レッスン2
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【入門① 39417】
【入門 39916】
【とりくみ① 39826】
【とりくみ② 391111】
【とりくみ④ 391111】
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【入門① 39417】
よく1ヵ月目の課題のモノローグをやった後は、もうやったと思って次に進もうとする人がいるみたいです。できていないなら、できるまでやることです。はっきりいうと、ここの1ヵ月目もしくはレクチャーのときにやったようなことで力をつけることが2年間で最低限、やることです。実際に曲やプログラムはさまざまにあります。
ここを出ようとしたときに、何をもってできたのかということであれば、2年後から学べることをわかること、レクチャーでいった表現でいうならば、半オクターブを確実にコントロールできるということです。これもとても難しいのです。ところが、あるレベル以上で歌えている人でそうでない人はいません。
ですから、「ハイ」とか「ララ」をきちんとイメージして出せるということです。その上に音楽を乗せていって欲しいのです。
今はいろんな人がきています。目的は音楽だけではありません。音声方言のレッスンをやっているとみてもらうと、もう少しわかると思います。
私のレッスンははじめはわからないと思います。2年くらい経つと、月に4回くらい出ている人であれば、基本は踏めていくと思います。
ここ10年間くらいずいぶんいろんなものが復刻されてきています。昔であれば、カンツォーネは原曲を皆さんに聞かしていたのですが、それを日本人が歌ったようなものが手に入ってきています。1番わかりやすい勉強の仕方というのは、比較することだと思います。比較して聞いてみて、よしあしの判断をつけてやっていくのです。それはCDでも舞台でも同じです。
誰かと比較して、どちらがいいとか悪いという比べ方よりも、そこに絶対的な存在のようなものをみて、どれくらいかすんでしまうかということです。
上のクラスではそういう比較をしています。ステージでも、その人の一番いいときと比べてどれくらいマイナスかということをみています。
それから一番売れているといわれている人をみても、一流のものを聞いたあとで比べると、調子悪いと思えてしまうというのは、その部分は何なんだろうということです。それは表情なのか動きなのか、それとも声のことなのか、それはその人の個性でもありますから一概にはいえませんが、そういう基準で自分をみるようにして欲しいと思います。
どれから学んでいけばいいのかわからないという人がいますが、それは自分で決めていっていいのです。学び方があるわけではないのです。誰かがこういう学び方だといっても、それは参考とすべき学び方の一つで、合う人には合っても、合わない人にはあまりよくないと思います。
ですから私は一人で教えているのでなく、それぞれのトレーナーでまったく違うことを教えているのです。教え方が違っても方向は同じです。きちんとした基準を示してもらうようにしています。
その人がステージができるなら、その人はステージの基準を持っているということです。できるということは何かというと、何をやっていいのか、やってはいけないのかということを判断し、たった一つのことを説明するのに不必要なことは全部切っていくのです。そしてそのことを最大限に見せるために、その人が正しく判断してつくっていっていくのです。舞台でもそうです。
その基準がその人にあれば、その基準をどう教えるのかというのが難しいのです。これは、押し付けてはいけません。何をやればよいのかが1ヵ月でわからなかった人は、ここでやることを持ち帰って自分なりにやっていくことです。
ここで言葉のことをやったら、家では自分のメニューをつくってからやればよいのです。そういう手間隙をかける労を惜しんではいけません。
はじめに50音表などをつくっていますが、それが1時間でできたから10時間かかった人よりも優秀だということではないのです。それがその人にとって叩き台になっていけばいいのです。1、2年と使っていくうちに、覚えるだけでなく、変えていくメニューが成長していくのです。自分の力がついていくようなものをつくったほうが勝ちということです。
みんなに書かせても8割の人は、次の月からポイと捨てているでしょう。そうしたらなんの意味もないわけです。それにかけた時間も無駄になるわけです。それに10時間くらいかけた人は、10時間も使ってつくったのだから、がんばるでしょう。
あれだけ考えたなら、この言葉より自分はこれがいいなと、実感をもって変えていくことができます。
自分の材料とかプログラムが進化していかなくてはいけません。だからできるだけ手間や熱意をかけた方がいいのです。
環境が整うことが必ずしも上達になるということではありません。たくさん出れる人は出る方がよいのです。しかし、少ないからだめということではなく、そこからどう膨らませていくかということです。
ここのモノローグの内容というのは、2年くらいで、できないことがつまっています。朗読ももう2年かかってもやれないだけのものがあります。
ここで2年生というと、1年半くらいで7割が終わった気分になるのです。ほとんどの人が7%もいっていないわけです。
期間とか、量とかそういうものではないのです。そういうものを深めていくために、ある程度の時間がかかるのです。ですからそれを自分で楽しんで欲しいのです。モノトークも、ステージ実習も、自分で楽しまないとだめです。
そうしたら最初は面倒くさくても自分の頭のなかからひねり出してつくることが習慣づけられます。出したあとにこういうものも入っていたとか、こんなものができたとか、さらにストレートに気づくようになります。そのプロセスがあとあと大きくなる人となれない人との違いになってきます。
本当にじっくりと手間ひまをかけていってください。会報も、あるものはできるだけ生かしてください。その生かし方が能力です。20歳過ぎた人は、今までの人生を全部かけてやってくださいといっています。
スポーツの経験でも自分ではがんばったと思っていても、よく考えたらキャプテンやコーチにいわれたことの半分しかやっていなかったとか、美談にしているけれども8割はサボっていたとか、事実を省みることです。ステージは誰も助けてくれません。ここでも同じです。自分のなかでごまかさないようにやっていくしかないのです。
今までたくさん聞いていたと思っていたけど、本当にしっかりと聞いていたのかということです。それはどこで問えるのかというと、自分を通じてどう出てくるかというところでしか問えません。とてもシンプルな世界でもあります。
いろいろな学び方があるし、いろいろな学び方が許されるし、それを楽しんで欲しいものです。材料を自分でとってきて、自分でメニューをつくってみて、そこで想像力を発揮することが、歌のなかでどう歌うかとか、どう感じるのかとか、どう出していくかということと同じことです。
だからプロのヴォーカルというのは、必ずプロのヴォイストレーニングをやっているのです。プロの学び方をしているのです。レッスンと実際にやれることというのは大きな結びつきがあります。
そういう背景がなくて、そういう生活がなくて、そういう手間をかけなくて、その人からすごいものが出てくるということはないのです。
ですからあまりわけなくてもよいのです。仕事だからだめ、TVをみていたからだめ、映画をみていたからだめではなく、こういう表現活動の一番おもしろいのは、何をやっていても、どんな無駄をやっていても、本人にその気があったら結びついてくるということです。あとで結びついてきます。
そこでどう、そこから自分の出しているものに結び付けていくかということです。それを自覚できたときにようやくそこから練習になったという感じがします。
今まで勉強しなくてはいけない、これから3、5年後どこかに出てやると、自分を外側において受身だったものを、もうすでに出ていると、人前に出ていなくても、プロに認められていなくても出ているという事実から主体的になることです。
出ているなら今日あったことはきちんと自分のなかに入れなければいけないし、明日まで待たなくてもやっていかなければいけないと思います。そうでないと、変わりません。
いくらカルチャー教室でレベルの高い先生たちがいいことをいっていても、あのなかでは育たないのです。それは来る人がそういう生活を持っていないし、そういう感覚を持っていないのに、すぐれた先生だけがやってみても何もならないのです。それは先生のライブです。
ここでかけるものは最初はあとで意味のあるもの、わかりやすいものを聞かせています。ここを持って私も一人で勉強しているより、多くの才能のある人、優秀で歌える人と会えました。それなりに基準もできてきました。それをあなたにすぐに全部わかってもらえるとは思っていません。
それはあなたの持っている音楽に対する考え方の、よし悪しとかと関係ありません。かたくなに持っていてもよいと思うのですが、一度そういうものも忘れて、やった方がよいと思うのです。
今やらなくてはいけないのは、みんなに入っていない音の世界を入れていくことです。聞いてもなかなかわからないと思うのです。日本人はあまり本質的なことを突き詰めないで、どこかでぼかしていわないのです。だから、それを超えて欲しいのです。
まずそのエネルギーを得て欲しいです。たとえば息を吐きたいといっても、あごをひいて姿勢をどうこうとするよりも、プロの作品を聞いておき、自分が立ったときにそうなってしまうようにすることです。そういうことで覚えていくものだと思います。
最初はみんなが触れられなかったようなものを聞かせて、そこで一瞬か二瞬かをやってみるということです。へたなあなたが消えれば、うまくなるのです。
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【入門 39916】
人前に出たときに一番よい状態を取り出すということです。それは難しいことです。経験をしてきていないというよりもむしろ悪いイメージで持っている人が多いかもしれません。
初心者のほうが自由にやれているかもしれません。学校でグループ発表をやるとしても、前に出ると、あがってしまったり、熱くなってしまったり、普通でなくなるわけです。そこで意気揚揚とできたとか、すごい発表ができたという人は、特殊な経験をしているわけです。
海外の場合は逆です。そのことは家庭のなかでも、学校の教育のなかでも存分に機会を与えられているわけです。人前に出て自分の言葉で語るということを前提に生活していってます。
そういう面の問題というのは大きくて、これは実力以前のところでのことです。役者の世界でも、そこで入りきれなければ役はできません。
そこで、日本の場合はかなり強制的に入れるわけです。劇団に行けば、とんでもないエチュードを与えられ、それを自分の肌で感じたり、対応したり、昔のセールスの特訓みたいなことをいれていかなければ、日常のところから非日常のところに入っていけないのです。
舞台というのは日本人にとって、非日常的なことなのです。彼らにとってみたら1、2段上がればよいことでも人格を転換するほどの変化が強いられます。
劇団の場合は、そのやり方で効果はあがるのです。他人になりきる仕事ですから。音楽の場合はもっと心の働きかけのようなところから声が生まれてくるのですから、あまりに強制的にそれをつめすぎてしまうと、つぶれてしまう人のほうが多いと思うのです。
私もできるだけプレッシャーを与えようとしているのです。
歌を20曲覚えることより、1曲をお客さんの前で、伝えることが大切なのです。きちんと余裕を持ってステージにあがれるためには、たかだかレッスンやトレーニングくらいで、我を失っていてもしかたがないだろうということです。
ステージでは誰も助けてはくれません。そういうテンションは絶対に必要だとは思うのですが、自分で体を知っていくしかないです。
やれるためにはどうすればよいかということです。形から入って、柔軟とかストレッチとか準備体操をやっていくとかいうこともあります。いろいろな人のいろんな方法を聞いてもよいです。でも、経験のみが力となります。
本のなかにある範囲では書いています。その時間に最大のテンションを高めるためにはどうするのかということはあります。たとえば午前9時に発表しなければいけないとしたら、合宿に行った人もいると思いますが、ある人は、8時45分にやらなくてはいけないから前の日の9時に寝たわけです。
ある時間に対して最大のものを発揮させるためには、どんな人であろうが、最大限それに対する努力はしなくてはいけないのです。ステージの時間にもよるし、レッスンの時間にもよると思います。そこまで自分のことを知らないと難しいです。先輩の体験などを自分の糧にできる人は、とても少ないものです。
入門科の人はまだ手探り状態でここをどう使おうかと思っているでしょう。そう思っていると、あっという間に2年くらい経ってしまいます。時間もお金も大変だと思いますけれども、私は肝心なこと、声の基準は2年のなかでつかんでいってほしいし、得てほしい。その2年で得たものをもとに次の2年があるのはよいのです。上の人たちよりはもっと大きな意味で活かしてほしいと思います。
だから2年以上、いる人というのは、単にいるのではなく、何らかの理由でそこで極めている部分があるからいると思いたいのです。2年続ける人というのはこのなかで1/3以下になると思います。4年になると本当に少なくなると思います。
その違いはなんなのかということを勉強してほしい。それは、実際にあなたの中にもみられるわけです。
この人が何年いるとか、この人がプロかアマチュアかとか関係なく、画面を見ていたら、この人はできる、この人はできないということが明確にわかるわけです。わずか10分、15分くらいの発表で、そのときにこの人は欲しい、この人は入ってもらったら困る、というようなこともわかる。劇団の監督だったら、誰を取るかというのが完全に決まってくるわけです。
そうしたらそこで働きかけてくるものというのは何かということです。行っている中で、3日間同じ条件で同じものを与えられて、どこまでつくれるかという力です。与えてから5時間後にどこまでできているかというのでも、全然違います。
5時間後に大体、できていて、構成に入っている人もいれば、まだ1曲めを音程とり、歌詞を覚えることでそこまでの人もいます。3日目に、大きな差になります。
それは日頃の練習でも同じです。力があるとかないとかということは、それに対応できるだけの感覚とか、体を磨いているかどうかということです。
それから1番大切なことは、そのことというのはどんなことなのかということを知ることです。みんなにとってみたら、こんな話を聞くよりも声のことをやりたいとか、実際の問題を解決する方が先決と思うかもしれません。そういうことは時間が解決しているように組み立てていくわけです。
なぜそれが難しかったり、その先にいけないのかというと、目的は違うからです。みんながはじめに書いたとおり、歌で人を感動させたいとか、何か自分の世界を表したいとか、つくりたいということでしょう。でもトレーニングに入ったとたんにみんな忘れてしまうのです。よほどその結びつきが強い人でないと、とんでしまう。でもその結びつきをつけないと、なんの意味もないわけです。大体の人は頭で考えているところからなかなか入っていけないのです。
疑問をもち考えることは大切です。特にはじめは考えるだけ考えてほしい。でも考えてもしかたないやと、出ればいいやと、わからなくてもできればいいやとそういう考え方にならないとなかなか難しいのです。わからないからできないのではないのです。考えなければできないわけでもないのです。考えなくてもできる人はできるわけです。それが何を感じて何を得ているかということです。
本当に利用するということがどういうことなのかを知ることです。他の人と同じようなことをやっていても出られないということはあたりまえのことなのです。ということは、合宿でも、たった1日、それで他の人たちが一所懸命3日間やったことを理解して、1曲にそれ以上のものを出さなくてはいけないというところにきて、元をとるためには、自信や能力みたいなものも必要です。
できるかできないというよりも、まずそこまでの心構えがあって、それを絶対自分に生かすんだという目的があるかでしょう。
それで劇団がよいとは思いませんが、自分の思うようにはやれていると思うのです。それは何年か経ってから出てくるわけではなくて、やはり自分で、得ていくものです。
ここで、ああコイツ出て行くな、やっていけるなと思う人はやっていけるのです。そう思わせない人はどこにいってもやっていけないのです。ここを辞めていろんなところをぐるぐる回っている人もたくさんいます。誰でも同じ見方をすると思います。
ただ無責任な人は安易にほめる、前歴もあとにどうなるかもそんなことはどうでもよいのですが、いるところで、この人はやっていけるという確証を与えない人は、どこでもやっていけないのです。
ただ、日本は不思議なところで、ちょっとかわいいとか、ちょっとかっこよいというだけで、そういうものがなくてもやっていける人もいるし、出れる人もいる。もちろん長続きしないのです。合宿の上映会で見たら、先輩方が、なんでこういうできないのだろうと思うかもしれません。しかし、自分だったらどうできたかということです。
ここで学んで欲しいのは、プロの感覚とプロの体です。そのことにどれだけのものが必要なのかということを一つの舞台を通してきちんと自分のなかで理解しなければ、感覚的に理解しておかないと自分から出ることもないということです。
今回はエビータを使って、その間をシャンソン、美空ひばりの歌と、ピアフの歌とそれからカンツォーネと日本のフォークで結ぶということをしました。一見ばらばらのようにみえます。なんの世界もない人にとってみたら、ばらばらでしかありません。
でも、歌の世界のある人たち、あるいは音楽や表現の世界がわかっている人にとってみたら、全部同じことです。歌うことは、悲しいことか、楽しいこと、言葉が違っても、メロディが違っても、それが伝わるから伝わるわけです。
エビータを材料にするから、エビータのことを知らなければいけないということではないのです。アルゼンチンの歴史の勉強をしなければいけないということでもないのです。マドンナはなぜその映画を自分で演ずることにしたのかということを考えてみましょう。
そこに何らか心を動かすものがあって、それを通じたらより自分が生かせるというものがあって、そしてまったく違う役を自分のものとしてこなせるわけです。それができるということはプロの感覚があるということです。あるいはプロの体があるのです。
この歌だからよい、この歌だからだめというのは、やはりその歌を見抜けていないとともに、自分のものとしてよいものを取り出せないということです。そういう勉強をした結果、少しできる人たちはどういうことができているのかということです。
その班に入ったら何かできるのではなく、そういうことが自分にふられたときに、他のメンバーを使って、そういうことが組み立てられるのかということは、自分の歌を組み立てることと同じです。5、6人で組み立てればよいわけです。それは誰かが指示するのではなく、そういうなかでそういうものを知っている人のなかだと成り立っていくし、知らない人たちのなかだと、ただ順番どおり歌ってみて終わりです。どこに差があるのかを知ってください。
「あなたは いつでも えがおで こたえる」
日頃、何もできていないということがわかりますか。入門科だから声のこととか、音程のことをいっているのではありません。お客さんがいたらそういう表現をするでしょうか。モノローグでも、声優の課題でも、そこできちんと課題をおろしてこなければだめです。
読むだけならば、小学生でもできます。今あなたがやったものは、そこらへんのなか学生や高校生でもできるか、もしかしたらそういう人たちの方がうまいかもしれません。私がいつも注意するのは、今できることを精一杯やらなくて、何ができるんだということです。発声の問題ではないのです。
自分の歌とは関係ないと思っているかもしれませんが、同じなのです。そういうものが与えられたときに、そういうものを自分のなかできちんと読みこんで、どんな状況でもそれを出せない人がメロディをつけたり、伴奏が入ってみたらもっといい加減になるでしょう。自分でその空間のなかに入ることです。
まだ1、2ヵ月だから厳しくいいます。これで2年経っていたら、単にきている人だと思うだけです。だからしっかりと見てください。
合宿にくる人たちはすぐれている人たちばかりではないです。何がだめなのかということです。全員がだめだったらわからなくなるでしょう。もし劇団でその一つのせりふしか与えられていないとしたら、そんな表現しないと思います。イマジネーションがないのです。場をつかむとか空間をつかむということを考えてみてください。歌い手でも同じです。もう一度やってみましょう。
「あなたは いつでも えがおで こたえる」
歌の世界というのは、伴奏や音程もメロディもついていますが、今の状況と同じで、何かを与えられたときに自分がその心や気持ちとかをどう音声に入れて伝えていくかという世界です。そのことに関して、無感覚、無神経な人、雑な人、当然入っていけないわけです。
そこで何が生じていたり、起こっているのかを自分で知らなくてはいけません。トレーニングを録音にとって聞いてください。どうしてここはマンツーマンではなく、グループでやっているかというと、早く気づくためです。他の人のを聞くとあきれるでしょう。何も伝わらないし、動かないのです。それがどういうことかを知ることです。
こういう世界にあなたは住んでこなかったのでしょう。しかし、ここにきたら、その世界をきちんと理解しなければいけません。今の1行で「あなた」は「あなた」が出てこないと困るのです。「いつでも」は「いつでも」なんだと。どんなイメージでもよいのですが、言葉には意味があるのです。
音楽というのはもっと複雑なことをシンプルにやるのです。それを抽象化させて、象徴化させていって、音が「タララー」と鳴っているところに「あなたはいつでも笑顔でこたえる」ということを伝えるだけのことをやるわけです。
みんなにとって難しいのはわかります。でもやろうとしなかったら困ります。音がとれたとか、超え量が出るとか、のどが外れたとかそんなことではないのです。
その世界をていねいに本当に相手に伝えるために扱っていくために、そういうふうな技術とか、発声とか、音感とかリズム感とかが必要なわけです。ですから、今の声をせりふとして使うことで、半分くらいは取り出せていないと他のものを入れるとぐちゃぐちゃになってしまいます。その上で習うとトレーニングのためにおかしくなっていくというのが、典型的なパターンです。
慣れていないために、その情景や状態をつくるのに時間がかかるというのはよいのです。1時間かかろうが、1年、10年をつくるのにかかろうが構いません。本当の意味がわかってくるまでに心で感じたり、声でつくったりするのには時間がかかると思います。ただ必要なことは、それに対してアプローチしていかないといけないということです。
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【とりくみ① 39826】
今一番知ってほしいことは、すぐれたものにたくさん接する必要性です。そういうものをいろいろと用意しています。それは皆さんのためでもあり、研究所やトレーナー、そして自分のためです。そんなに難しいことではなく、おもしろいからやっているだけなのです。そのおもしろさをわかって欲しいと願っています。
ここはプロデュースもしていませんし、実際に劇団活動をやっているわけでもありません。そういうところに昔、いた人たちがきたり、出たりして活動しています。
ここをそういう気風がなくなってくるのが一番心配していることです。今入ってきている人たちは、本当にそういう世界を知らないし、そういう世界が身近になかったという人がほとんどです。でもそれはそれでよしとし、違う意味で人間に合わせていったほうがよいとは考えています。
技術や声が必要といっても、歌を身に付けてもやってはいけないのです。そういう人たちはたくさん知っていますが、なぜそういう人たちがやっていけないのか、世の中に出て行けないのかもわかります。
大体やれるタイプはその逆が多いです。情熱や、やる気しかなかったという人たちが出て行っているわけです。
出て行くということ自体は、歌の世界を構築していくとか、声をよくしていくということとはまったく関係がないことなのです。ほんとに歌が好きで、本当に声をよくしたいなら別に出て行く必要はないのです。出て行くということとはベクトルのとり方が違うわけです。
ただ、自分の持っているものを人に与えて、そのことでより大きなものを得ていくということでしょう。それは、生き方として、そうなっていかないとおかしいと思います。ここにくる人の大半は、きっと私が同年代のときなら、私よりもずっと才能のあった人でしょう。今の私より才能のある人もいます。
でも、ほとんどの人は世の大勢と同じく、だめになっていくとしたら、それはここでだめになっていくのではありません。世の中の99%はだめになっていくのです。中学生までは、2年違うと、まったく違うでしょう。20歳すぎたら、年齢が関係なくなるくらいにしか学んでいないのです。それは人間としてだめになっていくのではないのです。
そういう世界で生かせる才能を、きちんと開花させないというところからみてのことです。それは、その人がだめというよりも、その人間がそのことを選びつづけなかったということです。
そうなってくると、はじめてその前提にあるものが問われるのです。できるかできないかということよりもそっちの方が重要です。
今のここをは一般の人がきて、ここ自体が窓口になっています。ここに入ってきてはじめて見るアーティストや、ここではじめて聞くような曲が多いようです。本来であれば、その半分くらいは、すでに自分で勉強していないといけないのですが、今はそこからのスタートでしかたがないと思っています。
もしそれを使わずに自分で勉強していこうというのであれば、たぶんその前提の条件を抜かしてみて、少々声を習得してみたところで、少々人前で歌えるようになっても、それを動かしていけるものにはならないと思います。だからこういうものと接点をつけていくということは、とても難しいことなのですが、大切なことです。
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昨日の新入ステージは、私にとってはショックでした。公的年金とか、福利厚生とか、そういうもので生きていくしかないというような人たちにとっては、表現の活動というのは対極にあります。自分でまず自分の生きる責任を引き受けることが第一歩です。
ここの対応にも問題があるかもしれませんが、ほかの人間があたりまえに読んで、それをあたりまえにやっていることであれば、そのことを読み忘れたり、そのことを自分の頭に入れないことで、どれだけ自分に不利益になるかということです。ここはそこまではしていません。
準備ができていないから追い出したり、課題が間違っているからといってやめさせたりはしません。でもそれが仕事だとしたら、もし私がどこかで頼まれて、一度でもそんなことをやったとしたら信頼が壊れます。
その人はそうやって生きてきた、そんな程度の仕事しかやっていない、もうあいつとは関わらないほうがよいということになっていきます。みなさんは、だからこそ、お金を払い、だからこそこういうところで勉強しているのでしょうが、ただ、その感覚が落ちている人も少なくないと思います。
昔は1行で書いていたことを、今はA4の紙1枚、あるいはA4を5枚くらい書いています。しかし、それさえ、頭に入れていないのです。そのことは結局誰が損をするのでしょうか。あなた自身が損をするのです。その辺がどんどん受け身になっているのではないかという気がします。
いろいろな事情で耳に入らなかったというのはしかたないとは思いますが、同じことを何回も書き出し、いっています。それは研究所がどうということではなく、社会との関わりでの不適合性であり、さらにお互いの労力と才能の無駄です。
たぶんここの利用方法というのは、電話帳1冊あっても書き足りないと思います。
どこでもみられている、判断されていると思ってください。そしてみられているのにこたえられるだけのことをやってきた人にしか、次の世界には開けていかないのです。そのために常識とか、マナーとか、挨拶とかも必要なのです。そういうことはできたからよいということではなくて、それは自分がより何か力を注ぐものを妨げないために必要なわけです。
合宿などでは3日間一緒にいますから、そういうところがよくみえます。ここに他の先生を呼んでも、一人ひとりについてのコメントをもらうと、同じことをいわれます。それは日常的な生活ができている、できていないというよりも、そういうことに対して鋭いか、どうかです。
たとえば、誰かがきて誰が応対に出るかというときに、考えたり、動かない人というのは結局、いつも何もできないのです。合宿に行っても、すぐれた人というのは宅急便がきていたら、荷物を運ぼうと動いています。そうでない人はみているのです。その差だと思います。
そんなことで芸事が深まるとかではなく、もしこういう世界に生きていたら、体が先に動く、動く人が一般には少ないから、そういう人たちには黙っていても道が開かれていくのです。あたりまえのことができる人があまりに少ないからです。
そんなことをここでいわなければいけないというのもおかしいのです。そういう人に合わせてはいけないと思います。ここと関わり第1線で活躍している人や、主役などを取っている人には最初からそういう感覚があります。ここは自分のために利用し、何を得て、どう使おうということをです。
私がしゃべっているだけではわからないようですから、みんなの世代に近く、みんなと同じような心持ちでここを入ってきた人で、どういう舞台をやり、どうやっているかということでしょう。結局、その人が舞台に立ったときに、人がその人を応援してあげようと思う、そんな生き方とか、そんな表情とかをしていたらどこでもやっていけるということです。
それをどうしてマイナスアピールしてしまうのかです。誰でもかっこ悪いところよりも、かっこよいところを見たいのに、そういうことが感覚としてないと思います。そういうことの最高峰にあるのが、マドンナだったりするのです。
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ふるさとキャラバンというのは、日本のなかではとても人気のあり、なかなかチケットが入らないらしいのですが、去年はプロデューサーから30、40名を招待してもらいました。みんなでどこがよい、どこが悪いというアテンダンスを出したのですが、でもそれだったらお金を払えば見にいけるわけですから、いつも自分に課すべきでしょう。
そこで主役をやっている人が一体どれだけ毎日、大変な思いをして、そうなるまでにどうだったかということを知るべきです。そういうことはテレビでもたくさんやっています。
ここの関係者がいうと、もう少し強くサジェスションできるのではないかということです。それがよいかどうかはわかりません。しかし、漠然としている人にはよいと思います。
そういうものがこういうものに表れているわけです。スピーチがうまくできるのは、毎日そういうことを考えて生きているからです。そういうもののないところで、いくら声をよくしようとか、歌をよくしようといっても、趣味でしょう。それはそれでよいのですが、私はあまり分けてはいないのです。
何もデビューしたからすごいとか、劇団で主役をしているからすごいということではないということです。それは結果としてまわりの人の枠で働くわけですから、実力でみてすごいかどうかということで本来判断すべきことです。人気が出ても、それなりに何年も受け継がれていくものとか、多くの人を巻き込んでいくものというのは、そのエネルギーがあります。ただ、その人が持っているか、まわりの人間が持っているかの違いはあると思います。
エレインペイジと、美空ひばり、
画面に気を取られるのでなく、耳で聞いてください。伝えたいのは音楽の世界です。
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【とりくみ② 391111】
「ヴォーカルの学び方」という本に、いいたいことは全部書いてあります。本にはいいたいことが書いても、それをそのままレッスンにもできないし、それをあなたがやってみていても絶対に使えません。そのことがきちんとやるとわかることです。
千くらいの経験のなかから一行を書いているわけですから、その一行のなかで千の経験をして欲しい。千は無理でしょうから2つでも3つでもよいです。
同じことをレッスンのなかで気づいていってほしいということが一つ、それから芸事の学び方として、変えるべきことを知ることです。いろいろなところで話をしているのですが、昔よりもよくなった点と悪くなった点があって、それは教育の問題からもあると思うのです。
20代と30代でも考え方がずいぶん違うと思いますが、芸事の世界は基本的に不平等なものです。合宿とかいけばよくわかると思いますが、やれる人は全部のパートをとっていく、やれない人は一つも出番がないというのが、こういう世界においてはフェアなのです。相手に与えられる力から、シェアされるからです。だから早いことそれに気づいてほしいということです。
今の学校教育というのは、頭がよい人も悪い人も、とにかくまんなかから逸れれば逸れるほどいじめられるというような感じでならされています。そういう問題が、ここ4、5年、ここにも多くなったという気がします。年をとってきたからそう感じるのかとも思いましたが、やはりここ3年から5年、20代の人たちは、世代の問題というのでも、そういう面があるということを知ることは、必要です。私も文句にならないように気をつけているのです。
「おまえたち戦争で苦労したことがないだろう」といわれても、そういうことは自分の責任でもないのですからしかたない。しかし、それで苦労した人と何が違うのかということは、みていくという必要はあります。
もっとも何かをやりたい若い4年間を犠牲にして、そのエネルギーが高まる。それは戦争だけに限りませんが、久保田一竹さんみたいにシベリアまで行って、もっと遠回りをしたようでも、結果としてそれが一番よかったということに人生をした、その力をみるのです。しかし、彼には10代で基本があった。
芸事の難しいのは、基本のことともうひとつ、伸びる時期が違うということです。1年や2年では何ともだめで、4年5年目、あるいは6年経ってから伸びる人もいるのです。たぶん伸びる時期にそういう状態になるということで、こちらからは待つ。強いて首根っこをつかまえて水を飲ますようなことはできないのです。それをやってしまうと、その反動がくると思います。
だからその時期に、きちんと勝負できるような体制を、日頃から整えてくれていたらよいのではないかと思うのに、多くの人はそこまでにやめてしまうのです。ただ、それがだらだらとしていくと、歌の世界にいかなくなるような気がします。
トレーニングのよくない部分というのは、まだ次に勝負があると思ってしまうことです。ステージ実習でも、8カ月経ってまだ8回だと、そういうところを早く抜けないとダメなのです。
歌を人から教わるなんてとんでもないと思っているような人たちとは逆に、こういうところに来るということは、頭で考えて物事をやろうとしてしまうところがあるのです。
もし考えたければ、哲学か何かで論理の徹底したものを勉強していけばよいのです。中途半端がよくありません。
芸術の分野は、特に音楽なんてまさにそうなのですが、理性を切って理性をくみあげることなのです。そんなことが吹き飛ぶようなことを何かでやるわけです。
今日使った曲も、そこに計算はあるし、頭も使っているのだけど、それ以上の何か、結局その人がそこに立っているという部分での訴求力です。「ハイ」とか「ララ」でも、同じことをいうのですが、まずその状況に入りきるということが必要なのです。
音楽でも、ここがスタートだというところがなければいけません。舞台でも、それは必ず時間のなかで定められているわけです。ここの時点で空間が生じるわけなのです。そこで入り込むところと出すところは、ここに立つということを条件に、入り込んで、出るということで一致するわけです。
トレーニングというのは、これを分けてやりますから、それを一致させなければいけないのです。それを統べるところの集中力というのを持たなければいけません。3年後、5年後にうまくなって、どこかで大化けが起こすこと、大化けができる条件というのは、最初からあって、それは、ものごとを本質で観ることを深く入れていくことです。
湯川礼子さんが宇多田ヒカルのことを酷評していました。人がどうこうやっていることはどうでもよいことですが、評論家は、評論しなければいけないわけです。観る人の求めるものは歌ではありません。その人の可能性が形をとった作品です。それというのはその人の一つのパワーで表れます。
ではパワーというのは何かというと、人並みはずれた集中力です。これは24時間集中していろということではなく、レッスンで、舞台で、人の5倍から10倍の集中力が出せることです。そこでつかまない限り、声というものは統一できないし、歌はもっと、音楽でも同じです。
声を統一することには自信があっても、実際のステージになって、音楽を完全に30分間コントロールするのは、プレBVを見ても難しいようです。30秒くらいで集中力がとぎれています。
それが少なくとも50分、舞台のなかでできるというのは、最低限の条件でしょう。
ピッチャーだったら、それが200球続かなければいけないわけです。素人だと10球くらいで絶対に甘くなります。その10球でさえも大したことはできません。その条件をつくるということが、一番大切なんじゃないかと思います。
2年からの勝負というのは、そこまでにそのことを、体得していくのです。もし今までその状態がつくり出せないのであれば、なにはともあれ、それを感じるということが前提ではないかと思います。
頭で考えてやったことというのは、意識しますから、それは部分的なもので、その部分的なものをいろいろと磨いておくのはよいのですが、それを統一して使えなくてはいけません。
統一して使うのは、技術ではないのです。意志です。何よりもそれがなくては自分を磨くために自分よりすぐれた人や、そのレッスンを充分に使うことができません。☆
ここのなかでも声がよくなった人はいますが、それが歌のよさにつながらない人もいます。声楽科にもそういうタイプは多いでしょう。ボッチェリみたいに、次代の三大テノールに入っているようなすごい人たちに対して、ポップスはボノが渡り合える、というのはどういうことかというと、それは声の技術とか、声量とかではないわけです。ある意味では、それを壊しているところに出てくる作品なのです。
エド・サリバンショーも一回見たら、それで見たとなると思うのですが、学びましたか。日本のグループサウンドはダサイなと思っていたのに、アメリカも50年代というのは、あんなに足が太い女の人が歌って踊ってショーができていたのかと驚きました。日本はあれをまねていたからダサクなっていただけで、ある意味では日本を見直しました。
やはり何事も当初始まったときというのはこういうものなのです。でもそのなかで、今に残った人たちというのは、それを超えるものがあったということはすぐにわかります。
それは外国人だということでの音声の扱い方のレベルの高さ、音楽性、精神性なども含みます。精神性に関してはどこの民族が勝っているということではなく、日本の音楽界はまねているので精神性が落ちているだけと思います。アニメを書いている人や、漫画家の集中力とか、精神力の方が強いかもしれません。もっと勉強しているかもしれません。
そういうことでいうと、どういう時代なのかがわかりにくくて、だからどう評価すればよいのかわからないのですが、それをあなたのところに落としていくのであれば、きちんと入らなければいけないということです。たったひとつのフレーズでもわかります。
だいたい同じレッスンをやっています。入門科のクラスでは、たった一行を言葉の読みからやっています。それは欧米の言語になったときに、リズムでどれだけずれていくのかというようなことをきちんと捉えるためにです。拍を中心にリズムのなかに押し込めるようにして、その結果、言語が自由に扱えるということです。もちろん、こういうことは理屈なのです。いろいろな表現があるのです。自分で何をやったのかが、まだわかっていないことが問題です。
この前のオーディションでも、わかっていたら絶対そんなことをやらないなということをやっています。映像で見て絶対におかしいということをまだやっているということは、きちんと復習をしていないということです。単にやりに来ればよいというのではありません。ストレス解消とか、単なる消費活動ではなく、創造活動というのは、必ずやったものの結果を復習して、よりよいものをつくるために厳しく直さなければいけないのです。それがまだできていないと思います。
いつも文句をいうのは、才能がないとか、努力していないとか、不真面目だとかいうことではなく、自分がやったことをきちんとフィードバックしていないということです。もっと3倍でも5倍でもよいものもできるし、今までもよいものも出たかもしれないのに、きちんと押さえなかった、ある部分とこの部分のテンションの高さと、音の処理の仕方を全部の部分に通すことができれば、もっとよくなるというのを、できないのではなくて、本人が見ていないし、やろうとしていないというところで、いわなければいけないのです。その問題というのは、ずっと引きずっている問題です。
上達するということは、合理的に、理性的にやっていくことと思ってしまうのは、大間違いです。上達するということは、いつでもそれを破れるようにすることです。特に音楽の世界では、理屈とか、計算とかでは成り立たないことをやっていくから、音楽なのです。それが日本人は、勉強というのは間違えないように、正しくやるということで、正すことは正すのですが、その正し方が問題です。自分の一番深いところの基準をきちんと取り出した正し方、そこで他の人がやるとみんな間違いということをやっていくのです。
なかなか日本のなかでそれが成り立っている世界というのはないのです。ゲームとか商品とかの開発でも、会議で7人中賛成するのが1人くらいで、あとは反対する、そういうもののでないとヒットしないといわれる、あたりまえのことです。
全員がわかっていることだったらすでにやれているか、そうでなければやられない理由が大きく存在しているわけです。歌なんていうものはもっとそれの徹底したものです。ここには200人、300人いるとしたら、自分以外の全員が反対していることを自分がやって貫き通す、ただ、それを自分が正さなくてはいけないから客観視して、自分が誰よりも自分のことを知っていなければいけません。自分の勝負できることについてです。
それを、トレーナーよりもわかっていないというところが問題なのです。自分のことについては、他人よりもわかっていかないといけません。音程が外れるとか、リズムが外れるとかそういうことでは、あとは集中力だと思います。いろいろなところにもお弟子さんがいたり、いろいろな習い事をやっている人がいて、出ていく人たちというのはもっとテンションが高いです。テンションというのは、表向きの高さではなく、内なる集中力のようなものです。
それが1フレーズに対してどう働きかけるかということです。1時間のなかで20回もフレーズを回したからよかったということではなくて、たった1回きちんとそれが出せる、それ以外のことを自分で判断して捨てていくということをやっていかないと、だらだらとなっていくだけです。問うていることは、本当に1フレーズ、半オクターブです。2年して、4フレーズから8フレーズの半オクターブをやれるくらいでよいのです。
みんなの場合は、テンポの設定もキーの設定も全然わかっていません。それをもう少しゆっくり、もう少し低いところでやるのは、判断力がつけば自分でできることです。音をドからソにいくというような、そういう楽譜の理解ではなく、音楽として理解したときに、自分がどこの接点でとるのかということです。心のところでとればそんなに変わらないのです。
自分の武器を知らないと、同じ伝え方をしようと思っても、ずいぶん違ってくるわけです。失敗して気づくためにここはあるのですから、失敗してもよいのです。ただ、表現の意図をもって、その意図に対してどう失敗したのかという距離をきちんと見ていくことです。それが半分くらいの人の問題で、あとの半分の人は集中力不足だと思います。
とにかく、そのテンションやその集中力では、言葉一つも入れないということです。そのためには音楽を聞くというのも一つのやり方です。体を動かすということもありますが、とにかく、その世界に入らなければいけません。
入り込むだけではダメです。そこから抜け出していかなくてはいけません。音楽をかけているときくらいは、歌い手と同じような表情にはなりなさいということです。歌い手はまだ他にもいろんなことをやらなければいけません。表情がそうなるというのは、心がそうなればよいわけです。それでいろいろな音楽に対応できた方がいいわけです。自分の好きな音楽だとそうなるのかもしれませんが、そんなになってもないのなら、考えものです。それが原点だと思います。
その表情でやろうとしたときに必ず問題に突き当たります。高いテンションになって、その気持ちになったときには、声は楽に出るところは出ますが、出ないところは出なくなってきます。その出ないところをトレーニングしていけばよいのです。それを根本的に解決せずにいろいろと補強するトレーニングのやり方というのはありますが、本当はその接点をきちんとつけていくことでしか、やれないのです。
声がどうなったから、体がどうなったから、息がどうなったからといって、歌えるわけではないのです。その人に本当に歌があれば、そういったものは自然と身に付いてくるのです。
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【とりくみ④ 391111】
最近、レッスンを簡単にして、日本語で伝えているのが多いために、もっとも大切なことが伝わらなくなってきたのかと考えることがあります。外国語をカタカナでもよいから聞いてどういうふうに動いているのかみてください。本当はカタカナでは書けないのですが、歌い上げるものは簡単なのです。
言葉のフレーズのところから音楽にもっていくのは、彼らにとっては境目がないのです。その境目がないところで、行き来している、そのフレーズのなかで、どのくらい展開ができるのかというようなことを感じてほしいのです。できなくてもよいから感じてほしいのです。
みなさんには当然それが入ってきていますから、それをどう出すかのところで、彼と違うようにパターンを出してほしいのです。
イタリア語を崩しても構いません。やりにくければ、冠詞も省いて構いません。単語も省略してもよいです。ただ、母音だけでやるよりは子音もつけた方がやりやすいと思います。
ルイジ・テンコというのは、歌唱力があるとか、声がすごいとか、声がきれいだとかではなく、作曲の力、独特の彼の世界で魅きつけます。バルバラと同じように主流からは外れるのですが、根強いファンがいます。彼の評価がどうであれ、そのひとつの完成度というのは、自分のことを知り尽くしているということと、少なくとも自分のつくる音楽に対しては、知り尽くしているところからくるわけです。
わずか1時間のレッスンでできることではないのですが、少なくとも学べることはたくさんあります。立つこと、入ること、出すこと、これが精神論にならないためにも、音楽の世界でやらなければいけないのです。
フレーズの前のところで、彼の感覚はどんな準備をしているのか、そんなにすごい体でも、そんなにすごい声量があるわけでもない、しかし、きちんと踏み込んでいるわけです。
その前のところで何をやっているのかということです。
結局、音楽というのは、きちんと入っていて、そこの世界のなかで、きちんと出していく。ということは、それがどういう効果を及ぼすのかということです。
上田正樹さんのは、また違う意味ですが、伝わる。伝える一点というのは、決めていて、それに対して声をどう動かすのかということです。
あなたのなかで二つ必要なことがあります。ひとつは音楽自体の構成、こういう題材を、単純にいうと4つくらいのフレーズですから、その4つの構成と4つのなかでの一つ一つの構成、それらのどこを聞かせるか、そして聞かせるために、その前にどういうことをするかという展開の計算がどう働くかです。
こういうのは、頭ではないのです。そういう意識のなかで入れたり、抜いたりというような掛け合いが入ってくるわけです。それは自分のなかでやるしかありません。
自分の出た声が、その一点にどう向かって近づいたり、離れていっているかということを、プロであれば自分で正すわけです。そういう感覚のない人は、音楽にできない。声だけ出ても、結局モノトーンとか、直線のまま、最後までいったという表現になるのです。
楽器をやっている人も、直線のままでいかず、どこかで盛り上がり、どこかで落ちてくるという一つのメリハリでつくる、それがうまい人ほど細かいところまでもきちんとそれをつくれるのです。
単純にいうと、ビブラートもそういうものです。声が揺れ始めて、それを生かせるところは生かして、それを延長させてやる、そこから外れてきたり、それで薄まったり、テンションが下がったりしたら、そこは早めにきるか、そうでなければフェイドアウトで押さえていくか、みたいなことでつかんでいくのです。そのなかで揺れたものを通す一つの動きとして、音楽が出てくるわけです。
ですからイメージが必要です。まだイメージが読み込めていない人が半分くらいいます。自分がイメージで読み込めたことに対して、体の強さが足らないところとか、息がまだ吐けないというところはトレーニングになるところです。それは体をつくっていくしかありません。思うようにコントロールできない、ていねいにおけないとか、どうしてもフレーズがもたないとか、そういう場合は安心してみていられるのです。ただ、そこからやらない人が多いのです。
コピーするというのも一つのやり方です。コピーという手本があるわけで、それに近づけていくと、同時に悪いことも身に付きますが、そのなかの何となく音楽になっていくということもわかってきます。
本当のことでいうと、それは自分の呼吸ではないから、自分のことを知っていくということが必要です。自分の声が働くモチーフみたいなものです。
そういうものを正すために、レッスンは必要なのです。自主練習のなかでは、気づいて足らないことをやるしかないわけです。
勉強熱心な人ほど、こういうものをきちんと書き写してそれからやろうとするのですが、それを持ち帰る時期があってもよいのですが、早く創るレッスンに入ってほしいと思います。
こういう歌い手をみて知ってほしいのは、精神の方が上回って、声を引っ張っていくということです。声から入るのも一つのやり方だと思います。
こういう形で、「本当にこいつは音楽を知っているな」とか、「こいつは本当に自分の見せ方をよく知っている」特別大したものがあるわけでもなくても、そこのなかでどうやれば100%出せるのか、これ以外にどういうふうに歌うのかということで考えていくと、そういう方向で見せるということで、自分の作品にしているのです。
誰が歌ってみても、これはこれで彼の作品といえるという一つの説得性が、大きいのです。50年経っても、こういう歌い方の人は現れないだろうと思います。
ここで練習して、本番をやろうということではないですが、たぶん歌の流れというのはそういうもので、そこでうまくつかめなかったら、次にちょっと危ないなとか、いやなことが起きるなという感覚の確認の作業だと思うのです。
こういうところも、日本人はちょっと乱れると気にしてしまいます。その前に押さえるところを1、2点押さえておけば、安定してくるのです。まずは細かいところにあんまりとらわれないことです。
彼らの歌を聞いて感じることは、本質的なところを絶対にそらさないのです。ほとんど発音も届いてなかったり、はずしていたりしても、それで生きてしまうのです。
歌を勉強するとなると、逆のことをしようとしていくのですが、そうではないと思います。
1番と2番が変わらないというのは、ブロックの構成です。その人がそれをきちんと握っていないのです。握っていたものを絶対そこで伝えようと組まれていないから、そうなってしまうのです。
今のフレーズを聞いていても、何人かはそのまま同じ距離で出ていくだけだから通じません。それはここでやらなくてもよいし、10番まで歌っても同じです。一行を歌っても同じだと思います。
歌というのはそういうものではないのです。そういうものだったらそこで終わってしまいます。言葉の世界でいうと、同じことを繰り返しているだけです。
それを3分間繰り返しているだけですから、当然もたないわけです。言葉は同じでもよいのですが、音楽の場合、そのほかのものがいろいろと変化していくのです。実際は2次元の世界を、3次元、4次元を出すために、2次元という限定のなかでそれをつかんでいるのです。
やる人はそれが見えてこないといけません。こういうものでも展開とか、構成とか、音楽的な面をきちんと考えることと、それから出したものがどういうふうに働きかけるかということです。そのつめとか、整理するところに神経を使うことです。
それをあまり頭を使ったり、数えたりしたらよくないと思います。それをみるは呼吸の方が先なのです。
計算して歌うと、これはこんなに大きく歌ったらいけないということになってしまうのです。でもそうではなくて、それを破るから、伝わるのです。あるいは、そこで切らなければいけないのをもう一息のばしたい思いがあるから、そこに違う空間が現れたり、時間が現れたり、感覚が現れたりするのです。
このなかには、そういうことを知り尽くしている人もいます。出せないだけの人もいます。そう慣れば、一人でトレーニングできます。☆
歌が単に言葉を音に置き換えていたり、舐めていくだけの世界ではないのです。こういうフレーズの練習をするときもそうです。そこでつかんでいかないと、一つの世界としては伝わらないということです。
日本のヴォーカルでも残っているのは、ひとつの世界がある人だけです。歌がうまい人とか、声がよい人とか、発声練習をとことんした人とか音大を出た人ではないのです。
そういう人もたくさんいましたが、結局そこに立っている人の世界がある人が強いわけです。それを出している上で技術の勉強をしたり、いろいろな補充をするのならよいのですが、中心のないところで、周辺のことをやってしまうと、本当に無駄にしてしまうのです。その辺は、注意していこうと思います。
今、みんなはなんでもかんでもやらなくてはいけないと思っているようですが、本当にシンプルなものなのです。歌い手がシンプルに捉えてない限り複雑になってきます。練習も複雑になってきますし、メニューも複雑になってきます。そんなものではないのです。
ものすごくシンプルなものだから、いろいろと動き出してくるのです。それを客観的に分析すると、複雑に聞こえるのかもしれません。
普通に聞いていたら、よいものほどシンプルに聞こえるはずです。世の中で原理というのは、シンプルなのです。式ひとつで表せるくらい単純なものです。音楽でも同じく表せると思うのです。
そこの部分を離してしまうとよくないのです。何となくそれを離すためのレッスンとかトレーニングになっているような気がします。メニューやノウハウを勉強するのでなく、もっと自分のなかの音に気をつけることと、それから音楽をもっときちんと聞き込むことです。そこで接点をつけていくことです。
煮詰めるという一番大切なところをまず徹底してやって、それで足らないところをトレーニングとかレッスンで補うというスタンスにしていくようにしてください。
イタリア語の問題ではなくて、そういう言語を扱っているところでの問題だと思います。メロディはメロディ、フレーズはフレーズなのですが、そこでどうつくるかという、アイデアというと計算づくめのようになりますが、ひらめきが肝要です。
そのひらめきは、心とか体が教えてくれるわけです。技術も、こういう息の吐き方の方が自分はやっているような気がするということを入れてしまうと曇ってしまうのです。だから両方必要なのです。出たものに対して、それをみていくことです。
10個トレーニングしたら、9個は間違いなのですから、その9個をやるなということです。本当はその1個だけをやればよいのです。その1個のことを10個やれば、また9個は間違いなのです。その1個というのは声でもありますが、もう一つ上の段階にいくと、声などどうでもよくて、それがどう使われているかでしょう。もう一つ上になったら、どう使われているかも、どうでもよくて、その人の感覚なのです。それがどうその空間に放り出されて、新しいものをつくり出しているかということです。
フレーズの練習は、できるだけ神様に委ねて、自分のもっともよい状態のときに前向きな気分で出してみて問う。教会でやると一番よいのかもしれません。そこでこう広がっていくな、もう高めてとか、ちょっと引いてとか、そういうところで、レッスンはやるべきだと思います。
すべてのフレーズにおいて、1時間では難しいとは思いますが、音楽を立体的に、リアリティを持つようにしてほしいのです。たぶん、この吹き込んだ状態でここにきたら、荒っぽくて雑だと思うかもしれませんが、でも聞いた人は全員一致で認めてしまうと思うのです。そうしたら、体の差とかトレーニングのレベルではなくて、その人の感覚と、一人で全部動かしてやるんだという、気迫みたいなものからです。
それは年齢とか関係ない。歌というのはそういう世界です。魂が乗り移ると、それで通用してしまうのです。でも、いつまでも乗り移られるわけではないですから、自分で確かなものをもっていかないといけません。
つまり、それと反するようなことはあまりやらなくてもよいのです。研究とかトレーニングも大切なのですが、それが自分と違うようなところでの研究とか、トレーニングをしているようです。そういうのを日本人は好きですから、そうなってしまうのですが、よくないのです。
オーディションでも、場にきて、テストしてくださいというスタンスになってしまうのは、よくないわけです。そういうことをもう一度ここ全体としてやっていかないといけません。
内部のオーディションで合格者が1名も出ないというのは、危機的な状況なのです。そんなに高いレベルのことをやっているわけではないのです。そのことを精神論ではなく、音楽のなかに入って、そのなかの精神を汲んだら、きっと技術は正されていくと思います。その状態を持続してつくるのが大変だとは思います。
ルイジ・テンコも、聞いていけば聞いていくほど、どうやってもレッスンにできないと思っていたのですが、伝わるものですね。外国語というのがどういうふうにメロディのなかで動くのかということだけを聞いてみなさい。
これをみて、歌ったときにこういう単語の並びにはならないでしょう。日本語でも同じです。ひらがなで聞いているから、間延びする。歌で聞いたら絶対にああいうマスに入るような並びにはならないはずなのです。その辺を勉強熱心なために、先に音の方についてしまうのです。
みなさんはだいぶん慣れてきたでしょう。けれども、まだ「べ ドライ」と離して書くと、そのままに「べ、ドライ」と、捉えてしまいます。そういうものは慣れればすぐに直っていくのですが、そこに動きがなければ、やはりそれはくっつけたとか、離したとかそういうことだけになってしまいます。
それは入り込む、離すという流れです。そこに声が集まっていたり、それが飛んでいるときもある。音楽というのは、たかだかメロディーフレーズとリズムに乗っているかどうかということです。
その最初のところを伝えていかないと、なかなか今は、音の世界とか、立つこととか、入ることといっても、伝わりません。「じゃあ立つことってなんですか」という質問が次にきます。いたちごっこになってしまう。どんなに説明しても伝わらないのです。
立つことといっても、前に立って何か自分でやった気がするという感じからです。そうして日常に入れていきます。
それが現実なのですから、非現実化に現実をぶつけるようにしないと高校と同じような授業になってしまいます。そういうことも必要になってきた時代なのかと思います。昔みたいに、親が文句もいわずにボーンと殴っているような家庭で育っていたら、相手の動きを機敏に知る。実際に自分で意志表示しなければ身が守れなかったら、いろいろなことに感性が鋭くなるのです。今は親が気を使っていますから、どんどん鈍くなってしまいます。
ここでもぼけっとした顔でドアから入ってきたら、何か投げつけてみたりする環境が必要な気がします。舞台に立ったときに何か飛んできて避けられないような感じをやっていたら、全然ダメだということです。
みんなが味方と思っていたら大きな間違いなのです。無名のときからお客がみんな味方でスタートできるというのは、鈍さを助長します。
アーティストが下手な演奏をすると悲惨な目にあいます。だから彼らは強くなるわけです。