗談じゃない、上のクラスこの曲を15分でやって、次の曲も15分でやっているわけです。合宿にいった人はわかると思いますが、どれだけ早さの違いがあるかということです。下のクラスで曲を覚えている間に、上のクラスでは5曲全部終わって構成まで入っているのです。
そのときに何が出せるかということを知っておかなければいけません。それからまわりとの感覚にどう合わせるかです。他の人とということより、そこで共感されている感覚というものがあるのです。それを無視してどんなに思い込みでつくってみても、ばらばらになるだけです。
今回の合宿はよいサンプル、悪いサンプルが明確になったので反省会を見たらよい勉強になると思います。今回ほど評価がカチッと一致したことはないです。トレーナー全員に出してもらったものに、ほとんど手を加えなくてそのままでした。いつもの場合は少し修正をかけるのですが、今回の場合はぴったり同じでした。誰のどこがすぐれていて、どこがすぐれていないということがです。
こういうフレーズも練習のなかではいろんなことをやってみてください。「あなたの、明るい笑いは」とやってみたり「あなたの明るい、笑いは二人の」とかで考えるのです。そうすると、自分の呼吸が生まれてきます。その呼吸を止めたり、自分で強めたり弱めたりして、自分で変えていくのです。このくらいだと一つに捉えていてもよいでしょう。
歌でも同じです。リズムもついているし、音感もついているから、そのとおり歌わなくてはいけないと思うかもしれませんが、こういうものと同じです。「あなたーのーあかるい」でも「あなたのーあかるいー」と同じに置いてもよいのです。
同じに置きすぎると退屈してくると思うなら、次に「わらいはー」と入ってみたり、「わーらーいはー」と違うところにいってみたり、そうしたら、次に「ふたりのー」と戻さなければいけません。そのまま「ふーたーりのー」なんてやっていくと、この人センスないとなるわけです。
厳しいのは、楽器の演奏と同じです。どこまでははずしてよいか、どこまではきちんと戻さなければいけないとか、どうやったら反動がこないかとかです。
言葉でも同じです。「あなたはいつでも笑顔で」というのがあって、そこに「あなたの笑いはいつでも」と、「笑顔」に対して「笑い」がそこに対照されていくわけです。
作詞家はそういうふうに考えていきますが、曲の場合はもっと自由になります。そういうものが、音に関しても、メロディに関しても、言葉に関しても敏感に入ってくるかどうかです。日本では初歩的なことから教えなければいけないのです。
今みんなにいっていることは、プロの人たちにも教えていることです。今ある劇団のところにいって見ていますが、彼らもわからないのです。そういうものは耳で聞いたときにわかっていないといけないのです。メロディのヒントもあるし、曲の展開のヒントもあるし、そういう一つの音の流れがあるのです。
今ここの課題曲をつくっています。耳の力が最近弱くなってきているので、聞く力をつけたいのです。「枯葉」だけでも何10曲もあります。そのなかでよさそうなものを集めました。「ダニーボーイ」も30、40曲くらいあります。
世界の人たちが受け継いで、それでいろんな人たちが歌っているものを、聞き比べるというのはよい勉強になります。歌い手だけでなく、楽器の演奏家がどういうふうにアレンジをしているのか、それは何らかのインスピレーションを受けてつくり、それから自分の世界も出しているわけです。
題材は今回の合宿のテーマの「エビータ」みたいな形で与えられているものです。その与えられているもののなかで想像していくことです。
できるだけアウトプットされたものを見て、何が表現したいかと問うのです。ところが、自分の思いがあっても、それをメッセージとして歌にして伝えるということになると、とても戦うものが気薄ですから、歌という手段をとりにくくなっています。
さらに、その場に立ったときの自分の感覚です。その場に立ったときに自分が何が出したくなるかというものが、結局、自分に入っているものですから、これは漫画家でも、文章を書く人でも同じです。はじめからわかっているわけではないのです。何かのきっかけがあるわけです。あとから見て理屈がついてくるものなのです。
私の本でも読んでもらうのはよいのですが、そのとおりにやらないで、それをメニューとしてつくらなくてはいけないのです。マニュアルに入ってしまったらだめなのです。本は覚えて、頭に入れておけばよいのですが、基本的にそのときの感覚を最大限開いて取り組まなければいけないのです。
当然、時代も変わるし、空間も変わっています。そして変わらないものもあるのです。それは人間の一番奧にあるところの感覚で、そこにこだわるのです。そのときに一つの共通の価値観が生まれるときもあるし、全然違う価値観が出てきて新しいものにひっくり返されてしまうこともあるのです。それは誰が正しいかということではないし、その人と時代が決めていくことです。
皆さんがやっていきたいことでも、歌でもたくさんのものを多くの人が歌っているようでいて、そんなにたくさんのものはないのです。だからこそ通じ合えるわけです。向こうの歌を聞いてみても、日本のものを聞いてみても、そのなかに同じ部分が出ていたら向こうの人でも認めます。
美空ひばりさんの全集には、彼女にもいろいろなものが出ています。たった一つのフレーズにどれだけ精魂を入れているかということは伝わります。それをただ一所懸命ではなく、作品としてどのレベルに上げていくかということです。
どの感覚でやっているかということは、向こうの人たちの体とか、勢いとか、リズムで歌っているのとは違う意味で勉強できるところは大きいと思います。合宿のものを見るときも、耳から心で聞いていくことです。そうするとより豊かになっていくと思います。
感覚を変えるということは並大抵のことではありません。それはあなたの個性をなくすということではなく、より深いものを取り出すのです。
表面的なものを否定するわけではないですが、その程度で一生歌っていてよいの、もっとよいものあるんじゃないの、出し惜しみせずに出しなさいということです。
あなたの持っているものがだめなのではありません。ただ、自分でそれを雑に、これくらいでよいやと扱ってしまったら、それはその程度でしか通用しなくなるのです。
そこは、自分の問題です。本人がそれまでしか欲していないわけですから、やれなくなります。